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日蓮大聖人・池田大作

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埼玉・朝霞圏幹部会 正法の清流守る「和合僧」を

1988.5.8 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

前後
2  日蓮大聖人の当時、正法の僧侶や信徒の数は、今と比べればかなり少なかったと考えられる。それでも、五老僧をはじめ多くが、自らの増上慢から師敵対し、地獄への道を歩んだ。昭和に入っても、戦時下に、神本仏迹論しんぽんぶっしゃくろんのような邪説を唱えたやからがいた。いわんや、これだけの正法の興隆と広布の広がりのなかでは、さまざまな人間がいる。幹部で退転者が出たといっても、大聖人門下の退転者に比べれば、まったく取るに足らない存在であり、驚くにあたらない。
 もともと、六道の凡夫の住処である三界は、魔が充満する、いわば″魔のすみか″である。信心にわずかでもスキがあれば、すぐに悪鬼がその身に入り、魔の眷属となる。いわゆる「悪鬼入其身あっきにゅうごしん」の姿である。
 多くの人々がいう彼らの共通点は、名聞名利や金銭、女性問題等で学会にいられなくなったことである。そして、口だけはうまい。
 仏法では、魔は魔と見破れば、すでにヌケがらのようなものである。
 道に大石がころがっていれば、前進を妨げる。ゆえに、これは魔である。しかし、その石は、どければよいのである。少々の低次元な魔の蠢動しゅんどうなど悠々と見おろし、むしろ信心を深めていく良い機会と思っていけばよい。
3  いかなる道であれ、試練なき人生などありえない。人は、さまざまな試練を経て自身を鍛え、成長していく。信心の世界でも、それは同じである。
 学校にも、試験という試練がある。この試練に挑み、勝利してこそ卒業できる。柔道であれ、剣道であれ、歴戦を勝ち抜いてきた強者に勝ってこそ、日本一の「栄冠」に輝く。それは、当事者にとっては大変な試練である。だが、その試練なくして、輝かしい「栄光」も「歓喜」もない。もし、どこにも試験や試合がなかったら、目標もなく、ただ惰性だせいの人生となってしまうにちがいない。
 ともあれ、御聖訓に照らし、障魔との戦いは、成仏への不可欠な″鍛え″である。ましてや、正法に違背いはいした連中に悩まされることが、自分の罪を消してくれる。それだけ、ありがたい存在といわねばならない。ともかく仏法には、絶対に無駄がないのである。
4  和合僧を守る立場にありながら、難を避け、わずらわしさから逃げている幹部には、信心向上の燃焼もなくなるにちがいない。喜びも感動もなくなる。信心が惰性となり自分で重い罪をつくってしまう。
 反対に、信心の世界を清浄化させていこうとする、決意と行動のある人の胸中には、喜びがある。信心も深まり、限りない成長への道を歩み、無量の功徳と福運を招き寄せていける。ゆえに「憶病の心」であってはならない。ここに、いやまして福徳薫る勇者の人生となるか、苦悩の人生となるかの岐路きろがあるからだ。
 私はこれまで、数限りない嵐を受けてきた。しかし、微塵みじんも後退せず、力の限り戦い、走り抜いた。また、広布への労苦をいとうことなく、法のため、同志のために、心を砕きに砕いた。
 そのぶん、私は、御本尊から大功徳をいただいた。過分に思うほどの福徳と福運をいただき、これ以上の幸せはないと思っている。広宣流布のために、苦労し、戦える人生ほど、ありがたいものはないと私は強く申し上げておきたい。
5  ″母子とともに成仏″の法理を確信
 さて、きょうは「母の日」である。学会では、すでに五月三日に本年初の「母の日」をすませており、きょうは二度目となる。
 それにちなんで、大聖人御在世当時の門下・光日尼こうにちあまについて、少々、述べておきたい。
 光日尼は、夫に先立たれ、さらに、息子をも失った。その心痛と嘆きは、いかばかりであったか。大聖人は、その深い悲しみを思いやられ、温かく、全魂で激励されている。
 大きな苦しみの渦中にある人こそ、全力で励まし、温かく包んでいくべきである。これが仏法の精神であり、広布のリーダーの姿でなくてはならない。
 光日尼は、安房あわの国(千葉県南部)天津あまつに住んでいた。天津は、大聖人御聖誕の地・小湊こみなとの隣である。
 大聖人は光日尼に送られた御手紙で「我が国の事はくつらく・あたりし人のすへまでも・をろかならずをもう」――わが故郷の安房の国のことならば、日蓮に冷たく、つらい仕打ちをした人の行く末のことまでも疎(おろそ)かには思わない――とおしたためである。
 ここでは故郷の人々への深い思いを述べられているが、大聖人を迫害したり、冷たい仕打ちをした人は多くいた。しかし大聖人は、そういう人達のことまでも、できるだけ早く罪を消し、成仏していけるよう願い、祈っておられる。まことにありがたい御本仏の大慈大悲であられる。
 信心退転の人や破和合僧、謗法ほうぼうの者に仏罰は厳然であり、堕地獄は間違いない。退転や謗法の悪業は許されるものではない。が、それだけに、哀れであり、悲しむべき人々である。
 当然、次元は全く異なるが、この御文を拝するがゆえに私は、いかなる誹謗ひぼうの嵐があっても、誰も憎まないし、うらむこともない。澄みきった大空のような心境である。
6  故郷の人達への大聖人の御心を拝するとき、純粋に門下となった同郷の光日尼母子のことを、どれほど慈しみ、大事にされたことか。
 光日尼については詳しいことは不明であるが、御自身の御振る舞いを記された「種種御振舞御書」も、この光日尼に与えられたとされる。
 光日尼は、まず子息の弥四郎が大聖人に帰依し、そのすすめで入信したようである。弥四郎は武士であった。その人柄について、大聖人は「此の人は形も常の人には・すぎてみへ・うちをもひたるけしき気色も・かたく頑固なにも・なしと見えしかども、さすが法華経のみざ御座なれば・しらぬ人人あまたありしかば言もかけずありし」と。
 ――この人(弥四郎)は、姿、態度も人よりすぐれてみえ、考え方も頑固でないように見えた。しかし、なんといっても(大聖人が)法華経を講じている席であり、知らない人々も多くいたので言葉はかけなかった――と。
 大勢の人々に対し講義されている席でも、一人一人をよくごらんになっている大聖人の御様子がうかがわれる。この後、弥四郎は大聖人のもとを訪れ、個人的に御指導を受けている。
 そして″もし自分が先立つことがあれば、どうか母のことをよろしくお願いします″と大聖人に申し上げている。父のいない弥四郎にとって、母のことが気がかりでならなかったにちがいない。
7  その後、弥四郎は、武士としてやむにやまれぬ事件に巻き込まれる。そして人をあやめ、自らも非業の死を遂げる。残された母の嘆きはいかばかりであったことか。
 大聖人は、その光日尼の心を思いやられて、次のように代弁されている。
 「いかなれば・をやに子をかへさせ給いてさきには・たてさせ給はず・とどめをかせ給いて・なげかさせ給うらんと心うし」――どうして親と子をかえて、親の方を先立たせずに、この世にとどめおいて嘆かせられるのであろうか、とまことにつらいことである――と。
 これが、子供に先立たれた親の気持ちである。できるものなら、自分が子供に代わってやりたいと。
 皆さま方のなかには、″願いとしてかなわざるはなしの信心である。ましてや大聖人は御本仏である。親と子供の死が逆にならないようにできないのか、その願いは叶わないのか″と思う人がいるかもしれない。また、不幸な出来事が起こったり、幹部が退転すると、″どうしてそのようなことが起こるのか。信心していておかしいではないか″という人もいるであろう。
 しかし、それは御本尊への祈りが叶わないということではない。祈りは必ず叶う。その時は″なぜかな″と思うようなことも、結果からみれば、妙法に照らされて起こったことは、すべて最も良い方向へと向かっていく。凡夫の目には、そのときは分からないかもしれない。しかし、何があっても、信心を貫いていけば、時とともに、すべて深い意味があることが分かってくる。
 信心は、″一切が意味のあることであるし、最善のことになっている″と確信していくとき、広々とした、晴れやかな境涯が開けていくのである。
8  さらに大聖人は、光日尼に対して「人のをやは悪人なれども子・善人なれば・をやの罪ゆるす事あり、又子悪人なれども親善人なれば子の罪ゆるさるる事あり」と仰せである。
 つまり――親は悪人であっても、子が善人であれば親の罪が許されることもある。また子が悪人であっても親が善人であれば、子の罪が許されることもある――と。
 大聖人は、親子一体の成仏の道理を示されながら、母の祈りの力により、弥四郎の成仏は疑いないことを強調されている。
 この方程式は、親子、兄弟など家族の間の信心の在り方にも通じることである。ゆえに、たとえ家族に不幸なことが起こったり、また信心の道にたがう者が出ても、残された兄弟や家族が、しっかりと信心に励んでいけば、必ず救っていけるのである。
 子供に先立たれた悲しみにくれる光日尼は、大聖人の全魂込めた激励に、毅然きぜんと立ち上がり、やがて見事なる幸の境涯を勝ちえていった。
 皆さま方の中には光日尼のような立場にあるお母さん方もおられるかもしれない。それに似た境遇の方々もおられるだろう。また、将来、そのような方も出てくるかもしれない。そうしたことを含めて、何かの励ましのかてになればと、話をした次第である。
9  美しき同心の団結で広布を
 ところで「朝霞」といっても、頭の中が「カスミ」であったり、「教学」や「信行の実践」が、かすんでいるという方は、ここには、いらっしゃらないと思うが、これから少々、教学的な話をしておきたい。
 仏法者として敬信すべき三つの宝として「仏宝」「法宝」「僧宝」の三宝がある。
 日寛上人は「当流行事抄」に次のように言われている。
 「久遠元初の仏法僧すなわち末法に出現して吾等われらを利益したもう。の三宝の御力にあらずんば、極悪不善の我等いかでか即身成仏を得ん。ゆえまさに久遠元初の三宝を信じたてまつるべし」
 つまり――久遠元初の三宝である「仏・法・僧」が、末法に出現され、我らを利益りやくされる。もし、この三宝の御力でなければ、どうして極悪不善の我らが即身成仏できるであろうか。ゆえに、まさに久遠元初の三宝を信じたてまつるべきである――と。
 「久遠元初の三宝」とは、日寛上人の御指南の通り、「久遠元初の仏宝=日蓮大聖人」、「久遠元初の法宝=本門戒壇の大御本尊」、「久遠元初の僧宝=(開山)日興上人」であられる。
10  この「三宝」を破る″師子身中の虫″について、大聖人は、御書の中で「仁王経」の次の文を繰り返し引用されている。
 「災難対治抄」には「三宝を護る者にして転た更に三宝を滅し破らんこと師子の身中の虫の自ら師子を食うが如し外道には非ず」――三宝を護る者がかえって三宝を破滅させるのである。それは百獣ひゃくじゅうの王である師子が、自らの体に生じた虫によって食い破られるようなものである。仏法を破壊するのは、仏法と対立する外道ではない――と。
 この御文を拝するとき、近年の「正信会」の姿こそ、まさに、この経文通りであった。僧として「三宝」を護持すべき立場にありながら、「三宝」を破滅させようとした師子身中の虫であった。
 大聖人が諸御書の中で、幾度となく、この仁王経の文を引かれているのも、仏法の破壊は、外部からの敵ではなく、内部の者によることを、繰り返し教えてくださったのである。正信会こそ、近年の典型的な例であった。
 また、将来にも同じようなことが起こるかもしれない。
 しかし、二度とそのようなことを起こしてはならないとの強い思いを込めて、私は御書を拝して、ここにあえて申し上げた。
11  正信会並びにその眷属けんぞくによる仏法破壊の構図が、今や明確になってきた。その構図が浮き彫りになればなるほど、「三宝」を根幹として、総本山を外護し、広宣流布へと邁進まいしんしゆく創価学会の正義が、いやまして明らかになっている。
 思えば日興上人は、師敵対の僧俗を排し、濁流となった身延を離山された。そして清信の檀越だんのつ・南条時光の寄進を受け、大石寺を創建なされたのである。
12  僧俗一体にサンガの本義
 次に、アメリカやヨーロッパの若い宗教学者から、さまざまな質問も寄せられているので、「僧俗」について、触れておきたい。以前にも少々、お話をしたし、重複する点もあるかと思うが、仏教学者の中村元博士の学説を参考に、話を進めたい。
 まず「僧」とは、もともとサンスクリット語の「サンガ」を音写したもので「僧伽そうぎゃ」とも書く。「僧」の字は、仏教が中国に伝来してから作られた字ともいわれるが、「サンガ」の意味をとって「衆」「和合」などと訳される。
 つまり、古代インドで「サンガ」とは、本来、「団体」「集会」「会議」などを意味する言葉であった。それが転じて、政治上の「共和国」、経済上の「組合」も意味するようになった。仏教は、その名称を取り入れて、三人ないし四人以上の修行者の団体を「サンガ」つまり「僧」と呼んだ。仏教では、この″集まり″としての「サンガ(僧)」に深い意義を見いだしており、たとえば、この集いを「やぶるることなき集い」とも称賛している。
13  竜樹は「大智度論」で、この「僧伽」について、林と一本のの関係をたとえに、次のようにいっている。
 「多くの比丘(びく)が一処に和合することを僧伽そうぎゃ(サンガ)と名づける。たとえば大樹が群がり集まっている所を『林』という。一本一本の樹を『林』とはいわないし、しかも一本一本の樹を除いても『林』はないようなものである。このように一人一人の比丘を『僧』といわず、しかも、一人一人の比丘を除いても『僧』はない。もろもろの比丘が和合するがゆえに、『僧』の名を生ずるのである」と。
 「僧」というとらえ方のなかにも、一人一人を生かしながら全体の調和を図り、ともどもに前進していこうとの仏教の基本的姿勢が明快に示されている。
 よく″信心は一人でできるものではない″″自分一人での自由気ままな信心に、仏道修行があるのではない。一人では仏道修行を成し遂げ成仏への道を進むことができない″といわれる理由のひとつが、この点にある。
 ″信仰は個人的なもので、集団によるのではない″と、集団を否定する人がいる。しかし、それは単に個人の感情であって、仏法のいき方にのっとったものではない。やはり仏道修行は、集い合ってこそ、その基本に徹したことになる。その基本があって、成仏への切磋琢磨せっさたくまの修行がはじまるといってよい。
14  さて「僧」とは、もともと仏法を修行する和合の団体のことをいっていた。一人でも「僧」というのは、後になってからの用法である。
 この点に関して日亨上人は次のように述べられている。
 「一人を僧といわず、四人已上いじょうの共行集団を僧といひ和合を僧という定義なれば、その共心同行の団体中に自ら異義を唱えて退くも不可なり、いわんや他を教唆きょうさして同心共行を破するにいてをや」
 つまり「和合」の姿を「僧」という本来の定義からいって、自分勝手に異議を唱えて、その団結から退転することは、許されない。ましてや他人をそそのかして、美しい同心の団結を破壊するようなことは、絶対にあってはならない、との厳しき御指南である。
 この御文を拝するとき、正信会の言動が、自ら「僧」たることを放棄したものであることは、あまりにも明白である。
15  さて、仏教の教団は、もともと、どのように形成されていったのか。
 その源流には、釈尊の人格を慕って各地から集いきたったさまざまな人々の姿があった。釈尊は、彼らを平等に「わが人」と呼んだ。それらの人々によって、次第に集団(サンガ)が形成されていったわけである。
 ――はじめに「人」があった。慈愛と確信に満ちた大いなる人格と、その人を慕う人々との一対一の交流があった。これが仏法の出発点である。
 最初から、教えの内容を皆が必ずしも理解していたわけではない。また組織も、人々が多く集った結果として、自然な必要性のなかから発生していったものである。
 戸田先生もまた仏法の根本精神に則って、一対一の対話から始められた。そうした人と人とのきずなの広がりのなかから、学会の組織が生まれていった。
16  仏教教団の草創期においては、出家者も在家者も、ともに釈尊の「教えを聞く人」として平等であった。
 のちには一般的に「サンガ」(僧)は出家者中心の組織を指すようになっていく。しかし広い意味での「サンガ」は、あくまで仏教教団の全体のことであった。そこには僧俗の両方が含まれていた。すなわち「サンガ」は、比丘びく(出家の男性)、比丘尼びくに(出家の女性)、優婆塞うばそく(在家の男性)、優婆夷うばい(在家の女性)の「四衆」から構成されていた。
 仏典では″すぐれた四衆がサンガを飾る″として、「出家」と「在家」、また「男性」と「女性」という、すべての信仰者を包み込んだ教団の構成を誇りにしていた。僧俗の区別なき僧俗一体の姿こそ、「サンガ」の本義なのである。
 この点に関して、日達上人は、次のようにおっしゃている。
 「宗門におきましては、ただ行政上のことにおいて私どもは僧であり、皆様方は俗であると、一応こういうふうに僧俗の別というものを分けておりますが、元来僧とはインドにおいて僧伽そうぎゃという言葉でございまして、これを中国に翻訳ほんやくいたされまして、衆和合あるいは和合僧と、こう申すのでございます。それゆえ僧という言葉は、決して一人の単称ではないので、四人以上の複数のことをいうのであります。
 宗門においては、僧俗一結して和合僧を成すということが、本当の僧の意味でございます」と。
17  万人を救うための仏法
 いうまでもなく、釈尊の精神は″万人を救済しよう″というところにあった。その意味において、出家と在家は、決して差別されるものではない。
 有名なドイツの社会学者、マックス・ウェーバーは、こう書いている。
 「仏陀ぶつだの教説が初めから、一つの『僧侶』の宗教と考えられたかどうかは、非常に疑わしい。あるいはむしろ、それは決してそうでなかったという方が、確かであり、正しい。仏陀はその存命中、教団に住まない多数の俗人を涅槃ねはんに達しさせた、というのは明らかに古い伝承である」(「世界諸宗教の経済倫理2 ヒンドゥー教と仏教」深沢宏訳 日貿出版社)と。
 しかし釈尊の滅後、教団は、次第に出家者中心の教を展開していった。それは、いわゆる小乗教団の″部派仏教″の形成につながっていく。この方向性は一面からいえば、在家者の排除を意味した。
 これに対し、出家と在家を差別せず、″一切衆生を成仏させよう″という立場から興隆してきたのが初期の大乗仏教である。いわば大乗仏教は、″釈尊の精神に帰れ″という、仏教の原点を志向した運動であった。
 その大乗仏教の真髄しんずいは、いうまでもなく法華経にある。そして日蓮大聖人の仏法に脈打っている。
 大聖人は「椎地四郎しいじしろう殿御書」で次のように仰せである。
 「法師品ほっしほんには若是善男子善女人乃至則如来使と説かせ給いて僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は如来の使と見えたり、貴辺すでに俗なり善男子の人なるべし」と。
 すなわち法華経の法師品第十には、「の善男子、善女人、我が滅度の後、ひそかに一人いちにんの為(ため)にも、法華経の、乃至一句を説かん。当に知るべし。是の人は則(すなわ)ち如来の使なり」と説かれている。これは僧も俗も尼も女人も、ただ一人の人のためであっても法華経の一句でも説き聞かす人は、みな仏の使いであるという経文である。いま、あなた(椎地四郎)は俗人であるから、この経文の中の″善男子″に当たる。如来の使いでないことがあろうか――との御文である。
 「一人の人」のために真剣に折伏を行じる。その人は在家であっても、立派な「如来の使い」であるという明確な御指南である。
18  このように大乗の根本精神においては、「法」の前に僧俗の差別はない。この点について、日達上人は、先の文に続けてこう述べられている。
 「涅槃経に『僧は和合と名づく、和合に二有り、一には和合、声聞しょうもん等を名づく、二には第一義和合だいいちぎわごう菩薩ぼさつ等を名づく』と、こう説かれております。
 声聞は二乗根性と申しまして、自己本位の行だけを行い、自分の涅槃を極と考えておるのでございます。それゆえ、そういう声聞の和合僧を和合と申すのでございまして、今日一般世間でいうところの団体、あるいは派閥はばつ、党閥というようなものでございます。
 菩薩は化他けたを眼目としておるのでございまして、大乗の精神によりまして精進しょうじんするので、その集団を第一義和合と申すのでございます。我が正宗の信徒の場合、それが第一義和合でございます。
 これは僧俗の別なく、同じ信心の上に立つ一団を和合僧と申すのでございます。いまの言葉でいえば、僧俗一致などということができるのでございます。それは頭に毛があるのとないのを問わず、即ち有髪うはつ無髪を問わず、戒壇の大御本尊様を南無妙法蓮華経と拝し奉るすべての人が、和合僧の一団となって、我々僧侶と共に、その和合僧の一員であるということになるのでございます」と。
19  日達上人は、″声聞等の「二乗根性」の出家者は自己中心であり、自分さえ救われればよいと考えていた。そうしたエゴによる和合は、利害で結ばれた派閥のようなものである″と指摘されている。
 ″二乗根性″というのは、自分が一番えらいと慢心する。そして他の人への慈悲がない。だから苦労が多い一対一の弘教や指導・激励などは要領よく避けていく。実際、民衆のなかに飛び込んで、一人一人を正しく信仰させ、立派に成長させていく実践は、並たいていの労苦ではない。
 小乗仏教はもちろん、のちには大乗仏教まで、次第に現実の社会と民衆から離れて、閉鎖的な集団をつくっていった。この「民衆からの遊離」にこそ、インド仏教の滅亡の要因があることは、かつて申し上げた通りである。
 中村元博士も、教団組織という側面から、「仏教教団は在俗信者のことをあまり問題とせず、強固な俗人信徒の教団組織を形成しなかった」点を滅亡の一因として指摘されている(「インド古代史下」春秋社)。
 つまり、インドにおいて仏教は、家庭そして生活に根ざして、信徒を積極的、組織的に指導することをおこたった。そこに外敵によって、あっけなく滅亡したもろさがあったというのである。
 こうした見解は、他の多くの学者も一致している。現在でも、そのことに気がついて、努力している教団もあるが、実際には容易なことではない。
20  当時、出家者達は、王族・商人など有力な在家信者をたもち、たくさんの供養を集めていた。そうした財政的基盤があったからこそ、他の多くの民衆との接触を避けて、宗教的権威のカサの中に閉じこもることもできた。
 布施は受けるが面倒はみない――いかに″我尊し″といばってみても、そうした姿は、民衆とともに歩む煩雑はんざつな苦労からの逃避であり、在家者を自分達を支える″道具″としてしか見ない民衆蔑視べっしの表れであった。いうまでもなく、釈尊の精神からの大きな逸脱いつだつである。
 大乗仏教もまた次第に、自分達のみが理解できる難解な空理空論をもてあそぶ傾向が強まってくる。広く宗教の歴史を見ても、聖職者が信者を見下し、ただ利用するのみにいたった時、衰退への転落が始まっている。
 民衆と遊離した宗教に繁栄はありえない――この歴史の教訓を鋭く見抜いて、広宣流布のためには絶対に、盤石な″民衆の組織″が必要であるとされたのが戸田先生であった。
 その実現のための深き深き思索と、筆舌に尽くせぬ苦衷くちゅうと苦労を、私はよく知っている。それは大聖人の御遺命ごいめいである広宣流布への大責任感の発露であった。無責任な、また歴史の真実に無知な軽薄子けいはくしには、想像すらできないにちがいない――。
 このように戸田先生の慧眼けいがんと、それをりょうとせられた宗門との僧俗和合によってこそ、今日の広布の大発展があったのである。
 ともあれ、インド仏教は「強固な俗人信徒の教団組織」がないために滅亡した。その意味で、現代における創価学会の誕生が、仏教史的にも、どれほど大きな意義をもっているか計り知れない。この事実をあらためて明確に申し上げておきたい。
21  民衆への流布は学会の使命
 学会の重大な使命は経文に照らし、また歴代上人の指南に照らして明白である。
 法華経「見宝塔品」第十一では、釈尊が大衆に対して、滅後における法華の弘通を三回にわたってすすめ命じている。これを「三鳳詔ほうしょう」という。
 「鳳詔」とは、もともと「天子のみことのり」の意で、転じて仏の金言をいう。三箇とは「付嘱有在ふぞくうざい」「令法久住りょうぼうくじゅう」「六難九易ろくなんくい」の三つを指す。
 「付嘱有在」とは、「付嘱してることらしめん」と読む。「付嘱」とは「付与嘱託ふよしょくたく」の義で、仏が法を伝授し、その人に弘通を託すことである。
 また「令法久住」とは、「法をして久しく住せしめん」と読み、未来永遠に妙法が伝えられていくようにすることをいう。
 そして「六難九易」は、六つの難しいことと九つの易しいことを指す。仏滅後の悪世において法華経を受持し弘通することの難しさを、「六難」と「九易」の対比を通して示し、不退の覚悟に立った弘通をうながしている。
 大聖人は「開目抄」でこの「三箇の鳳詔」に触れられ、次のように仰せである。
 「法華経の六難九易をわきまうれば一切経よまざるにしたがうべし
 ――法華経の六難九易をはっきりとわきまえるならば、一切経を読まなくても、すべて読んだのと同じ結果になるのである――と。一切経の仏菩薩がすべて、この法華経の行者に随従ずいじゅうすることはいうまでもない。
 これは御本仏・日蓮大聖人の御ことである。そのうえで大聖人の眷属として、難を受けながら嵐の中を妙法弘通に邁進まいしんしていく実践の人の大いなる功徳と境涯をも確信すべきである。
 ともあれ「三箇の鳳詔」とは、末法万年にわたって妙法を広めゆく甚深の使命の人に呼びかけた経文である。
22  日達上人は、この「三箇の鳳詔」を通し、次のように学会を讃えておられる。
 「大聖人様の三箇の鳳詔によっても、いまの時代は御本尊を護持し、付嘱してあることをあらしめておるのはだれでありますか。学会であります。また令法久住のために死身弘法をもって、仏法を守護し、戒壇の大御本尊様を護持し、そして折伏をしておるのは学会であります。また、あらゆる謗法の難を破折し、六難九易を身をもって行ない末法の広宣流布を実現しておるのも学会であります」と。
 日達上人よりこのように称賛いただいた学会である。学会を軽視・蔑視することは経文と御法主上人を軽視し視することに通じる。
 また日達上人は、「訓諭」において学会を「清浄無比にして護惜ごしゃく建立の赤誠に燃ゆる一大和合僧団創価学会」と明確に位置づけておられる。
 そして学会の使命と僧侶の使命については、次のようにおっしゃている。
 「末法は総じて折伏でありますから、学会員の皆さまは折伏のうえの折伏、すなわち、別して折伏を行じ、われわれ僧侶は、折伏のうえの摂受、すなわち、別して摂受を行じておるということになるのでございます。これがわれわれ僧侶に与えられている使命と考えておるのであります」
23  ともあれ、日達上人がどれほど学会を大切に考えておられたか。私が第三代会長に就任した際、その祝賀会を総本山の大講堂で催していただいた。昭和三十五年の五月十三日である。その折、こうおっしゃった言葉が忘れられない。
 「先師日淳上人は、ご臨終のとき、僧俗一致と申されておりました。これはつねに私の耳にひびくことばであります。
 しかし、ことばのみでなく、私はこれを解釈して、学会員が折伏によってうける法難の苦しみは僧もともに苦しみ、僧のうける法楽も、学会のみなさんにもともに楽しんでいただく、苦楽をともにしてこそ僧俗一致がなりたつのだと思っております」と。
 宗門と学会は、このようにうるわしき僧俗和合の根本精神で、今日まで広布に進んできたのである。また、未来永遠にそうでなくてはならない。
 こうした言葉を拝する時、宗門を擯斥ひんせきされた正信会が、さも日達上人の意を体したように偽装しながら、実際にはどれほど日達上人の御心を踏みにじっていることか――。
 また仏法を知らない内藤某ごときが、日達上人の言葉を使いながら雑誌等に書きたてても、全くつじつまの合わない、上人の真意と無関係の独善そのものなのである。
24  また日達上人は、社会と生活に即して会員を指導する学会の在り方を深く理解され、大変に尊重してくださった。
 例えば昭和四十八年八月には僧侶方に対して次のように戒めておられる。
 「信者に対して驕慢きょうまんであってはいけない。また一寺の住職であるといっても、寺のことや宗門の学問のことは充分にわきまえているけれども、社会の生活の面においてはまことにうといのである」「お寺としては世間的生活指導はむずかしいのであってできることではない。世間の生活の本当の苦しみを知らないからしてそれはできないはずである。それを口先だけでもって指導しようという根性は今後やめてもらいたい。もしそういうことができたならば、どうか幹部の方へいってくれ、学会ならば学会の幹部へいってよく相談しなさい。また、法華講なら法華講の幹部へいってよく相談してもらいたいとはっきり言ってもらいたい。そこをあやふやにして、ああだこうだと自分勝手なことを言って、しかもその人を自分のものに手なづけておるということはもっとも危険な考えと思うのであります」「今まで学会なり法華講なり、十分に指導しておるのを横取りして、つまらない人情にかられて自分の子分にしようという根性がもしあるならば、今日以後止めていただきたいと思うのでございます」と。
 ともあれ、仏法即社会、信心即生活の原理のうえから、会員が安心して仏道修行に励めるよう指導していくのは学会の使命である。ゆえにリーダーである皆さまは確信をもって大切な友の激励、指導に走り抜いていただきたい。
25  これまでも、学会は総本山外護に尽くしてきた。大御本尊まします総本山をどこまでもお守り申し上げ、その発展に赤誠を尽くす精神は初代、二代会長以来、いささかも変わることはない。私も恩師の精神を寸分もたがえず代々の上人に御奉公申し上げてきた。
 昨年の十月十二日をもって正本堂建立十五周年を迎えたが、かつて日達上人は次のように仰せになっている。
 「本門戒壇の大御本尊は我が正宗の宗旨の根本であり、日蓮大聖人の御当体である故、我等正宗僧俗の魂である。此の大御本尊を正本堂は永久に守護し奉る建築物である」
 「池田先生が正本堂の建立発願は、かつての師、戸田城聖先生が正本堂建立を希望しながら時を得ず、世を去られたのであるから、その戸田先生の志を遠因とし、大御本尊を守護し奉る熱誠の表われとしての大願であろう」と。
 永久に大御本尊を御安置申し上げる正本堂を建立寄進申し上げた学会の福運は絶大であり、万代にわたり大御本尊から守られゆくことは間違いないと確信する。
 日達上人はさらに続けて、
 「まさしく昭和四十七年十月十二日正本堂は完成した。
 我が宗のシンボルマークは三つ羽根鶴の丸である。池田先生は正本堂の形として、白鶴の飛翔ひしょうする姿を着想せられたのであるから、正本堂は我が宗の紋章と期せずして一致したのである」と述べられ、次のように結ばれている。
 「大聖人は『阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房』と仰せになっている。此の言葉を借用敷衍ふえんすれば、
 『池田大作さながら正本堂、正本堂さながら池田大作』ともいえる。
 池田先生に二陣三陣の信徒は皆『さながら正本堂』でなければならないと思う。その覚悟が本門戒壇の大御本尊の守護を事行に修行することになると思うのである」と。
 まことにもったいない御言葉である。ともあれ、私どもは今後も、僧俗和合して永遠に広宣流布に邁進まいしんしていきたい。
26  妙法の″幸の泉″を満々と
 最後に再び朝霞の地に触れておきたい。
 朝霞は、いにしえから″水″にゆかりのある天地である。わき水をたたえ、その名も「泉水山せんずいやま」と呼ばれる地からは縄文時代の集落の遺跡が発掘されている。また、平安時代には台地のがけ下にわき出る泉の「広沢の池」を中心に開墾が進んだとも伝えられる。
 さらに、江戸時代になると市内を流れる「黒目川」の水で水車を回し、米つきや粉ひきが始められた。豊かな緑と水の流れ、川に沿って設けられた水車小屋――何とも優雅な武蔵野の詩情あふれる場面が目に浮かぶようである。
 そしてこの水車動力を利用して、有名な伸銅(銅の加工)が行われるようになった。今でも朝霞では伸銅工業が続いている。また現在、利根川を水源とする朝霞浄水場もあり、都民の水の供給地となっている。(朝霞の歴史については朝霞市教育委員会編「朝霞市 歴史道」、同「郷土朝霞」、「新編埼玉県史」等による)
 どうか朝霞の皆さまは、めども尽きぬ妙法の″幸の泉″から無量の福徳をわき出させていっていただきたい。そしてこれからも、埼玉第一の清らかな信心の模範の圏として前進されんことを念願して、私のスピーチを結びたい。

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