Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第三千葉県記念幹部会 広宣と福徳の城を堅固に

1988.4.24 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

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17  退転は慢心と虚栄から
 私はこの四十年間、数多くの人々の信仰の姿を見てきた。人間の″心″の表も裏も、信心の眼で鋭く見すえてきたつもりである。
 その結論としていえることは、″学会の信心の組織の中で、厳しく先輩から指導され、また激励されながらまじめに信心に励んでいる人は、間違いなく成長している″という事実である。そうした方々は、常に生き生きとして、生命がはずんでいる。また責任感、使命感も強く、生活のうえでも後輩のよき「模範」となっている場合が多い。
 一方、それとは反対に、過去にいかに功労があるように見えても、自分一人の力で偉くなったと錯覚し、慢心を起こして、いつしか厳しい指導や注意を避け、自分勝手な行動に走ってしまう人もいる。これは要するにエゴにほんろうされ、名聞名利に執着し、信心を忘れてしまった姿にほかならない。こうした人に限って、学会を利用して自分を偉く見せようとしたり、大勢のまじめな同志や後輩に迷惑をかけて、いやな思いをさせている。
 これまでも″なぜあの人が、あのまじめそうな人が、退転したり、反逆するのか″と、皆さまが思われるような場合があった。しかし、その本質を見ていくと、大なり小なり″慢心″と″見栄″と″不知恩″の者であった。力もないのに、周囲から、学歴や社会的地位、あるいは幹部の子弟であることなどの理由から、″あの人は特別だ″と甘やかされ、自分中心の考えしかできなくなってしまった。ここに不思議にも、退転者や反逆者に共通する、一つのパターンがある。
 ″慢心″や″虚偽″の者が、和合僧を乱し、信心を破ろうとすることが、これからもあるだろう。それらの者は釈尊の時代にもいたし、大聖人の御在世当時にも出た。いつの時代にも、第六天の魔王の眷属けんぞくは必ずいる。
 しかし、そうした魔の眷属に、魅入られて、仏の眷属となった自分自身を無にしてはならない。退転者や反逆者は誰が悪いのでもない。その人自身の責任である。
 ゆえに、破仏法の魔の蠢動しゅんどうとその結末は、いつの時代でも同じであることを鋭くとらえ、善悪ともに自身の信心を深め、境涯を高めていく″かがみ″としていっていただきたい。
 ともあれ、信心はどこまでも「信行学」という大聖人の仏法の正しき方軌ほうきのっとった実践でなければならない。また法のため、人々のために純粋に広宣流布を目指しゆく信心でなければならない。後世への教訓として一言、申し上げておきたい。
 最後に、皆さまお一人お一人が、「日本第一の信心強盛にして功徳あふるる柏」「日本第一の信心純粋にして朗らかな柏」「日本第一の信心模範にして楽しき柏」と誇りをもって言いきれる「模範の圏」を築かれんことを、心から祈り願って、私のスピーチとさせていただく。

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