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日蓮大聖人・池田大作

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第一回神奈川県支部長会 万代の繁栄は「一人」の信心の力に

1988.6.12 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

前後
2  「父」をテーマにした映画といえば、とかく口ひげでもはやした、こわそうな顔をした親父おやじを連想される人も多いかもしれないが、この映画の主人公はそうではない。父としても、一家の柱としても、夫としても、どれをとっても落第点をつけられるような、それでいて愛すべき″ダメおやじ″なのである。
 ここでは、幼年から青年へと成長していく息子の目を通して、まったくの″ダメおやじ″の姿と、その父に振り回されながらもたくましく生きる母、こういえばやっぱり「母」の偉さが強調されてしまうが、そして、我が子のふがいなさにあきれながらも、どうしても甘やかしてしまう祖母の姿を描きながら、どこか深いところで心の通い合っている家族のうるわしい人間関係を浮き彫りにしている。
3  物語は、地元・鹿児島の県議会議員選挙に立候補した父が、遊説ゆうぜいしている場面から始まる。ところが選挙には見事に落選、あまりの格好悪さから、この父は妻と一人息子を連れて熊本に流れていく。そして、ひともうけを夢みて興行師のまねをする。これに味をしめた父は、一人息子を故郷の祖母に預けて、妻と二人で夢を追いながら、大阪、東京を転々とする。
 子供思いの愛すべきこの父は、本人は一生懸命なのだが、現実感に乏しく、突拍子もない夢とロマンを追って生きている。映画では、その生き方に温かい愛情の目を注ぎながら描いている。
 しかし、夢はどこまでいっても夢である。現実はどこまでも現実である。生活は現実であるし、厳しい戦いの場である。ゆえに現実に根を張った、真剣な努力もしないで、財産がほしい、名誉がほしいと夢ばかり追っても、人生に成功するわけはない。
 また、社会的地位や名声をえて自分を飾りたいと願う人間は、それが実現しなかったり、いったん得ても失いそうになると、その夢にとらわれるものだ。そして、周りの人をねたんだり、うらんだりして、人生を狂わせてしまう。
 この父は、何度失敗しても妙に明るい。故郷の桜島を思っては″ドカン″と一発当ててやろうと、考えている。
 この″ドカンと一発を″というのがいけない。こういう一獲千金いっかくせんきんを追う生き方でうまくいくほど人生は甘くはない。
 信心も同じである。仏法は道理であり、道理に合わない、夢のようなことばかり願うのは信心ではない。信心即生活の確かな歩みにこそ、人生行路は大きく開かれていくものだ。
 一方、妻は夫の現実を見ようとしない生き方にうんざりし、何度も離婚を考える。実家の祖母も、自分の息子のだらしなさにあきれ、あきらめてしまっている。
 東京でも、うだつのあがらない父は、故郷ににしきを飾ることを夢みて、今度は、プロモーター(興行師)として、ひと旗あげようと、ブラジルに一人渡る。残された妻は″ああダメおやじがいなくなった″″せいせいした″と思いつつも、少し寂しさを感じている。いくら″ダメおやじ″でも、これが夫婦の思いなのであろう。そして、一人息子を引き取り、息子と二人で暮らすようになる。
 ところが、つつましくも楽しく暮らしている妻と息子のもとに、突然、″ダメおやじ″が帰ってくる。何を言い出すかと思えば、歌手を売り出すという。しかし、これもまた、見事に失敗。ついに愛想をつかした妻は離婚してしまった。
 男は生活力がないと、結局、一家を不幸にしてしまう。壮年部の方々には申しわけない。後の話で、その分、埋め合わせをしますが、やはり一家を支えていくのは、男の、父親の責任である。
4  歳月は流れ、母と息子は、父の故郷・鹿児島でしゅうとめの祖母と一緒に暮らしている。その息子のもとに、長い間、音信のなかった父から、アロハを着た、元気そうな姿の写真が送られてきた。ハワイでりずに何やら始めたようである。その写真を見て、息子はついほほえんでしまう。「またやってるな、今度こそがんばって」と祈る。やはり親子である。
 そして、ラストシーン。場面は、地元・鹿児島のおはら祭りの日。母と息子は人込みの中に、父らしき人を見つける。息子は「パパー」と叫びながら、その姿を探すというところで幕が下りる。
 ともかく、どれもこれも失敗ばかりで、家族を振り回す父だが、決して落ち込まない。いつも元気で明るい。そして家族も暗くならず、たくましく暮らしていく。
 監督の木下恵介氏は映画のテーマについて次のように語っている。
 「一見気持ちがばらばらに見えても、離ればなれに暮らしていても、どこかに心のいちばん深い部分でつながっていて、いつも気にかけている。こんな人間関係は家族をおいてほかにはないと確信している」と。
 この作品では、殺伐さつばつとした人間砂漠ともいわれる現代にあって、″温かさ″″豊かさ″″明るさ″を失わない人間関係の素晴らしさを教えているように思えてならない。皆さま方の生き方に、何らかの参考になればと思い、紹介させていただいた次第である。
5  後継の大道開く「母」の一念
 ところで、先日、青年部幹部会で、日興上人の身延離山について、種々、論じた。そのさいお話ししたように、大聖人御入滅後、五老僧はこぞって日興上人に敵対し、反逆の道を歩んだ。五老僧に追随ついずいした門下も数多く、身延方面の地頭であった波木井実長はきりさねながも、つくべき師に迷い、正師・日興上人に公然と弓を引いた。このように、大聖人の御入滅とともに信心の清流を見失い、悪道の坂を転落する門下が相次いだ。
 こうした渦中にあって、かの佐渡の地の門下は、純一じゅんいつに日興上人にしたがい、信心の正道を歩んでいった。これは、まことに特筆すべき歴史といわねばなるまい。
 佐渡流罪の折、ただ一人、大聖人につきしたがって常随給仕じょうずいきゅうじをされ、師とともに一切の難を受けきられたのは、若き日興上人であられた。御年二十六歳から二十九歳の時のことである。
 当時の大聖人は、無実ながら″罪人″とされ、監視かんしも厳しく、自由に動かれるのは難しかった。ゆえに佐渡では、日興上人が大聖人の御心を体し、一切の事に当たられ、また折伏・弘教に奔走ほんそうされたと拝察される。
 阿仏房や本間一族など、佐渡で入信した門下たちは、大聖人の御姿に心打たれたのは当然のことながら、青年僧であられた日興上人の熱き法戦の炎に照らされ、信仰の情熱を限りなく高めていったのである。
 その後、大聖人が赦免しゃめんされ、日興上人らと佐渡を離れられても、彼らはひたすらに正師を求め続けた。その求道の一念は、大聖人御入滅後も変わることなく、正法の清流を引き継がれた日興上人の教えを仰いでいった。
6  佐渡における信心の清流は、子から孫へ、その次の世代へと着実に継承されていった。
 なかでも、阿仏房・千日尼夫妻の曽孫そうそん(ひまご)に当たる日満は、少年時代に富士にのぼり、日興上人を師として出家得度とくどし、修行に励んだ。そして元弘二年(一三三二年)、日満は、若くして、日興上人より「北陸道七箇国」の大別当に任じられる。
 「北陸道七箇国」とは、「若狭わかさ」「越前」「加賀」「能登のと」「越中」「越後」「佐渡」を指し、現在の福井・石川・富山・新潟県に当たる。つまり日満は、北陸、新潟方面という広範囲の広布の責任者に任命されたわけである。まさに重責を、日興上人から託されたといってよい。
 かつて、日満の曽祖父そうそふ・阿仏房も、大聖人より「北国の導師」と賛嘆されている。それから日満は、実に四代目に当たる。
 そのほまれの信心の継承を、すべて見守り、はぐくまれたのが、日興上人であられた。阿仏房にも直々じきじきに妙法を語られ、曽孫の日満にいたるまで、手ずから薫陶くんとうし、広布の指導者へと育てていかれた。それだけに、日満の成長の姿には、感慨はいかばかりであられたか。
 日満の大別当の任命は、実に阿仏房没後五十年余、また千日尼没後約三十年のことであった。
 次元は異なるが、我が創価学会も、明後年には創立六十周年を迎える。とはいえ、実質の出発となった戸田先生の会長就任からは、いまだ四十年に満たない。まだまだ短い歴史であり、これから五十年、百年、五百年、千年と、万代にわたる広布の盤石なる流れを築いていくことこそ私どもの使命である。それを思えば多少の苦難は当然であり、むしろ誉れである。
 大聖人滅後、多くの門下が富士門流から離れていったのに比べ、阿仏房の子孫の姿は、まことに見事である。これこそ、私は千日尼の「母の信心」の凱歌がいかでもあると思えてならない。
 女性の純真な信心の一念は、夫の信心の支えとなるのみならず、子供、孫らの成長に対しても、決定的な影響を及ぼしていく。それほど母親の存在は、広布の後継に重要な意義をもつ。
7  辛労のなかに磨かれる不退の心
 大聖人は御在世中、千日尼の不退の信心を、繰り返し繰り返し称賛された。
 まず、佐渡流罪中のことについては、次のように仰せである。
 「地頭・地頭・念仏者・念仏者等・日蓮が庵室に昼夜に立ちそいてかよう人もあるを・まどわさんと・せめしに・阿仏房にひつを・しおわせ夜中に度度・御わたりありし事いつの世にか・わすらむ、只悲母の佐渡の国に生れかわりて有るか
 ――佐渡の地頭という地頭、念仏者という念仏者等は、日蓮の庵室に昼夜に見張りを立て、通う人を妨げようとしたのに、あなた(千日尼)が阿仏房にひつを背負わせて、夜中にたびたびお訪ねのあったことを、いつの世に忘れられようか。ただ、私の亡き悲母が、佐渡の国に生まれ変わったのであろうか――と。
 さらに「又其の故に或は所ををい或はくわれう科料をひき或は宅を・とられなんどせしに・ついに・とをらせ給いぬ、法華経には過去に十万億の仏を供養せる人こそ今生には退せぬとわ・みへて候へ、されば十万億供養の女人なり
 ――また、あなた(千日尼)は、そのために所を追われ、あるいは罰金を科せられ、また家を取られるなどしたのに、ついに信心を貫き通された。法華経法師品第十には、過去世に十万億の仏を供養した人こそ、今生で信心を退転しないとある。それゆえ、あなたは十万億の仏を供養した女人である――と。
 当時の佐渡への配流が、いかに厳しい処置であったかは、現在ではなかなか想像しにくいかもしれない。それはほぼ、死罪と同様″極刑″の重みをもっていたのであり、今の懲役ちょうえき刑等とは根本的に異なる。
 その、佐渡に流され″大罪人″とされた大聖人をお守りし、尊敬していくような行動が、いかに周囲の反発と敵意をかうものであったか。大聖人に食物等を御供養された阿仏房・千日尼夫妻の行為は、まさに生命をしてのものであったにちがいない。
 こうした悲母にも劣らぬ慈愛と真心に対し、大聖人は″いつの世に忘れられようか″と述べられるとともに、千日尼は″十万億の仏を供養した女人″であると、最大の称賛を寄せられている。
 こうした尊い千日尼の姿に、私は今日の婦人部の大いなる活躍を思わざるをえない。
 皆さまは、何があっても、日々悩める友のために唱題し、広布への勇気ある行動を続けられている。皆さま方こそ、″十万億の仏供養の女人″の方々であると、私は確信してやまない。厳しい困難のなかに信心をまっとうしゆくところにこそ、成仏の直道があるからだ。
 先ほど述べたように、大聖人御入滅後も、佐渡には厳然たる正法の清流が引き継がれていった。それは、佐渡の門下が、大聖人、日興上人のもとで幾度も嵐を耐え忍び、苦難の冬を見事に乗り越えたがゆえの誉れの証であると、私には思えてならない。
 「法」のため、「広布」のために、辛労を尽くしきった人こそ、不退の勇者となる。反対に、いかに表面は活躍しているように見えても、何かあると驚いたり、労苦を避けて通っている人は、いざという時に退転していく。これは、今も変わらぬ厳しき信心の方程式である。
8  佐渡に貫く千日尼の誠
 大聖人をお慕い申し上げる千日尼の信心は、御本仏が赦免しゃめんとなり、佐渡を遠く離れられても、いささかも変わらなかった。その点について御書には、次のように仰せである。
 「其の上・人は見る眼の前には心ざし有りとも・さしはなれぬれば・心はわすれずとも・さでこそ候に去ぬる文永十一年より今年弘安元年まではすでに五箇年が間・此の山中に候に佐渡の国より三度まで夫をつかはす、いくらほどの御心ざしぞ大地よりもあつく大海よりもふかき御心ざしぞかし
 ――そのうえ、人は目の前にいる間はこころざしがあっても、離れてしまえば、心では忘れていなくとも、遠くなってしまうものである。しかし、去る文永十一年(一二七四年)から今年弘安元年(一二七八年)まで、すでに五年の間、この身延の山中に私はいたのだが、あなたは佐渡の国より三度までも、夫をつかわされた。どれほどの御志であろうか。大地よりも厚く、大海よりも深いあなたの御志である――と。
 高齢でありながら、佐渡から三度も足を運び、身延に大聖人をお訪ねした阿仏房の信心は、もちろん健気けなげであり、立派である。しかし、その夫を、陰で支えに支えた妻・千日尼の信心は、それに劣らず尊いことを、大聖人は温かく称賛された。
 よかれあしかれ、夫を動かし、もり立てていく夫人の力は、どうやらいつの世も絶大なものらしい。
 夫人の信心によって夫も家族も、いくらでも成長できる。反対に、女性が悪に染まった場合には、夫を狂わし、家族を悪道へと導き、地獄へととしてしまう。大なり小なり、いつの時代にも、こうした構図があるものだ。
9  弘安二年(一二七九年)春、阿仏房は亡くなる。しかし、護法のために戦いきった夫妻にはいささかも悔いはなかったにちがいない。
 夫の亡きあと、千日尼は立派に成人していた我が子・藤九郎守綱とうくろうもりつなを大聖人のもとへ送り出す。″父の後を継いで、今度はあなたが広宣流布のために働いていきなさい″との思いであったのであろう。それまで夫を支え、ひたすら大聖人に御仕えしてきた毅然きぜんたる信心の姿勢は、少しも変わることがなかった。
 そのことを大聖人は、次のように仰せになっている。
 「其の子藤九郎守綱は此の跡をつぎて一向法華経の行者となりて・去年は七月二日・父の舎利を頸に懸け、一千里の山海を経て甲州・波木井身延山に登りて法華経の道場に此れをおさめ、今年は又七月一日身延山に登りて慈父のはかを拝見す、子にすぎたる財なし・子にすぎたる財なし
 ――あなた(千日尼)方の子である藤九郎守綱は、亡き阿仏上人の後を継いでいちずに法華経の行者となり、去年は七月二日(=阿仏房の百箇日忌のころ)に、父の遺骨を首にかけ、一千里の山海を越えて、甲州波木井の身延山に登って、法華経の道場にこれを納め、今年はまた七月一日に身延山に登って、慈父の墓にもうでた。子にすぎた財はない。子にすぎた財はない――と。
 大聖人は御書の中で阿仏房のことを「上人」とまでおっしゃっているが、千日尼に対しても″お母さん、本当によく頑張りましたね。あなたの一族は盤石ですよ″とねぎらわれ、母子ともに、広宣流布に立派に活躍していることを称賛されている。
 千日尼は、いかなる時も微動だにしなかった。
 何があっても御本尊へ、広宣流布へとまっすぐに、純真に向かっていくのが信心である。多少のことで揺れ動くようではそれはもはや「不動の信念」とはいえない。
 ともあれ、大聖人御入滅後の激動の時代において、千日尼の一家ならびに、佐渡方面の門下一同が日興上人に信順できた一源流には、この千日尼の「母の信心」があったといっても過言ではないであろう。
10  以上で婦人部の部を終了して、次は、壮年部の部に移りたい。
 壮年部というのは、まことに重要というか、やっかいで、御書の仰せの通りに厳しく指導すると、耐え切れず、すぐに反逆。甘やかすと、ふらふらして、パタンと退転。本当に、女人以上に成仏が難しいのではないか――という人もいるほどで、支部長さんも、いつもご苦労さまです。つつしんで、日夜の労に敬意を表させていただきたい。
 ともあれ法華経は「随自意ずいじい(衆生の機根にかかわらず、仏が自らの悟りをそのまま説いた真実の教え)」の経である。またひとたび聞けば、信ずる者も、そむく者も、順逆じゅんぎゃくともに救われる大法である。
 その法華経の精神に立つ時、人がどうあれ、大聖人の御指南のままに、堂々と法を弘め、言うべき指導は、慈愛をもって、きちんと言い切っていくことが正しいと私は思う。
11  末代に誉れの四条金吾の生涯
 さて壮年部の代表選手といえば、やはり四条金吾である。この神奈川は鎌倉の地で活躍した模範の信徒である。
 なかには、御書に登場する金吾の年齢を、はつらつとしたイメージから、二十代、三十代の青年と思っている人もいる。しかし、現存する大聖人の御手紙を金吾が頂戴ちょうだいしたのは、四十代から五十代初めにかけてであり、支部長の皆さま方と同じ壮年時代である。
 すなわち金吾夫妻にたまわった御書の年代は、文永八年(一二七一年)――「竜の口の法難」の年から、弘安五年(一二八二年)――「大聖人御入滅」の年にいたる十二年間にわたっている。金吾は大聖人より八歳年下に当たる寛喜かんぎ二年(一二三〇年)前後の生まれと推定されている。そこで、これは金吾が数え年で四十二歳から五十三歳のこととなる。
 この年代にあって、金吾は「信仰」「仕事」「家庭」と公私にわたって、一つ一つ大聖人に、こまかく御報告しながら、指導を受け、実践していった。金吾のひたぶるな求道の姿と、その真剣さに全魂でこたえられる大聖人の御慈愛。そうした厳しくも麗しい師弟の関係は、御書の一編一編に、薫り高く伝え、とどめられている。
 私も大聖人の門下として、真剣には真剣で、誠実には大誠実で応えていこうというのが不変の信念である。
 もとより、あらゆる人に対して指導者は平等でなければならない。私も、これまで、とうてい、これ以上はできないと言い切れるほど、大切な仏子である皆さま方を守るために、懸命に働き、尽くしてきたつもりである。
 なかには、さすがに途方にくれるようなメチャクチャな人間もいた。失敗を守ってあげ、こちらが誠意を尽くせば尽くすほど、際限なく図に乗っていく、性格的に少々異常に見える人間もいた。
 しかし、ひとたび妙法に縁した以上、何としても立派に信心をまっとうしてもらいたい。成長し、幸せになってもらいたい。簡単に見放したり、切り捨てたりすることは無慈悲に通じる。その心から、すべてを見抜いたうえで、大きく包容してきた。
 その実情の一端を少しでも知っている人からは、「あまりにも人がよすぎますよ」と鋭く″批判″されることも、しばしばだった。世間の常識から見れば、想像すらできないことも無理もないかもしれない。
 ともかく、えにしのあった人には、できるだけのことをしてあげたい。私には、その心しかない。その結果、どんなに裏切られようと、何を言われようと、私自身のことはかまわない。それは、その人自身の問題であるし、私は私の信念を貫くだけである。ただ大勢の大切な仏子をいじめ、正法流布を妨げる者に対しては、厳しく戦わざるを得ない。
12  月々、日々に「求道」と「成長」の坂を
 さて、多くの人生の軌跡を見てきた私の一つの結論は、「四十代が人生の重要な岐路きろ(分かれ道)である」ということである。
 戸田先生も、何度もおっしゃっていた。「ともかく純粋な青年時代はよい。三十代の終わりから、とくに四十代なかばからが危ない。皆、だんだん自分の生命の奥深い傾向に流されるから、気をつけろよ」と。
 その後、″気をつけろ″といわれた通りの事件が起こっている。本当に鋭い、偉大な人生の師匠であった――。
 この年代に入ると、多くの人が、次第に現状に満足し、安住するようになる。停滞し下降線をたどる人もいる。自分を律することができなくなり、酒や異性や金銭、虚栄に身も心もどっぷりつかってしまう場合も多い。
 また、みずみずしさを失い、何かうまくいかないと他人のせいにして、不満をくすぶらせる。人をうらやむ。足を引っぱる――。やたらにグチる、クサる、ウラむ、イバる。本当に下り坂をころげおちてしまう人が余りにも多い。
 そうしたなかにあって、この年代になっても、謙虚に、また淡々と、自分らしく成長を続けゆく人こそ本物である。誰が見ていようといまいと、自ら決めた人生の道を、いよいよ勢いを増しながら、荘厳なる「完成」へと生きぬいていく。信心と人格のうえでも、社会人としても、あらゆる面で、一歩も退くことなく、向上の坂をたくましく上り続けていく。そこに価値ある「壮年」の生き方がある。
 ともあれ、あの余りにも有名な「月月・日日につより給へ」の御指導を四条金吾が頂戴したのは、数え年五十歳の時である。この事実を、壮年部の皆さまは自身の励みともしていただきたい。
13  苦難の山頂にこそ歓喜の青空
 さて四条金吾の大きな悩みの一つに、兄弟の問題があった。
 弘安元年(一二七八年)の御書には「兄弟にもすてられ同れいにも・あだまれ・きうだち公達にもそばめられ日本国の人にも・にくまれ給い」――(あなたは)兄弟にも捨てられ、同僚にもあだまれ、江間家の子弟にもいじめられ、日本国中の人にも憎まれておられ――と仰せである。
 金吾の壮年時代は、正法の信仰ゆえに、迫害の連続であった。絶えず「四面楚歌しめんそか」のような状態にあった。兄弟すらも味方ではなかった。
 もとより、難は覚悟のうえである。法華経に厳として説かれるごとく、大聖人が繰り返し仰せのごとく、妙法を実践すれば、難は絶対に避けられない。金吾の一身に雨、嵐と攻撃が降り注いだこと自体、大聖人のまことの門下であるあかしであった。
 迫害があればあるほど、金吾は「負けじ魂」を燃やした。″不惜身命″こそ信仰の真髄である。命をも惜しまぬ者が、悪口や圧迫など、何を恐れよう。暴風は、崇高なる信心の炎を、いやまして大きくかきたてるだけである。
14  そうした金吾も、肉親である兄弟との葛藤かっとうは、深く胸に突きささったにちがいない。
 四条家では、金吾をはじめ他の兄弟たちも、多く大聖人に帰依していたらしい。「種種御振舞御書」には「左衛門尉・兄弟四人・馬の口にとりつきて・こしごへ腰越たつの口にゆきぬ
 ――四条金吾・兄弟四人が(大聖人の)馬の口に取りついて、お供し、腰越・竜の口へ行った――と仰せである。
 「竜の口の法難」の折には、大聖人のもとにせ参じた金吾兄弟であった。
 しかし、その後も、難の逆風は吹きすさんだ。やがて一人去り、二人去りしたのであろうか。
 建治三年(一二七七年)ごろには「たのもしき兄弟なし」――頼みとなる兄弟もない――と大聖人が仰せになる状態となってしまっていた。
 兄弟のうち、一人の兄は金吾に対して、激しく敵対する存在ですらあった。
 同年の御書には「竜象と殿の兄とは殿の御ためにはしかりつる人ぞかし」――竜象房とあなた(金吾)の兄は、あなたのためには悪い人であった――と述べられている。
 竜象房については、かつてお話ししたとおり、この年の六月、桑ケ谷くわがやつ問答で負けた腹いせから、当時、多くの尊敬を集めていた極楽寺良観と結託けったくし、無実の罪をデッチあげて、金吾を讒訴ざんそ(他人をおとしいれるため、目上の人などに、ありもしないことを訴えること)した人物である。
 いつの世にも、悪は悪と結託し、権威と権力にすり寄っていく――。
 この陰謀のため、金吾は主君から勘気かんきを受け、最大の苦境におちいった。
 金吾の兄は、大聖人が、この竜象房と並べて挙げられるほど、金吾を苦しめた存在であったと考えられる。
 根も葉もない、つくりごとであっても、身内の兄まで一緒になって言いたてたとしたら、多くの人々が「さもあるらん(そういうこともあるかもしれない)」と信じてしまうのも無理もない面があったかもしれない。そのことをも計算に入れて、竜象房たちは、金吾の兄を味方に引き入れたという可能性もある。
 というのも、この兄のくわしいことは不明であるが、四条家においては、父亡きあと、弟の金吾が家督かとくを継ぎ、一族の中心的立場にあったようだ。兄としては、長年そのことに、ねたみやうらみを抱いていたと想像される。
 そして金吾の追い出しにかかった。あわよくば、自分に、おいしい話がまわってくるかもしれない――。そうした利害、打算の心を、竜象房の一味につけこまれ、引きずりこまれたことも推測すいそくされる。
15  いずれにせよ、この肉親をも巻き込んでの、悪らつな策謀さくぼうにも、金吾は決然と戦った。大聖人の仰せのままに、真正面から挑んでいったのである。この時、金吾は四十八歳。分別ざかりの年齢である。
 「信仰を捨てる」と一筆、主君に差し出しさえすれば、地位も財産も安泰となり、すべては、まるくおさまる――そういう状況であった。しかし金吾は、「誘惑」には目もくれなかった。毅然きぜんとして青春時代からの信仰の道を歩み通した――。
 信仰とは、いかなる圧迫にも、また誘惑にも負けないことである。悪の汁は甘い。ひとたび味をしめれば、急速に信心の「心」を破っていく。
 信仰とは、むしろ、より厳しい方へ、激しい苦難へと、勇んで進みゆく生き方にある。そこにこそ、人間としての崇高すうこうな輝きもあり、成長もある。
 「仏法と申すは勝負をさきとし」とは、嵐の渦中にあった金吾への大聖人の御指南である。その御言葉通り、金吾は、やがて見事に、すべてを乗り越えた。「勝利」は歴然であった。
 大聖人は「天の御計いに殿の御心の如くなるぞかし」――諸天の御はからいによって(竜象房とあなたの兄のことも)あなたの思う通りになりました――と、記るされている。
 悪僧・竜象房の黒いたくらみも、ついに敗れた。兄に苦しめられることもなくなった。
 最大の苦難を乗り越えた金吾は、やがて、それまで以上の見事なる、輝かしい境涯を開いた。所領は増え、人々の信用も増した。何より、信仰を貫いた胸中には、このうえなく、さわやかに、晴れ晴れと青空が広がっていたにちがいない。
 広布に進めば、難がある。それは避けられない、成仏への必然の道程である。その山を登りきれば、広々とした自身の境涯が開けてくる。その、繰り返しが仏道修行である。いわば成仏させてくれるための苦難の山である。その、ありがたい存在に、文句ばかり言っている人がいる。
16  時とともに輝く大果報の人生
 しかも大聖人は、金吾に次のように御約束してくださっている。
 「此は物のはしなり大果報は又来るべしとおぼしめせ」――こうした功徳は、まだ、ほんのはじまりにすぎない。大果報は、また後にくると思っていきなさい――と。
 何と希望に満ちた、ありがたい御言葉であろうか。
 いさぎよく信心を貫き通した福徳は、あとになればなるほど無限に広がっていく。反対に、退転の人生は、時がたてばたつほど、苦しみの境涯となり、末代にまで汚名おめいを残す。これが大聖人の仏法の厳たる法理である。
 仏道修行は厳しい。進めば難の山が、退けば苦悩の境涯が待っている。″私は、どちらも無いのがいい″といっても、どうしようもない。もう男らしく、あきらめて、金吾のごとく決然と、前へ前へと進んでいっていただきたい。そして「大果報」の人となって、人生と信仰の勝利を、堂々と示しきっていかれんことをお願いしたい。
 ただ、自身の勝利は勝利として、信仰の道を退転し師に敵対した兄弟の哀れな末路を思うたびに、金吾は深く胸を痛めたことであろう。まして亡き父母のことを考えると、一家の中心者として実に苦しい思いであったにちがいない。それほど肉親の情は深く、重いものである。
 しかし、そうした金吾の人知れぬ心痛を、大聖人は見通されていた。大聖人は次のように仰せである。
 「とののあにをととはわれと法華経のかたきになりて、とのをはなれぬれば、かれこそ不孝のもの、とののみにはとがなし」(昭和新定・日蓮大聖人御書1975㌻)――あなた(金吾)の兄と弟は、自分から法華経の敵になってあなたから離れていったのだから、彼らが不孝の者であって、あなたの身には罪はない――と。
 大聖人のこの一言によって、金吾はどれほどか、心の重荷が取り除かれる思いであったことだろう。
 これこそ大聖人の御指導の偉大さである。むやみに人々の心に重圧を与え、苦しめるようないき方はまったくの間違いである。反対に、圧迫感や苦しみをどう軽くしてあげるかをつねに考え、激励を重ねていく――ここに指導者の大切な姿勢があることを知らねばならない。
 そのうえで大聖人は、次のように続けておられる。
 「所領もひろくなりて候わば我りやうえも下しなんどして一身すぐるほどはぐくませ給へ。さだにも候わば過去の父母定んでまほり給ふべし」(昭和新定・日蓮大聖人御書1975㌻)
 すなわち残された一族の、とくに女性たちに対しては――あなた(金吾)の所領も広くなったのであるから、自分のかてを与えるなどして、身に過ぎるほどの世話をしてあげなさい。そのようにすれば、今はなき父母は、必ずあなたを守ってくださるでしょう――との、どこまでも現実に即した具体的な御指導である。
 四条金吾という人は大変に剛毅ごうきで、勇気のある門下だったが、反面、女性の立場になって物事を考えるような繊細な心の持ち主であったかというと、そうともいえないようだ。
 大聖人は金吾に対し、残された女性たちをどこまでも、おおらかに包容し、守っていくよう御注意されたのである。ここに、一族が再び雄々おおしく立ち上がり仲良く前進していけるようにとの御本仏の深い慈愛の御心が感じられてならない。
 ともあれ、現代にあっても四条金吾のように兄弟や親族が退転するケースがあるかもしれない。しかし、そうした場合も原理は同じである。金吾のごとく毅然と立ち上がる″勇者″が、一族に「一人」いればよいのである。その本物の「一人」の信心によって、一族を皆、救っていくことができる。これが妙法の世界の大きさであると申し上げておきたい。
17  最後に、神奈川の婦人部の皆さま方にとって信心の″大先輩″ともいえる鎌倉の日妙聖人母娘ははこに送られた御書の一節を拝したい。
 ご存じのように日妙聖人は、幼い娘の乙御前おとごぜんを連れて、はるばる鎌倉から佐渡まで大聖人をおたずねした婦人である。大聖人はこの婦人の純真な信心を「日妙聖人」とまで呼ばれたたえられている。
 大聖人は日妙聖人母娘に対し、こう仰せになっている。
 「日蓮をば日本国の上一人より下万民に至るまで一人もなくあやまたんと・せしかども・今までうて候事は一人なれども心のつよき故なるべしと・おぼすべし」――この日を、日本国の上一人より下万民にいたるまで一切の人々が害しようとしたが、今までこうして無事に生きていられることは、日蓮は一人であっても信心の「心」が強いゆえに諸天が守護されたのだと思ってください――と。
 「一人なれども心のつよき故」――。ここに、一切の苦難を乗り越え広布と人生を勝利に導いていく要諦がある。たとえ日本国中から命をねらわれ、あるいは誹謗・中傷されることがあっても、妙法をたもつ「一人」の強き信心の「心」さえあれば、必ず打ち勝つことができる。このことを大聖人は、もったいなくも御自身の御姿を通して示してくださった。門下である婦人とその娘に″私の姿をみて確信していきなさい″と、あえてさとすように教えられているわけである。
 広布にまい進する私どもの根本精神も、またここにある、と強く申し上げておきたい。
18  ともあれ、たとえ自分の周囲の「城」がすべて破られても、ただ一人でも、信心という我が胸中の最極さいごくの「心の城」を堅固に、厳然と守り、たもっていっていただきたい。
 それさえあれば、必ずやその「城」に、数多くの″正義の騎士(ナイト)″や″幸福の女王″たちが集い、広布の法戦へと飛び立ち、今まで以上の新たな勝利の道を開いていくことができる。それが偉大なる妙法の力用りきゆうであり、大聖人の仏法の精髄せいずいであると申し上げ、神奈川の皆さまの一層のご多幸とご活躍を念願し、本日のスピーチを終わらせていただく。

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