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日蓮大聖人・池田大作

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第3回全国青年部幹部会 「生命の大法」で時代を蘇生

1988.4.29 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

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2  さて、三十一年前の昭和三十二年八月十八日、北海道の第一回体育大会が札幌で開かれた。私も主催者側の一人として出席した。
 戸田先生は、逝去の約八カ月前でお体も大変であったが、この大会に出席され、青年への期待を込めて、次のように激励された。
 「初代の会長は、青年が大好きだった。私も青年が大好きです。おおいにたのみとしている」と。
 これが第一声であった。戸田先生の言葉は、「社会」と「人生」の正しき軌道を明示した仏法哲理に基づいて、青年達の限りない成長と幸福を願われての「慈愛」の発露であった。
 戸田先生は、続けて言われた。「皆さんの双肩そうけんには、東洋の指導者として、人材として立っていく任務がかかっている。きょう、北海道の青年の姿を見て、おおいにたのもしさを感じている。日本民衆の先駆(さきが)けとして立っていくことを願って、私の訓示にかえる」と。
 もし戸田先生、牧口先生が本日のこの席におられて諸君の姿を見られたならば「いやー、すごいな」「うれしいな、うれしいな」と、どれほどお喜びになられることか。
 そのような光景を心に描きながら、牧口先生、戸田先生の「魂」を私の「心」に入れて、諸君をいつくしみ、守り、そして未来に期待し、一切を託す思いでお話ししたい。
3  人生を無限に開く妙法の力用
 戸田先生は、実にさまざまな逸話やたとえを通し、私どもに仏法の道理を分かりやすく教えてくださった。
 私はその一つ一つを胸中に刻み、自身の成長のかてとしてきた。
 若き日々を、恩師のもとで、一日一日、一瞬一瞬、誰よりも真剣に戦い学んだ。また純白な心のカンバスを、恩師の教えで染めぬく実践の日々であった。
 そのなかで、先生はよく、一切をよりよく変化させゆく妙法の無限の力用の譬えとして、病原菌と戦う「白血球」の話をされていた。
 そのお話のごとく、白血球の一種である「リンパ球」は、次々と体内に侵入してくる有害なバクテリアやウイルスと、熾烈しれつな「戦い」を繰り広げている。リンパ球がこの「戦い」に負けてしまえば、人体は病原菌に侵され、死に至ることもある。ゆえに一瞬たりとも、リンパ球は動きを止めない。
 しかも体を守るために戦うべき「敵」の種類は、あまりにも多い。いわば人間の身体、そして生命それ自体が、外敵との不断の「戦い」によって支えられているわけである。
 このことに関連して、昨年、ノーベル生理学・医学賞を受賞した利根川進博士の研究が、興味深い事実を解明している。
 すなわち、生命体のもつ「免疫めんえき」のシステムでは、遺伝子レベルの変化によって、体内に入ってきた実に一億種類以上の異物に対して、「抗体こうたい」をつくり出し、その異物を取り込んでしまうことができるという。
 したがって、たとえば宇宙ではじめて出あうような未知の外敵にも、即座に対処する力があるともいわれる。それはまさに、「限りなき生命の可能性」を示す一つの証左といってよい。
4  次元は異なるが、私どもの人生、生活、そして広布の前進も、激しい「変化」の連続である。そこには思いもよらぬ障害、障魔との「戦い」が次から次へと待ちうけている。これは、御書に繰り返し述べられている通りである。
 しかし、一切の不幸と苦悩を打開しゆく「根源の法」たる妙法を信受した諸君である。朗々と題目を唱え、胸中に仏界の生命を涌現していくならば、自己の無限の力と可能性をひき出していける。あらゆる苦難を乗り越えていけるにちがいない。
 どうか諸君は、大確信に立って、いかなる強敵にも微動だにせず悠々と乗り越えていく「幸福の王者」「信仰の勇者」へと育たれんことを、心から念願する。
5  ″精神の推進力″失った物質文明
 ところで、ヨーロッパを代表する美術史家であり、またすぐれた哲学者でもあるフランスのルネ・ユイグ氏は、深い理解と尊敬で結ばれたかけがえのない友人の一人である。氏は今年八十二歳。ますますお元気に、精力的な仕事をしておられる。この五月三日にパリで開幕する「永遠の日本の名宝展」ならびに私の写真展にも、さまざまに協力を寄せてくださっている。ちなみに氏の誕生日は、この記念すべき「5・3」である。
 もともとユイグ氏に会うことを私にすすめたのは、故アーノルド・トインビー博士であった。博士はユイグ氏をはじめ、ローマクラブの故アウレリオ・ペッチェイ会長ら二十人の方々に会うことをすすめてくださったが、多忙でまだお会いできていない方もいる。
 さて、ユイグ氏は、私との対談集「闇は暁を求めて」のなかで次のような趣旨を述べている。″物質文明に覆われている現代においては、「自分の人生に対する責任」という概念は消滅してしまった。今や人間は、一人で自分の欲望と向きあって、快楽の満足だけを目指している。人々は当座のことにのみ追われており、「なんのため」とその存在の意味を問うこともなくなり、生命の原動力を失ってしまった″――と。
 つまり、人間を限りなく高め、向上させゆく″精神の推進力″が、現代文明から失われつつあることを憂慮しているのである。たしかに、享楽と欲望に流される現代においては、人間は″何のために″生まれたのか。また政治、経済、科学といった人間の営みは″何のため″にあるのか――。こうした最も根源的な問いかけはもはや、なされなくなりつつある。
 ユイグ氏はその重要な背景として、従来の「因果論」を説く、いわゆる既成宗教が現代人の目には″時代遅れ″と映り、人々の「心」をとらえられなくなった点を挙げられている。
 よきにつけあしきにつけ宗教の力はまことに大きい。
 そしてユイグ氏は、こうした意味から生命の大いなる「飛躍」と「蘇生」の源泉として、仏法、なかんずく私どもの運動に、心からの期待を寄せられている。真剣に時代を憂うる超一流の人物の眼には、私どもの重大な使命が、あまりにも、はっきりと見えているのであろうか。
6  問題は、正しき「生命の因果」を、一体、誰が教えてくれるのかである。そこに、生命の大法を説き明かした法華経の教え、現在においては日蓮大聖人の正法を、誰もが真摯しんしに求めていかねばならない重要な理由がある。
 大聖人は「開目抄」において、仏法と他の哲学を比較されて「外典・外道の四聖・三仙(中略)其の名は賢なりといえども実に因果をわきまざる事嬰児のごとし」と厳しく指摘されている。
 儒教の四聖や、バラモン教の三仙は、その名は″賢人″であるとはいえ、実際には、「生命の因果」の道理をわきまえないことは、まるで赤ん坊のような幼稚さである――との仰せである。
 四聖・三仙といえば、外道の最高峰といってよい。――といっても、何がすごいのか、よく分からないという人のために、特別に分かりやすく、現代的に、そのイメージを言えば、ノーベル賞なら十や二十、独りじめするような大学者であり、あらゆる人々から尊敬されている、諸学問の祖ともいうべき賢者である。
 四聖とは、師弟の道を明らかにした四人のことで、尹寿いんじゅ務成むせい呂尚りょしょう(太公望のこと)・老子を指す。三仙とは、迦毘羅かびら漚樓僧佉うるそうぎゃ勒沙婆ろくしゃばの三人である。何だか舌をかみそうな名前だが、それぞれ「因果」についての独自の説を主張した。しかし結論していえば、それらは、みな仏法の初門もしらない偏見に執着したものである。
 どんな大学者であれ、有名人であれ、財力、権力の人であれ、自身の「生命の因果」に通じているとは限らない。にもかかわらず、心おごれる余り、この根本の重大事について、真剣に、また謙虚に求めていかないとしたら、あまりにも愚かであり、残念なことである。その錯誤さくごは、永遠にわたる生命の軌道に決定的ともいえる狂いを生じさせていくからだ。
 大聖人は、ある邪見の僧に対し、「一期の大慢を以て永劫の迷因を殖ること勿れ」――(短い)今世における大増上慢によって、未来永劫に迷い苦しむ因を植えつけてはならない――と大慈悲をもって破折されている。
 よくよく心に刻むべき御金言であると拝される。
 これに対し、諸君は、若くして、この深遠な生命の法理を学び、行じている。そして、あらゆる人々に大法を教えていく立場である。この光輝ある重大な使命に、いやまして、深き自覚と誇りを持つべきである。
7  苦難もすべて「仏の慈悲」と確信
 「生命の因果」「人生の幸不幸」――これらについて人が真剣に考え始めるのは、多くの場合、自身が切実な不幸にあった時ではないだろうか。
 何ごともない安穏な時には、なかなか人生の重大事には思いいたらない。その意味でも、苦難こそ、より深き人生への大切なステップなのである。また、そうしていかなければならない。
 もとより、何らかの苦難なき人生など、ありえない。幸福そうに見える生活も、裏返せば、それが不幸を感じる因となる場合が人生には、あまりにも多い。そのことは、経験を積み、年輪を重ねるほど、ありありと見えてくる。
 たとえば、祝福されて結婚しても、子供が病気で生まれてくる。経済が行き詰まる。火事や事故、離婚や一家の不和、人間関係のもつれなどで、生涯苦しむ場合もあるかもしれない。また、ある高名な方で八十を過ぎ、功なり名をとげてから、最後は夫妻で焼死したケースさえある。まさに凡夫には″一寸先は闇″である。不幸など自分には関係ないことだ等と断言できる人は、いないであろう。
 平穏無事ぶじなら無事で、年齢とともに、むなしさがつのってくる。忙しそうに充実して動いているようであっても、自分を見つめることができず、さびしさ、わびしさから逃げ続けているにすぎない人もいる。
 笑顔の底に悲しみがある。楽しさの後を空虚さが追う。苦しみ、悩み――それが避けられない人生の現実である。
 しかし、それでも人間は生き続けていかなければならない。では、どう生きるのか。どう苦しみを真実の歓喜へと変えていかれるのか……。この万人にとって最大にして根本の課題を解決したのが大聖人の仏法なのである。
8  それでは、正法の信仰によって何が変わるのか。
 仏法では苦悩の原因を過去の罪障ざいしょうとする。この悪因をどのように転換しゆくかに、法の高低浅深があらわれる。
 そのくわしい論議は、時間の都合上、略させていただくが、大聖人の仏法は「本因妙ほんにんみょう」の仏法である。すなわち仏となる根本の″因″を妙法華経と明かされ、ただ御本尊の受持のみによって、仏の「因行」も「果徳」もすべて今世で得ていかれると教えられた画期的な大法である。
 一次元からみれば、この大法を受持した以上、もはや罪障も罪障ではない。すべて仏界の大境界を開きゆく重要なカギとなる。煩悩ぼんのうは即菩提ぼだいであり、苦難は即安楽である。
 日淳上人は、青年時代の論文の中で、こう述べられている。
 「現在を苦しいと見ている間は、過去の因は罪障とせられるが、一歩進んで現在が仏の光に照らされた時には、もはや罪障ではなくて仏の慈悲である」
 また「妙法を信じ御本仏の慈光に浴する私達にとっては、災難はもう災難でない。短命もなお長命である。不運も不運でない。みんな仏の慈悲である」と。
 まことに納得できる素晴らしい御指南であると思う。また、そうでなければ真実の仏法とはいえない。
 ただし日淳上人は、このあと「かくいふは理論である。妙法の行者にとって、かようの理論は無用の長物である」と述べられ、「一心にただ仏を祈ること、それでいいのである」と仰せになっている。何よりも大切なのは、微動だにしない「信心」の実践であると。
 日淳上人はまた別の論文で、こう書かれている。
 「(大聖人)は『苦を苦と悟り楽を楽とさとって一心に仏を見る心で妙法を唱え、そうして強く生きなくてはならぬ。世法の外に仏法はない仏法の外に世法はない。もっとも円満なしかも正しい生活を送る人が、とりもなおさず仏になり得るのである』と仰せられた。末法の我々の衆生の生活を真にかみわけ充分に理解して導きの手を御示しになったのは日蓮大聖人の他にない」と。
 苦しみにつけ、喜びにつけ、一心にただ一生成仏を願い、妙法を唱えていく。何があろうとも、そのたびに一歩また一歩、強き心で広宣流布へと勇んで進んでいく。その強盛なる「信心」を貫く人こそ、瞬間、瞬間、かぎりなく御本尊の大慈悲に生命が包まれゆく人である。「本因妙の仏法」の、この素晴らしき醍醐味だいごみを、日淳上人は教えてくださっていると拝される。
 「罪障」といっても、凡夫には、過去世のことは自覚できない。目にも見えない。手にとることもできない。
 当然、謗法ほうぼうは厳しくいましめなければならない。しかし、いたずらに罪業の観念にとらわれ、何となく、うしろ向きになって、重苦しく過去に縛られたようになっていくとしたら、それは日蓮大聖人の仏法の正しき実践とはいえないと私は思う。
 どこまでも未来を志向し、未来を煌々こうこうと照らし進みゆく。ここに「現当二世」の大聖人の仏法の真髄がある。
9  信心していたとしても、決して悩みが消えてなくなるわけではない。十界互具が生命の実相であり、仏界にも苦悩の九界がそなわる。また九界の現実に即してしか仏界の顕現もない。
 大切なことは、苦難ある時に、絶対に、ひるまぬことである。仏の慈悲と確信して、いよいよの強盛な信心で進むことである。
 「信仰しているのに、なぜ……」などと弱々しく疑ったとしたら、その弱き一念が、一念三千の法理に則り、三千次元に回転して、ますます苦しみの境涯をつくっていく。これでは、強信とはいえないのである。
 その時点で、凡夫にはわからなくても、長い目で見る時、必ずや、その意義がわかってくる。また「変毒為薬」していける。これは私の四十年間の体験のうえからも絶対に間違いない。
 五年でわからなければ、十年でわかる場合もある。十年で自覚できなければ一生のうちに、わかってくる場合もある。また三世という永遠の観点から見れば、すべてが御仏智なのである。目先にとらわれた皮相的見方の青年であってはならない。
 「転重軽受てんじゅうきょうじゅ」の法門がある。この法門もまた、苦難が仏の慈悲であることを、教えられていると拝される。
 大聖人は、障魔との戦いの渦中にあった池上兄弟に対し、次のように激励されている。
 「今生に正法を行ずる功徳・強盛なれば未来の大苦をまねぎこ招越して少苦に値うなり」――今世において正法を行ずる功徳が強く盛んであるため、(本来であれば地獄に堕ちるべき)未来の大苦を、今世のうちに招きよこして、今こうして少苦にあうのである――と。
 正法護持の功徳、すなわち「護法の功徳力」によって、未来に大苦を受けるはずの重い宿業を転じ、現世に軽く受けていく。この「転重軽受」の法理を、よくよく確信しきっていかなければならない。また信心の深さに応じて、ある程度、そうした実相は感じとれるものである。
 たとえば、かりに事故にあっても、もっとひどい、他の多くの人をまきぞえにするような大事故を未然に、軽く受けたという場合もあるであろう。他にも同様のケースは数限りなくある。
10  さらに、ここから、三世永遠の生命観に立った「難の意義」も明瞭めいりょうになる。
 つまり、あえて様々な難にあうことによって、重く暗き悪因悪果の生命の流転を、今世においてすべて転換し、晴れやかにして、すがすがしき仏界の大境界へと、我が生命を壮大に開ききっていけるのである。
 この「転重軽受の法門」また「護法の功徳力」について、大聖人は佐渡流罪中の「開目抄」「佐渡御書」で、御自身の御姿に即されて仰せになっておられる。
 つまり、もったいなくも大聖人は、示同凡夫じどうぼんぶの御立場から、御自身が大難を受けておられる御姿を通して、末法万年の門下のために、″なぜ難にあうのか″を示してくださっている。そして″難を乗り越える信心″を教えてくださっている。この一点は、人生においても、広布においても、かなめとなる御指南であると確信する。
11  三年前の秋、私は十日間、入院した。はじめてのことである。しかし客観的には、いつ倒れても決して不思議ではなかった。入信以来、四十年間、また戸田先生の遺志を継いで、三十年近く、走りに走ってきたからだ。
 ″三十までしか生きられない″といわれた弱い体で、働きぬいてきた。走りに走ってきた。つねに嵐と戦ってきた――。
 入院の件はマスコミ等でも大きく報じられた。あらぬ憶測や、利害や思惑おもわくがらみの姑息こそくな動きも数多くあった。しかし私は、それらのさざ波を達観していた。
 私は、この病は、仏の大慈悲であると深く実感していた。もう一度、一人立って、真の総仕上げを開始すべき″時″を教えてくださったと確信した。
 今こそ、本当のものを語っておこう。後世のためにも、本格的に、あらゆる角度からの指導を、教え、残しきっておこう。そして創価学会の真実を、その偉大なる意義と精神を伝えきっておかなければならない――と。
 それまで、学会も盤石にしたし、教えるべきことは教えたとも考えていた。しかし、この病気を契機として、私はこれまでの十倍、二十倍の指導を残そう。十倍、二十倍の仕事をしよう、と決意した。そして、以前以上に、いやまして真剣に走り始めた。これからも走っていく。
12  ともあれ、これから諸君の人生にあっても、大なり小なり、苦労と苦難は避けられない。しかし、すべては諸君を大樹へと育てゆく仏の慈悲と確信してもらいたい。
 そのことを確信し、堂々と一切を乗り越え、難あるごとに、いよいよ強く、いよいよたくましく、いよいよ朗らかに人生と広布を開いていく、「信仰王者」として生き抜いてもらいたい。
 確かに仏法は、仏と魔との戦いである。牧口先生は、よく次のように言われていたという。
 「生命を、幸福へ向かわせる仏の住み家(か)とするか、逆に不幸へと向かわせる魔の住所とするか、どちらか一方をとらなければならない」と。また「すすんで魔の働きをかり出し、これを退治たいじしてこそ幸福と広宣流布とがある」と。
 まさに、先駆者・牧口先生の透徹とうてつした信心をしのばせる正しき指導である。
13  今に脈打つモスクワ大学創立の精神
 昨日、ソ連対文連のイワノフ第一副議長と、種々懇談した。私は、政治・経済体制や思想・信条の違いを超え、同じ「人間」としての立場から、あらゆる国の人々と会い、友好の対話を重ねている。それが私の信念でもある。
 モスクワ大学のログノフ総長とも何度も語り合った。総長は「場の量子理論」「素粒子」を専門とする世界的な物理学者である。昨年秋、来日した折にも、京都大学や早稲田大学等で学術講演をするなど、自らの研究とともに世界の多くの大学との交流に尽力されている。
 先日、ソ連で、ログノフ総長との対談集「第三の虹の橋――人間と平和の探究」のロシア語版が発刊された。その書評が、ソ連の新聞や雑誌に掲載されるなど大きな反響を呼んでいるという。
 この対談集も、人類の未来のために何らかの示唆ともなれば、との願いで発刊されたものである。
 私は、同総長と「平和」と「文化」、そして「人間」「哲学」「科学」などについて、幅広く論じ合った。また、創価大学の創立者として、「社会、世界に開かれた大学」の在り方、「平和と文化のとりで」としての大学の使命等についても、意見を交換した。
 ログノフ総長の思想と行動の中には、モスクワ大学の輝かしい伝統、なかんずく創立者・ロモノーソフの精神が脈打っていることを知り、深い感銘を覚えた。
14  ロモノーソフ(一七一一〜六五)は、十八世紀、ロシアの大科学者であった。その研究活動は幅広い。物理学、化学、地理学、天文学、地質学、鉱物学など、広範囲に及んでいる。彼は、フランスの化学者・ラボアジエ(一七四三〜九四)に先立って、「質量不変の法則」を確立したとも評価され、さらに文学、歴史学の分野でも大きな業績を残している。
 ロモノーソフは、白海はっかい沿岸の漁村の貧しい家庭に生まれた。十九歳の時、モスクワに出て、苦学を続け、さらにドイツに留学して学問を修めている。その当時、教育を受ける機会は、貴族階級に限られていた。
 貧しい家に生まれたロモノーソフの青春は、苦闘の連続だった。しかし、彼は苦学を続け、ついに科学者として大成する。
 そして、未来の青年達に「ロシアの大地から多くのプラトンたち、また優秀なニュートンたちが生まれるだろう」との希望と確信を託して、一七五五年にモスクワ大学を創立したのである。
 しかし当初は、大学の校舎も木造の小さな家屋だったという。
 ロモノーソフは、貧しく、苦学した。それだけに「科学は、すべての者にそれを獲得する自由が与えられているので自由な<科学>と呼ばれている」。「郊外の農民や不自由な人々も大学で学ぶ必要がある」(世界教育史研究会編「世界教育史大系15 ロシア・ソビエト教育史Ι」講談社)と述べている。
 また彼は、大学の付属学校も開校し、教育の場を広く民衆に開いた。
 モスクワ大学は、正式には「ロモノーソフ記念モスクワ国立大学」と称される。創立者・ロモノーソフを誇りとして、大学の名に彼の名前を冠している。
 まさしく創立の精神、創立の心は、二百年の歳月を超えて、今なお大きな実を結び、同大学から多くの優秀な人材を輩出するまでになっている。
15  今から約四十年前の入信直後のことである。当時の世間は、学会の存在など誰人も知らなかった。その時、私は戸田先生に「将来、青年部の中から必ず、多くの博士、実業家、政治家が出てきますね」と申し上げた。先生は、うれしそうに、「そうだな。必ず出るよ。広宣流布をしていくのだから」といわれた。
 現実はその通りとなった。未来もまた同じ方程式によって無限に開花していくにちがいない。また戸田先生は「大作、学会の本当の偉大さが分かるのは二百年後だ。二百年先まで考えて、広布の盤石な路線を作っておくのだ」ともよく話されていた。
 モスクワ大学は、創立の精神を受け継ぎ、二百年の歳月を経て、世界一流の大学として開花している。戸田先生が常々「二百年後、二百年後」といわれていた意義も明白となるであろう。今はその過程の時代である。
16  中国現代史にきざまれた長征の偉業
 さて私は、しばしば、様々な方から著作や出版物を頂戴ちょうだいする。先日も、ある方から新刊の書物をいただき、さっそく一読し、深く胸に迫る感動を禁じえなかった。アメリカの著名なジャーナリスト・ソールズベリーの「長征――語られざる真実」(岡本隆三監訳、時事通信社刊)という本である。
 長征――その偉大な足跡については、私も、青春の日に詳しく学んだ。若き革命児の一人として、当然、学んでおくべき歴史であったし、また青年リーダーとして、誰よりも深く掘りさげ、身につけるべきであると実感していた。戸田先生とも、長征をめぐり、種々、語ったことが懐かしい。
 ソールズベリーは、この本の執筆にあたって、徹底的な取材・調査を行っている。たとえば、「長征」のほぼ全行程を、彼は自ら踏破(とうは)した。本書の随所に見られる生き生きとした叙述は、こうした著者の「事実」に対する峻厳な姿勢から生まれたものであろう。これが、ジャーナリストの真の在り方といってよい。
17  周恩来首相・鄧穎超とうえいちょう女史ご夫妻は、私の長年の友人である。このお二人をはじめ、中国の最高指導者の多くは、この「長征」に参加している。
 こうした方々は、この、すさまじいまでの労苦を経験し、いわば、それを人格の″滋養″とされてきた。青春時代に苦労した人こそ、最も指導者の資格をもつといってよい。
 中日友好協会の会長を務められた故・廖承志(りょうしょうし)氏も、長征に加わった一人である。
 かつて北京でお会いした折、私が高齢の氏の健康を気づかったことがある。その時、廖氏は「私たちのように長征に参加した人は、体のどこかがおかしくなっている」と話されていた。それほど、長征とは壮絶なる戦いであった。今も、その一言は、鮮烈に、私の胸に刻まれている。
18  いうまでもなく「長征」とは、国民党の勢力に包囲された中国共産党の紅軍こうぐんが、新たな根拠地を求めて行った大遠征のことである。
 その距離は、江西省こうせいしょう瑞金ずいきんから陝西せんせい省・延安えんあんに至る、約一万二千五百キロに及んだ。日本列島の長さが約三千キロといわれるから、そのおよそ四倍に当たる。まさに「二十世紀の奇跡」とされるにふさわしい、歴史的な偉業であった。
 長征が行われたのは、一九三四年(昭和九年)から一九三六年(昭和十一年)の、約二年間である。ただし、主力の第一方面軍は、一九三五年に遠征を終えている。
 この長遠な行軍が開始された昭和九年といえば、私は六歳。少々、古い呼び方になるが、″尋常小学校″に入学した年である。残念ながら、まだ諸君は生まれていない。
 また、この年には、我が学会においても、地方会員の組織化が進むなど、広布の活動に新たな展開が見られた。牧口先生の「創価教育学体系」全四巻が完成し、戸田先生の日本正学館が設立されたのも、この年である。
 今日の「発展」を築きゆくための基盤作りは着々と進んでおり、まさに創価学会の「広布の長征」も、人知れず、このころに開始されていた――。
 中国の長征が終わった翌年の一九三七年には、蘆橋ろこうきょう事件が勃発ぼっぱつ。日本は、中国侵略の泥沼に入り、軍国主義の″狂気″が一気にエスカレートしていく。日本は、ひたすら、破滅への坂を転がり落ちていく。
 そうした狂った世相にあって、牧口先生、戸田先生が、真っ向から軍国主義と戦い、国家神道と戦ったことは、諸君がよくご存じの通りである。学会は大弾圧を受け、壊滅状態となる。
 しかし、この苦難の歴史こそ、一大平和勢力としての学会の不動の「原点」となっていく。あらゆる国の民衆から信頼され、期待される平和集団としての基(もとい)が、この時、初代、二代の両会長の命をけた苦闘により、構築されたのである。これこそ私ども門下にとって最大の誉れであり、誇りである。
19  不屈の魂が歴史をひらく
 長征の旅路が、どれほどの険路であったか。
 第一方面軍の場合、出発時の八万六千人は、一年後の到着時には、わずか四千人ほどになっていたと、ソールズベリーは記述している。また、全体としても、延々たる行程を全うしえたのは、およそ十分の一であったといわれる。
 まことに多くが、途中で死亡し、また脱落していった。それほど紅軍の遠征は、あらゆる種類の障害と苦難に満ちていたといわねばならない。
 まず第一に、自然は、あくまでも過酷であった。
 彼らが渡った河川は二十四、越えた山々は一千(ソールズベリー)。しかも、川も山も、日本のようにスケールの小さなものではない。さらに彼らは、道なき道にも挑み、未知の奥地へと踏み込んでいった。
 第二に、敵の軍隊はどこまでも追撃の手をゆるめず、容赦(ようしゃ)なく襲ってきた。空からも、敵機の来襲が相次いだ。
 第三に、紅軍内部にも、絶え間なく裏切りや分裂の策動があった――。
 周恩来首相は、のちにこの長征を振り返り「最も暗黒な時代」と述べている。しかし彼は続けていう――「それでも、われわれは生きのびた」(ディック・ウィルソン「周恩来」=田中恭子・立花丈平訳、時事通信社)と。
 長征は、いわば″死″と″絶望″のふちに立った、苦渋くじゅうと険難の行軍であった。しかし、紅軍は、最悪ともいえる数々の障害をはねのけ、見事に目標に到達した。
 ソールズベリーは言う。長征とは「危機一髪の敗北と災厄さいやくが次から次へと襲ってきた闘いを生き延びた人間の凱歌であった」――。
 この「凱歌」が、その後の中国の歩みのなかで、どれほど重要な意義をもったかは、計り知れない。
 極限ともいえる苦難に負けることなく、逆境のなかを戦い、生き抜いた不屈の「魂」。これこそ、その後の抗日戦争を「勝利」とし、新中国建設という「栄光」をもたらしたものにほかならない。厳しい環境のなかで磨かれ、鍛え上げられた強靭きょうじんな「魂」が、歴史の新たな舞台を開く″源泉″となったのである。
 戸田先生のもとで学んだホール・ケインの小説「永遠の都」に、次のくだりがある。
 「常に断崖だんがいふちを歩いてきた人間にとって、最大の緊急事態も、いわば日常茶飯さはんの出来事にすぎません」(新庄哲夫訳、潮文庫)
 以前にも紹介したことがある一節だが、忘れられない言葉である。
 私も、「常に断崖の縁を歩いてきた」一人であると思っている。魔の軍勢との闘争は、つねに総力戦であり、ギリギリの戦いであった。ゆえに私は、不眠不休で力を尽くし、働いてきた。
 その壮烈な激戦の渦中を進んできたがゆえに、私は、どんなことにもたじろぐことはない。動揺することもない。ケインのいう″緊急事態は日常茶飯″との心境は、手にとるように分かるつもりである。いずこの世界であれ、まことの″戦人(いくさびと)″の心とは、こうした透徹した″覚悟″をもっているものである。
 諸君も、また、信仰という最極の「魂」と「覚悟」をもった一人一人である。いかなる苦難があろうと、堂々と、揺るぎなく、広布の大目的へ前進していけばよいのである。その真実の素晴らしき人生に、諸君は徹してもらいたい。
20  ソールズベリーによれば、長征の主力部隊には、約三十人の女性が参加していた。彼は、彼女たちの姿を、生き生きとした温かい筆致で描き出している。次のような場面が、ことさら印象的であった。
 苦しい行軍のなかでも、明るい会話とユーモア、笑顔を絶やさない一群の女性がいた。彼女らの喜々とした姿、そして折にふれて歌うフランス革命の歌「ラ・マルセイエーズ」の歌声が、仲間の兵士たちを、どれほど勇気づけ、元気づけたかは分からない。その闊達かったつな振る舞いは、多くの同志にとって、心の支えとなり、心の糧ともなっていった――。
 当時、二十二歳で長征に加わったある女性は、当時を振り返り、こう語っている。″長征は、いなか道の散歩のようなものでした。こんな素晴らしい人々と一緒にいたのですから″と。
 何たる、強靭さであろうか。何たる心の大きさであろうか。こうした女性の、底抜けの「強さ」「明るさ」は、いつの時代の歴史にも登場する。
 広宣流布の長征にあって、青年部も勇敢である。壮年部も立派な役割をもっておられる。しかし、それはそれとして、婦人部、女子部の明るさと強さを心から大切にし尊敬していかなければならない。見習っていかねばならないだろう。
 この、長征での女性のエピソードは、聡明にしてしん強き女性の存在、そしてその明るい笑顔が、人々の心に、どれだけ「勇気」と「希望」をもたらすか。また、ともに語り合い、励まし合う同志がいかに大切であるかを、訴えているように思う。
 とともに、苦しみの″極限″であった険難の行軍でさえ、楽しい″散歩″のごとく味わっていける心の不思議さ、そして、人間の境涯というものの力を、私は感じてならない。
21  広布長征の完結を諸君で
 信心の功徳とは、生命の境涯を、限りなく深め、高めていくことともいえる。戸田先生は、妙法を受持した人の境涯の一端について、法華経の開経・無量義経の経文に即しつつ、次のように語ってくださった。
 第一に、「煩悩ぼんのうありといえども煩悩なきが如く」――煩悩をなくすのではない。煩悩があっても、なきがごとく、悩まされることがないのである。
 第二に「生死に出入しゅつにゅうすれども怖畏ふいおもいなけん」――また生命の問題、生きるとか死ぬとかいう問題に対して、恐れというものをもたない。
 第三に「もろもろの衆生にいて憐愍れんみんの心を生じ」――みなをかわいそうに思う。学会の精神である。このままにしておけない、かわいそうだ、なんとかしてあげようという思いが生じてくる。
 第四に「一切の法に於いて勇健ゆうごんの想を得ん」――あらゆる現象界において、なんら恐れるところなく、その現象と戦いうるようになってくる。
 第五に「さかんなる力士の諸有の重き者をく担い能くたもつが如く、の持経の人も亦復またまたかくの如し」――非常に強い力士が、重い物を背負っても悠然と歩くように、この御本尊をたもつ者は、悠々と世の中を渡っていける。
 第六に「能く無上菩提むじょうぼだいの重き宝をにない、衆生を担負たんぷして生死の道をいだす」――すなわち無上菩提で仏になることである。そういう大きな宝を背負って、あらゆる衆生を救おうという、またあらゆる衆生に頼られて、堂々と衆生を救っていける境涯になる――。
 戸田先生が講義された通り、妙法受持の人は、無量の「知恵」と「慈悲」、「勇気」と「力」を備えた大境涯を開いていける。
 私どもの「広布の長征」は、一つには、この、我が胸中の境涯を限りなく高め、開いていく″自己向上″の旅路である。そして、もう一方で、社会へ、世界へと妙法を弘め、人類の宿命の転換をなしとげながら、「幸福の永遠の都」へと進みゆく、人類にとって初めての遠征であり壮挙なのである。
22  さて、ソールズベリーは、長征におけるさまざまな感銘深いエピソードを淡々と紹介している。
 長征でさしかかった大雪山の難所。そのなかで戦う医療班の青年達。彼らは、″病に倒れた同志を見たら、助けてともに山を越えよう″と懸命けんめいに、大雪山の山中を何度も往復しながら駆けずり回っていた。
 傷つき、病にふす同志達を絶対に見捨てるわけにはいかない。目的を成就するまで、ともに生き、進んでいこうと励ます医療班の青年達。それは、我々の″広布の長征″でいえば、ドクター部や白樺グループ(会)の人々の活躍に当たるといえよう。
 また、長征の本隊のたてとなって、守りの「残留」の使命に、黙々と徹した人々もいた。その中で敵に捕らわれた人には、銃殺刑が待っていた。しかし「われ、獄中にありても闘士なり」と叫びきって死んでいった壮年の姿もあった。
 まさに、自らの使命と信念に生き抜く勇者の気概である。我が学会の壮年部もこれぐらいの気概で進みたいものである。
 さらに、貧しい農家の出身で、十八歳の時、この長征に参加した青年がいる。彼は、五十年後の今日、次のように淡々と語っていたという。
 「一つひとつ山を越えたのですが、全部の山を越すことなどできないと思いました。で、もしわれわれが山越えできず敗れたら、次の世代が引き継いでやればいいのだ、と思いました」と。
 これは、長征に参加した多くの青年達の思いであったという。
 彼らは、自分達が生きて目的地に到達できるとは期待していなかった。おそらく途中で力尽き、死んでしまうかもしれない。しかし、″中国の民を救おう″″平和な祖国を築こう″。もし自分達が倒れても、命を賭(か)けて悔いないこの革命の理想は、必ず未来の青年が受け継いで実現してくれるにちがいないと固く信じていた。
 この信念が彼らの強さであった。この思いで深く結ばれていたがゆえに、あの言語に絶する苦難の長征をやり遂げ、新中国の建設を成し遂げることができた。
 いわんや世界を舞台にした″広布の長征″は、一つの世代によって実現できるものではない。世代から世代へと、広布の理想と確信が受け継がれ、たゆみない不屈の実践が継承されてこそ可能となる。
23  戸田先生は晩年、学会の未来の姿をはるかに展望されながら、しみじみといわれた。
 ″学会は、人類の「平和」と「文化」の中核として、必ず不可欠の存在となるだろう。しかし、私の生きているうちには、そのような時代はこないだろう。それは、大作、君達の時代だ。それも後半生の終わりごろからだろう″と。
 この戸田先生の予見通り、今や、赫々かっかくたる広布の歴史と、一つの「黄金の時代」を築き上げることができた。
 しかし、これからは私が信頼する、若き諸君達の舞台である。広布の未来を、心からの思いを込めて諸君に託したい。それが歴史の必然でもある。
 どうか、諸君は、いつまでも健康で、思う存分の活躍をしていただきたい。そして、永遠の歴史に残りゆく「広宣流布の長征」の完結へのバトンタッチをお願いしたいと申し上げ、私のスピーチを終わりたい。

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