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日蓮大聖人・池田大作

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第1回東村山圏総会 「おごりたかぶるな、大衆から離れるな」

1988.4.10 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

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2  さて、私は、この総会に先立って、中国・北京大学の張学書副学長一行と会談した。その折にも話題となったが、このほど中国の第四代首相(国務院総理)に李鵬りほう氏が就任された。氏は、昨年北京で開催された「核の脅威展」の開幕式にも出席されている。
 李鵬首相は十一歳で「革命烈士」(新中国建設のため活躍し、その途上にった人々)の遺児となり、故・周恩来総理・鄧穎超とうえいちょう女史夫妻に引き取られた。十七歳で中国共産党に入党し、その後、モスクワに留学。帰国後は、各地の発電所など、いわば最前線の現場での経験を踏み、技術にも明るい政治家としての歩みを刻んできている。
 氏の経歴を見るにつけても、優れた指導者は様々な体験を経て、人間的にも力量的にも成長を遂げているものだ。また、そうした経験なくしては、立派なリーダーに育つことはできない。学会においても、経験浅く、未熟でありながら、偉くなったと錯覚し、結局、退転していった幹部がいるが、とくに若い幹部は、深く銘記すべきことであろう。
 私が昨年、女史に贈った詩「えにしの桜」が、先日「人民日報」に掲載された。こうしたことを通し、日中の友好が深められていくことを本当にうれしく思う。私は故・周総理とは逝去せいきょの前年にお会いし、また女史とも幾度も歓談している。お二人とも、私にとっては心と心の通う、かけがえのない人生の先輩の方々である。
 その女史が、李鵬氏の副首相就任にあたって「おごりたかぶるな、大衆から離れるな」と忠告したのは、有名なエピソードである。
 一流の人物なればこそいいえる一言であるが、「おごりたかぶるな」「おごりたかぶった人間はいらない」とは、戸田先生の遺言でもあった。
 どこまでも謙虚に、尊い仏子の方々に尽くすのが指導者である。にもかかわらず、幹部となり「傲慢」になった人間は、いつしか退転し、自分勝手な行動で大勢に迷惑をかける――戸田先生はそれを鋭く見通されていた。
 ″おごり″や″慢心″は、退転への道である。ゆえに、いつしか心にしのび寄る″おごり″″慢心″を、厳に戒めねばならない。信心の世界には″傲慢の人″は必要ないし、絶対にいさせてはならないと、強く申し上げておきたい。
 もし、そのような幹部がいれば、我々がいなくなった後、彼らは純真な学会員をいじめ、利用し、皆が苦しめられるであろう。それを思うと、先輩である私たちは、厳しく見守り、戦っていかなくてはならない。
3  ″大厄″も福運へと転ずる信心
 私のもとには、会員の方々から、様々な質問が寄せられる。広布の指導者として、大切な質問には、しかるべく答える義務と責任がある。
 日常生活のなかで、どうしたらいいか分からない、何となく答えがあいまいなままの疑問が、誰にもあるものだ。それに対し、仏法の明晰めいせきな視点から、明快に答え、指導していくことが、信心のリーダーの責務ではなかろうか。
 先日、私のもとに、「厄年やくどし」について、仏法ではどう説いているのか、また仏法者として、どのように考えていくべきかとの質問があった。そこで、きょうは、その点について、少々、論じておきたい。
 「厄年」というものが本当にあるのか、ないのか。本来、それは、ドクター部の方々に聞くのが″スジ″かもしれない。しかし、ドクターの先生方も、一見、怖そうな方が多く、多忙なようでもあり、なかなかたずねにくいという声もある。
 災いを招きやすいとされる厄年が何歳であるかという点については、様々な説がある。一般に、男性は四十二歳、女性は三十三歳とされることが多い。御書には五十七歳の説もあげられている。
 こうした説の背景には、四十二には「死に」、三十三は「さんざん」といった語呂あわせの意味合いもあるようで、とすれば、五十七は大方、「御難」ということになろうか。ともあれ、こうした語呂あわせが、とるに足らない俗説であることは、いうまでもない。
 ただ医学者のなかには、厄年を、成人病などの危険性のうえから、注意すべき年代として積極的にとらえ直している人もいる。
 また、一般的にも、身体や人生の変わり目、節目として、自戒すべき年齢であるとする見方が、少なくないようだ。
4  日蓮大聖人は、御手紙のなかで、厄年が由来する中国の伝説や、また厄年に関する世間一般の考え方などに、種々触れられている。
 厄年は、あくまで伝説や神話に由来するものであり、確かな論拠があるものではない。むろん、仏法で説かれたものでもない。それなのに、大聖人が、このようにわざわざ言及されたのは、なぜか。その点について、御書には次のように仰せである。
 「予が法門は四悉檀を心に懸けて申すならばあながちに成仏の理に違わざればしばらく世間普通の義を用ゆべきか
 つまり、仏法では、衆生を教化する四つの方法として「世界せかい悉檀しつだん」「為人いにん悉檀」「対治たいじ悉檀」「第一義だいいちぎ悉檀」の四悉檀が説かれ、ある程度、世間的な願望や人々の機根に従って弘教を進める方軌が明かされている。
 大聖人の法門では、この四悉檀を心がけているから、いて、成仏という根本の法理にたがわなければ、世間の普通の義をも、一応は用いる、との御指南である。
 世法即仏法であり、信心即生活である。仏法は、決して社会の現実から遠く離れたところにあるのではない。大聖人は、社会の潮流や人々の苦悩、願望を的確に見極められ、そのうえで自在に法を説かれ、弘教を進められた。こうした御振る舞いは、御本仏の無量の智と大慈大悲の一つのあらわれと拝する。
 門下のなかには、厄年であるがゆえに、浅からぬ不安を抱いている者もいた。大聖人は、そうした人達に、種々、温かな指導、激励をされている。
 たとえば、四条金吾夫人の日眼女にちげんにょが三十三歳の″厄年″にあった折、大聖人は、次のように励まされている。
 「三十三のやくは転じて三十三のさいはひとならせ給うべし、七難即滅・七福即生とは是なり、年は・わかうなり福はかさなり候べし
 ――あなたの三十三歳の厄は、転じて三十三の福となるでしょう。仏典にある「七難すなわち滅し、七福すなわち生ず」とは、このことです。年は若返り、福は重なるでしょう――と。
 妙法を受持する私どもにとっては、いわゆる″厄年″にあっても、その災いは限りない福徳へと転換していくことができる。信行の実践に励んでいくならば、汲めども尽きぬ「若さ」を涌現させ、永遠の「福徳」を積むことができるとの仰せである。ただ、信心の厚薄こそ肝心なのである。大聖人は、同じ日眼女の三十七歳の厄年にさいしても、次のように激励されている。
 「家にはかきなければ盗人いる・人には・とがあれば敵便をうく、やくと申すは(中略)家にかきなく人に科あるがごとし、よきひやうし兵士を以てまほらすれば盗人をからめとる
 ――家に垣根がなければ泥棒が入り、人に弱みがあれば敵がつけ込むものだ。人の一生のなかで、厄年とは、家に垣根がなく、人に弱みがあるようなものだから、決して油断はできないが、強い兵士に守護させれば、かえって盗人をからめ取ることもできる――と。
 厄年とは、人生における″季節の変わり目″とたとえられるかもしれない。身体の変調や精神の不安を感じやすい時期であり、こうした時には心身の病という″盗人″にも侵されやすいものであろう。
 しかし、信心という強固な「兵士」の守りさえあれば、いかなる変調や不測の事態にも、いささかも動揺し、侵されることはない。かえって、それを機に人生を大きく開いていくことができる。妙法とは、このように、まことに有り難き大法なのである。
5  一方、厄年に悩んだ男性の門下に、下総しもうさの大田乗明がいる。彼は、富木常忍に折伏され、入信した一人で、鎌倉幕府の問注所もんちゅうじょ(訴訟の機関)に勤めていた。年齢が、ちょうど大聖人と同じであったようだ。
 弘安元年(一二七八年)、乗明は厄年であることに苦悩し、大聖人に手紙を書いた。その内容を、大聖人自ら、返書のなかで次のように要約されている。
 「御状に云く某今年は五十七に罷り成り候へば大厄の年かと覚え候、なにやらんして正月の下旬の比より卯月の此の比に至り候まで身心に苦労多く出来候、本より人身を受くる者は必ず身心に諸病相続して五体に苦労あるべしと申しながら更に云云
 ――あなた(大田乗明)のお手紙によれば、「私は今年五十七歳となり、大厄の年と思われます。そのためか、なにやら正月の下旬頃から四月のこの頃になるまで、身にも心にも苦労が多く出てきました。もとより、人として生まれた以上、必ず、肉体的にも、精神的にも、諸々もろもろの病や悩みが次々と続いて、五体に苦労が絶えないものであることは、かねがね承知していましたが、最近はとくにひどいのです」――と。
 大聖人は、大田乗明の、いわば″まったく弱り目にたたり目です″との嘆きを、我が事のように受けとめられている。そして全魂で、大確信の指導をされている。
 まず「法華経と申す御経は身心の諸病の良薬なり」――法華経こそ、一切の身の病、あらゆる心の悩みの最高の良薬である――と述べられ、法華経、すなわち御本尊の絶大な功力を強調されている。
 そして、一代聖教の肝心は、本門寿量品に説かれた「一念三千の法門」であることを示されつつ、「此の一念三千の宝珠をば妙法五字の金剛不壊の袋に入れて末代貧窮の我等衆生の為に残し置かせ給いしなり」――仏はこの「一念三千」の宝珠を、妙法華経の五字の金剛にして壊れることのない袋に入れて、末法の貧窮の衆生のために残し置かれたのである――と仰せになっている。
 即ち、御本尊を受持し、唱題に励む私どもは、仏が残し置かれた「一念三千」の宝珠をもつ者であり、いわば、仏子である。その仏子を、三世十方の諸仏、そして諸天善神が守らぬわけがない。ゆえに、たとえ″厄年″にあるように見えても、信心という大良薬の力で、諸仏・諸天の加護を得、私どもは永遠の幸福への軌道を歩んでいる。
 そこで大聖人は、結論として、「厄の年災難を払はん秘法には法華経に過ぎずたのもしきかな・たのもしきかな」――厄年の災難を払い除く秘法は妙法以外にない。まことに頼もしい限りである――と断じておられる。
 結局は、厄年等の災いも、信心根本に克服していけるとの明快なる御指南である。当然、病の治癒ちゆのためには、医学的な治療等、あらゆる手段を講じていくべきである。それらをすべて生かしていけるのが、信心の素晴らしき力用なのである。
6  現代でも、世間では正月、初詣はつもうでに大勢の人が行くが、そのかなり多くに厄除やくよけの祈願がある。それほど「厄」は今もって人々の心に根をおろしているようだ。
 しかし、こうした祈願について大聖人は「祈祷抄」で、次のように厳しく仰せである。
 「法華経を背きて真言・禅・念仏等の邪師に付いて諸の善根を修せらるるとも、敢て仏意に叶はず・神慮にも違する者なり・能く能く案あるべきなり
 ――法華経に背いて、真言や禅や念仏等の邪師につきしたがって、いかに諸の善根を行ったとしても、それは決して仏意にかなうものではない。また神慮にもたがうものであるから、よくよく考えねばならない――と。
 「厄除やくよけ」といっても、妙法以外の邪法・邪師にその解決を求めても、けっして可能にはならない。むしろ、邪法・邪師によればよるほど悪業を積むことになり、「厄」を除くどころか、災難をますます深めていくのである。
 そして大聖人は「人間に生を得る事・すべて希なりたまたま生を受けて法の邪正を極めて未来の成仏を期せざらん事・返返かえすがえす本意に非ざる者なり」――そもそも人間に生を得るとは、実にまれなことである。そのたまたま生を受けたかけがえのない人生でありながら、法の正邪を極めて、未来の成仏を期さないことは、かえすがえす残念でならない――と。
 まことに、深く思索せねばならない御文である。
7  「日蓮に任せ給へ」の大慈悲拝し
 さて弘安元年当時、大田氏と同じく五十七歳であられた大聖人御自身、年頭から下痢げりで体調がすぐれなかった。しかし、大田氏へのお手紙では、いささかもそのことには触れられず、ただただ大田殿の立場に即され、次のように結んでおられる。
 「当年の大厄をば日蓮に任せ給へ、釈迦・多宝・十方・分身の諸仏の法華経の御約束の実不実は是れにて量るべきなり」――あなたの今年の大厄は日におまかせなさい。釈迦・多宝・十方・分身の諸仏が、法華経の中に約束されたことが、真実か否かは、あなたのこの大厄をはらえるかどうかで実証されるのである――と。
 御自身の御体もすぐれない大聖人であられたが、大田氏を思いやられて「当年の大厄をば私に任せなさい」と、大確信の御言葉で励まされている。
 病の門下に対して、立場が上とか下とかということではない、ただどう門下の命を守り、長寿をまっとうさせるかに心を砕いてくださっている。ここに大聖人の大慈大悲の御心があり、師匠の深き御慈愛がしのばれる。
 大田殿は、大聖人のこの御言葉の通り、五十七歳の大厄を見事に乗り越えている。そして、正法流布のために活躍し六十一歳(六十歳との説もある)の折には、重書「三大秘法抄」を賜っている。
8  厄年のあるなしにかかわらず誰人にも、大なり小なり悩みはある。行きづまりもあれば、解決しなければならない課題もある。生身の人間であれば病気にもかかる。また、不慮の事故や災難にあうこともある。
 こうした悩みを、何でも相談できる依処を持った人は、どれほど心強いか。また、それがどれほど有り難いか。学会の強みも、ここにあることは、皆さまがよくご存じの通りである。
 要するに、何があっても乗り越えていけるのが信心である。むしろ、悩みや苦難にあったときにこそ、信心を深め、成長していくことができる。限りなく幸福の大道を開いていける。それを反対に、疑いを起こして妙法の世界から離れてしまうか――ここに信心の分かれ道がある。
 ともあれ、一切を「日蓮にまかせ給へ」との御言葉のままに、御本尊に祈りきっていく。そこに三世十方の諸仏の加護も厳然と現れ、すべてを打開していくことができる。
9  東村山は佐渡配流に有縁の地
 ところで、東村山は、大聖人有縁の地でもあった。東村山市内には、今も「鎌倉街道」が通っている。鎌倉時代、この街道は、政治の中心であった鎌倉と、東北、北陸を結ぶ重要な道であった。御書にも「武蔵の国久目河くめがわの宿」とあるが、ここで「久目河」とは、現在の東村山市久米川町にあたる。久米川は、かつて多摩郡と入間郡の境界となっていた今の柳瀬川のことであり、「久目河の宿」とは、南は府中から鎌倉に達し、北は入間郡を経て群馬、長野へと通じる鎌倉街道の要衝ようしょうの宿駅であった。
 渺々びょうびょうたる武蔵野――鎌倉を出発し、いまだ開かれていない武蔵野の原野を行く旅人にとって、この清きせせらぎの久米川の宿は、どんなにか心安らぐ、希望の地であったことかと、推察される。
10  大聖人も、佐渡流罪のさい、この久米川の地を通られている。すなわち、佐渡に向かわれるため、一時滞在されていた相模(現在の神奈川県厚木市)の依智をたれ、第一泊をされたのが、この久米川の宿であった。
 その意味で、東村山圏の若き門下が「寺泊御書」の研さんに励んでいると聞き、大変うれしく思っている。大聖人はその「寺泊御書」に次のように記されている。
 「今月十月なり十日相州愛京郡依智の郷を起つて武蔵の国久目河の宿に付き十二日を経て越後の国寺泊の津に付きぬ」――今月(十月)十日に相模の国愛京郡依智の郷をたって武蔵の国の久目河(久米川)の宿に着き、十二日かかって越後の国の寺泊の港に着いた――と。
 大聖人が依智を出発された十月十日は、新暦でいえば十一月二十日にあたる。晩秋から冬に向かう季節であった。
 久米川の宿で一泊された大聖人は、埼玉を通られ、鎌倉街道を群馬・高崎まで進まれ、その後、新潟の寺泊に到着される。まさに、吹きすさぶ北風の中、厳寒の北国に一歩一歩向かわれゆく道中であったと、しのばれる。
 厳冬の北国への道は、まさに厳寒の法難への道でもあった。大聖人は、この法難の烈風に、敢然と歩みゆかれたのである。
 そして大聖人は、一度流されたなら生きて帰ることはまれといわれた佐渡流罪より、約二年半ぶりに赦免され、鎌倉にもどられる。
 佐渡をたたれたのは三月十三日、新暦でいえば、四月二十八日。また鎌倉に着かれたのが三月二十六日、新暦の五月十一日にあたっている。佐渡から鎌倉への道は、折から暖かい時節へ向かってもおり、厳寒を忍ばれた大聖人の御体も徐々に温まっていかれたことと拝察される。
 佐渡から大聖人がたどられた帰りの道すじについては明らかではない。が、美しい、五月の武蔵野の天地を通られたことが想像できる。
 今まさに春。ここ東村山は、大聖人が佐渡流罪のさいに縁せられた、ゆかりの地である。それだけに私は、その地にあって広布に尽力されている皆さま方のご長寿、これからのご活躍を、切にお祈り申し上げたいのである。
11  余談となるが、この武蔵野、なかんずく東村山の春といえば、私が会長就任を前にした昭和三十五年四月十日、戸田先生のご遺族を花咲き香る、この地にご案内したことを思い出す。その日の日記には、このように記している。
 「蘭春らんしゅん――風塵――東村山まで往く。
 桜あり、しばし心うららか。
 山吹、石楠花しゃくなげ、雪柳、梨の花、すももの花、枝垂柳しだれやなぎ小手毬こでまりの花、からたちの花、くすのきの芽、もみの芽、胡桃ことうの芽、雑木の芽、くぬぎの芽――。
 愛する東京の桃源郷とうげんきょう、日本の平野。
 私のあこがれの大地なり」
 戸田先生死去後、私は二年間、会長職につかなかった。当時の理事長をはじめ、最高幹部から幾度となく懇請を受けたが、無実の罪に問われた選挙違反に関する裁判の係争中でもあり、また、私自身はあくまで戸田先生にお仕えする者、と考えていたために、あえて辞退していた。
 だが、中心者なくしては、学会もいつか崩れてしまう。このことを思い、再三の懇請をうけ会長就任を承諾した次第である。
 ともあれ私は、どれほど多忙であっても、時間の許す限り戸田先生のご遺族をさまざまなところへご案内し、尽くしてきた。それが人生の師・戸田先生にお応えする一つの道と考えてきたからである。
 たとえ我が家はどれほど貧しくなろうとも、恩師戸田先生のご遺族の繁栄のためには何でもさせていただきたい――これは、今もって変わることのない、私の信念である。
12  ″難こそ誉れ″と勇者の道を
 流罪地・佐渡へと向かわれる大聖人。そこには日興上人の姿もあられたにちがいないと拝される。その師弟の旅が、どれほど険難な道程であられたか――。
 その一端を、大聖人は越後(えちご=新潟)の寺泊(てらどまり)の地にて、次のようにしるされている。
 「道の間の事心も及ぶこと莫く又筆にも及ばず但暗に推し度る可し、又本より存知の上なれば始めて歎く可きに非ざれば之を止む
 ――ここまでの道中のことは、想像も及ばず、また筆にあらわすこともできない。ただ、あなた方の推量におまかせする。またこうした苦難はもとより覚悟の上であるから、今はじめて嘆くべきことではないので、これ以上触れることはやめておく――。
 文字通り、筆舌ひつぜつに尽くしがたい、厳しき″秋霜しゅうそう″の旅路であられた。しかし、そうしたなか、大聖人は一片の愚痴ぐち弱音よわねも、らされていない。「本より存知の上なれば」と厳然たる御姿であられた。
 この「寺泊御書」の末尾にも、「囹僧れいそう等のみ心に懸り候」――土牢(つちろう)で苦しむ弟子達のことのみが気がかりです――と仰せである。
 御自身が大難のさなかにあるにもかかわらず、ただただ門下のことのみを思いやられておられた。この師匠の大慈大悲を、日興上人以外の弟子の人々は、どれほどわかっていたことであろうか――。
 また、この佐渡への道中について、後年、大聖人は「法蓮抄」で、こう仰せである。
 「鎌倉を出でしより日日に強敵かさなるが如し、ありとある人は念仏の持者なり、野を行き山を行くにもそばひら岨坦の草木の風に随つてそよめく声も、かたきの我を責むるかとおぼゆ」と。
 ――鎌倉を出発してから、日増しに強敵がどんどん加わってくるようであった。ありとあらゆる人は念仏を持つ者ばかりである。大聖人を阿弥陀仏あみだぶつの「かたき」とねらっている。野を行き、山を行くにも、かたわらの草木が風に吹かれて、ざわめくかすかな音さえ、敵が大聖人を責める声かと思われた――と当時を振り返っておられる。
 日本一国をあげて、狂気のごとく大聖人に敵対していた。大聖人御一人を包囲し、徹底的に集中砲火を加えた。
 大聖人は、この御文の少し前で、次のように述べられている。
 「仏法・日本国に渡つて七百余年いまだ是程に法華経の故に諸人に悪まれたる者なし、月氏・漢土にもありとも・きこえず又あるべしとも・おぼへず、されば一閻浮提第一の僻人びゃくにんぞかし
 ――仏法が日本に渡って七百余年、その間、法華経のためにこれほど人々に憎まれた者はいまだかつてない。インドや中国にもいるとは聞いたことがない。また、いるであろうとも思われない。それゆえ大聖人は、世界一の憎まれ者であり、悪人であると。
 まことに悠然たる御本仏の大境界であられる。「悪口あっくこそ、大いなるほまれ」と喜んでおられる。
 次元は異なるが、大聖人の御出現から七百年、その忍難弘通にんなんぐづうの御生涯を仰ぎつつ、大法流布のために、いかなる迫害も莞爾かんじと受けきられたのが、牧口先生であり、戸田先生であった。ここに学会の永遠の誉れがある。
 戸田先生はかつて「種種御振舞御書」を拝して、次のように語られた。
 「私はありがたいことには、法華経を弘めるために、御本尊流布のために、さんざん悪口をいわれている。こんなありがたいことはないと思っています。このごろ景気がよくなったか悪くなったか知りませんが、あまり悪口をいわれない。心細く思っております」「大聖人は命を失おうとまで御覚悟あそばしています。末法の凡夫である私が、命はだれもとらないでしょう。とっても、もうからない。せめて悪口ぐらい、うんといわれて大御本尊様へ御奉公したいものだと思っています」――と。
 ユーモラスな口調のなかにも、戸田先生の偉大な信念と剛毅ごうきな人格が胸に迫ってくる言葉である。
 日本中から悪口と迫害にあって、「こんなありがたいことはない」と喜んでおられる。自身の毀誉褒貶きよほうへんなど一顧いっこだにされていない。そんな表面のさざ波とは、根本的に次元が異なっている。ただ願うのは「広宣流布」であり、ただ望むのは一層の受難である――この決定けつじょうしきった戸田先生の信心に、学会精神の骨髄がある。
 戸田先生の弟子として、私も「難こそ誉れ」「難こそ喜び」との決心で戦った。ありとあらゆる悪口、策謀、圧迫に包囲され、集中砲火をびながら、大聖人への御報恩のため、広布のために、一人、壮絶に戦いぬいた。これほどの永遠の誉れはなく、ありがたき人生の歴史もない。
13  牧口先生以来、三代にわたった、この忍難の系譜けいふにこそ、学会の正道があり、未来への源流がある。私自身のことにもなるが、あえて、後世のために、そのことを申し上げておきたい。
 この″本道″をはずれ、難を要領よく避けていくのは邪道であり、亜流である。真の信仰者でもなければ、真の学会っ子でもない。
 ともあれ、短い一生である。その短い今世の人生で、永遠にわたる生命の軌道が決定されてしまう。八十年内外の一生を、名聞名利で飾ってみても、あとが永劫えいごうに地獄であっては何にもならない。ちょっとした憶病で退転し、悪道にちてから後悔しても、もはや後悔しきれない。
 この一生を、どこまでも広布の前進とともに生き、徹底して苦楽をともにしていく――そのいさぎよい信心の一念によって、三世にわたる絶対的な幸福境涯への軌道ができあがっていくことは間違いない。
 御聖訓に照らして、私はそのことを確信するがゆえに、言うべきことは、いつも毅然(きぜん)と申し上げているのである。
14  ″世間に臆病な心″は名聞名利に執着
 ところで、大難の渦中かちゅうにおける門下の動揺の姿について、大聖人は「法蓮抄」に、こう仰せである。
 「出世の恩のみならず世間の恩を蒙りし人も諸人の眼を恐れて口をふさがんためにや心に思はねども・そしるよしをなす
 すなわち――大聖人から仏法上の恩だけではなく、世間的な恩を受けた人でさえも、社会の人の目を恐れ、その人々の口をふさいで、とやかく言われまいとしてであろうか、自分の心では思っていないけれども外見では大聖人をそしるそぶりをしている――と見ぬいておられる。
 まことに大聖人は、人の心の微妙なヒダまで、ありありと洞察しておられた。
 心では大聖人の偉大さを感じている。迫害する世間のほうが間違っていると思っている。にもかかわらず、世間の権威を恐れ、厳しき目を恐れて、自分にまでは批判や悪口が及ばないようにと、卑怯ひきょうにも迎合げいごうしてしまう。そして心ならずも、一緒になって大聖人を悪く言っていると。
 想像して、分かりやすくいえば、たとえば、こんな風でもあろうか。
 「いやぁー、私達も大変なんですよ。日蓮御坊ごぼうは、もう折伏しゃくぶく一点張りで、あれでは難が起きるのは当たり前ですよ。世間の非難も、もっともです。他に、もっといいやり方があると私達も思うんですが……」等々。
 このような憶病な門下の言動を、大聖人はすべて熟知じゅくちしておられたと拝される。
 利口げに大聖人を批判しつつも、その本質は世間を恐れ、また心の底では正義の大聖人を恐れている――いずれにしても確たる信念に立てない憶病と傲慢の生命であった。いな彼らは傲慢であるゆえに、憶病であった。自身の小さなに執着し、名聞や名利にとらわれるがゆえに、批判や攻撃がこわかった。
 反対に、大法に生き、じゅんじていこうという、晴れやかな堂々たる信念の前には、何ものも恐れるものはない。
15  ともあれ、いざという時に現れる様々な人間模様は、いつの世も共通している。
 近年においても、私が会長を勇退した時、また病気で一時入院した時、ここぞとばかりに醜い心を噴出させたやからがいた。
 スキに乗じて、悪い人間と一緒になって学会の前進を邪魔しようとする者もいた。傲慢であり、ゆえに憶病な幹部も多くいた。
 野望、反逆、退転、疑い……。人間の心はこわい。いわんや信心の狂いは、自らの生命の宝器を破壊する。また人々の宝器をもこわそうとする。
 一時の現象によって、信心の心まで動き、宝器を壊してしまった人は、ながく、成仏への軌道に戻れない。
 対照的に、こうした折に、心動かず、いやまして強盛な信心で仏子を守り、広宣流布の世界を守りきった人こそ、永遠に不壊ふえの生命の宝器を得ていける人である。
16  忘恩は人間性の神髄への反逆
 さて先ほど拝した御書に「出世の恩のみならず世間の恩をこうむりし人も」と仰せであった。仏法上はもちろん、世間的にも、何くれとなく大聖人にお世話になりながら、その深恩を忘れてそむいた者たちがいた。
 「不知恩(ふちおん)」――それは人間が人間たる″あかし″を自ら放棄ほうきした姿である。
 先日、私はベネズエラ共和国のルシンチ大統領と会見した。その折、ベネズエラ出身で「ラテン・アメリカ解放の父」と仰がれる大指導者、シモン・ボリバルのことに私は触れた。そこでの対話が、大統領の琴線きんせんに触れたのだろうか。あとで「訪日中の会見ではじめて、大統領のにこやかな笑顔を見ました」と語っていた人がいたようだ。
 それはともあれ、私としては、ただ相手が一国の大統領であれ、無名の庶民であれ、同じく心と心を開き、結びあい、喜びと満足を与えることこそ大切であると思っている。
 このボリバルの言葉に、こうある。
 「忘恩は人間があえて犯すことのできる最大の犯罪である」と。
 仏法をはじめとして、東洋の思想では、「恩」を強調する。しかし、これは洋の東西を問わず、人間性の普遍ふへんの真髄である。
 知恩・報恩こそ人間を人間たらしめているあかしであり、ボリバルが言うように、忘恩は最も人間性に反し、正義に反する罪の行為こういといえる。
17  大恩を受けながら難におくして退転し、去っていった門下は、いわば「難」という″ふるい″にかけられて落ちていった″ニセモノ″の信仰者であった。
 しかしその一方で、大難の中、あえて自ら願い求めて大聖人の門下となる″勇者″も現れた。流罪中の佐渡の地で大聖人の弟子となった最蓮房日浄もその一人である。その求道の姿を大聖人はお褒(ほ)めくださっている。
 さらに皆さま方も、また、これまで一筋に不動の信心を貫いてこられた。自ら願い求めて″勇者″の道を歩まれている、限りなく尊い方々である。
 さてその最蓮房に対して大聖人は、文永九年(一二七二年)四月十三日、お手紙をしたためられ、次のように仰せである。
 「劫初より以来父母・主君等の御勘気を蒙り遠国の島に流罪せらるるの人我等が如く悦び身に余りたる者よも・あらじ、されば我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ常寂光の都為るべし
 ――この世界の初め以来、父母・主君等のおとがめを受け、遠国の島に流罪された人で、私達のように喜びが身にあふれている者は、よもやいないであろう。それゆえ、私達が住んで法華経を修行する所は、いずれの所であっても常寂光の都となるであろう――と。
 何と広大なる御本仏の御境界であろうか。罪人として咎められ、命に及ぶ数々の難を受けられてなお、佐渡の厳しい環境をも「常寂光の都」、すなわち常楽の仏国土であると喜んでおられる。
 あわれな忘恩の徒が生々世々、悪道に堕ち、苦しむ姿に比べて、信仰を貫いた仏子の生命は、この御本仏の大境界へと厳然と連なっていく――。
18  ″生命の青空″仰ぐ美しい心
 戸田先生はかつて、大聖人の偉大な御境界を拝しつつ、次のように述べられた。
 「成仏の境涯とは絶対の幸福境涯である。なにものにもおかされず、なにものにもおそれず、瞬間瞬間の生命が澄みきった大海のごとく、雲一片なき虚空こくうのごときものである。大聖人の佐渡御流罪中のご境涯はこのようなご境涯であったと拝される」「われらも、大難にあうとも、大御本尊を固く信じて受持するならば、真の絶対的幸福境にゆうゆうと遊びうるであろう」と。
 この戸田先生の言葉は私の脳裏に刻まれて離れない。また、その一言一言が強く胸奥きょうおうに迫ってくる昨今である。この素晴らしき境界を目指しての私どもの仏道修行なのである。
 ところで、ゲーテはその晩年の箴言しんげん詩集の中で、このように言っている。
  きみたちはきみたちのくもの巣で
  世界をからめ取ろうとつとめるがいい
  わたしはわたしの晴ればれとした領分で
  生命を得ることができる(飛鷹節訳)
19  この解釈は様々に可能であろう。ただ″クモの巣で世界をからめ取ろう″という陰湿な謀略――政治にしろ経済にしろ、また軍事の分野などは特に、大なり小なり、このような策略と智謀ちぼうのウズ巻く世界であるといえよう。
 どんな世界にも、またいつの世にも、陰でコソコソと″クモの巣″を張るような陰湿で卑劣な策動があるものだ。
 近年の悪侶等や山崎一派らのやり方が、まさに″クモの巣″を張って、仏子をアミにかけ、食いものにし、「宗門」と「学会」をからめとろうとの卑劣な陰謀であった。その醜悪な姿は、まさに″クモ″のイメージそのままである。
 私どもは、これからも、そのような悪の存在を絶対に許してはならない。尊き「宗門」と「学会」の信心の世界、美しい心の世界に″クモの巣″をはらせてはならない、と強く申し上げておきたい。
 信心とは策ではない。要領でもない。役職や社会的地位のみでもない。ゆえに、表面的人気や格好にだまされてはならない。
 「晴ればれとした領分」すなわち澄みきった″生命の青空″を仰ぎつつ、強盛にして純粋なる信仰で″永遠の生命″を得ていくのが私どもの世界である。
 ゆえに私どもは、どこまでも晴れ晴れと、またどこまでも異体同心の団結で、素晴らしい無上の人生、正義の人生の総仕上げをしていきたい。その堂々たる前進をお願いして、私の祝福のスピーチを結ばせていただく。

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