Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第五回本部幹部会 壮大なる民衆の大河

1988.5.22 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

前後
1  ″学会家族″の美しき心の絆で
 きょうは、「指導」というより、むしろ学会の″家族会議″というような気持ちで、懇談的に話を進めさせていただきたい。
 本日、数多くの副会長が誕生した。いずれの方も、優秀な広布のリーダーである。また、同時に任命された師範の皆さまも、学会の″柱″となる重要な方々である。ともどもに、会員を守り抜き、広布の全責任を担っての一層の活躍をお願いしたい。
 私のもとには、毎日、多くの便りが寄せられる。
 そのなかには「最近、先生の『聖教新聞』の登場が少なすぎる」、「さびしいから、もう少し出てもらいたい」という手紙もあった。しかし、私もなかなか忙しい。さまざまな仕事も数多くあって、たまには出られない時もある。
2  北海道の釧路に、草創以来、活躍されてきた功労者がいる。その方からも、過日、丁重なお便りを頂戴した。お年は七十二歳。以前に比べ、字体にやや力強さがなくなった感もあるが、内容は、本当に生き生きとしていて素晴らしい。
 少々紹介させていただくと――かつて毎年五月には釧路から東京へ出かけ、本部総会に参加させていただいた。その感動の積み重ねで、今日の自分がある″と。また″今は青函連絡船も廃止され、飛行機を利用するのが当たり前の時代となった。登山会にしても、昔の団体登山は往復八日間、根室からさらに奥の人の場合には、十日間も必要だった。私たちは、よく「どれだけ広布のために苦労するか、それが功徳の源泉だよ」と、指導された。振り返るとまったくその通りであった。今は登山も、本山に二泊して、三日目には悠々帰宅できる。確かに便利になったし、何もかも楽になった。しかし、かえって私どもの建設期のほうが幸せだったのではないかとも思う″などと、記されていた。
 まことに、草創の功労者の方は、信心の姿勢が、すがすがしい。当時の苦労は現在からは想像もつかないものであった。数限りない苦難と障害もあった。だが、先駆の勇者たちは、グチひとつこぼさず、ただひたすら、広布のために動き、働いてこられた。ここに出席している小泉参議会議長をはじめ、草創の同志の血のにじむ労苦があったればこそ、今日の広布の繁栄と隆盛がある。
 その方々の功績は、何より御本尊が御照覧であられる。その限りない福徳は、永遠に輝き、光彩を放っていくにちがいない。
 また、私も、誉れの先駆者の功労を、一日たりとも忘れたことはない。関西にも、九州にも、いな全国各地に、忘れえぬ同志がいらっしゃる。そうした方々に、私はつねに題目を送り、さらに亡くなった方々には追善の題目も送らせていただいている。また、みなが気がつかないところで、せめてもの真心からの激励を続けている。
3  さてその手紙には、次のようにも書き添えてあった。
 「先生にお会いしたい。学会本部にも行きたい。しかし、病気で飛行機にも乗れず、願いを果たすことができない。先生、ぜひとも、釧路に来てください」と。
 早速、私は「必ず行くから、待っていてください」との伝言を、真心の言葉をしたためた短冊とともに託した。
 同志の「誠実」には、「誠実」で応えるしかない。「真心」には、「真心」で応えていく以外にない。広布の同志というものは、美しい「心」と「心」で結ばれた″家族″のようなものであると私は思う。そこには、利害もなければ、権威もない。清らかな信頼と尊敬があるのみである。ここにこそ、″学会家族″の強みと素晴らしさがある。
 信心をしていない方々からも、さまざまな激励の声を最近多くいただく。先日も、かつて戸田先生とともにお会いしたことがある北海道の中学校の元校長の方から素晴らしい和歌を二首いただいた。この席を借りて、謹んで御礼申し上げたい。
4  伊豆流罪に船守弥三郎の真心の外護
 ところで、五月というと、私には、日蓮大聖人の伊豆流罪のことが思われてならない。大聖人が、幕府の不当な弾圧により、大罪人のごとく、相模の海を小舟で護送され、伊豆・川奈の津に引き降ろされたのは、弘長元年(一二六一年)の五月十二日のことである。聖寿四十歳の御時であった。
 過日、私は五日間ほど、伊豆を訪れ、この大聖人の法難の事跡をしのんだ。
 長時間の船旅で、大聖人のお疲れも極限に近かったにちがいない。その大聖人をお助けしたのが、川奈の漁師・船守弥三郎であったことは、皆さまも、よくご存じの通りである。
 弥三郎夫妻は、以後一カ月余り、大聖人をかくまい、厚く外護を続けた。
 当時の伊豆の状況について、大聖人は、次のように記されている。
 「かかる地頭・万民・日蓮をにくみねだむ事・鎌倉よりもぎたり、るものは目をひき・く人はあだ
 ――この地の地頭や万民が日蓮を憎み、ねたむことは鎌倉よりも激しい。日蓮を見る者は目くばせをし、日蓮の名を聞く人は怨んでいる――と。
 まさに伊豆の地は、憎悪の嵐のまっただなかにあったといってよい。そのなかを弥三郎夫妻は、自らの危険もかえりみず、大聖人をお守りした。
 弥三郎は、特別な権勢や名声をもっていたわけではない。漁師であり、庶民である。しかし、その庶民の一人が、権力の弾圧をも恐れず、厳然と御本仏を守護申し上げた。
 佐渡流罪のさいも、大聖人を外護し、勇気ある信心を貫いたのは、無名の人々であった。大難のたびに立ち上がり、不当な権力と戦い、時に殉じていったのは、ほとんどが庶民であり、民衆であり、これが広宣流布の歴史の原動力になっていたといえよう。
 学会においても、「主役」はつねに民衆であった。そして、なによりも民衆の力を重んじ、民衆を大切にしてきたがゆえに、今日の広布の隆盛が築かれたのである。
 弥三郎の真心の外護に対し、大聖人は心から感謝され、その誠を称賛された。先ほどの御文に引き続き、次のように仰せである。
 「ことに五月のころなれば米もとぼしかるらんに日蓮を内内にて・はぐくみ給いしことは日蓮が父母の伊豆の伊東かわな川奈と云うところに生れかわり給うか
 ――とくに五月のころなので、お米も乏しかったことでしょう。にもかかわらず、あなた方夫妻は、日蓮を内々に養ってくださった。お二人は、日蓮の父母が伊豆の伊東の川奈というところに、生まれ変わられたのでしょうか――。
 旧暦の五月といえば、ちょうど田植えの季節である。ましてや、弥三郎は農夫ではなく漁師であった。伊豆地方は、地形的に田畑も少なく、大聖人に召し上がっていただくお米を準備するのに、ずいぶん苦労したにちがいない。そのために、弥三郎は、ふだんより多く漁に出かけ、妻も、お米の工面にあちこち駆け回ったのではあるまいか。
 大聖人は、弥三郎夫妻のそうした人知れぬ苦労を、すべてご存じであられた。ゆえに″五月なので、お米も乏しかったでしょう。その一番、お米がない時に、お世話になってしまいました″と、夫妻の労を、心からねぎらわれたのである。庶民の「真心」を、誰よりも敏感に、また心こまやかに汲(く)み取られ、最大の「真心」で応えられた。この一言が、夫妻の心に、どれほどしみわたったことか。
 次元は異なるが、いつの世も、民衆は、リーダーに対して確かな「手応え」を求めている。ゆえに指導者は、人々の労苦や人情の機微が分かる人でなければならない。打てば響くがごとく、鋭敏に、また丁寧に、一人一人の「心」に応え、行動していくべきである。
 こうした指導者がいる限り、人々は幸せであり、広布は盤石な発展を続けていくであろう。反対に、反応なき鈍感なリーダーには、人々はついていかない。組織の生き生きとした脈動も止めてしまう。そのようなリーダーは、結局は無慈悲な存在といわざるをえない。
5  大難にも「我此土安穏」の境涯で
 この伊豆流罪から、ちょうど十年後、大聖人は、再び佐渡流罪の大難にあわれる。
 その佐渡の地で大聖人は、こう述べられている。
 「法華経の御ゆへに已前に伊豆の国に流され候いしもう申せば謙ぬ口と人は・おぼすべけれども心ばかりは悦び入つて候いき」――法華経のゆえに、以前、伊豆の国に流されたことも、このようにいえば、へらぬ口をたたく、つまり負け惜しみを言っていると人は思うだろうけれども、私の心だけは喜びにひたっていたのである――と。
 度重なる大難のさ中にあっても「心ばかりは悦び入って候」――これが御本仏・日蓮大聖人の赫々たる御境界であられた。
 約二年間に及ぶ伊豆流罪、そして二年半の佐渡流罪をはじめ大聖人のあわれた数々の大難。それがいかに苦しく厳しいものであられたか。
6  次元はまったく異なるが、私も無実の罪で二週間近く大阪で牢獄に入ったことがある。そのときでさえ、その苦痛は大変なものであった。しかし、私はあえて牢に入ることを御本尊に願った。それは牢に入っている同志と、できれば労苦をともにしたいと思ったからである。その私の心情を戸田先生お一人がわかっていてくださった。
 相撲にしても、柔・剣道にしても、万事にわたり、強敵に勝ってこそ、力も磨かれ、段もあがっていく。いわんや、何の「苦難」も「試練」もない仏道修行などありえない。さまざまな難に勝ってこそ、悪しき宿命の生命も磨かれ、成仏への大道を進むことができる。
 大聖人の御聖訓通りの法戦であれば、難があることはむしろ当然である。それによって「成仏」ができ、「広宣流布」が進んでいくことを思えば、何も恐れることはない。むしろ、これほどありがたいことはない。
 大聖人の、大いなる心の世界は、外から目で見ることはできない。敵対者たちの卑しい、闇のような心からは、大聖人の晴ればれと澄みわたった御境界は想像もできなかったであろう。
 だからこそ、彼らの傲り高ぶった心は、大聖人の御言葉も″負けおしみ″ぐらいに見くびっていたかもしれない。大聖人は、そうした人々の心の動きを手に取るように見通されていた。
 しかし、我が門下にだけは、透徹した信仰の大歓喜というものを教えておきたい。つまり″難とともにいよいよ喜びを増していく″――この信心の醍醐味を、門下一人一人が身をもってつかんでほしい、との厳愛の御心であったにちがいない。
 人生にはさまざまな喜びも楽しみもある。しかし、それらは仏法からみれば小さな次元の喜びである。
 私どもは難を乗り越えることによって、本当の信心の喜びと最高の醍醐味を味わっていくことができる。また、そこにこそ「我此土安穏(我がこの土は安穏)」の境涯が築かれ、金剛不壊の幸福の人生も開かれていくことを、大聖人は教えてくださっている。
7  臆病と私欲に負けた背信の門下
 大聖人の御境界を理解できなかったのは、大聖人を迫害した人々だけではなかった。門下でありながら、大聖人の表面上の苦境の姿に動揺し、心堕ちてしまった者もいた。
 そうした退転、反逆の者の心を推測するに″大聖人は大変な難を受けておられる。もうだめかも分からない。いいチャンスだ。このさい信心をやめよう。これからは自分のためにうまく生きていこう″と。いつの時代も恐ろしいものは人の心である。
 私たちは日淳上人と戸田先生との親しい語らいの場面を幾つも存じあげている。ある時、談たまたま、学会誹謗の記事について話が及んだ。
 その折、日淳上人が「折伏すれば御聖訓に照らして誹謗はつきものである。むしろ名誉なことだ。それを批判めいて″我が心を得たり″と思い、″こんなことが書いてある″などと得意になって黒い心を動かす人間は、さい銭を払って邪宗参りに行っているのと同じようなものだ。まことに浅ましい、心の貧しい人間である。『書いていること』と『真実』とは根本的に別問題ではないか」と笑いながら、おっしゃっていたことが懐かしい。
8  大聖人は次のように仰せである。
 「のと能登房はげんに身かたで候しが・世間のをそろしさと申し・よくと申し・日蓮をすつるのみならず・かたきとなり候ぬ、せう少輔房もかくの如し」――能登房は現に、(大聖人の)味方であったが、世間が恐ろしいために、また自分自身の欲のために、日蓮を捨てただけでなく、敵となってしまった。少輔房も、また同じである――と。
 この能登房と少輔房については、くわしいことは不明であるが、当時は大聖人門下の中でも、それなりに、教学もあり、弁舌にもすぐれ、才知もあり、かなりの人物であったと思われる。にもかかわらず退転し去った。そればかりか大聖人に公然と弓を引いている。
 この二人のほかにも、三位房、また大田親昌や長崎時綱ら、はじめは門下でありながら、後に大聖人に師敵対した者も出ている。
 さらには、大聖人のあとを継がれた第二祖御開山・日興上人に対しても五老僧をはじめ数多くの門下が反旗をひるがえしたことも、歴史の事実である。
 日亨上人の『富士日興上人詳伝』は、私が願主となって出版させていただいた。これは日亨上人が「大白蓮華」誌上に連載してくださったもので、長年の御研究の集大成である。日蓮大聖人の正法正義をただ御一人正しく後継された日興上人の御事跡を、とくに青年部諸君は、よくよく学び拝していかなければならないとの心から発刊させていただいた。
9  きょうは日興上人の「弟子分本尊目録」(弟子分帳)を紹介しておきたい。
 これは永仁六年(一二九八年)、日興上人が御年五十三歳の時に著された「白蓮弟子分に与へ申す御筆御本尊目録の事」という記録書で、日蓮大聖人が御認めになった御本尊を授与された日興上人の弟子六十六人が記されている。
 ちなみにこの「弟子分帳」には僧侶も在家も区別することなく、ともに記されている。その一事にも、日興上人の僧俗和合の御精神を拝することができ、大変に感銘を深くした。ただ本日は時間の都合もあり、このことについてはまたいずれかの機会に触れさせていただきたい。
 さて、日興上人はこの「弟子分帳」の中で退転、反逆の者に対しては「そむおわんぬ」等と明確に記され、厳しく断罪されておられる。私も入信間もないころ拝読し、日興上人の信心に対する厳然たる姿勢に深く胸打たれた一人である。
 ところで「背き了ぬ」の弟子は六十六人中十二人に及ぶ。割合でいえば約一八%となる。この「弟子分帳」に記された門下は、信心強盛と目された人たちであった。しかし、その中においてさえ二割近くの弟子が離反しているのである。
 また、「弟子分帳」の中の退転者の内訳をみるとき、いわゆる名の通った、また社会的階層の上の門下ほど違背の者が多い。
 社会的な地位とか、また組織上の役職の上下のみによって、信心の深さは決まらない。かえって地位や財力や立場にとらわれて信心を見失い、保身に走り、退転の坂をころげ落ちてしまうことは、まことにこわいことである。
 しかしそれとは対照的に、日興上人が「在家人弟子分」と位置づけられた農夫などの庶民の門下十七人の中には一人として背信の者は見あたらない。この中には殉教の誉れの勇者である「熱原あつはらの三烈士」(神四郎、弥五郎、弥六郎)も含まれている。
10  門下もまだ少ない御本仏・日蓮大聖人や御開山・日興上人の御在世においてさえ、おろかな弟子による裏切りや反逆の連続であった。いわんや、これだけの広布の広がりの時代にあって、そうした者が出ないほうが不思議である。しかし、信心だけは絶対に妥協があってはならない。これが戸田先生の精神でもあった。
 大聖人は「あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり」――悪い弟子を養えば師弟ともに地獄にちるといわれている――と仰せである。この御金言に照らせば、かえって悪い弟子が自ら去っていくことは御仏意であるとも拝される。
 退転・反逆者は、まさに師子身中の虫であるし、去っていったほうが、将来の禍根を残さないであろう。また、私どもの信心を深め、更なる広宣流布の発展のための一つの過程ともなる。
 いつの世でも反逆者たちはもっともらしい言辞げんじろうして自らの行為を正当化するものだ。しかし大聖人はその本質を「世間のをそろしさ」と「よく」すなわち″見え″″憶病″と″私欲″であると喝破かっぱされている。
 この構図は今も変わらないし、その一点さえ鋭く見破ってしまえば何でもない。広宣流布における必然の方程式であると達観たっかんしていけばよいのである。
 私をおとしいれようとする、いつもながらの同じようなパターンは、私は熟知している。皆さま方もご存じのことと思う。誰が、どのような「野心」と「嫉妬しっと」と「欲望」をもって学会を撹乱かくらんさせ、私を悪者扱いしようとしているかは、手にとるように全部分かっている。ゆえに私は何とも思っていない。
11  権威に迎合した三位房の虚栄
 ところで、御本仏であられる大聖人から、ひとたびは直接、薫陶を受けた者が、なぜ退転・反逆の坂をころがり落ちてしまったのか。これが問題になる。
 偉大なる御本仏に教えを受けながら、どうして信心をまっとうできなかったのか――。
 このことはさまざまな観点から論じられるが、一つの示唆として「法門申さるべき様の事」の次のような仰せを拝したい。
 「総じて日蓮が弟子は京にのぼりぬれば始はわすれぬやうにて後には天魔つきて物にくるせう少輔房がごとし
 ――総じて日蓮の弟子は京にのぼると、はじめのうちは大聖人の教えを忘れないようであるが、あとになるにしたがって天魔がついて、正気を失ってしまう。少輔しょうふ房のようなものである――と。
 もとより、これは京都の悪口をいわれているのではない。当時、鎌倉は東国の中心地ではあった。しかし、いまだ新興の都市であり、歴史が浅かった。したがって、長い伝統と権威を誇る京都の貴族文化に対する東国の人々のあこがれは、依然、根強いものであった。
 その意味において、当時、地方から「京にのぼる」ことは″権威と名声の華やかな世界に身を投じる″ことを象徴していたといってよい。″花のパリ″へ栄光の留学を果たしたような興奮でもあったかもしれない。まして、当時の最高学府ともいうべき比叡ひえい山に遊学しながら、京都の貴族社会に出入りするなどということは、想像以上に大変な名誉と思ったにちがいない。
 三位房は、そうした環境に酔いしれ、軽薄にも、いつしか自分の中身まで立派になったように錯覚していった。その姿を、大聖人は深く慨嘆がいたんしておられる。
 こうした人間の弱さ、おろかさは、現代もまた同じである。政界をはじめ、社会的に華やかで尊敬を受ける世界に入ると、「民衆のため」という初心を″はじめは忘れないようでいて″、あとでは次第に名利に流され、名聞に流されていく――。若い時期はともかく四十代、五十代となると、自分を自分でコントロールできなくなってくる人がいる。
 そうならないためには、いかなる立場になろうとも、信心の指導だけは、どこまでも謙虚に受け切っていく行動が大切である。信心の先輩と組織から「心」まで離れてしまっては、すでに危険地帯に入っていることを自覚しなければならない。
12  大聖人は三位房らの本質を「天魔つきて物にくるう」と仰せである。また経文には「悪鬼入其身あっきにゅうごしん(悪鬼その身に入る)」とある。
 姿は人間のようであっても動かしているのは、仏法で説く「天魔」であり「悪鬼」の力である。それらは人の心を狂わすものとされている。ゆえに「物にくるう」状態となり、どんな正しい道理も通じなくなってしまう。自分では、そのことが、まったく分からない。
 根本の「法」が中心ではなく、「自分」が中心となり、増上慢となってしまった三位房。ついには師匠である大聖人まで軽んじ、小バカにする心さえ生じてしまった。
 師敵対の少輔房も、もとをたどれば、上京を機縁として、虚栄と慢の心を増長させ、正しき信心と生命の軌道からはずれていった――。
 こうした前例を踏まえて大聖人は、三位房に同じ過ちを繰り返させぬために、厳愛の叱咤しったをされている。やはり、総じて指導者は、言うべきことは、きちんと言っておかなければならない。
 すなわち「御房もていになりて天のにくまれかほるな」――あなた(三位房)も少輔房のような姿となって、天の罰をこうむらないようにしなさい――と、厳しく戒められている。
 そして「のぼりていくばく幾何もなきに実名をうるでう物くるわし、定めてことばつき音なんども京なめりになりたるらん」――京にのぼって、いくらもたっていないのに、実名を変えたということだが、正気のさたとも思われない。きっと言葉つきや発音なども京都風になったことであろう――と。
 三位房は京に行って間もなく、名前を公家くげ風に変えた。一事が万事で、貴族という上流社会の軟風にび、迎合して、仏法よりも世間法を根本としていったのである。この三位房のいやしき心根を大聖人は嘆かれ、叱咤しておられる。″さぞかし気どって、話し方まで京都風になったことであろうよ″と。
 さらに、そのような見えっぱりの振る舞いに対して、「ねずみがかわほり蝠蝙になりたるやうに・鳥にもあらずねずみにもあらず・田舎法師にもあらず京法師にもにず・せう房がやうになりぬとをぼゆ」と鋭く指摘しておられる。
 ――ネズミがコウモリになったように、鳥でもなくネズミでもない。(それと同様に)田舎法師でもなく、京法師にも似ていない。少輔房のようになってしまったと思われる――と。
 ″いい調子になって、なにを気取っているのか。自分を見失った卑屈な姿は、まるで、どっちつかずのコウモリではないか。少輔房の悪い前例を見ておきながら、その二の舞いを踏んでいるではないか″とのおしかりと拝される。
 三位房は虚栄の心が強かった。ゆえに田舎の出身であることをバカにされないようにと、京言葉のマネをした。改名もした。そのようなメッキが、どんなに見苦しいものか、分からなかった。
 現代でいえば、信仰を持つことが最大の誇りであるのに、反対に、何か恥ずかしい、何か批判されないか等と、他人のような顔をする人もいる。また信仰者でありながら、それなりの立場を得たりすると、庶民の代表らしく、仏法者らしく、闊達かったつに進むことを忘れて、古き権威の亜流ありゅうとなり、クロウトぶることで立派に見えると錯覚する人もいる。
 それらの根底にあるのは、所詮しょせん、広宣流布を進める和合僧への軽侮けいぶの念である。その核心は「大法」そのものへの軽侮と不信にほかならない。権威への「卑屈さ」と、民衆の仏法への「おごり」は表裏一体なのである。もはやそれは正しき仏法の精神ではない。
13  大聖人は「言をば但いなかことばにてあるべし」――言葉はただ田舎いなか言葉でいるがよい――と、さとしておられる。何を恥じることがあろうか。堂々と、自分らしくいきなさい。どこにあっても、宇宙第一の大法を持つ大聖人の弟子らしく、ありのままに振る舞っていきなさい――との深き御心であったと拝される。
 しかし三位房には、何とか立派に育ててあげたいという御本仏の慈愛も深くは届かなかった。かえって大聖人がヤキモチから言われているとさえ曲解したかもしれない。
 ″大聖人だって、ただの人間ではないか。昔のことはともかく、今の京都の世界は、自分のほうがよく知っているんだ。うるさく言われる必要はない″などと――。
 かつて「バカは死ななきゃ……」と、うなった浪曲師もいたが、本当に愚である。もっとも牧口先生は「バカにつける薬がある」。それは妙法の良薬であると教えられたが――。
 何の道であれ、師匠に、どんなに厳しく叱られようが、つき放されようが、どこまでも信じしたがっていくのが本格的な弟子の道である。いわんや、弟子として師匠の言を何よりも第一義とするのが仏法の原則である。
14  民衆こそ広宣流布の主役
 大聖人は、ある御手紙で、御自身のことを次のように仰せになっている。
 「日蓮は中国・都の者にもあらず・辺国の将軍等の子息にもあらず・遠国の者・民が子にて候
 すなわち――日蓮は中央の都の者でもない。地方の将軍等の有力者の子息でもない。都から遠く離れた国の庶民の子である」――このように堂々と、また淡々と述べておられる。
 こういう御文を拝すると、私ども庶民は本当にホッとする。また感動する。
 みな庶民である。特別良い家柄の出でもない。両親も有名人ではない。地位もない。博士でもない。なんにもない。財閥ざいばつでもないし、家だって、どこにあるか分からないぐらい小さいかもしれない。
 けれども所詮、人間の九九%以上は、こうした名もなき平凡な庶民である。民衆である。この民衆を、現実に、どう幸福にしきっていくのか。この一点をはずして仏法はない。
 大聖人は、権威や権力と真っ向から対峙たいじしゆく民衆の中に、自ら御聖誕になられた。この事実自体、民衆の仏法としての深い意義が拝される。
 釈尊が国王の子として誕生したのとは対照的であるともいえる。しかし釈尊でさえ、王宮を捨て、生涯、民衆の中へ、民衆の中へと入っていかれた。ここに仏法の不変の精神がある。
 また大聖人が何のうしろだてもない「遠国の者・民が子」であられたからこそ、熾烈しれつなる大難が後から後から押し寄せてきたという構図も見逃せない。御本仏は民衆の代表として権力と戦ってくださったのである。また、あえて大難を受け、法華経を証明するために「たみが子」として出現されたとも拝される。
15  民衆を見下す既成の権威や勢力に対して、民衆自身が、ゆるぎない力を持ち、団結していかねばならない。その民衆自身の大変革運動こそ広宣流布の運動である。
 そうでなければ、人類は永遠に悪しき権力の奴隷どれいである。これほどの不幸はないし、この宿命を何としても打ち破っていかねばならない。
 そのために、壮大な民衆運動の波を、一波から二波へ三波へ、そして万波へと広げ、我が″一滴いってき″から永久の大河へと流れをつくっていかねばならない。
 その万年の道を目指し、その長征の途上にある。少々の波風は、むしろ当然のことであり誉れである。皆さま方は、どこまでも民衆のために、すべてを乗り越えながら、信仰者としての信念で進んでいっていただきたい。
 日蓮大聖人の御聖訓を信心のうえから拝するならば、今日、私は、信徒として、法華経のゆえに、広宣流布の途上にあって、誰びとにも増して最大の非難と迫害を受けてきた。ゆえに、その功徳と栄誉は、三世永遠に光り輝きゆくにちがいない。また共戦の皆さま方も同様であると確信していただきたい。
16  愚かな先例を教訓とせよ
 なお後世への「かがみ」として一言、触れておきたい。退転・反逆の者の末路の姿はどうであるか。御書には、こう示されている。
 「我が此の一門の中にも申しとをらせ給はざらん人人は・かへりて失あるべし、日蓮をうらみさせ給うな少輔房・能登房等を御覧あるべし」。
 ――我が一門の中でも、信心を最後まで主張し通されない人々は、かえって仏罰ぶつばちこうむるのである。(その時になって)日蓮をうらまれることがあってはならない。少輔房・能登房等の姿をご覧なさい――との警告である。
 少輔房・能登房が、具体的に、どのような末路をたどったか、今では分からない。しかし、ここに大聖人が、″その姿を見よ″と明言されているように、当時の人々には、歴然たる現証として、周知のことであったにちがいない。
 仏法の賞罰は、まことに厳しい。たとえ、かりに世法や王法をあざむき、その追及から逃れることができても、仏法律だけは、誰びともごまかすことはできない。
17  三位房も、大聖人から厳しくいましめられたにもかかわらず、やがて少輔房と同じように師弟の道から転落していってしまう。
 大聖人はこれらの者の心のはかなさを慨嘆されて「聖人御難事」で次のように仰せである。
 「をくびやう臆病物をぼへず・よくふか欲深く・うたがい多き者どもは・れるうるしに水をかけそらりたるやうに候ぞ
 ――憶病で、指導を生命に刻まず忘れ、そのうえ欲が深く、疑い深い(退転の)者どもは、塗った漆に水をかけ空を切るように、一向、教えたことが何のためにもなっていないのである――と。最近もまた、そのような人がいたようだが。
 世間の名聞の風に吹かれて憶病の心を起こし、求道心を失った退転の弟子らは、心が濁り、閉じてしまっているから、慈愛の指導も、漆にいくら水をかけても水をはじいてしまうように、むなしいものとなっていく。
 しかし、一人倒れても″地涌の義″で、二人、三人、五人と新たな人材が陸続と登場してくるのが法理である。愚かな先例を教訓として、むしろ若き逸材いつざいたちが洋々たる広布の歴史を、さらに正しく広くつくっていくにちがいない。
18  使命の青春の道を潔く
 さて、日淳上人は、大正十三年春、二十五歳の時に修学のため京都に旅立たれている。
 その折、先ほど拝した「法門申さるべき様の事」を自らの戒めとされつつ、次のような凛然りんぜんたる決意の一文をしたためておられる。
 「今日私は京都に遊学するに至って、さらに此の御文章に新しい種々の意味を発見し、そうして、いつも当面して居る様に思はれる。(中略)すべからく戒心して三位房のてつを踏まない様にしなければならんと思ふ」
 さらに、「世間法の蝙蝠こうもり畢竟ひっきょう(=つまるところ)悪象あくぞうにすぎないから、肉身を殺しても心はそこなはない、しかし出世間法に於ては悪知識である、うち仏祖ぶっそ(=大聖人)には獅虫しちゅう(=師子身中の虫)となり、そと伝法でんぽうして悪知識となる」と。
 つまり経文に「悪象等は唯能く身をやぶりて心を破ることあたわず悪知識はふたつともに壊る」と説かれるように、世法での「コウモリ」(さきに、大聖人が三位房への御書で仰せのこと)は身を殺しても心をそこなうことはできない。しかし仏法におけるそれは、心身ともにそこなってしまうと述べられているわけである。
 そして「御本仏の御法門は甚深微妙じんじんみみょうであって難解難入なんげなんにゅうであるに反して、学ぶものは鈍根小機どんこんしょうきなれば、教法を寸分違はず解了げりょうして、寸分違はず伝法教化することは、なかなか容易でない。稍々ややもすると蝙蝠こうもりになりやすい。折角せっかく出家発願しても悪知識となっては何もならぬ」と。
 僧侶として大聖人の仏法を正しく実践しぬいていくことがいかに難しいか。そして、「悪知識」の存在となることがいかに恐ろしいかを戒めておられる一文である。いわゆる「正信会」の僧には、こうした自戒がまったく欠けていた。
19  また、日淳上人は、厳格なまでに御自身を見つめておられた。すなわち、先の一文に続いてこのようにもおっしゃている。
 「一昨年教師の職にしてもらったが、て実際伝法教化の事に当って見ると、いよいよ自分の無能が明らかになってきた。信徒の根性を陶冶とうやし、我此土安穏がしどあんのんの境界に遊ばしめることなどは思ひもよらぬことでかえって信徒に懈怠けたいの心を起さしめ、或は教法を毀教ききょう(けなす)せしめるばかりであった。賢明なる信徒方も私の痴見痴行ちけんちぎょう(つたない言動)が即仏祖の教法だと考へられるからもあるが、要するに悪趣に至らしむる教師にすぎないことを知った。(中略)時に胸に手をあててようやく自分は黄口児こうこうじ(未熟者)であることに気がついた」と。
 大切な仏子を指導することがどれほど難しいか。また、その責任の重大さを、上人は青年時代からこれほどまでに真剣に考えておられた。そして「賢明なる信徒方」との仰せににじみ出ているように、信徒をどこまでも尊重されていた。
 上人はこれらの一文で、今のままではいけない。三位房のような愚かな先輩の「二の舞い」になってはならない、と自らを冷徹に反省しておられる。
 自分に安易な妥協を決して許さぬ、この純粋さといさぎよさこそ、まことの青春の心である。
 青年部諸君も、現状に甘んじて、己の保身や安逸のみを考え、名利に走るようであってはならない。そこには広布に生きる使命の青春はない。
20  さらに日淳上人は、この一文を次のように結んでおられる。
 「て此れから先の聖寿(大聖人が立宗宣言をされた三十二歳)には尚三四の間があるが、幾何いくらか智解ちげでも得ることができるかどうかあやしいものである。唯各位の御指教と御声援とによって到於彼岸とうおひがん(彼岸にいたる)したいものである。く蝙蝠法門に落入らずして仏知見を一分でも体得できたらば幸甚こうじんである」
 ――自分は未熟ではあるが、ともかくまだ若い。どこまで体得できるか分からないが、じっくり本気になって修行し、力をつけていこう――。このような上人の「心意気」が拝されてならない。
 そして「各位の御指教と御声援」との御言葉にあふれている、周囲の人々に対する謙虚な姿勢――。上人の御言葉を拝するにつけても、若くして偉ぶり、傲慢ごうまんであっては、本物のリーダーに育つことはできないことを痛感する。
 ともあれ、若き日蓮に三位房の転落の姿をかみしめながら、尊い仏子をどのように導くかを考え、自らの使命と責任を深く自覚された日淳上人の姿がここにある。
 どうか、青年部の諸君もまた、こうした自覚で広布に前進されんことを念願する。本日はかなり長時間の会合となったことでもあり、次の全国青年部幹部会でさらに話を続けさせていただきたいことを申し上げ、私のスピーチとさせていただく。

1
1