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日蓮大聖人・池田大作

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第1回多摩川圏記念総会 人生の凱歌を信心で飾れ

1988.2.28 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

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2  さて、本日はまず「多摩川」について、少々、ふれておきたい。多摩川の地域で活躍され、多摩川のことはよくご存じの皆さまには必要のないことかもしれないが、多くの全国の同志や海外の友のために、この席をかりて話をしておきたい。
 多摩川と聞くと本当に懐かしいし、大好きだ。私は若き日を多摩川の清流とともに育った。よく泳ぎに行ったし、魚つりもした。今でも床に就いて″ああ、あのときの多摩川は″と思い起こすことがある。
 多摩川は、荒川とともに、古来から武蔵の二大河川として知られていた。その源は、山梨県の笠取山に発し、私もよくお世話になる羽田空港の南側で東京湾に注いでいる。全長は百三十八キロ。上流では「丹波たば川」と呼ばれ、中流は「多摩川」、下流では「六郷ろくごう川」とも呼ばれている。
3  「万葉集」にも、多摩川をうたった歌がある。
 「多摩川に さら手作てづくり さらさらに 何(なに)ぞこのの ここだかなしき」
 万葉の時代、若い乙女らが手で織った布を多摩川の水にさらしている。清流にさらされた手作りの布。その布のように、さらにさらに、どうして、この乙女がこんなにかわいいのか、というのである。
 こうした歌が、多摩川の清流で、手織りの布を洗う労働のさいに、よく歌われたという。
 多摩川は、まことに水のきれいな川であった。水のきれいなところの人々の心は美しく、美人も多いといわれる。多摩川圏の皆さまを拝見していても、″なるほど″と思える方も見受けられるようだが……。
 明治の末期、日本を訪れ、多摩川の鮎漁について世界に紹介した魚類学の世界的権威ヨルダン博士は「多摩川とは『宝石の川』という意味で、これほど澄んだ水はみたことがない」とたたえていたことが「立川市史・下巻」に紹介されている。
 今は、その清らかさも薄れ、残念でならないが、多摩川の清流で育つ鮎は、味もよく、香りも素晴らしいとされ、江戸時代には、御用鮎として将軍家に献上されていたという。
4  多摩川といえば、若き日に、「富士宗学要集」に収められた日寛上人の教えを拝して、釈尊と日蓮大聖人がそれぞれ、霊鷲山と身延山の丑寅うしとら(東北)の方角に当たる川のほとりで御入滅されていることを知り、仏法の不思議さに、感銘を深くしたことを覚えている。
 日寛上人は、大聖人が身延ではなく、池上の地で御入滅されたことにふれられて「祖義立の八相」の中で、次のように述べられている。
 「れ釈尊は、霊鷲山において妙法を演説し、霊山のうしとらに当る跋提河ばつだいがほとり、沙羅林しゃらりんにして入滅したまえり。聖人は身延山に於て、妙法を講誦こうじゅし、延山のうしとらに当る田波河たまがわ(多摩川)の辺り、池上むらにして寂に帰す。古今道同じく、まさ所以ゆえあるべし」と。
 つまり、釈尊が霊鷲山の東北に当たる跋提河のほとりの沙羅林で入滅されたように、大聖人も身延山の東北に当たる多摩川のほとり池上で御入滅された。ここに一つの仏法上の不思議なる法理があることを述べられているのである。
5  正法受持の人には臨終に千仏が来迎
 さて、人生の総決算の時とは、いうまでもなく「臨終」である。正法受持の歓喜の人生は、必ずや安穏の臨終となり、正法誹謗の人は、悔悟と苦しみの最期となる。これは峻厳なる因果の理法に照らし、また、私の四十年間にわたる体験のうえから、歴然たる事実である。
 この点について、日蓮大聖人は、まことに明快に説かれている。
 たとえば、臨終にさいし、私どもを守護するのは、諸天善神のみではない。もったいなくも御本仏・日蓮大聖人御自ら迎えてくださると仰せである。
 さらに「釈迦・多宝・十方の諸仏」、また「一仏二仏に非ず百仏二百仏に非ず千仏まで来迎し手を取り給はん」とまで仰せられている。
 死を迎えた私達を、一仏や二仏でなく、百仏や二百仏でもなく、なんと「千仏」が迎え、手をとってくださるというのである。仏の限りなき慈悲の光に包まれた、荘厳なる臨終の儀式であり、これほど有り難き人生の総仕上げはないであろう。
6  この点に関して、戸田先生は、次のように講義されている。「なんで千仏来迎の法華経の経文を、大聖人様がお引きあそばしたのかというと、これは念仏宗に対する憤(いきどお)りがあるからです。(中略)念仏宗は西方浄土に阿弥陀仏がいて、人が死んだならば、観音菩薩、勢至せいし菩薩が雲に乗って助けにくる、西方浄土へ連れにくるというのが、浄土三部経の精神であります。もちろん、これはデタラメです」
 本当に、念仏の教えは幼稚であり、低次元といわざるをえない。″雲にのって菩薩が迎えに来る″などというのは、子供だましに等しい。きょうみたいに雲のない快晴であれば、迎えにこられないではないか。しかし、大聖人御在世当時は、念仏が民衆の間に広く浸透し、心をむしばんでいた。そうした現実に対し大聖人は、心の底から憤られ、厳然と念仏を破折された。そうした御本仏の御心情を、戸田先生は鋭くとらえておられる。
 戸田先生は続けて、「ところが法華経の勧発品かんぼっぽんにあるのは、そんななまやさしい仏教理論ではなくて、南無妙法蓮華経と唱える者には、一仏二仏にあらず、千仏もくるべしというのは、阿弥陀経に対する戦闘的精神のあらわれです。(中略)念仏宗ではただの一仏もこない。一仏の家来が二人くるにすぎない。しかし南無妙法蓮華経と唱えれば千仏もくる。しかも、それは家来ではなくて、ほんとうの仏がくるのですから、間違いはないとの仰せです」と述べられている。
 大聖人の仏法の偉大さと、念仏の余りにも貧弱な教えとの対照を、実に分かりやすく示してくださっている。
 この「千仏」の深義について、「御義口伝」には次のように仰せである。
 「法華経の行者は命終して成仏す可し是人命終為千仏授手の文是なり、千仏とは千如の法門なり謗法の人は獄卒ごくそつ来迎らいごうし法華経の行者は千仏来迎し給うべし
 ──御本尊を信じ、実践した人は、命が終わって成仏することは間違いない。普賢菩薩勧発品第二十八の「是の人命終せば、千仏の手(みて)を授けて」の文が、その依文である。この「千仏」というのは、「百界千如」、一念三千の「千如の法門」を意味している。すなわち、我が生命の因果の理法をいうのである。謗法の人は、死ぬ時には地獄の獄卒が来迎し、御本尊を信ずる人は千仏が来迎するのである──と。
 「千仏」の来迎と「獄卒」の来迎。この対照に示されるように、正法の人と謗法の徒の末期まつごの相違は、まことに峻厳である。
 妙法受持の人、弘法・弘教の人、護法の人々には、御本尊の絶対の加護がある。すべてが、三世にわたる無上の福徳となって輝く。臨終のさいには、善業の一切が妙法に照らされ「千仏」の力用となって生命を荘厳し、飾っていく。
 それに対し誹謗の徒は、正信の人に敵対したすべての言動が、そのまま自身への呵責かしゃく、苦しみとなって臨終を迎える。そして、永遠の業苦へと駆り立てられる。
 この歴然たる功徳と罰を、それぞれ「千仏来迎」「獄卒来迎」と仰せになったと拝されよう。
 また大聖人は、「千仏とは千如の法門なり」と仰せである。つまり「千仏」の意義を、一念三千の生命観のうえから「千如」として位置づけておられる。
 一念三千の法門のなかでも、千如は、依正の二報のうちの「正報」に当たり、我が身の因果の理法と考えられる。
 ゆえに「千仏来迎」とは、広布のために走り抜いた振る舞いが、すべて善根となり、自身の成仏の因となって、現実に見事な成仏の姿を表すことができるという意義となる。
7  次元は少々異なるが、がん患者など多くの人の臨終に立ち会ってきたある医学者が、実感を込めて語った次の言葉が忘れられない。
 「人間は、生きてきたようにしか死ねない」──。
 「死」は、良かれ悪しかれ、すべての人にとって人生の総決算である。生きてきた軌跡がそのまま、結実として表れてくるのが「死」の姿なのである。
 その点について、トインビー博士は「生と死、生きることと死ぬことの間の関係」として、次のように書き残している。
 「人生に別れを告げる瞬間において、人間として可能なかぎり、きれいな精神の勘定書を手に入れておきたい」「誰かに対して悪意を持っている限り、私は不安でならない。悪意がてきれない時には何とか寝に就く前に、そこからきれいになろうとする。悪意に汚れたまま、その夜のうちに死ぬといけないからである」
 トインビー博士は、仏法の因果律を知悉ちしつしていたわけではない。しかし、さすが一流の生き方を貫いた一級の知性である。仏法の生命論、因果論にも相通ずる深き人生観、生命観をもたれていたようだ。
8  日寛上人は「臨終用心抄」で、断末魔の苦しみに関して仏典を引きつつ、次のように仰せである。
 「人の為に言を発し他人を譏刺(きし)することを好み、実不実にしたがって人の心を傷切しょうせつするは当に風刀の苦を招くべき也」
 つまり、人に何か悪意をもってものを言い、人をそしることを好み、真実であろうとなかろうと人の心を傷つけてきた者は、それが因となって、臨終のさい、全身の各所を鋭い刀で刺し刻まれるような断末魔の苦しみを味わう、というのである。このように生命の因果は、一般の悪口の場合においても峻厳である。
 いわんや、正法ならびに正法受持の人を軽賎憎嫉きょうせんぞうしつし、非難し、苦しめた場合には、はるかに厳しき因果となり、厳罰をこうむらざるをえない。御書に「一業引多生」(一業は多生を引く)、また「順次生じゅんじしょうに必ず地獄に堕つ」等と仰せのごとく、謗法の徒は、無数劫にわたって苦しみ、嘆き続けなければならない。
 臨終のさいの「獄卒の来迎」とは、その果てしない苦しみの始まりといえよう。
 「謗法の人は獄卒ごくそつ来迎らいごうし法華経の行者は千仏来迎し給うべし」との法理を、皆さま方は、よくよくわきまえ、生涯を、常楽我浄の見事な実証で完結させていただきたい。
9  崇高な目的に生きよ
 話は元にもどるが、多摩川圏は、地域的には狛江こまえ市と調布市からなる。そこで、「狛江」と「調布」の地名の由来にもふれておきたい。
 「狛江」については、一説によると、紀元前一世紀から紀元七世紀まで朝鮮半島に「高句麗こうくり」という国があった。この高句麗からの帰化人、すなわち「高麗こま人」が、五世紀のはじめにこの地に定住したことから、由来すると言われている。
 また「調布」の地名だが、歴史上有名な「大化の改新」で「」「よう」「調ちょう」の税制が施行されたが、そのさいこの地では「調」すなわち現物で納める租税として、「布」をささげていたところから「調布」の名がつけられたようだ。
 狛江と調布は、いずれも多摩川の流れに沿った「緑」と「水」の豊かな地域である。この多摩川は、″玉のように美しい川″との意からか「玉川」とも呼ばれた。「玉川」という名の川は全国に大きく六カ所ある。この調布と狛江を流れる「玉川」をはじめ、京都、大阪、滋賀、和歌山そして、東北の宮城にこの名の川があり、「六玉川」と総称されている。
10  また「玉川」という言葉は歌枕としても用いられる、たいへんに風情ふぜいのある言葉でもある。
 日蓮大聖人も「聖愚問答抄」で、釈尊の出家の様子を述べられるさいに、日本の人々にもわかるように「玉川」という言葉を使われて、釈尊の離宮の美しさを表現されている。
 それは、「南には泉の色・白たへにしてかの玉川の卯の華信太の森しのだのもりほととぎす子規夏のすがたを顕はせり」──南には泉が白々とわき、清らかな玉川の川辺に咲くの花、信太しのだの森に鳴くほととぎすのごとく、すべてが夏のたたずまいをあらわしていた──との御文である。
 釈尊が出家を決意された時のことである。父・浄飯王じょうぼんのうは釈尊の出家を何とかやめさせたいと思い、四方に四季折々の見事な景観を配した離宮をつくり、釈尊の心をつなぎとめようとした。「聖愚問答抄」のこの一節は、その南の離宮の夏の様子を、大聖人が日本人の美感にあわせて表現されたものである。
 だが、こうした美しい景色も、真実の道を求めんとする青年・釈尊の心を満たすことはできなかった。釈尊は、父王の切なる願いをふりすて、自ら決めた出家の道を選んだ。そして、ついには自らの覚知した法の力によって、父母を成仏に導き、根底から救いゆく、真の報恩を尽くされたわけである。
 釈尊が出家したのは十九歳の青年のときであった。釈尊の胸中には、悩める民衆を救いゆく求道の情熱と信念が、あふれんばかりに輝きを放っていたにちがいない。
 財産や地位、名誉、また安穏な生活など一切をなげうって、自らの道を進みゆこうとした青年釈尊。私は、ここに青年としての生き方が象徴的に示されているように思う。
 青年の生き方は、様々な角度でとらえることができるが、ともあれ″人々のために″″社会のために″″法のために″との崇高な強き求道と信念をもった人は、まばゆき青春の光彩がある。決定(けつじょう)した一念をもつことほど人を強くするものはない。また、「信念」に貫かれた人生は「尊く」「荘厳」である。どうか若き青年部の諸君は、社会と人々のために″自分はこのように生きた″と胸を張っていえる、人生であっていただきたい。
11  戸田先生は、会長就任後まもなく次のような歌を詠(よ)まれている。
 「春の花 秋の紅葉もみじも なにかせん 広宣流布に われは征くなり」と──。
 広布という大いなる理想に向かってひたすらに生き抜かれた先生の熱き心情が、胸に迫ってくる。もとよりこの歌は、自然をでる心や四季の移り変わりを味わう心のゆとりを否定しているのではない。崇高な信念、理想に生きゆく心の姿勢を示されたものである。
 キッシンジャー博士との対談の時にも、多忙ということについて笑いながら語り合った。芸術にしろ、自然界の風情にしろ、時間の余裕がないから深く味わえないというものではない。多忙のなかに見いだした自然の″輝き″や″素晴らしさ″、また芸術作品から受ける″印象″や″直観″が新鮮で鮮烈な出あいをもたらすことも、多いのではないか──と。
 崇高な目的のために、自らの人生を精いっぱいに生き抜いている人ほど、すべてを人生の「醍醐味だいごみ」に変えていく。ましてや、私どもは信心によって生命を磨き、境涯を深めている。折々にふれる自然や芸術の美に対しても、深い味わいをもつ人生でありたいものである。
12  苦難の偉業は後世が証明
 また、調布の歴史をひもとく時、明治四年(一八七一年)に完成した「深大寺用水」の事業が有名であるが、この事業は、中西駿郎氏の「調布市の歴史」(「多摩の歴史5」所収)によれば、次のようなものであった。
13  「そもそも深大寺の用水は、当時の深大寺村ほか八カ村、後の神代村一帯を潤すために引かれたでん用水、いわゆる農業用水である。
 ではなぜ、この用水が明治になって必要になったのだろうか? それは、安政(あんせい)二年(一八五五年)十月二日のいわゆる安政の地震が直接の原因になった。それまでは、深大寺村字野ケ谷のがやには、いつも水が絶えることのない「釜」と呼ばれる池沼があって、この大量のわき水が野ケ谷から、金子、大町、覚東がくとうまでの水田を養っていた。それが一夜にして釜の口をふさいでしまい、水稲は全滅した。翌年も、翌々年も、釜の口はついに開かなかった。何とかしなければ……、水をどこからでもいい、引っぱってこなければ……。時に明治三年(一八七〇年)十二月、時の深大寺村名主、富沢松之助、当年二十六歳は村人一同を集めて協議の末、隣村野崎村まで来ていた砂川用水の余水をとることに一決した。松之助は直ちに品川県に出願、翌四年(一八七一年)五月には、民部省土木局らの踏査を経て許可が出た。
 工事は即刻、開始された。彼、富沢松之助の自筆メモによれば、砂川村樋尻といじりから梶野新田まで十四キロ弱は、わずか二日間で掘り増し、掘りざらえを終わり、梶野新田より野崎村までの約五・五キロは、幅一・二メートル、深さ一メートル強に、七日間で掘り割りし、深大寺組合内は人海作戦をとり、トンネル、築土手、川敷埋立など、約十日間であらましの工事を完成した。実に、着工以来、わずか二十日間というフルスピードぶりであった。
 しかし、その間の企画中心人物たちの精神的、物質的苦悩は大変なものであった。「来るか来るかと松之助、水が来ないで頭角右衛門」。これは、深大寺村名主、富沢松之助と、柴崎村名主、佐保田角右衛門とのイライラを歌い茶化ちゃかしたものである。物質的にも、松之助は田畑六反歩、屋敷内の杉の大木などが金にかえられ、かつては、小判の土用しをしたといわれるほどの豪農の蓄財も、いつか消え去っていた。松之助の、「生命いのちが終わるか、身上(財産)が終わるか」という口ぐせは、この間の事情を物語って余りある──。
14  深大寺用水を手がけた名主・富沢松之助のように、人々のために一生懸命尽くそうとすれば、必ずといってよいほど嘲笑ちょうしょうし、軽蔑する人間が出てくる。ある意味で世の中は冷たいものだし、人の心はこわいものだ。
 学会も、これまで、どれほど嘲笑と迫害の嵐にあってきたことか。しかし、それらの烈風を前進への追い風として、今日の未曽有の発展をなしとげてきた。この事実こそ、私どもの信心、広布の実践が正しかったことの確かなる証左である。そして、我々を軽蔑し、非難して、退転していった卑劣なやからは、仏法の厳しき因果を証明するごとく、あわれな人生の末路となっていることも事実である。
 ともかく、松之助は、さまざまな苦難を乗り越えて、用水事業を完遂する。人々は最大の感謝をもって功績をたたえ、その名を後世に残した。
 広宣流布という未聞の大事業にあっても、皆さま方の日々の労苦はまことに地道であるかもしれない。また歴史の表面には出ないかもしれない。しかし、これ以上の未来への貢献の道はないし、三世永遠の旅路の中で、必ずや自分自身を飾り、凱歌と満足の人生となっていけるにちがいない。
 その妙法の厳然たる因果律を深く確信し、一段と清らかな信心を貫いていただきたいと申し上げ、本日のスピーチとさせていただく。

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