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日蓮大聖人・池田大作

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和歌山広布35周年記念研修会 陰の労苦の人を守れ

1988.3.23 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

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1  「真剣」「真心」が生命を動かす
 関西の同志の真心で、ここ南紀・白浜の地に関西研修道場が立派に整備された。その労苦に心から感謝するとともに、本日は、ともに研修し、記念の意義をとどめておきたい。
 和歌山の海は美しい。とりわけ白浜の海は明るく、壮大である。温かい光に満ちている。
 この研修道場からも、太平洋を航海する、あの船、この船の行き来が見える。″どこの国へ行くのかな″″最後まで無事にたどり着けますように″――船影を目にするたびに、そんな思いを抱きながら、乗っている方々の人生の行路もまた有意義で幸多かれと願わずにいられない。
 皆さま方は、この素晴らしい海と光、美しく豊かな自然に恵まれた景勝の地で活躍されている。それ自体どれほど、うらやむべき境遇であることか。依正不二えしょうふにの法義に則り、この明るく素晴らしき天地で、誰よりも明るく素晴らしい人生を生きぬいていただきたい。
 ともあれ、この研修道場から、広宣流布の力あるリーダーが陸続と育っていく、その光景をまぶたに浮かべる時、私の心はおどる。胸中が大きく開け、未来へ赫々かっかくたる希望が輝きわたる。
2  先月、東南アジア・香港の訪問を終えたあと、私はその足で沖縄に直行した。
 沖縄にも立派な研修道場がある。その幾つもの″平和の像″が立つ「世界平和の碑」、また平和記念館もあり、道場の存在は時とともに、大きく光を放っていくと確信している。
3  沖縄といえば、忘れられないのは、宮古・石垣島に行った十四年前のことである。かの地にも大勢の心清く、瞳美しき友がいた。
 その時、地元の代表が踊りとともに紹介してくれたのが″久松五勇士の歌″であった。私は感動した。多くの人に聴かせてあげたいと思った。曲そのものはもちろん、何より友の真剣さが、心を揺さぶった。
 うまいというだけの演技なら、他に幾らでもあったろう。しかし、真剣さと真心ほど、人の胸を打つものはない。「心」が「心」に響き、「生命」が「生命」を動かす。この感応かんのうが、信心の世界にとって、どれほど大切であることか。
 指導者は謙虚に自身の生命と人格を磨きゆかなければ、「心の世界」「生命の世界」である学会の在り方を大きくあやまってしまう。
 次元は異なるが、天台大師の説いた「十妙」の中に「感応妙」がある。衆生が仏を感じ、仏が衆生のそれぞれの感に種々に応ずる。その関係が不可思議であることをいう。
 御本尊もまた、私ども衆生の信心の一念に応じて、その無量無辺の力用をあらわしてくださる。大切なのは真剣にしてひたぶるな祈り、広布への真心こめた一念である。
4  無名の庶民こそ歴史の主役
 先日、東京の各部代表者会で、この「久松五勇士」の史実を少々、申し上げた。かつての日露戦争の折、日本海海戦勝利の「陰の功労者」である五人の青年漁師達の話である。
 歴史も、そして世界も「陰の人」への心と目をもって見つめ直すとき、限りなく豊かに、美しく広がっていくものだ。私は「五勇士」達の命がけの功労が、長い間報われなかったことを通し、陰で活躍してきた方々への心くばり、目くばりを忘れてはならないことを語ったわけであるが、この話に対して、各地からさまざまな報告が寄せられて驚いている。
5  たとえば、この「久松五勇士・黒潮の闘魂」の歌を歌った人も、作詞・作曲者も学会員であるとうかがった。さらに、沖縄・豊見城村の学会員・佐平浩次郎さん(地区壮年委員)の祖父・西原真津まつさんが、バルチック艦隊の発見、通報者であるとの話があることが伝えられた。
 それは、宮古島の城辺ぐすくべ町教育委員会の教育長であった砂川泰信さん(故人)が、著書「隠れたる偉人」で書き残している。
 「久松五勇士」も、長い間、無名の存在であったが、今日では沖縄をはじめ、多くの人にその功労は知られている。それに対して、いまだにほとんど語られることがないのが、西原真津さんのことである。地元の観光ガイドの説明でも、バルチック艦隊の発見者は「ある漁師」とされ、その名が語られることはなかったという。
 発見、通報者は奥浜牛さんとの記録もある。「一人の人間が正当なる功績評価もないまま埋没され、権力から見放されていく姿が、哀れに見え我慢がならず執筆に踏み切ったのではないか」と森田武雄城辺町長が「推せんのことば」で述べているように、西原さんの隠れた功労を郷土史に正しく顕彰しておきたいとの思いから、心血を注いで、この書を世に残された。
 同書によれば、当時二十一歳の西原青年は、友人と打ち網漁に出かけたとき、水平線の近くを大きな黒船が、何十隻となく南から北へ走っていくのを発見する。
 これこそ今、日本中で行方を捜しているバルチック艦隊であると察知した西原青年は、近くにつながれていた馬に飛び乗り、島庁へと一目散に駆けた。その道四里(約十六キロ)。道も悪く、馬もくらのない裸馬であったが、一刻も早くと青年は懸命に走った。その姿は、私には勇者が駆ける一幅の絵のように思い浮かぶ。
 西原青年は島庁へ到着するが、身も心もくたくたであった。そしてこの″敵艦発見″の報は、「久松五勇士」へとバトンタッチ。無線のある石垣島へと、深夜の荒海をぎ出していく。
6  後年、久松五勇士は、県や海軍省から顕彰されるに至った。だが、最初に敵艦隊を発見したとされる西原青年には、ついに何の論功行賞もなかった。
 その理由は、いくつか考えられよう。単純な手落ちから、海軍省への報告書に、彼のことが記載されなかったのか、あるいは、徹底した″上意下達″の時代である。離島の役所が上級官庁の″威光″に委縮いしゅくし、一庶民の功労を伝えることができなかったのか。いずれにせよ、西原青年の真心の行動が、国家によって報われ、たたえられることはなかった。
 が、彼は、七十八歳で亡くなるまで、平凡ではあるが、幸福な人生を送った。村の名士として人々の信頼も厚く、家庭的にも経済的にも恵まれたその暮らしぶりは、村民の羨望せんぼうの的だったという。彼の長女が、佐平さんのお母さんに当たる方である。現在は、八十歳。子息の佐平さん、またお孫さんともども、信心に励んでおられる。
 ともあれ、こうした因縁をもつ佐平さん一家が、今、沖縄の地で、妙法を受持し、地域の名士として立派に実証を示し、活躍されていることは、まことに感慨深い。
7  久松五勇士の活躍、また西原青年の奮闘譚(たん)も、悠久の歴史の大河からみれば、何気ない一つの″エピソード″といえるかもしれない。だが私は、ここに、「国家」と「民衆」、また「戦争」と「平和」に関する重大な教訓を感じてならない。日露戦争で、勝利の功労者といえば、とかく東郷元帥や乃木将軍であるとされ、一般の庶民の名を出す人は、あまりいない。しかし、実際には、久松五勇士や西原青年、奥浜牛さんのような多くの無名の庶民の、命を削るような労苦と戦いがあった。だが、そうしたことはほとんど無視され、一部の″英雄″のみが華々しくたたえられ、喧伝(けんでん)される――それが、これまで繰り返されてきた歴史ではなかったか。これでは、余りにも社会は非情であり、不公平ではなかろうか。
 元来、戦争で最も犠牲を強いられるのは、つねに民衆である。決して国家の中枢にある権力者ではない。権力者は時代を巧みに泳ぎ、必ず保身を図っていく。
 その構図を、ひときわ鮮烈に感じさせるのが、かの沖縄戦である。
 先述したように、明治以来、沖縄の人々は、日本国民として祖国の勝利と繁栄のために、懸命に力を尽くした。しかし、その真心が報いられるどころか、太平洋戦争の折には、沖縄は本土を守る″防波堤″とされ、本土の″たて″として苛烈かれつな″鉄の暴風″にさらされ、破壊された。あまつさえ、本来、住民を守るはずの日本軍が、逆に沖縄の民衆をいじめ、殺害した。その犠牲は、女性や幼い子供にまで及んでいる。
 それに対し、国を戦争に導き、国民に戦闘を命じていた権力者は、どうであったか。はるか後方にあって命を永らえたのみならず、戦後も、権力の座にとどまり、富や名声を享受した者も少なくない。なんたる矛盾むじゅん、なんたる非合理であろうか。
 私は、権力の恐ろしさ、戦争の恐ろしさ、そして人間の恐ろしさを痛感してならない。
8  私自身、戦争と権力への悪を、若き日に肌で感じてきた一人である。四人の兄は出征し、悲惨な体験を重ねた。なかでも、長兄は戦死。その一方で、戦争を遂行した人々は戦後、次々に社会に復帰し、返り咲いていく――こうした現実を目にした時、私は生涯、権力と戦い、つねに犠牲となってきた名もなき庶民の味方として生き抜こうと決心した。
 幸いにも、私は、日蓮大聖人の仏法に巡りあった。そして、無名の庶民を何よりも大切にし、民衆の確かな幸せを築くことが大聖人の仏法の根本精神であることを知り、私はうれしかった。そのことを、教えてくださったのが、恩師・戸田先生である。大聖人の御心を深く拝した戸田先生もまた、民衆の側に立ち、民衆のために戦い抜くことが、生涯変わらざる信念であり、生き様であった。
 この師の「民衆厳護」の精神を、私は片時も忘れることはなかった。今日までひたすら、その理想の実現のために、全力で邁進し、力を尽くしてきたつもりである。
 ともあれ、民衆が犠牲となる社会であってはならない。民衆がいやしめられ、おびやかされ、卑屈になるような時代であってはならない。社会の主役は、あくまで民衆である。無名の庶民の一人一人が、存分に幸せを満喫まんきつできる世の中でなければならない。
 そのために、庶民がもっと「力」を持たねばなるまい。強くなければいけないし、しき権力に、絶対にひざを屈してはならない。また、そのような民衆勝利のためにこそ、我が創価学会が一段と社会に根を張り、共感を広げつつ、力強く前進していくことが大切であると申し上げておきたい。
9  広布先駆の同志を最大に顕彰
 私どもは無名であっても、社会のために行動し、人々のために貢献した方々がもっと正当に評価される時代をつくらなくてはならない。
 とともに、そうした人々への真実の報い、顕彰とは何か。それこそ三世永遠の「大法」たる妙法による以外にない。妙法こそ、過去に亡くなったいかなる人であっても、子孫らが唱題し、追善していくことにより、成仏の軌道へと入らしめる絶対なる大法だからである。これだけは、いかなる権威、権力、財力による報い、顕彰も及ばない、生命の根本次元の問題なのである。
 久松五勇士や西原青年の雄姿を思う時、すぐに二重写しとなって私の脳裏に浮かぶのは、広宣流布に進みゆく凛々りりしき地涌の勇者の姿である。
 我が妙法の同志は、華々しく称賛され、顕彰されたことなど、一度もなかった。それどころか、時には罵倒ばとうされ、迫害されて、言葉に尽くせぬ苦衷くちゅうを味わったこともあったにちがいない。しかし草創の先輩達は、数々の困難に屈せず、自転車をこぎ、友を励まし、ドロまみれになって前進してきた。
 その血のにじむような精進と尽力があったからこそ、今日の輝かしい広布の繁栄が築かれたのである。その名もなき″誉れの先駆者″の方々の功績を、決して忘れてはならないし、私は絶対に忘れたことはない。
 むろん、有名でも偉大な人はいる。しかし、無名にして偉業を成す人は、さらに偉大である。これが私の不変の信念であり、我が学会の永遠の指針でもある。ここに学会の強さの所以ゆえんがある。
10  広布の庭には、光の当たらぬ舞台でも、誇り高く黙々と活躍している人がいる。たとえ、誰にもほめられなくとも、ひたすら自らの使命の道に徹し、行動している人もいる。そうした友を徹底して守り、支え、励ましていくことを、広布のリーダーは決して忘れてはならない。
 大聖人が佐渡在住の一婦人に送られた、次のような御手紙が思い起こされる。
 「さど佐渡の国より此の甲州まで入道の来りたりしかば・あらふしぎ不思議とをもひしに・又今年来りなつみ菜摘水くみたきぎこりだん王の阿志仙人につかへしが・ごとくして一月に及びぬる不思議さよ、ふでをもちてつくしがたし、これひとへに又尼ぎみの御功徳なるべし、又御本尊一ふくかきてまいらせ候、霊山浄土にては・かならずゆきあひ・たてまつるべし
 ――先年、佐渡の国からこの甲州の身延まで、あなたの夫の入道殿がきたので、実に不思議なことだと思っていたところ、また今年も来られた。そして菜を摘み、水をみ、薪を取り、檀王が正法を求めて阿私仙人あしせんにんに仕えたようにして(大聖人に御仕えし)一カ月にも及んでいるのは、何と不思議なことであろうか。筆で書き尽くすことはできない。これはひとえに、また夫人であるあなたの御功徳となるであろう。御本尊を一幅したためて差し上げます。霊山浄土では、必ず御会いいたしましょう――と。
 この御書を与えられた是日尼(ぜにちあま)について、詳しいことは分かっていない。あるいは、阿仏房の夫人である千日尼のことではないか、との説もあるが、明らかではない。
 いずれにしても、はるばる佐渡の地より何度も大聖人をお訪ねし、「自分のできることは、なんでもさせていただきたい」との一心で、陰の地味な仕事に徹した人がおり、さらにそのまた陰には、夫を送り出し、留守を守る妻がいたのである。二人は、名もなく、学識もない庶民であったかもしれない。
 この御文は、御本尊まします広布の城を真心で整備し、また陰の労作業にあたられている守る会、転輪会、金城会等の皆さま方に相通ずるものがあると私には思えてならない。
 また、この夫妻に、大聖人のもとで真摯しんしに仏法を研さんしゆく若き後継の姿を、やさしい笑顔で見守りながら、彼らの分までもと労作業に汗を流す先輩の「心」の発露を見ることもできるかもしれない。
 ともあれ、そうした健気けなげな一夫妻の姿を、大聖人は「ふでをもちてつくしがたし」とたたえてくださっている。ここに私は無名の庶民、真実に信心強盛なる人を限りなく慈しまれる、御本仏の大慈大悲の御境界を拝するのである。
 いずこにあっても感じることだが、陰で支える方々の真剣な活躍ほど尊いものはない。また、誰にたたえられ、顕彰されなくとも、そこには御本仏の御照覧があることは絶対に疑いない。そのことを確信し、今後も「広宣流布」の活動に、また「信心即生活」の実践に励んでいただきたいことを申し上げて、本日の話とさせていただく。

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