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日蓮大聖人・池田大作

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第4回本部幹部会 「人間」と「生命」を深く探れ

1988.4.22 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

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1  「人間を知る」リーダーに
 今年も間もなく、5・3「創価学会の日」が巡りくる。この一年も、全幹部と全同志の敢闘により、素晴らしき発展の軌跡を刻むことができた。秋谷会長をはじめ、一千万の友と、このように晴れやかに「5・3」を迎えられることは、私にとって最大の喜びである。
 さきほど、秋谷会長から、今後の指導部の在り方について、いくつか具体的な話があった。私も、すでに六十歳。本来なら、指導部の年齢かもしれない。私だけではない。秋谷会長、森田理事長、各副会長など、最高幹部はほとんど、年齢的には十分、指導部の風格を備えている。しかし私は、これからが、いよいよ人生の本舞台であり、これまでの何倍も広布のために働きたいと思っている。多くの指導部の方々も、私と同じ気持ちであろう。
 これまで、指導部の活動は、ともすると、組織の第一線から一歩退くような印象もあった。″まだまだ現役″との思いでいらっしゃる方々には、いささか物足りないように感じた場合もあるにちがいない。しかし、妙法流布の歴史に、不滅の足跡を残されてきた皆さま方である。もう一度、豊かな経験と力を生かしながら、同志の依怙依託えこえたくとして、第一線での新鮮な活躍と健闘をお願いしたい。
2  さる四月十日、フランス文学者の桑原武夫氏が逝去せいきょされた。享年八十三歳。氏が、最期まで、人生の″現役″として活躍され、数々の立派な業績を残されたことは、種々、報道された通りである。日本人としては、たぐいまれな見識の人であり、以前に何回か紹介したフランスのヒューマニスト・アランを彷彿ほうふつさせる大知識人であったといってよい。
 かつて私は、フランスの″行動する知識人″アンドレ・マルロー氏と対談を重ね、それは、対談集「人間革命と人間の条件」として上梓じょうしされた。そのさい、真心こもる序文を寄せてくださったのが、桑原氏であった。逝去にさいし、私は、仏法者として、ねんごろに追善させていただいた。
 もう、四十年も前のことになろうか。青年時代、私は桑原氏の次の一節に、深い感銘を受けた。「現代のヒューマニズムが真にその名にあたいするか否かは、民衆を意識するか否かにかかっている」(朝日新聞社「桑原武夫全集5」の「素朴ヒューマニズム」)。
 民衆が主役の、真実の民主社会――それを希求してやまない時代の趨勢すうせいを、鋭く先取りした卓見であった。また、一切衆生の幸福の実現こそ第一義とする仏法の志向性にも、相通ずるものであったといえよう。
3  ところで、桑原氏の大きな業績の一つに、人文科学における共同研究の道を開いたことがあげられる。文学や哲学といった人文系の学問は、その性格上、どうしても、個人単位で進められるケースがほとんどであった。しかし、氏は、一つの研究テーマのもとに、多士済々の青年研究者を結集し、その力を存分に発揮させながら、実り多き成果を次々と生み出していった。それは、人文科学の歴史において、まさに画期的な出来事であったといってよい。
 こうした道を開いた背景には、「こんにち独創的な行動は協力と組織なしにはありえない」(同書「青年の冒険精神」)との、氏の信念があったにちがいない。
 氏が、多くの研究者を引きつけ、共同研究の軸としての責務を果たしえた秘訣ひけつは、どこにあったか。
 幅広い教養、おう盛な好奇心など、さまざまな原因が考えられよう。だが、ここで私は、桑原氏が、深く、そして温かく、「人間を知る人」であったことに注目したい。
 氏自身、次のように語っている。
 「ドイツ語でメンシェンケンナー、人間を知る人というのがありますね。(中略)スクラムを組んであることを成就するのには、メンシェンケンナーの存在は、必要な要素だと思います」(潮出版社「人間史観」)。
 味わい深い、人生の先輩の一言である。
 ともに生き、ともに行動する仲間にとって、最も大切な存在とは何か。また、最も望まれるリーダー像とは何か。
 それは、単なる技術や教養の人ではない。名声や財力の人でもない。何より、自分をよく理解してくれる指導者を、人は待望し、歓迎する。そのことを、桑原氏は知悉ちしつしていた。ゆえに、共同作業における「メンシェンケンナー」の重要性を強調したのであろう。
 また、このことは、リーダーとしてのみならず、人生全般においても最重要の課題であるといえよう。
 氏は、いう。
 「人生を生きて行く上で一番大切なことは、人間を知ることだと私は思う。(中略)それも抽象的な人間一般についての学的知識ではなく、個々の生きた人間を自分が観察し、理解し、そして動かしてみた体験による知見である」(同)と。
 この、人間と人生に対する透徹とうてつした洞察――ここに、私は、氏の偉大さを見たい。
4  指導部の経験を広布の力に
 かつて私は、指導部を「妙法の赤十字」と申し上げた。それは、指導部の皆さまが、悩める友と真心で対話しながら、一人一人を心の底から「理解」し、蘇生の道へと向かわしめる慈悲の「行動」の方々であるからだ。
 したがって私は、指導部の同志こそ、広布の庭における「人間を知る人」にほかならないと申し上げたい。しかも皆さまは、永遠の生命を説き明かした日蓮大聖人の仏法を、日々、学び、行じておられる。その意味では、さらに一歩深く、まさに「生命を知る人」といってよい。これほど尊い存在はないし、崇高な人生もない。
5  草創以来、ありとあらゆる労苦と難に耐え、血のにじむような思いで、道を開き、開拓してきた勇者の集まりが、指導部である。いわば学会の″宝″であり、そうした方々が、地域、組織の「柱」として、厳然とてくだされば、同志にとって、これほど心強いことはない。
 どうか、学会の揺るがぬ伝統精神を、後輩達に、確かに託し、伝えていってほしい。草創の苦労も知らず、青年が整った広布の環境のなかで甘え、信心の本義を見誤ることがあれば、これほど不幸なことはない。そのような青年部には、遠慮なく叱咤しったし、厳しく激励していくよう、くれぐれもお願いしたい。
 かといって、ただ頑固で、若い人の意見に耳も傾けず、口うるさく命令ばかりしているようでは、誰もついてこない。根底に、青年をはぐくもう、若芽を伸び伸びと育てていこうという感性と姿勢が大切なのである。
 指導部が、自らの体験と経験を生かし、若き後輩達と力を合わせつつ、前進していくならば、学会の総合力は倍加し、広布の発展も、二倍、三倍、十倍と加速していくにちがいない。
 指導部と青年部の、麗しくも強固な「尊敬」の絆。それこそ、壮年・婦人部も加えた理想的な組織の「団結」をもたらし、「調和」を築いていく要諦である。
 桑原武夫氏は、八十歳を過ぎても、かくしゃくと活躍された。「人間を知る人」の底力は、年齢とともに輝きを増し、いやまして若々しく、発揮されていくものだ。
 指導部の皆さまの、今後のはつらつたる実践と活躍に、私は、心から期待したい。
 なお、指導に関連し、確認しておきたい。″あの先輩の指導を受ければ、病気も治り、功徳も大きい″″指導を受けるのなら、その先輩でなければならない。この先輩ではだめだ″といった話があるとも聞いた。いうまでもなく、指導を誰に受けたかによって、功徳が異なることなど絶対にあるわけがない。
 無量無辺の功徳をもたらし、福運を薫らせるのは御本尊の仏力・法力である。決して、指導する人間の力ではない。深き祈り、真摯(しんし)な実践の人に、御本尊の功力は、厳然と現れる。それは、所は一人一人の信心で決まるものである。
 指導者は、「妙法」を根本として、御本尊の功力を教え、正しい生活実践に導いていくことが務めである。決して、それ以上の存在ではない。それを、特別な力があるとか、功徳がちがうとかと思わせるのは、大なる誤りであり、明らかな邪見である。
6  良き音楽は精神の良薬
 ここで、話題を変え「タンゴ」について少々、触れておきたい。間もなく新緑の五月。美しいツツジも咲きはじめ、光あふれる、さわやかな薫風の時である。堅苦しい話ばかりでは、いかに信心強盛な皆さまでもいやになってしまう……。しかも、この会場には、全国各地の代表として、遠路参加された方も多い。せめて東京にこられたときは、心安らぐ、ロマンのひとときでも味わってもらいたい。
 先日も、タンゴの巨匠、マリアーノ・モーレス氏とお会いし、懇談した。氏は、世界的にも有名なアルゼンチン・タンゴの作曲家であり、ピアニストでもある。今回、四年ぶりとなった訪日は、民音(民主音楽協会)の招へいによるもので、「マリアーノ・モーレス楽団」を率いて、全国各地で六十四回の公演旅行をしている。
 ″音楽は世界の言葉″といわれるが、私は民音を創立し、日本と世界各国との文化交流を進めてきた。美術館の創設や創価大学など教育機関の設立もまた、同じ趣旨によるものであった。
 世界の平和や各国間の相互理解、友好の推進といっても、文化、教育の交流こそ、その基本となるものである。そして、それがとりもなおさず、世界へと広がりゆく仏法の精神の発露であるとも確信している。
7  今やアルゼンチンの国民的大スターであり、国際的名声を博しているモーレス氏は、一九二二年(大正十一年)、アルゼンチン・タンゴの発祥の地・ブエノスアイレスに生まれた。現在、六十六歳。
 幼いときから音楽的才能に恵まれていた氏は、クラシックの道を志し、十一歳でスペインに留学する。だが、突然の父親の。彼は、一家八人の生計を支えるため働く。わずか十四歳ながら、バーでピアノ演奏したり、音楽学校でも教えた。作曲にも力を尽くした。そして、十六歳で「トリオ・モーレス」を結成し、幅広いジャンル(部類)の演奏を手がける。そのうち、初めは、それほど好きではなかったタンゴを演奏するようになる。いわば、生活のためにはじめたタンゴであったが、やがてその道で一流となる。
 いかなる世界でも、一流の人は苦労をしている。労苦を信念と努力で乗り越えて、大成している。
 かつて、戸田先生は青年達に言われていた。
 「将来、何になるか実際にはなかなか分からない。しかし、いま諸君は、自分が何になるかを、まず決めることだ。そして、それに向かって、全力をあげて驀進ばくしんするのが青年だ」。
 現実の生活は、すべて思い通りにいくものではない。しかし、その逆境に負けてしまえばそれまでである。どんなに苦しくとも、自分が現実におかれている場で、腹を決めて前に進んでいくことだ。何事も粘り強く、全魂を込めて努力していけば、必ず道は開ける。
8  モーレス氏との懇談で私は「タンゴの意味」や「音楽の原点」などもうかがった。氏はタンゴの呼称が、アフリカの踊りのリズムに由来することを、実際に手振りでリズムをとって紹介されていた。
 そのさい氏は、タンゴについて「民衆のエネルギーと闊達かったつな精神を、詩と曲に結晶させたもの」とも語っていた。また「タンゴは民衆の生活に息づく、民衆の音楽」との氏の言葉は、音楽のあるべき姿を、明快に言いえている。
 氏は、「音楽」について「音楽はユニバーサル(世界共通)な言葉であり、人間の精神を誠実に表現するもの」とし、さらに「音楽とは、素晴らしい『香料』『甘い蜜』のようなもので、人間にとっての良薬である」と述べている。しかし「(その良薬は)まだ世界の人々に適量が行きわたっていないと思う」とも言っている。
9  苦闘が開いた″世界の道″
 モーレス氏は「私は、アルゼンチンからタンゴを持って外国に出た、初めての人間であると自負している」と語っている。
 氏は、タンゴのダンス(踊り)に歌を加え、それをオーケストラで聴かせるという表現法で、タンゴを欧米にも広く流布させることに成功。多くの工夫と努力で、世界に「第二の黄金時代」といわれるタンゴのブームをつくりあげた。
 次元は異なるが、今日の妙法の世界的な興隆も、また、日本をはじめ各国の同志の汗と涙の結晶である。
 昭和五十年(一九七五年)一月二十六日、グアム島における第一回世界平和会議のさい、日達上人は講演のなかで次のように言われている。
 「仏法流布は『時』によると大聖人は仰せであります。しかし、その『時』はただ待っていれば来るものではありません。
 このような世界的な仏法興隆の『時』をつくられたのはまさしく池田先生であります。池田先生のご努力こそ、御本仏のもっとも讃嘆の深きものと確信するのであります。とともに想像を絶するような苦難の中で、よく池田先生の指導を守り、各国においてみごとに仏法を定着させたみなさんのこれまでのご苦労に対して心から敬意を表するのであります」。
 まことに、ありがたい日達上人の御言葉である。皆さま方には、永遠に功徳が降り注ぎ、幸福の人生に包まれていくことは間違いないと確信する。
 私もまた、大聖人の仰せ通りに、これまで以上に、世界の妙法流布のために走り抜いていく決意である。
10  さて、モーレス氏は、四年前の来日公演中に、最愛の子息・ニト氏を亡くされている。今回来日した際に、氏は四年前の日本での思い出を語りつつ、その心境を次のように吐露とろされた。
 「私の息子は常に私のそばにいると思っております。そして私がピアノを弾き始めると、私の前の方から私に向かって歩み寄ってきて私の肩をポンとたたく。そうやって私に励ましを与えて去っていく――。そんな感じを私は常にもっています」
 「私は、いつの日か池田先生にお会いできることを願っておりますが、亡くなった息子も『必ず会えるよ』と、私の心にささやいてくれているのです」――と。
 私はこの話をうかがい、子息への深い愛惜の念に打たれるとともに、仏法に通ずる生命の一つの実感を垣間見る思いがした。
 皆さま方の中にも、お子さまを亡くされた方もおられるかもしれない。大切なご主人を、またお父さん、お母さんを失った方々もおられるであろう。私自身も若い息子を失った親の一人である。
 そうした方々にとって、強き信心の絆(きずな)によって結ばれて亡くなった肉親が、心の中に生き続け、同じ妙法の同志として広布へ、広布へと我が心を励ましてくれる。
 これこそ妙法に照らされ、生死を超えた″生命の絆″である。また、生命の世界の限りない″ロマン″ともいえよう。
 亡くなった肉親とも、生死を超えて強い妙法の絆で結ばれていくとの法理は、御書にも諸所に述べられている。
 一例としてあげれば、松野六郎左衛門入道に与えられた「浄蔵浄眼御消息」には、「皆人の悪み候・法華経に付かせ給へばひとへに是なき人の二人の御身に添うて勧め進らせられ候にやと申せしが・さもやと覚え候」「又若しやの事候はばくらき闇に月の出づるが如く妙法蓮華経の五字・月と露れさせ給うべし、其の月の中には釈迦仏・十方の諸仏・乃至前に立たせ給ひし御子息の露れさせ給ふべしと思し召せ」と仰せである。
 ――甲斐公(六老僧の一人・日持)が語ったなかに、「すべての人が憎んでいる法華経の信心に(松野殿夫妻が)つかれたのは、ひとえに亡き子息がお二人の御身にそって信心を勧められたのであろうか」とあったが、そうでもあろうと思う。
 また、お二人にもしものことがあれば、暗き闇に月の出るごとく、妙法華経の五字が明るく月と顕れ、行く手を照らすことであろう。その月の中には釈迦仏、十方の諸仏、さらには先立たれたご子息が現れられて、成仏の道へと導くことと確信していきなさい――と。
 どうか皆さま方も、生死を超えた仏法の素晴らしい″生命の法則″を確信して、一段と信心を強めていっていただきたい。
 ともあれ、こうした生命の実感による多くのうるわしい体験を私は心から納得できる。モーレス氏の言葉も、いわば″菩薩″の生命の一分が感じた、子息の″生命″をいったものかもしれない。
11  なお、モーレス氏の子息は、有名な歌手であり、ピアニストであった。父であるモーレス氏の曲を歌いレコードにもしている。亡くなった時はまだ四十歳になる直前、これからという若さであった。
 モーレス氏との対談は、氏の愛息をしのびつつも、さらにさまざまな楽しい語らいがはずむものとなった。
 心からの楽しい語らいは時のたつのも忘れ、疲れも忘れさせてしまうものである。対談も終わりに近づいたころ、モーレス氏から「ピアノがあれば、私の大好きな『荒城の月』と私のタンゴをきたいのですが……」と望まれた。実は、そういうこともあろうかと、ピアノを用意することも前夜、検討していた。しかし、お疲れになってはならないと考え、あえて用意するのをやめたという経緯があった。
 またモーレス氏は、私の詩に、曲をつけたいともいわれ、「ぜひアルゼンチンへ訪問を」とも、強く望まれていた。そして訪問の際には、氏の自宅のそばにあるという洋画家・藤田嗣治(つぐはる)氏ゆかりの家の前で、一緒に記念撮影をしたいとも言われていた。
12  不朽の名曲残した滝廉太郎
 氏が弾きたいといわれた「荒城の月」にちなんで、この名曲を作った滝廉太郎れんたろうについて、少々、触れておきたい。彼の短くも激しく、充実した一生は、青年部の諸君をはじめとして、人生の生き方に今なお鮮烈な示唆しさの光を放っていると思うからだ。
 彼は、一八七九年(明治十二年)八月二十四日生まれ。一九○三年(明治三十六年)六月二十九日に亡くなった。享年(きょうねん)二十三歳――。
 まことに惜しまれる短い生涯であった。しかし、その作品は、今なお広く愛され、人々に歌いつがれている。「荒城の月」はもちろんのこと、唱歌「箱根八里」や「お正月」。本格的な歌曲「荒磯あらいそ」。さらにピアノ曲「メヌエット」等々。また、――春のうららの隅田川……と、ちょうど今ごろのき季節をうたった「花」も、多くの日本人にとって忘れがたい名曲である。
 滝家は、大分県の日出ひじ藩の名門であった。家老など代々、要職を務めたという。廉太郎は、東京で誕生。父の転任のため、横浜、富山、東京と移転し、十歳のころ、大分へやってくる。高等小学校時代は大分の竹田で送った。
 この竹田の地には、八百年の歴史を秘めた古城、岡城の城あとがある。廉太郎少年も、しばしば、そこを散歩したらしい。この時の詩情豊かな思い出が、あるいは後に「荒城の月」の曲想にも、つながっていったのかもしれない。
 私も今から七年前、昭和五十六年十二月、この岡城を訪れた。そして風雪を耐え抜いた竹田の同志とともに、「荒城の月」を歌った。その光景を私は今もって忘れられない。
 私は歌い、贈った。
 「荒城の 月の岡城 ながめつつ 竹田の同志の 法戦たたえむ」と――。
13  さて廉太郎少年は、人柄もよく、茶目っ気もあって、誰からも愛されたという。成績もよく、運動神経もすぐれていた。父親は彼を役人の道に進めたかった。しかし、廉太郎は極度の近視だったので、あきらめ、少年自身が望んだ音楽の道への進学を許した。
 こうして彼は十四歳の春(明治二十七年)、上京する。九月には、草創期の東京音楽学校に、最年少で入学した。
 子供の進路について、いちがいにこうすべきだと決めつけることはできない。大切なのは、一切の基盤となる信心の基本を、きちんと身につけさせることである。そのうえで、本人の意思を、できるかぎり尊重してあげることだと思う。
 音楽学校での日々は、決して、はじめから順調ではなかった。一時は、″将来の見込みなし″のラク印を押されかかったこともある。
 周りは年長者ばかりであった。しかも、設備がなく、ピアノ等の勉強ができなかった当時の大分から上京したばかりである。廉太郎の苦労は並たいていではなかったにちがいない。だが、彼は負けなかった。懸命に、努力また努力を重ねた。そして次第に、その才能を人々に認識させていった。
 何の分野であれ、「一流」への道は、甘いものではない。他の人も真剣である。ぎりぎりまで努力している。しかも、他の人と同じ程度のことをしていたのでは成功は、おぼつかない。
 「心血、人の千倍」――私は、ある芸術家に、こう書いて激励しようとしたことさえある。ともあれ、″超一流″の実証とは、常に人々が想像もつかないほどの心血を注ぎゆく努力と鍛えの結晶以外にはありえない。
14  若き日にこそ偉大な仕事
 廉太郎の修業時代で、見逃してならないことは、師のケーベル博士との関係である。一流の人は必ず師匠をもっているものだ。
 卓越した音楽家で、しかも、たぐいまれな人格者であった博士に、彼はピアノと作曲を学んだ。廉太郎は「真摯しんしに」また「忠実に」師事しきった。そして基本理論や幅広い教養を自分のものにしていった。彼の才能の華やかな開花の陰には、師のもとでの、こうした基礎固めの努力があった。
 師弟の道は厳格である。もとより中途半端や、遊び半分の心など微塵みじんも入り込む余地はない。真摯なうえにも真摯に、忠実なうえにも忠実に、そして誠実無比に仕えきってこそ、やっと弟子の道を歩む資格が生まれる。
 音楽など一般の師弟ですら、皆、そうである。いわんや仏法の世界の師弟の道は、もっと厳格であり、厳粛げんしゅくである。牧口先生と戸田先生、そして戸田先生と私の関係も、まことに厳格であった。
 包容されてばかりいるのが弟子の道ではない。大事にされる余り、仏法への甘い考えや、驕慢きょうまんの心を起こしては失敗である。「徹する」なかにしか、本物への道はない。
15  廉太郎が名作を集中的に作曲したのは、ドイツ留学を前にした一九〇〇年(明治三十三年)から一九〇一年。二十一歳から二十二歳にかけてという若さであった。期間は、たった一、二年である。それでも永久に残る仕事をなした。
 偉大な仕事は二十代、三十代でやる決心が大事である。その時に本気になって取り組まずして、より老いてからできるわけがない。
 世界的名曲「ラ・クンパルシータ」も、ある十七歳の若人の作品である。
 ちなみに、この曲はコンクールでは落選している。その素晴らしさを認めたのは、選考委員ではなく、民衆であった。民衆のなかに次第に人気を呼び、タンゴの傑作として世界に広がっていった。
 作者の名は、コンクールで脚光を浴びることはなかったが、本当に良いものは民衆が知っていた。私どもの人生においても、また広布の前進にあっても、貴重な示唆を与えてくれるエピソードと思い、紹介させていただいた。
 ともあれ、私は青年部諸君に「まだ若いから立派な仕事ができないのではない。若いからこそ、不滅の偉業も成し遂げることができる」と、あえて申し上げておきたい。そして本気になって信心に取り組み、広布と人生に決然と挑んでいくことを期待する。
16  心と心の出会いが歴史を開く
 ドイツに留学した廉太郎は、ライプチヒ音楽院に学ぶ。しかし、間もなく、この異国の地で肺結核を発病し、一年ほどで帰国。ふるさと竹田で療養するが、翌年、亡くなっている。
 病気のため、志なかばで留学から帰国の途についた廉太郎。彼を、イギリスのテムズ埠頭ふとうに停泊した船中に見舞った人がいる。折しもヨーロッパを訪れていた詩人の土井晩翠どいばんすいであった。いうまでもなく詩「荒城の月」の作者である。これが廉太郎と晩の、生涯ただ一度の出会いであった。
 廉太郎が亡くなって四十年後、晩は、はるばる仙台から竹田の岡城址を訪ねた。そして天才の早すぎる死をいたみ、一詩をんだ。
17   歴史にしるき岡の城
  廢墟の上を高てらす
  光浴びつつ「荒城の月」
  の名曲生み得しか
  「すぐれしものは皆霊助れいじょ
  詩聖のゲーテ曰ふところ
  世界にひゞく韻律いんりつ
  月照る限りちざらむ
  ドイツを去りて東海の
  故山にみて歸る君
  テームス埠頭ふとう送りしは
  四十餘年のその昔
  ああうらわかき天才の
  音容今も髣髴ほうふつ
  浮ぶ皓々こうこう明月の
  光の下の岡の城
18  たった一度の出会いでも、歴史をつくる出会いがある。廉太郎と晩の運命的な邂逅かいこうも、そうであった。
 私は戸田先生と出会い、十年間、おそばで薫陶を受けた。私はよく思う。――もう十年、戸田先生に訓練していただきたかった。そうすれば今の十倍の仕事ができた――と。その思いは年ごとに深まる。
 モーレス氏が「荒城の月」を知るきっかけも、一つの出会いによった。昭和十四年、アルゼンチンを訪れた作曲家の古賀政男氏から紹介され、氏の心を感動で揺さぶったのである。
 先ほど、ご紹介した晩翠の詩には「世界にひゞく韻律いんりつは 月照る限りちざらむ」とあった。この万感こもる言葉通り、若き滝廉太郎ののこした「荒城の月」のメロディーは、こうして世界へと響いていった。
 一つの出会いから、一つの出会いへ。一つの心から、一つの心へ。そして数限りない出会いと、感動を生みつつ、妙法もまた世界に広がっている。この「心から心へ」「人間から人間へ」という方程式を忘れてはならない。文化・宗教が流布しゆく際の真髄がここにある。
19  信心は「魔」との戦い
 本日、私がとくに申し上げたいことは、「謗法」や広布を妨げる「魔」と戦うことを絶対に忘れてはならないということである。
 「曾谷(そや)殿御返事」には、次のように仰せである。
 「謗法ほうぼうを責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし」――謗法を責めないでいて成仏を願うことは、火の中に水を求め、水の中に火を尋ねるようなものである。はかないことである、はかないことである――。
 謗法との戦いなくして、成仏はありえないとの厳然たる御聖訓である。
 また、「秋元御書」には「常に仏禁しめて言く何なる持戒・智慧高く御坐して一切経並に法華経を進退せる人なりとも法華経の敵を見て責め罵り国主にも申さず人を恐れて黙止もだするならば必ず無間大城に堕つべし」――常に仏は戒めて言われている。どんなに戒律を持ち、智が高くて一切経と法華経を自在に解する人であっても、法華経の敵を見ておきながら、責め、ののしり、国主にも言わず、人を恐れて黙っているならば、必ず無間大城に堕ちるであろう――と仰せである。
 社会的にいかに立派に見える人であっても、また自分は著名人である、地位や学歴がある、教学力がある等といっても、謗法と戦う心がなければ成仏はない。
 正法を信奉する学会にあって、「破和合僧」の工作をしたり、自分の地位を守るために組織を利用し、広宣流布と私どもの信心を妨げようとする人間に対しては、厳として戒め、厳として祈り、戦っていかねばならない。遠慮したり、怖がったり、恐れたりしては絶対にならない。かりに、今まで先輩であったとしても、「謗法」はどこまでも「謗法」である。
 大聖人は「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」――月々日々に、信心を強めていきなさい。少しでもたゆむ心があれば魔がそれを縁にして、襲ってくるであろう――と仰せである。
 「信心」は、「魔」との戦いである。信心が弱まれば必ず「魔」は勢いを増す。ひいては信心を破られてしまう。外からおそいくる魔と戦うことは、そのまま自身の内なる魔との戦いなのである。それなくして広布の前進も自身の一生成仏もない。
 「魔」との戦いを失った信心は、結局、観念論に陥ってしまうし、御聖訓通りの仏道修行とはいえない。
 妙法の世界にあって、誉れの人、偉大な人とは誰か。それは信心強き人である。勇猛の心で魔と戦う人である。成仏は立場や格好で決まるものではない。信心が強いか弱いか、広宣流布への一念が深いか浅いかで決まる。ここに仏法の厳しき因果律がある。
20  私は、これまであらゆる障魔と真っ向から戦ってきた。一歩もひかなかった。それが大聖人の教義であるし、戸田第二代会長の信心と行動でもあった。
 ともあれ「魔」を恐れずに、厳然と戦ってきたがゆえに、今日の大発展と大功徳がある。これからは、幹部や青年部は、私がいるからという安易な考えであっては断じてならない。隆々たる発展を遂げる大仏法の前進の中で、いつしか、「謗法」や「魔」と、どこまでも戦い抜く精神が薄らいでいくようなことがあっては絶対にならないと申し上げたい。
 ともかく、信心は「憶病」であってはならない。また、他人まかせであってはならない。幹部でありながら、「障魔」と戦っていくことを避け、周囲の評価を気にして要領よく生きていこうとするのであれば、もはや信心とはいえない。
 皆が団結し、強盛な祈りに立てば、少しぐらい幹部や先輩が退転しても、そんな低次元のことは何も恐れる必要もない。朗らかに堂々と戦っていけば、御聖訓に照らし、勝敗の結果は全部明白となるからである。
 指導者である皆さま方は、いかなることがあっても、自らの「祈り」と「責任」において、真正面から取り組み、勝利への道を切り開いていく、師子王のごとき信心でなければならないと強く申し上げておきたい。
 最後に、明年の「5・3」もまた、光り輝く広布の天地、百花咲き薫る人生の桧舞台で迎えゆくことを共々に祈り、誓い合って、私のスピーチとさせていただく。

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