Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第一回小金井圏総会 「雄大な事業は青年の仕事」

1988.6.17 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

前後
2  明治四十一年(一九○八年)、児玉さんは「笠戸丸」に乗って、ブラジルへ渡った。この時、乗船したのは七百八十一人。このうち、今も健在でいらっしゃるのは、児玉さんを含めて四人であるという。
 出発した時、児玉少年は、わずか十三歳。船上に家族の姿もなく、たった一人の旅立ちであった。
 少年は、数百年続いた広島の旧家の長男であった。父親はづくりの職人であり、家は比較的に裕福であったようだ。普通なら、家督かとくを継ぐべき長男の児玉少年が、なにゆえブラジル行きを決めたか。
 当時、少年は、父親の仕事を手伝って、近隣の町々まで酢の配達に出かけた。元来、好奇心が旺盛おうせいな彼は、新しい町へ行って、自分の町にない珍しいものを見たり、さまざまな人に出会うのが楽しくて仕方がなかった。こうしたなかで、遠い異国へのあこがれが芽ばえ、徐々じょじょつのっていったようである。
 児玉さんは、当初、ハワイに渡りたいと考えていた。叔父おじが先にハワイへ移住し、成功を収めていたからだ。しかし当時、ハワイへの日本人の移住は、禁じられていた。
 そこへ、ブラジル移住の話が舞い込む。海外雄飛の夢に胸を躍らせていた児玉少年は、さっそく″ブラジルへ行きたい″と父親に打ち明けた。
 ブラジルがどこにあるか、それすら知る人の少ない時代である。当然、家族全員が反対であった。しかし、ブラジルへの夢は、どうしても消すことができなかった。彼は、父親のいいつけを守るなど努力を重ねながら説得を続け、なるべく早く日本に帰ることを条件に、ついに了解を得る。
 私どもの立場でいえば、家族の反対のなか、健気けなげに信心を貫いている青年の姿と、二重映しにも思える。
3  ようやく念願かなった彼は、四月二十八日、笠戸丸に乗って神戸港を出発。そして五十二日目の六月十八日、ブラジルのサントス港に到着した。「海外移住の日」が六月十八日と定められたのは、ここに起源があるわけである。まさに、笠戸丸の到着は、あらゆる国への移住を象徴する重要な出来事であった。
 五十二日間もの航海にあっては、嵐の日もあったかもしれない。心細くなったこともあったにちがいない。しかも、家族もなく、たった一人で乗り込んだ少年は、彼一人であった。
 だが、のちに児玉さんは、回想する。「大変な船旅ではあったが、つらいと思ったことはなかった。船員さんが、非常に親切にしてくれて、かわいがってくれた」と。児玉さんの当時の記憶は、八十年たった今も、きわめて鮮明である。
 子供のころに刻んだ思い出は、生涯、鮮烈に心に残り、光を放っていく。その後の人生、生き方にも、深く、大きな影響を及ぼしていくものだ。
 ゆえに私は、未来部の担当者の方々がどれほど大切であるか、と申し上げておきたい。高・中等、少年部の若き友に対しては、くれぐれも真心からの指導・激励をお願いしたい。
 少年少女の心は、まことに多感である。それだけに、一時の感情でしかったり、ウソをついたり、心にキズをつけてしまえば、取り返しのつかないことになる。反対に、多感な心に刻まれた真心の励ましが、どれほど生涯の成長の源泉となるか。後継の育成に当たる方々は、この点を強く銘記していただきたい。
4  嵐に胸張る人生の達人に
 ブラジルに着いた児玉少年は、ある一家と一緒に、イギリスの会社所有のコーヒー農場に入る。そこで、朝早くから夜遅くまで、働きに働いた。しかし、その年のコーヒーは不作となり、移民たちは、他の農園へと移らざるをえなくなる。
 児玉少年は、何とか都会での仕事を得たいと考えた。幸いにも、ある人の紹介で、ブラジル人の家事手伝いの職を得、希望をかなえることができた。以来、約二十年間、日本人と出会うことは、ほとんどなかったという。その間の生活について、氏は、次のように語っている。
 「ブラジルでの生活は、収入も少なく、総じて厳しいものでした。でも、十五歳のころには、ブラジルの土になろうとハラを決めました。広島の実家からは、旅費は出すからすぐにでも帰国しろと、再三、いってきてくれた。しかし、一度、国を出た以上、自分の力でしか帰国はしないと決意していました。年がたてばたつほど、親に金を出してもらって帰ることなど、できませんでしたよ」
 氏は、若き日に、甘えを排し、凛然りんぜんと自身の生きゆく道を定めたのである。
 やがて児玉さんは、同じ家で働いていた移民のタカさんと、二十一歳で結婚する。タカさんは、やはり「笠戸丸」でブラジルへ渡ってきた女性であった。
 このころ、児玉さんは、日本人として初めて運転免許証を取得、プロの運転手となった。「当時は、まだ運転手が多くいなかったので、恵まれた職業でした」と自ら語るように、それから、生活は多少なりとも、楽になっていったようだ。
 二十三歳の時、長男が生まれた。その後、年子としごで六人の子供をもうける。
 子供たちには、ブラジル人として教育を受けさせた。そのため、日本語も、日本の習慣も、子供たちには、なじみが薄かった。そこで、日系移民の子から、″いじめ″を受けた。今回一緒に来日した長男のラウルさん(七十一歳)は、ブラジルSGI(創価学会インターナショナル)のメンバーであるが、当時、毎日のように、彼らとケンカをして帰る日々が続いたという。
 ラウルさんが成人となるころには、ブラジル人からの差別が厳しくなった。第二次世界大戦が始まり、ブラジルと日本は、敵国同士となったからだ。
 ラウルさんは、兵役で空軍に入隊。軍隊生活では、数々の差別や偏見にさらされた。やがて日系二世の外地派遣部隊として、イタリア戦線におもむく。
 自らブラジル社会のなかで生き抜き、我が子をも、ブラジル人として育てあげていった児玉さん。戦時下には、その児玉さんに対しても、むき出しの反日感情が向けられた。当時、生活の支えとなっていたトラックの運転を警察から禁止されたのも、反日感情以外に理由は考えられなかった。
 児玉さんも、他の移住者と同様、数々の辛酸しんさんをなめつくしたといってよい。
 いつの時代であれ、いずこの地であれ、現実とは、厳しい障害との格闘である。それを乗り越えてこそ、人生に栄冠は輝く。いわんや″仏法は勝負″である。私どもは何をもって勝つことができるのか。それは信心の″利剣″によってである。どうか皆さまは、信心の二字で、あらゆる人生の勝負に悠々ゆうゆうと勝利しゆく″幸福の王者″であっていただきたい。
5  児玉さんは、ありとあらゆる苦難を経験されたにちがいない。それにもかかわらず、私が懇談した折にも、つねにみをたたえられ、人生を楽しみきっているかのようであった。
 同じ一生でも、いつもつらく、悲しいような表情で生きている人もいる。反対に、どんな苦しみにあっても、明るい笑顔で、たくましく生きゆく人もいる。
 ともあれ、いかなる嵐も、つねに前進の追い風としつつ、朗らかに生きていく人こそ″人生の達人たつじん″といってよい。数々の苦しみを乗り越え、悠々と人生を謳歌おうかする児玉さんは、まさにその一人であると私は直感した。
 戦後、児玉さんは、農業、畜産等にも従事した。現在は、サンパウロ市から五百五十キロほどのプレジデンテ・プルデンテという町で、六十九歳の娘さんと暮らしている。平凡といえば、確かに平凡な暮らしかもしれない。しかしそれは、八十年の風雪をたくましく生き抜いた尊いひとつのあかしであるといってよい。
 十三歳で別れた父親と、児玉さんが再会するのは、実に五十歳の時であった。日本をたって三十七年後の初帰国の折である。だが、それが最後の父子の語らいともなった。
 ブラジル移住八十周年を祝う記念式典が、あす十八日に、サンパウロで盛大に開催される。そこで児玉さんは、万歳三唱の音頭をとることになっている。また、一万人のNSB(ブラジル日蓮正宗)メンバーが、人文字で児玉さんの名前を描くともいう。児玉さんにとっては、まことに思い出深い式典となるであろう。私も、日本の地から、心より祝福申し上げたい。
6  私は、懇談の際、″人生の知恵者″ともいうべき児玉さんの体験を後世のために残したいと思い、対談の提案をさせていただいた。児玉さんは、「自分で書いたりしゃべったりするのは苦手ですが、九十三歳という年齢でもあり、今のうちに何でもお聞きください。それにお答えします」と、こころよく了承してくださった。
 私はこれまでに、トインビー博士、ユイグ博士、ペッチェイ博士、キッシンジャー博士、ポーリング博士等々、数多くの世界の識者と対談を行ってきたし、現在も続けている。
 こうした″人類の知性″ともいうべき人々と、未来を遠望し、真摯しんしに語り合うことは当然、大事なことである。しかし児玉さんのように、日伯の友好と平和の懸け橋となった、尊い庶民の歴史の証言を残しておくことこそ大切であると思い、対談を提案させていただいたわけである。
 また、児玉さん父子から、先の来日にあたって「詩」を頂戴した。私のことでまことに恐縮であるが、御礼としてここで紹介したい。
7   敬愛する池田大作先生
  広大なる宇宙──
  遼遠りょうえんに輝く珠玉しゅぎょくのダイヤモンドの輝き
  それは──先生の至尊しそんの言葉
  異国の民を照らしゆく
  全人類が一つの同じ道を進み
  全身は喜びに溢(あふ)れ
  生命は満ち 笑み 輝いている
  広宣流布──
  それは私達に
  平和と偉大なる生命の
  ハーモニーを奏でる
  大いなるよろこびに溢れる
  うるわしい家族ファミリー
  ブラジルの闇を照らしゆく
  広宣流布の希望の光は
  私達ブラジルの人の心に
  広がりゆく
  紺碧こんぺきの空のもと
  はるかなる地平の彼方かなたまで広がる
  今 ブラジルの人々の心に
  南無妙法蓮華経が響く
8  この詩が作られたの、来日の前で、児玉さん父子とは、まだお会いしていなかった。にもかかわらずブラジルの地で、父子で推敲すいこうを重ねながら、父の心を息子さんがしたためて贈ってくださったものとうかがった。私は、その詩の背景からにじみ出るお二人の真心がうれしかった。
9  ″我が青春ここに″と広布の舞台へ
 さて、ブラジルと日本は、ちょうど地球の反対側に位置している。したがって、ブラジルの青年が一日を悔いなく生ききって、満天の星を仰ぎながら家路につくころ、日本の青年は、さわやかな朝日とともに一日の活動をはつらつと開始する。
 このように妙法の友は、地球を舞台にして、まことに壮大な広宣流布のリレーを、毎日、繰り広げているといえよう。アジアでも、オセアニアでも、ヨーロッパでも、アフリカでも、そして北米、中南米でも、同志が戦っている。広宣流布は、もはや世界的、地球的規模で展開されている。日本は、そのなかの一地域のような存在にすぎない感さえする昨今である。
 皆さま方は、三世という永遠にして、また全宇宙という無限の広がりをもつ妙法を、日々、信仰し実践しているお一人お一人である。日本という、狭い地域だけではなく、今や世界の広宣流布をリードする先駆者としての、「壮大なる心」で、胸張り、堂々と前進していただきたい。
 現代化学の父といわれ、ノーベル化学賞及び平和賞を受賞したポーリング博士と、私は昨年、アメリカでお会いした。
 その博士は、三十歳で、すでにカリフォルニア工科大学の教授になっておられる。また、博士の友人であったアインシュタイン博士も、二十六歳の若さで、かの「特殊相対性理論」などの論文を発表しており、「雄大な発見は青年の仕事」と、友人あての手紙に記している。
 偉大な仕事とは、実に、青年期にあって成し遂げていくものといってよい。ゆえに青年期こそ、困難に挑戦すべきであろう。まして広宣流布という最も崇高な「法戦」に生きる以上、その途上における苦難は必定ひつじょうである。しかし、苦難があるからこそ自分も磨かれ、境涯も開いていける。これ以上の、楽しみはないし、喜びはない。
 朝起き、食事をして出勤し、帰宅してテレビを見、そして休む──ただ平々凡々、苦難も何もない人生で、本当の自分らしい何かを築いていけるのか。
 何をしても一生は一生である。やはり、精いっぱい生きて、人生の価値と、自分らしい何かを築き、残していきたいものである。
 巨大なビルディングも、いつかはくずれる。が、妙法の世界で築かれたものは永遠に崩れない。自分はもとより先祖、子孫をも救い、そして人類の安穏と平和を実現していく広宣流布の運動こそ、最も価値のある、最も尊い仕事である。
 どうか小金井圏の青年部諸君もまた、この壮大にして偉大なる聖業せいぎょうに″我が青春ここにあり″との気概で取り組んでいっていただきたい。
10  提婆・阿難兄弟の明暗に一念の差
 先日も、神奈川の支部長会で、四条金吾の兄弟についてお話をした。
 信仰はあくまでも個人の問題である。信心においては、たとえ兄弟、親族といってもまったく別々であり、責任は本人自身にある。このことに関連して、もう少々、申し上げておきたい。
 釈尊の門下をいろどる十大弟子の中に「多聞たもん第一」とうたわれた阿難あなんがいる。
 彼は「智恵第一」の舎利弗しゃりほつ、「神通第一」の目連などと並び「多聞第一」とされた。「多聞」とは文字通り仏の教えを″多く聞く″という意である。
 阿難は、釈尊より三十歳ほど若いとされ、彼は晩年の釈尊に、青年時代から二十年間以上(二十五年間ともいう)、ただ一人、常随給仕じょうずいきゅうじしてきた。そして、師・釈尊とともに、インドの大地を駆けめぐった。民衆の真っただ中に入って法を説いた釈尊の教えを、だれよりも多く聞き、生命に刻みつけていったのである。
 この点について、大聖人も「阿難尊者は多聞第一の極聖・釈尊一代の説法を空に誦せし広学の智人なり」──阿難尊者は、多聞第一とされた最高の聖人であり、釈尊一代の説法を暗誦あんしょうした広学の智人である──と仰せである。
 実は、この阿難は、釈尊に師敵対した、あの提婆達多の弟(兄という説もある)といわれる。つまり、皆さまもご存じのように、阿難と提婆の兄弟は、釈尊とはいとこの関係にあった。
 兄弟ともに、釈尊の近しい親族であり、弟子となりながら、兄・提婆は「師敵対」「破和合僧」の者となり、弟・阿難は「常随給仕」「令法久住りょうぼうくじゅう」に尽くすなど、まったく対極の人生を歩んだわけである。
11  なぜ、提婆と阿難は、兄弟でありながら、これほどの差が生じてしまったのか。この点は、さまざまな角度から論じることができるだろうが、やはり、その「一念」のちがいに注目をせざるをえない。
 「一念」は実に微妙なものである。たとえば、本日のこの総会の開催についても、さまざまな思いの人がいたにちがいない。
 なかには″学会本部まで行くなんて、いやになっちゃうなー。小金井でやればいいじゃないか″と思った人もいたかもしれない。また、″何もウイークデーにやることはない。日曜日にやればいいじゃないか″と。これは壮年部の人に多いかもしれない。反対に″本部に行こう。学会本部の御本尊を拝したい。私たちは学会員だから″と、喜々として参加された人もおられるであろう。
 このように、同じ一つの会合の参加にしても、さまざまに「一念」は異なる。生命の奥底から、ふと頭をもたげてくる「一念」は、いかんともしがたい。しかし、この「一念」の姿勢によって信心は決まるといっても過言ではない。だからこそ、大聖人は″心こそ大切なれ″と仰せなのである。
12  ところで、提婆の心根こころねについて、大聖人は次のように喝破かっぱされている。
 「提婆達多を人たとまざりしかばいかにしてか世間の名誉・仏にすぎんと・はげみしほどに」──提婆達多は釈尊に比べて、人にとうとばれなかったので、どのようにしたら世間の名誉が釈尊よりまさるようになるだろうかと、いろいろ思案をめぐらして──と。
 つまり、提婆の奥底の心は、釈尊への「嫉妬しっと」、いわゆる「男のヤキモチ」であり、釈尊よりすぐれたい、との世間的な「名誉欲」にすぎなかったといってよい。それは「信心の心」でも何でもない。信仰とは最もかけ離れた低俗な次元の、あさましい心であった。
 しかし、提婆は、だれよりも純粋な信仰者の姿を偽装ぎそうしながら、次のように釈尊に申し出る。「もはや世尊(釈尊)は年老いた。教団は私(提婆)にまかせて、引退しなさい」と。
 もとより、釈尊は、この思い上がった提婆の要求を厳然と拒絶する。その折、大衆の面前で、釈尊から厳しく叱責しっせきされた提婆は、反省するどころか、うらみとにくしみを激しく燃やし、公然と反逆を始める。釈尊は、舎利弗に命じて、これ以後、提婆の言動は、もはや教団とは無関係であることを広く、告げ知らせた。
13  こうした兄・提婆の違背の姿に対して、弟の阿難は愚直ぐちょくなまでに師・釈尊につき、従っていった。
 大聖人は次のように仰せである。
 「南無と申す字は敬う心なり随う心なり、故に阿難尊者は一切経の如是の二字の上に南無等云云」──南無という字は、敬う心をあらわし、また随順ずいじゅんする心をあらわす。故に阿難尊者は一切経の初めに如是我聞(このように私は仏より聞いた)と書いたうえに、南無等と記されたのである──と。
 正しき「師」と「法」をどこまでも「敬う心」そして「随う心」──まさに、この最も崇高なる信仰の心をもって阿難は、我が人生を生ききった。これこそ真実の仏法者の生き方であったし、我々もまた、そのような崇高な信仰者としての生涯でありたいと思う。
14  酔象から師匠を守った阿難
 さて釈尊の受けた「九横くおうの大難」のなかに「阿闍世あじゃせ王の酔象すいぞうを放つ」という大事件があった。すなわち、ある経文によれば、悪逆の提婆達多は、阿闍世王の象使いを買収して、酒にわせた狂暴な象を放たせ、釈尊を踏み殺そうとした。
 大きな象を酔っぱらわせるのだから、さぞかし、たくさんの酒が必要だっただろう。壮年部や男子部の好きな″生ビール″の一杯や二杯では、とても間に合わない。「自分もこれくらい飲んでみたい」という人もいるかもしれない。
 もともと、ひどく狂暴な象であった。それが、本人は、いい気持ちに酔っている。こうなったら、あやつられるままである。長い鼻を振り回しながら、象は、釈尊の一行めがけて、突進してきた。街の人々は、その勢いに、皆、家の中にかくれてしまった。まさに釈尊の生命の危機であった。
 その時、釈尊一行は、どうなったか。何と、周りにいた弟子たちは、皆、一目散に逃げてしまった。師匠は置き去りである。釈尊も「いやはや、憶病な連中だ」と、ため息をつかれたかどうかは分からないが、皆、人間的というには余りにも弱い弟子たちの姿であった。
 学会においても、ふだん声高に「師匠を守ろう!」とか、格好のいいことを人前で叫んでいた人間に限ってちょっと何かあると、一目散に退転していった。また表面上は、逃げないまでも、心が動き、心がちていった人間を、私は知っている。概して、ふだん華やかさを求める人間ほど、いざという時に、もろい傾向があるようだ。
 この時、たった一人、釈尊から一歩も離れず、踏みとどまった弟子がいた。それが阿難である。彼は立ちはだかるようにして、師を守った。
 瞬時の出来事であったが、阿難の真価が如実にあらわれた一瞬であった。こういう時にこそ、通常は分からない人間の″地金じがね″が出る。人の偉さも、またみにくさも、はっきりしてしまう。
 釈尊は、やがて慈悲の力をもって、象を従えさせ、ことなきを得た。
 釈尊が無事となると、やがて逃げた弟子たちがゾロゾロと集まってきた。
 釈尊の在世ですら、人の心はこうなのだから、末法はなおさらである。現在は末法も進んで、人の心もすさみきっている。そのなかで正法を弘めるのだから、学会も大変ですよ。
 弟子たちは釈尊に質問する。「なぜ阿難一人が、仏を捨てなかったのでしょうか」。自分たちのことはタナにあげて、その因縁いんねんを問うた。それに対し、釈尊は「鹿の物語」を語って聞かせる。
 私も熊の話をしたり、象の話をしたり、動物園の園長さんみたいだが、釈尊の話は「鹿の王」すなわち鹿のリーダーの物語である。
 格好ばかり良くても、仕事ができない人もいる。格好はともかく、仕事のうえで結果を出せる人が貴重である。彼は奥さんを亡くすなど、人生の苦労もしている。苦労してこそ、本当に信仰も深まる。仏法の真髄しんずいにも近づいていく。
 戸田先生は、ご自身のことを「なぜ会長になったのか。それは、私は妻も亡くした。娘も亡くした。そして人生の苦労を、とことんなめつくした。だから会長になったのだ」と話されていた。まことに含蓄がんちくの深い言葉である。
 学会の会長が名誉職であるならともかく、会長職は、庶民の苦悩と悲哀をだれよりも理解できる人でなければつとまらない。「だれよりも苦労した。だから会長になったのだ」──幹部の皆さまは、この戸田先生の言葉を、それぞれの立場で、深くかみしめていただきたい。そして人に倍する苦労を求め、苦労によって自身の信心の境涯を深めていっていただきたい。
15  何かあると、すぐ一喜一憂するリーダーでは、多くの人を守ることはできない。指導者は、少しくらいの騒ぎに微動だにもしない、よい意味での大人だいじんにならねばならない。そうでなければ、内外の人から軽く見られ、あなどられて、結局、悪をつけ上がらせ、助長してしまう。
 盤石な学会の恵まれた環境にあって、甘やかされ、苦労しらずとなったり、私が厳然と守っていることをよいことに、成長を遅らせてはならない。それぞれの立場にあって、広布の障害と厳然と戦い勝利してこそ指導者といえる。自ら苦労を求め、本当にハラをすえて戦い切ってこそ、成仏の道もある。全部、自分のためである。
 血液の白血球も、健康の″敵″と戦う使命を果たしてこそ、生き生きと勢いを増す。手足も頭脳も使わなければ衰える。広布のために″戦おう″という強盛な一念があってこそ、限りなき生命力がわき、色心ともに健康へと向かう。
 私自身、本来なら、とうに倒れている体である。ただ広布のため仏子のために──との真剣の一念が、厳として寿命を延ばしてきた。これ自体、偉大なる護法の功徳の証明であると確信する。
16  勇気の信心で″幸の錦″飾れ
 さて、釈尊の「鹿の物語」である。
 ──昔、雪山せっせんの近くに、ある鹿の王がいた。彼は五百頭の鹿をひきいていた。
 ある時、一人の猟師りょうしがエサをまき、ワナをしかけた。群れの先頭を走っていた鹿の王は、そのワナにかかってしまう。
 しかし王は、他の鹿たちが、ゆっくりとエサを食べ終わるまで、そのことを黙っていた。彼らを安全に守ることしか、考えなかった。──これが指導者の心である。自らが犠牲ぎせいになり、攻撃を一身に集めて、皆を守る。
 やがて、王がワナに足をとられているのを見た鹿たちは、王の深き心も知らず、皆、王を見捨てて逃げ去ってしまった。釈尊の憶病な弟子たちと同じである。
 ただ一頭、女性の鹿だけが、その場に踏みとどまった。──いつの世も、女性は強い。いざという時には男性よりも、よほど頼もしい場合がある。かの「松葉ケ谷まつばがやつの法難」の際、逃げ道へ案内して大聖人の危急をお救いしたのは、勇敢な一女性であったという説もある。
 鹿の王を励ましながら、彼女は何とかして助けようと、いろいろ努力する。しかし、どうしてもワナは、はずれない。やがて、刀をふりかざした猟師りょうしが近づいてきた。絶体絶命である。
 この時、彼女は、猟師に必死で訴える。
 ″あなたの刀で、まず私を殺しなさい。そして願わくは、王は逃がしてください″と──。
 文字通り、捨て身の叫びであった。血涙の声であった。さすがの猟師も心を揺さぶられた。そして、ついに二頭とも解放した──という物語である。
 捨て身の一念は強い。どんなかたくなな心をも動かしていく。まして御本尊への懸命の祈りは、全宇宙、一切の諸天をも揺り動かしていく。
 いうまでもなく、この物語の鹿の王が、今の釈尊であり、女性の鹿が今の阿難であるというのである。逃げ去った鹿たちは憶病な弟子たち、猟師は酔った象である──と。
 すべて過去世からの因縁がある。今世限りのことではない。仏法における生命の因果の絆は三世にわたる。大聖人も「三世各別あるべからず」と仰せである。
17  広宣流布は、万年への遠征であり、三世にわたる生命向上の旅路である。その舞台は、世界的どころか宇宙大の広がりを持つ。この壮大なる戦いの主人公こそ、皆さま方である。あまりにも甚深じんじんなる使命であり、高貴なる立場である。その真実は、退転の徒のいやしき心には、想像もできないにちがいない。
 この大いなる使命の自覚と誇りも高く、「勇気ある信心」を奮い起こし、貫いていただきたい。苦難を喜びつつ、勇んで挑戦していっていただきたい。
 その勇猛の実践にこそ、三世永遠に輝きわたる生命の「ほまれ」も「にしき」も備わってくる。そして我が生命を、崩れざる「金剛宝器こんごうほうき」へと完成していくことができる。大切な時に憶病であれば「宝器」とはならず、せっかくの大福徳を自ららしてしまう。
 ともあれ、小金井圏は日本第一の「福運」の国土であっていただきたい。また日本第一の「幸福」の人々の集いであっていただきたい。そして日本第一の「和楽」の組織であっていただきたい。その偉大なる小金井圏の建設を、心よりお祈りして、本日の記念のスピーチを結ばせていただく。

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