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日蓮大聖人・池田大作

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第三千葉県記念幹部会 広宣と福徳の城を堅固に

1988.4.24 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

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2  それはそれとして、誰しも休日は自由である。自由であるがゆえに、最も価値的に、最も充実して過ごしたいものだと私は思う。
 結論的にいえば、仏道修行こそ、最高の生命の充実を与えてくれる。仮に、はじめはイヤイヤでも、行動したあとは、他では味わえない、深いさわやかさと歓喜がある。
 また家族の幸せへの根本の貢献でもある。自身も成長し、他の人にも尽くしていける。社会への最大の奉仕でもある。時とともに永遠に輝く思い出を刻むことができる。その他、あらゆる価値と福徳が集まっているのが、妙法の世界のありがたさである。その世界に徹して生き抜く時、すべてが生かされ、全く無駄むだはない。
 ともあれ貴重な休日を、広布への尊き現実の行動に費(つい)やしておられる皆さま方を、私は最大にたたえたい。いな、御本仏の称賛は絶対であることを深く確信していただきたい。
 また、いつも陰で真剣に支えてくださっている創価班、城会、白グループ、白樺グループ、ドクター部、金城会、転輪会の皆さまをはじめ、すべての役員の方々に、心より感謝し、あらためて御礼を申し上げたい。
 さて私が、初めてこの千葉・かしわの地を訪れたのは、昭和四十三年の二月五日。茨城の友、五千人との記念撮影の帰途であった。ちょうど本年で二十周年になる。
 その折は、以前の柏会館に立ち寄った。今思えば本当に小さな会館で、突然の訪問であったため、集まっている人もいない。がらんとした会館で、一人さびしく、管理者さんに中を案内していただいた。二階から眺(なが)めた手賀沼の美しい光景は、今なお、まぶたに焼きついている。
 指導者は、自分のために、わざわざ人を集めたり、大勢の人の前で立派なことを指導してみせたりするのが本務ではない。むしろ誰も知らない陰の陰で、人々のために心をくだき、身を粉にしてこそ本物の指導者といえる。
 どうすれば会員の皆さまに、心から喜んでいただけるか。希望をもって信心に励み、誰よりも幸福になっていただけるか。そのために、今、自分に何ができるか。私には、その懸命な一念と行動しかなかった。また、これが戸田先生の心でもあった。
 どんなにいばってみたところで、人間は人間である。人間以上のものになれるわけがない。とすれば人間として偉大であること以外に、真実の偉さはない。地位や立場の上下など仮の姿に過ぎない。それで幸不幸が決まるわけでもない。
 その、人間としての偉大さの究極が「仏」であり、「仏界」の生命である。それを目指しての正しい仏道修行のためにリーダーがいる。そのリーダーが、傲慢(ごうまん)であったり、自分中心であったり、自己の完成に努力していなかったとしたら、これほどの転倒もない。
 二十年前の訪問の折も、私は会館の御本尊に、ただただ柏の皆さまの、いよいよの幸の人生を真剣に祈念した。私が願主となっている、この御本尊は現在、柏文化会館に御安置されており、ただ今、皆さまとともに、私は万感の思いで拝し奉った。
 この柏は、悪侶たちの凶暴きょうぼうな嵐に苦しみ抜いた地である。皆さまの言語に絶する辛苦しんくと悔しさ、涙と奮闘を私は誰よりも知っている。私は今朝けさも、柏の友に「永遠の福徳あれ」「無量無辺の功徳よ薫れ」と祈った。祈らざるを得ない。皆さま方こそ、この地にあって、御本仏の仰せのままに、迫害に耐えながら、大法を弘通してこられた尊き仏子だからである。他の誰が、この難事を実践しているのか。皆さま方をおいてない。
 その御本仏の仏子をいじめ、苦しめた者の罪が、どれほど深く大きいか。しかも、こともあろうに、それが信徒を慈愛で守るべき聖職者の振る舞いであるにいたっては、言語道断といわざるを得ない。「法師の皮を著たる畜生なり」と大聖人の厳しきお叱(しか)りをこうむることは間違いないと確信する。
3  ともあれ私は戦った。大切な皆さま方のために。広布のために。大聖人の正法正義のために。
 かわいい子供が暴漢に襲われているのを、黙って見ているとしたら、こんな卑怯ひきょうな父親はない。大事な仏子を追いつめ、正法広布の組織を破壊しようとするやからを見て、怒りをもって断固、立ち上がらなければ、もはや仏法の指導者ではない。
 平穏の時は、さも信心強盛に見せかけ、嵐の時には、小さく首をすくめて、口をつぐんでしまうような、意気地のない人間は、もはや誰も信用しないであろう。
 これからも私は、″邪悪″と″傲慢″とは、どこまでも戦う。何ものも恐れない。仏法の正しさを確信しているからだ。策にも威嚇いかくにも微動だにすることはない。反対に″正義″と″誠実″には、どこまでも真心で応えていくというのが私の信念である。
4  会館管理者を大切に
 二十年前、柏会館では、管理者さんに、心づくしの、ごちそうをつくっていただいた。メニューは、インスタント・ラーメン。その温かい真心の味は、今もって忘れられない。
 この管理者さんは、松倉喜八郎さんとヨシ子さん夫妻である。このあと聖教新聞社などで管理者を務められて、現在は退職され、八王子の地に健在でおられる。喜八郎さんは七十歳、ヨシ子さんは六十四歳で、指導部として、今も元気に活躍されている。こんなうれしいことはない。
 松倉さん夫妻のような人柄の良い、立派な管理者の方が、日本全国はもちろん各国におられる。その方々の日夜をわかたぬご努力に対し、私は「毎日、本当に、ご苦労さまです。大変な使命の日々を、いつもありがとう」と、厚く御礼申し上げたい。そして同志の皆さまも、管理者の方々を最大に尊敬し、大切にしていただきたい。
 管理者さんの部屋というのは居心地いごこちがよいのか、婦人部の方々が、しばしばお邪魔して、有意義な談笑をかわす憩いの場ともなっていることが多いようだ。
 それはそれとして、管理者のご苦労が大変な場合がある。たまにはインスタント・ラーメンの、しかも少し上等なものを持っていくとか、真心と礼儀が大切だと思う。聡明な婦人部らしい振る舞いであっていただきたい。
 壮年部といえば、突然ヌッと顔を出して、ダミ声で「すいませんけど、お茶ありませんか」。「すいません」と言いながら、態度はまことにずうずうしい。そうした方ばかりとは限らないけれども、もう少し、壮年部の方々がうるおいのある、心なごむ行動となったならば、どんなにか皆にとって、住みよい環境になることか。どうか各部の皆さまも、心こもる配慮をお願いしたい。
5  大聖人の草庵に正法弘通の源流
 さて、本日は、日蓮大聖人御在世当時の宗教上の施設について、少々、触れておきたい。当時、どのような建物が、どれくらいの規模で存在していたのか。
 まず当時、急速に民衆の間に広まっていたのは、法然の念仏の教えである。御書には、その様相が次のように述べられている。
 「国土に阿弥陀堂を造り・或は一郡・一郷・一村等に阿弥陀堂を造り・或は百姓万民の宅ごとに阿弥陀堂を造り」――国土に阿弥陀仏をまつる阿弥陀堂を造っている。そのありさまは、あるいは、それぞれの郡や郷、村ごとに一つの阿弥陀堂を造り、あるいは民衆の家ごとに造って(いる)――。
 また、全国の堂塔や寺院を含めた数について、「仏法の住所すでに十七万一千三十七所なり」との数字をあげておられる。
 いずれにせよ、一国のすみずみにまで邪法邪義の拠点があり、威風をふるっていた。こうしたなか、大聖人は、どこを拠点に法戦を開始されたのか。それは、鎌倉・名越なごえ松葉ケ谷まつばがやつに結ばれた小さな草庵そうあんであられた。
 この、他宗の荘厳な寺院等とは対照的な、小さく粗末ないおりから、末法広宣流布への本格的出発をされたのである。この原点を忘れてはならない。
6  もとより次元は異なるが、学会の会館も、はじめは、まことに小さかった。先日も、東京・西神田の旧学会本部があった場所の前を車で通ったが、現在とは比較することもできない小さなものであった。
 しかし、いかに小さくとも、そこには無上宝聚むじょうほうじゅの御本尊がましました。そして純粋にして強盛なる信心があった。ゆえに尊き宝城であり、この源流から現在の全国、全世界の会館へと大きく広がっていった。
 大聖人の松葉ケ谷の草庵も、七年後には、念仏者たちの襲撃しゅうげきにあってしまう。
 その後も「此の法門のゆへに二十余所われ」――この法門のために二十余カ所を追い出され――と仰せのごとく、転々と拠点を移されていった。それらが、どれも決して立派な堂宇どううなどでなかったことはいうまでもない。
 三度目の国主諌暁かんぎょう、すなわち、佐渡流罪の赦免しゃめん後の文永十一年(一二七四年)四月八日、幕府の館で平左衛門尉頼綱らに対し、わざわいの因である邪宗の根を断ち、正宗に帰依するよういさめられ、今年中に蒙古の襲来があると断言されたあと、大聖人は身延に入られる。
 大聖人を迎えた地頭の波木井実長はきりさねながは、立派な堂宇を建立寄進しようとした。しかし、大聖人はこれを許されず、「をうちきりて・かりそめにあじち庵室をつくり」と仰せのように、木をって質素な庵室を造営された。
 これは、当時、権威を象徴するかのごとく壮大さを競った他宗の堂宇の在り方を批判されるとともに、華美に流されないための後世の戒めとされようとしたのかもしれない。また、身延入山はかりそめのもので、将来、富士山に本門の戒壇を建立されるお考えでもあられたのであろうか。
 だが、かりそめの庵室は、次第に柱は朽ち、壁も落ちていく。四年後の冬には「十二のはしら四方にかふべげ・四方のかべは・一たうれ」――十二の柱が四方に傾き、四方の壁は一度に倒れてしまった――というありさまになり、修復を余儀なくされている。
7  身延での最初の庵室は実に質素なものであられた。それだけに、寒さの厳しい冬には、ひときわ御苦労された御様子が種々の御書からうかがえる。
 以前にも申し上げたことがあるが「秋元御書」には「頭は剃る事なければうづらの如し、衣は冰にとぢられて鴦鴛おしの羽を冰の結べるが如し」と、仰せられている。つまり――頭も剃ることもなかったため、うづらのように毛がはえている。また、衣は凍りつき、あたかも鳥が羽根を広げたまま凍りついたように、ピンと張っている――。
 御本仏であられる大聖人である。しかし、身延での御生活は、本当に御苦労なされている。決して物質的にも豊かで、病気もされない、というような特別な御姿ではない。凡夫僧そのものの御姿であられた。衣食住は、今の人達の方がどれほど恵まれているか分からない。
 戸田先生は、大聖人の御苦労を拝されるたびに「ああ、ありがたい」「御本仏に申しわけない」と、感にたえないようにいわれていた。
 このように、御難儀なされた庵室の様子も、″十二の柱は四方に傾いて、四方の壁は一度に倒れてしまったよ″と。みさえ感じられる広大無辺の大聖人の御境界がしのばれる。
 大きな建物にいるから幸せとは限らない。偉いということでもない。たとえ小さな家であっても、王者のごとく悠然ゆうぜんたる境涯であれば楽しい。結局は、家がどうだということではなく、住む人の境涯なのである。
 たとえば、一枚の紙であっても、すぐれた画家は、そこに永遠に残る素晴らしい絵を描こうとするだろう。しかし、夫婦げんかをしてふくれ顔の夫人がみれば″どうしたのこんなところに紙を置いて。あなた片付けなさい″と、ますます夫婦げんかに油を注ぐことになりかねない。
 所詮は、その人の境涯が大きく深いか、狭く浅いか――人生の幸・不幸も、また人間的な偉さもそこに帰着していく。
8  さて、四年後の弘安四年(一二八一年)、身延にようやく寺院としての体裁ていさいをととのえた建物が建立される。それは十間四方の大きさで、二重ひさし造りの、従来の庵室よりはるかに広く、立派なものであった。
 これについて大聖人は「坊はかまくら鎌倉にては一千貫にても大事とこそ申し候へ」――完成した坊は、当時、日本の中心であった鎌倉に建てたとすれば、一千貫文のお金を出してもできないであろうと人々は言っていた――と喜ばれている。
 ちなみに一千貫文は、現在の数千万円から一億円近くに当たるという。それでも、同御書に、棟上げからわずか十五、六日間の工事で完成したとみえることからも、決して豪華な建物ではなかったであろう。
 たとえば、大聖人が御年十五歳の年、京都に創建された臨済宗の東福寺の造営費は、十二万九千八百五十貫文だったといわれることからみれば、いかに質素で規模の小さいものであったかがうかがわれる。
 こうした当時の有名寺院は、権力者の庇護ひごを受けたものであったが、大聖人の大坊は、無名の門下の、清らかな信心と、広宣流布への願いの結晶として建立されたのである。
 建物も、それを建立する人の意図や一念によって、その意義や価値が全くちがってくる。人生もまた同じである。どのような一念、どのような姿勢で生き抜くかによってその内容と価値も決定されていく。
9  大聖人は大坊建立資金として四貫文を供養した富木常忍に対して「四貫をもちて一閻浮提第一の法華堂造りたりと霊山浄土に御参り候はん時は申しあげさせ給うべし、」――四貫文のお金を供養して世界第一の法華堂を造ったのである、と霊山浄土に行かれたときは、誇らしげに言いなさい――と仰せである。
 つまり、この大坊は、いわば世界第一の″法華堂″である。その建立のために供養された功徳は、絶大なものがある、と富木常忍の信心をたたえられている。
 学会は、何百カ寺の寺院を建立寄進申し上げた。また、皆さま方のお力で、各地に広宣流布の城である会館も建設されてきた。その功徳がいかに絶大なものであるかを、富木常忍に与えられた大聖人の御言葉から確信をしていただきたい。
10  「日蓮が如くに」が学会の強さ
 ところでこの柏文化会館は、柏市の北部・根戸ねどの地にある。
 「根戸」といえば、手賀沼てがぬまを望む丘陵地であり、その一群の台地は、古来、戦略上の″要害の地″とされてきた。
 ″要害″とは、いうまでもなく、味方には″かなめ″であり、敵には″害″となる所のいいである。すなわち、守るにやすく、攻めるにかた要衝ようしょうのことにほかならない。かつて、この″地の利″を生かして、根戸城が築かれたことは、皆さま方がご存じの通りである。
 ここ柏は、悪心の徒輩とはいの策動・攻撃の最も激しかった地域の一つである。
 しかし、我が柏の同志は、敢然と魔の軍勢に立ち向かい、勇敢に戦った。そして完ぺきな勝利を収め、今日の広布の見事な繁栄と上げ潮を築かれた。いわば、皆さま方の健気けなげな法戦によって、この柏の天地に、堂々たる″広布の要害″がそびえ立ったといってよい。
 正法の清流を守るため、″広布の要害″を築き、守り抜かれた皆さま方は、御本尊の無量の福徳に浴しながら、成仏への軌道に間違いなく入りゆくことを、私は確信する。
 どうか、これからも、この尊き″城塞じょうさい″をさらに堅固に、守りに守りながら、″柏に続け″″柏を見よ″とうたわれる、世界に範たる幸福と歓喜の国土を建設していただきたい。
11  ここ柏は、昔は「下総しもうさ」と呼ばれていた。その下総は、日蓮大聖人のゆかり深き天地である。
 文応元年(一二六〇年)、鎌倉・松葉ケ谷まつばがやつの法難の後、大聖人は一時、鎌倉を離れ、下総に入られた。そして、富木常忍ときじょうにんやしきを拠点に、御自ら、果敢な弘教に当たられる。御年三十九歳の時であられた。
 この「下総弘教」の折に、下総の住人であった大田乗明、曾谷教信らが入信したといわれる。以来、この地は、広布への重要な法戦の舞台となっていった。
 時とともに、人の心は変わる。また、凡夫の心は、まことにはかなく、もろい。
 大聖人御自身が妙法の種子をまかれた「下総弘教」から十年、そして二十年――。このゆかりの地からも、大聖人の御本意に反して、勝手な邪義を言い出す門下が、現れてきた。
 それに対し大聖人は、富木常忍への御手紙のなかで、次のように厳しく戒められている。
 「私ならざる法門を僻案びゃくあんせん人はひとえに天魔波旬の其の身に入り替りて人をして自身ともに無間大城に堕つべきにて候つたなしつたなし
 ――大事な法門を勝手に曲げて考える人は、ひとえに天魔波旬(第六天の魔王のこと)がその身に入りかわって、他人も自身もともに、無間地獄に堕としてしまうのである。まことに愚かなことである――と。
 仏法の正法正義にそむく人間は、本人はおろか、紛動ふんどうされ、巻き込まれた人まで地獄へとしていく悪知識であることを、鋭く指摘された御指南と拝される。
12  そして、この次下つぎしもに、大聖人は、こう仰せである。
 「総じて日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ、さだにも候はば釈迦・多宝・十方の分身・十羅刹も御守り候べし
 ――総じて日蓮の弟子といって法華経を修行する人々は、日蓮のようにしなさい。そうするならば、釈迦仏、多宝仏、十方分身の諸仏、十羅刹女も、必ず守護してくださるであろう――。
 私どもは幸せにも、妙法に巡りあい、大聖人の誉れの門下となった。その私どもに、大聖人は、もったいなくも「日蓮が如くにし候へ」と仰せである。御本仏の御指南のままに振る舞い、実践し、信心を磨いていくべきは、門下として当然の姿である。
 戸田先生は、「信心は大聖人の昔にかえれ」と叫ばれた。まさに、「日蓮が如くに」との仰せのままに生き、じゅんじゆかんとする、たましいの叫びであり、強固な決意の発露であった。
 この恩師の鮮烈な訴えに、私も呼応した。信心の行動は御聖訓のままに、そこに、いささかも狂いがあってはならない。ゆえに私は、ただ大聖人の仰せを拝して、実践し、前進してきた。ここにこそ、学会の強さの原点があることを、強く申し上げておきたい。
13  勇猛の信心、獅子の心を
 やはり富木常忍に与えられた御抄のなかに、次の一節がある。
 「彼の了性と思念とは年来・日蓮をそしるとうけ給わる、彼等程の蚊虻の者が日蓮程の師子王を聞かず見ずしてうはのそらに・そしる程のをこじん嗚呼人なり
 ――この下総の天台僧、了性と思念の二人は、数年来、日蓮をそしっていると聞いている。彼らのごとくあぶのような者が、日ほどの師子王を、聞きもせず、見もしないで、いい加減に謗るとは、思慮の足りない愚か者にすぎない――。
 ここに仰せの了性房は、「檀林だんりん」(学問所)を開いて、関東に天台教学を興隆させたといわれる学僧である。当時にあっては、著名な学者の一人といってよい。そのいわれなき誹謗に対し、大聖人は厳然と破折された。仏界という、最高の境界を極められた「師子王」である御本仏からみれば、そのような学者など蚊や虻のようにはかなく、弱小な存在にすぎない。これが不動にして毅然きぜんたる大聖人の大境界であられた。
 それにしても、「蚊虻もんもう」のごときやからが、「聞かず見ずしてうはのそらに(聞きもせず、見もせず、いい加減に)・そしる」という構図の、今も何と変わらないことか。
 所詮、正法正義に敵対する邪智の徒は、はかなき「蚊虻」にすぎない。その「蚊虻」の言動に紛動され、信心を失ってしまうとすれば、余りに愚かである。
 私どもは、こうしたよこしまな策動を、これからも鋭く見破っていかねばならない。
14  ところで、大聖人は、諸御抄のなかで「師子王の心」について繰り返し仰せになっている。特に、富木常忍等に与えられた「佐渡御書」は、私どもがこれまでも幾度となく拝してきた御文である。
 すなわち、「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し、これおごれるにはあらず正法を惜む心の強盛なるべし」と。
 ここでは――悪王が正法を滅亡させようとし、邪法の僧等がこの悪王に味方して、智者を滅ぼそうとする時、師子王のような心を持つ者が必ず仏になることができる。例えば日蓮のようにである。これはおごった気持ちからではなく、正法を大事にする心が強いからである――と仰せられている。
 戸田先生は、この一節を拝して次のように述べられている。
 「正法を惜しむ心が強盛であるから、師子王のごとき心になるのであって、決して虚勢や名誉のためではない。もしわれらも、小さな自己の欲望や、あるいは虚勢をはっているものであるならば、三類の強敵ごうてきにあっては修羅しゅらのおごり、帝釈たいしゃくにせめられて、無熱池むねっちはちすのなかに小身となりてかくれしがごとしと同じ姿となるであろう」と。
 いかなる立場にある人でも、難があったときに「師子王のごとき心」をいだして戦い抜かなければ、宿命転換も、一生成仏もない。
 難の渦中にあって最も大変な時に、保身や名聞のために退いていった者もいた。まさに、いざという時にこそ、その人の本当の姿が如実に現れるものだ。
 憶病おくびょうにも戦いを避けたり、心を動かした人は、あとで後悔し、苦しんでいる。
 世間一般でも、苦難を乗り越えてこそ、人間は成長し、より大きくなっていける。何の苦労も、風波もなければ、心を鍛え、生命を磨いていくことはできない。
 信心の世界にあってはなおさらである。″難即成長″″難即安穏″が仏法の方程式である。
15  さらに大聖人は、熱原法難の渦中において、次のように門下を励まされている。
 「各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ、師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし」――おのおのは師子王の心を出して、どのように人がおどそうとも、決して恐れる事があってはならない。師子王は百獣に恐れない。師子の子もまた同じである――と。
 いかなる嵐にも、迫害の大波にも、決して恐れない。「師子王の心」で進んでいく――これこそ大聖人門下の精神であり、学会の伝統精神である。このことを永久に忘れてはならない。
 牧口先生は、「いくじのない生命を、強く、清くするのが信心である」と、よく言われていた。
 信心は憶病であってはならない。それでは「成仏」を勝ち取ることは絶対にできない。大切なのは「勇気」である。何ものをも恐れぬ「勇気」こそ、まことの信仰者のあかしといってよい。
16  後悔と敗北の人生を送るな
 私はかつて、随筆「人間革命」に次のようなエピソードを書いた。
 ――戦時中の最高幹部であり、戸田先生とともに入獄しながら、耐えきれずに退転した人がいた。
 昭和二十二年秋、西神田の旧学会本部での法華経講義の終了後のことである。その人が、夫人とともに戸田先生のもとにおびにきていた。入信まもない私は、その光景をじっと見守っていた。
 夫妻は戸田先生の前で、深々と頭を下げた。
 「信仰を裏切ったことは、どうかお許しください。それを思うと苦しくてなりません。これからは、新しい決心で広宣流布のために働きます」と。
 その反省の姿に、先生は、やさしい言葉をかけられるかと思っていた。しかし戸田先生の言葉は意表をいて厳しかった。
 「信仰することは自由である。しかし、これからの学会には、さらに激しい弾圧の嵐があろう。その時になって、また裏切り、憶病な行動をするのであれば、幹部として学会の邪魔になる」と。
 二人は、厳父のごとき戸田先生の指導がくさびになったのであろう。細々ながら、信仰をまっとうしている――。
 以上の話を、この席であえて紹介したのは、皆さまに敗北と後悔の人生だけは、断じて歩んでほしくないと願うからである。
 難を避け、妙法の同志を裏切って退転することは、一時はうまく逃げたり、楽をしたように見えるかもしれない。しかし、三世永遠にわたる生命の根本軌道から逸脱いつだつしていったその行動は、やがて自身を不幸へととしめていくことになる。この厳しき因果の理法からは、誰人も逃れることはできない。
17  退転は慢心と虚栄から
 私はこの四十年間、数多くの人々の信仰の姿を見てきた。人間の″心″の表も裏も、信心の眼で鋭く見すえてきたつもりである。
 その結論としていえることは、″学会の信心の組織の中で、厳しく先輩から指導され、また激励されながらまじめに信心に励んでいる人は、間違いなく成長している″という事実である。そうした方々は、常に生き生きとして、生命がはずんでいる。また責任感、使命感も強く、生活のうえでも後輩のよき「模範」となっている場合が多い。
 一方、それとは反対に、過去にいかに功労があるように見えても、自分一人の力で偉くなったと錯覚し、慢心を起こして、いつしか厳しい指導や注意を避け、自分勝手な行動に走ってしまう人もいる。これは要するにエゴにほんろうされ、名聞名利に執着し、信心を忘れてしまった姿にほかならない。こうした人に限って、学会を利用して自分を偉く見せようとしたり、大勢のまじめな同志や後輩に迷惑をかけて、いやな思いをさせている。
 これまでも″なぜあの人が、あのまじめそうな人が、退転したり、反逆するのか″と、皆さまが思われるような場合があった。しかし、その本質を見ていくと、大なり小なり″慢心″と″見栄″と″不知恩″の者であった。力もないのに、周囲から、学歴や社会的地位、あるいは幹部の子弟であることなどの理由から、″あの人は特別だ″と甘やかされ、自分中心の考えしかできなくなってしまった。ここに不思議にも、退転者や反逆者に共通する、一つのパターンがある。
 ″慢心″や″虚偽″の者が、和合僧を乱し、信心を破ろうとすることが、これからもあるだろう。それらの者は釈尊の時代にもいたし、大聖人の御在世当時にも出た。いつの時代にも、第六天の魔王の眷属けんぞくは必ずいる。
 しかし、そうした魔の眷属に、魅入られて、仏の眷属となった自分自身を無にしてはならない。退転者や反逆者は誰が悪いのでもない。その人自身の責任である。
 ゆえに、破仏法の魔の蠢動しゅんどうとその結末は、いつの時代でも同じであることを鋭くとらえ、善悪ともに自身の信心を深め、境涯を高めていく″かがみ″としていっていただきたい。
 ともあれ、信心はどこまでも「信行学」という大聖人の仏法の正しき方軌ほうきのっとった実践でなければならない。また法のため、人々のために純粋に広宣流布を目指しゆく信心でなければならない。後世への教訓として一言、申し上げておきたい。
 最後に、皆さまお一人お一人が、「日本第一の信心強盛にして功徳あふるる柏」「日本第一の信心純粋にして朗らかな柏」「日本第一の信心模範にして楽しき柏」と誇りをもって言いきれる「模範の圏」を築かれんことを、心から祈り願って、私のスピーチとさせていただく。

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