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日蓮大聖人・池田大作

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第二回全国婦人部幹部会 平凡にして偉大な母に幸あれ

1988.6.7 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

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2  さて、きょうは家族的な雰囲気で、懇談的に「母」をテーマにお話ししたい。
 先日の夜、私は車で民音(民主音楽協会)の前まで行くことがあった。何人かの職員がまだおられたようであったが、時間の都合から中には入らず、せめてものねぎらいの伝言を託して帰ってきた。
 その途中、ちょうど車が新宿駅前にさしかかると大きな映画の看板が目に入った。
 「母」と「父」という二本の映画のタイトルで、「母」の監督は松山善三氏、「父」の方は木下恵介氏であった。
 松山氏は私の大切な知人の一人であり、ご活躍をいつも念じている方である。現在六十三歳。私と、ほぼ同時代を生きてこられた。
 戦後の激動の社会にあって私の二十代は、人生の師・戸田先生にお仕えする日々であった。ちょうど同じころ、松山氏は師と仰ぐ木下恵介監督のもとで助監督を続けておられた。いつもながら思うことは、どんな世界であれ、師匠という存在がいるということである。
 松山氏は、私が第三代会長に就任した翌年の昭和三十六年に、初めて監督を務め、名作「名もなく貧しく美しく」を発表されている。
 さらに氏は、三年前、私どもの広布の運動をテーマに取材してまとめた一書「ああ人間山脈」(潮出版社刊)を上梓じょうしされている。氏はその取材のためにアメリカのハワイ、サンジエゴ、アフリカのガーナにまで足を運ばれた。そして一年半の歳月を、各地の第一線のメンバーの中に飛び込み、メンバーとともに行動し、語り合いながら取材を重ねてくださった。
 ともかく丹念に真実を追求する誠意と行動があってこそ、本物の言論であるといえよう。松山氏のことに触れたのも、氏が貫いてくださった誠実に対するご恩返しの一分にでもなればと思ったからである。
3  映画といえば私自身はこの十数年間、映画館に行く機会がないが、もう二十年ほども前であろうか、大晦日おおみそかに数人の幹部と映画を見に行ったことがある。私も多忙のため、やっとスケジュールがあいたのが年末の一日で、しかも、そのときは映画館はガラガラ。
 そういう思い出はともかく、この映画「母」も私は見には行けないが、物語をまとめた本(松山善三・藤本潔著「母」、ひくまの出版)はすぐに読ませていただいた。大筋は実話に基づいているようであるが、私も感銘し、心に残るものがあった。そこでこの松山氏の新作「母」の内容をテーマに話を進めさせていただきたい。
 なお、うれしいことにこの映画では二人の芸術部員が、一人は新進の女優として、もう一人は音楽担当として活躍されていることも私は知った。
4  今回の「母」という作品は、師匠の木下恵介監督の映画「父」とあわせての同時上映である。「父」の方は、ほのぼのとした人情喜劇という。つまり、しっかり者の強き″母″と、ダメオヤジの″父″を描いた二本立てである。
 うちとまったく同じだと、へんなところで納得する方もおられるかもしれない。どういうわけか、日本全国、全世界、いくじのない父親と、勇ましい、いな強き母親との二本立てのご家庭が多いようだ。これは久遠元初くおんがんじょ以来変わらざる実相だという人もいる。
 ともあれ、「父」と「母」で、「笑い」と「涙」の″師弟競作″という趣向になっている。
 しかし松山氏は淡々として語っておられる。
 ″人は何と言おうと、木下監督は日本一の監督です。競作といっても、自分はかないっこないので、まったく意識していません″と。
 まことに、さわやかである。謙虚さがあり、心の深さがある。いずこの世界であれ、ひとたび決めた「師弟の道」に生きぬく人の姿は美しい。また尊く、常に新鮮な向上の人生となる。
 動物にも親子はある。兄弟もある。夫婦や友人もあるかもしれない。しかし、師弟という永遠のきずなは人間だけのものである。ゆえに師匠なき人生は、人間として余りにもさびしい。
 師を慕い、師に近づこうと努力し続ける一念こそが、自分自身に限りない成長をもたらす。また我が心をどこまでも豊かに開き、深く掘り下げてくれる。そして豊かな心には豊かな人生、深き心には深き人生の味わいがある。
5  私どもは日蓮大聖人の門下である。師匠である大聖人の御生涯は大難、小難、数限りない連続であられた。
 私どもの人生もまた、仏法の正義のため、広宣流布のために難があればあるほど、それこそが門下としてのほまれである。正しき師弟の道を歩んでいる証左なのである。難を受けるたびに、大聖人の御境界を、少しでも深く拝することができる。これほどありがたいことはない。これほど深き人生もない。
6  ″心″強き母たれ
 さて、「母」の話である。今は、テレビがあるし、多忙でもあり、あまり映画もごらんになれないかもしれない。婦人部の方々は、とくに「母」と聞いても、「私、長いこと″母″をやってるから、もう″母″の話は十分だわ」、「むしろ結婚してから、あまり関係なくなった甘い恋愛の話が見たい」、「いや、″何とか殺人事件″もある」等々、いろいろご意見、ご要望もあると思う。
 それはそれとして先日、第一回の婦人部幹部会の折に「自由」の問題をお話しした。「母」に込められているテーマは、これにも関連しており、その意味からも、少々、物語を紹介しておきたい。
7  昭和三十年秋。舞台は東北のある山村である。山は紅葉に美しくいろどられ、秋風にコスモスの花がゆれている――。たまには、こういう詩的な話もいいでしょう。
 主人公の母は、元気な働きもの。学会の婦人部そっくりと思っていただきたい。父親は無口――というから、母の方はおしゃべりなのかもしれない。これまた婦人部と似て――これ以上はやめておきましょう。無口だが頼もしい夫と、わんぱくな五人の子供たちに囲まれ、農作業と子育てに、母は毎日、忙しく追われていた。平凡だが仲の良い幸せな家庭だった。
 しかし、ある日、突然、不幸がこの一家を襲う。村祭りの騎馬戦で、夫が大ケガをしたのである。脊髄せきずい損傷そんしょうで、全身マヒの体になってしまった。もはや自分では何もできない。
 赤ん坊同然の身となった夫。しかし絶対に生きぬいてもらいたい。できることは全部してあげたい。母は決意する。十分な看護をしてあげなければならない。そのためには――。
 ある日、母は子供たちを全員集め、宣言した。
 「おら、おまえらのおかっちゃを、今日かぎりでやめる」と。
 「お母ちゃは、おとっちゃのいのちば守る……おまえらは、みんな仲よく助け合って、勝手にでかくなるんだ。勉強も掃除も洗濯せんたくも、みんな自分でやれよ……いいな、わがったな」
 こう聞いて、「よし私も母親をやめよう」などと発心してはいけない。「『今日かぎり、子供の面倒はみない』なんて、私も一ぺんでいいから″宣言″してみたい」と思う人もいるかもしれないが。
 多忙であっても、なすべき我が家のことを、すべてやりきるのが正しき信心である。また、やりきれる力を妙法は無限に開いてくれる。信心を根本にした場合には、一切が自分を大きく育ててくれる大切な栄養となる。
 ともあれ、″母親をやめる″――それは満足な看護に徹するための、ぎりぎりの選択であった。
 こうして母は一切の野良のら仕事とともに、夫につきっきりで、三度の食事や、しもの世話、オムツの洗、また全身マッサージと、看病に献身しきっていく。たとえ夫とはいえ、もとは他人である。誰にでもできることではない。
 現代は家族の絆も、もろくなったのか、こうした献身は、はやらないようだ。ひどい場合には「いやなジジイ!」などと、一言で捨て去ってしまうかもしれない。一事が万事、荒廃しきった心の世相である。
 たしかに騎馬戦でケガしたオヤジさんも、オッチョコチョイかもしれない。しかし事故でもあるし、責めるわけにはいかない。
8  人生の最終章に「私は勝った」の笑顔
 ともあれ、育ちざかりの子供をかかえながら、夫に倒れられる。それがどれほど大変なことか――。それは私にも体験上、痛いほどよく分かる。
 『私の履歴りれき書』の本にも書いたが、私が小学校二年の時、父がリューマチで倒れた。以来二年間、寝たきりであった。家業の海苔のり製造業も縮小せざるを得ない。生活は窮乏きゅうぼうを重ねた。多くの子供をかかえた母の苦労は並大抵ではなかった。しかし、そうしたなかにあって、母はつとめて朗らかに「うちは貧乏の横綱だ」と笑って語っていた。
 この母の明るさに、一家がどれほど救われたことか。母は強い。良き母は文字通り、「一家の太陽」である。
 父親の方は、「一家の柱」――であるような、ないような、男性には申しわけないが、いばってばかりいて邪魔でしかたがないという嘆きの声も多いようだ。
 その母も十二年前、八十歳で天寿を全うした。亡くなる一週間ほど前、見舞いに訪れた私に、母は言った。
 「私の人生は勝ったよ」と――。
 苦労に苦労を重ねた母の人生だった。しかし、「私は勝ちましたよ」、それが最後の一言であった。私はうれしかった。
 人生の勝敗は最終章で決まる。途中、どんなに華やかでも、最後が敗北ではしかたがない。見せかけの虚勢で自らを飾っても、最後が苦しみの境涯となっては何のための人生か――。
 皆さま方は、一人も残らず、最後の最後に、「私は勝った」「私は幸せだった」と笑顔で言い切れる一生涯であっていただきたい。そのために、信心の「心」だけは絶対に退してはならない。
 こうした少年時代の体験があり、また私自身も病弱であった。ゆえに病気の人、病気の家族をかかえた人の苦労は、人ごととは思えない。また、ある程度、深く理解できるつもりである。そうした意味で、過去の、すべての労苦が、現在、指導者としてかされていることを実感する。むしろ苦労に心から感謝している。これが、いつわらざる私の心境である。
9  社会には、映画「母」の一家のような不幸は数限りなくある。日本でも、世界でも、庶民には苦労のえる間がない。その最大多数の庶民のために立ち上がり、庶民のなかで、庶民とともに苦楽を分かちあって、生き、死んでいってこそ真実の指導者である。
 ところが、社会のため、悪しき権力の横暴からタテとなって民衆を守るためにエラくなったはずの人間が、どうしたわけか突然、回れ右して、攻撃の向きを民衆の方に向け、そのくせ口では大声で″権力と戦う″等と騒ぎはじめるのだから、転倒というか何というか、何がなにやら通常の頭脳では、みな、わけが分からない。
 聞くところによると、どうも、突然の″逆噴射ふんしゃ″、方向転換と思ったのは、浅い見方で、長いこと陰では、民衆を利用し、いろいろと、こまめに動き信頼を裏切っていたらしい。そうすると、筋は通っているというべきか、何となく″一貫性″があるような気もしてくる。
 学会は民衆の団体である。歴史上、長い間、権力にしいたげられてきた庶民と庶民の集いである。この民衆の幸福へのとりでを破壊しようとする者が、いったい誰の味方なのか。賢明な民衆の英知は鋭く見破っていくにちがいないと私は確信する。
10  苦労こえてこそ深く、豊かな境涯
 さて、五人の子供たちはどうなったか。彼らは父に甘えることもできない。母に甘えることもできなかった。学校のことから、冬の雪おろしまで、全部、自分たちでやらねばならない。役割分担を決めた。兄弟姉妹で力を合わせた。ぐちをいっている余裕など全くなかったにちがいない。
 彼らの胸には、いつも懸命に生きぬいている父と母の姿があった。支え合い、必死に一日一日を送っている両親の背中が、心の真ん中に焼きついていた。そして、やがて、それぞれ独立し、立派に社会へと巣立っていったのである。
 この母は、実に三十六歳から六十四歳までの二十八年間、一日も休むことなく寝たきりの夫の看病に徹した。
 その途中には、夫を殺し、自分も死のうと思ったこともあった。また、すべてに疲れ果てて、夕暮れの野に、何かにつかれたように、一人しゃがみこむときもあった。
 だが母は、死への思いを断ちきって「おとっちゃの命ば守る」という、子供たちとの約束に生ききった。そして夫は、寿命を全うし、安らかに息を引きとることができた。
 父の葬儀に集まった子供たちの前で、老いたる母は「自由の女神」を見に、ニューヨークへ行くと言いだした。
 もう年も六十四歳。生まれ育った農村から、一度だって、一歩も外へ出たことのない母である。それが、何を思ったか「ニューヨーク」。いいですか、入浴にゅうよく銭湯せんとうではなく、アメリカのニューヨークに行きたいと。子供たちは、あっけにとられる。とうとう頭がおかしくなったかとは書かれていなかったが、子供たちは全員、冗談と思って笑いとばしていた。
 しかし、母は真剣であった。ついに、一人で、その夢を実現する。そして帰国して、娘に次のように語ってきかせる。
 「自由の女神ちゅうから、わだすは、どこへでも飛んでゆく女神かと思ったら、おらとこの田んぼよりも、ちいせぇ島に、ボヤーッとつっ立っているだけでねぇの……面白くもねぇ。わだすと同じだ……」と。
 皆さんは笑っておられるが、ここでいわんとしているのは、″自由といっても、それは心の中にある″――これが、ニューヨークに行って母のつかんだ一つの結論であったわけである。
11  母は再び山村に戻り、一人で暮らし始めた。だが、その姿は以前と変わっていた。
 なんと若者のジーンズとスニーカーを身につけ。スニーカー――そういわれても、私には、何のことか全く分からなかった。若い人に、どういう意味だと聞くと、大笑いしながら教えてくれた。また、この偉大なる母は、アメリカの国旗をマフラーがわりにしていた。その姿が想像できますか。とてもおおらかで、素晴らしい。こういう人は学会の中でも、時折見かけることがある。
 今、笑っている若い皆さん方も、いつかこの母のような年齢がやってくる。そのときにこそ人生を楽しみながら、朗らかに生きる豊かな晩年であっていただきたいと思う。
 そして、場面は早春の光に包まれた麦畑。ジーンズにスニーカーをはいた白髪の母は、マフラーがわりのアメリカ国旗を手に、ラジカセから流れる軽快なロック・ミュージックに合わせながら、踊るように麦踏みをしている。映画はそのシーンで幕を閉じる。
 村の春は希望にあふれている。″ウインター・イズ・オーバー(冬は終わり)、アンド・スプリング・ハズ・カム(そして、今は春)、ザ・サンシャイン・イズ・ブライト(陽光はキラキラと輝いている)″。同じ麦踏みでも、ロックのリズムに乗って、楽しく麦を踏んでいる。まさに人間の生きる知恵の素晴らしさをほうふつとさせる。
 陽春の輝きに包まれた、思わずみを誘われるような母の光景は、労苦の中を生き抜いてきた人生の美しさと、母としての勝利の姿を象徴しているように、思えてならない。
12  胸中に「自由」と「幸福」の太陽を
 夫の生命を守り抜くための、二十八年間もの看病。おそらく男性にはとてもマネのできないことであろう。この点は、女性にはかなわない。
 だが、この母にしても、時には夫も、子供も、すべてを捨てて、どこか″自由の世界″へ逃げ出したいと思うこともあったであろう。しかし、彼女は、あくまでも、現実の大地に根を張って、そこに生ききった。その生き方には、悔いはなかったにちがいない。そして、見事に、人生に勝ち抜いたのである。
 そばで見ている人には、何と割の合わない、不自由の人生と思えただろう。しかし、彼女は彼女らしく、その胸中に、確かな「自由」と「幸福」の実感を勝ちとっていった。
 ここに私は、仏法、そして信心の生き方に通じる人生の姿が感じられてならないのである。
13  「自由」も「幸福」も、限りない奥行きと、広がりをもっている。人は、とかく財産、名誉、社会的地位を望み、利害で物事を決めていこうとする。しかしそれだけで「自由」や「幸福」が測れるものではない。
 外面的な華やかさや豊かさは決して永遠ではないし、常住でもない。いつかは消えゆく、はかない虚像にすぎない。
 最近の若者は、よく″んでる″とか″翔んでない″というらしい。″飛行機が飛んでいることかな″と考えてもみたが、これまた、私には、なかなか感じがつかめない、若い人たちは、新鮮な感性で、新しいものをどんどんつくり出していく。また、実によく知っている。同じように真剣に、御書を研さんし、信心を深めてもらいたいとも思うが、この″翔んでる″とは″個性的な″との意味もあるらしい。
 そこで、松山善三監督の描く「母」を、最近の言葉でいえば、最も″翔んでない″(個性的でない)ようにみえた母が、実は最も″翔んでる″(個性的な)女性だった、といえるかもしれない。
 突然、彼女のような生き方を、といわれても、なかなかできるものではない。もちろん、そういう人生を押しつける必要もない。また「看病」という面をみても、福祉の充実もあるし、社会的側面からいろいろ考えていかねばならない問題でもある。
 それはそれとして、「人間」を知り、そして、平凡にして偉大な「母」に対して、敬虔けいけん会釈えしゃくしゆく松山氏の心を、この「母」の物語から、私は感銘深く、感じとった次第である。
 私も数多くの「広布の母」の人生ドラマをみてきた。また、信心の功徳の人生をつづった手紙もたくさんいただいている。そうした素晴らしい人生を歩んでこられた方々があまりにも多いことを、私は、心の底からうれしく思っている。私どもは婦人部の方々を最も大切にし、温かく励ましていくべきである。
 しかし、なかには妙法の同志の信心をゆがめ、破和合僧を引き起こそうとする、「夜叉女やしゃにょ」の眷属のような女性もいた。これこそ最も危険な存在である。むしろ、そういう人間は学会からいなくなったほうがよいのである。そうでないと、清らかな信心の世界がいつしか濁流に染まり、破壊されていくからである。
 ゆえに信心の指導にあっては、悪の生命の本質を鋭くとらえ、その不幸になりゆく生命を破していくものでなくてはならない。
 そうであってこそ相手は心から懺悔さんげし自らの生命を直していこうとする。また逆に、反逆の心をあらわにする場合もある。しかし、それも妙法を根本とするとき、いったんは罪におちても、必ず救われていくのである。
14  ともあれ、皆さま方のなかには、この松山氏の描く「母」のような人生を歩んでこられた方もおられるであろう。また、将来、そのような立場になる方もおられるかもしれない。そうしたとき、この「母」の生き方を思い起こして、宿命に負けない婦人としての生涯を生き抜いていただきたい。
 婦人部の皆さま方は、広布の礎ともいうべき大事な方々である。だからこそ、私もそのために題目を送りたいし誰よりも幸せになってほしい、との思いで、この「母」の話をさせていただいた。
15  法華経に明かす「女人成仏」の法理
 さて、先日の「母の日」(五月八日)に、大聖人の故郷に住む一人の婦人の話を紹介した。それは、夫に先立たれ、さらには最も大事にしていた息子も、武士として非業の死を遂げた、光日尼のことである。この光日尼が大聖人の励ましを受けて、悲しみのふちより立ち上がったことは、その折に申し上げた通りである。
 本日は、彼女がその後、どのような人生を送っていったかを少々述べたい。七百年後の今日、それはあくまでも想像の域を出ない。が、ある年の秋、大聖人が光日尼に送られた一通の御手紙から、その一端いったん推測すいそくすることができる。
 大聖人は、その御手紙の中で、彼女の見事な凱歌がいかの人生を、栄冠の人生を、厳然と証明してくださっている。
 すなわち、「三つのつなは今生に切れぬ五つのさわりはすでにはれぬらむ、心の月くもりなく身のあかきへはてぬ、即身の仏なり・たうとし・たうとし
 ――三つの綱は、今生において切れました。五つのさわりもすでに晴れたことでしょう。心の仏性の月は、くもりがなく、身の罪障であるあかも消え果てました。あなたは即身の仏です。まことに尊いと――。
 ここに仰せの「三つの綱」とは、いわゆる「三従さんじゅう」のことである。女性は古来、儒教じゅきょうなどで、「幼い時は父母に、嫁いでからは夫に、老いてからは子に」それぞれ従わねばならない。そのため、女性は一生、自分の心の思うようには生きられない、とされていたのである。
 また「五つの障り」とは、法華経以前に説かれた爾前権経において女性に備わるとされた、「五障」をいう。すなわち女性は、「梵天王」「帝釈」「魔王」「転輪聖王」「仏身」の五つになれない、とされた。現在でいえば、政治的、社会的などさまざまな分野で、指導者にもなれないことを意味していたともいえようか。いずれにせよ、「女人不成仏」を象徴しているのが「五障」であった。
 このように、外典や爾前経では、女性は「五障三従」として差別されてきた。しかし、法華経において、「女人成仏」の法理が明確に説き明かされ、そうした差別は打ち破られる。まさに法華経こそ、生命という根本的次元における、「女性解放」の大いなる原典といってよい。
 ともあれ、夫と息子に先立たれた光日尼は、深い悲哀の人生であったにちがいない。毎日を、悲しみの涙で送るような境遇にあったかもしれない。
 しかし彼女は、決して信仰を捨てなかった。妙法を抱きしめながら、毅然きぜんとしてその宿命の鉄鎖てっさを断ち切っていく。不幸の暗雲を払いのけていった。
 この姿を、大聖人はじっと見守っておられた。そして、胸中の天空に、名月が美しくえわたるがごとく、見事な成仏の境界を開かれたとたたえられている。「即身の仏なり・たうとし・たうとし」――。なんとありがたい御言葉であろうか。
 光日尼は、一人の名もない、平凡な母であった。その彼女が、立派に信心を貫き通し、勝利の姿を示したことを、御本仏は最大に称賛されている。
16  光日尼と同じく、皆さま方も、これ以上はないという大満足の境涯を限りなく開いていける方々である。
 信心を強盛に貫けば、大なり小なり、必ず難がある。三障四魔があり、三類の強敵が出現することは経文と御書に示されたとおりである。
 実は、その激しき「風」によってこそ、我が生命をおおう暗き宿命的な「雲」が、すべて吹き払われる。そして晴れわたる胸中の大空を、たえなる名月が皓々こうこうと照らしゆく。また「自由」と「幸福」の太陽が力強く昇っていく。
 ゆえに私どもは、大いなる″風″に、かえって感謝すべきである。御書には「大難来りなば強盛の信心弥弥いよいよ悦びをなすべし」――大きな難が来れば、強盛な信心の人は、いよいよ喜んでいくべきである――と仰せである。
 何があろうとも、″難即安楽″″難即成長″のあかしを、堂々と、朗らかに示しきっていける一生であっていただきたい。
17  妙法受持によって開かれる悠々たる境涯について、大聖人は、次のようにも仰せである。これは、流罪の地・佐渡で門下となった最蓮房さいれんぼうにあてた御抄の一節である。
 「我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見・本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事うれしとも申す計り無し申す計り無し
 ――私たちの門下となる人は、一歩も歩まないうちに、天竺の霊鷲山りょうじゅせんを見、本有の寂光土へ昼夜に往復されるということは、言いようがないほどうれしいことである――と。
 すなわち、「寂光土」といっても、どこか遠いところにあるのではない。御本尊に南無し、仏道修行に励んでいくならば、我が生命に仏界という最高の境界を涌現できる。そしてその住処を、常寂光土へ、無上の宝処ほうしょへと輝かせていくことができる。
18  母の信心は一家を照らす
 さて、御書を拝しつつ、もう少々、話を続けさせていただきたい。
 大聖人の門下に、病身の夫を抱えながらも、純真にして潔い信心を貫いた婦人がいた。以前にも紹介した御文だが、まことに感銘深い御言葉であり、あえてもう一度、拝しておきたい。
 「過去の宿習のゆへの・もよをしによりて・このなが病にしづみ日日夜夜に道心ひまなし、今生につくりをかせ給ひし小罪はすでにきへ候いぬらん、謗法の大悪は又法華経に帰しぬるゆへに・きへさせ給うべしただいまに霊山にまいらせ給いなば・日いでて十方をみるが・ごとくうれしく、とくにぬるものかなと・うちよろこび給い候はんずらん
 ――(あなたの夫は)過去の宿習のゆえに、それが因となって、この長く重い病気にかかられ、(その病によって)日夜ひまなく仏道修行に励まれています。(それゆえ)今生につくりおかれた小罪はすでに消えてしまったことでしょう。謗法の大悪もまた、法華経に帰依されたことにより、消え失せることでしょう。やがて霊山に参られたならば、太陽が出て十方世界を見晴らすようにうれしく、″よくぞ、早く死んだものだ″と、喜ばれることでしょう――。
 ″よくぞ、早く死んだものだ″といっても、もちろん早死にを勧めた御文ではない。この最高の法をたもち、行学の実践に励んだ人は、今生にあって、あらゆる罪障を滅していくことができる。たとえ亡くなったとしても、宇宙の仏界と一体になり、赫々かっかくたる太陽が全世界を照らし出すような悠々たる歓喜の境涯を楽しんでいくことができるとの御指南である。仏法の生命観の深さ、また生命の不可思議さ、広大無辺さが、私には強く感じられてならない。
19  この婦人の夫は、重い病をわずらい、すでに長きを経ていた。近づいてくる「死」を前に、夫妻の心は不安と恐怖に揺れ動いていたにちがいない。
 そうした夫妻に対し、大聖人は、理を尽くし、真心を尽くして励まされ、妙法の信仰者の成仏は絶対に間違いないことを述べられている。一家が、どれだけ勇気づけられたことか。また心がどれほど広々と晴れわたっていったことか。
 このように平凡な庶民の一人であっても全魂を注いで激励される姿に、御本仏の大慈大悲が拝されてならない。悩める一人のために、どこまでも力を尽くし、奔走しゆくところに、仏法者の本義があり、真実の姿がある。
 ともあれ、三世の生命を説き明かした妙法は、永遠の生命力の源泉である。私どもは、自らの宿業を悠々と転換しながら、「所願満足」の最高の人生の軌道へと入っていくことができる。ゆえに何があろうと、堂々と、また朗らかに、使命の道を進みゆけばよいのである。
20  やがて、この婦人の夫は亡くなる。この残された妻と娘に対して与えられたとも拝察される御手紙のなかで、大聖人は次のように仰せである。
 「されば故入道殿も仏にならせ給うべし、又一人をはする・ひめ御前も・いのちもながく・さひわひもありて・さる人の・むすめなりと・きこえさせ給うべし、当時もおさなけれども母をかけてすごす女人なれば父の後世をもたすくべし
 ――(あなたが純粋な信心を貫いているので)故入道殿も成仏されるでしょうし、また一人おられる姫御前は寿命も長く、幸福で、さすがあの人の娘よと、うわさされるようになるでしょう。(姫御前は)今も幼いのに母御前に孝養を尽くされるほどの女人ですから、故入道殿の後世をも助けられるでしょう――と。
 ここで大聖人は、まず婦人の信心を心から称賛され、″あなたの信心が健気けなげで立派であるからこそ、亡くなったご主人は必ず成仏しますよ。かわいい娘も、亡き父の分まで長寿で、幸せな人生を送れますよ″と述べられている。
 長年にわたり病身の夫の面倒をみつづけ、幼い娘を育てながら信心を貫いてきた母親こそ、家庭にあって最も悩み、苦労してきた存在であったろう。
 だからこそ誰よりも幸せになり、誰よりも素晴らしき人生を歩んでほしいとの大聖人の御慈愛が、私は胸に迫ってきてならない。
 今日、広布のために誰よりも苦労し、奔走されている婦人部の皆さま方こそ、最も幸福となりゆく権利と資格を有する方々であると、私は心から信じ、また念願している。
 さらに大聖人は、娘も、夫妻の尊き信心の魂を受け継ぎ、親の後世を助けていくでしょう、と。一家における信心の清流は、親から子へと確かに引き継がれ、いわば、一族が、三世永遠の″妙法の幸の軌道″に入っていくことを示されている。
 私どもの信心は、自分自身の幸せは当然のことながら、一家の、そして一切衆生の幸福と安穏をも実現していく道である。
 懸命なる広布への行動は、我が子供たちをも、使命ある後継の大樹へと育て、隆々たる子孫の繁栄と永遠の幸福を築く原動力となっていくのである。
 時には子供たちから″きょうは、お母さん、ご飯の火もつけていかなかったわ″″きょうの打ち合わせは、ずいぶん、長かったのね″などと叱られることがあるかもしれない。
 むろん、妻として、母としての努力は当然である。しかし、子供たちにとって、多少、多忙で、家にいる時間が少ないお母さんかもしれないが、大きくなるにつれ、広布のために働く母親がいかにありがたいかを、深く理解し、感謝していくにちがいない。
21  信心の心清き生涯を
 最後に、次の御抄を拝しておきたい。
 「母尼ごぜんには・ことに法華経の御信心のふかくましまし候なる事・悦び候と申させ給候へ」――母尼御前が、ことに法華経の御信心の深くあられることを、(大聖人が)大変喜んでいると、申し伝えていただきたい――。
 簡潔かんけつで、何気ない御文であるが、まことに感銘深い御言葉である。
 ここに仰せの「母尼御前」とは、南条時光の母のことである。彼女は、日々、仏道修行にまじめに励み、同志とともに、また若き青年たちとともに、広布のために活躍していたのであろう。その姿を、大聖人は心から喜ばれ、称賛されている。その御心を、是非とも母御前にお伝え願いたいと、子息に真心の伝言を託されたのである。
 この婦人は、当時としては、それなりの年配であったろう。今でいえば、さまざまな経験を重ねてきた指導部の方々にあたるかもしれない。第一線の活動は、すでに後進に託し、青年らの活動の支えに徹していたのかもしれない。
 まさに、信心は年齢でもない。地位でもない。信仰の年数だけでもない。みずみずしく仏法を求め、信心を深めていく姿は、誰びとであれ、たえず大聖人が御照覧であられる。ゆえにいかなる立場であっても、いかなる年齢となっても、信心の「心」だけは清らかに、生き生きと法を求め、妙法を唱えていくことだ。ここに、御本仏の称賛を受け、限りなく幸の境涯を深めゆく要諦ようていがある。
 ともあれ、地域の婦人部の方々に、くれぐれもよろしくお伝え願いたい。第十八回総会が、無事故で大成功を収めゆくよう重ねて念願するとともに、お一人お一人が、さらにご家族の皆さまが、ますます、幸福に輝いていかれるよう心から祈念し、本日のスピーチとさせていただく。

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