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日蓮大聖人・池田大作

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第3回本部幹部会 広布支える婦人部を大切に

1988.4.1 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

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1  人の「心」つかめるリーダーに
 本日、本部幹部会にご参集の皆さまはもちろん、この模様が伝えられる各地の婦人部の集いに参加された皆さま方に対し、「本当にご苦労さまです」と申し上げたい。日夜、広宣流布のために励んでくださっている大切な婦人部の皆さまに、私は心からの敬意を表する。また、何より日蓮大聖人の絶大なご称賛は間違いないと確信する。
 先日、中部を訪問した際、ある人が言っていた。
 「″尾張おわり名古屋は城でもつ″と言いますが、創価学会は″婦人部でもつ″ではないでしょうか」
 壮年部、青年部の皆さまには気の毒だが、どうも衆目しゅうもくの一致するところ、これは否定できない真実らしい。
 壮年部は「地域の柱」ということに一応なっているが、見ていてハラハラするような、あぶなっかしい柱もあるという、もっぱらの評判だ。末法は多くのものが転倒する時代だから、婦人部が「学会の柱」で、壮年・青年はその揺るぎない柱に支えられている現実も、いたしかたないかもしれない。
 それならそれで、男性はあまり、いばったり、気どったり、格好かっこうつけたりしないほうが、正しいと思うが、婦人部の皆さん、いかがでしょうか。
2  ともあれ婦人部は、まじめである。一生懸命である。信心強盛ごうじょうである。けなげであるし、いざという時も、男性より、よっぽどハラがすわっている。純粋であるし、真剣である。
 そうした婦人部を大切にしてあげていただきたい。また尊敬するのが当然であると私は思う。法のために奮闘する婦人部の皆さまを、いじめたり、苦しめたり、感情的にしかったり、見くだしたりすることは、大いなる誤りであると明言しておきたい。
 また、婦人部は、ある意味で、信じやすく、ごまかしやすい面もある。それだけに、ごまかされたと知った時の怒りと執念しゅうねんは、尽未来際じんみらいさいまで消えないほど、大変なものである。妥協だきょうがない。
 そうした意味から、策と要領、見えと学会利用の幹部は、婦人部の皆さまの広布への純粋な祈りによって、いつしか去らざるをえなくなっている。事実、これまでの退転者等は、学会の清らかな信心の世界に、みにくい生命が耐えられず、いられなくなったのが、その本質である。
3  先ほど秋谷会長が″桜花おうか爛漫らんまんの春、四月を迎えて″と言われた。会長には申しわけないが、ご存じのように、寒い日が続いて、桜の花はまだ爛漫とはいえない。
 ところで、ちょうど今朝けさ、近所のあるご婦人からレンギョウの花をいただいた。その方は、昨年、創価大学の入学式に招待を受けて行った。大学の門を入ると、たくさんのレンギョウの花が咲いて、道ぞいにずっと続いていた。その鮮やかさは、今でも忘れることができない。その、せめてもの御礼として、ということのようであった。
 江戸城を開いた太田道潅どうかんがもらった山吹やまぶきの一枝には″実の(みの)ひとつだになきぞ悲しき″の心が込められていた。それはどうでもよいが、このご婦人の真心に触れて、一度私はレンギョウについて申し上げなければと思った。
 ――時には、こういう話もよろしいでしょうか。けさの聖教新聞の一面に「歓喜と確信と安心を」とあった。その通りの実践を、私も行わなければならない。皆さまが、少しでも心なごみ、ほっとするお話をしていきたいと願っている。
 ともあれ形式的、教条きょうじょう主義的、観念的ないき方では、人の「心」はつかめない。真剣に求めている人を、がっかりさせ、かえって、離れさせてしまう場合さえある。小さなことのようだが、その小事に、惰性だせいと甘えの一念という重大な課題がひそんでいる。指導者のそうした一念は、一事が万事で、広布の全分野に影響を及ぼす。
 苦しむのは、婦人部をはじめ、最も真剣に戦っている人々である。また、その人たちが忍耐強いことをよいことにして、リーダーが自分の惰性に気づかない。成長しない――この悪循環じゅんかんを、断ち切っていかなければならない。その時はじめて、学会は、これまで以上の″本物の力″を発揮できるにちがいない。
4  春を告げるレンギョウの花
 レンギョウは早春の花である。春本番の訪れを告げる。春のを、うららにあびて、いっせいに咲きいずる姿は、野辺のべも、山も、道も、庭も、あたり一面を明るく照らすかのように温かく、鮮烈である。
 本日は、海外の代表メンバーも参加されているが、欧米には「春。それはレンギョウの花の明るさから始まる」とのことわざさえあると聞く。――レンギョウが咲いた。いよいよ春だ。つらい冬は終わった。明るくいこう。行動しよう。こういう、はずむ心が込められているように感じられる。
 レンギョウは、しかも開花の期間が長い。なかなか、しおれない。その姿もまた、いつも若々しい婦人部の皆さまを連想させる。男性は、とかく急にふけこんだり、何かあるとガックリして、元気がなくなったりする。どちらかというと、弱々しい生きものかもしれない。
 名古屋のある婦人部幹部でお母さんが、永らく病床びょうしょうにある方がいる。しかし、お母さんは、だれよりも明るく、一家全体が、その笑顔に照らされて明るい。この一人の母の話を聞いて、私は、本当に「心」こそ大切である。「心」の勝利こそ、人生の勝利である。人間としての勝ちどきであると、感銘を深くした。
5  長く、明るく、微笑ほほえみ咲くレンギョウ。その色彩は、まばゆさと同時に、落ち着いた深さもあわせ持っている。そのため、時を選んで次々と咲き、移っていく種々くさぐさの花たちの美しさを見事に引き出す役割をしている。
 早咲きのチューリップから始まって、ジンチョウゲ、ユキヤナギ、各種のサクラ、ボケ、時にはカイドウ、早咲きのツツジまで、その時折々の主役たちを引き立て、優しく見守っている。その姿もまた包容力豊かな婦人部に通じる。
 自分だけが目立とうとしたり、何でも自分が一番だと思っている人が偉いのではない。そういう人は、むしろ他の人を苦しめる場合が多い。反対に皆を尊敬し、大切に守り、引き立ててあげられる人が、偉い人なのである。
 ともあれ信心の世界で、ハッタリは続かない。「誠実」が一番である。とりわけ婦人部には、「誠実」に徹する以外に信頼される道はない。
 レンギョウは敏感である。そよ風にも動き、黄花をたわわにつけた、しなやかな枝を揺らす。その姿は、一見、弱々しく見えるかもしれない。しかし実は、その生命力は、まことにたくましい。この点も婦人部、女子部の皆さまと、そっくりである。
 丈夫なので、たいていの土地には適応し、日本でも北海道から沖縄まで広く栽植さいしょくされている。しかも、枝が長く伸びてしだれ、地面に着くと、そこからまた根を出し、育っていく。まことに経済的というか、たくましい。生長もはやい。かぶ分けも容易である。強靭きょうじんな強さで、繁殖はんしょくしていく。こうした意味では、「庶民の花」ともいえる。それでいて、りんとした気品がある。
 レンギョウの花言葉は「希望」である。また「希望の達成」を意味することもある。漢字では「連翹」と書く。「連」は″つらなる″。「翹」は、鳥が尾の羽毛を広げた様子を指し、レンギョウの花が、一枝に美しく並ぶ姿がイメージされているともいう。
 美しい団結の姿であり、大いなる「希望」に向かって、仲良く、うるわしく飛び続ける学会員の″同心″の姿を、ほうふつさせる。
 漢語では、人がまさに目標に向かって飛び立とうとするさまを「翹企ぎょうき」といい、また目指す希望があることを「翹望ぎょうぼう」ともいう。さらに羽に限らず、樹木が、天に向かって、すくすくと伸びていくことを「翹翹ぎょうぎょう」と表現する。未来部、また青年求道者の姿ともいえよう。
 レンギョウの原産は中国であり、レンギョウの、本来の日本名は「イタチグサ」「イタチハゼ」などである。これは動物のイタチとは関係なく、一説によれば、枝がまっすぐに伸びる「タチクサ」が、なまった結果という。
 しかし、中国でいう「連翹」は、もともと日本でいうトモエソウ(オトギリソウ科)をさした。それが誤って日本に伝えられたわけだが、現在は中国でも日本のレンギョウを「連翹」と呼ぶようになっているようである。
 レンギョウは、英語名ではゴールデン・ベル、またジャパニーズ・ゴールデン・ベル等と呼ばれている。″日本″の名を冠していることからも分かるように、レンギョウは日本からヨーロッパに渡ったとされている。早くは一八三三年に紹介されたという説もある。また、アメリカへも日本から渡ったようである。
 「ゴールデン・ベル」を直訳すれば″黄金の鈴″とでもいおうか。まさに春を告げて揺れる愛らしい″ベル″――レンギョウの形と色を絶妙に言い表している。
 また、レンギョウが、日本から各国へ紹介され、その地の人々に愛されて定着していった歩みは、きわめて印象深い。
 ″黄金の鈴″が、各国の人々に「春」を告げていったように、私どもも、日本から世界へ、妙法という「平和の春」「幸福の春」を告げる大法を弘め、その地に根づかせていきたい。これ以上の、人類への貢献こうけんはない。また日本が最も尊敬され、感謝される道であると信ずる。
6  生命力の強いレンギョウであるが、しばらくの間、手入れをしないと、内側の枝は光が足らず枯れてしまう。見ばえもよくないし、第一、風通しが悪い。たいていの植物はそうであろうが、手入れを怠ると伸びるものも伸びなくなってしまう。
 「人材育成」も同様である。放任しておいて、自然のうちに育つものでは決してない。リーダーは、全組織を、また一人一人を丹念に愛情こめて見守り、全魂を注いでいかなければ、人材は育たない。また、停滞と安逸(あんいつ)を許す雰囲気が一部にでもあれば、やがて全体がそういう雰囲気になり、向上への意欲を失い、健全な成長と発展をとめてしまう。
 レンギョウの場合は、開花前の冬のうちに枯れ葉を取り除き、込んだ枝を整理してやる。すると次の年は美しさを取りもどし、大きく生長して見事な花をつける。
 私どもの組織も悪い幹部は整理し、いなくなったほうがよい場合があるのと同じである。組織も一つの生命体である。新陳代謝しんちんたいしゃが常に必要である。いつも若々しい活力と息吹を取り入れていかなければ発展しない。そのためにリーダーは、自らが成長し、新鮮味をたもち続けていかねばならない。
 ともあれ、一つの花にも一つのいのちがあり、心がある。春の光を集めたようなレンギョウの一枝いっし。その可憐かれんな姿から、何を、どのように感じ取るかは、その人の境涯であり、それぞれの人生の豊かさ、貧しさにも通じる。そして豊かな心の指導者の周囲は幸福である。うるおいがある。温かい空気が満ちている。
 これらの話から、リーダーとして、何かをくみ取ってくだされば幸いである。
7  広布の大樹に″名″きざめ
 さてフランスの詩人・コクトーは次のようにうたう。
  君の名前をり給え
  やがて天までとどくほど
  大きく育つ木の幹に。
  大理石とくらべたら立木の方が得なんだ
  彫りつけられた君の名も一緒に大きくなって行く。(堀口大學・訳)
8  この詩は、大いなるもの、偉大なる目的に人生をかけていく生き方の尊さをうたいあげている。同じ人生でも、さまざまな生き方がある。何に自分の人生をかけていくか。どこに自身の生命の歴史を″刻印″していくか。それによってかけがえのない一生をどれだけ深く、豊かに生きたかが決まってしまう。
 この世において、妙法を弘め、苦悩の友を救いゆく広宣流布ほど崇高な目的はない。尊い労作業はない。御本仏・日蓮大聖人が末法濁悪じょくあくの世に妙法流布を託されて七百有余年――この七百星霜せいそうの歩みにあって、学会はさんたる広布と信心の歴史を刻んできた。その「栄光」と「栄誉」は、たれびとたりとも否定できない厳然たる事実である。
 皆さま方は、その学会とともに、広宣流布に生涯をかけて生き抜いてこられた。これほど素晴らしい「価値」と「意義」をもった生き方はない。皆さま方のほまれの名は、″広布の大樹″に永遠に刻まれ、時とともに大きく、輝いていくにちがいない。その「功徳」と「福運」は、生々世々、生命の宮殿を飾っていくであろう。どうか、広布に生きゆく誉れの人生の「誇り」と「確信」を胸に、堂々と「成仏」と「幸」の大道を歩み抜いていただきたい。
9  細心の配慮を、即座、確実に
 日蓮大聖人は、弘安二年(一二七九年)十月二十日、六老僧の一人となる日朗と、鎌倉幕府の作事奉行さくじぶぎょうであった池上宗仲(池上兄弟の兄)の二人に与えられた「両人御中御書りょうにんおんちゅうごしょ」に、次のように仰せである。
 「故大進阿闍梨の坊は各各の御計らいに有るべきかと存じ候に今に人も住せずなんど候なるはいかなる事ぞ」――亡くなった大進阿闍梨が住んでいた坊は、あなた方が処置されたと思っていたのに、今もって人も住まず、き家のままになっているというのは、一体どうしたことなのか――と。
 弘安二年十月といえば、ご存じのように、大聖人出世の御本懐たる大御本尊御建立(十月十二日)の月である。まさにそれは「一閻浮提いちえんぶだい」そして「末法万年尽未来際じんみらいさい」へと、無限に光彩を放ちゆく大いなる″時″であった。
 当時は、熱原法難のさなかであり三烈士の殉教(十月十五日)もあった。また四条金吾からも強敵におそわれたとの報告があり、それに対しても種々の御指南をされている(十月二十三日)。そうした激動の日々でありながら、大聖人は一つの「建物」に関して実にこまやかな御指示をなされている。つまり、門下が思わず見過ごしているような細かい懸案事項けんあんじこうにまで、御心をくだいておられるのである。
 それは、まさに「師子王は前三後一と申して・ありの子を取らんとするにも(中略)いきをひを出す事は・ただをなじき事なり」――師子王は、前三後一といって、アリの子をとろうとするときにも(中略)出す勢いは同じである――との御文のままの御振る舞いと拝される。
 亡くなった大進阿闍梨あじゃりという人は、日達上人によれば、熱原法難の折、あの三位房さんみぼうとともに退転し、反逆した大進房とは別人である。下総しもうさ(千葉県)の出身で、大聖人門下の長老にあたる一人と思われる。この大進阿闍梨が亡くなって、住んでいた坊が空き家となった。彼は、自分の坊を門下の長老・日昭(後の六老僧の一人)にゆずる、という譲り状を残していた。
 しかし故人の明確な遺志いしにもかかわらず、その坊は日昭に引き渡されず、長い間放置ほうちされたままであった。おそらく関係者は″早く手を打たねば″と思いつつも、熱原法難の渦中かちゅうでもあり、つい一日延ばしにしてしまっていたのかもしれない。
 そのことを大聖人が鋭く指摘なされたのが、この御文である。
10  さらに大聖人は次のように記されている。「其の子細なくば大国阿闍梨・大夫殿の御計らいとして弁の阿闍梨の坊へこぼちわたさせ給い候へ、心けんなる人に候へば・いかんが・とこそをもい候らめ」――特別の事情がないのであれば、日朗と宗仲殿二人の計らいで、その坊を解体して、日昭の坊にわたしてあげなさい。日昭は心の賢い人であるから、一体どうなっているのかと、不審に思っているだろう――と。
 日昭は大聖人より一歳年長で高齢であった。日朗も、宗仲も、ともに、日昭のおいであったという。しかも日朗は三十五歳の働き盛りであり、また宗仲は建築の専門家である。したがって、この問題は、二人が責任をもってことに当たれば、解決しないわけがない。また、そうしてあげなければ、日昭がかわいそうではないかと、大聖人は事の本質や日昭の性格などすべてを見通されたうえで仰せになっている。
 そればかりではない。大聖人は門下全体のこともお考えになったうえで、最も価値ある方法を取ることをすすめておられる。
 すなわち「弁の阿闍梨の坊をすり修理してひろらずば諸人の御ために御たからにてこそ候はんずらむめ」――(大進阿闍梨の坊を解体した材木等を利用して)日昭の坊を修理し、広くして、雨ももらないようにすれば、そこは門下の人々の「宝」となると思われる――と仰せである。
 大聖人が広布の「宝城」をどれほど大切に考えておられたか。また、そこに集う一人一人が、少しでも気持ちよく使えるようにと、実に細かく御心を配られていたことがうかがえる。
11  また大聖人は、「ふゆせうまう焼亡しげし」とされ、火事の多い冬を前に空き家を無人のまま放置しておくことの危険性まで厳しく注意されている。
 このように、あらゆる角度から深い配慮をされたうえでの御指示だったのである。
 そして本抄の最後で、大聖人は日朗と宗仲の二人に次のように釘(くぎ)をさされている。
 「このふみ文書ついて両三日が内に事切て各各御返事給び候はん」――この手紙が着き次第、二、三日の間に一切の決着をつけて、おのおの、私あてに返事をください――と。
 大聖人の御心としては、それまでは彼らが自発的に行動を起こすことをじっと待っておられたのかもしれない。師匠に指摘される前に動くのが、まことの弟子の道であるからだ。
 しかし、二人は自分達から動こうとはしなかった。大聖人があえて「二、三日で解決せよ」と仰せになられた御言葉には、″だれかがやってくれるだろうと思って、ボヤボヤしていてはいけない。「法」のため、大勢の同志のため、そして先輩や後輩を守りぬくため、即座にまた確実に、自らの責任を果たせ″との厳愛の御心が込められていると拝される。
12  同志の″安全″守る責任強く
 広布の城である学会の会館にあっても、こうした細かな配慮を忘れてはならない。多くの尊い仏子が集う場で、不注意により事故を起こし、大勢の人々に迷惑をかけるようなことがあっては絶対ならない。仏子を守るため、私も陰に陽にどれほど心を配ってきたかしれない。各会館の中心者には幾度となく注意を呼びかけてもきた。人々の生命を守り、「安全」に、喜んで信心に励めるよう心を尽くすのが、仏法者の責務であるからだ。
 また私は、信仰者として、日々の生活の在り方にも細かく心をくだき、折あるごとに語ってきた。二十一世紀の展望を語り「平和」を論ずることも大切であるが、やはり「小事が大事」である。「信心即生活」で日々の生活の足元を固めることが一切の根本となる。
 社会にあっても、″一流″といわれる指導者、また発展している組織、団体では、そうした″小事″への配慮を決しておろそかにはしていない。
 特に家庭の″太陽″である婦人部の皆さま方は、だれよりも真剣に、生活の細かい点にまで心を配る聡明そうめいな婦人であってほしい。将来の願いは当然大事である。それ以上にきょうのこと、あすのこと、身近なことが大切なのである。家族や学会の同志が「健康」で「安全」に、また「喜び」をたたえて一日一日を歩んでいけるよう、祈り、守っていく、心強く、心美しき婦人であっていただきたい。
 そうした意味から、壮年部の方々に申し上げたいことは、婦人部の意見によく耳を傾けていただきたいことである。そして婦人部の方々が安心して一家を支え、広布の活動に励めるよう、温かな配慮を、くれぐれもお願いしたい。
13  少々話は変わるが、婦人の子育てについても感じていることを申し上げておきたい。
 ご婦人のなかには、自分の子供が可愛いあまりに、極端に″特別扱い″したり溺愛できあいし、また自慢する人がいる。はたから見ていて、他の人に嫌悪けんおを感じさせる場合が多い。こうした″愛″や″甘やかし″や″盲従もうじゅう″は、子供をだめにし、ひいては親をもだめにしてしまうものである。
 母親は、時には子供の成長のために厳しくしかることを忘れてはならない。感情に走ったり、親のエゴからの″叱り″は逆効果であるが、親が言うべきことをきちんと言い、物事の道理を教えていくことによって、子供はその心根を矯正きょうせいされ、立派な大人に育っていく。特に子育ての時期にある婦人部の方々は、この点を賢明に判断していただきたい。
 また、婦人は、時には夫に対しても毅然きぜんと意見を述べることが大事であろう。
 御書には妻を「弓」に、夫を「矢」にたとえられている。矢が飛んでいくのは弓の力による。同じように、夫が広布の道を走り抜いていけるか否かは、夫人の信心の力にも大きくよっている。現にこれまで退転した幹部は大なり小なり、夫人の信心がなかった場合が多い。
 ともあれ、一家にあって婦人の力は大である。婦人部の皆さまが、夫や子供を支え、信心のよき″かがみ″として「和楽」と「福運」の家庭を築いていかれんことを、心から念願してやまない。
14  後継育成は最重要の課題
 武田信玄については、これまでも何度か、お話しした。戦国の武将のなかでも、ひときわ卓越たくえつした存在であった智将・信玄。その考え方や振る舞いには、民衆とともに歩むリーダーとして、学ぶべき点が少なくない。本日も、武田家の兵法書として知られる「甲陽軍鑑こうようぐんかん」の内容に即しながら、何点か、指導者の在り方について確認しておきたい。
 信玄が、人材登用の″名人″であったことは、有名な話である。彼は、あくまで実力本位で人を集め、配置し、重用ちょうようした。正当に実力を評価された臣下達が、それぞれの持ち場で、もてる力をいかんなく発揮し、活躍したことはいうまでもない。ここに、武田軍団の比類ひるいなき強さの一つの要因があった。
15  要するに信玄は、確かな繁栄のためには、家柄や地位ではなく、真に力ある「人材」こそ何より肝要であることを知悉ちしつしていた。ゆえに彼は、次代を担う若駒わかごまたちの育成にも、全魂を注いだ。
 有力な臣下の子息しそく等が集まった小姓こしょう組をはじめ、自分のまわりにいる若い武士に対し、信玄は、武将としての在り方や戦術等を自ら教えるなど、徹底した薫陶くんとう・育成を行った。信玄の手駒てごまとなって活躍した武将の多くは、ほとんどが、こうした信玄の″手作り″の鍛錬たんれんから生まれた。
16  特に信玄は、夜話といった雑談の折に、訓話くんわをすることが少なくなかった。分かりやすいたとえ話等を通し、知らずしらずのうちに、武将としての心構えや物の見方を教育していった。そばに仕える若衆わかしゅうらも、貪欲に信玄の教えを吸収し、成長のかてとしていったことは、想像にかたくない。こうした折々の何げない言葉の方が、心に深く刻まれていくことが多いからだ。
 父・信虎のぶとら時代の重臣の一人に、萩原常陸守ひたちのかみがいた。″智略の将″として尊敬を集めていた彼は、幼き日の信玄に接し、その非凡の才を鋭く見抜いた。そして、いわば子守歌のかわりに、折にふれ、合戦かっせんの話を聞かせた。そのことが、自然のうちに信玄に合戦の″ツボ″を教え、智将としての芽をはぐくんでいった。常陸守は、信玄が十四歳の時、七十歳余で死ぬが、信玄に及ぼした影響は、計り知れなかったようだ。
 こうした自身の経験もあり、一層、信玄は、ふとした機会をとらえ、青年達に後世への訓戒を言い残していったのではないか。
17  永遠の広布の発展と学会の前進にあっても、そのカギを握るのは「人材」にほかならない。未来後継の俊逸しゅんいつをいかに育て、陸続と輩出していくか。ここに、最も重要な課題がある。
 そのために、青年部、未来部の活動をさらに充実させ、会合も一段と有意義なものへと充実させていくことが大切であろう。が、それだけで、″事足ことたれり″としてはならない。むしろ、若き純真な心に確かに刻印されるのは、小人数の懇談での、先輩の何げない人生の指針であり、信心の励ましの言葉である。私達も多くの先輩からそのように育てられてきた。
 お茶を飲みながらでもよい。雑談の折でもよい。何らかの人間的な触れ合いのなかで、信仰者として、また後継者としての在り方を教え、全力で励ましていくことが、肝要なのである。
 私も、未来のリーダーの育成に、全魂を傾けている。青年部、未来部の会合にもなるべく出席し、指導・激励を続けている。とともに、全国のどこへ行っても、私は目に見えないところで、これからの青年を育成している。繁多な時間の合間をぬって、青年と会い、青年と語り、徹底的に薫陶している。これこそ、私にとって最重要の責務であり、使命であると自覚しているからだ。
18  どうか、各県、各区・圏のリーダーである皆さま方も、「人材」の育成に全力で取り組んでいただくよう、心から念願したい。また、それが皆さま方自身が生き生きと″若返る″秘けつでもあることを申し添えておきたい。
 信玄が、かねてから目をかけ、訓練してきた一人に、多田久蔵きゅうぞうがいる。彼を足軽あしがる大将に取り立てる時、信玄は、次のように戒めたという。
 ″今後は、一人働きは無用である。足軽をあずかっていながらひとりよがりの行動をとれば、組の者は組頭くみがしらをなくし、味方の勝利を失うことになるからだ″と。
 指導者が、ともに戦う友のことを忘れ、自らの勲功くんこうや栄誉のために勝手な行動に出たら、従う者たちは、どうしたらよいか分からず、行動の規範を全く失ってしまう。勝利への第一の要件ともいえる団結は乱され、全体がおのずと敗北への道をたどらざるをえない。リーダーには、何より全体観に立った判断・行動こそ大切である。
19  なお、この久蔵は、信玄亡きあとにも、武田家に忠実に仕え、長篠ながしのの合戦では、敵方に生けられてしまう。家康は、その武勇を惜しみ、徳川への仕官を勧めた。だが久蔵は、それをいさぎよしとせず、縄を解かれるや、徳川の本陣へと切りこみ、最期さいごを遂げた。最後まで、武田武士の勇名を飾ったといえよう。
 時代も、立場も異なるが、自らの「旗」を生涯、手放すことなく生き切った姿は、まことに鮮烈である。
 信玄の″人育て″について、次のようなエピソードも伝えられている。
 武田四天王の一人・板垣信形のぶかたは、歴戦の勇将として知られていた。その信形が周囲のいさめを聞かずに無謀むぼうに兵を進め、将兵に少なからぬ犠牲ぎせいを出したことがある。武田の陣中では、その姿を非難し、冷笑する声も聞かれた。信形自身、軍団の″柱″としての面目を失い、自らの忠臣を失った衝撃もあり、屋敷に蟄居ちっきょしていた。
 それに対し、信玄は、信形を呼び、″敵の偽計ぎけいおちいったにもかかわらず、大敗をまぬかれたのは、さすがである。まわりの連中のたわ言など意に介することはない″と、ねぎらった。信形は、厳しい裁きさえ覚悟していただけに、信玄の慈愛と大将としての雅量がりょうの大きさに深く感動したという。
 その後、彼は、この信玄の心にこたえようと、一身をなげうって奮闘したことはいうまでもない。
 人の失敗を非難し、責めることは、やさしい。しかし、叱ることで、相手が失敗の痛手から立ち直ることは、むしろ少ない。厳しい叱咤しったは、かえって反発をかい、人の心を遠ざけてしまう。思わぬ失敗の時こそ、温かく包容し、守り抜いていくことが肝要である。
20  昭和三十二年四月、日淳上人は、戸田先生とご一緒に、九州第一回総会に出席され、九州の限りない繁栄と発展を念願され、次のように講演された。
 「ここで我もいたし人をも導いて、真に立派な国土世間をうちたてなければならぬのであります。しかし今や世界をみますならば、今の世界は宗教でなければ救うことができないということが、世界の先覚をもって任ずる役をもっている人の間に叫ばれつつあるのであります。これはもう世界はもう宗教でなければならぬ、宗教以外のものでは救うことができないのだということが西洋の方からもそういう声がおこっております。これは、今後においてますます叫ばれるのは明らかなことであります。日一日とそこへゆくことは火を見るよりも明らかなことであります」
 世界の動向を鋭くとらえられた御言葉と拝せよう。私が対談した西洋の識者の多くも、やはり、この一点を志向していた。
21  続けて日淳上人は「皆さま方は今や正しい信仰をもって自分も信心なされ、人を導くということをなさる。このことが今に世間で一番正しいことになるのです」と学会の実践をたたえてくださった。
 そして我が九州の同志に、「正しい信心について正しい御利益をいただくという事実をもって世間を導いていただきたい」と仰せくださり、さらに「創価学会の牧口先生は実証ということを常に叫んでおられました、実証です。正宗の信仰というのは理くつではありません。皆さま方の生活の上に正しい法の結果というものを実証されることが何よりも肝心であります。
 これが正しいことを実証する所以ゆえんであります。どうぞいよいよ正しい信仰に住せられまして、先程来の九州の天地、ますます正しい正しい御法の功徳をひろめ一切の人の幸せを導いていただきたいと深く念願を致す次第であります」と述べられている。
 特に九州の方々に、今再び、この御指南を深く胸中に刻み、力強い前進を期していくよう、私は強く期待したい。
22  最後に、「むしろ三枚御書」の一節を拝したい。
 「いわうや日本国は月氏より十万より余里をへだてて候辺国なる上・へびすの島・因果のことはりわきまえまじき上・末法になり候いぬ、仏法をば信ずるやうにてそしる国なり、しかるに法華経の御ゆへに名をたたせ給う上・御むしろを法華経にまいらせ給い候いぬれば
 ――ましてや日本国は月氏(インド)より十万余里もへだてた辺国へんこくであるうえ、夷(未開の人々)の島であり、因果の道理もわきまえそうにない衆生が住み、そのうえ末法である。仏法を信ずるようでいて実はぼうじている国である。しかるに(そのような日本にあって)法華経のために名を世に立てられたうえに、御莚を法華経に供養されたのであるから、その功徳は計り知れない)――と。
 ここで大聖人は、日本が「仏法をば信ずるやうにてそしる国」であることを指摘され、その日本で広宣流布に励みゆく功徳は絶大であると仰せになっている。この御文のごとく、日本における広宣流布の進展は、まことに深く重要な意義をもっているといってよい。
 学会は、この御文の通りに広布一筋に″名を立て″まい進してきた。その発展の姿を、大聖人はどれほどかお喜びくださり、またおめくださることであろう。
 とともに、今回、多くの海外の同志が総本山に登山・参詣し、御霊宝虫払ごれいほうむしばらい大法会に参列される。そうした海外の方々の、さまざまな悪条件下での弘法・弘教の実践もまた、同じ法理のうえから、無量の福徳が輝きゆくことは間違いない。
 つい最近のことだが、学会に深く注目している、ある識者の方が語っていた話をうかがった。その方の近所にも、友人にも何人かの学会員がいるようである。
 その人は「世界の平和と文化と、そして社会に対する学会の貢献は非常に大きい。瞠目どうもくすべきことである。学会は利害を超越して、仏法運動、平和運動を展開している。素晴らしいことだ」と讃えていたという。
 見ている人は、正しく学会を見、評価している。今、日本各地に、また世界各地に、そうした人々の声が幾重いくえにも広がっている。これは厳然たる事実であり、広宣流布の一つの実証といえる。
 ともあれ、近年、秋谷会長を中心に、最高幹部である県長・県婦人部長の方々の活躍と成長の姿は実に頼もしく、うれしい。牧口先生も、戸田先生もどれほどかお喜びであろうと、私は強く確信してやまない。
 どうか、「月月・日日につより給へ」の御聖訓のままに、これからも一段と、「法」のため、「人」のため、「平和」のために″素晴らしき前進″への「指導」と「指揮」をお願いしたいと申し上げ、本日のスピーチとさせていただく。

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