Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第一回足立区支部長会 生命に開け″歓喜″の大空

1988.6.19 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

前後
2  指定の道ありて広布は永遠
 師弟の道を、まっとうし、自身も成仏の大道を進む。他の人も成仏という歓喜の大道に導いていく。これが仏法を奉じた者の根本の目的である。
 この目的が定まっているかいなか──。目的への一念が、はっきりと定まっている人は強い。何があろうとも、すべてが成長へのかてとなる。その人には、動揺もなければ、グチもない。ふざけや要領が自らの損失であることが明らかに見えてくる。そして、苦しみは勇気を、悩みは知恵を、友の嘆きは限りなき慈愛を、我が胸中に開いてくれる。
 反対に指導者の傲慢ごうまんな″いばり″や、冷酷れいこくな振る舞いは、「友を歓喜させる」という仏法の目的とは正反対である。これまで信心を貫けず、ちていった人間は、この目的観があまりにも弱く、また狂いがあった。
3  先日、お話ししたように、阿難は、実の兄(弟という説もある)の提婆達多だいばだったが、師・釈尊の怨敵おんてきとなり、反逆者となってしまった。提婆は師を殺害しようとさえした。
 もとより仏法においては、すべて個人の責任であり、兄弟、親族といえども生命の因果は、その人自身の問題である。しかし、現実のうえでは、兄のために、阿難も少なからず、他の門下たちから、冷たくあしらわれたこともあったかもしれない。また自分自身も胸の奥に、言い知れぬわびしさや、悲哀を抱いていたにちがいない。
 しかし阿難は、師のもとに、そうしたすべてを逆に自らのバネに変えていった。そして修行の″坂道″を黙々と歩んだ。やがて法華経の会座えざにおいて、阿難は、未来に必ず成仏するとの記別きべつを釈尊から与えられた。
 釈尊は、何ものにもとらわれることなく、どこまでも公平無私に、弟子の一人一人を見ていた。生命それ自体の傾向性を見抜いていた。誰の兄弟だから良くない、誰の親族だから良い等といった情実には、まったく関係がなかった。そして時に包容し、時に厳愛の指導をしながら、それぞれを、長い目で見守り、想像を絶する忍耐で、はぐくんでいった。
4  やがて師・釈尊が、ついに入滅した。このままでは仏法は永遠に滅び去ってしまう。後世の民衆のために、釈尊の真意を正しく伝え、残こしておかなければならない。
 この時、中心となって奮迅ふんじんの活躍をしたのが阿難であった。阿難は、この時とばかり、たくわえに蓄えてきた大いなる力量を発揮した。師匠の心を心とし、未来のために、釈尊の教えを語り、仏典の結集けつじゅうを進めていった。
 師を失った悲しみのなかから、全生命をかけて立ち上がった、その懸命の姿を、大聖人は「諸法実相抄」等に、縷々るる感動的にしたためられている。
 師の正しき教えを、そのまま、まっすぐに伝え、弘め、実践し、実現していくのが弟子の道である。私も戸田先生の弟子として、先生の偉大さをつづり、語り、妙法を世界に弘めてきた。先生の生命の叫びを我が渾身こんしんの叫びとして、広宣流布と平和の道を走りに走ってきた。
 師弟の道の実践の中にこそ、仏法の魂はある。峻厳しゅんげんなる師の精神を、弟子たる我が生命に生き生きと脈打たせてこそ、広宣流布の流れは永遠となる。
5  生命の歓喜こそ幸福の源泉
 さて大聖人は、「阿難」について、深く生命論的な次元から論じておられる。
 「御義口伝おんぎくでん」に「我等行者の外に阿難之れ無きなり、阿難とは歓喜なり一念三千の開覚なり」と。
 すなわち──われわれ法華経の行者以外に阿難はないのである。阿難とは『歓喜』の意味である。われわれ自身が一念三千の当体であり、仏であると開きさとって、歓喜することを指すのである──との仰せである。
 阿難といっても、遠い過去の仏弟子のことをいうだけではない。それのみでは所詮、観念論に通じてしまう。大聖人の仏法は「事の仏法」であり、どこまでも瞬間瞬間の生きた現実から離れない。
 御義口伝に仰せのごとく、「阿難」の本義とは、妙法を唱えゆく我が胸中に、こんこんときいずる″生命の歓喜″のことである。
6  我が生命に横溢おういつしてやまぬ信心の喜び。いのちの深みより涌きいでる躍動と歓喜の奔流ほんりゅう──。これこそ妙法を行じる私どもが味わえる人生の醍醐味だいごみである。
 この仏法の真髄から見れば、人がどうであろうと、浅薄せんぱくな世間の眼がクルクルと変わろうと、すべてはまぼろしのごとく、はかない。また、それらに紛動ふんどうされて、自らが「歓喜」を味わえるわけでも絶対にない。
 ゆえに皆さま方は、何があろうと、「わが胸中には、くめどもきぬ永遠の歓喜の泉がある!」「何ものにもくずされぬ、信心という『大歓喜の源泉』がある!」と誇らかに叫びきっていける一生涯であっていただきたい。
 ″生命の歓喜″は何より、さまざまな嵐と真正面から戦っていくなかでこそ、清冽せんれつに、ほとばしり出てくる。あとから、あとから限りなく満ちあふれてくる。
 平穏な、何の波もない中では、深い信心の歓喜を味わうことはできない。障害にいどみ、強盛にして不屈の信心を燃やしぬいていってこそ、我が身が不壊ふえの「歓喜」の当体へと磨かれていく。妙法の「阿難」の生命となっていくのである。
 戸田先生は、かつて「生命の歓喜こそ、幸福の源泉力である」と結論しておられた。
 皆さま方は、広々とした大空のような心で、一切の叢雲むらくもを悠々と見おろしながら、妙法の「歓喜」の太陽を生命に赫々かくかくと燃やし、まばゆいばかりの「幸福」の光を広げていっていただきたい。
7  「父の日」を祝福
 さて、話はガラリと変わって、今日は年に一度の「父の日」である。お父さん方、まことに、おめでとうございます。
 もともと「父の日」は、アメリカの一婦人が、「母の日」しかないことを気の毒がって提唱し、つくられたものであるという。
 ところが、そうした心やさしい配慮にもかかわらず、「母の日」に比べると、やはりもう一つ盛り上がらない。これもひとえに、全世界の父たちの不徳のいたすところであり、「自業自得」といえるかもしれない。
 しかし、せめてきょう一日だけは、奥さま方も、娘さん方も、どうか、お父さんをしからないでください。これは男性を代表しての、私の切なる″悲願″である。
 父親というのは、家庭ではカゲがうすいというか、めったに注目されない。見つけられたら見つけられたで、とたんに「かせぎが少ない」と皮肉られ、「お酒をひかえよ」と取り締まられ、たまの休みには「朝ネボウだ」とおこられ、「早く勤行しなさい!」と指導され──男性ならずとも同情せざるを得ない。
 厳格な母親と、口うるさい娘たちに囲まれて、いつも小さくなっているお父さんに、せめて一日の「解放デー」をというのが、私のお願いである。この日だけは、伸び伸びと、何の文句もいわれず、好きなことをして過ごしていただきたいとも思う。
 しかし、人生は短い。お互いに、いつも後顧こうこうれいのない人生でありたいものだ。その自覚に立てば、この貴重なる″自由の日″にも有頂天うちょうてんになることなく、ふだんあまり勤行しない分まで一年分の仏道修行に挑戦する一日としてはどうかと提案したい。
 せめて年に一度くらい、心から歓喜し、納得のいくような勤行を実践する日としていってはどうか。そして、ふだんの罪ほろぼしをしながら、家族、子孫末代までの福徳を厳粛げんしゅくに祈念し、心ゆくまで唱題に励む日としてはどうかと、申し上げたい。
 ともあれ、″ダメお父さん″に見えても、男性も、これでなかなか大変なのである。家族の皆さまには、そこのところに深いご理解をたまわり、お父さん方が、「ああ『父の日』があって、本当によかった!」と喜びはずむ一日をプレゼントしていただきたい。
8  令法久住の清流を守りぬいた日興上人
 さて先日も、日興上人に敵対した五老僧の一人、日向について述べたが、日興上人は信頼する若き門下に与えられた「原殿御返事」で、この日向の行状について次のような事実を明かしておられる。
 それは、身延の波木井はきり郷に住む諸岡もろおか入道という人の屋敷での出来事であった。
 すなわち、日向は正応元年(一二八八年)四月一日より諸岡入道の邸内にある小屋にこもって、絵かき職人を招き寄せて絵漫荼羅えまんだらを描かせる。そして四月八日が釈尊の生誕の日であるからと日向は、諸岡入道の座敷で一日一夜の説法をし、布施を受けた。
 そのうえ、絵漫荼羅の開眼かいげんを祝うことにかこつけて、法座の席であるにもかかわらず、酒宴しゅえんに興じた。諸岡入道も日向の心を推して自分の妻らを宴席に呼び出して給仕をさせた。しかし日向は、泥酔でいすいのあまり理性を失い、ふしだらな俗謡ぞくようを歌いだす始末で、その不謹慎ふきんしん酔狂すいきょうの姿を見聞きした者は大いにあざけり笑った、という。
 日興上人は、こうした日向のふしだらな行いをあえて「原殿御返事」に記された。そして、日向が醜態しゅうたいをさらして世間の笑いものになったことはまことに残念であるとして、続けて次のように仰せである。
 「日蓮の御恥何事かこれに過ぎんや。此の事は世に以て隠れ無し、人皆知る所なり。此の事をば只入道殿には隠しまいらせては候へども、くの如き等の事の出来しゅったい候へば、阿闍梨あじゃりの大聖人の御法門ぎ候まじき子細しさい顕然けんねんの事に候へば、日興彼の阿闍梨を捨て候事を知らせ進らせん為に申し候なり」(編年体御書1734㌻)
 ──(日向がこうした醜態を演じたことによって、師匠である)日蓮大聖人の恥はこれに過ぎるものはない。このことは世間に隠れなく明らかであり、日向の醜態を知らない人はいない。私(日興上人)は波木井入道(六郎実長)にはこのことを隠して知らせずにいた。だが、このようなことになって日向が大聖人の法門を継ぐべきでないことが誰の目にも明らかになったので、私が日向を捨て去ることをあなた(原殿)にはっきり知らせるために彼の不祥事についても申し上げたのである──と。
 すなわち日興上人は日向の不始末については、つぶさにご存じであられたが、あえてかばいもされ、そのとがを戒めつつも彼を守ってこられたのである。それは、大聖人の直弟子である日向の醜態はそのまま、大聖人の御恥として世間の物笑いの種となるからでもあろう。
 しかし、もはや日向の師敵対は公然となり、一向に自分の非を悔い改める様子すらない。これ以上、大聖人の門下として認めたままにはできない。そのままにしておけば、ますます多くの人々が彼の仮面の姿にあざむかれ、与同罪よどうざい(=謗法の者と同じ罪を受けること)の道に転落していってしまう。ゆえに、若き後継の門下には、そのいやしくもみにくい本性をありのままに伝えておかねばならない──「原殿御返事」を拝しつつ、私にはそうした日興上人の御心が胸に迫ってきてならない。
 そして日興上人は、この御手紙の最後で、こう断言されている。
 「日聖人に背きまいらする師共をば捨てぬがかえってとがにて候と申す法門なり」(編年体御書1734㌻)──日蓮大聖人に背く悪師らを破門しないのは、かえって罪になるというのが、大聖人の法門である──。
 もとより、日向ならびに波木井実長の犯した謗法は、目にあまるものであった。それに対し日興上人は、再三再四、訓告くんこくされ、正しい信仰にもどるよう、粘り強く御指導された。
 大聖人の御入滅の日より、日興上人が、門下の教導のために、どれほど心をくだかれたか。また一門の異体同心のために、どれだけ心血を注がれたか。それは、とうてい計り知ることはできない。
 それにもかかわらず、日向や実長は、なお師敵対を続け、一向に過ちを改めようとしなかった。そこで、ついに日興上人は、反逆の一派の破門を決意される。
 大聖人の御心に違背いはいし、和合僧を破るやからは、決然として捨て去る以外にない。もし、そうした不知恩の徒輩とはいを放置したならば、それは、末法万年の令法久住りょうぼうくじゅうの流れを断ち切る、取り返しのつかない禍根かこんとなる──日興上人は、こうお考えになったと拝する。
 先ほどの御文は、反逆の徒に対する炎のごとき大闘争宣言であったと拝されてならない。樹木でも、形のよい大木と育てていくためには、邪魔になる枝は切り取らねばならない。それが、道理である。
 末法万年にわたる広布の発展のためには、さまたげとなる悪心の者は、今のうちに責め出しておくべきである。さもなければ、徐々じょじょに悪の根を広げ、いつの間にか広布の組織自体を悪に染めていってしまう。広布の未来にとって、これほど恐ろしいことはない。
9  同じ御手紙で、日興上人は「日興一人本師の正義しょうぎを存じて本懐ほんかいげ奉り候べきひとあいあたって覚え候へば、本意忘るること無く候」(編年体御書1733㌻)──私・日興一人が、大聖人の正法正義を知って、本懐を遂げなければならない者に当たっていると自覚しております。ゆえに大聖人の御本意は決して忘れることはありません──と仰せである。
 日興上人が、この凛然りんぜんたる御心であられたからこそ、信心の清流は、脈々と今日まで伝えられてきた。大聖人の御心を、我が心とされた日興上人がおられなければ、大聖人の仏法は御一代限りで断絶してしまったかもしれない。このことを、私どもは、ゆめゆめ忘れてはならない。
 次元は異なるが、学会の伝統精神を、確かに引き継ぎ、伝えてきたのは、歴代会長にほかならない。戸田先生なくば、牧口先生の精神は残らなかった。また、第三代の私をはじめとする真実の戸田門下生、そして牧口門下生がいたからこそ、今日の正法流布と総本山外護の盤石なる基盤ができあがったのである。
10  値難は「教」「行」ともに正しき証
 さて、「父の日」にちなんで、南条時光の父の話をしておきたい。
 時光の父・南条兵衛七郎にてられた大聖人の御手紙は、今日、ただ一通しか伝えられていない。だが、その一通の御手紙は時光の父の信心を決定けつじょうさせる大きな力となった。さらに、この父の信心があったればこそ、息子の時光も正法の歩みを貫き、父子ともに、燦然さんぜんと広布史に輝くことができたといってよい。
 大聖人が、その御手紙をしたためられたのは、文永元年(一二六四年)の十二月。同年十一月十一日の小松原の法難の、わずか一月(ひとつき)後である。
 皆さまもご存じの通り、小松原の法難は、大聖人が故郷の安房あわに帰省された折、地頭・東条景信かげのぶを中心とする数百人の念仏者らが、わずか十人ばかりの大聖人の御一行を襲撃しゅうげきした事件である。
 その様子について御書には「あめごとし・たち太刀いなづまのごとし」──大聖人一行を射る矢は降る雨のごとく、討ちかかる太刀は稲妻のごとくであった――と仰せである。襲撃は、まさに熾烈しれつをきわめた。
 この法難で、門下一人が即死、二人が重傷を負った。重傷の一人も、間もなく死亡した。そして大聖人御自身も、左手を骨折され、右のひたいには四寸の刀傷かたなきずという大ケガをされた。時に大聖人は、四十三歳であられた。
11  大聖人は、御本仏であられる。仏法をよく知らない人のなかには、″御本仏がケガをするのはおかしい″″御本仏であれば、なぜ難を未然に防げないのか″等と考える人もいるかもしれない。しかし、現実は、そんな簡単なものではない。
 御本仏でも刀杖とうじょうの難にあわれる。重傷も負われる。難を乗り越えるために死力を尽くし、戦われる。むしろ「行者値難ぎょうじゃちなん」は経文の予言であり、法難こそ末法の法華経の行者のあかしにほかならない。
 まして私どもは、凡夫である。競い起こる難に対しては、知恵を尽くし、厳然と戦う以外にない。また、人生の勝利のために、着実な努力を重ねていくしかない。
 仏法は道理である。題目をあげたから″宝くじがピタリと当たる″とか″たちまち何も問題が起こらない″などということはありえない。信心は、三世永遠の根本的な「幸福の軌道」をつくりゆくためであり、その修行は、断じて安易なものではない。だからこそ、自身のカラを破った時の歓喜は大きいのである。
12  さて、大聖人は、傷もいまだ十分にえぬままに、兵衛七郎への御手紙の筆をられた。″時光の父が重病である″との知らせを受けられたからである。
 しかも、御書全集で六ページにも及ぶ長文の御手紙である。自身の御体もかえりみることなく、病床びょうしょうの兵衛七郎を全魂で激励された大聖人の大慈大悲に、私は涙する思いである。
 御抄では、「教」「機」「時」「国」「教法流布の先後」の「宗教の五綱ごこう」を通して法華経の正義を諄々じゅんじゅんと示され、正しき仏法の教えで後世を期していくべきを御指南されている。
 そして最後の段で、次のように仰せである。
 「もし・さきにたたせ給はば梵天・帝釈・四大天王・閻魔大王等にも申させ給うべし、日本第一の法華経の行者・日蓮房の弟子なりとなのらせ給へ、よもはうしん芳心なき事は候はじ
 ──もし、あなた(兵衛七郎)が私(日蓮)より先立たれた(先に亡くなられた)ならば、梵天・帝釈・四大天王・閻魔大王等にも「日本第一の法華経の行者・日蓮房の弟子である」と名乗りをあげなさい。よもや粗略そりゃくあつかいはされないでしょう──。
 大聖人は、時光の父・兵衛七郎の死期が間近いことを察知されていたにちがいない。ゆえに、御手紙の末尾に、このような激励をしるされたのではなかろうか。
 ″大聖人門下であれば、何も恐れることはない。あらゆる諸天が厳然と守ることは間違いない″──なんと心強い励ましであろう。この大確信の御言葉に、兵衛七郎も、どれだけ喜び、安心したであろうか。ありがたき御本仏の大慈悲である。
13  ところで、ここで大聖人は、御自身を「日本第一の法華経の行者」と宣言されている。これは、この御文の前段でお示しのごとく、大聖人ただ御一人が、法華経の予言通りに、小松原の法難をはじめ数々の大難を受けられたゆえである。
 仏法にあっては、「教」や「行」(実践)に誤りがあるから難にあうのではない。正法を信じ、真剣に、正しく行じているからこそ難にあうのである。
 ゆえに妙法を奉ずる私どもにとっては、まさに「難こそほまれ」である。「難こそ正義のあかし」であり、「難こそ大聖人門下の証明」なのである。
 にもかかわらず少し何かあると、恥ずかしいことでも起きたように、ひるんだり、おくしたりする人がいる。
 それは、大聖人門下であることの放棄ほうきにほかならない。厳しくいえば、「法」を下げることにも通ずる。そうした時こそ私どもは、毅然きぜんと、胸を張り、誇り高く、勇んで前進していけばよいのである。
14  南条時光の父に二心を戒め
 大聖人は、病床にある時光の父に対して、温かく励まされたあと、次のように厳しく御指導されている。
 「但一度は念仏・一度は法華経となへつ・二心ましまし人の聞にはばかりなんど・だにも候はば・よも日蓮が弟子と申すとも御用ゐ候はじ・後にうらみさせ給うな」と。
 つまり──一度は念仏を唱え、また一度は法華経を唱えるというように″二つの心″があってはならない。もし二心にしんがあって世間の風聞ふうぶんを恐れるようなことさえもあるならば、たとえ、あなたが臨終のさいに、日蓮の弟子ですと名乗られても、決して梵天・帝釈天などは、用いられない。すなわち成仏はできないだろう。そのときになって、うらみに思ってはなりませんよ──と。
 時光の父・南条兵衛七郎は、幕府の御家人ごけにん(=将軍譜代の家臣)であり、地頭でもあった。つまり、社会や地域の重要な立場におかれていた。幕府との強い主従関係もあったし、社会的または一族内の複雑な人間関係もあったであろう。それだけに、世間の風波を激しく受けていたにちがいない。学会の壮年部の方にも、大なり小なり、このような立場にある方が多いだろう。
 いわゆる世間体というものを強く意識せざるをえない──そうした立場にあって、時光の父は、ひとたびは大聖人に帰依きえしたものの、念仏を完全に捨てさることが、できなかった一面があったにちがいない。
 大聖人の法門が正しいことは分かっている。しかし周囲の人々に、たとえば上司や親せきなどから責められると、キッパリと言いきれない。そうした社会のしがらみに、ついつい流されてしまう。そうした状況であったかもしれない。
 それを鋭く見抜いておられた大聖人は、彼の立場は十分にご存じであられたが″信心に二心があってはいけない″″社会的立場や世間の風評に「心」をまどわせてはならない″″それでは絶対に成仏できませんよ″と厳しくいましめられた。
 そして″信心の一念を決定けつじょうしなさい″と、時光の父の胸奥深くに、全魂込めて呼びかけられたのである。
 まことに「心」というものは絶えず揺れ動いている。放っておけば、いつしか悪道の方へと引きずられていってしまう。
 私どもも、その「心」をいかに確固として定め、成仏への最極の軌道から外れないようにリードしていくか、ここに信心指導の精髄せいずいがあるといってよい。
15  仏法は厳しい。信心には妥協はない。社会的地位や名誉、財産などとは一切関係がない。いかなることがあっても″二心なく″、強盛に信心を貫いていけるかどうかである。
 ゆえに世間体を気にするような憶病な人や、つねに自分のことしか考えない詐親さしんの人、そして惰弱だじゃくな心の人は、信心をまっとうすることはできない。何か事があれば、悪縁に紛動されて、退転し、清らかな信心の世界から去っていかざるをえなくなる。そして結局は、地獄のような苦しみの人生に自ら入っていくことになる。
 だからこそ、私どもは、信心にあっては厳しく言うべきことを言ってきた。それが信仰者としての、また学会の幹部としての責務である。
 あとは、心を開いて成仏への大道を進んでいくか、あるいは痛いところをつかれて、うらみに思い反発していくか、それはその人自身の責任である。
 時光の父は、病床にあって、大聖人の厳愛の御手紙を、何度も何度も拝したにちがいない。そして心の中に渦巻く「逡巡しゅんじゅん」や「迷妄めいもう」を打ち払い、大聖人の仰せのままに、我が心を信心の一念で揺るぎないものとしていったと思われる。ここに彼の人生の勝利があった。
 やがて、この御手紙をいただいてから三カ月後、時光の父・兵衛七郎は、「臨終正念りんじゅうしょうねん」の立派な成仏の相を示し、安らかに霊山りょうぜんへ旅立っていった。そればかりではない。大聖人の仰せを素直に拝し、妙法に生き抜くことを純一じゅんいつに心に定めた父の信心は、一家へ、子・時光へと継承されていった。
 そして、後に、時光の篤信とくしんによって大石寺創建の基盤が築かれたことを思うとき、その源流となった父の信心の大切さを痛感する。とともに、この時光の父の姿は、信心の清流は、たとえ最初は小さな流れであっても、必ず功徳の大河の流れとなって、一家、一族を福徳でうるおしていくことを、示していると思えてならない。
16  ″葦立の地″に和合と福徳の光を
 ところで「足立」という名の由来については、皆さまも意外にご存じでないかもしれないが、かなり古くから言われていたようだ。「日本書紀」に続いて、平安時代のはじめに書かれた「続日本紀しょくにほんぎ」には「武蔵国むさしのくに足立郡」と出てくる。
 「足立」の語源自体は明らかでないが、一説によれば、荒川と中川にはさまれたこのあたりにはあしが見渡すかぎりはえていて、そこから″葦立あしだち″との言葉ができた。この″葦立″が転じて″足立″となったともいわれている。
 葦といえば、仏典の中に″二本の蘆束あしたば″という譬(たと)え話がある。
 すなわち蘆束は細いため、単独で立つことはできないが、二本寄り合えば立つことができる。このことから、この世に存在するものは、それ一つが独立して存在するものではなく、すべて″えん″つまり他のものとの関係性によって存在しているという″縁起えんぎの思想″を教えているのである。
 また、この蘆束の話は、いわゆる和合の大切さをも示唆しさしている。つまり、人間は一人一人では一本の蘆束のごとく弱い。すぐ倒れてしまいがちな存在である。しかし、ともどもに励ましあい支え合っていくならば、決して倒れることはない。
 私は、この″葦立″の地・足立に、うるわしき「協調」と、温かき励ましあいの「和合」の世界が築かれていることを、心からうれしく思っている。さらに、未来永遠にわたる繁栄の歴史が開かれていくことを念願してやまない。
17  大聖人は、心を合わせて進みゆくことの大切さについて、有名な「兵衛志殿御返事」に次のように仰せである。
 「二人一同の儀は車の二つのの如し鳥の二つの羽のごとし(中略)恐れ候へども日蓮をたいとしとをもひあわせ給へ、もし中不和にならせ給うならば二人の冥加いかんがあるべかるらめと思しめせ
 すなわち──あなた方二人が団結した姿は、ちょうど車の両輪のごとくであり、鳥の二つのつばさのようなものである。こういうと恐縮ですが、日蓮のことを尊敬して互いに心を合わせていきなさい。もし二人の仲が不和になったならば、二人に対する妙法の功徳がどうなってしまうか考えていきなさい──と、団結の重要性を明快に教えられている。
 また「各各みわきかたきもたせ給いたる人人なり、内より論出来れば鷸蚌いっぽう相扼あいひしぐも漁夫のをそれ有るべし」――あなた方は、それぞれ法華経のゆえにはっきりとした敵をもつ身である。それゆえ、内輪から争いを起こすようなことがあってはならない。鳥と貝が争っているうちに、ともに漁師にらえられてしまったというたとえのごとく、内輪もめは敵の乗ずるところとなる――と仰せになっている。
 組織にあって、互いを向上させゆく建設的意見はもちろん大切である。しかし、いたずらに、感情に流され相手を傷つけるような言動は、厳につつしまねばならない。それは団結を乱すばかりか、魔の跳梁ちょうりょうを許し和合僧を破壊することに通ずるからである。
 戸田先生は、足立の支部総会に毎回のように出席され、全魂のご指導を重ねられた。ちょうど三十五年前、昭和二十八年五月の第二回足立支部総会において、次のように話されている。
 「学会を離れて功徳は絶対ありません。増上慢ぞうじょうまんのように聞こえるかもしれないが、畑毛はたけの猊下(堀日亨上人)は、私にこんなことを申された。『あなたが、四百年前(戦国時代)に生まれてきていたら、日蓮正宗はこれほど滅びはしませんでしたろう』と。
 このおことばに対して、私はお答え申しあげた。『猊下が、いまお生まれになったから、私も、猊下に三十年おくれて生まれてまいりました』と」。
 不思議な話と感じられるかもしれないが、日亨上人と戸田先生は深い因縁によって正宗と学会の興隆のために、時を得て出現された方であった。この厳然たる歴史の真実を、私どもは深く信心で見極みきわめていかねばならないと思う。
 先生はさらに、「あらゆる苦しんでいる人々を救わんがため、この仏様の事業をするわれわれ学会に、功徳がないわけはない。だから、組織を厳守させるのである」と指導されている。
 学会は大聖人の御遺命ゆいめいたる広宣流布を目指す尊き使命の団体である。皆さま方は、この信心の組織を絶対に破壊させてはならない。和合僧の組織を大切にし、守り支えながら、信心と広布の大道を進んでいただきたい。
 そして妙法を根本としつつ、どこまでも異体を同心として、尊敬し、守り合い、励ましあいながら、「功徳」と「福運」の華の爛漫らんまんと咲き薫る足立創価学会を築いていっていただきたい。
 ともあれ、世界第一の「模範の信心」で、東京全区をリードしゆく「人材の足立」「団結の足立」を立派に築いていかれんことを心から念願して、本日の私のスピーチとしたい。

1
2