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日蓮大聖人・池田大作

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台東、中央区記念合同総会 人生最終章を信心で飾れ

1988.5.11 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

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1  ″向上の道″こそ″人間の道″
 台東区に、このような素晴らしい、皆さま方の講堂が完成し、心から祝福申し上げたい。かつての小さな台東会館からみれば、まるで夢のような殿堂であり、広布の大いなる発展を象徴している。まことに喜びにたえない。また、本日は台東・中央区の合同総会が急に開催されることになり申しわけない気持ちであるが、お元気な皆さまにお会いでき、本当にうれしく思う。
 昨日、聞いた話である。婦人部の親類の方が言っていたそうだ。「学会は本当にお人好しの集まりだ。以前は、一生懸命に供養した僧侶に裏切られ、いじめられた。今度は、一生懸命に支援した議員に裏切られ、全く今の時代に、こんなにお人好しの団体は世界中にないわよ」と言っていたそうだ。
 また「みんな学会の方々のように、まじめでないから、気をつけたほうがいいですよ」。「世間は、ずるくて、利用しあって自分だけが良くなればよいという人ばかりですよ」と。
 婦人部の方はこれを聞いて、「指導すべき立場の私が、反対に指導されてしまったわ」と。戸田先生は、よく荒海の玄界灘で育った魚は、身が引き締まっておいしい、と言われた。人間も信心もさまざまなことがあって鍛えられる。
 私も多くの世界の著名人と会ったが、自らの主義主張のために牢獄に入った人、生命に及ぶほどの迫害を経験した人ほど、深い、確固たる自分をつくりあげている。
 いわんや仏法は、もっと奥深い人格、境涯を説いている。信仰者にとって、苦難こそ大いなる喜びである。
 また、さまざまな悪口を私達に言う人達は、毒鼓の縁で、これまた仏縁を結ぶことになる。これが妙法の力用である。ゆえに、朗らかにまた朗らかに悠々と進んでいけばよいのである。
 私は時間を見つけては、功労の方々のお宅を訪問し、激励するよう努めている。先日も、八十三歳になられたご婦人のお宅にうかがった。この方は長年にわたって真面目に信心を貫き、広布に尽力された功労者である。この方が、しみじみと語っていた。
 「若いころに、学会活動で、広布のために戦う場所をいただいた。そのご縁で、今でも一日に一人は、そのころ面倒をみていた人が会いに来てくれ、いろいろな体験を聞かせてくれます」と。
 そして、三十年来激励し、成長を見守ってきた三人の方の体験を、私に話してくださった。指導部の方々には本当に教えられることが多い。
 まず、「Tさんという人は、昔、地区部長になって成果が出ないので班長に戻った。しかし、信心だけは一生懸命に励んだ。奥さんが肺ガンになった時には″よし、今が信心の力をみせるときだ″と、題目を唱えに唱えて頑張った。そして、とうとう奥さんも元気になって退院したそうです」と。
 草創期の活動は厳しかった。Tさんのように地区部長になっても、折伏の成果が出なければ、時には班長に″下がる″場合もあった。もちろん役職の上下と信心の強弱とはちがう。それは何よりも本人の奮起と成長を促すためであった。が、なかには役職が下がったことを根にもったり、怨嫉した人もいた。
 しかし、Tさんは一切を前向きにとらえて、信心に励んだ。ここにTさんのえらさがあった。
 御書に「心こそ大切なれ」、また「心を悟り知るを名けて如来と云う」と仰せである。いかに「心」を知り、「心」をどのように働かせていくか、そこに信心の精髄があるといってよい。
 その意味で、私どもの「指導」の眼目も、すべてを決定していく目に見えぬ「一念」「心」を成長と向上の方向に向かわしめ、鍛え磨いていくことにあるといえよう。
 ゆえに時として厳しく言わざるをえない場合もあるだろう。しかし、いくら誠意と真心を尽くしても怨みを抱いたり、逆らったりする人もいる。それで、もし、信心の正しい軌道から遠ざかり、幸福の道からはずれても、それは本人の責任と言わざるをえない。
 ともあれ、Tさんは、立派に信心の道を貫き通したがゆえに、勝利の人生を飾ることができた。
2  次に一婦人の体験を話してくださった。
 「この人には九人の子供がいますが、ご主人はあまり信心に熱心ではありません。このご主人が病気で倒れた時、唱題しようとしないご主人に代わって、九人の子供がかわるがわる唱題してくれたそうです。今は生活も″万々歳″とのことで、近ごろ珍しい和服姿でみえて、広布のお使いができると喜んでいました」と――。
 ″万々歳″とはいかにも指導部らしい、たいへんに素朴な表現ではあるが、信心の歓喜が生き生きと伝わってくる。
 信心にあまり熱心でない夫、そして九人の子供さん。おそらく、信心の活動も存分にできなかっただろうし、生活の苦労も、並大抵ではなかったと想像する。私には、夫をもり立て、子供達に信心を教えながら奮闘する一婦人の姿が目に浮かぶ。
 だが、いったん唱題をはじめれば、それは一人っ子の家庭の″九倍″である。これは強い。
3  さらに三人目のHさんについては、「Hさんは、かつては立派な家もあり、座談会場でもありましたが、グチが多かった人です。今は寝たきりの生活で、独り暮らしだそうです。電話では話せますが、信心は弱いようです。私は気の毒でなりません」と。
 そして「この三人は、かつて私が『三人組』と呼んで育ててきた人達ですが、それぞれ三十年以上の信心で、大きな差がついてしまいました。三人の姿は、私に信心の指導をしてくれているようです」と。
 三十年という歳月は、さまざまな人生模様を織りなしていく。たとえ一時期、裕福そうにみえたり、力を誇るようにみえても、人生の行く末というものは分からない。結局、この人生の「最終章」をいかに総仕上げできたかが最も大切ではないだろうか。
 私どもの信仰は、この人生の″最終章″を勝利と安穏で飾りゆく根本の方軌である。信心を貫き通した人が、いかに素晴らしい安らぎと満足の姿を示していることか。学会には、この八十三歳のご婦人をはじめ、多くの″模範″となる方々がおられて、私は本当にうれしく思っている。
 この高齢のご婦人はさらに、「毎日、御書を五ページ拝読していますが、頭が悪いので読み返しをして、なかなか進みません。死ぬまでには読みきりたいと思っています」と、近況を語っていた。″頭が悪い″どころか、実に立派な研さんと求道の姿ではないか。
 また、「御本尊様と一緒にいられるので、寂しくはありません」とも語っていた。私は、心から所願満足の人生を楽しんでいる姿に感動した。なお、この方は「ボケにならないように、自分でできることは全部自分でいたします」と毅然と言われていたことも、″若い″皆さまにお伝えしておきたい。
4  私もよく存じ上げている台東区のあるお母さんは、まことに強信な方であった。
 息子さんが、かつて学生部の関係で山崎某らと知り合いであった。しかし、まことに母親というのは、悪に対して本能的に鋭く本質を見抜く。お母さんは早くから「ああいう悪い人間とは、絶対つき合ってはいけない」と厳しく言っていたという。そのお母さんの話は今もって語りぐさである。
 仏道修行で最も恐ろしいのは、「悪知識」である。信心はどこまでも勇気と賢明さがなくてはならない。皆さまも、この一点を深く銘記し、福運と幸福への軌道を過つことなく歩んでいただきたい。
5  ここ上野講堂は、いわば″下町広布の殿堂″といってよい。
 ″下町″といえば、やはり庶民の街である。かつては、″山の手″に比べ、やや貧しいというイメージもあった。だが、今や、地価高騰で形勢は逆転、裕福でなければ″下町″には住めぬという人もいる。皆さま方は、まさに″黄金の土地″に住んでいるようなものである。
 しかし、何といっても下町の素晴らしさは、その温かな″人情″にある。ともすると現代社会では、親密な人間関係が失われ、人情が希薄になってしまう。そのなかにあって、下町には、今も脈々と人情が通っている。
 こうした下町の風情を、私はこよなく愛する。どうか、いつまでも、友情と信頼の花開く、人情豊かな下町であるよう、心から念願したい。
6  厳たる″正義の一人″こそ偉大
 話は変わるが、阿仏房といえば、大聖人の佐渡御流罪中に入信した信徒として、よく知られている。だが、同じく佐渡御流罪中に仏法に帰依し、大聖人を外護申し上げた中興なかおき次郎入道の名は、それほど有名ではない。皆さま方のなかにも、阿仏房は聞いたことがあるが、中興次郎入道の名は知らないという人がいるかもしれない。
 広布の舞台にあっても、同じように活動し、貢献していながら、人目につきやすい人もいれば、目立たぬ人もいる。一般世間でも同様である。同じ俳優やスポーツ選手でも、印象の強い人もいれば、薄い人もいる。
 だが、だれもがかけがえのない人材である。目立たぬ人に対しても、目立つ人以上に心を配り、理解しながら、全力で激励していくことが大切である。
7  中興次郎入道は、佐渡の中興に住んでいたので、この名がある。大聖人にお会いした時には、すでに、かなりの年配であったようだ。
 佐渡での入道との出会いから七年たった弘安二年(一二七九年)、大聖人は身延の地より、佐渡の中興家に、御手紙を送られた。そのなかで、次郎入道の外護の姿を、次のように述べられている。
 「上ににくまれたる上・万民も父母のかたきのやうに・おもひたれば・道にても・又国にても・若しはころすか若しはかつえし餓死ぬるかに・ならんずらんと・あてがはれて有りしに
 佐渡流罪は、現実には、ほぼ「死」を意味した。それほど、厳しい状況であったことを、まず述べられた一節である。
 ――私(大聖人)は、幕府に憎まれているうえ、日本国中の人も、父母の仇のように思っている。だから佐渡への道中でも、また佐渡の国においてでも、殺されるか、餓死するかであろう、ということで佐渡へ流されたのである――。
 しかし、大聖人には、厳然たる諸仏・諸天の加護があった。
 すなわち、「法華経・十羅刹の御めぐみにやありけん、或は天とがなきよしを御らんずるにや・ありけん、島にて・あだむ者は多かりしかども中興の次郎入道と申せし老人ありき
 ――ところが、法華経・十羅刹女の御加護によるものであろうか、あるいは天が、日蓮に全く罪科のないことを御覧になっていたからであろうか。佐渡の島にも、日蓮を憎む者は多かったけれども、中興の次郎入道という老人がいた――。
 「彼の人は年ふりたる上心かしこく身もたのしくて国の人にも人と・をもはれたりし人の・此の御房は・ゆへある人にやと申しけるかのゆへに・子息等もいたうもにくまず、其の已下の者ども・たいし大旨彼等の人人の下人にてありしかば内内あやまつ事もなく
 ――この人は、年配者であるうえに、心は賢く、身分も豊かで、佐渡の人々からも、人格者として尊敬を集めている人であった。この中興次郎入道が「日蓮というお方は、何かいわれのある立派な人にちがいない」と言ったからであろうか。その子息等も日蓮をひどく憎むことはなかった。また、それ以下の者達も、大体は中興一族に仕える人々であったから、主君である入道の意向が浸透して、内々では日蓮に害を加えることもなかった――。
 まさに当時は、日本国中で、狂ったような悪が大聖人を憎み、包囲していた。佐渡も例外ではない。念仏の信者らを中心に、憎悪が渦巻き、大聖人の住居の近くを歩いただけでも牢につながれ、厳しい取り調べを受けるような状況であった。
 こうしたなかで、次郎入道は「大聖人は立派な方である」と、厳として言いきった。これが、どれほど勇気のある一言であったか。また、周囲にどれだけ驚きと波紋を広げたかは計り知れない。
8  この、地域の重鎮の勇気ある一言は、周りの人々の意識を変え、徐々に、佐渡の環境をも変えていった。陰に陽に、大聖人をお守りし、慕う人々が増えていった。
 その発端となった地域の年配者の一言――その重大さ、ありがたさを、大聖人は心から賛嘆され、入道の言動を「諸天の加護」とまでたたえておられる。最初はたった一人であっても、「勇気」と「真剣」の一言が、いかに苦境を開き、正義を広めていく強固な「力」となるか。その重要性を、改めて痛感せざるをえない。
 次郎入道の影響力は、その人格の力によるものであった。「人と・をもはれたりし人」、つまり″人格者として信頼され、尊敬されている人″であったればこそ、その正義の一言に周囲の人も納得し、共感が広がった。まことに、人格の力は偉大である。
 それに対し、人格の破綻した人物が、権威を後ろ盾に、何を主張し、何を叫ぼうが、人の胸を打つことはできない。利害や損得、名聞の心からの脅しなど、すぐ見破られてしまうからだ。また、時とともに風化し、正邪はおのずと明快となる。
 大聖人がこの御手紙をしたためられた時、中興次郎入道は、すでに故人となっていた。つまり、遺族に対し、大聖人は亡くなった入道をしのんで、その真心を称賛されたのである。ここにも、永遠に門下を慈しみ、守ってくださる御本仏の大慈大悲が拝されてならない。
 次元は異なるが、私も、広布の先駆者の方々の功労を忘れたことはない。その誉れの足跡を最大にたたえ、顕彰していくことも私の使命と思っている。指導部のお宅へうかがい、真心の励ましを繰り返しているのも、そうした思いからにほかならない。
9  妙法の信仰を後継の遺産に
 大聖人は同じ御手紙で、後継の家族に対し、次のように仰せである。
 「貴辺は故次郎入道殿の御子にて・をはするなり・御前は又よめなり・いみじく心かしこかりし人の子と・よめとにをはすればや、故入道殿のあとをつぎ国主も御用いなき法華経を御用いあるのみならず・法華経の行者をやしなはせ給いて・としどし年年に千里の道をおくむか
 ――あなたは、亡き次郎入道のご子息であられ、御前はまた、その嫁である。大変に心の賢明であったお方(故入道)の子息と嫁であられるからであろうか。故入道殿のあとを継いで、国主も用いられていない法華経を信仰しているのみならず、法華経の行者である日蓮を養われて、毎年、千里の道を送り迎えして、御供養を届けられる――と。
 心賢く、心清らかに、そして心強く、信仰の大義を貫いた次郎入道――その親の姿に、子らもまた続いていった。ここに、確かな「後継」の方程式がある。
 また、たとえ、子供をもたぬ人であっても、広布の庭には、無数の若き仏子がいる。先駆者の尊い精神は、後輩の信心の鑑として、永遠にうたわれ、継承されていく。
 人間として生を受けた以上、人類の一員として、後世に何を伝え、残していくか。
 財産を残すという人もいるだろう。しかし、残した″美田″のためにかえって子孫が堕落してしまう場合もある。またいくら財産があっても、絶対に無常は免れえない。
 永遠に輝きゆく無上の遺産――それは、正法の信仰以外にない。その究極の″財産″を手にした幸せは、何ものにもかえがたい。
 ともあれ、広布の盤石なる基盤を築かれた皆さまの福徳は、三世に薫り、光彩を放っていくと確信する。
 この新しき広布の城を中心に、″「台東」「中央」よ、健闘あれ、栄光あれ″と心から念願し、叫びたい気持ちである。
10  人間の誇りと人間の尊厳を忘れるな
 次に、ある仏典に説かれた説話を紹介しておきたい。仏教では、さまざまな説話を通して、生命の本質を分かりやすく、また時にはユーモアさえ感じさせる語り口で説き明かしている。
 ここでは釈尊と、破和合僧の代表ともいうべき提婆達多との過去世における因縁についての話である。
 ――昔、婆羅斯はらなっし国(ガンジス川の中流、現在のベナレス付近)に一人の貧しい男がいた。彼は、その日その日を、木こりのまねごとをしながら何とか暮らしを立てていた。
 ある日、山で木を切ろうとしていると、虎が現れた。彼は驚き、恐れて、必死で逃げた。やっとのことで一本の大きな樹を見つけ、あわてて、よじ登った。一息ついて、ふと見ると、その樹の上には、一頭の熊がいる。
 木こりは、まっ青になって、身動きもとれずに、ふるえていた。すると熊は、少しずつ下りてきて言った。
 「こわがらなくていいんだよ」
 なおも恐れる木こりを、熊はあわれみ、やさしく抱きかかえながら、樹の上の安全な場所に連れていってくれた。
 おもしろくないのは、樹の下で、木こりを待ちかまえていた虎である。虎は樹を見上げながら熊に向かって叫んだ。
 「そいつは恩知らずの人間だよ。せっかく助けてやっても、あとで、あんたに迷惑をかけることになるぞ! どうして守ってんかやるんだ。樹の下に投げてくれ。そいつを食べるまで、俺はここをどかないぞ」と。
 この虎の言葉に、熊は答えた。
 「どんな奴でも、助けを求めて来た者を、見捨てるわけにはいかないんだよ」
 そう言われても、虎はあきらめきれず、おなかをすかせながら、じっと樹の下で待っていた。そのうち、熊は木こりに言った。
 「君をずっと抱きかかえていたので、疲れちゃった。すこし眠らせてもらうよ。その間、見張りを頼むよ」
 やさしい熊は、木こりのためにしてあげられることを、あれこれ考えながら、眠りについた。すると、すかさず虎が木こりに呼びかけた。
 「おい、木こり。お前も、いつまで樹の上にいられるか分からないぞ。熊を樹の下に落とせ。俺は熊を食べる。お前は助けてやろう。家に帰れるようにしてやろう」
 虎のすすめを聞いて、木こりは思った。
 「なるほど、虎は、いいことを言う。たしかに、ここにいつまでいられるか、分からないからな。わが身の安全を図った方が、利口というものだ」
 そして木こりは、眠りながらも彼を守ろうとしていた熊を、樹の上から突き落とした。その熊を虎は食べ、飽き足りると姿を消した。こうして木こりは、恩を仇で返して命を永らえた。
 しかし、やがて木こりは発狂してしまう。なぜか。恩ある熊を裏切ることによって、木こりは厳たる生命の「法」の軌道から決定的にはずれてしまったからである。
 親族も、八方、手を尽くしたが、なすすべもなかった。木こりは心迷い、意味不明の言葉を口走りながら、狂い走りまわるだけだった……。
 この熊が、今の釈尊であり、恩知らずの木こりが、今の提婆達多である――と経典は説いている。
11  こうした因縁を、釈尊は繰り返し弟子達に説いた。提婆の忘恩の生命が、いかに根の深いものであるかを示したのである。また、そのような最低の生命をも大きく抱きかかえながら、果てしなき仏法実践の旅を続け、正法流布へ歩み抜いてきたことを、淡々と語っている。そして弟子達に、″人間として知恩・報恩の道を全うせよ″と呼びかけている。
 なお釈尊が、法華経において、この提婆達多の「悪人成仏」まで明かしたことは、ご存じの通りである。
 仏法のスケールはあまりにも大きい。仏法の眼は、人間の醜い心も、卑しい心も、すべて冷徹なまでに鋭く見通している。そのうえで、時にはその滑稽なまでの愚かしさを、朗らかに、また悠々と微笑して見つめつつ、後世への戒めとしている。そして、どこまでも厳然たる「大法」に則って生き抜けと力強く教えている。
 ともあれ人間の生命には、底知れぬ闇の深淵がある。闇は深く、自分にすら見極めがたい。いな自分ほど、分からないものだ。ゆえに、どうしても師匠が必要となる。また、そのもとでの厳しい仏道修行が不可欠である。
 そして、この生命の闇を打ち破り、太陽のごとく赫々と照らしゆくのが、「妙法」であり、「信心」である。これ以上の大光は絶対にない。この素晴らしき正法を受持した以上、人や時代がどう変わろうとも、どこまでも自分らしい向上の道を、信念の道を貫き通していけばよい。
 波乱万丈の人生ドラマにあって、真実の「人間の誇り」を、そして人間の尊厳を堂々と示しきっていく″信仰王者″の歩みでありたい。そこにこそ、無上の大法に生きゆく大いなる「希望」があり「凱歌」がある。そして三世にわたって生命を飾りゆく喜びがあり、栄誉があるのである。
12  リーダーには会員を守る責任
 仏法は永遠である。ゆえに正法を奉じ、広めゆく学会も万代に不滅でなければならない。そのための峻厳な「信心」もまた、いささかも変わってはならない。
 そのために、何より大切なのは指導者の一念である。その意味から、ここで仏子を守りゆく指導者の「心」について、少々触れておきたい。
 本日、ご参集の各地域の広布の指導者の皆さま、また将来、大指導者と育つべき青年部の諸君に、何らかの成長の糧となれば幸いである。
13  弘安元年十月、大聖人が、四条金吾に送られた御返事の中に、次の一節がある。
 「今度の御返りは神を失いて歎き候いつるに事故なく鎌倉に御帰り候事悦びいくそばくぞ、余りの覚束なさに鎌倉より来る者ごとに問い候いつれば或人は湯本にて行き合せ給うと云い或人はこうづ国府津にと或人は鎌倉にと申し候いしにこそ心落居て候へ
 すなわち――このたび、あなた(四条金吾)が、身延から帰る道中のことは、魂を無くすほど心配しておりました。無事、鎌倉に帰られたことを私は、どんなに喜んだことでしょう。あまりに心配だったので、鎌倉から身延にくる人ごとに、あなたのことを尋ねたところ、ある人は箱根の湯本で、あなたと行き合ったと言い、ある人は小田原の国府津でと。そして、ある人が鎌倉であなたと会ったと言いましたので、ようやく安心したのです――と。
 なんとあたたかい、なんと心こまやかな御本仏の御姿であろうか。まさに、美しき人間性そのままの真心の御振る舞いであられる。
 当時、四条金吾は、正法の信仰ゆえに、敵から命を狙われていた。それは法華経を実践する者には避けられない、妬みの嵐であった。
 そのなかで、体調のすぐれなかった大聖人をお見舞いしたいとの一心から、身延を訪れた。金吾には医術の心得もあった。大聖人は金吾の真心の治療を最大に感謝されている。
 とともに、金吾の帰り道を、これほどまでに心配しておられた。身延から鎌倉まで、山越えの険しい道もある。いつ敵に襲われるかも分からない。また電話一本で状況を確認できる現代とは違う。大聖人は、鎌倉からくる人ごとに、一人一人に金吾の安否を尋ねられた。そして「鎌倉で会った」という報告を受けて、はじめて安心をされたのである。
 あるいは、このように思う人もいるかもしれない。″大聖人は御本仏であられる。すべて見通されていて、心配などなされないのではないか。無事を、ひとたび祈られたら、それで万事うまくいくのではないか″と――。
 御書に明らかなごとく、事実は決して、そんなものではない。どこまでもありのままの人間性あふれる御姿であられた。むしろ人間性の究極こそ、仏法の真髄そのものといえるかもしれない。
 「真心」には最大の「真心」でこたえられる。一門下の安否を「たましいを失」うほど心配される。会う人ごとに問わずにおられない。――親が子を思う心も及ばぬ真剣な御本仏の慈愛の御姿に、深き感動を覚えずにおられない。
14  また「祈り」も、こうした現実の、こまやかにして丁寧な心づかいと相まってこそ、より大きな力となる。
 大聖人は、この御文のあとで「是より後に若やの御旅には御馬をおしましませ給ふべからず、よき馬にのらせ給へ」と御注意されている。
 ――今後もし旅に出られる際は、馬を惜しんではなりません。よい馬にお乗りなさい――との仰せである。今でいえば、ポンコツ車ではなくて、安全のためにも、丈夫な良い車を使いなさい、そのために惜しんではならない――との慈愛の御指南である。
 これが門下に対する、御本仏の御心であった。尊き仏子を守り抜かんとされる、この御姿を私どもは、よくよく心して拝したい。
 たとえば会合がある。たくさんの方々が参加される。会合が終了し、そこで指導者の責任が終わったのではない。私は、その方々が全員、無事故で自宅に帰り着かれるまで会合は終わらないと考えている。そこまで見守り、見届けるように、気づかっている。それが大聖人の仏法を奉じ、仏子を守りゆく指導者の責任であると私は今日まで思ってきた。
15  真心で結ばれた同志の世界
 妙法流布に進む学会員の皆さま方は、お一人お一人が、みな尊き「仏の使い」である。御本仏のかけがえなき仏子であられる。何にもまして、その方々を尊敬し、守り、大切にしていくことは、仏法者として当然である。
 かりにも、最も大事な仏子を利用し、見下し、犠牲にしていく存在があれば、経文と御書に照らし、誰びとであろうと私は許さない。また、戦ってきた。ゆえに迫害も大きかった。くる日も、くる日も、早朝から夜半に至るまで、ただただ仏子の安穏を祈り、心を砕き、尽くしきったつもりである。これは御本尊の前で、私は断言できる。
 細かなうえにも細かな心をつかい、また大きく安全の屋根をつくり、広布のために苦労されている皆さま方を守ってきたつもりである。こわれかかった生命の器を直し、元気に蘇生させていく信心の指導も、こちらの生命をけずる思いでの労作業であった。
 疲れ果てることもしばしばであった。また、極めて多忙な身でもある。しかし私にとって「会員を守る」という一点ほど重要なことはない。その一点に心血を注いできた。学会員を思い、気づかう心において、私以上に実践してきた人は絶対にいないと確信している。
16  ともあれ、門下の一人一人を、どこまでも気づかい守られた御本仏の御振る舞いを拝しつつ、日々、辛労を尽くしきってきたがゆえに、今日の学会がある。決して組織のうえの命令や権威によるものではない。そのような形式で人の心をつかめるはずがない。学会はどこまでも信心のうえに、「真心」と「人間性」で結ばれた″心の世界″である。
 戸田先生は、逝去を前にした最後の指揮のなかで、こう言われていた。
 「学会は″雰囲気″を大切にしていきなさい。皆の楽しい、仲の良い″雰囲気″をこわす者は敵である」と。
 人間の心を熟知された戸田先生の一つの結論的指導であった。
 この、和やかな麗しい心の絆を、絶対にこわされるようなことがあってはならない。どこまでも朗らかに、潤いに満ちた、仲の良い台東、中央両区であっていただきたいと重ねて申し上げておきたい。
17  最後に、三日前の埼玉・朝霞圏幹部会での話の続きになるが、「僧俗」の意義について、再び述べておきたい。
 日達上人は次のように言われている。
 「大聖人様は一応は″日蓮が弟子檀那″と御言葉の上で(弟子と檀那を)二つに分けておるように思われますが、決して二つに分けておるのではなく、常に弟子檀那という一語の上に用いられておるのでございます。故に御義口伝には『日蓮等の類』と、こうお述べになっております。大聖人様を大将として、弟子も檀那も一結いっけつして、戒壇の大御本尊に向って、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、無作三身の御振舞いとお教えになっております。誠にありがたいことでございます」と。
 大聖人におかれては、「弟子」と「檀那」すなわち「僧」と「俗」は別々のものではなく一体であった――と述べられている。
 さらに日達上人は、日有上人の「化儀抄」を講義された際、次のように語られた。
 「(化儀抄の)百二十一ケ条の一番はじめに『貴賎道俗の差別なく信心の人は妙法華経なる故に何れも同等なり』と日有上人はおっしゃっていらっしゃいます。貴い人賎しい人、貧乏人も金持も、僧侶も俗人も皆妙法華経の信心の体である、信心の人である。だからその上からいけば皆平等である。決して違いはないのである。大聖人様も日興上人様も歴代の法主もわれわれも、僧侶も俗人も皆一体の妙法華経である。大聖人様の内証が南無妙法蓮華経の仏様である。そしてもしわれわれが信心をして本当の南無妙法蓮華経の信心の体になる時は一体である、師弟同体である。大聖人様もわれわれも結局一緒の体となるのである。そこに即身成仏があるということを(日有上人は)ちゃんと御説きになっておるのでございます」と。
 少々難しいかもしれないが、大聖人の法門の肝要を述べられた御言葉として深く拝していきたい。
 私どもは、これらの御言葉を拝し、僧俗和合の精神もさらに強く、広布にまい進していきたい。
 ともあれ、少数精鋭の台東区の皆さま、そして中央区の皆さまは、それぞれ同志は他の区より少ないかもしれない。しかし生涯にわたる功徳の豊かさ、広宣流布への信仰の使命の大きさは、いずこの県、いずこの区よりも偉大なり、と確信していただきたいと念願し、本日のスピーチとさせていただく。

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