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日蓮大聖人・池田大作

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第1回茨城県記念総会 学会は人生蘇生の学舎

1988.2.27 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

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1  境涯を広々と信心の「直通」を
 本日は、遠いところ、また寒いなか、このようにご参集され、本当にご苦労さまと申し上げたい。
 首都圏にあっても、茨城は重要な広布の地である。また、お一人お一人力ある人材の方も多いし、組織的にも大いなる発展の力を秘めている。どうか、林康磨県長を中心に、仲良く団結し、″関東の雄″としての前進をお願いしたい。
 今後の発展と団結の前進のために、組織の長として銘記しておかねばならない点を申し上げておきたい。
 とくに壮年部の方は、夫婦で幹部として活動に励んでいる場合、次の点に留意するよう戸田先生はよく指導されていた。
 「夫婦だから、当然、奥さんからさまざまなことを聞くだろう。しかし、奥さんから私的に意見を聞くことと、聞いたことを行動に移すことは区別しなければいけない。反対に、婦人部からの意見はよく聞き、聞いたならば、ただちに解決のための行動をとらなくてはならない」と。
 細かなことと思うかもしれないが、こうした活動の基本、信心のポイントを、戸田先生は一つ一つ教えてくださった。組織の長の立場にある幹部の方々にとって、決してないがしろにしてはならない大事な点である。
2  今日は、東京創価小学校で「児童祭」が行われた。昨日、子供達と話をする機会があり、そのとき「あすは雪でも降るといいね」と言ってしまったが……。皆さまには、雪のなか、ご苦労さまと重ねて申し上げたい。
 日蓮大聖人は「道のとをきに心ざしのあらわるるにや」と仰せである。──はるばるやってこられた道の遠さに、信心のこころざしがあらわれるのであろうか──と。
 この御文は、佐渡まで大聖人をお訪ねした乙御前の母の求道の信心をたたえられたものである。
 信心のために「行動」したことは、すべて自分自身の功徳、福運となって輝いていく。
 妙法の因果は厳然である。皆さま方は「広布」のために「働き」、「法」のため、悩める「友」のために「行動」しておられる。それらの「行動」「働き」は、すべて宿命転換に通じ、功徳となって自分自身に帰ってくることを確信されたい。
 永遠の生命からみるとき、信心の世界には一つのムダもない。それは私の四十年間の信心からも確信をもって断言できる。これまで私は、さまざまな迫害や苦難を受けてきた。しかし信心のうえでの苦難は「変毒為薬」の法理で、それらを経るごとに病弱の宿命の転換、境涯の深化、拡大へと通じていった。
 境涯が広いとは、たとえていえば庭が広いことであり、そこには人生を飾る、さまざまなものを植えることができる。
 どうか、茨城の皆さまは、「広布」のため、「法」のため、そして悩める「友」のために動き、走りながら、限りなく、広々と豊かな自身の境涯を築いていただきたい。
3  さて茨城の旧国名は「常陸ひたち」と呼ばれた。この「常陸ひたち」の由来には諸説があるが、一説には「直通ひたみち」からきているといわれる。すなわち″道が直通に続いている″との意味である。
 現代も茨城県は、交通網の整備も進み、東京中心部との連携を密にしながら「自立都市圏」として発展している。また、科学万博、つくば学園都市をはじめ、国際交流、学術振興の「道」も開いている。
 次元は異なるが、信心の世界にあっても、「常陸」の字義のごとく、茨城の皆さまは、どこまでも御本尊にまっすぐ通じる純粋な信心を貫いていただきたい。そして、学会活動の面では「学会本部」との「直通」の道を、さらに広く開きながらの前進をお願いしたい。本日の記念総会を、その意義深き新出発の時ともしてほしい。
4  歴史に光る「足利学校」
 茨城県のことは皆さま方のほうがよくご存じであろうし、話題を変えて、他の県の話をすることも必要な場合がある。本日は関東の他県の方も若干みえており、他県の話をすることによって、茨城県の皆さまに、なんらかの触発や示唆しさとなれば、との思いで、お隣の「栃木」のことについて少々、述べておきたい。
 栃木の地には、かつて「足利学校」という有名な学校があった。すでに室町時代の後期には、″坂東の大学″といわれていた。
 この学校については、「足利学校の研究」(川瀬一馬・著)に詳細に紹介されている。
 同書によれば、キリスト教の宣教師であったかのフランシスコ・ザビエルは″坂東の大学には四方より向学の人が雲霞うんかのごとく集ってくる。この地には、優秀な宣教師を派遣することが必要である″と本国に報告している。
 また、織田信長の知遇を得てキリスト教の布教のために日本を訪れたルイス・フロイスも、″日本に総合分科を有する唯一の大学がある。それは坂東地方の足利と呼ぶところにある″と記している。
 彼らの報告は、足利学校の権威を認識し、異国での見聞を本国に伝えたものである。この時代に、すでにヨーロッパにまでその名が伝わっていたことは注目すべきであろう。学校の教育理念とその内容が、西欧人の目にどのように映ったかがうかがわれる。
5  足利学校の創設等については諸説がある。室町時代に関東管領の上杉憲実のりざねが再興する以前の歴史は、ほとんど不明であるが、鎌倉時代、足利義兼が子弟教育のためにつくった学問所が次第に発展していったものとの説もある。いずれにしろ確証はないようである。
 室町時代、この上杉憲実らの保護を受け、足利学校は隆盛をみていく。その後も小田原北条氏、徳川氏らの庇護ひごによって、足利学校は江戸時代まで存続していくのである。
 学校には、各地から若き学究者が集まり、学問に励んだ。最盛期には″学徒三千人″ともいわれるほどであった。戦乱の世にあっても、学校は閉鎖されず、一日中、読書の声が絶えなかったともいわれ、次代の人材育成の使命は果たされていった。学生達は、戦争があろうと何があろうと、未来の時代を開くために、懸命な研学と思索を重ねたにちがいない。私にはその光景が目に浮かぶ。
6  社会貢献の人材の育成のために創価大学を創立した私には、この足利学校をはじめ、時代を超えて光芒こうぼうを放ち続けた学舎まなびやの歴史が、ひときわ胸に迫ってくる。
 また、一般の学校と形態は異なるが、創価学会は″人生の総合大学″であるといってよい。学会が進めている座談会、学習会、折伏・弘教の実践、信心懇談などの「場」は、すべてが″生命錬磨の学校″であり、″価値創造の学校″となっている。
 さらには″仏教学校″であり″人間学校″である。また、新世紀を開きゆく人材群の学校という意味から″新世紀学校″ともいえる。
 事実、そうした″人生の学舎″ともいうべき学会の姿に、社会の多くの人々が共感と期待の目を向けている。
 私はその学会の″先駆け″となる決意で、人の見えないところで悩み、戦ってきた。また、さまざまな発展と前進のための手を打ってきたつもりである。時代は刻一刻と変わっていく。″ふざけ″や″惰性″に身をゆだねる暇はない。後世のため、万年のための礎をつくることが、私の最大の使命と自覚するからである。
 私はこれまで創価大学の創大祭で何回も講演を行ってきた。そのなかで、ロシアの指導者・レーニンの言葉を引いて次のように語ったことがある。
 「レーニンは、声を大にして青年に呼びかけている。
 『若い青年の最も重要な課題は、学習である』と──。
 レーニンという人物の偉さは、じつは、私はここにあったと見たい。つまり革命後のもっとも困難なときに、彼は青年にすべてを託し、期待し、『今こそ学べ、学べ、また学べ』と叫んだのである」──。
 当然、時代も社会背景も異なるが、若き青年部諸君は、深き信行の実践とともに、常に未来を志向し、自身の英知を磨きゆく作業を忘れないでほしい。私もまた、新世紀の広布の道を開きゆく人材を、さらに育て、諸君の″学びの道″を開いていきたい。それを私自身の人生の総仕上げとしたい。これが現在の私の率直な心情である。
 ともあれ、「学びの人」には「勝利」がある。「希望」がある。「力」がある。無論、「信心」こそ最高の力である。しかし、「知」もまた力であり、私どもにとって「知」とは「信心」を証明しゆく力なのである。このことを強く申し上げておきたい。
7  心の医療の場・ホスピス
 話は変わるが、かって、秋谷会長らと、一流新聞社の記者たちと脳死の問題について種々論じあった。昨年末には、ある記者から「ホスピス」についての所感を求められた。「ホスピス」とは死期を控えた人への医療と介護の施設のことである。学会として、その意義についてどう考えるか。宗教者としてその動向をどうとらえるか。また学会がホスピスをつくる用意はあるのか等々、詳しく見解をたずねられた。健康や医療への関心を強める現代人の動向をとらえ、鋭い質問をしてきた。
 時代は確かに、高齢化社会の進展につれ、「健康」という問題への関心を、急速に深めている。いかに寿命が延びたとしても、決して「死」の問題が解決したわけではない。いな、むしろ医学が発達し、老齢期が長くなればなるほど、「生」と「死」の問題は深刻さを増すばかりである。
 医療機具で、ただ″生かされている″だけの「生」。脳死。非人間化する医療。老人の生きがい。孤独。そして痛みと「死」の恐怖……。
 生と死、そして「生命」が、今や文明的課題となって、真剣に問われ、解答が模索されている。その意味から、「ホスピス」や「脳死」の問題は、仏法者である私達が、避けて通れぬ課題であると思っている。
8  「生」と「死」、また「健康」といった問題に、信仰者として、無関心でいるわけにはいかない。
 病に苦しみ、死を間近に感じている人は余りにも多い。また、妙法をたもった同志のなかにも、病にふしている人も少なくないのが現実である。そうした方々を少しでも励まし、勇気づけ、安心を与えてさしあげたいと、私は日々、真剣に御本尊に祈り、また、あらゆる手を尽くし、激励している。
 また、生死の真の解決のためには、確かな死生観、人生観を確立することこそ急務である。ゆえに、現代のさまざまな問題に対し、深き仏法の視点から光を当て、本質的な解決へのいとぐちを少しでも提示できればと、私は思っている。近来、「脳死」についての論文を「東洋学術研究」誌に寄稿しているのも、そうした願いからにほかならない。
 本日は、その延長として、「ホスピス」について、少々論じておきたいと思う。
 ともすれば、西洋近代医学は、「死」をできる限り回避しようとして、「生」に執着してきた。そのために多大の進歩を促した点は認めなければならない。しかし、末期癌や難病等で治癒ちゆの見込みがほとんどなくなると、完全に施すすべを失い、途方にくれてしまうことも少なくないようである。
 だが、死を間近に控えた患者でも、残された時間を有意義に、自分なりの生きる意味を見つけながら生きていくことは可能なはずである。そのために医療関係者として何か援助はできないものだろうか。こうした発想から生まれたのが、ホスピス・ケアである。残された「生」の充実と心安らかな「死」を迎えさせるために、思いやりある人間らしい広範囲のケア(看護)を行うことを目的とする。
 こうしたケアには、家庭でできるものもあるが、そのための特別な施設やプログラムを「ホスピス」と呼ぶといわれる。
9  「医科学大事典」によれば、死の遠くない患者のための施設に「ホスピス」の名をつけたのは、アイルランド慈善尼僧会の創設者、メアリー・エイケンヘッド女史である。もともと、ホスピスは中世に聖地を旅した巡礼者用の私設の名称であり、ヨーロッパ各所に点在するホスピスでは食事や宿泊をし、あるいは旅をつづけられる精神的励ましを得ることができた。エイケンヘッド女史は、「人間の死はひとつの通過点であり終着地点ではない」という考えのもとに、末期患者の施設にホスピスという言葉をつけたという。
 この言葉は、ラテン語の「ホスペス」に由来する。「ホスペス」には「ホスト(主人)」と「ゲスト(客)」の両方の意味があった。この言葉が病院を意味する「ホスピタル」や、親切に遇する意味の「ホスピタリティ」にもなったといわれる。
 語源の「ホスペス」に″ホスト″と″ゲスト″の両方の意味があること、そして″病院″と″親切にもてなすこと″が同じ起源をもつことは、看護する側とされる側の在り方、また病院、医療の本来の姿などを考えるうえで、深い示唆を与えている。
10  病院の淵源えんげんは、古くにさかのぼる。サンドル・ストダード女史の「ホスピス・ムーヴメント」(高見安規子訳)によれば、大要、次のようになる。
 ホスピスのルーツ(起源)となる施設が誕生したのはローマ時代のことである。だが、そのルーツの正確な時期と場所はわからない。
 このころ、ローマでは、キリスト教徒への苛烈かれつな迫害が続いていた。多くの人々が、火あぶりに処され、またライオンの餌食えじきとなって、殉教じゅんきょういばらの道を歩んだ。
 いかなる宗教、思想であれ、広範な人々に受け入れられ、世界性を獲得するまでに、激しい既成勢力の弾圧を受けることは、歴史の方程式といってよい。
 そうしたなか、ホスピスを伝える資料の一つによれば、ファビオラという富裕な一婦人は、人目をはばからずキリスト教徒となり、疲れた巡礼者達へのいこいの家を開いた。そこでは、誰でも食物と宿が与えられたほか、病人には手厚い看護が施され、治癒ちゆしない場合も、最期までやさしく看取みとられた──。
 教義の高低浅深は別として、強烈な迫害に屈せず、一人決然と立ち上がった婦人の姿は、まことに立派である。学会の婦人部の皆さまの活躍にも相通ずる姿であり、いつの世も、新たな歴史が開かれる時には、必ずといってよいほど、陰に婦人の力があるという一つの証左とはいえまいか。
11  さらにこの「ホスピス・ムーヴメント」によれば、これに先立つギリシャ時代にも、エピドーラスと呼ばれた一種の医療機関が存在した。それは、今日の巨大な医療センターに似ていた。そこには洗練された浴場、衛生的な検査・治療室、体育館、円形劇場、荘厳な神殿までが完備されていた。そこで、さまざまな湯治、食事療法、また観劇や宗教的な行動による情緒の安定など、精神、肉体の両面にわたる極めて高度な治療が施された。催眠療法といった先端的な方法も、行われていたようだ。
 しかし、このように素晴らしい施設にも、重大な欠陥があった。エピドーラスには、「治る望みのない病気をもった者は別」との条件があり、死を間近に控えた患者へのかかわりを拒否した。末期の患者は行き場を失い、野原や街路に最期の姿をさらさねばならなかった。
 なぜ、エピドーラスは、死にゆく病人を拒んだのか。それは、施設の評判、イメージが、ひとえに患者の回復率にかかっていたからだという。
 当時、エピドーラスの経営の苦労は並大抵ではなかった。収入は回復した患者の謝礼だけであったのに、経費は、年々増加する一方であった。政治家も多額の金を税金として巻き上げた。ゆえに経営者は、ひたすら患者の治・回復に力を注ぎ、勢い、死者への無関心が進んだ──。
 こうした風潮は、現代の医療制度にも、ある意味で通ずるとの厳しい指摘もあるようだ。
 ともあれ、ホスピスが現代医学への深刻な反省から誕生したことは間違いない。
 アメリカでは、すでに千七百の施設があるという。それに対し、日本では、キリスト教系のホスピスが数カ所である。近年、仏教界でも、ホスピスへの取り組みが見られる。
 ホスピスにおける医療は、単なる身体の治療にとどまらない。「身体的な痛み」に加え、「精神的・心理的な痛み」(不安、恐怖、孤独等)、「社会的な痛み」(経済的な問題、家族関係等の人間関係にまつわる課題など)、そして「宗教的な痛み」(死と死後の世界への不安等々)といった苦しみに対し、どうケア(援助、介護)していくかに医療の基盤がある。
 その最大の課題は、癌末期における激しい痛み、難病等の不治の病を宣告されて絶望に陥った患者に対して、どのように生きる意欲をわきたたせ、人生の最終章を勝利で飾れるようにケアしていくことができるかという点にある。
 現代のホスピス誕生の原点も、まさにここにあるように思う。それゆえにこそ、宗教的な問題まで含めての全人的なケアが要請されるのである。
 具体的にいえば、たとえば、家族や友人が自由に、いつでも面会できるように配慮することも必要であろう。また患者も、可能な限り、本人の希望通りに外出・外泊ができるようにすることも望ましいと思われる。このようなケアが、患者の孤独をいやし、人間関係の悩みを乗り越える援助となるのみならず、充実した生への原動力になるのではなかろうか。
 また、肉体的な痛みに対しては、医学的な処置(ペイン・クリニック)により、十分に取り除き、痛みに心身をさいなまれない平静な生が送れるように援助することも、場合によっては必要かもしれない。
 しかも最も重要な点は、「宗教的な悩み」についての対応である。医療関係者自身が、患者の死への不安、恐怖を避けるのではなく、真正面から取り組み、共感しつつ、話し合い、ともに死と対峙たいじできるだけの生死観を確立しゆくことである。医師や看護婦が、患者の闘病の姿また、医学のみならず、哲学、文学、宗教等から人間の死について謙虚に学びつつ、生命への洞察をつねに深めゆく場こそ、ホスピスといえるのではなかろうか。
 このようにして、患者が最も人間らしく、また安らかに死を迎えられるよう、細心の看護を進めていくことが、ホスピス・ケアの根本条件なのである。
12  広布の組織こそホスピスの理想
 死期を控えた人々へのこうした手厚い看護や治療が、これからますます重要になっていくことは間違いない。特に日本では、ホスピス・ケアの制度や環境が余りに未発達であり、今後、十分に末期患者へのケアが推進できるよう、手を尽くし、制度を整えていくことが大切であろう。
 しかし、建物や制度には、おのずと限界があることも確かである。とりわけ、病に苦しむ人々の精神的苦痛をいかに打開していくかということを考えれば、周囲の人々との″心のネットワーク″がさらに大事になってくるにちがいない。
 ある場合は、特別な入院の施設や制度はなくとも、家族や友人、また地域の人々との″心の絆″が病める人を包み、励まし、蘇生させていく。死にゆく場合も、豊かな安穏の心で最期を迎えられるよう、自発的な人々が最大限に心を配っていくことが、″ホスピス・ケア″の役割を果たすと、私は見たいのである。
 その意味から、私は、学会の組織には、一次元から見るならば、″ホスピス″の理想に通ずる姿があると思えてならない。
 かつて、ある著名な作家が、学会員の献身的な姿に感銘を受け「現代の本当の菩薩の姿がここにある。こうした活動は、今や創価学会にしかないであろう」と述べていたことが、私には忘れられない。
 確かに、悩める友がいれば、つねに誠心誠意を尽くし、祈り、行動するのが、学会員である。事故があったと聞けば、輸血に、連絡に、さまざまな手配に必死に奔走し、手を尽くす。我が同志のこうした誠意、真心は、親類・縁者をもしのぐ場合がある。
 死期を迎えた人に対しても例外ではない。最後の最後まで、学会員の真摯しんしな励まし、温かな心配りはやむことがない。それに加え、ドクター部や白樺グループの方々もさまざまな相談にのり、応援を惜しまない。
 兄弟や親せきですら、財産等で争いの絶えない現代である。互いに守り合い、励まし合う学会のような人間共和の世界は、砂漠のオアシスのごとき、まことに稀有けうにして貴重な存在であると、ある社会的にも著名な一会員が確信をもって述べていたことがあった。
 こんな話を聞いたことがある。夫婦で信心したが、ともに有名大学を出たせいか、何となく学会を見下し、信心も形式のみの一家がいた。ところがある日、愛息が交通事故にあった。その時の夫婦の狼狽ろうばいはかくしようもないものであった。親せき達の動揺も深刻である。そんな時に真剣に祈り、奔走してくれたのが学会の人たちであった。
 その夫婦は、いざというとき、言葉だけでもない、立場からでもない、ただ真心をつくして自分達を心から励ましてくれたその崇高な姿が一生忘れられない、と後日語っていたという。
 こうした例は、この夫婦のみならず枚挙にいとまがない。妻の死や兄弟の死、ある場合には、父や母の病の時の、涙の出る程の手厚い励ましや奉仕の姿に感謝している手紙が数多く本部にも寄せられている。また皆さま方も日常よくご存じのことであろう。
 学会こそ、まさに庶民の世界である。これこそ学会の強みといってよい。
 かつて、ある外国人研究者が、座談会に出席し、感嘆していた。ここには、年配者もいれば青年もいる。社長もいれば労働者もいる。あらゆる職業の、あらゆる人が集い、ともに人生を語らい、仏法を語らい、ともに祈り、ともに人間向上のために励ましあっている。そこには、哲学を語り、生活を語り、世界観を語り、人生観を語り、皆が喜々として互いのために幸福世界を作っている……と。
 こうした会合が全世界に広がれば、権威だけの政治家はいらなくなる。
13  真の「生死」の解決は妙法に
 最も大切な人間の「生死」について、大聖人は、富木常忍の母の死を通して「生死の理を示さんが為に黄泉の道におもむ」──(母堂は)生死のことわりを示さんがために、黄泉の旅(死後の世界)へと赴かれたのである──と言われている。
 「死」によって、今世の生は終わるかもしれないが、生命そのものがなくなるわけではない。生命は永遠であり、生きては死に、死んでは生まれるという生死の理を示すために、かりの姿としての「死」があるにすぎない。
 ゆえに、妙法で照らされた生死であれば、いたずらに「死」を恐れる必要もないし、だれもが示す「生死」の一つの実相として、達観していけばよいのである。大事なことは、現在生きているこの「生」を、最終章までいかに価値的に、充実して生きるかである。
14  大聖人は「御義口伝」に、次のように仰せである。「日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は一同に皆共至宝処なり、共の一字は日蓮に共する時は宝処に至る可し不共ならば阿鼻大城に堕つ可し
 ──大御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱え奉る日蓮大聖人の門下は、一同に「皆、共に宝処に至る」、すなわち成仏することができる。この「ともに」という「共」の一字は、日蓮大聖人と「共に」いる。つまり大聖人を信ずるときには「宝処」に至り、成仏することができる。しかし、大聖人と「共でない」時には、すなわち、不信の念を起こして退転してしまえば、無間地獄におちてしまうことを示している──と。
 この御文は、法華経化城喩品の文についての大聖人の御義口伝である。
 「皆」とは、地獄界から仏界にいたるまでの、すべての境界の人々をいう。「共」とは、方便品の「如我等無異にょがとうむい(我がごとく等しくしてことなることからしめん」──一切衆生を仏と同じ境界に入らしめるということである。「宝処」とは霊鷲山のことで、大御本尊のましますところであり、また成仏という最高の幸福境涯をいう。
 「至」とは、「宝処」に至る、つまり最高の幸福境涯を得ることができるとの意である。
 これらをふまえて、大聖人は、御本尊を信受し、妙法を唱え、広宣流布に進みゆく人はすべて、御本仏・日蓮大聖人と「共」にいる、すなわち、成仏という永遠に崩れることのない「幸福」と「安穏」の境地を自分のものとすることができると仰せなのである。
 ゆえに、その正しき信心を教えてくれる学会の組織と「共」に進んでいくことが大事なのである。
 人生の「生死」の姿は、ある意味で「方便」であり、「化城」にすぎないかもしれない。しかし、その「生死」のなかに「幸福」にして「安穏」な人生を送っていきたいというのが、人類共通の願いである。
 とくに「死」は、現世の人生の終末であり、死後の生命が明確に自覚しがたいこともあって、人間の大きな恐怖であり、不幸ともされてきた。しかし「死」を単なるあきらめとしてとらえるのでは、本当の問題解決とはなるまい。「ホスピス」は、「死」を看取みとるということによって「医療」の側面から、この問題に一つの解決の道を見いだそうとするものといってよい。
 結論からいえば、三世にわたる本当の生命の「安楽」は、現実の「生死」の中に、仏界という尊極、無上の境界を涌現する、妙法への信心によって築けるのである。
 そのための根本的な「法」と「実践」を教え、広めているのが、私ども日蓮正宗創価学会である。その使命は限りなく深く、重要である。
15  「常楽我浄」の日々をわが郷土で
 さて冒頭にも「常陸」の名前の由来を述べたが、この「茨城」の地について、奈良時代に編さんされた「常陸風土記」には次のように記されている。
 「それ常陸国は、堺は広大ひろく、地も亦緬沃はるかなり、土壌沃墳うるおい、原野肥衍こえたり、墾発きりひらくの処、人々自得ゆたかに、家々足饒にぎわえり。(中略)いにしえの人の常世とこよの国というは、けだし疑うらくは此の地ならんか」
 たしかに茨城県は太平洋に接する海岸線も長く、土地は広々としている。山地と平野の間をって流れる幾筋もの河川が大地をうるおし、その沃野よくやを切り開いた人々の生活もまた豊かなにぎわいを見せていた様子が、ほうふつと目に浮かぶ。古代の人々が理想郷と考えていた「常世とこよの国」とはまさにこの地であろう、と大地も人も豊かな城の地の素晴らしさが賛嘆され、うたわれている。
 そして我が茨城の友は、この″理想郷″の最高の舞台で、昨年の座談会の発展の姿は全国一の実証を示され、まことに見事な活躍をされているとうかがった。私は皆さまの、その健闘と活躍を心よりたたえたい。
16  さらに、県名となっている「茨城」の由来については、「常陸風土記」の中に古老の説話として述べられている。
 かつて黒坂のみことという武将が、うばら(イバラ)を使ってこの地にはびこっていた悪賊を退治したとも、また蕀で(しろ)を築いてこの地を平定したともいう。こうした故事から「城」(うばらき→いばらき)との名が付いたとされている。
 また「うばらき」とは、茨の生えている所の意、との説もあり、自然の恵まれた風土に野イバラの花が咲き乱れる美しい土地であったともしのばれる。古来より美しい風土をたたえた城の、県の花は「バラ」。県の木は「梅」。そして県の鳥は「ヒバリ」である。まるで万葉集か古今和歌集の世界のような風雅の趣が感じられる。
 どうか皆さまはその理想郷ともいえる茨城の地で、理想的な「人生」と「仏国土」の建設に邁進していただきたい。そして、理想的に生きるための″ホスピス″ともいえる学会の組織の中で「常楽我浄」の人生を送っていかれんことを念願し、私のスピーチとさせていただく。

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