Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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神奈川広布37周年記念本部長会 強靱な心、美しい心を

1988.4.16 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

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1  誇り高き人材立県・神奈川
 「神奈川」と聞くと、すぐに私は、四年前の昭和五十九年(一九八四年)九月の第一回神奈川青年平和音楽祭を思い起こす。まことに芸術性に優れ、新鮮な感覚にあふれた素晴らしき祭典であり、民衆文化の歴史に新たな地平を開いたといってよい。
 しかも、雨がザーザーと降り注ぎ、その意味からも、かの″雨の関西文化祭″とともに、後世に確かに伝えられていくであろう。
 平凡なことは、すぐに忘れ去られるが、風波を受けたものは、いつまでも忘れられない。あの、雨に打たれながらの、若人の「乱舞」と「熱唱」、そして青春の「歌声」と「メロディー」は、今も私の脳裏から離れない。
 あの感動的な音楽祭を生み出した神奈川は、今や、全国のなかでも、理想的な前進を続ける広布の縮図の地となった。まさに県のスローガンのごとく、雄大な「人材の大河」が築かれている。
 今後も一段と、誇り高き広布の″人材立県″として、模範の前進を期していかれるよう、念願してやまない。
2  信心こそ、最も美しい心
 私は、これまで、世界各国の多くの著名人、名士の方々とお会いし、対話してきた。そのなかには、政治家や実業家、学者や芸術家、また大使・公使など、あらゆる分野の方々がいる。それは、少しでも、民衆次元の文化交流と友好を促進したい、また、民衆の幸福と平和のために貢献したい、との思いからである。
 幸いにも、私は、世界中に友好と友情のネットワークを広げることができた。民音や富士美術館、また創価大学等の幅広い文化・教育交流も、その一環である。
 今回も、その一つの結実として、東京富士美術館で「黄金の17世紀フランドル絵画展」を開催することができた。
 これも、私どもの信義と文化交流への熱意を理解してくださったがゆえに、ベルギーの至宝の数々を、関係者が、ご好意で、出品してくださったのである。
 私にとって、これほどうれしいことはないし、また、関係者のご厚情に報いるためにも、更なる文化の推進へと行動し、尽力していく所存である。
3  ここで、この「フランドル絵画展」にちなんだ話を少々したい。といっても、宣伝のためではない。
 戸田先生はよく、世界広布を展望されながら、仏法の難解な法理をいきなり説いても、理解されるものではない。時には文学に話題を広げ、また、音楽を論じ、絵画について語り合いながら、心広々と、心豊かに、この大法を弘めていくのである、と言われていた。そのことを、私は昨日のように思い出す。
 さて、フランドルといっても、遠く見知らぬ土地、との感を抱くだけかもしれない。が、実は日本でも、多くの人が、少年少女の日に、かの地に、″心の旅″をしている。それは、「フランダースの犬」という物語に、一度は親しんだ人が少なくないからである。
 「フランダースの犬」――フランドルを舞台にした、少年と犬の、美しくも悲しい物語である。作者は、イギリスの女性作家で、「フランダース」は「フランドル」の英語読みの発音である。我が国でも、今世紀の初頭(大正年間)以来、児童文学の名作として広く親しまれ、私も、幼い日に、この本を手にしたことが、今も懐かしい。
 主人公は、両親を失い、牛乳売りの仕事をしながら、絵の勉強をしている少年。死にかけたところを助けた犬が、彼には、最も親しい心の友であった。
 とくに私は、つらい一日の仕事を終えた少年が、仲よしの犬と、アントワープ(ベルギーの貿易港)に連なる運河の岸辺の草むらに寝ころんで、船をながめている場面が、印象深く思い出される。さわやかな磯の匂い、花の香り。そして雄大な空と、海へ向かう船影。少年の夢とロマンを託したこの光景は、さながら一幅の名画のように思い浮かぶ。
 この横浜平和講堂へ向かう車中、こうした詩情豊かな光景を探してみたが、残念ながら見当たらなかった。しかし、路上で創価班のメンバーが凛々しく整理の任務についている姿が目に入り、私は即座に激励した。何気ない一瞬の出会いであっても、私は見逃さずに大切にしているつもりである。
 さて、絵画を愛する少年のあこがれの画家は、故郷が生んだ巨匠ルーベンスであった。その絵を何とか見たいと願ったが、お金がなく、その願いは叶えられなかった。その時、″もしもルーベンスが生きていれば、きっと快く見せてくれただろうに……″と悔しがる場面は、私自身、小さな胸を痛めた、忘れられないシーンである。
 今回の東京富士美術館の″フランドル展″にも、ルーベンスの作品が十二点含まれている。私も近々、会場に足を運び、名作の数々を鑑賞したいと思っているが、ルーベンスの作品には、少年の日の思いが重なり、ひときわ感慨深く感じるのではないかと思う。
4  「フランダースの犬」の主人公は、貧しく、家庭環境にも恵まれぬ少年であった。だが、逆境に負けることなく、一途に、そして純粋に生きる姿は、まことにすがすがしい。地位でも財産でもない。「美しい心」こそ最も尊いということを、この小説は語りかけている。
 次元は異なるが、最も「美しい心」とは、信心である。また、たとえ貧しく、無名であっても、広布と民衆のために走り続ける姿ほど美しいものはない。そうした皆さま方の姿は、何より、日蓮大聖人が御照覧であられ、最大に賛嘆されるにちがいない。
 社会、地域にあって、確かな勝利の実証を示し、妙法の絶大の功力を証明しつつ、我が″内なる生命″を永遠の福徳で飾り、強靭にして美しき「心」を築くことが、信心の目的といってよい。
5  人生、年と共に若々しく
 ここで話は、パッと日本に戻って、「還暦かんれき」の話をしておきたい。きょうは青年部の諸君も大勢、おられるが、今はともかく、いずれ我が身の上のことになる。″関係ないよ″という顔をしないで、聞いていただきたい。
 昭和三十五年二月十一日。私は日記に、記した。
 「戸田先生のお誕生日である。ご生存なれば六十歳。還暦であられる。妻と共に、そのことを語り合う。先生の子供のごとく、娘のごとく」
 逝去せいきょされて、二年――。先生亡(な)きあとの学会を渾身こんしんの力で支えながら、この日、妻とともに先生をしのび、お誕生日をわが家でお祝いした。
 戸田先生は、私ども夫婦の恩師であり、主人であった。また厳父であり、慈父であられた。――他の誰が何と言おうとも、その不二の絆の事実は消えない。先生と私の間には毛すじほどのへだたりもなかった。
 先生は、常々「大作は体が弱いのに、これだけ精力を使い切っては、長生きは、できないな。三十で人生、終わりかな」と、病弱な私の体を心配してくださった。時には涙を流しながら話されていた。
 先生だけが私の陰の戦いを知っておられた。他の誰も知らぬところで、私は戸田先生を守りに守りぬいた。会長として存分の指揮をっていただけるよう、あらゆる面から支えに支えた。それこそが広宣流布のため、学会を盤石ならしめる唯一の道であると確信していた。また熟知じゅくちしていた。
 一日一日、精も根もつき果てるような毎日が続いた。いのちもいらぬ、名誉も財も称賛もいらぬ、ただひたすらに師のもとに、大法に殉ぜんとした青春の日々であった。学会発展の原動力となった、その戦いは私の永遠の誇りであり、また大福運となっている。
 あとは、後継の諸君のなかから、生命をして広布に進む″本物″の地涌の勇者よ出でよ、と期待し祈る以外にない。
6  戸田先生いて、三十年。あらゆる苦難の嵐を乗り越え、学会を大発展させることができた。正法を世界に弘めた。
 法華経に「更賜寿命きょうしじゅみょう(さらに寿命を賜え)」と説かれている。短命といわれた私も、護法の功徳力によって、今年で六十歳。戸田先生の亡くなられた五十八歳を超えて、還暦を迎えた。
 還暦とは、ご承知の通り――といっても若い人の中には知らない人もいるかもしれないが――六十年で干支かんしが一巡し、生まれた年の「えと」(干支)に″かえる″ことである。
 干支は、十干じっかんと十二支の組み合わせを六十種作り、年や月に当てはめたもので、十干とはきのえきのとひのえひのとつちのえつちのとかのえかのとみずのえみずのとのことである。これは五行説の木、火、土、金、水のそれぞれをに分けたものであり、これに十二支を当てはめた配列を六十種に揮毫にした。十二支とはうしとらたつうまひつじさるとりいぬをさす。
 六十年で出発点に還るから、″生まれ直す″という意味をこめて、ここで若返って新しいスタートをする、めでたい時機とされている。還暦を祝う風習は、室町時代の末頃から始まり、江戸時代に盛んになったようである。
7  第二十六世日寛上人は、江戸中期の享保きょうほう十年(一七二五年)正月、還暦を喜ばれて、次の狂歌を作られている。
 「いくつぞと問はばひとつと答ふべし 生れし年のとに還れば」
 つまり″何歳かと聞かれたなら、一歳と答えよう。生まれた年のえとに還ったのだから″と、若々しい清新な御心を歌われている。
 ユーモアをこめられながらの御歌であるが、その実、この年の日寛上人の御決意は並々ならぬものであったにちがいない。亡くなられる前年である。御生涯のを総仕上げすべき年であると見極めておられたと拝される。
 事実、この年、日寛上人は、三月から六月にかけて、「六巻抄」を完成されている。いうまでもなく、『六巻抄』は上人が一生の研鑽を集大成された書である。上人自ら「此の六巻の書の師子王あるときは、国中の諸宗諸門の狐兎こと一党して当山に襲来すといえどもあえ驚怖きょうふするに足らず」と、絶対の確信をもっておられた。
 還暦に至って、「いよいよ今年こそ」との御覚悟で、万代の令法久住りょうぼうくじゅうのため、生命を注いで″六巻の師子王″をのこしてくださったのである。まさに法華経に説く「未曾暫廃みぞうざんぱい(未(いま)だ曾(かつ)て暫(しばら)くも廃せず)」の経文のままの尊き御姿であられたと拝される。
8  さて、かつての″人生五十年時代″にあっては、還暦は、現在以上に、大きな慶事けいじであった。また農村などでは、還暦を機会に「隠居」するという習慣も見られた。
 しかし、今や「人生八十年時代」となった。還暦のとらえ方も、変わらざるを得ない。すなわち、文字通り、「人生は六十から」という新しい出発の節とすべき時代の趨勢すうせいであるといってよい。まして信心には「隠居」などない。
 日淳上人は、すでに大正十一年、ある論文の中で「隠居」について、こう述べておられる。
 「古い儒教道徳にわざわひせられている」「れも久遠の創造的、活命かつみょう的生活といふことから見れば全く誤っている。左団扇ひだりうちわでといひたがる人は妙法を知らぬからである、新時代には当然影を消すべき思想である」と。
 まことに先駆的思想であると感嘆する。
9  いうまでもなく、高齢者は大切にしなければならない。当然、福祉をはじめとして、悠々ゆうゆうたる楽しい人生の総仕上げができる「環境づくり」を積極的にしていくべきである。周囲の人も最大の配慮をしていかなければならない。
 その上で、ただ何の目標も、生きがいもなく、安閑あんかんとした″左ウチワ″の楽隠居に、理想の晩年の姿があるかどうか。本当の幸福があるかどうか。これが重要な課題になってくる。すなわち環境が整えば整うほど、本人自身の人生の「生き方」の問題が、より切実に問われてくる。
 かつて、仕事や子育てから引退したあとは、「余生」等と呼ばれた。しかし今日では、しばしば「第三の人生」といわれる。
 フランスでは早くも「第三の人生のための大学」がつくられているように、この総仕上げの時期を、いかに有意義に生きゆくか。これが高齢化社会を迎えた現代の切実にして深刻なテーマである。
 このテーマに真正面から取り組むことは、民衆の幸福に責任ある宗教者として当然である。ゆえに、かねてより私は、この課題の解決に向けて、様々な角度から発言してきた。また何より「一生成仏」「広宣流布」という″無上道″を、若き後継の同志に囲まれつつ、生涯はつらつと歩みゆける――この学会の世界の事実の姿こそ、その課題への先駆的解答を示していると申し上げておきたい。
 御書には「相構て相構て心を翻へさず・一筋に信じ給ふならば・現世安穏・後生善処なるべし」と仰せである。
 この御文の通り、何があろうとも、また何歳になろうとも、心をひるがえすことなく、一筋に信仰を貫き通していくならば、そこに人生の春秋を最高の凱歌がいかで飾りゆく「現世安穏」の実証が生まれる。さらに「後生善処」の果報を生んでいく――。
 ゆえに皆さま方は、この御本仏の仰せのままに生き抜き、年とともに輝きを増す模範の一生涯であっていただきたい。
10  ″広布の闘士″の名こそ誉れと
 さて戸田先生は、今から三十三年前、昭和三十年三月、この神奈川の「第四回鶴見支部総会」の席上、次のように指導された。
 「これから二十数年のあいだの大闘争に、一人ひとりが広宣流布の闘士として働いた名誉は、どれほど大きく、どれほどの功徳をうけることでありましょうか。また広宣流布のあかつきに、この大闘争に加わることのできなかった人々の悲しみは、さぞやどれぐらいでありましょうか。時にめぐりあうということは重大なことであります」
 「いまここに、広宣流布の時きたって、その広宣流布の闘士として、これから百年、二百年の後に、『あれみよ、あの人々は、広宣流布のために働いた人々である。広宣流布の闘士であったよ』と後の世の人にうたわれ、かつはまた、大御本尊様にほめたたえられる人が、幾人あることでありましょうか」――。
 この戸田先生の師子吼ししくをうけて、草創の神奈川の同志は、いさぎよく戦った。その大いなる栄誉と福運は、戸田先生が教えてくださった通り、いよいよ輝いていくことは間違いない。
 今度は、若き青年の諸君が、これから二十年、三十年、後世の人に、″あの人こそ″とうたわれる立派な「広宣流布の闘士」として生きぬいてほしい。
 また、それが、ほかならぬ自分自身のためである。使命に生きる以上の幸福はない。広布に殉じ、妙法という永遠なる「大法」に則って、一生を、そして三世を常楽我浄じょうらくがじょうの生命で楽しみきっていく。これ以外に真実の幸福はない。他の楽しみは、すべて、はかなき幻のごとき幸福であり、仮の喜びにすぎない。
11  周総理の語る″母の恩″
 話は変わるが、中国の故・周恩来総理は、私がこれまで会見した世界の多くの指導者のなかでも、ひときわ深い感銘をうけた一人である。
 周総理は、母親への深い「情愛」と「報恩」を貫いた、美しい心の人でもあった。周総理には生母、養母、乳母うばの″三人の母親″があり、三人三様、様々な影響を周少年に与えたという。この″母″について、雑誌「婦人と暮し」の五月号で作家の高橋光子氏が紹介されていたエッセーに基づき、少々触れておきたい。
 三人の母のなかでも周総理が生後四カ月で養子にいった陳氏の養母(伯母にあたる)には、最も強く影響を受けたようである。周総理が″母″と述懐する時は、ほとんどこの養母をさしている。
 彼は国家の要職についてからも、折にふれ母親の話をしては、人々の感動を呼んだ。ある時には、「私が赤ん坊のとき、伯母が私のほんとうの母親になりました。それから十歳になるまで――つまり彼女と私の生母が二人とも亡くなったときですが、――私は養母のそばを一日たりとも離れたことはありません」と語っている。
12  この養母・陳氏はたいへんに気丈な人で、社会的にも開明かいめい的な意識をもつ女性であった。その個性的な人柄から、当時の中国の社会では″型破り″とも思われる行動もしばしばあった。
 たとえば、排外的な運動が始まっていた当時の中国では、西洋人は「洋鬼」といわれ憎しみの的となっていた。にもかかわらず、彼女は周総理の家庭教師に西洋人宣教師をつけたのである。これは当時の中国社会の″常識″からは考えられないことであった。
 この幼い時期の様々な経験は、周総理が豊かな知識を吸収し、偉大な指導者へと成長するうえでどれほどの糧となったことか。のちに周総理自身、「私は母の指導に感謝しています。母の薫陶がなければ、私は学問に興味を抱くことがなかったでしょう」と、養母に心から感謝し、その面影を懐かしんでいる。
 養母・陳氏の毅然きぜんとした生き方は、″広布の母″である学会の婦人部の皆さま方の姿をほうふつとさせる。友の幸福を願い、毎日、毎日、地道に弘教に励む皆さまの行動は、自分本位な時代の中で、時に″型破り″に映るかもしれない。しかし、皆さまの真心の行為は、必ずや後継の子供達のよき″模範″となり、次代のリーダーを育てゆく大いなる″土壌″となっていくことを、深く確信していただきたい。
13  さて周総理は、一九四五年(四一年とする説もある)の学生集会で、母親へのあふれんばかりの心情を、次のように吐露している。
 「私自身のことを申しあげると、今の私、今後の私がもっとも懸念するのは、私にすべてを与えてくれた母親のことであります。その墓はまだ日本占領下の浙江せっこう省にあります。そこへ帰って母親の墓に詣でることができたらどんなにしあわせか――これは生命を革命と祖国に捧げた蕩児とうじ(わがままな息子の意)が、やらなければならない最低限度の仕事であります」。
 またこの折、彼が「母の墓の草むしりができたらどれほど幸せなことでしょう」と述べたことも記録されている。
 さらに翌年の一九四六年、重慶から延安に帰るときの送別の席で、彼はこう語っている。
 「私が家を離れてからすでに三十年の歳月がたっています。母親の墓に植えた楊柳ようりゅう(ヤナギのこと)はさぞかし大きく伸びていることと思います」と――。
 こうした周総理の一言一言には、養母へのめども尽きぬ「感謝」の思いが感じられる。どのように大成し、またどのような社会的立場となっても、自らをはぐくんでくれた親の恩を決して忘れることのない美しい「心」。その人間愛にみちた「心」の豊かさ、温かさに、私は深い感銘をおぼえる。
14  ″親の恩″について、日蓮大聖人は「刑部左衛門尉女房御返事」に次のように仰せになっている。
 「父母の御恩は今初めて事あらたに申すべきには候はねども・母の御恩の事ことに心肝に染みて貴くをぼへ候」――父母の恩がいかに大きいかは今さらこと新しくいうまでもないが、母の御恩については、ことに心肝にそめて貴く感じている――。
 両親への限りない感謝と、報恩の人生を貫いていく。ここにも仏法を持つ信仰者としての大切な生き方があることを、私は特に後継の若き青年部諸君に申し上げておきたい。
15  ″母の力″は平凡にして偉大
 さて、周総理の夫人である鄧穎超とうえいちょう女史と元赤坂の迎賓館でお会いしたのは、九年前(一九七九年)の四月である。
 第四次訪中の折以来、七カ月ぶりの再会であった。私は、かねてから女史に日本の桜を見てもらいたかった。が、あいにくその年は、桜の開花が早く、再会の時にはほとんど花が散ってしまっていた。そこで、せめてもの思いを込め、八重桜を贈らせていただいた。
 その際、女史は、やさしさあふれる笑顔で、「私が心から行きたいと思っているのは、″周桜″のある創価大学です」と語っておられた。また、「時間が許せば、池田先生ご夫妻の家にも訪れたかった。でも、今こうしてお会いでき、私の心は、もうご家庭にうかがっているような気持ちになっています」とまで言ってくださったことを、忘れられない。
16  ところで、女史の母・楊振徳ようしんとくさんについて、月刊誌「人民中国」(一九八七年十一月号)に紹介されているいくつかのエピソードを話しておきたい。
 ――当時、中国は革命のさなかにあり、女史も若いころ(十代半ば)から革命運動に参加していた。そのため母と娘が一緒にいられる時間はほんのわずかであった。しかし、母娘二人は、絶対の信頼と深い愛情で結ばれていた。
 若き周恩来総理との結婚話がもちあがった時も、母は娘に全幅の信頼をおき、すべてを任せている。このこと自体、結婚相手は親が決めるものとされていた当時にあって、大変に珍しいことであった。
 これについて母親の楊さんは、「結婚については、自由のない苦痛を娘には味わわせたくなかったからであり、肩を並べて戦うなかで生まれた二人の深い愛情は、時代の流れの試練に負けることはないと信じていたからである」といっている。
 推測するに、楊さんは――周恩来、あなたも革命児である。それから娘よ、あなたも革命児である。同じ革命に生きる人間として、ともに民衆のために立派に戦い、ともに試練にぶつかっていきなさい――という思いではなかっただろうか。いずれにせよ、″母は偉し″の感を強くせざるをえない。
 また、楊さんは逝去の前年、長年の過労のため病に倒れる。何日も高熱が続くが、「それでも、一キロほど離れたところにいる娘には知らせなかった。娘もからだをこわし、しかも仕事が忙しいことをよく知っていたからである」と伝えられている。
 なんと麗しい、母と娘の絆であろうか。「民衆のため」という大目的に身も心も投じていくいさぎよい生き方――そのなかに本物の人生の輝きもある。また親が子をいつくしみ、子が親をしたう思いも、すべてが、その歩みのなかで、より大きな価値へと昇華しょうかされていくにちがいない。
 大聖人が私どもにお示しくださっているのは、「広宣流布」という大目的に向かって「不惜」の実践を貫いていく決定けつじょうした信心である。ここにこそ、人間性の真髄もあるといってよい。
 女史の母の最後の言葉は、「わたしは普通の人、構うことはありません」というひとことだったという。まさに、「平凡」にして「偉大」なる彼女の生涯を如実に表す、胸に迫る言葉である。
 ともあれ、皆さま方は、末法の真実の仏道修行であり、成仏への直道である折伏行に、日々、たゆみなく励んでおられる。
 その地涌の菩薩の眷属として、ひたすら広宣流布にまい進されている皆さま方の永遠なる「栄光」と「幸福」と「大福運」を心より祈り、本日のスピーチとさせていただく。

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