Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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中部記念幹部会 人生の勝利は″朝の勝利″から

1988.3.28 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

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2  未来への青年の成長と大成のために、本日は、あえて申し上げておきたい。それは″さわやかな朝の出発こそ、人生勝利の要諦″ということである。
 一九七三年、私はイギリスを訪れ、トインビー博士と、長時間にわたり対談した。
 博士は当時、八十四歳。そうした高齢にもかかわらず、「ラボレムス」(ラテン語で″さあ、仕事を続けよう″の意)をモットーに、精力的な研究の日々を送っていた。その博士が、次のように話していたことが、今も私の脳裏を離れない。
 「毎朝六時に起床し、妻と私と二人分の食事をつくり、ベッドを整頓し、午前九時に仕事にかかり、規則正しい生活を送っている」
 この何気ない一言に、″一日一日を大切にしよう。日々、学び、向上していこう″との博士の若々しい「心」を、私は感じた。そして、さすが「一流の人物」は、いかなる年齢、いかなる立場になろうと、たゆまぬ研さんと鍛錬たんれんを忘れぬものだと、感嘆を禁じえなかった。
 とともに、一日の充実のためには、朝のスタートと規則正しい生活が大切である。一級の人物へと大成する人は、こうした生活の基本を決しておろそかにしないものだ。
3  日蓮大聖人は、「御義口伝」の一節に「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は与如来共宿の者なり、傅大士ふだいしの釈に云く「朝朝ちょうちょう・仏と共に起き夕夕せきせき仏と共に臥し」と仰せになっている。
 つまり──末法において南無妙法蓮華経を唱える大聖人およびその門下は、「如来と共に宿する」者である。弥勒みろく菩薩の後身であるとされる中国の傅大士の釈には「毎朝、仏(御本尊)とともに起き、毎晩、仏とともに寝ている」とある──と。
 私どもは、大聖人門下として、日々、妙法を唱え、実践している。ゆえに私どもが、″仏とともに起き、ともに休む″一人一人であることは間違いない。
 三世永遠の法理にのっとった正しき人生行路を進み、最も意義ある一生を過ごすためには、まず朝夕の勤行が、根本である。なかんずく「朝朝・仏と共に起き」と仰せのごとく、すがすがしい朝の勤行を行うことが大切であろう。朝ねぼうの仏様など、存在しない。
4  朝の敗北は、一日の敗北につながる。一日の敗北は、やがて、一生の敗北ともなろう。反対に、さわやかな朝の出発は、一日の充実と、堅実な前進の日々をもたらす。それは必ずや、満足と勝利の人生として結実していく。
 ゆえに、朝に勝ち、一日一日、さわやかなスタートを飾りゆくことだ。これが青年の特権であり、そこに一切の「勝利」と「成長」への源泉がある。
 もちろん、就寝が遅くなったり、疲労が蓄積している場合もある。だが、眠くても、疲れていても、そこで自分に勝ってこそ一日の勝利があることを忘れてはならない。
5  職場で信頼を、社会で模範に
 恩師・戸田先生は、朝の出勤に、まことに厳格であった。また、たぐいまれなる事業家として、厳格な生活態度の大切さを、知り抜かれていた。よく、次のように話されていたことが懐かしい。
 「一日の出発に当たって、生き生きと清新な気持ちと決意にみなぎっている職場は、発展する」「職場の『長』は、自ら、最も早く出勤すべきである。それでこそ、部下も責任を感じ、職場の″鬼″となる。仕事という戦いも勝利の方向へと決定づけられる」「責任者が遅刻したり、多くの社員がだらしなく遅刻を重ねるような職場は、必ず問題を起こし、衰微する」と。
 長年、事業経営の第一線にあった戸田先生の、厳しくも的確な教訓であろう。
 戸田先生ご自身、絶対に遅刻などしなかった。また、出張など特別な場合を除き、休むこともなかった。それだけに、私達社員も、絶対に遅れることは許されなかった。毎朝が″戦争″のように、あわただしく、また必死であった。申しわけないことだが、″先生が遅れて来てくだされば″と、心のなかで思ったこともあった。だが、その願いは、いつもむなしかった。当時は本当に辛かったが、今では、それが何より有り難い訓練であったと、心から感謝している。
 私は、約十年間、戸田先生のもとで働き、お仕えした。その間、健康上の理由等で二度か三度遅刻した。当時は、草創期でもあり、会合も、帰宅も、今より遅くなることが多かった。だが、戸田先生は、学会活動を理由に遅刻することは決して認めなかった。″それは、信心利用である″と、一喝いっかつされた。
 さらに「役職があればあるほど責任がある。模範でなくてはいけない」と言われた。また、人前でいかに立派なことを言っても、自分が実践しないとすれば、幹部として、最低の姿であり、余りにも独りよがりであると、厳しかった。
 リーダーこそ、まず自ら模範となり、朝に勝ち、さわやかな一日のスタートを切っていくべきであろう。
 「信心」は、即「生活」であり、「仏法」は、即「社会」である。信心していながら、生活のリズムを乱し、職場に悪影響を及ぼすようであれば、それは、仏法者として、あるまじき姿である。それは、信心に対する誤った不信を、与えてしまうことになるからだ。
 社会にあって私達は、仏法の素晴らしさを証明し、信頼を広げゆく一人一人でなくてはならない。″さすが、信心している人は違うな。立派だな″と言われる、揺るぎない″信頼の人″であってこそ、信仰者といえる。
6  戸田先生は、次のようにも、指導してくださった。
 「朝の出勤が乱れている時は、信心が狂っている。いつも弁解ばかりして、それが高じてますますウソツキになったり、ズル賢くなって、人々の信頼を失う。そして悪事に手を染め、ついには退転していく」と。
 残念なことだが、これまで、幹部であっても、学会を裏切り、同志を裏切った退転者が出た。秋谷会長や故・北条会長がしみじみと話していた。″本部職員でありながら、退転していったのは、一人残らず日常生活が乱れ、出勤時間もだらしなくなっていた。誰からも信頼されず、多くの同僚、後輩から、嫌われていた″と。
 これは、誰の目にも明らかな、事実であった。朝の遅刻など、一見小さなことかもしれない。しかし、そうした″小事″に、退転の生命という重大事が秘められていたのである。
7  小事こそ大事である。良かれ悪(あ)しかれ、小さなことの積み重ねが、やがて大きな違いとなっていく。ゆえに将来の大きな目標のために、まず足もとの課題から挑戦し、勝利していくことだ。
 御書には「一丈のほりを・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こうべきか」と仰せである。小さな挑戦、小さな勝利の繰り返しが、やがて偉大な勝利、偉大な凱歌がいかの人生へと花開いていくことを忘れてはならない。
 人生の道程は、決して平たんな道ばかりではない。そこには、苦難の峰もあれば、挫折ざせつの谷もある。冷たい風も吹けば、悲しみの雨も降るにちがいない。最愛の肉親の死という、深い悲しみに直面することもあるだろう。事故死などの不慮の出来事の場合もある。
 しかし、妙法の功徳力は絶大である。御聖訓に照らし、三世の生命観のうえから見るならば、正法受持の人の「生」と「死」は、最極の幸福への軌道を歩みゆく過程であることは絶対に間違いない。
 ゆえに、決して悲観してはならない。勇気を失ってはならない。いた家族を我が胸に抱きしめ、唱題に励み、その人達の分まで働く決心で、自らの使命の道を堂々と走りゆくことだ。そこに、必ずや大いなる変毒為薬のあかしを示すことができるのが妙法なのである。
8  堅固な″人材の広宣城″を築け
 さて、昨日のある懇談の折に、談たまたま「世界的に有名なあの名古屋城はいったい誰がつくったのであろうか」ということが話題になった。
 また二年前(六十一年)にこの名古屋で第七回の世界青年平和文化祭並びにSGI総会が開催された際には中部の皆さまに大変にお世話になった。この場をお借りし、重ねて御礼申し上げたい。その時も多くの海外のメンバーから「名古屋城は誰がつくったのか」との質問があったという。
 そこでメンバーにこのことを聞いてみると、さまざまな意見が出た。ある人は「それは織田信長である」と言い、「いや徳川家康である」「加藤清正である」との主張もあった。なかには「大工さんだ」、とか「石屋だ」というユーモアたっぷりの答えもあった。しかし、明快な結論が出ない。私は、身近なことでも分かっているつもりが、実は意外と分かっていないことが多いものだと思った。
 特に若き諸君は二十一世紀の指導者である。何でも学ぼう、探究しようとの姿勢、謙虚さ、求道心が大事である。
 また知らない場合は「知りません。これから学びます」と素直に言えばよいのに、知ったふりをする。その一言が言えない人は、いつまでも成長がない。たとえ今は知らなくても、「これから学ぶ」ことが成長に通じていくのである。
 ともあれ、その席では「誰がつくったのか」に対する明快な返答がなく、このままあいまいにしておいたのでは、未来を託す青年のためによくない、と思った次第である。本来は地元の皆さまからうかがうべき話ではあるが、我が青年部には存分に勉強していただきたいと念願する気持ちから、きょうは僭越(せんえつ)ながら私のほうからこの点について少々触れさせていただくことをご了承願いたい。
9  名古屋城は天下の名城であり、いつ見てもあきることがない。その名古屋城に対峙たいじして位置する我が広布の城・中部文化会館は、美しき名城を望む景勝の地にそびえる″人材の広宣城″である。この中部文化会館から見える一対の金のしゃちほこが光り輝く天守閣は実に壮観である。
 豊臣氏の大阪城を凌駕りょうがしようと、この名古屋城を築城させたのは皆さまご存じの徳川家康である。名古屋城がほぼ完成するや彼は「我が城を見よ」と言わんばかりの勢いで大阪城を攻め(冬の陣、夏の陣)、見事勝利を決する。「大阪の豊臣なにするものぞ」──これが家康の覇気はきであった。中部の皆さまも関西に負けない気概と執念で前進をお願いしたいと思う。
 つまり、家康は関ケ原の勝利の後、江戸に幕府を開く。そして、清洲きよす城を大阪への守りとしつつも駿府城を再築。さらに大阪攻略への要衝ようしょうとして名古屋城の築城を諸大名に命じる。まさに囲碁いごの布石のごとき見事な手の打ち方であった。
10  ″もう一歩″の努力を惜しむな
 ところで、名古屋城の普請ふしんを請け負った大名のうち、あの見事な天守閣の土台をつくり上げたのは加藤清正であった。それは、清正が天守台の石垣の大石に、工事の苦渋を分かち合った家臣達の名を刻んでいることからも確認されている。
 家康の命を受け、天守台の普請を引き受けた清正は、石垣となる大石の確保、運搬、積み上げと、家臣とともに四方八方に手を打ち、知恵を尽くし、辛酸しんさんの末、見事な天守台の石垣を組み上げる。そしてその苦楽を分かち合った家臣の名を千載に残すべく、石垣の大石に刻みつけたのである。まことに清正の清冽せいれつな熱意と執念が伝わってくる。しかし清正は、その天守閣の完成を見ることなく慶長十六年(一六一一年)に没している。
 清正の魂魄こんぱくの込められた土台の上に絢爛けんらんたる天守閣を築き上げた作事さくじ奉行は、小堀遠州えんしゅうである。彼は清正の築いた石垣を見て、難工事を成し遂げた名将の意地と苦心をしのび、かつてない見事な天守閣の建設を決意したのであろう。
 後に桂離宮などを設計した遠州は、当代随一の建築家であった。着工時、彼は三十一歳。大事業をなす指導者は、青年時代から大きな仕事に取り組んでいるものである。二十代、三十代の青年部諸君も、若い今の時代にこそ、苦労し、広布のために働かなければ損をするし、悔いを残す。
 家康の命により天守閣の建築を指揮する若き遠州のもとに、「大工」「左官」「畳」「飾り」等の各分野の第一人者が結集した。そして、その「名匠」達が築城にかける家康の心を我が心として、総力を挙げて完成させたのが、名古屋城の天守閣なのである。
 ところで、この小堀遠州の活躍は建築の分野のみにとどまらない。後年、彼は、「茶道」を、書や画、また建築や庭園なども含めた総合芸術として完成させている。彼を祖とするのが、いわゆる「遠州流茶道」である。
11  実は、この小堀遠州の直系で、遠州流茶道宗家第十二世の小堀宗慶そうけい氏は、私の自宅の隣人である。もう二十数年来のお付き合いになる。お互いに多忙であり、私も東奔西走でほとんど自宅を留守にしているため、なかなか顔を合わせる機会がないが、大切な隣人であり、友人である。昨年の暮れにも、ご夫妻とご一緒にゆっくりと食事をし、四時間近く懇談する機会があった。
 世界の人々との友好も大事であるが、隣近所の友好はもっと大事である。「友好」「友情」は人生の「宝」と思っているし、私の信条ともなっている。
 その意味で、なかなか思うように時間はとれないが、私は努めて、自宅や学会本部の周辺のお店へ行ったり、お付き合いを心がけている。また、各地の会館を訪れたさいも、できる限りそのように努めている。
 学会は、ともすると堅苦しく思われたり、心に垣根をつくってみられている面がある。しかし、ふだん着の姿で気軽に声をかけ友好交流を心がけていくとき、思わぬところで互いの心が開かれ、理解を深めていけるものだ。
 信心をしていない人とは付き合わない、などといった狭量な心や、偏頗へんぱな感情は、人間的に″憶病″な心といってよい。心広々と、心温かであってこそ信仰者の姿といえる。友好といっても、ただ店で買い物をするとか、贈り物をするといった形式的、表面的なことをいっているのではない。誠実の、真心の付き合い、交流が大事なのである。
12  さて、小堀遠州は、万事において磨きに磨きあげた完成品をつくりあげるまで、絶対に妥協しない人であったようだ。真実の信念の人、また何事でも本物をつくろうとする人は、決して安易な妥協はしない。ここに世間でいう、いわゆる″一流″と″超一流″の違いがある。
 本当の本物をつくりあげるためには、もう一歩の執念、もう一歩の粘り、もう一歩の努力、もう一歩の配慮がカギとなる。それはすべての分野においていえる。どうか、中部の皆さま方も、自身の人生の建設に、また地域広布の発展に、この「もう一歩」の努力を、最後まで忘れないでいただきたい。
13  指導者で決まる民衆の幸、不幸
 さて、ここで話題をガラリと変えて、コロンブスについて少々、お話ししたい。
 アメリカ大陸への″大航海者″として余りにも有名なクリストファー・コロンブス。彼については、これまでにも何度か触れたこともあり、そのわびしく不幸な晩年のこともお話しした。華やかな栄光の陰で、人々から見放され、病気と貧困に苦しみながら、人知れず寂しく客死かくしした″海の英雄″──。
 コロンブスの晩年の不遇をもたらした要因の一つに、彼の植民地経営の失敗があった。苦労に苦労を重ねて″発見″に成功した島々であったが、それに続く植民の事業においては、彼は完全に指導者失格であった。
 コロンブスの植民地経営を二人の弟らが手伝ったことは有名である。
 弟の一人、バルトロメはコロンブスを助けて、忠実に働いた。体も健康であり、指揮官としても有能だったとされている。
 しかし末の弟、ディエゴの管理のもとでは、エスパニョーラ島(現在のドミニカ共和国・ハイチ共和国)での植民地イサベラ市は無法状態になってしまった。指導者として彼は余りにも無力だった。利己的な欲望にとらわれた植民者達を抑えることができなかった。暴行、掠奪りゃくだつ、放火、殺人……島は地獄と化した。
 指導者に力がなく、責任感と人望がない場合には、組織全体が乱れていく。最も苦しむのは常に民衆である。
14  弟の失敗に端を発したこの無秩序状態に、コロンブス自身が拍車をかけてしまった。凶悪な暴徒と化した植民者たちの何人かを、土着の人々が殺した。見返りにコロンブスは騎士と犬を使って人々を追いつめた。それは、やがて数万人単位の大がかりな虐殺ぎゃくさつになっていく。
 彼らは、純真な島の人々が異教徒であるゆえに、対等の人間として見ていなかった。自分達の無慈悲と残酷と貪欲を、独りよがりの″正義″の仮面でカムフラージュし、民衆をなぶり殺した。
 生きたまま捕らえられた者も奴隷どれいにされ、ヨーロッパへ送られた。その大半が、まもなく病死した。とうてい払えるはずもない無理な税を押しつけ、暴力で強制的に取り立てようとした。払えなければ、いや応なく奴隷化し、反抗するものは武力で鎮圧した。
 平和な島に乗りこんできたのは、まさに″悪魔の使徒″としかいいようのない支配者であった。人々にはもう行き場がなくなってしまった。山の中に逃げこんだものの、追ってくる″野獣″たちは、殺戮さつりくをやめなかった。
 もはや、逃げる道も、断たれた。多くの人々が、殺される前に、マニオクという毒草の汁を飲んで自殺した……。こうして人口は激減していく。コロンブスの大陸″発見″の年、一四九二年に約七万人いたといわれる″インディオ″は、約五十年後には何と五百人になっていた。ほとんど絶滅に近い。
 コロンブスの歴史上の位置づけはさまざまである。だが、この数字は、「最初の帝国主義者」とも呼ばれる彼の事業の暗黒の一面を、恐怖とともに、雄弁に物語っている。
15  ヨーロッパにコロンブス兄弟の悪行のうわさが次第に広まっていく。
 一四九五年十月、スペイン本国から行政監督官がやってきた。彼は植民地がうまく治められていない模様を本国へ報告する。こうしてコロンブスは次第に追いつめられていった。彼の後半生の悲劇が、このあたりから、幕を開け始める──。
 コロンブスには敵も多かった。彼の栄光をねたむ者はあとを絶たない。利権と地位をねらう者も数限りなくいた。これは良かれ悪しかれ、傑出けっしゅつした人物の宿命でもある。コロンブスを追いつめたのは、こうした人々の暗躍であったとの見方もある。
 しかし、何より彼の致命的失敗は、民衆を完全に敵に回してしまったことである。その瞬間から、彼のすべての栄光は色あせ、″海の英雄″は″陸の暴君″に一変してしまった。彼は天才的な航海者であり、誰人も及ばない技術と経験、知識、豪胆ごうたんさを持っていた。しかし、民衆のリーダーとしては完全に失敗者だったと言わざるをえない。
16  指導者──。指導者で一切は決まる。良き指導者は民衆に″幸″と″光″をもたらし、悪しき指導者は反対に″苦悩″と″闇″をもたらす。
 とりわけ仏法の世界の指導者の責任は甚大じんだいである。人々を成仏への軌道に乗せるか、地獄への軌道に引きこんでしまうか、結果が両極端に分かれるからだ。
 無法の植民者達は、何のとがもない民衆を残忍にいたぶり、もてあそんだ。
 近年、本来は我が身をなげうって民衆を守るべき立場にありながら、かえって残忍に仏子を迫害し、追いつめ、自らの奴隷のごとく見くだして、非道の所業を繰り返した悪侶達がいた。彼らもまた″正義″″正信″の仮面の陰に、その悪魔のツメを隠そうとしていた。そして彼らに同調し、互いに利用しあいながら、信仰の同志を暴虐ぼうぎゃくの徒に売り渡し、また自ら手をくだして苦しめた退転幹部がいた。
 御聖訓に照らし、経文に照らして、その罪が未来永劫えいごうにわたることは間違いない。
 今後も、皆さま方をいじめ、見くだしていばり、苦しめる幹部が現れるかもしれない。そして学会に育ててもらいながら、逆に学会を利用し、皆さま方を犠牲にして一身の名利をむさぼる有名人が現れることを私は心配する。また現在もいるかもしれない。
 狂った機械は恐ろしい。狂った信心は、もっとこわい。私どもは、民衆利用の傲慢ごうまんと無慈悲の指導者がのさばることを絶対に許してはならない。信心の眼をもって鋭く見破り、正義の怒りをもって断固戦わなければならない。
17  植民者たちは、民衆に勝手に無理を押しつけ、意のままにならないと迫害した。何という傲慢であろうか。
 指導者は指導者である。「支配者」でもなければ「権力者」でもない。人々が自分の言うことを何でも聞いてくれると思ったら、大間違いである。どれほど多くのリーダーが、この過(あやま)ちから自滅していったことか──。
 学会においても、妙法が偉大であるからこそ、また人生の師である牧口先生、戸田先生を信じ敬慕するゆえに、多くの人々が立ち上がった。それを、自分に人々が従っている等と思ったら、余りにも愚かである。また傲慢である。
 指導者は一人一人の仏子を、できうる限りの慈愛で大切に守り、祈り、尽くしていかなければならない。そうできる自分の立場に感謝していかねばならない。その「真心に徹しゆく」行動にこそ、真実の仏法の心があり、学会精神があるといってよい。
18  コロンブスの人生も中途までは、ある意味で順調であった。その後、次第に下り坂になった。青年部の諸君の中には、今は苦境にある人もいるにちがいない。しかし、一年また一年、栄光の坂を上り、晩年にこそ最大に光輝さんたる福徳に包まれた一生であっていただきたい。そのための信仰なのである。
 指導者としての成長においても、誰しも中途までは、それなりに頑張り、伸びていく。しかし中年になった後、さらに自らを磨いて、民衆のための″本物″のリーダーとして完成されていく人と、反対に成長が止まり、何か、よどんだ存在として、人々の信用を失っていく人がいる。後者の人は、自らはもちろん、またその一家一族まで不幸へと引きずっていく場合がある。
 ともあれ、コロンブスの一人の愚弟が、植民地の惨状の大きな原因になったように、一人の悪しき指導者の存在は、民衆の甚大な不幸をもたらす。
 諸君は自らも一流の指導者として成長しつつ、さらに慈愛の心熱き「良き指導者」と「良き指導者」の団結で、立派な模範の中部を築いてほしい。
19  広布に徹する人こそ尊き仏子
 最後に、ともどもに御書の一節を拝しておきたい。
 「おのおの・わずかの御身と生れて鎌倉にゐながら人目をも・はばからず命をも・おしまず法華経を御信用ある事ただ事とも・おぼえず
 これは四条金吾の夫人、日眼女にちげんにょに対して佐渡から送られた「同生同名どうしょうどうみょう御書」の一節である。日眼女と親しく、ともに信心に励んでいた藤四郎とうしろう夫人も、この御手紙を一緒に読むよう述べられている。
 ──あなた方お二人は、それぞれ大した身分の生まれではない。守ってくれる強大なうしろだても持ってはいない。しかも佐渡流罪という大難の真っただなかである。幕府のひざ元である鎌倉では、門下への迫害の嵐が吹きすさんでいる。その鎌倉にあって、人目をはばかることもなく、堂々と信仰の旗を差し上げておられる。命をも惜しまず法華経の信心を貫いておられる。このことは、ただ事とは思われない──。
 続けて″さぞかし、お二人の心に仏・菩薩が宿られたのであろうか″と、大聖人は最大に賛嘆しておられる。
 二人の婦人には、権力も地位もなかった。ただ強盛なる信心があった。いわゆる有力者や有名人との特別なつながりもなかった。ただ師・大聖人との絶対の″生命のきずな″があった。同志との清らかな「連帯」があった。
 最悪の機根とされた末法の衆生である。また名もない平凡な婦人である。にもかかわらず権威にも屈せず、苦難をものともせずに、最悪ともいうべき環境で、健気に信仰に生き、広布に徹していった。その尊き姿を、大聖人は「ただ事とも・おぼえず」とまで仰せになっておられるのである。
20  学会の広宣流布の歴史にあっても、今日の盤石な基盤を築いたのは、平凡な無名の庶民の力であった。
 ここ中部においても、これまでも幾つかの大きな苦難の峰があった。しかし皆さま方は、強盛な信心ですべてを見事に乗り越えてこられた。その尊き、悔し涙も、広布への不屈の一念も、私はよく存じあげているつもりである。何より御本仏・日蓮大聖人が、皆さま方を最大にほめたたえ、称嘆されていることは絶対に間違いないと確信する。
 皆さま方こそ、成仏への直道を歩む方々である。その功徳は三世に輝き、鍛えられた幸福の″我″は生々世々にわたって決して、壊れない。仏法の眼から、また「永遠」の眼から見る時、最高に尊き存在の仏子であられる。その自覚と誇りと感謝が、また自身の生命を飾っていく。
 最後に、今日の栄光の舞台を築かれた中部の大切な皆さま方のご多幸をつつしんでお祈り申し上げたい。そしてさらに、青年部の諸君をはじめとして、この愛する中部の地に、「もう一歩」盤石な、「もう一歩」深く強き広宣流布の基盤を築いていっていただきたい。
 そして信仰されている方々も、いまだ信仰されていない方々も、総じて、豊かなる福運の光に包まれゆく「偉大なる中部」の建設を念願し、また確信しつつ、記念のスピーチを結びたい。

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