Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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沖縄池田青年塾開所式 広宣流布のために君がある

1988.2.20 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

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1  手作りの人材鍛錬に「塾」の本義
 沖縄の「青年塾」の開所、本当におめでとう。
 私は新しい会館ができるたびに、御本尊に真剣に祈る。ここから、広宣流布の立派な大人材が陸続と育ちゆきますように。集う方々が一人のこらず、幸の人生、使命の人生を歩み通していかれますようにと。
 ただ今も、意義深き青年塾の開所にあたり、諸君とともに勤行し、今日より、素晴らしき人材輩出の歴史を刻んでいかれるよう祈念申し上げた。
2  本日は、開所を記念する意味で、「塾」の意義と使命について語っておきたい。
 「塾」とは、そもそも何を目的とし、いかなる精神で運営していくべきなのか。
 「塾」とは、古くは「門のわきの建物」を指した。当初は「」といったようだが、のちに部屋を設けて冠礼(元服)などの儀式を行い、さらには、そこで子弟の訓育を行った。ここから「まなびや」を意味するようになった。
 中国の礼記らいきには「いにしえの教ふるものは、家に塾あり党にしょうあり」とある。すなわち、古代の教育施設は、家に塾という私設の教場があり、党(五百家)には庠という公立の学校が設けられていたことがわかる。
 それぞれの家の「塾」においては、児童のころから学ぶべき知識や礼法を身につけていったと考えられる。そして良き若者となって、凛々しく元服の儀礼を行い、一人前の後継者として巣立っていったのであろう。
 字義としては「土」の上に、音を表す「しゅく」で「塾」である。「孰」は、土をつき固めて城壁や、築地ついじへいなどをつくる意味をもつ。そこから塾とは、築地で固めた土塀の中の部屋のことをさした。
 土をつき、固め、手づくりで各家の「まなび」をつくっていく――「塾」の字義からは、こうしたイメージが浮かんでくる。
 近年、東京の氷川池田青年研修塾をはじめ、青年自身の手づくりによる「塾」の建設が進んだ。私はその真心と心意気がうれしい。また深く敬意を表する。
 ここ沖縄の青年塾でも、昨年来、諸君の自発的な整備作業が営々として続けられたとうかがっている。まさに「塾」本来のイメージのままの尊い姿であると確信する。
 今度は、この信心鍛錬の道場から、多彩なる広布の人材を、一人また一人と″手づくり″でつくっていただきたい。
3  さらに先の『礼記らいき』の文にあるように、「塾」は、公的な学校を表す「しょう」に対して、私の施設つまり「私塾」の意味を持つ。ここに重要な意義がある。
 私塾とは、国家等による公的な教育機関のワクを超え、より広い視野に立って、自分たちの信念と、自分たちの使命感のうえから、社会のために、個性豊かな人材を教育していこうという場である。
 国家による「官製」の教育にはおのずから限界がある。それらが無視したり、また手のとどかぬ教育の分野において、大衆の要望を背景に、自由な、そして独立独歩の高邁こうまいな精神で、手づくりの人間教育を行っていく。それが「私塾」の本義であると私は思う。
 青年塾は、人類永遠の「平和」と「幸福」への人材を輩出する道場である。無上の″大法″を流布しゆく尊貴の″人″をつくっていく。本来、これ以上、崇高なる目的はないし、これ以上、重要なる教育もない。また、他のいかなる社会の権威も、なしえない教育である。
 世間には、多くの有名な大学や、一流と呼ばれる学校もある。広大な学舎もいくつもある。それはそれとして、教育機関の意義は、権威によるものでもなく、大きさによるものでもない。いかなる人間を輩出したかである。
 この青年塾は、建物は小さいかもしれない。しかし、小さいからこそ、本物の人間教育ができる。偉大な力をひめている。仮にたとえれば、極小の原子核にこそ、無限ともいうべき絶大なるパワーがひめられているようなものである。
 この小さな道場から、大いなる人材雄飛の歴史を、そして世界へ世紀へと、豊かなる人材鍛錬の伝統をお願いしたい。
4  「自我作古」の精神で後進の範を
 日本の大学の中で、「塾」の名を冠した数少ない一つに、慶応義塾大学がある。義塾とは後進を教えるための共同の場を指すが、この命名にも、すぐれた教育者でもあった創立者・福沢諭吉の見識が光っていると思う。
 慶応の建学の精神として、あまりにも有名なのが「独立自尊」。″他人依存″ではない。そうした弱き青年であってはならない。
 建学に当たっての精神には、他にも「自我作古じがさっこ」がある。慶応の卒業生の何人かに意味を聞いてみたが、誰も明確に答えられない。それでは、青年としてなさけない。諸君は若い間に、徹底して勉強しぬいておかなければならない。
 「自我作古」とは、「我よりいにしえをなす」と読む。この言葉を諭吉は「慶応義塾之記」の中で使っている。慶応四年(一八六八年)、塾の名前を正式に慶応義塾と定めて、この書を著し、教育方針を明らかにしたのである。
 このなかで彼は、洋学を始めた先覚者達の姿に触れて、「自我作古の業にのみ心をゆだね、日夜研精けんせいし、寝食を忘るるに至れり」と描いている。
 「自我作古」とは、これまで誰も手をつけなかった未開の分野において、まず自分が原点となって道を切り拓き、後に陸続と続くであろう後進の手本となり、いしずえとなっていくという精神である。
 我より古をなす――はるかなる未来を望み、信じつつ、自分自身が出発点となり、草わけとなって、基礎となる「いにしえ」をつくっていく。
 広布の草創を切り拓いた諸君のお父さん、お母さん、兄姉等の先輩も、まさに「自我作古」の精神であった。そして今となってみれば、その「日夜研精し、寝食を忘るるに至」るほどの激烈な労苦は、すべて輝かしい広布の源流、「いにしえ」をなしている。
 諸君もまた、万年にわたる妙法広布の先覚者である。未来、限りなく続くであろう人類数十億の「いにしえ」をなすべき人である。諸君から大河は始まる。「自分自身が原点である」との自覚と実践を私は期待する。
5  福沢自身も、洋学者というだけで暗殺される危険があった時代の中で、日本の将来のために洋学のいしずえを築いた。それはまさに、「自我作古」の生き方、パイオニア・スピリット(開拓精神)に満ち満ちた人生であった。
 また、彼は「慶応義塾之記」の中で「かたきを見てさざるは、丈夫じょうぶの志にあらず」と述べ、いかなる困難に直面しても、歯をくいしばって乗り越えていく敢闘精神で進めと訴えている。私も創価大学を創立するに当たって、各大学の創立者の多くの著書をひもといたが、そのさいに福沢諭吉のこの言葉に接し、感銘を深くしたものだ。
 日蓮大聖人の御書にも「浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり」と仰せであるが、何事も不惜身命のこころざしなくして、成就することはできない。我々の広布の活動にあっても同じである。妙法の先駆者には、三障四魔の嵐もある。峨々ががたる辛苦しんくの尾根もある。それらを不惜の精神で乗り越えてこそ、諸君一人一人が「自我作古」とのごとく、広布の礎となり、人材の大河の源流となっていくことができる。
6  広い心のリーダーであれ
 さて、若き日に私は、時間があれば好きな読書にいそしんだ。当時、愛読した一人に、フランスの哲学者アランがいる。アランについては、何度かお話ししたことがあるが、彼への印象は、今もって強い。青春時代に深く刻まれたことは、生涯、脳裏から離れないものだ。
 ご存じの通り、アランは高校時代、恩師ラニョーとの出会いによって、哲学に目を開いた。彼は高等師範学校卒業後、二十四歳で哲学の教師となる。そして、各地の高校で教鞭きょうべんをとり、六十五歳で定年退職するまで、教職を全うした。決して華やかさはないが、堅実にして実り多き生涯であった。
 教師としてのアランの立派さは、まず、生徒をむやみにしからなかった点にある。子弟が、どのような失敗を犯したとしても、「この間違いは、君にふさわしくない」「君はやれば、必ずやれるはずだ」と励まし、生徒たちの奮起に期待したという。
 叱らないこと――それは、やさしいようで、実は難しい。学会の幹部にも、すぐに後輩を叱咤しったする人もみられるが、大なる誤りである。むろん、信心指導は厳粛げんしゅくであるべきだが、それと叱ることとは、まったく別次元である。
 自信がなく、力のない人ほど、人をむやみに叱る傾向が強い。立場や役職という「権威」で、自身を守ろうとするからだ。これからのリーダーである諸君は、決して後輩を叱咤してはいけない。尊き仏子である一人一人の人格を最大限に尊重し、尊敬しあいながら、人間共和の麗しい世界を創造してもらいたい。
7  アランの思想的な立場は、デカルトの流れをくみ、「高邁こうまいな心」を最高の価値とする「ヒューマニズム」である。そして、″神とは「完全な人間」にほかならぬ″との思索にまで至っていた。至高の存在といっても、何か天上に特別なものなどありうるはずはない。特殊な権威や能力で飾られたものでもないという彼の思想は、仏法にも相通ずる、かなりの高次な地点にまで達していたといえる。
 彼の著作には、有名な「幸福論」をはじめ、「権力に抗する市民」「思想――プラトン、デカルト、ヘーゲル」「ラニョーの思い出」「芸術論集」などがある。これらの書は、私も若き日に読み、思索の道標としたものだ。
 彼は、反戦・平和主義をむねとした。が、第一次世界大戦が勃発ぼっぱつするや、四十六歳という年齢も顧みず、志願出征している。
 彼は考えた。″戦争を批判し、平和を説くのも、銃後では机上きじょうの空論となろう。みずから軍隊のなかに入り、一兵卒の苦労を知ってこそ、戦争の実像も認識でき、本質的な批判も可能になる″と。そこで、えて勇気ある行動に出た。
 その行動への評価は別にして、実践を重視した彼の真骨頂をみる思いがする。
8  ″正しい認識は大切だが、それを踏まえて判断し、実践するのでなければ、無意味である″また″人間たれ、人間として振る舞え″――これが、アランの人生哲学であった。
 世には、「認識」はしても「行動」しない人が少なくない。反対に、「行動」はするが「認識」と「見識」に乏しい人も、多々、見かける。が、いずれも一方だけでは、社会と人間の変革を進めゆく価値の行為とはなりえない。
 「認識」と「行動」は、いわば車の両輪であり、いかに理想が高く、また実践力に優れていても、それが両立しなければ、いたずらな空転を繰り返すだけである。
 行動なくして認識なし――ここに″人間として振る舞え″としたアラン哲学の真髄しんずいがあると、私は見たい。
 ともあれ、洋々たる未来を開きゆく諸君は、どうか、透徹した「英知」とたくましい「行動力」をあわせもった、知勇兼備の将と成長してほしい。
9  敬愛され「現代における最高の、そして最後のモラリスト」と評価されるアラン。「モラリスト」とは、人間性と人間の生き方を探究する思想家のことだが、彼は、生涯、そうした高邁な生き方を全うした。そして、一九五一年(昭和二十六年)、八十三歳で死去。ほぼ、戸田先生の会長就任と同時期であった。
 恩師の忘れられない言葉に、「相手を天晴あっぱれ、大した人だと認めた時は、勝った時である。相手を憎しみ、悪口をいうだけではいけない。敵に対してでも、尊敬の念を抱く時は、勝てるものだ」との指導がある。
 まことに含蓄深い言葉である。人の良さを認めず、他に学ばぬ人に成長の歩みはない。人を嫉妬しっとし、蔑(さげす)むばかりの人には、人格の後退と委縮いしゅくがあるのみである。そこに、人生の栄冠は、決して輝かない。
 「心広々とした指導者であれ」――これも、戸田先生がよくいわれていた指導である。
 心広き人のもとにいる人は、幸福である。温かな理解と期待、そして真心の応援を受けて、伸び伸びと進んでいけるからだ。
 反対に、心せまき指導者といる人は、不幸である。理解もされず、包容もされず、つねに堅苦しい思いで、委縮していなければならない。まことに悲しいことである。どうか諸君は、心広々とした、人間性豊かなリーダーであってほしい。
 むろん、簡単にそうなれるものではない。真剣に努力し、唱題を重ねてこそ、はじめて向上と前進が始まるものだ。青年塾に集い、信心と人格を磨き合う意義も、ここにある。
 諸君が、この″人間錬磨の道場″で存分に自身を鍛え、後輩たちのかがみとなる素晴らしき信行学のリーダーと成長するよう心から念願するとともに「広宣流布のために君がある」と申し上げて私の指導としたい。

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