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日蓮大聖人・池田大作

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第1回関西代表幹部会 大法弘通の人に永遠の誉れ

1988.3.21 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

前後
2  この関西文化会館、ならびに聖教新聞関西本社のある餌差町えさしまち近辺の足跡について、まず述べておきたい。起伏に富んだ高台を形成するこの一帯は、かつて「桃山」もしくは「桃木原」などと呼ばれた景勝地で、一円に桃林が広がっていた。
 そこで、江戸時代から明治にかけては、桃や紅葉の名所としてにぎわい、多くの人々のいこいの地となっていた。
 福沢諭吉も、緒方洪庵おがたこうあんの適塾で学んでいた若き日、桃の花の時節に、十四、五人の友人と、ここへ花見に訪れたことを、自伝にしるしている。
 この一帯は、大阪でも屈指の行楽地であり、まさに万朶(ばんだ)と花が咲き乱れる美しき国土であった。この地域は、関西広布の歴史にも、深いゆかりがある。
 昭和二十八年の六月十四日、戸田先生は第一回大阪支部総会に出席された。その会場は、同じ天王寺区の夕陽ケ丘町にある夕陽ケ丘会館であった。
 関西広布の、偉大な″第一歩″をしるした″夕陽ケ丘″。そこは名前の通り、夕日のきれいな天地である。戸田先生も、美しい夕日を目にしたであろう。私は、恩師が草創の建設に魂を注いだ往時が、懐かしくしのばれてならない。
3  日蓮大聖人は、青年時代の諸国御遊学の折、このすぐ南側に位置する四天王寺を訪問されている。
 「妙法比丘尼御返事」には「十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国国・寺寺あらあら習い回り候」と仰せである。
 一説には建長二年(一二五〇年)、大聖人は四天王寺に入られ、聖徳太子の偉業をしのびつつ、仏籍を閲覧された。青春の日の修学のため、ここ天王寺の地に滞在され、経典を学ばれたわけである。まことに仏縁深き国土といわざるをえない。
 そこに、広布の中心城を構え、正法流布に励まれている皆さま方である。ひときわ、仏法とのえにしも深く、広布への使命も重き方々であることは間違いない。
 また、この関西文化会館は、元は大阪地方″貯金局″であった。全国でも、こういう会館は大阪だけである。
 ともあれ皆さま方は、一人ももれなく幸福の″長者″として栄え、永遠の繁栄を満喫(まんきつ)していっていただきたい。
4  一切はリーダーの″団結力″から
 話は変わるが、私どもの住む地球は、その中心部が、摂氏六千度、三百万気圧という、大変な高温・高圧状態にある。
 また天体というマクロの世界からミクロの世界に目を転ずれば、原子の中心となる原子核にも、極めて強い核力が働いている。つまり、原子核は陽子と中性子からなるが、その両者を結びつけている力が核力である。その結合エネルギーはまことに強力であり、原子と原子を結ぶエネルギーの百万倍にも及ぶ。
 物理の世界にあって、マクロの地球にも、ミクロの原子にも、その中心部に強烈な力が働いていることに、私は尽きぬ興味を感ずる。というのも、私どもの社会や運動にあっても、同様の原理が存在するように思えるからだ。
 いかなる社会、組織でも、中心者に加わる周囲の圧力は強烈であり、リーダーが組織を前進・発展させゆくためのエネルギーは大変なものである。それほど、核となる人々の存在は重大であり、すべての興亡が、そこにかかっている。これは、広布の舞台にあっても、まったく同じ道理といってよい。
 また、原子の中心にある原子核と中性子を結ぶ核力の強大さは、私どもにとっては、中心者相互の信頼と団結の姿にも通ずる。リーダー同士の団結の力こそ、一切のかなめであり、安定した発展への原動力である。
 もしも中心者に野心があったり、嫉妬しっとや独りよがりの感情で互いに反目したり、仲が悪かったりすれば、その組織はまことに不安定なものとなり、皆が自信をもって前進できなくなる。これほど恐ろしいことはない。
5  集団の動向を決する″核″の存在を中心者とすれば、一個人の未来を決定づける″中心″とは何か。
 それは、その人の奥底の「一念」の力に尽きる。そして、人生のあらゆる苦難を乗り越えながら、自己を完成させゆく強靭きょうじんなる「一念」は、強盛な信心によって磨いていく以外にない。
 日蓮大聖人は、「乙御前御消息」に「いくさには大将軍を魂とす大将軍をくしぬれば歩兵つわもの臆病なり」──戦いにあっては大将軍を魂とする。大将軍が臆したら、部下の兵も憶病になってしまう──と仰せである。
 広布という遠征の途上には、今までも試練の嵐があった。苦難の波濤もあった。しかし、今日まで揺るぎなき勝利の軌跡を刻むことができたのは、ひとえに一人一人が、この御金言のままの「勇気」の実践を貫いてきたからにほかならない。その意味からも私は、広布の回転軸である皆さま方の、一層の活躍と成長を念願してやまない。
6  「死身弘法」こそ信仰者の精神
 広宣流布は、末法万年にわたる、壮大な旅路である。仏法がいかに大きなスケールをもち、また、いかに長遠な時間の流れを、包含したものか。
 「下山御消息」には、次のように仰せである。「如来は未来を鑑みさせ給いて我が滅後正法一千年・像法一千年・末法一万年が間我が法門を弘通すべき人人並に経経を一一にきりあてられて候」──如来(釈尊)は未来のことをお考えになって、我が滅後の正法一千年、像法一千年、末法一万年の間に、仏法を弘めゆく人々と、その経々とを、一々に割り当てられたのである──と。
 仏法においては、その誕生の時点ですでに、はるか末法万年までの「法」の展開と「人」の継承が展望されている。
 確かに人類社会には、学問や芸術といった、時代や国を超えて受け継がれ、発展していく″遺産″もある。しかし、人類史のなかで、師から弟子へと伝えられていく仏法流伝の劇ほど、長遠なる未来を志向した悠久な″リレー″はない。
 そして、峻厳しゅんげんな歴史の事実を振り返る時、この尊き「大法」の″バトン″を握りしめ、一生を走り抜いた「死身弘法」の勇者は、永遠なる光彩を燦然さんぜんと放っている。
 この世のあらゆるものは、変化し、興廃を繰り返す。いかなる富も、名声も、やがて色あせ、消えていくものだ。
 しかし、大宇宙を貫く妙なる「法」のみは、常住にして不変である。その功力は宇宙大であり、その「大法」をたもち、弘めていった人は三世に輝く福徳を満喫まんきつし、永遠の″誉れ″を得ることができる。
7  「関西の日」は四月八日であるが、旧暦のその日は、釈尊の御生誕の日に当たる。その意義も含め、きょうは、「死身弘法」の勇者として後代に名をはせる、インドの「師子尊者」について、少々、論じておきたい。
 日淳上人は、かつて″末法のはじめ約一千年の今、一閻浮提(いちえんぶだい)広布を着々と実践しゆく創価学会の活動は、仏の未来記を真実ならしめるものである″とのお考えを語っておられた。
 この仰せの通り、我が創価学会は、大聖人の御遺命のままに、末法万年尽未来際へ、未到の大遠征を敢行しゆく、誉れの仏子の陣列である。仏教史には「栄光」のドラマも、「悲劇」の一幕もあったが、そのすべてを心に収め、未来の糧(かて)としていく責務が、私どもにはある。そうした意味からも、本日は、仏教の殉難じゅんなんの歴史の一コマを見ておきたいと思う。
8  さて師子尊者は、正法時代、釈尊の付嘱ふぞくを受け継いで仏法流布に邁進まいしんした「付法蔵二十四人」の最後の伝灯者である。
 「尊者」とは、文字どおり、″尊ぶべき者″″尊い人″であり、「智」も「人徳」も「実践」も、ともに備えた模範の存在である。その意味では、妙法を信受し、日夜、広宣流布のために励んでおられる皆さま方も、「尊者」の自覚で進んでいただきたい。
 師子尊者は「師子」をかんしたその名のように「法」のため、師子奮迅ふんじんで走り、戦い、そして死んでいった。その転教の舞台は、インドの罽賓国けいひんこく(現在のカシミールないしガンダーラ付近と思われる)。師子尊者は、各地を巡り、人々の信頼を得ながら、仏法を大いに弘めた。
 しかし、やがて国王・檀弥羅だんみらにより、仏教への大弾圧が始まる。営々として築きあげてきた法城である寺や塔は、ことごとく破壊され、僧侶や信徒は無残にも殺害されていく。
 怒り狂った王は、自ら剣をふりかざして師子尊者の前に現れる。しかし、師子尊者はいささかもひるまない。″自分の身はすでに法のためにささげた″″命は少しも惜しくない″と王に向かって、厳然と言い切る。その言葉を聞くやいなや剣をふるう王。師子尊者は王の剣によって首をられ、殉教の尊い生涯を終えた。
9  大聖人は「開目抄」に「師子は身をすつ」──師子尊者は法のため身を捨てた──と仰せになっているのをはじめ、御書に繰り返し記され、その「死身弘法」の姿をとどめておられる。
 さらに、御自身の御振る舞いに即して次のようにも仰せである。
 「我頸を刎られて師子尊者が絶えたる跡を継ぎ天台伝教の功にも超へ」──私(大聖人)は、竜の口の頸の座に臨み、師子尊者以来、絶えていた跡を継ぎ、天台伝教の功績にも勝れ──と。
 「死身弘法」こそ信仰者の精神である。また、その深い決意なくして本当の信仰の道は貫けるものではない。私も戸田先生のもとで仏法の道に入って以来″護法のためにはいつ倒れてもよい″との決心で、走り、戦ってきた。それが、牧口、戸田両先生の殉教の生涯にこたえる道であり、学会精神であると確信していたからである。
 どうか大聖人の門下として、大法弘通に生き抜いておられる皆さま方は、仏法継承の偉大な使命をもった、尊い仏子であるとの誇りを胸に、堂々たる前進をお願いしたい。
10  「逆境」も「勝利」と転ずる信心を
 師子尊者の最後は、壮絶なる殉教であった。そして、この死によって、釈尊以来、連綿と受け継がれてきた「付法蔵」の伝灯、すなわち法の灯は消えてしまう。
 「付法蔵」とは、「付」は「付嘱」、「法蔵」は「法門」の意で、師から弟子へ仏法を伝え託すことである。その付法蔵の正師は二十四人(釈尊を加えて二十五人、また一人除いて二十三人とする説もある)。すなわち釈尊十大弟子の「迦葉(かしょう)尊者」(付法蔵の第一)、「阿難(あなん)尊者」(付法蔵の第二)をはじめとして「師子尊者」にいたる二十四人である。その一人一人が、さまざまな難を受けながら、仏法を弘通した。
 大聖人は「報恩抄」に次のように仰せである。
 「法蔵の人人は四依の菩薩・仏の御使なり提婆菩薩は外道に殺され師子尊者は檀弥羅王だんみらおうに頭を刎ねられ仏陀密多・竜樹菩薩等は赤幡を七年十二年さしとをす馬鳴めみょう菩薩は金銭三億がかわりとなり如意論師はおもじにに死す。
 つまり、付法蔵の人々は衆生のよりどころとなる「四依しえの菩薩」であり、仏の御使いである。その付法蔵第十五の提婆菩薩は外道に殺され、第二十四の師子尊者は檀弥羅王に首をはねられた。
 また付法蔵第九の仏陀密多は十二年間、第十四の竜樹菩薩は七年間、外道の王をただすため、ともに赤い旗をさしたてて、城の前を往来した。その姿を怪しみ、呼び寄せた王と対面し、邪義を破折し正法に帰依させた。
 さらに付法蔵第十二の馬鳴菩薩は、国王によって金銭三億のかわりとして敵国に送られた。また付法蔵第二十一の世親せしん菩薩の師である如意にょい論師は、外道にはかられ、はずかしめられて思い死にしてしまった──と。
11  釈尊入滅後一千年の正法時代は五百年ずつに分けられて、それぞれ「解脱堅固げだつけんご」、「禅定堅固ぜんじょうけんご」といわれる。一言でいえば、「解脱堅固」とは、仏道修行に励んで、解脱し悟りを開くことができる者が多くいた時代をいい、「禅定堅固」とは衆生が大乗を修して禅定の境地に入り、心を静めて思惟しいの行に励んだ時代のことである。
 仏法が大いに興隆した、こうした正法時代にあっても、付法蔵の二十四人が受けたような難の連続であった。そのなかには、かの師子尊者のごとく、身命に及ぶ大難もあった。
 また「報恩抄」に仰せの馬鳴めみょう菩薩のように、お金の問題にからんだ、難まであった。すなわち天賦てんぷの詩才を大いに発揮しながら、民衆を教化した馬鳴菩薩──。彼は、戦争に敗れた国王によって、その賠償金の三分の一に当たる三億のかわりとして、敵国に差し出されてしまった。
 しかし、馬鳴はめげない。めげるどころか、その連れていかれた国を舞台として、大いに活躍し、仏法を弘めていった。たくましく、また、たくましい、天晴あっぱれな生き様を示し、残している。
 そのたくましい姿は、あたかも我が″関西魂″を彷彿ほうふつとさせる。どこに行っても負けない。何があってもくじけない。退かない。そして、必ず苦難を次の勝利へと変えていく。これこそ″関西魂″である。この″関西魂″が燃え、輝いているかぎり、「常勝関西」は不滅である。
 また、私どもの信心や身近な生活に約していえば、転勤や引っ越し等で、活動の舞台が変わることもある。組織上の役職の変化もある。しかし、何がどのように変わろうとも、自分のおかれている場所を、最高のひのき舞台として活躍していく。そして御本尊から″天晴れ″とおほめをいただける自分となっていく──この不屈の決意と、たくましい実践にこそ信心の精髄せいずいはあると申し上げておきたい。
12  また、世親菩薩の師である如意論師は、彼に私怨しえんを抱く王によって百人にのぼる外道の学者と討論を強いられた。彼はそのうちの九十九人までは屈服させる。が、王と最後の外道は共に、大声で一方的に如意論師に非があると言って徹底的に辱しめた。如意論師は反論しようとしたが、だれも耳をかそうとはしなかったので、舌をかみ切って自ら命を絶っている。そのさい、如意論師は、「党援の衆と大義を競うこと無く群迷の中に正論を弁ずること無かれ」──徒党を組んだ者達を相手に仏法の大義を討論したり、愚かな徒輩等の中で正論を弁じても無駄であるからやめなさい──と弟子の世親に遺言したのである。
 怨みや憎悪の感情に支配された愚かな人の言動は″暴力″のようなものである。どれほど理を尽くして正論を説いても、冷静に聴き入れることはできない。
 ゆえにそうした相手と同じ次元で議論することは、無意味であり、むしろ自身の立場をいやしめてしまう。今日、学会が「ためにする」低俗な誹謗ひぼうに一々反論しないのも、この如意論師の言葉と同じ道理なのである。
 それはともかくとして、この事件は如意論師と世親菩薩の師弟にとって、どれほど痛恨つうこんの、また屈辱的な出来事であったことか。
 しかし、″出藍しゅつらんの弟子″世親は師の遺志を継ぎ、師の分まで生き抜いた。後に彼は、自ら堂々と外道を屈服させ、師の恥辱ちじょくをそそいだといわれる。そればかりか、彼は生涯をかけて多数の述作を次々と生み出し、大いに大乗仏教を宣揚していった。多くの著作を残したことから、世親は「千部の論師」とたたえられている。
 その姿に、いうならば″言論の暴力″によって殺された師のあだを、″正義の言論″で討った弟子の執念をみる思いがするのである。
 このように、正法時代の仏法者達にも″一敗地にまみれる″ような苦境の時があった。おそらく、胸を引き裂かれるような「悔しさ」や「無念さ」も味わったにちがいない。大なり小なり偉大な人物は皆、こうした辛苦の時代を経験しているものである。
 しかし″本物″の中の″本物″である彼らは、決して一歩も退かなかった。たとえ挫折ざせつがあっても再び雄々しく立ち上がり、見事な「新しき前進」「新しき飛躍」を満天下に示してみせたのである。
 いわんや今は末法という五濁悪世の時代である。私どももまた、あらゆる逆風を乗り越え、むしろそれを発展と前進への発条バネとして進んできた。そして、これからも同じ覚悟でなければならない。何よりも「護法」と「弘法」のため、さらに「大法」を後世に伝えゆくためだからである。
 有名な「兄弟抄」には「設ひ・いかなる・わづらはしき事ありとも夢になして只法華経の事のみさはぐ思索らせ給うべし」──たとえ、いかにわずらわしく苦しいことがあっても、夢の中のこととして、ただ法華経のことだけを思っていきなさい──と。
 逆境の時にこそ深く強い信心の一念に立つべきである。そこにこそ、大海のように広々とした境涯へと自分を高めることができる。その決定けつじょうした一念に、「幸」と「勝利」の人生がある。またその正しき信心のための学会の組織であることを、強く申し上げておきたい。
13  勇者の実践を師子尊者のごとく
 さて、ここで師子尊者が大難を受けるにいたった、いきさつを紹介しておきたい。
 いくつかの仏典によれば、師子尊者を斬首した檀弥羅王だんみらおうは、もともとは仏法に心を寄せていた。その王がなぜ一転して、仏法の大弾圧者へと変貌へんぼうしてしまったのか──。ここには、広布をさまたげる障魔の働きが、どのように現れるかを示唆する重要なカギが含まれている。
 当時、罽賓国けいひんこくでは、この師子尊者の活躍によって、仏法が大いに興隆しようとしていた。ところが、それをねたみ、なんとか破壊しようとする二人の外道げどうが登場してくる。
 こうした存在は、いつの世も必ず現れる。何の事件もなく、すべて順調な前進など、ありえないのが現実である。しかもおもしろいことに、また必ずといってよいほど、悪人同士が、こそこそと陰で″手を組む″姿も変わらない。
 彼らは、たくみに僧の姿になりすまして王宮に潜入する。形は仏法を修行しているようでも、中身は外道である。このニセ者の仏教者は、王宮の中でさまざまにはかり事件を起こす。そうして、攪乱かくらんしたあげく、姿を消してしまう。
 王は激怒げきどする。彼らの思惑おもわく通りである。外道の偽装ぎそうにあざむかれた王は、すべての混乱の原因は仏教者のせいであると思いこんでしまった。″これまで自分は仏・法・僧の三宝を重んじてきた。なのに、何ゆえに、その信頼を裏切るのか″──。こうして王は、寺塔を破壊し、多くの僧を殺害するという挙に出たのである。
14  師子尊者をはじめ、多くの仏子達が、血のにじむような思いで勝ちとってきたであろう、王や社会の人々の信頼。その営々たる真心と労苦の結晶が、わずか二人の外道の陰謀によって、ことごとく踏みにじられ、崩されてしまった。
 せっかく苦労に苦労を重ねて築き上げてきた法城を、全く自分の関知しない、思いもよらぬことで破壊されてしまう。その、やりきれなさ、悔しさ、情けなさは、とても言い尽くせないものであったにちがいない。
 現在は正法時代よりさらに濁った時代である。残念ながら、こうした事件は、大なり小なり避けられない場合もある。私ども学会の歴史においても、ある時は、幹部や議員が事件を起こしたことが、これまでにもあった。また、これからもあるかもしれない。
 しかし絶対に負けてはならない。退(ひ)いてはならない。広宣流布は「仏」と「魔」との戦いである。半歩でも退いてしまえば、魔が喜ぶだけである。むしろ難即なんそく拡大のチャンスである。また、そう決めていく大確信の一念が、一切を変毒為薬へんどくいやくしていく。
 これが私どもの広布の歴史の原動力であったし、この原理は永遠に変わらないであろう。これこそ事の一念三千の仏法の偉大なる法理であり、妙法の絶大なる力なのである。
 世間においてさえ、ピンチをチャンスへと転じる行動が強調される。まして皆さま方は、大法をたもった仏子である。ゆえに、いかなる苦難も、悠然と、また見事に勝利へと転じて、信心の″一心″の無量の力を証明しゆく「心の戦士」「心の英雄」であっていただきたい。
15  ともあれ真実を見ている人は、見ている。ゆえに、何があろうと、どこまでも自分らしく、自分の立場で、「信心即生活」の実証を、「仏法即社会」の証明を、誠実に、また誠実に示しきっていくことである。その、いやまして誇らかな、堂々たる行動と笑顔の周囲にこそ、これまで以上の信頼の輪が広がっていくにちがいない。
 また、いかなる悪事や陰謀も、時とともに、その仮面は、はがされていく。厳しき因果の理法の賞罰は明白であるからだ。
 師子尊者の場合も、彼を斬首した王は、わずかの間に急死してしまう。その厳粛なる現証を眼前にして、王の太子は嘆きまどう。なにゆえに父は、このような死に方をしたのか──と。やがて、深き因果の法を教えられた太子は、すべての真実を知る。そして師子尊者の供養の塔を建立したと伝えられる。
 悪のたくらみに乗って、尊貴なる仏子を迫害してしまった。その父の軽率さは、悔やんでも悔やみきれない痛恨事であったにちがいない。
 ところで、師子尊者への弾圧は、王の「誤解」によるものだった。正しく理解されていないということは、本当に怖いことである。
 私は各国の指導者、文化人等、さまざまな人々と会っている。どこまでも平和のためであり、文化・教育交流という意義は当然として、各国のメンバーを守るために、真実の仏法の理念、そして仏法者の真実を少しでも理解してもらいたいがためである。
16  仏法継承の方軌は不変
 先ほど申し上げたように、師子尊者の殉教によって、付法蔵の正師の流れは途絶えてしまう。彼の弟子の中からは、ついに四依しえの大士と呼べる人物は出現しなかった。こうして正法時代は幕を閉じる。
 大聖人は「撰時抄」に次のように仰せである。「正法一千年の後は月氏に仏法充満せしかども或は小をもて大を破し或は権経をもつて実経を隠没し仏法さまざまに乱れしかば得道の人やふやくすくなく仏法につけて悪道に堕る者かずをしらず」と。
 すなわち──正法時代の一千年を過ぎた後、インドに仏法は充満していた。しかし、あるいは小乗教をもって大乗教を破り、あるいは、かりの教えである権経をもって真実の実経を隠し見えなくするなど、仏法はさまざまに乱れてしまった。そこで仏法によって成仏得道する人は、だんだん少なくなり、反対に悪道に堕ちる人が数知れず多くなってしまった──との御指南である。
 もとより、これは釈尊の予言通りであり、必然といえば必然の歴史の推移すいいであった。
 それはそれとして、たとえ正しき法があっても、それを正しく伝え弘める「人」の存在が、どれほど大切であるか。
 法は永遠である。しかし、その法の正しき修行を教える、正しき指導者がいなくなれば、民衆は歩むべき道を見失い、悪道へと迷いこんでしまう。
 さらに、仏法が混乱すれば社会全体も乱れに乱れていく。
 「最後にの法、衰へき(中略)世間は闇冥くらくなり、とこしなへに大いなる明るさを失い……」。
 これは、師子尊者のあと、後継の正師が絶えた社会の有り様を嘆いた「付法蔵経」の経文である。正しき「人」の断絶は、正しき「法」の衰微すいびをもたらし、世間は永遠のやみのごとく明るさを失ってしまった──と。
 正法へと導く指導者の存在は、それ自体、光であった。人生の道を照らす大光であり、慈愛の陽光であり、希望の光源であった。
 そうした指導者を失った時、仏法の世界はもとより、依正不二えしょうふにの法理で、社会全体が衰え、乱れ、暗黒となってしまった。しき指導者、力なき指導者、私利私欲と傲慢ごうまんの指導者のもとで、苦しむのは民衆である。
 現世ばかりのことではない。正しき「人」につけば成仏への道が、無限に開かれていく。反対に悪しき「人」につけば地獄への道へと入ってしまう。仏法の眼から見れば、生命の三世にわたる問題であり、これほどの重大事はない。
 その意味において、私どももまた、いかなる難にも崩れず、万代に絶えることのない正しき″後継の流れ″を完璧かんぺきにつくりあげていかなければならない。ここに仏法流布の永遠の課題がある。
 そのために今、私も全力を注ぎ、全魂を打ち込んでいる。手づくりで後継の大河をつくっている。各県・地域にあっても、この一点への挑戦を、よろしくお願いしたい。
17  「外護」の重要な意義について申し上げておきたい。御聖訓には次のように仰せである。
 「設い正法を持てる智者ありとも檀那なくんばいかでか弘まるべき」──たとえ正法を持つ智者がいたとしても、外護する檀那がいなければ、どうして正法が弘まるであろうか。弘まりはしない──と。
 仏教学の泰斗たいとである中村元博士も、インド仏教の衰退の一因として、堕落した教団が、外護する民衆の支持を失ってしまった点を挙げておられた。
 民衆の中にあって、「外護」の働きをする存在が、いかに必要不可欠であり、重要であるか。
 かつて日達上人は、戸田先生逝去の直後、昭和三十三年五月三日の第十八回本部総会の席上、次のように述べておられる。
 「末法の一切衆生救済の法は宗祖日蓮大聖人様の仏法であります。その日蓮大聖人の正法を正しく伝授しているのが日蓮正宗であって、その日蓮正宗を外護し、大聖人の正法を弘教しておるのが創価学会であります。
 お経に″法は人に依って弘まる″と説かれてあります。実に我が正宗が宗祖滅後六百八十年、何人なんびとも成すことの出来なかった大事業を成した人は、すなわち故創価学会会長戸田城聖先生でありました」と。
 創価学会の出現と、戸田先生の「死身弘法」の生涯。それは、まさに仏教史を画する重大な意義を持っていた。そのことを日達上人が指摘し、讃えてくださったのである。
 時代は変わっても、この一点は厳然たる不変の事実である。この偉大なる師匠を持った喜びと、誇りと、大確信を永久に忘れてはならない。
18  また、かつて日達上人は学会の青年部に対し、次のように話された。
 「この青年部全体、いな創価学会全体が、金剛宝器戒こんごうほうきかいを持っておるところの一大金剛宝器と申すことができるのであります。皆様は一個一個の金剛宝器であり、学会はその個々の宝器を入れるところの一大金剛宝器であります」と。
 そして″この学会という金剛宝器を乱されず、破られざるよう、よろしく″と、我が青年部を励ましてくださった。
 金剛宝器戒とは御本尊を受持しきっていく実践に備わっていくものであり、この戒によって我が身が金剛宝器となる。その福徳に満ちた生命は、三世にわたって、ダイヤモンド(金剛)のごとく壊れない。
 この尊貴なる仏子の集いであり、正法流布のために出現した創価学会は、それ自体、不壊ふえの一大金剛宝器であると日達上人は教えてくださった。
 はるかなる末法万年への大遠征にあって、学会は絶対に破れてはならない、また絶対に破らせてもならない、かけがえなき「金剛宝器」なのである。誰人であれ、妙法の福徳にあふれた、この尊き″宝器″を壊そうとする罪は計り知れない。反対に、この″宝器″を守り、支えていく功徳も絶大である。
 私どもは妙法に結ばれた兄弟である。同志であり、戦友である。これからも永遠の団結で進みたい。
 そして、裏切りも策謀も悠々と見おろし、鋭く見破りながら、学会という「金剛宝器」のなかで、これ以上はないという最高に楽しい衆生所遊楽しゅじょうしょゆうらくの人生を生き抜いてまいりたい。
19  釈尊は正法、像法、末法の推移を見通していた。大聖人は、末法万年尽未来際を見通しておられる。
 私どもは、「以信代慧いしんだいえ(信を以って慧に代う)」の法理に基づき、御本仏の無量の智慧を、それぞれの信心の強さに従って頂戴ちょうだいすることができる。まことにありがたき大法である。
 末法の大信者たる戸田先生も、その洞察力は実に鋭かった。将来、事件を起こし、多くの同志に迷惑をかけていくであろう存在も、その人の本質を前々から指摘されていた。そう見抜いたうえで、大きく包容しておられた。その事実をいつも側にいた私は明確に知っている。
 ともあれ、この関西文化会館池田講堂に御安置の御本尊は、戸田先生が願主である。そして「大法興隆所願成就」と、おしたためである。すなわち、いかなる時代になろうと、どのような障害が現れようと、この御本尊は、関西の天地における大聖人の仏法の限りなき興隆と、あらゆる願いの成就を、お約束してくださっている。
 ゆえに、この御本尊を根本に、私どもは何ものも恐れる必要はない。何ものを嘆く必要もない。晴れ晴れと、また晴れ晴れと、朗らかに、また朗らかに、幸の行進を続けていけばよいのである。
 最後に、大関西の″錦州城きんしゅうじょう″の、ますますの完璧なる勝利の前進をお祈りし、栄光の「常勝の歴史」を無限につづりゆかれんことを、心から念願して、記念のスピーチを終わらせていただく。

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