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日蓮大聖人・池田大作

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第四回全国青年部幹部会 仏法は人類の希望の光

1988.5.28 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

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2  私が全魂込め、スピーチするのは、諸君に少しでも、信心の精髄せいずいを学んでもらいたいからである。草創期にあっては、青年部は剣豪の修行のごとく、峻厳しゅんげんに教学と取り組み、徹底的に研さんに励んだ。近年は、そうした気風も、かなり薄らいでいるように思う。それだけに、きょうのような機会には、仏法の精髄や正宗の清流について、論じておきたいと思う。
 諸君の前途は、大いなる″希望″の連続である。信心とは、いかなる苦難の山も、悲嘆の谷も、悠々と乗り越えゆく原動力であり、そのための「法則」である。
 諸君もご存じの通り、私は十九歳で入信した。貧しく、平凡であるうえに、病弱でもあった。胸をわずらい、何回か喀血かっけつもした。体格も、今でこそやや太めであるが、当時は痩身そうしんで、まことにスマートであった。
 しかし私は、二十代の青春を、大法弘通の誓いを胸に、走りに走った。恩師・戸田先生のもと、徹して学び、不眠不休で戦った。そして、三十代も、一心不乱に働いた。まっしぐらに広布の大目的へ前進した。
 それは、四十代、五十代も同じである。いつ倒れても悔いが残らぬよう、私は、すべてをなげうって、広宣流布のため、学会のために戦ってきたつもりである。
 そして今、私は六十歳。病弱であった私が、こうして還暦を迎えることができた。これからも、なお一層、広布のために動き、祈り、戦っていく決意である。そこにこそ、仏法者として、また人間としての最極の生き方があると、確信するからだ。
3  仏法を妨げる魔の働き
 法華経の薬王菩薩本事品第二十三に、次の一節がある。
 「我が滅度ののち、後の五百歳のうちに、閻浮提えんぶだいに広宣流布して、断絶して、悪魔、魔民、諸天、りゅう夜叉やしゃ鳩槃荼くはんだ等に、便たよりを得せしむること無かれ」(妙法華経並開結六〇五㌻)
 ――私(釈尊)の滅後の第五の五百年のうちに、全世界に広宣流布せよ。決して断絶させられるようなことがあってはならない。悪魔、魔民、天、龍、夜叉、鳩槃荼等に、跳梁ちょうりょうの機会を与えてはならない――と。
 ここでいう″釈尊滅後の第五の五百年″とは、末法の初めの五百年を指すが、そのうえで、末法万年尽未来際じんみらいさいにわたる重要な指針である。
 つまり末法の時代に″全世界に広宣流布せよ。決して断絶させられてはならない″″魔の勢力を、絶対にのさばらせてはいけない″と、釈尊が厳命されている。これはまた、日蓮大聖人の御心であり、御本仏の峻厳な御遺命である。
4  ここで少々、「悪魔、魔民、諸天、龍、夜叉、鳩槃荼」の意義について論じておきたい。
 この経文では、これらはすべて、仏法を妨げるしきものの象徴、力用りきゆうとして名があげられている。
 まず、「悪魔」とは「魔」と同義であり、その意味を現代的に要約すれば「煩悩ぼんのうをはじめ、衆生の心を乱す働き」「人の善事を妨げる働き」「仏道修行をはばむ働き」をいう。また、生命そのものを破壊することから、「奪命者だつみょうしゃ」とも訳される。
 魔のなかでも、最大の障害を成すのは、「第六天の魔王」である。これは、三障四魔の中では「天子魔」にあたる。
 「種種御振舞御書」には、第六天の魔王について「第六天の魔王或は国主或は父母或は妻子或は檀那或は悪人等について或は随つて法華経の行をえ或は違してさうべき事なり」と仰せである。
 ――(天子魔というのは)第六天の魔王は、あるいは国主、あるいは父母、あるいは妻子、あるいは檀那、あるいは悪人等にとりついて、あるいは行者に随って法華経の修行を妨げ、あるいは反対して妨害するのである――と。
 つまり、第六天の魔王、天子魔は、「他化自在天たけじざいてん」ともいうように、他の人に自在にとりつき、自分の意のままに動かし、あやつる。そして修行者の成仏を、ありとあらゆる方法で妨害する。そのことに快楽さえ感ずるのである。それが、仏法でいう「悪魔」の本質である。
 仏法破壊の策動には、必ずといってよいほど、カゲで人を操り、悪事を起こす天子魔にとらわれたような存在がある。そして多くの人間を操り、動かしながら、暗闇で一人、ニヤッとしている。そうしたいやしい人間がいることを、仏は鋭く見破っていた。
 「魔民」とは、魔界の衆生、魔に魅入られた魔の眷属けんぞくのことである。他化自在天に操られ、その思いのままに踊らされるおろかな魔の″手下″である。
 いかなる人であっても、ひとたび魔に魅入られてしまえば、それは魔の眷属であり、正常な生命とはいえない。それは、いわゆる「悪鬼入其身あっきにゅうごしん(悪鬼その身に入る)」の姿であり、悪魔の所作となる。しかも、悪鬼が誰に取りつくかは自在であり、地位や役職に関係がない。
 これまでにも、まさかあの人が、あの幹部が、と思うような人が、正法に反逆していった。しかし、自在に衆生に取り入り、悪の眷属としていくのが、魔の本質である。少しも、驚くことはない。むしろ、広布が進んでいく証左である。それで信心が動揺するのは愚の骨頂である。
 「天」とは、一往は、天界に住する種々の天人・神のことである。ここでは、そのなかでも仏道を妨げる天人の存在・働きを指す。
 十界の生命に約せば、「天」とは快楽に満ちた境界である。裏返せば、欲望に支配され、一時的、表面的な幸福のみを追う、まことにはかない生命状態ともいえよう。
 また「龍」とは、蛇形の鬼神で、畜類の代表である。
 大集経だいしゅっきょうでは、″驕慢きょうまん(偉ぶって人を見下し、おごり高ぶること)、嫉妬しっと(自分よりすぐれた者をそねみ、ねたむこと)、妄語もうご(ウソをつくこと)、両舌りょうぜつ(両方の人にそれぞれ違うことをいって、仲たがいさせること)等の罪によって″龍に生まれる″と説かれている。
 「夜叉」とは、もともと姿のまことにみにくい、猛悪な鬼神である。
 「主師親御書」では、女人不成仏を説いた華厳経の文を解釈された個所に「文の心は女人は地獄の使・よく仏の種をたつ外面は菩薩に似たれども内心は夜叉の如しと云へり」経文の意味は、女人は地獄の使いであり、よく仏種を断つ。外面は情け深い菩薩のような姿でも、内面は醜悪しゅうあくな夜叉のような心であるとの意であると仰せになっている。
 女人は、法華経にいたって初めて成仏が明かされる。それ以外では″地獄の使い″等とされ、成仏できない。その女人の内面の恐ろしさを、爾前にぜん経では「夜叉」と表現しているわけである。
 ちなみに、夜叉の妻や娘を「夜叉女やしゃにょ」というが、夜叉も夜叉女も、法華経では法座につらなったことが明かされている。
 「鳩槃荼くはんだ」とは、頭は馬、体は人の形をした鬼である。動作は機敏で変幻自在。人間の精気、生命力を吸いとる悪神とされる。
 このように天、龍とか夜叉とか鳩槃荼のような働きの人間が必ず出て、さまざまに問題を起こし人をまどわすことも仏法では説かれている。
5  広布の清流を永遠に断絶なく
 さきほど述べた薬王品の一文では、こうした魔や悪鬼に、決して広宣流布の清流を「断絶」されてはならないと、釈尊が厳命されている。まことに重要な教えといわざるをえない。私どもは、魔の正体を鋭く見破り、その蠢動しゅんどうに、よくよく警戒していかねばならない。
 しかし、三障四魔は、私どもの心に巧みに侵入してくる。天台の摩訶止観まかしかんには「行解ぎょうげすでに勤めぬれば、三障、四魔、紛然として競い起こる。こんを重ねさんおおいにし」――修行と法門の理解が進んでくると、三障四魔が、さまざまに入り混じって競い起こり、修行者の迷いの闇を増し、悟りの心を散乱させていく――とある。
 魔を魔と気づかぬままにいれば、知らぬ間に生命は魔に侵食され、広布の活動への意欲を失う。そして威光いこう勢力の衰退を招き、いつしか謗法を犯して、成仏への善因を消してしまう。魔の本当の恐ろしさは、ここにある。
 ゆえに仏の勢力である私どもが団結して、厳然と戦い、退散させなければならない。ここに、広布の組織の重要性がある。
6  大聖人は、建治四年(一二七八年)、御年五十七歳のとき、駿河国富士郡三沢の領主である門下の三沢小次郎に与えられたお手紙(三沢抄)の中で、成仏の難しさと障魔の働きについて、述べられている。
 ここでは、まず、仏法に巡りあい、仏道修行に励むことはできても「成仏」することは難しいことを示され、その理由の一つとして、信心をまっとうさせまいとする三障四魔の働きをあげられている。
 そして、この三障四魔のうち、かろうじて六つは乗り越えたとしても、最後の七番目の「天子魔(第六天の魔王)」に破れたならば仏になることはできない、と厳しく戒められている。さらに、末代の凡夫が一代聖教の御心を悟り、まさに成仏しようとするときの「第六天の魔王」の驚きと策謀の様子を次のように仰せになっている。
 「あらあさましや此の者此の国に跡を止ならば・かれが我が身の生死をいづるかは・さてをきぬ・又人を導くべし、又此の国土をさへりて我が土を浄土となす、いかんがせん」――ああ、とんでもないことだ。この者がこの国にいたならば、彼自身が生死を離れる(成仏する)ことはさておくとしよう、(だが、彼は)他の人を(仏道へと)導いていくであろう。また、この国土を奪い取って、私(第六天の魔王)の領土を浄土としてしまう。どうしたらよいであろうか――と。
 つまり正法が弘まり、その国が仏国土となってしまっては、魔王である自分たちのいるところがなくなる。たとえていえば、どぶや汚い水たまりがあれば、ぼうふらがわき、蚊の温床となる。しかし、コンクリートなどできちんと整地されれば、蚊も住めなくなるというようなものである。
 これだけ広布が進み、正法が興隆していけば、なんとかしなければならない、といって、魔が跳梁ちょうりょうをはじめるのは当然である。
7  そこで魔王は、三界(欲界、色界、無色界のこと。六道の衆生の境界、住処を分けたもので、三界とは現実世界をさす)の、ありとあらゆる眷属、魔民を招集して、次のように命令する。
 「各各ののうのう能能に随つて・かの行者をなやましてみよ・それに・かなわずば・かれが弟子だんな並に国土の人の心の内に入りかわりて・あるひはいさめ或はをどしてみよ」と。
 ――魔民のそれぞれの能力に応じて、法華経の行者を悩ましてみよ。それでだめだったならば、彼の弟子檀那だんな並びに国土の人々の心の中に入りかわって、あるいはいさめ、あるいはおどかしてみよと――いうわけである。
 しかし、それでもうまくいかなかったらどうするか。いよいよ魔王自らの登場となる。
 「それに叶はずば我みづから・うちくだりて国主の身心に入りかわりて・をどして見むに・いかでか・とどめざるべきとせんぎ僉議し候なり」――それでもだめだったならば、我(魔王)自ら降りていって国主(権力者)の身心に入りかわって、脅してみよう。そうすればどうして仏道修行をやめさせることができないことがあろうか、と評議しているのである――と。
 まさに、広布の法戦は、信心を破り、広宣流布の進展をはばもうとする魔王と魔民の軍勢との絶え間なき戦いである。学会も、この六十年に及ぶ法戦において、そのすべてに勝利してきた。そのたびに、広布は大きく発展してきた。これこそ私どもの信心の正しさの証明であり、成仏は必ずできることを深く確信したい。
 ともあれ「末法万年じん未来さい」にわたる、「全世界」への「広宣流布」は、御仏意であり、仏勅ぶっちょくである。
 この人類の希望の光だけは、何があろうとも絶対に「断絶」させてはならない。もし、邪悪の魔の勢力に負けて、ひとたび「希望の光」を断絶し、消してしまえば、冷酷にして残忍な悪の世界は増長し、人類は深い不幸のやみに包まれてしまうにちがいない。
 ゆえに、この正しき広布と信心の歩みだけは絶対に止めてはならないと、青年部諸君に強く申し上げておきたい。
8  正師に違背した五老僧の保身
 さて、大聖人御入滅(一二八二年)から大石寺開創(一二九〇年)に至る八年間の日興上人の御振る舞いを拝するとき、それは大聖人の正法を「断絶」せんとする内外の魔軍との、まさに生命をされての戦いの御姿であられた。ここで、その一端を拝しておきたい。
 大聖人は御入滅を前に、日興上人に唯授一人ゆいじゅいちにん付嘱ふぞくをされ、そのあかしとして「二箇相承にかそうじょう」をしたためられている。
 すなわち、まず「日蓮一期弘法いちごぐほう付嘱書」(弘安五年九月)において、大聖人が御一代に弘法なされた法体、つまり三大秘法の一切を、日興上人に相承されたことを示されている。
 そして「身延山付嘱書」(弘安五年十月十三日)において、身延山久遠寺の別当べっとう職を譲られた。
 大聖人は、この「二箇相承」で、それぞれ「就中なかんずく我が門弟等此の状を守るべきなり」、「背く在家出家どもの輩は非法の衆たるべきなり」と仰せになっている。
 「非法の衆」とは、仏法にはずれた者で、大聖人の門下ではない、との意であり、唯授一人血脈付法の日興上人を中心として、滅後の法戦にあたっていくことは、門下一同に対する大聖人の絶対の御遺誡ゆいかいであられた。
 いうまでもなく、日昭、日朗、日向、日頂、日持の五老僧とて、この大聖人の厳命の例外ではない。いな、誰よりも、日興上人を守り、支えていくべき立場にあった。
9  ところで「五老僧」の立場を、現代の私達に分かりやすくいえば「方面長」とでもいえる存在であろうか。
 すなわち日昭は相模(神奈川)の鎌倉、日朗は鎌倉と武蔵(東京)の池上、日向は上総かずさ(千葉)の藻原もばら、日頂は下総しもうさ(千葉)の真間まま、日持は駿河するが(静岡)の松野の各地を中心に担当し、弘教にあたっていた。
 この五人の方面責任者が、日興上人を中心に心を合わせ、団結していったならば、早くから他の既成宗教をしのぐ正宗の発展がなされたかもしれない。
 大聖人は、御遺言の中に「六人香華こうげ当番」と仰せである。すなわち六老僧が、大聖人の御墓所を当番制で交代に守護していくべきことを示されていた。
 ここからも、各地に散りゆく五老僧が、大聖人の墓所の設けられる身延を定期的に訪れては、日興上人を中心に、互いに連携を取りながら「異体同心」で進んでいくようにとの、大聖人の深き御心が拝される。
 こうして、大聖人の御心を体して、皆の合意をもって、六老僧を中心に主な門下十八人が、交代で御墓所を守っていく「墓所輪番制」が定められたが、五老僧はこれを守ろうとはしなかった。五老僧は、あれこれと理由をつけては、身延の大聖人の墓所をお守りしようともせず、日興上人のもとを訪れようとしなくなった。
10  なかでも日昭と日朗は、身延での大聖人の第百箇日忌法要が終了して下山する際、墓所のかたわらに安置されていた「ちゅう法華経」を日昭が、「釈尊の一体像」を日朗が、それぞれ奪い去っていった。そして、当然、彼らは身延に二度と来ることはなかった。
 この「註法華経」と「一体像」は、どちらも大聖人が御生前に、随身されていたもので、日昭と日朗は、この遺品を自分達の権威づけに利用しようとした。彼らは、その所持をもって、自らを大聖人の正統とさえ称したのである。しかし、もとより大聖人の法門の本質から、見る人が見ればまことに滑稽こっけいな二人の姿であった。
 ともあれ、日昭も日朗も、入門順からいえば日興上人の先輩格にあたる。年齢も、日昭が二十五歳、日朗が一歳、日興上人より年長となる。しかも、大聖人とゆかりの深い鎌倉、池上方面の草創からの中心者である。″自分のほうが格が上だ。日興上人につく必要はない″と、日興上人を軽んじ、見下そうとする心の動きは容易に想像できる。
 それが世間的次元のことであれば、自身の感情のままに行動することも、当人の自由であるかもしれない。しかし、ことは仏法上の根本問題である。自らの増上慢の心に流され、正法から離れてしまえば、最も決定的な悪となる。そして、最も戒めるべき破和合僧へと通じてしまう。
11  しかも、指導的立場にある中心者の狂いは、その人についている多くの人々をも迷わせてしまう。これ以上の不幸はない。たとえ、本人に罪はなくとも、信心の濁った中心者につけば、その人たちの信心も濁流に染まっていってしまう。それほど仏法は厳しく、信心は厳格に見なくてはならない。
 ゆえに、日昭、日朗ら五老僧についた信徒には、信心の厳しき目からみれば、功徳はない。第六天の魔王の眷属となった者は、絶対に成仏はできないのである。
 退転、反逆の者の本質は結局は、いやしく、みにくい自分の心が魔の働きにからめとられ、悪の道へと引っ張られていったにすぎない。
 そうした悪の心をはらんだ生命を、どう正しい方向へもっていくか、いかに正しき信心の軌道から外れないようにしていくか、これが指導であり、同志の厳しくも温かな励ましである。
 ともあれ、日昭も日朗も、自らの増上慢の心に、ついに勝てなかった。彼らは、日興上人をねたみ、そして対抗への歩みをはじめる。
12  日昭も、日朗も、それぞれの方面で、″我こそ大聖人の直弟子である″と、おごり、たかぶっていた。俗にいう「お山の大将」的存在になっていた――。
 しかし彼らは大聖人の御遺誡ゆいかいに背いて、後継の正師・日興上人から離れてしまった。そこには、もはや大聖人の仏法の血脈は流れ通っていない。
 五老僧は自分のエゴと慢心が中心となり、正師を見失った。″心を師とする″姿にちたのである。そうした本性は、いかにとりつくろい、飾ろうとも、隠しおおせるものではない。必ずや一生涯のうちに赤裸々に現れてしまう。
 大聖人御入滅後三年の弘安八年(一二八五年)には、鎌倉を中心に幕府の迫害が起こった。幕府は大聖人一門の住坊(寺)を破壊すると脅迫してきた。この時、日昭と日朗はともに申状もうしじょうを当局に提出する。それは、自らを「天台沙門しゃもん」すなわち″天台の弟子″と称し、さらに幕府のために祈祷きとういたしますと申し出る卑屈なものであった。
 「天台の弟子」なら、当時、公認された権威がある。ゆえに迫害を避けるために、「大聖人の弟子」と名乗らなかった。憶病にも、厳格な折伏の正道を捨て去り、幕府の権力に迎合して難をまぬかれたのである。
 これは日興上人が、後世のために「五人所破抄」や「富士一跡門徒存知の事ふじいっせきもんとぞんじのこと」また「弟子分本尊目録」に、しるされている通り、厳然たる歴史の事実である。
 また日昭、日朗だけでなく五老僧の全員が、同様の醜態しゅうたいを示した。たった一人、日興上人だけが、微動だにもなされなかった。厳として大聖人の正法正義を主張し通された。
 多数決でいうなら、五対一で五老僧にがあるように見えるかもしれない。しかし仏法の上からは、師の心に生きる「一人」にこそ正義はあった。
13  戸田先生も、よく、こうした五老僧の姿を通して、信徒の立場から広布の未来への戒めを話してくださった。
 「私がいる間はよい。私がすべて守っている。しかし、私の死んだ後、権力でひどい迫害を加えられるかもしれない。マスコミからも、社会からも、様々な圧迫があるだろう。その時、いったい何人の人が『私は学会員だ』と、毅然として誇り高く言いきれるか。『いや私は自分だけ信仰しているのです』とか『広宣流布なんて考えておりません』とか言い出さないとも限らない」と、真剣な姿で語っておられたことが忘れられない。
 その言葉通り、これまでにも、何か起こるたびに、動揺して去っていく人間がいた。先日も″名の通った、立場のある人間ほど、いざという時に弱い″というお話をしたが、幹部や社会的有名人ほど、もろい場合が多い。
 反対に、名もなく貧しく、地位もない、何もない庶民は、″さあ、何でもこい!″と開き直って立ち向かえる利点がある。また女性の方が、いざという時には、ハラがすわっている場合が多いようだ。
 五老僧は権力に迎合した。我が身を守るために、強い者に迎合し、癒着ゆちゃくするのは離反者の常である。その根底は「憶病」だからだ。
 現代にも信念なく、さまざまな権威や勢力と野合を繰り返し、広布をはばもうとするやからもいる。五老僧に通じる、同じ方程式の心理と行動といってよい。
14  さて「天台沙門」と名乗った時、日昭は六十五歳、日朗は四十一歳。
 日昭は、この前年に、鎌倉に一寺を創建したばかりであった。日昭には自分の寺が大事で大事でならなかった。せっかく得た安住の寺と財産を失いたくなかった。
 もはや「法のために」「広宣流布のために」また「民衆のため、仏子のために」という心ではなかった。ただ我が身かわいさの一心であった。そこには難と戦いゆく崇高な精神など微塵みじんもない。民衆への慈悲もない。保身と策略の心しかなかった。
 ちなみに先日、四月の第三回本部幹部会の席上、「両人御中御書」(御書1101㌻)を拝して、お話しした。この御書には、年老いた日昭の住坊のことにまで、大聖人が最大に心をくだかれていた御様子が示されている。
 そうした大聖人の御慈愛を受けながら、大聖人の正義を裏切った彼らの忘恩の姿は、無慙むざんであり、あわれという以外にない。
 そもそもいったい、誰のおかげで、その住坊を持てたのか。全部、大聖人の大恩で出来上がったものである。そう受け止めるならば、いわば大聖人からお預かりした住坊である。したがって、この大法ゆえに住坊を取り上げられるというならば、喜んでそうするのが本来の正しき姿であるといってよい。
 ともあれ、大聖人の仏法は「立正安国論に始まり、立正安国論に終わる」といわれる。この立正安国の精神こそ、大聖人門下としての根幹である。その根本精神を彼らは捨て去った。
 保身のために大恩ある師の正義を曲げた、憶病にして卑怯ひきょうな姿こそ、日興上人に随順しなかった日昭らの本質であった。こうした、彼らのわびしき末路を、将来の広布の指導者である青年部の諸君は、鋭く見極めねばならない。
15  弘安七年(一二八四年)十月、大聖人の三回忌の折にも、五老僧は誰一人として墓参にもこなかった。あまりにも不知恩の姿である。
 理屈はいくらでもつくれる。しかし、現実の姿が雄弁に真実を語っている。いかなる理由をあげるにせよ、墓参にもこぬ姿を弁解することはできない。
 このように、離反者は、何より一人の「人間として」まともでない。現代の″五老僧の眷属けんぞく″ともいうべき退転者たちも、まず人間として、ひんしゅくを買う行動が余りにも多かった。また五老僧と同様に、大事な時にこないで、陰で正体不明のことをしている人間は必ず後でおかしくなっている。
 私をはじめ、秋谷会長、森田理事長、多田総合婦人部長らは、いつもながらの、そういう人間たちのやり方を手にとるように分かっている。皆、何とか正道に戻してあげたいと思い、また守ってきた。その包容をよいことに、勝手なことを言っている姿は笑止というか、こっけいというか、本当にお話にならない。
 この三回忌の直後、日興上人は上総かずさ(千葉県)の美作みまさか房日保という一人の門下に御手紙を書かれている。
 その末尾には「当時こそ寒気のころにて候へばかなわず候とも、明年二月の末三月のあはいに、あたみ湯治とうじいでには如何いかんが有るべく候らん」(編年体御書1730㌻)――今(旧暦十月)は寒い時期なので、こちら(身延)へはこられないかもしれませんが、明春の二月の末から三月の間には熱海の湯治かたがた、おこしになってはいかがでしょうか――と仰せになっておられる。
 もとより日興上人は、正法を護持されゆくためには、それはそれは厳格であられた。と同時に、この御文からもうかがえるように、身延を訪れようとしない一人一人まで最大に包容され、こまやかにして温かい心配りをなされていた。
 何とか正しい信心を全うさせてあげたい。最高の人生の総仕上げをさせてあげたいとの大慈悲の心であられたと拝される。
16  身延離山の背景に波木井実長の変節
 日興上人は正応二年(一二八九年)春、ついに身延を離山される。その背景に、地頭・波木井実長はきりさねながの重大な違背・謗法があったことは、ご存じの通りである。
 しかし日興上人は離山されたのちも、何とか実長を改心させたいとの御心から、戒めの御手紙まで送られる。だが、そうした日興上人の御慈愛に対して、実長は傲岸不遜ごうがんふそんの返事を突きつけてきた。
 信心が狂ってしまえば、もはや手のつけようがない。列車や飛行機が、動いている途中で故障してしまうようなものだ。暴走や墜落を止めることは困難である。また多くの乗員が、それに巻き込まれてしまうように、背信は本人ばかりか、一族、子孫末代までも苦しめてしまう。大聖人が仰せのごとく、信心は「信順」を第一義としなければならない。
 実長が日興上人にあてた師敵対の手紙。彼の忘恩の心根を万代にまで証言する、この書簡が現代にまで伝えられている。その一部を紹介したい。
 すなわち「かねてよりうらみまいらするしさい仔細の候あいだおほせしたがひて、うけ給はりぬと申す御事恐れ入り候」――かねてから、あなた(日興上人)に対してうらんでいる事柄があるから、あなたの言われる通りにしたがい、承服することができないことは、痛みいります――と。
 実長は何かについて、日興上人をさかうらみする感情をもっていた。
 また「まことに仏道なりときは、しやうげ障碍の候なれども、これしやうげ障碍にはるべからず候」――まことに成仏をげようとする時は、様々な障害がありますが、(あなたが私に注意している)このことは、別に成仏の障害にはならない――。
 つまり″よけいな心配は無用である″との言葉である。
 「日円は故しやう人の御でし弟子にて候なり申せば老僧たちおなどうぼう同胞にてこそわたらせ給ひ候に、無道に師匠の御はかてまいらせてとがき日円を御ふしん不審候はんはいかで仏にもあひかなはせ給ひ候べき」――日円(実長)は、故・大聖人の弟子である。だから、いうならば、あなた方、老僧方とも同じ兄弟弟子であります。それなのに、道理もなく、(あなた方が)師匠である大聖人の墓を捨てたうえ、罪のない私を責め、謗法よばわりすることが、どうして仏意にかなうでしょうか――。
 彼は、自分の謗法をタナに上げたばかりか、それが要因となった日興上人の身延離山をも、大聖人の墓を捨てたと逆に非難している。
 「師匠の御あはれみかぶり候し事おそらくはおとりまいらせず候、ぜんご前後しゃべち差別ばかりこそ候へ」――大聖人の慈愛を受けたことは、おそらく、あなた方にも劣らないと思っております。ただ入信が前か後かのちがいがあるだけではありませんか――との暴言である。
 日興上人の御指導に従わないばかりか、″仏意に背く″等とかえって攻撃している。増上慢もきわまれりというほかない。自分が、わがまま勝手にしたいために、邪魔になる日興上人を排撃し、″同じ大聖人の弟子ではないか″と、理屈にもならぬ妄言を吐いている。
 次元はもとより異なるが、これまで、事件を起こしたり、自分勝手なわがままができなくなった人間は、″自分は戸田会長の弟子である″と必ず言い出す。
 戸田会長の弟子であるならば、戸田会長の指導通り、学会とともに広宣流布に進むべきである。先生は「団結していけよ」と仰せで、「破和合僧せよ」とは、おっしゃっていない。そんな論理は、まことに、こっけいな落語みたいなものだ。
17  さて、実長が、こうした手紙の五年前、弘安七年(一二八四年)に同じく日興上人に送った手紙も残っている。
 それには「わたらせ給ひ候ことはひとへしやう人のわたらせ給ひ候と思まいらせ候に候」――(日興上人が、身延へ)いらっしゃったことは、ひとえに大聖人がいらっしゃったと同じと思っております――と、日興上人の御入山を最大に歓迎している。
 それが、この豹変ひょうへんぶりである。日亨上人は、次のように慨嘆がいたんしておられる。
 「わずか五年のあいだに、かくも情感の反覆はんぷく(ひっくりかえること)するものか。親愛が仇敵きゅうてきに変じ、師弟が同輩に下落する事のあさましさよ」(「富士日興上人詳伝」)。
 親愛の言が五年のうちに、″仇敵″に対する絶交の手紙となり、師匠と仰いだ心が″同輩″のように見下す傲慢ごうまんとなる変心を嘆いておられる。
 なお日亨上人は、それとともに、中国・唐の大詩人、白楽天(七七二―八四六年)の詩の一節を引いておられる。
 「行路難こうろなん 水にらず 山に在らず ただ人情反覆はんぷくの間に在り」と。
 すなわち、わが行く道の本当の難所――それはさか巻く河にあるのでもない。けわしい山にあるのでもない。ただ人々の心の頼みがたさ、心のうつろいの激しさにある、との詠嘆えいたんである。
 この詩句は、私の人生行路に照らしてみても、まさにその通りだと実感する。
 今の退転者たちも、ついこの間まで、「学会と池田先生の大恩は山よりも高い」、「生涯かけて、ご恩返しをいたします」等と、自らすすんで書いてきた。
 私が嘆くのは、忘恩うんぬんではない。そうした変節の徒は、自分自身の、かけがえのない″生命の法器″を自ら破壊してしまう。ただ、そのことが、かわいそうでならないだけである。
 これからの諸君の、広布の大遠征においても、幾多の「裏切り」や「反逆」、「憎悪」「策謀」等に遭遇そうぐうすることがあるにちがいない。しかし決して″感傷″になってはならない。弱々しい″人間不信″におちいってはならない。常に朗らかに、また朗らかに、堂々と前進していくことだ。
 十界互具・一念三千の大法という高き次元から、すべてを悠然と見おろし、乗り越えながら、いかなる時も、限りない希望の虹を、自ら大きくつくり出していける勇者であってほしい。そうした大ロマンにあふれた、信仰王者の人生を私は諸君に期待する。
18  「悪知識」となった日向の卑劣な存在
 ところで、もともと日興上人の教化によって大聖人の門下となり、また日興上人をうやまい仰いでもいた波木井実長が、なぜこれほどまでに違背・謗法の道を一気に転落してしまったのか――。ここに、いわゆる「悪知識」の恐ろしさがある。
 日興上人は次のように仰せである。
 「此の事共は入道殿の御失おんとがにては渡らせ給い候はず、ひとえ諂曲てんごくしたる法師ほっしあやまちにて候」(編年体御書1733㌻)
 ――これらのこと(さまざまな謗法)は、入道殿(実長)のせいではない。ひとえにへつらい、心の曲がった法師の罪であると――。
 すなわち、実長にへつらい、取り入りながら、ついには日興上人へ反逆の矢を射させた悪法師の存在があったのである。
 それは誰か――。五老僧の一人、日向にこうである。
 日向は日興上人より七歳年下で、少年時代から大聖人に帰依していた。彼は学識豊かで多才であった。また弁舌に長じ、社交性にも富んでいたようだ。大聖人のかつての師・道善房の死去にさいしては、大聖人の命により「報恩抄」を、その墓前で奉読するほどの存在であった。また、大聖人の法華経講義を受講し、「御講聞書おこうききがき」もまとめている。
 しかし日向は、大聖人の御葬送や第百箇日忌法要など、肝要な時には姿を見せていない。ここに、彼の「忘恩」の心根がうかがえる。
19  その日向が弘安八年(一二八五年)の春ごろ、突然、身延に登山してきた。日興上人は日向の心根を危危惧きぐされながらも、五老僧の中でただ一人自ら登山してきた彼を包容し、身延山の学頭がくとうという要職に任ぜられた。
 だが――。その翌年の末ごろから、日向による撹乱かくらんが始まる。日向は言葉たくみに実長に取り入っていく。やがて実長は、″自分の師匠は、厳しい日興上人ではなく、親切な日向である″と思うまでに日向に心を奪われ、信心をすっかり狂わされてしまった。
 日向はその実長を教唆きょうさして、次々に重大な謗法を犯させていく。日興上人が厳重に訓誡くんかいされても、日向は逆に″日興上人は外典げてん読みにかたよっていて、法門の極意ごくいが分かっていない″などと的はずれの批判をしてくる始末であった。
 こうして、ついに日興上人は身延離山を決意される。まさに現代的にいえば、日向による実に悪辣あくらつな″乗っ取り″の手口であったといえるかもしれない。
20  正応元年(一二八八年)厳寒の十二月、日興上人は身延離山を前に一通の御手紙を記された。今からちょうど七百年前のことである。それは、波木井一族のなかにありながらも、日興上人に対して変わらぬ″師弟の誓い″を立てた若き門下へあてたものであった。
 「原殿御返事」と呼ばれるこの御手紙を通し、日興上人は、身延離山にいたるいきさつ、また御自身の御心情を、信頼する若き門下に対して諄々じゅんじゅんと語りかけておられる。
 すなわち、「民部阿闍梨みんぶあじゃり、世間の欲心深くしてへつらひ諂曲てんごくしたる僧、聖人の御法門を立つるまでは思いも寄らず大いに破らんずるひとよと、此の二三年見つめ候いて、さりながら折折は法門説法の曲りける事をいわれ無きよしを申し候いつれども、えて用いず候」(編年体御書1732㌻)――かの民部日向は世俗の欲心が深く、(波木井実長殿に)こびへつらう僧であるから、大聖人の建立こんりゅうされた御法門を守り弘め通すとはとても考えられない。むしろ大いに破る人であろうと、この二、三年見つめながら、折々に法門を誤って説法している点を注意していたが、一向に改める様子がなかった――と。
 このように、日興上人は、日向の本性を厳しく断罪された。これは、波木井一族の門下に対する、″あなた方のあるじ誑惑おうわく(たぶらかすこと)した悪知識の正体をしっかりと見破っていきなさい″″つくべき師を絶対に間違ってはならない″との御心からであったと拝されよう。
 このような日興上人の御心中を拝察するとき、″これまでは何とか立ち直らせたいと包容し指導もしてきた。しかし結局、正法を破り和合僧を破壊していく存在であることが明白となった以上、私は断固として戦っていくつもりである。若き門下の者たちよ、このことをよく知っておきなさい″との毅然たる御心情がしのばれてならない。
21  ″青春の誓い″に生涯走り抜け
 さて、昭和二十五年、戸田先生が第二代会長に就任される前年のことである。先生の事業は最大の苦難に直面していた。
 それは単に一事業の危機で済まされるものではなく、誕生まもない「創価学会」が断絶するかどうかという瀬戸際であった。戸田先生の人生もこれで終わりかもしれない――そんな苦衷のさなかにあった。
 当時、私は二十二歳。まさに″戸田先生と学会を守り抜きたい″との覚悟で戦う一日一日だった。その夏のある雷雨の日の日記に、私は次のように記した。
 「先生の、激励にこたえ、再び、世紀の鐘を、私が鳴らそう。先生より、離れる者は、離れろ。若き戦士となり、若き闘士となって、先生の意志を、私が実現するのだ……」と。
 この青春の誓いを、私は敢然と貫き果たしてきたつもりであるし、そのことを最大の誇りと思っている。
 そして、時は移り、二十一世紀に向かわんとする今日、次の新しき″世紀の鐘″を鳴らすのは青年部の諸君以外にない。だからこそ私は、諸君を最大に激励したい。信じていきたい。偉大なる人生と広布に連なりゆく「共戦の歴史」をともどもにつづっていきたい――という思いでいっぱいである。
22  戸田先生のもと開かれた毎月の本部幹部会は、主に東京・豊島公会堂を会場として、広布の前進の歴史を刻む大切な会合であった。
 私は、その折々の戸田先生の師子吼ししくのごとき雄叫おたけびを忘れることはできない。
 昭和二十九年二月の本部幹部会では、戸田先生は次のように指導された。
 「わが学会は、和合して、広布へ、日蓮大聖人様の教えを、日蓮大聖人様の指導通りにやろうというのであるから、これを破ろうとするものは、かならず仏法の大きなばちをうける。もし破ろうとするものあるならば、やってみたまえ。内から外からやってみたまえ。絶対にできぬ。
 われわれは和合僧なりと、心から叫ぶ団体である。幹部は結束してこれにあたっている。そして破るものも悪いが、これらのもののみだけではなく、破られたほうにも(罪が)ある。これはみなさんの心に、深く気にめなければならぬ。確固不動かっこふどうの信心を求めるしだいである」と。
 さらに、逝去せいきょの一年ほど前の本部幹部会の席上、戸田先生は、「ほんとうに、信心なら戸田と太刀たち打ちしても負けるものかという相手なら、私も受けましょう。私はなにも、金にも驚かない、権力にも驚かぬ。だが信心だけはこわい。だが、私は、信心には自信がある。私に反抗してやれるものなら、やってごらん。不肖ふしょうな私だけれども、日蓮大聖人様のお使いとして、七百年後の今日きたのでありますから、創価学会なんてインチキだ、でたらめだというなら、いわしてやろうではありませんか。どんな結果になるか、断じて負けません、私は。三年かからずに、かならず結果をみせてあげる」と述べられた。
 そして「これが信心というものです。金でもなければ、権力でもない。学会の位置をつかって、金のことや権力の行動をしたなら、かならず罰をうけるということを、きょうは宣言して、私の話を終わります」と結ばれている。
 まことに深い意味を含んだ、今日また未来への戒めともいえる言葉だと思う。
 信心のない人間が、肩書とか権力とか学歴とか、そんなものでいくら表面を飾ってもむなしいだけである。無名の一青年や一婦人であっても信心のある人にはかなわない――すなわち、限りない強さ、深さ、輝きをもっているからだ。これが、私の四十年間の信心の体験からいえる実感でもある。
 どうか諸君は、″断じて負けない″との「確固不動」の信念に立って、偉大なる正宗と学会の清き信心の流れを、どこまでも守り抜いていく一人一人であっていただきたい、と心から念願し、記念のスピーチとさせていただく。

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