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日蓮大聖人・池田大作

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「創価学会の日」記念式典 「創価」の使命に無常の誉れ

1988.5.3 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

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1  広布の責任担う尊い陣列
 晴れやかな5・3「創価学会の日」、本当におめでとう。ともどもに、この記念の日を祝賀したい。また、婦人部の皆さまに対し、第一回の「創価学会母の日」を、心からお祝い申し上げる。
 この一年、私は、皆さまのご健勝とご長寿、そして「弘教の道」「人生の道」が事故なく、無限に開けゆくよう、御本尊に真剣に祈念してきた。それは、昭和三十五年の会長就任以来、少しも変わることがない。いな、近年、いやまして深く、強く、お一人お一人の「栄光」と「幸福」を祈念させていただいている。
 広布のため、日夜、弘教に奔走ほんそうされている皆さま方こそ、無量の功徳を満喫まんきつしゆく″幸の王者″であってほしい。胸を張って闊歩かっぽしゆく″人生の勝者″であってほしい。これが、御本仏・日蓮大聖人の御心であられると、私は確信する。また、牧口初代会長、戸田第二代会長の悲願であったし、私の切なる念願でもある。
 もしも、皆さま方が不幸になれば、それは、広布の指導者である私達の罪となってしまう。それほど、指導者の責任は重い。だからこそ私は、つねに真剣である。
 一瞬たりとも、時間を無駄にはできない。私にとって最も大切なのは、いかなる有名人、権勢の人よりも、広宣流布へとひた走る皆さま方にほかならない。
2  学会のお陰で、社会的に偉くなり、今の自分があるにもかかわらず、増上慢となり、傲慢ごうまんとなって、皆さま方に迷惑をかけている存在がある。それらに対して、私は今日まで、皆さま方を守るため、徹底的に戦ってきた。
 これからは、秋谷会長を中心に、幹部が団結して、勇気をもって、破和合僧の謗法の者たちと、私に代わって戦ってもらいたい。
 そのためにも、私は、この五月三日に、仏法の精髄せいずいともいうべきことについて何点か、論じておきたい。
 日淳上人は、戸田先生が亡くなった直後の昭和三十三年五月三日、第十八回総会の席で、次のように御指南された。
 「御承知の通り、法華経の霊山会りょうぜんえにおいて、上行を上首として四大士があとに続き、そのあとに六万恒河沙ごうがしゃの大士の方々が霊山会に集まって、必ず末法に妙法華経を弘通ぐづう致しますという誓いをされたのでございます。その方々が、今ここに出てこられることは、これはもう霊山会の約束でございます。その方々を会長先生(戸田城聖第二代会長)が末法に先達せんだつになって呼び出されたのが創価学会であろうと思います。即ち妙法華経の五字七字を七十五万として地上へ呼び出したのが会長先生だと思います」
 何とありがたき、慈愛のお言葉であろうか。日淳上人は、学会を最大に守り、その意義を喜び、宣揚してくださった。とりわけ戸田先生とも親しくされ、私にとっても御授戒してくださった忘れえぬ上人である。
 日淳上人は、我が創価学会こそ、仏意仏勅ぶついぶっちょくの団体であり、広宣流布の責任を担う、尊い誉れの陣列であると仰せである。
 その会員である皆さま方は、使命深き仏子である。その仏子を利用したり、誹謗ひぼうした者は、仏法に敵対する邪智の徒輩とはいであり、厳然たる仏罰がくだることは間違いない。
 また日淳上人は、創価学会の「創」の字について、次のように述べられている。
 「創ということはいうまでもなく『はじめる』ことでありますが、これははじめて造るとも、はじめて起こすとも申しますが、先生(牧口常三郎初代会長)の心においては後者であったと思います。(中略)これは無から有を生ぜしめるのでなく、本来、具有ぐゆうするものを発現する、あるいは、発現せしむるの心であられたと思います。(中略)価値は相待そうたいの世界行動の世界において発現するが、本然に具有する価値そのものが行動的でありまして、静止的なものでないのであります。もし、これを法華に見れば事行じぎょうということであろうと思います」
 妙法を広めゆく勇者の団体の名に、牧口先生が「創」の字を付したことに対する甚深じんじんの御指南である。妙法が、無から有を生ずるのではなく、生命に本来そなわった本然の価値を現していく大法であることを、牧口先生は深く知っておられた。また、大聖人の仏法は「事行」の一念三千であり、現実世界における価値創造の実証こそ重要であることを、牧口先生は、よくご存じであった。このことを、日淳上人は、称賛されたのである。
 妙法の正法正義にのっとった「創価」の深義と誉れを、私どもは後代まで、確かに伝えてまいりたい。
3  五十代は人生充実の節目
 さて、本年は「青年世紀の年」の晴れがましい開幕である。私は、これまで以上に、青年の薫陶に魂を注ぎ、後継育成に全力を尽くしていく決意である。広布の万代にわたる発展は、一切を若き鳳雛ほうすうたちに託していく以外にないからだ。
 かといって、青年部以外のメンバーが、大切ではないというわけではない。各部の活躍と団結があって初めて、盤石な未来が開かれる。
 その意味から、先日は、指導部の在り方について、種々、お話しした。きょうは四十代、五十代の、まさに″働き盛り″の方々に対して、少々、申し上げておきたい。
4  日蓮大聖人は、聖寿四十八歳の御時(四十九歳との説もある)、御自身と同年齢であった大田金吾に、次のような御手紙を送られている。
 「すでに年五十に及びぬ余命いくばくならず、いたづらに曠野にすてん身を同じくは一乗法華のかたになげて雪山童子・薬王菩薩の跡をおひ仙予・有徳の名を後代に留めて法華・涅槃経に説き入れられまいらせんと願うところなり
 ――私(大聖人)も、もう年は五十歳になろうとしている。余命も、いくばくもない。無意味に荒野に捨てるこの身を、同じことなら法華経のためにささげ、雪山童子が法を求めて身を投げ、薬王菩薩がひじを焼いて法華経に供養したあとに続き、また護法のために壮絶に戦い抜いた仙予国王や有徳王のように、我が名を後世にとどめよう。そして次に法華経・涅槃経が説かれる時には、我が名がその経典に加えられることを願っている――と。
 永遠の仏法の歴史に名を残す。また、燦然さんぜんたる広布史に名をとどめることが、どれほど誇り高く、また素晴らしいことか。
 いい家に住んだり、月給が上がったり、かわいいお嫁さんを迎えることも、それなりの喜びにはちがいない。優れた芸術を生み出すことも、確かに価値あることである。
 しかし、喜びや幸せというものは、やがて滅び、無に帰していく。ただ妙法という「法」のみが本有ほんぬにして常住である。この「法」に生きゆくことだけが、永遠の幸福へと連なる「無上道」なのである。人間として生を受け、これ以上の誉れはない。
5  大聖人は、この御言葉のままに、間もなく「竜の口の法難」にあわれ、「発迹顕本ほっしゃくけんぽん」される。それは、ちょうど五十歳の御時である。
 もとより次元は異なるが、学会の歴代会長も、それぞれ五十代に、大切な節目を迎えている。牧口先生は、五十七歳で入信。五十九歳で、学会を創立。戸田先生は、五十一歳で会長就任。私は、五十一歳で会長を勇退。その後も、それまでの何倍も働いてきた。
 一般的にも、社会、企業のかなめ、重鎮として、最も力を発揮し、腕をふるうのは、四十代、五十代である。いわば、最高の″人生の充実期″であるこの年代こそ、思う存分、戦い、崇高な目的のために走り抜くべき時と、私は強く訴えておきたい。
 五十歳を前にされた、この御手紙より、ほぼ十年後、聖寿五十八歳の折、大聖人は次のようにしたためられている。
 「去ぬる建長五年四月二十八日より今弘安二年十一月まで二十七年が間・退転なく申しつより候事月のみつるがごとく・しほのさすがごとく
 ――去る建長五年四月二十八日の立宗以来、今日の弘安二年十一月に至る二十七年間、退転なく、一年一年より強盛に妙法を弘通してきたことは、月が一夜一夜、満月に近づいていくごとく、潮が次第に満ちていくごとくであった――と。また、そのように題目を唱える人が増えてきたと仰せである。
 若い時代は、はつらつと成長していても、年齢を重ねるにつれ、″日々前進″の気概を失い、何事も億劫おっくうになっていく。これこそ、まさに″老化現象″である。進歩なき人生には、若さもなければ、喜びもない。停滞と不満が残るのみである。
 どうか、皆さま方は皓々こうこうと輝きを増しゆく月のごとく、また、刻々とみなぎりゆく海原の潮のごとく、一日一日、そして一年一年、限りなく上昇していける人生であってほしい。その向上の軌道を生涯、進むための信心であることを忘れてはならない。
6  少々余談になるが、平安時代、栄華の絶頂を極めた藤原道長が、十六夜いざよいの月をながめながらんだ歌は、あまりに有名である。
 「この世をば わが世とぞ思う 望月もちづきの かけたることもなしと思へば」
 この世は、私のための世の中であると思う。満月に欠けたところがないように、私にも何の不足もないことを思う――と。
 この歌を詠んだとき、道長は五十三歳。まさに″これ以上はない″といわんばかりの栄華と権勢を誇った。
 しかし、皮肉にも、それからの晩年の十年間は、満月が欠けてゆくように、運命は暗転していく。自身の病苦(糖尿病か)、また一族の相次ぐ死――。そうした悲運に、いかなる権勢もなすすべはなく、彼は、ただ念仏の哀音に″極楽往生″を願うのみであったという――。
 今も昔も、無常が人生の常である。そのなかにあって大聖人の「現当二世」の大法に巡りあった私どもは、今日より明日へと、幸福の坂をのぼっていくことができる。そして、大いなる「希望」と「生きがい」に満ちた学会がある。たがいに「勇気」をもって「励ましあう」同志がいる。「一生成仏」という無上道の道を歩んでいける。これほど幸福な人生はない。
 今、学会は、二年後の創立六十周年を目指している。私どもは全員、この創立六十周年を、盛大な記念行事で祝したい。そして、宗門では、この年は大石寺開創七百年の大佳節である。私どもの護法の真心で、最大に慶讃(けいさん)申し上げたい。
7  甲斐路をたどられた日蓮大聖人
 さて、総本山大石寺を開創された第二祖日興上人の御誕生の地は山梨(甲斐国かいのくに)である。この山梨の天地には、日蓮大聖人が晩年を過ごされた身延の地もあり、御本仏・日蓮大聖人、また第二祖日興上人に、まことにゆかり深き国土である。
 日興上人は寛元四年(一二四六年)三月八日、甲斐国巨摩郡こまごおり大井荘おおいのしょう鰍沢かじかざわ(現在の山梨県南巨摩郡鰍沢町)で誕生された。
 この鰍沢の地は笛吹川、釜無かまなし川、川の三つが合流し、富士川となる起点に当たる。また、広大な甲府盆地の入り口でもある。日興上人が誕生された三月八日は、新暦では四月二日に当たり、桃の花の咲きにおう陽春のころであった。
8  日蓮大聖人は文永十一年(一二七四年)、五十三歳の御年、この甲斐の国に入られた。以後、九年間、この地にあって、末法万年尽未来際の人類救済の法体を確立され、万代にわたる広宣流布の基盤を固められた。
 大聖人はなぜ、この甲斐の地を選ばれたのか。
 それは、甲斐以外の各地方は、幕府要人の所領地や他宗派の勢力の強い土地であり、さまざまな障害があった。また、戒壇を建立すべき最勝の地・富士山にも近い。さらに鎌倉からも、それほど遠くなく、幕府の動静を知るうえからも適当である。また、門下への連絡も比較的容易にできる距離にあるとの点が拝される。
 そして何よりも、この地が日興上人の弘教の地であり、日興上人の招請しょうせいがあったからである。
 大聖人の身延入山とともに、当時二十九歳の日興上人は、甲斐(山梨)・駿河(静岡)での弘教を本格的に開始された。
 両国への弘教は、日蓮大聖人が安心して隠棲いんせいをしていただけるように、また、将来、本門戒壇の建立が確実になされるように、との日興上人の御心であったと拝される。師匠である日蓮大聖人の御心を深く見通されての、日興上人の法戦であられたにちがいない。
9  弘安五年(一二八二年)九月八日、大聖人は身延を御ちになる。そして御入滅の地となる池上への道を歩まれる。
 以前にもお話ししたが、鎌倉から身延へ入られたさいは、駿河路をとられ、身延から池上へは、甲斐路をとられた。ちょうど富士山の表と裏を一周されたことになる。
 身延を出られた九月八日は、新暦でいえば十月十七日に当たる。甲斐の山々が、錦秋きんしゅうで、美しくいろどられるころである。大聖人は栗鹿毛くりかげの馬に揺られ、日興上人をはじめ門下に護られて、甲斐路を進まれた。
 大聖人が駿河路でなく、あえて坂の多い甲斐路をとられた理由の一つとして、富士南麓なんろくには、大聖人に敵対する北条一門が多かったことがあげられている。それはそれとして、御入滅を前にされた大聖人は、甲斐の門下の家に宿泊されつつ、池上へと向かわれた。
 すなわち、九月八日は下山しもやまで、兵衛四郎の館に御宿泊。翌九日には日興上人御誕生の地・鰍沢かじかざわへ。夜は大井荘司しょうじ入道の所に御宿泊。
 十日、富士川を渡られ、甲府盆地の南辺をたどって曽根の次郎宅に御宿泊。十一日、甲府盆地の東南の端にあたる黒駒くろこまへ。
 十二日、御坂みさか峠を越えて、河口湖辺の河口へ。ちなみに、この御坂峠から仰ぐ富士は、絶景といわれる。
 十三日、富士の登山口吉田の下にあたる呉地くれじへ。
 十四日、忍野おしのから山中湖畔を通り、三国みくに明神みょうじんの二つの峠を越え、足柄あしがらの西口にある竹之下へ。
 そして、さらに足柄峠を越え、相模さがみの国へ出、平から瀬谷(横浜市)を通られ、九月十八日、身延を出られて十一日目に、池上に到着された。
 この大聖人の最後の旅は、日興上人のふるさと鰍沢をはじめ甲斐の門下を全魂で激励され、あるいは法戦への謝辞を述べられながら、魂魄こんぱくをとどめての旅であられたと拝察する。
 大聖人の仏法も″妙法の戦人いくさびと″がいてこそ広宣流布できる。その意味で、日夜、法のため、人々のために、誠実に、真剣に戦っている皆さま方こそ、最も尊い。大聖人のご称賛もいかばかりかと、喜びにたえない。その尊き仏子である皆さま方を、どこまでもお守りしたいとの気持ちで私はいっぱいである。
10  「師弟の道」に「事の仏法」の根幹
 さて、大聖人からこれほど大切にされた甲斐の国であった。しかし残念なことに、大聖人御入滅後、ここからも師弟の道を踏みはずす違背いはいの徒が出始めた。
 師匠のいる間はよい。誰でも頑張ることができる。師匠のいなくなった後こそ問題である。日興上人は「師弟の道」の重要性について、次のように厳しく仰せである。
 「ほうもん法門は、しでし師弟子ただしてほとけり候。しでしだにもちがい候へば、おなじほくゑ法華たもまいらせて候へども、むげん無間ぢごく地獄おち候也」――この大聖人の法門は、師弟の筋目を正し、師弟不二の信仰に立って成仏していく法門である。師弟の道を少しでも誤ってしまったなら、同じく法華経をたもっていても、無間地獄にちてしまうのである――と。
 これは日興上人が、遠く佐渡の門下へ与えられた御手紙の一節である。日蓮大聖人、日興上人という師弟の筋目を正しく拝し、日興上人の弟子である日満阿闍梨あじゃりを中心に団結していくことを教えられている。
 日興上人が明確に仰せのごとく、師弟の道こそ大聖人の仏法の根幹である。この正道をわずかでもはずれたならば、たとえ御本尊をたもっていたとしても絶対に成仏できない。
 大聖人滅後、各地で自分勝手な邪見を唱え始める者がでた。彼らは″自分は大聖人の弟子である″と称しながら、師弟不二の日興上人につききることができず、結局、堕地獄の道を歩んでいった。
 どんなに言葉を飾り、もっともらしい論理を駆使くししようとも、峻厳しゅんげんな師弟の道を避ける者を、決して信用してはならない。
11  師弟の道を踏み外した日尊
 師弟の道の厳格さを示すエピソードに、日興上人の弟子・日尊にちぞんの史実がある。
 日尊については、かつてお話ししたことがある。彼は日興上人の講義中、庭の梨の葉が落ちるのをよそ見していただけで破門された。
 厳しすぎるように思えるかもしれないが、日興上人は日尊の生命にある驕慢きょうまんの心を常々、見破っておられたにちがいない。その慢心のため、彼は日興上人、日目上人に「信順」しきることができなかった。
 いかに教学等にすぐれていても、そうした増上慢の人が、将来、正宗の中心的立場になっていけば、必ず大聖人の精神を忘れ、正法正義からはずれていってしまう。そうなれば本人ばかりか、その人間についた人まで地獄に堕ちてしまう。ゆえに日興上人は日尊を厳しく戒められたと拝察される。
 仏意仏勅の使命に生きゆく学会にあっても、わずかな功労や地位、人気、学識等に慢じて、学会を軽く見たり、尊き仏子を見下す人間が我がもの顔に振る舞うようになれば恐ろしいことである。そのような増上慢の人間は、広布の邪魔になる。むしろ、いなくなったほうがよいのである。
 このような考え方も、皆さま方は常に聡明そうめいにもっていただきたい。お人好しであるだけでは、ずる賢い人間に利用されるだけである。信心の世界では、人を見下げたり、利用したりすることを絶対に許してもならないし、見逃してもならない。峻厳なる仏法の世界であるからだ。
12  この日尊の破門について、第三十一世日因上人は、こう述べられている。
 「師はこれ仏界なり、弟子はこれ九界なり。師弟和合して余念なきところは、事の一念三千の妙法華経なり。もし少しも余念あらば師弟不和なり。何をもって事の一念三千即身成仏を論ずべけんや」(「有師物語聴聞抄佳跡」)
 すなわち――師匠は仏界であり、弟子は九界である。仏界と九界、師と弟子が和合して、いささかの余念もまじらないところは、仏界即九界、九界即仏界の深義があらわれ、「事の一念三千」の妙法華経のすがたとなる。しかし、もし少しでも余念があれば師弟不和となる。それでは、どうして事の一念三千・即身成仏を論ずることができようか――。
 ″師弟一体の実践のなかにしか成仏はない″とのご断言である。
 そして「ゆえに日尊余念おこして飛葉を見る故に十二年の御勘気をこうむる事を引いて以て末代の弟子をいましむる者なり。後代の弟子いよいよつつしむべし慎むべし」(同)と。
 つまり、日尊が師の講義にさいして余念を起こし、飛葉を見て十二年の勘当を受けた。この史実は、成仏への唯一の道である「師弟の道」の厳格さを後世の弟子に教え、戒めるものであると述べられている。
13  日尊は勘当中の十二年間、毎年、日興上人のおられた重須おもすの門前にある桜の木の下に来て、はるかに御影堂みえいどう等を敬礼したという。破門の身であり、入りたくとも入ることも許されない。後悔してもしきれない。
 その桜の近くに一つの石があった。日興上人は日尊をあわれまれて、人にいって、竹の皮の円座を石の上に敷かせておられる。日興上人の深き御慈愛がしのばれるエピソードである。日尊は、この円座にすわって赦免しゃめんうた。しかし、それでも日興上人は許されなかった。それほど仏法の師弟は厳しい。ひとたび余念を起こし、いささかでも師を軽んじた罪は、仏法に照らして容易なことで許すべきことではなかった。
 大聖人の仏法をほうじて進む学会の世界においても、この厳格さは同様でなければならない。
14  歴代会長の厳格な精神忘るな
 日淳上人は、戸田先生の逝去七カ月後、十一月九日に行われた学会の第十九回総会の席上、次のように講演された。
 「今日この創価学会の方々が、戸田会長先生が師匠として教えられて来られました所を、一歩も踏みずさずに遵奉じゅんぽうをして益々ますますその道に邁進まいしんせられようとせられること、このことが真の妙法華経の道を実践躬行きゅうこうすることであるのでございまする」と。
 学会の「師弟の道」に徹するところに、妙法の真の実践があると明言しておられる。
 戸田先生は牧口先生との師弟の道を貫かれた。私も、戸田先生の教えられた通りに、まっすぐに生き抜いてきた。三代の会長が、この師弟の道に徹したゆえに今日の学会の大発展がある。この一点を、いささかも軽んじ、見失ったならば、もはや正しき広布の前進はありえない。日淳上人の仰せのごとく、それでは真の妙法の実践ではなくなってしまう。後世のために、このことを、あえて申し上げておきたい。
 人類待望の「生命の世紀」ともいうべき二十一世紀は、刻々と近づいている。
 この最も重要な、素晴らしき晴れ舞台へと活躍しゆくのは、青年部の諸君をはじめとする、我が地涌の勇者である。いわば皆さま方は″久遠よりの特使″であり、いかなる世界のリーダーにもまさって使命も深き、仏法の指導者であられる。
 その限りなく大切な皆さま方の「成長」と「活躍」と「長寿」を、心の底より祈りに祈って、本日の私の記念のスピーチを終わりたい。

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