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日蓮大聖人・池田大作

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第2回全国青年部幹部会 ″本物の人生″を青年らしく

1988.3.12 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

前後
2  一八六五年の十一月末。小説はもう、ほとんど出来上がっていた。一日も早く出版者に原稿を渡さなければならない。時間的にも、経済的な意味でも、余裕は全くなかった。
 にもかかわらず、彼は何と、書き上げた原稿を、ぜんぶ火に投じて灰にしてしまった。そしてまた新たに書き始めた──。
 「ぼく自身、どうしても気に入らなくなったのです。新しい形式、新しいプランが、ぼくをきつけてしまったのです。そこで改めて、初めからやり直しました」
 彼は旧友への手紙にこう書いている。
 この、どこまでも″本物″を追求してやまない、信念に徹した姿に、私は彼の偉大さを見る。容易にできることではない。この一点を見ても、彼はまさしく″本物の作家″であったと思う。
 名聞も名利も、真実の前にははかない。人に″どう見えるか″ではない。自分が″どうあるか″である。かりに他人はごまかせたとしても、自分はごまかせない。自分自身が納得できない生き方をして、本物の人生を送れるはずがない。
 ドストエフスキーは、インチキはいやだと思った。誰に何と言われようと、たとえ損な生き方のようでも、芸術家としての良心に生きた。芸術こそ、彼の自ら決めた「使命の天地」だったからである。その時、彼の眼中には名利も名聞も消え去っていた。
 本日は芸術部の代表の方々も参加されているが、芸術はもちろんのこととして、人生万般にわたる真実を示唆してくれるエピソードであると思う。
 皆さま方は、それぞれの「使命の天地」で、どこまでも″本物″をきわめゆく″本物の人生″であっていただきたい。
3  ドストエフスキーは、このように、ぎりぎりの苦しみのなかにあって、毅然きぜんとして進んだ。自らの中に、自らの勇気で、日々新たに希望と喜びを見いだしながら、『罪と罰』を一行また一行、一枚また一枚と執筆していった。
 「罪」そして「罰」──生命の本質の課題であり、また社会の不条理とも深くかかわる難問でもある。
 「罪」とは何か? 「罰」とは何か? 人は人を裁く権利を誰ら与えられたというのか? 「力」こそ正義ではないのか? それとも「正義」は他に存在するのか? そのような現世の「力」を超えた正義が存在するなら、人はなぜこんなにも不幸なのか? 人は生まれながらにして宿命づけられた存在なのだろうか?
 彼は根本の課題から目をそらさない。真っ向から取り組み、苦しみながら、自らの心血を、ふりしぼるようにして、不朽ふきゅうの思想を書きのこしていった。売らんかなのみの作家等とは、余りにも違う、尊き姿である。
 彼の労苦の結晶は、一八六六年一月から十二月にかけて、雑誌『ロシア報知』に連載された。この年、彼は四十五歳。発表と同時に、読書界に一大センセーションを巻き起こした。連載中、どこにいっても、この小説は人々の話題の中心であった。そればかりでなく、ヨーロッパ中に好評の旋風せんぷうは広がっていった。
 日本には一八九二年(明治二十五年)、作家・翻訳家で文芸評論家の内田魯庵ろあんによって、英訳から部分訳されたのが、最初の紹介である。以来、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした彼の作品の中でも、最も広く読まれてきている。
 戸田先生は、よく私ども青年に「偉大な世界的小説を読め。徹底して勉強せよ」と厳しく指導された。「御書の拝読は当然として、その上で、人類の偉大な思想的遺産は、みな仏法に通じ、仏法を証明しゆくかてとなる」とも言われていた。
 内容のない低俗な雑誌ばかり読んでいるとすれば、「青年として、あまりにもなさけない」と、嘆かれた。その先生の慨嘆の姿は今もって忘れることができない。
 今は時代も違って、何かとせわしなく、余裕がないかもしれない。また必ずしも古典を勉強しなくてもすむ時代かもしれない。さらには、社会そのものが、″本物″を大切にしない退廃的傾向を増しつつあるといってよい。
 そういう意味では、青年がまっすぐに本格的に成長していくのが困難な時代であるという側面もある。しかし、だからといって、時流に流されては何にもならない。
 また創価学会は、広布のため、人類のために、何としても″本物の人材″を、″一流の人物″を育てあげる以外にない。
 当然、人それぞれの生き方がある。多様性を大事にしなければならない。誰もがのこらず『ドストエフスキー全集』を読破しなければならないとは、絶対に言わない。
 しかし、私は戸田先生の指導通り、懸命に勉強した。それが、今すべて血肉となっている。本当に、ありがたいと思っている。
 その体験の上からも、諸君は、自分自身のために、それぞれの立場で、それぞれの工夫によって、これだけは負けないという徹底した本物の実力を養い、蓄えてほしいと私は期待する。
4  信念に殉ずる覚悟忘るな
 さて後年、次々と傑作を生み出した彼の青春時代は、どうであったか。これまた極限というべき苦難との戦いであった。
 正義感強き青年であった彼は、必然のように、当時の社会主義思想の洗礼を受けた。ペテルブルグという大都会にあって、ロシアのしいたげられた人々の運命に無関心ではいられなかったのである。
 一八四七年の初め頃から、革命思想家ペトラシェフスキーのサークルに出席しはじめている。
 「民衆は、なにゆえに、かくも不幸なのか」「善良な人々が、どうして、このようなドン底の悲惨に苦しまなければならないのか」――青年として、彼は問わずにいられなかった。叫ばずにいられなかった。
 民衆の不幸を眼前にして、手をこまぬいているのは卑怯ひきょうだと思った。その不幸の原因を探究し、彼なりに政治革命の道を選びとった。「誤れる社会を革命しようではないか」「人々が幸福を満喫(まんきつ)できる世の中をつくり上げようではないか」――彼の若き情熱は、たぎった。
 私どもも、戸田先生のもとで、民衆のために立ち上がった。「人類の不幸の根源を断ち切ろう。それには宗教革命しかない」――それは青年としての、やむにやまれぬ正義の叫びであった。
 現在も、日本には、また世界にはなおさら、不幸にあえぐ多くの民衆がいる。″飽食ほうしょく″の名で呼ばれる時代の安逸に流され、その現実から目をふさいではならない。青年として、ただ自己の安楽のみを求めてゆくような小さな生き方であっては、深き価値も充実もない。ひいては何のための人生か、わからない。
 青年よ、正義によって立て。革命の炎を燃やし、崇高なる理想に生きよ──それが戸田先生の願望であった。また大聖人の仏法の精神である。その叫びを受けとめ、身に体した時にこそ、諸君の人生は、果てしない舞台で、無限の力を発揮し、無量無辺の輝きを放ち始めるにちがいない。
5  一八四九年四月、ドストエフスキー達は、国家体制転覆てんぷくはかる政治犯として逮捕される。ペテルブルグ郊外のペテロ・パウロ要塞ようさい監獄に八カ月間、勾留こうりゅう。その後、裁判に連れ出される。裁判の結果は「銃殺刑」。ドストエフスキーは、同志とともに、セミョーノフ練兵(れんぺい)場で、銃口の前に立った。一八四九年十二月二十二日、二十八歳の時である。
 彼はのちに『作家の日記』という作品の中で、この時のことを回想している。
 「我々、ペトラシェフスキー・サークルの同志は、処刑場に立ち、下された判決を聞き終えたが、後悔の念はいささかもなかった。もちろん、私は、全員については証明できない。しかし、あの時、あの瞬間、全員とは言わないにしても、少なくとも我々の大多数の者が、自分の信念を否定することを恥辱ちじょくと思った、そう断言しても間違ってはいないと思う」と。
 彼らは死刑の判決にも、いささかもたじろがなかった。″よろしい、死にましょう!何ものも私の信念をまげることはできない!″と堂々と胸を張っていた。
 信念への「殉教」──これこそ真実の青年の生き方であると私は思う。社会のため、民衆のためには、我が身を犠牲にして、いささかもかえりみない。苦難にも莞爾かんじとして、また炎のごとく進んでいく──。
 何と崇高なことか。何と偉大な人生か。いかなる栄誉の勲章よりも、いかなる栄華の地位よりも、尊く、立派である――と、私は強い強い印象を受けた。
6  ドストエフスキー達の死刑執行は、寸前で取りやめになった。実は、すでに減一等のシベリア流刑と決まっていたのである。それを、皇帝の慈悲によって死刑を免じたのだと強調するために、模擬もぎ死刑という芝居が打たれたのだった。このような人の生命をもてあそぶ権力の傲慢ごうまんは、いつの時代も変わらない。
 先ほど引いた「作家の日記」の続きに、彼はこう記している。
 「最初に我々全員に対して読み上げられた銃殺刑の判決は、ふざけた冗談ごとではなかった。判決を受けた者たちはみんな、その判決が執行されるものだと信じた。そして少なくとも十分間、死を待ち受ける残酷な、底なしの恐怖の時間を耐えた。この最後の数分の間に、我々の中のある者たちは、本能的に自己の内に沈潜し、まだあまりにも若かったその生涯を一瞬のうちにくまなく点検した。そして、いくつかの重苦しい事実を見出して慙愧ざんきしたかもしれない(どんな人間にも、ひそかに良心のトゲとなっている事実があるものである)」と。
 人生をかえりみて、全く後悔がなかったわけではないというのである。それは、その通りであろう。
 「しかし」──と彼は書いている。
 「今この判決を受けることになった事件、我々の精神をとらえたその思想、その考えは、我々にとって、後悔を要しないものであるばかりか、かえって、何か我々をきよめてくれるもの、我々の多くの罪がそれによってゆるされる殉教である、と思われた」と。
 殉教によって清められる生命──この文章の元意ははなはだ深いと言わざるを得ない。
 政治思想への殉教ですら、彼はこう実感している。まして妙法という「生命の大法」への殉教は、正義の中の正義である。真実の中の真実の生き方である。それは宇宙大の功徳に連なり、自身の内奥の宿命を転換する、成仏への大直道である。無量の先祖と、無量の子孫までも回向えこうできる。
 ゆえに青年諸君は断固として、信念の道を一生涯、貫き通してほしい。
7  かつて、国内のある超一流の著名な方と対談した時、その方が言われていた。「いろいろな主義主張はある。言論もある。しかし現実に、自分の信念に殉じ、迫害を恐れず堂々と死んでいける人間が今、日本に何人いるか。おりはしません。私は事実をよく知っています」と。
 その方は、その意味から私自身の生き方を深く見、評価してくださっていた。
 私は戦ってきた。御聖訓のまま、戸田先生への青春の誓いのままに、まっしぐらに走りに走ってきた。ありとあらゆる迫害にも、困難にも、陰謀、裏切りにも、一歩も退かず進んできた。
 永遠から見れば、また大宇宙から見れば、それらはすべてさざ波に過ぎない。ただ人類の未来のために、大法の流布はなしとげなければならない。
 そのために、広布の未来をどうすべきか。学会の将来をどう開くか。その一点にのみ、思いをこらし、祈りを定め、生命をくだいてきた。
 信念に殉じた我が青春と人生に悔いはない。心にいつわりなく進んだゆえに、言葉に言いつくせぬ福徳をいただいた。″得″をえた。純粋なるゆえの″損″もあったが、比較にならぬ生命の宝を得た。
 ドストエフスキー達の思想は、仏法と比べれば部分観に過ぎない。それでも、あれだけの決心で戦った。いわんや大法流布の使命深き諸君である。高貴なる立場にふさわしき、高貴なる決意の人生でなければならないと私は思う。
8  さて、私ども創価学会の歴史を振り返ってみても、昭和十八年(一九四三年)七月、初代会長・牧口常三郎先生、第二代会長・戸田城聖先生が不当な国家権力によって入獄されている。そして牧口先生は昭和十九年十一月十八日、東京拘置所で、その生涯を閉じられた。
 まさに牧口先生は、妙法のために、その尊い生涯を貫かれた殉教の人であった。大聖人の門下として、これほどの素晴らしき人生の生き方はない。護法のために不惜身命の生涯を全うされた牧口先生を、初代会長としていただいている私どもは幸せである。
 牧口先生は、拘置所から家族に送られた手紙に次のように記されている。
 「大聖人様の佐渡のお苦しみをしのぶと何でもありません。過去の業が出て来たのが経文や御書の通りです。
 御本尊様を一生懸命に信じて居(お)れば、次々に色々の故障がでて来るが、皆直(なお)ります」と。
 また、戸田先生は、入獄されたことに対して「法のため、牧口先生は私を獄中にまでもお供させてくださった」と感謝されていた。冗談でも言える言葉ではない。
 牧口先生と戸田先生が、広宣流布のために、自らの命をかけて創立し、築かれた学会は、大聖人の御精神にかなった重大な使命と意義をもつ仏意仏勅の教団である。その恩に不惜身命の広布の実践で応えていこうというのが、後継の道である。にもかかわらず、この大恩ある学会に対して、自分の慢心とエゴから、反逆したり、私どもを苦しめたりすることが、御聖訓に照らし、どれほど罪の重いものか、後継の諸君に、本日は明確に申し上げておきたい。
9  大目的あるところ「逆境」も「希望」に
 ところで政治犯で逮捕されたドストエフスキーは、一八五〇年一月から五四年二月までの四年間、シベリアのオムスクの監獄に送られる。さらに刑期を終えたあと、五九年三月までの五年間、セミパラチンスクのシベリア第七守備大隊で兵役につく。
 しかし、彼は、シベリアで過ごした、二十九歳から三十八歳までの人生の盛りともいうべき九年間を、けっして無為にはしていない。
 つまり、監獄では当然、労役と食事と睡眠を強制される。しかし、その強制的な規則正しい生活によって、彼は、健康を回復し、体を鍛えた。また、獄中等で出会った人々の、さまざまな人生経験を知り、その後の作品に生かしていった。
 ドストエフスキーは、兄ミハイル宛の手紙の中で、次のように述べている。
 「懲役暮らしの中から、民衆のタイプ、その性格をどれほどたくさん持ち出してきたことか!ぼくは連中と一緒になっていましたからね。だからぼくは、彼らのことは相当深く知っていると思います。浮浪人や強盗どもの身上話を、そもそもあらゆる裏街道、人生の悲惨な暮らしのことをどれほど聞いたことか。何巻もの厚い本になるくらいありますよ。実にすばらしい連中でした。要するに、ぼくにとっては、時は空しく失われたのではなかったのです」。
 ドストエフスキーは、シベリアでペンをることは許されていなかった。だが、その逆境の中で、すべてを創作のための財産へと転換していったのである。
10  人生のあらゆる出来事は、それをどうとらえていくかでプラスにもマイナスにもしていける。信心もまたそうである。
 「皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり」──すべて自分の一念に納まった功徳善根であると信心をとっていきなさい──と仰せのごとく、経文を読誦し、香をたき、おしきみを差し上げることも、また、友の激励、指導に歩くことも信心のための行動はすべて功徳となっていく。つまり、妙法を根本とするとき、人生の幸・不幸のあらゆる出来事や行動は、一切が自身の宿命転換と成長への糧となっていくのである。
 私も、信仰のゆえに、ありとあらゆる非難・迫害を受けてきた。しかし、護法の功徳力のゆえに、″三十歳まで生きられれば″という体でありながら、今までこのように健康でご奉公することができた。そして、今は、正法を世界に広め、仏法の思想を世に残す作業に邁進することができる。本当にありがたいことだ。これもいわば、近年の私どもに対する非難や迫害などの難のおかげだと思えば、これほどの喜びはない。
11  戸田先生は、昭和三十二年一月一日の年頭の言葉の中で「希望」について、次のように言われている。
 「過去の偉人をみるのに、人生の苦難、人生の怒涛どとうにも負けずに、凡人よりみれば夢としか思えぬ希望を守りつづけてきているのである。いな、その希望に生ききって、けっして屈しないのである。
 その理由は、希望それじたいが、自己の欲望や利己的なものでなくて、人類の幸福ということが基本的なものになっており、それが非常な確信に満ちていたからではなかろうか」と。
 大いなる目標、偉大な信念と理念に立った人には、常に希望が輝いていく。
 たとえば″あの人と結婚したい″といった願望は、その人のみの大きさでしかない。また、″家をもちたい″とか、″職場で上の立場につきたい″という望みもそれなりの限られた小さな世界の希望でしかない。
 青年はもっと大きな希望や大願に生きるべきである。人類のために、世界のためにという、大いなる希望に生きるとき、力は無限にわいてくる。苦難にも耐え抜くことができる。
 ドストエフスキーも、また、さまざまな人生の苦難に抗しながら、人間を救おうとの自身の希望に生ききったといってよい。
 妙法は永遠の「法」である。ゆえに妙法を受持する人には永遠の希望がある。全人類の幸せのために、世界の平和と安穏のためにという広宣流布の大願に生きること、これほど大きな希望と喜びに輝いた青春はない、人生はない。
12  偉大な苦難が偉大な人間をつくる
 ここで、「土木(とき)殿御返事」(別名・依智<えち>滞在御書)を拝したい。
 「上のせめさせ給うにこそ法華経を信じたる色もあらわれ候へ、月はけてち・しをてみつる事疑なし此れも罰あり必ず徳あるべし・なにしにか・なげかん(中略)御歎きはさる事に候へども・これには一定と本よりして候へば・なげかず候、いままで頸の切れぬこそ本意なく候へ、法華経の御ゆへに過去に頸を・うしないたらば・かかる少身のみにて候べきか、又数数見擯出ととかれて度度失にあたりて重罪をけしてこそ仏にもなり候はんずれば我と苦行をいたす事は心ゆへなり」と。
 すなわち、上(北条幕府)が責めてくれるので、日蓮が法華経の行者であることがはっきり顕れた。月はかけて満ち、潮は引いて満ちることは疑いない。日蓮も罰を受けたから必ず徳を得るのである。どうして嘆くことがあろう。(中略)。皆さん方の御嘆きはもっともであるが、自分としてはもとより、必ずそうなることと覚悟していたことであるから、いまさら嘆いてはいない。今まで頸を切られないでいることこそ残念に思っている。法華経のために過去世にもし頸を切られていたら、今生こんじょうにこうした少身の身は受けなかったであろう。また経文には数数見擯出と説かれており、法華経のためにたびたび御勘気ごかんき(幕府などから罪に付され処罰を受けること)をこうむることによって過去の重罪を消してこそ、仏になれるのであるから、我と我が心から求めて苦行をしているのである――と仰せである。
13  この御文は文永八年(一二七一年)九月十四日、相模の依智(現在の神奈川県厚木市)から、富木常忍にあてられたもので、竜の口法難直後の御心境をしたためられた大変重要な御抄である。
 御執筆当時の模様については、「種種御振舞御書」等に詳しい。同年九月十二日子丑ねうしの時、すなわち真夜中に、大聖人は竜の口の頸の座につかれる。しかし、斬首しようとした平左衛門尉の企てはついに果たすことはできなかった。そして、佐渡流罪に処せられるまでの間滞在されたのが、依智にあった、佐渡の守護代・本間氏のやしきであった。
 師匠が斬首される、流罪に処せられる──こうした状況にあって、富木常忍はじめ門下の嘆きは大変に深刻なものがあったはずである。しかし、大聖人は嘆かれるどころか、″もとより覚悟の上である″″今まで頸を切られないでいることこそ残念である″と、誠に毅然とした崇高な御振る舞いを貫かれている。
 そして重ねて、″今、法のために難にあうことによって成仏できるのだからこれ以上、喜ばしいことはない″″我が心から大難を求めていくのだ″と、門下に対し、御本仏の甚深の御境界から、難に向かわれる信心の姿勢を示されている。
 今、私達には、大聖人御在世当時のような身命に及ぶ大難はないかもしれない。しかし、御聖訓の上から、信心の途上に、さまざまな難が競い起こるのは必定である。苦難にあってこそ本物の信心になっていく。
 諸君は、久遠の昔、それぞれの使命の場に出現し、難に耐えて弘教に進むことを誓った一人一人である。難こそ、自ら願い求めた地涌の信仰者の誉れなのである。
 ゆえに、苦難を恐れてはならない。難にあい、どのような苦悩の暗闇に包まれたとしても、諸君の胸中には″福光の太陽″が必ず昇りゆくのである。″十の苦悩″があれば″百の福光の太陽″が昇る。厳しき″百の宿命″との戦いは、″千の歓喜の福徳の太陽″と輝く──これが信心である。
 仏法は仏となる道である。信心はそのための修行である。仏を「世雄せおう」ともいうごとく、諸君は潔い信心を貫いて、あらゆる面で自身の可能性を開きながら、″社会の英雄″″生活の上での英雄″″庶民の英雄″となっていただきたい。
14  嵐に揺るがぬ後継の大樹と
 広宣流布と令法久住という日蓮大聖人の御遺命を受けられ、厳然と正法正義の法灯を引き継がれたのは、いうまでもなく、日興上人、日目上人であられた。
 大聖人が聖寿六十一歳で御入滅された弘安五年(一二八二年)、日興上人は三十七歳、日目上人は二十三歳であられた。ともに、大聖人から後世の一切を託され、未来に生きゆくお姿であったといってよい。
 一方、この年、南条時光は、二十四歳。ここに集った諸君と同じく、将来を嘱望されたはつらつたる青年であった。当時、外護に赤誠を尽くす門下らも、少なからぬ若き人材群が活躍を始めるようになっていたようだ。
 先日も少々申し上げたことだが、御入滅を前にされた大聖人にとって、心から信頼できる後継の門下の成長こそ、何よりの喜びであられたにちがいない。また大聖人は、その成長を、千秋の思いで待ち望んでおられたことであろう。私には、その深き御心が、しみじみと感じられてならない。
15  大聖人御入滅後に、正法に敵対する違背の者が出来しゅったいするであろうことは、むろん、三世を通暁つうぎょうされた御本仏の御境界には、明白に映しだされていた。
 それは、「地頭の不法ならん時は我も住むまじき」──地頭の波木井はきりが正法にそむいた時には、我が魂も身延には住まない──との大聖人の御遺言を、日興上人が伝えておられることからも、うかがうことができる。
 だからこそ大聖人は、万代の広布のために、たとえ少人数であっても、絶対に信頼できる門下の″核″を、全魂を込め、育成されていたと拝察される。
 大聖人が御入滅になられる年の一月、身延の山中には、雪が降り続き、三日間で雪は、一丈(約三メートル)にも及んだ。木こりでさえ、山に入らず、庵室あんしつを訪れるのは、鳥と鹿ばかりであったという。厳寒のなか、食べ物の蓄えも尽きていた。
 そこに、南条時光の使者が訪れ、種々の御供養を持参した。そのさい、添えられていたお手紙は、その折、南条家に滞在中の日興上人が、時光の代わりに筆を執られたものであった。それに対する御返事が「春初はるのはじめ御消息」である。
 その冒頭、大聖人は、次のように仰せになっている。
 「ははき伯耆殿かきて候事・よろこびいりて候。春の初の御悦び木に花のさくがごとく・山に草のおい出ずるがごとしと我も人も悦び入つて候
 ──伯耆(ほうき)殿(日興上人)が、この手紙を書かれたことを、大変に喜んでおります。春のはじめ(新春)のお喜びは、木に花の咲くように、山に草が萌えいずるように、我も人も、喜ばしいことです──と。
 大学匠がくしょうであられた日亨上人は、この一文を拝されて、こうした「些細(ささい)の事にも師弟の情愛が率直に顕はれてる」と述べられている。
 些細といえば、些細なことである。達筆であられた日興上人が、余り達筆ではなかった時光のために、代筆をされた。この、一見、何でもないようなことを、大聖人は、わざわざ記されている。
 当時、富士・駿河地方は、障魔の嵐渦巻く、三類の強敵との苛烈な″いくさの場″であった。懐かしい文字を目にされ、大聖人がことのほか喜ばれた背景には、そこで、広布のため、同志のため、陣頭指揮で奮闘されていた日興上人へのねぎらいの御心が、私には拝される。
 とともに、雪中の大聖人を少しでもお守り申し上げたいとの真心の品々に添えられた、日興上人の筆になるお手紙。そこには、日興上人と時光との、僧俗の一体となった凛然りんぜんたる「後継の心」がみなぎっていたことであろう。その麗しく清らかな門下の心根と団結の絆を、大聖人は、とりわけお喜びになったに相違そういない。
 ここに、理想的な僧俗和合の一つの源流があったと、私は見たい。
 大聖人の御薫陶のもと、僧侶方にも、そして外護の門下にも、若き後継の青年が、陸続と育ち、活躍を始めていた。「花のさくがごとく」「草の生出ずるがごとし」との御文には、そうした、はつらつたる俊英の乱舞の姿を、心から喜ばれている大聖人の御心がしのばれよう。
16  この御手紙の追伸には「返返ははき殿一一によみきかせまいらせ候へ」──くれぐれも伯耆殿(日興上人)が一人一人に読み、聞かせてあげてください──と仰せである。
 つまり、大聖人へのお手紙に、日興上人が代筆の労をとってさしあげたように、この御返事も、日興上人が皆に聞かせてあげてください。意とするところが伝わるように、との実にこまやかな御心づかいであると拝する。
 ここにも私は、日興上人と、門下一人一人との心の「絆」を何より重視されていた大聖人の御心が、しのばれてならない。
 とくに、日興上人と南条時光との心の紐帯ちゅうたいは、やがて、総本山大石寺の開創へとつながる。この大切な僧俗の絆を、大聖人は、最後の最後まで、はぐくまれ、見守っておられた。
17  三十年前(昭和三十三年、一九五八年)、「3・16」の儀式で、戸田先生は、青年に一切の後継のバトンを託された。その戸田先生に、日淳上人は、次の和歌をお贈りくださった。
 「わくら葉の かげに若芽の 見ゆるかな 春のひざしの めぐみにぞこそ」
 「わくら葉」とは、盛りを過ぎ、色が変わった古い葉のことである。病あつき戸田先生を指している。その背後にはつらつたる姿を見せる「若芽」とは、私をはじめ後継の青年達のことであったのであろう。
 また、戸田先生逝去の後、日達上人も、「師の人を 送る若人 若草ゆ」との句を詠(よ)んでくださった。
 いずれも、戸田先生が、未来の俊逸を心血を注ぎ育成されていたことを心からたたえ、うたってくださったにちがいない。
 まさに、こうした爛漫らんまんたる後継の人材群の開花の姿こそ、青年をこよなく愛し、はぐくまれた戸田先生の、生涯の凱歌の証(あかし)であり、最高の誉れであった。また、その後の広布と学会の「勝利」と「栄光」の歴史の源泉となった。
18  未来を担う人材の育成。何よりも大切なこの課題のために、私もこれまで、力を注ぎに注いできたつもりである。その間、広布と学会の前進にとって厳しき逆境の風吹く″冬の時代″もあった。私は、同志を守り、広布の組織を守るために、懸命に戦った。
 そして今や、冷たき″冬の時代″は去った。暖かな日差しとともに、若芽が一気に芽吹き、若草が躍り出す、陽光さんたる″人材の春″が訪れた。いよいよ、無数の後継の若木が林立し、限りなく伸びゆく、まばゆくも晴れがましい時代が到来したのである。
 厳冬のさなかにあっても、私は一人、この″春″の巡り来ることを、確信していた。いな、輝かしい″春″の到来と飛躍のためにこそ、厳寒の時が必要であることを知悉ちしつしていたがゆえに、いかなる嵐や迫害の怒涛にもたじろぐことはなかった。ただ悠然と、堂々と、この日のための土壌づくりに我が心を注いできた。
 ともあれ、広布の舞台は、大きく転換した。諸君は今こそ、法のため、同志のために、存分に汗を流し、大樹と育っていただきたい。その伸びゆく若き生命には、いかなる嵐も、成長への滋養となり、財宝となる。
19   ところで、「3・16」の儀式を終えられた戸田先生は、理境坊でしばし休息をとられた。その時、ある最高幹部が、「これからの学会の前進のために大事なことは」と質問した。
 先生は、言下に、「次の会長を、全魂込めて、皆で守ることだ」と答えられた。
 そして、「その会長を中心に、仲良く生き抜いていきなさい。広宣流布の途上には、御聖訓に照らし、様々な非難、やきもちがある。しかし、学会っ子は、どんなにいじめられても、また仮に、学会が小さな存在になっても、決して挫折があってはならない。絶えず、前へ進むことだ。追撃の手をゆるめてはいけない。学会は、幾百千年を生き抜いていきなさい」
 さらに「学会は、本当に信頼できる人間の『絆』で、どこまでも仲良く進んでいってほしい」と。
 信頼の「心」と「心」で結ばれた、異体同心の団結。ここに、戸田先生の心があり、学会精神の真髄があった。
 幹部であっても、いつのまにか、信心を忘れ、妙法の正道を外れていった退転の徒は、この先生の深い心が分からなかった。ゆえに、信仰の年数を増すとともに、徐々に「慢」の心が高じて、信心が手前勝手となり、麗しい団結の心を無くしていったのである。
20  今に輝く大聖人の若き門下の″絆″
 さて、日興上人、日目上人、さらには南条時光の世代による僧俗一体の法戦は、大聖人御入滅後、実に五十年以上の長きにわたって展開された。その間に、大石寺創建をはじめ、永遠に崩れざる令法久住のいしずえが築かれたのである。
 そうした門下の活躍の源泉は、御在世当時の大聖人の御薫陶にあったことは、いうまでもない。ここでは、御在世中の、日目上人の修行と活躍の御姿について、少々、述べておきたい。
 第三祖日目上人が、大聖人の御もとで、修行に励まれたのは、御年十七歳から二十三歳までの七年間であられた。決して長い期間とはいえない。しかし、その間の修練は、徹底、かつ透徹したものであった。その実践の御様子について、日亨上人は、次のように記しておられる。
 「目師はいちじるしく行体堅固で、大聖人への薪水しんすいの労をとられるときは毎日幾度いくたびか身延の谷河に下りて水をんでは、こうべにそのおけをいただきて運ばれたので、自然に頭顱とうろ(頭のこと)がくぼんだ」と。
 その御様子は、御影像みえいぞうにもあらわしてあると、日亨上人は、続いて述べられている。
 そうした労苦をいとわぬ常随給仕じょうずいきゅうじに励まれるとともに、日目上人は、「御説法に聴聞せざることなしこれよって習学せざることもまた暁了ぎょうりょうしたまへり」(「家中抄」)といわれる。つまり、大聖人の御指南を一言ももらさず、若き生命に刻みつけるように、一心に聴聞された。そこから、どんなことでも理解し、解了げりょうしゆくための無限の智を薫発くんぱつしていかれたのである。
21  日目上人は、日ごろから寡黙かもくであられたようだ。いつも黙々と修学に励まれ、人知れぬ御努力を重ねておられた。大聖人は、その研さんの御姿を、じっと見守っておられた。
 弘安五年秋、大聖人御入滅の直前のことである。池上へ向かう道中、大聖人のもとへ、幕府の要人・二階堂伊勢守の子で叡山の学僧であった伊勢法印が、四十人もの配下を引き連れ、押しかけてきた。
 そして親の威光を振りかざしつつ、「聖人と問答申すべし」と、法論を挑んできた。大聖人は、このころすでに御病体でもあられた。
 その時、大聖人は、悠揚と、一言、「郷公きょうこう(日目上人のこと)問答せよ」と命ぜられた。こうして、弱冠二十三歳の日目上人が、大聖人の御名代として、伊勢法印に立ち向かわれた。そして十番の問答に一つ一つ相手を論破し、完膚かんぷなきまでに破折し、屈伏せしめた。
 その様子を聞かれた大聖人は、「さればこそ日蓮が見知りてこそ郷公をば出だしけれ」と、莞爾かんじとして仰せになった──。
 日目上人は、地道に積み重ねてこられた努力と精進の成果をいかんなく発揮され、すべてを厳然と守られた。これまで掌中しょうちゅうの珠のごとく、はぐくんでこられた若き門下の堂々たる雄姿を、御入滅を前にされた大聖人が、どれほどお喜びになられたか。その御心情を拝察するたびに、熱き思いが私の胸に迫ってくる。恐らくは、後継育成の責務は果たせたとの、深き安堵あんどの御心ではなかったか。
22  徹した努力の人に最期の勝利
 ともあれ、「真面目」と「努力」に徹した人ほど強い者はない。どこまでも地道な歩みを貫いた人に、人生最終の栄冠は輝く。
 反対に、人の前では、いかに格好を繕っても、堅実な努力と精進のない人には、人間としての勝利も、前進もない。表面的な華やかな世界に、偉大な人間性の開花はない。
 とりわけ、信心の世界は峻厳である。いかに表面は華やかに振る舞い、頑張っているように見せても、日々の信心の鍛えなき人は、必ずや悪知識に敗れ、滅んでいく。この事実は、諸君が見聞してきた通りである。
 絶えず自身の信心を磨き、着実な自己研さんと努力の歩みを進める──ここに信仰者としての本来の姿があるといってよい。
 日目上人は、日々の真剣な精進の結実として、池上での問答に見事な勝利を示された。大聖人門下としての誉れであられたにちがいない。
 むろん次元は異なるが、私どもにとって信心の誉れとは、それぞれの立場で、正法の実証を示し、周囲に揺るぎない共感の輪を広げきっていくことにほかならない。
 たとえば芸術部員なら芸術の世界で″やっぱり、あの人は違う。さすがだ″といわれる人に。学術部員やドクター部員も同じである。また、社会人は社会人として、学生は学生として、壮年は壮年として、婦人は婦人として、″さすが信仰者は、本当に素晴らしい″と、人々にいわれることである。
 ともあれ、社会での人気や有名も、自分自身の名聞名利のためのみであっては、広布にはつながらない。常に根底に、尊き仏子を守り、人類の幸福を推進していくのだ、との深い正義の心がなければならない。その透徹した信心こそ肝要なのである。
23  終わりに、諸君の手により、全国で繰り広げられている教学運動も、地道ではあるが、広布のため、未来のために、まことに重要な活動である。これだけの高水準の研究が、これだけの規模で行われたことは、かつてなかったといってよい。本当にうれしいことである。この誉れある運動のますますの進展を、私は心から祈りたい。
 そして、無限の可能性を秘めた諸君が、天空にそびえたつ、嵐にも揺るがぬ使命の「大樹」へと育ちゆくことを念願して、本日のスピーチとさせていただく。

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