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日蓮大聖人・池田大作

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沖縄青年部代表者研修会 限りある人生を悔いなく

1988.2.19 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

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1  青春の生命、旭日と燃やし
 本日は遠いところ、また仕事を終えて、このように研修会に集ってこられ、私こそ感謝したいし、″ごくろうさま″と申し上げたい。
 当然、世界の著名人や指導者と会い、語り合うことは、相互理解や友好交流、そして広布のために大切だと思ってきた。しかし、それ以上に大事なことは、青年と語り合い、将来を託すことである。
 何よりも妙法を護持し使命深く立ち上がってくださった、学会青年部の諸君と語り合うことが最も大切だと、私は強く自覚している。
 沖縄の青年部の諸君とも長い間お会いしていないし、懇談の機会もなかなかもてなかったことを申し訳なく思っていた。本日、このように沖縄訪問の目的と、池間君への信義を果たすことができ、私の心はうれしさに満ちている。
2  さて、本日は青年部の諸君の集いでもあるし「人生の生き様」について、少々、話をさせていただきたい。
 昨日も、沖縄の著名人の方が訪ねてこられ、懇談する機会があった。その折、その方がしみじみと言っておられた。「人生は、平凡であっても、きちんと仕事をし、結婚し、子供を育てる。そして老い、死んでいく。簡単のようで難しいものですね」と。長い人生経験を経てきた人の言葉だけに、深く胸に刻み込まれた。
 人生は難しいといえば難しい。簡単といえば簡単かもしれない。
 青春時代の諸君の生命は、旭日が昇っていくような輝きに満ちている。″さあ、働こう。活動しよう。恋愛だ、結婚だ。間もなく子供が生まれる。夫婦げんかも仲が良い証拠だ″というように、勢いよく前に進んでいる。だから「老い」とか「死」とかは、切実に考えないかもしれない。
 しかし、人生はあっという間に過ぎてしまう。″あっ、もうこんな年になったのか。自分の人生はなんだったのだろうか。これでよかったのかな″と思う時が必ずやってくる。
 真面目に人生を生き抜いてきた人であればあるほど、感慨は深いものがあるだろう。また、単純に、軽薄に生きてきた人は、きっと後悔の思いで、深い反省をしていくにちがいない。
 人の個性が十人十色であるように、人それぞれにさまざまな人生の生き様がある。
 先ほども、ある高校の先生とその話になり、人生にはさまざまなパターン(型)があるが、大まかに言って次の五つの型に分けられそうだと互いに結論した。
 (1)はじめは良くても、途中で挫折し、最後に再び立ち上がる人(2)はじめは順調にいっているが、次第次第に不幸になっていく人(3)はじめは不幸、途中よくなるが、再び悪くなる人(4)はじめと中間は不遇だが、最後がよくなる人(5)はじめから中間まではよいが、最後が不遇な人、といったものである。こうして「幸」「不幸」の糸で、その人の名を冠した人生が織られていく。
3  名声も財産も一時の幻影
 そこで諸君達の人生の生き方への一つの参考として、アメリカの代表的作家・マーク・トゥエイン(一八三五−一九一〇)の生涯を紹介しておきたい。
 『トム・ソーヤの冒険』や『王子とこじき』などの作品で、アメリカの国民的作家と呼ばれるマーク・トゥエインは、一八三五年、ミズーリ州開拓地のフロリダ村で生まれる。
 弁護士であった父の死後、地元の印刷所の植字工となり、若き日の彼の苦労がはじまる。その後、印刷職人として各地を放浪。ミシシッピ川では水先案内人などもやる。また、材木や銀鉱山の投機にも手を出し失敗。
 次に新聞記者になるが、生来の短気さと辛辣しんらつな記事で悶着もんちゃくを起こし、カリフォルニアへ逃げ出す。このころ「マーク・トゥエイン」のペンネームを使い始める。
 若き青春の心は、さまざまに動くものだ。それによって、人生もまた波乱に彩られることになる。だが、それに負けてはならない。日蓮大聖人は「心の師とはなるとも心を師とせざれ」と仰せであるが、周囲がどのように揺れ動いても、自分だけは、決して動揺しないとの、確固たる不動の一念をもっておかねばならない。そして、自らの決めた道を、若々しき青年の気概で進んでいただきたい。
4  その後、マーク・トゥエインは、サンフランシスコに出る。ここで短編小説『その名も高きキャラヴェラス郡のびガエル』によって、作家としてはじめて国中に名を知られるようになる。彼が三十歳のときであった。
 彼は、いよいよ昇り竜のごとく社会で活躍する。旅行記事や特派員便りで成功、また講演者としても名声を得る。そして、四十歳で著した『トム・ソーヤの冒険』は圧倒的な人気を博し、『王子とこじき』、『アーサー王宮廷のヤンキー』などが続く。彼の最高傑作といわれた『ハックルベリー・フィンの冒険』は、ヘミングウェイをして「すべての現代アメリカ文学は、この小説から始まった」と言わしめたほどであった。
5  こうして彼は大邸宅に住み、専用列車で旅行するという裕福な生活を手にする。
 マーク・トゥエインが代表作を次々と世に問うたのは四十歳からであった。もちろん、それまでの彼の労苦が実を結んでいったわけであるが、若い時代から名をあげようとあせる必要はない。着実に人生の基礎を固めていけばよいのである。そして、たとえ四十歳からでもいい、″自分は沖縄でこのような歴史をつくった″″人材をこれだけ育てた″″これだけの人を正法に導いた″といえる何かを残していただきたい。
6  人生の絶頂にあったマーク・トゥエインも、老齢期に入るや、自分の作った出版社は倒産。開発した自動植字機の事業も失敗し、莫大ばくだいな借金を背負う。家庭的にも、長女の脳膜炎による死。妻の喘息ぜんそく発作の発病と死去。三女の病死など、相次ぎ不幸な出来事に見舞われていった。その後、借金は完済し、出版の収入から豪邸をかまえるまでになるが、そのときはすでに健康も衰え、一九一〇年、その豪邸で七十四歳の生涯を終える。
 「諸行無常」が人生の常である。いかなる名声も財産も永遠に続くものではない。むしろ、名声や財産が、不幸をもたらすということも世間では多い。だからこそ、いつかはかなく消えゆく華やかな人生の幻影に惑わされてはいけないと強く申し上げておきたいのである。
7  ここで、トゥエインの代表作の一つで世界的に有名な『王子とこじき』の物語に触れておきたい。物語は、十六世紀半ばのイギリス・ロンドンが舞台となる。国中の祝福をうけて世継ぎの王子が生まれる。また同じ日に、貧民街のこじき一家に男の子が生まれるが、誰も喜ぶ人はいなかった。
 十余年の歳月がたち、ある日宮殿をのぞき込んでいたこじきの少年は番兵にとがめられる。しかし、ちょうどそこを通りかかった心優しい王子に助けられ、王子はこじきの少年を宮殿の一室に招き入れて食事を与え、彼を友人としてもてなす。
 こうして、ふとしたことから王子とこじきの二人が出会う。そしてお互いに顔かたちがそっくりであることに気づくのである。二人は仲良く話し合い、王子はこじきの生活の様子を聞いているうちに、その生活にあこがれる。こじきは自由であるからだ。また、こじきはこじきで、王子の立場にあこがれている。
 人間誰しもそうした上流の生活にあこがれ、特別な立場をせん望するものである。現在でもテレビ等で有名人の姿を見て、あの洋服がいいとか、カッコ(格好)主義というか、外見にあこがれ、それが重要なことであるかのように思う風潮がある。しかし、そんなところに本当の幸せの人生があるわけではない。二十一世紀の世界を担いゆく諸君である。そうした風潮に流されて、人生の基本の建設を忘れるようなことがあっては絶対にならない。
8  たがいの生活、立場に魅せられた王子と少年は「入れ替わろうではないか」と相談する。二人とも無邪気なもので、「おい、君はこのピカピカした服を着て王子になるのだ」、「オーケー」と、何ともほほえましい様子が目に浮かんでくる。
 そして二人は着ているものを取り替え、こじきの服を着た王子はそのまま宮殿を飛び出してしまう。宮殿に残ったこじきの少年はニセの王子として振る舞い、入れ替わった二人はそれぞれの生活を送っていくことになる。
 こじきになった王子は、旅をしながらさまざまな人との出会いを体験し、その人々に助けられながら人間的に成長していく。また、庶民の暮らしぶりを見聞して、人々の悩み苦しみを味わい、後に国王となってからの治政に、その経験を生かしていく。
 一方、本物の王子の父である国王が亡くなったため、ニセの王子が皇太子として国王の執務を代行することになった。彼は、とまどいながらも持ち前の聡明さと優しさを発揮して本当の国王らしくなっていく。
 いよいよ新国王の戴冠式が行われることになり、その知らせがこじきになった本物の王子のもとにも届く。本物の王子は何とか王宮に戻ろうと努力する。ようやく一人の家来の助けを得て、やっとの思いで戴冠式の会場に間に合う。
 戴冠式ではニセの王子が本物の王子の到着を待っていた。こじきの姿をした本物の王子を誰も信用しなかったが、ニセの王子の機転によって本物の王子であることが証明され、本物の王子が晴れて新国王となることができた。
 王子とこじきは、服を取り替えて別れてからのそれぞれの体験を語り合い、互いの苦労を理解した。そして国王となった王子はこじきを厚く遇し、二人の友情は末永く続くのである――。
9  この物語では、最高の身分の王子と最低のこじきが知り合い、互いの立場に入れ替わって今まで自分の知らなかった世界を知り、様々な体験をしながら多くのことを学んでいる。華やかな生活に幸福があるのでは決してないということ、人を助ける優しい心と正義の行動、そして真の友情――。結局、二人は人生の最高の生き方を学んで再会し、固い友情をかわし合った。
 誰が本物の王子か。私は、二人とも最高の″心の王子″であると思うのである。
 同様に諸君も、信心の世界の″王子・王女″として、現実の苦労の中から多くを学び、人生の貴重な財産としていってほしい。
10  「常住の法」こそ求むべき本源
 さて、『人は何で生きるか』――これはトルストイの有名な民話の題名である。私は青春時代、とりわけトルストイを愛読した。彼はこの民話をロシアの国民伝説を源泉として創作し、三つの課題をそのテーマとした。
 すなわち「人の内にあるものは何か?」「人に与えられていないものは何か?」そして「人は何で生きるか?」という人生の根本の課題である。なかでも標題ともなっている「人は何で生きるか」、そのことを、わかりやすい表現の中に、力をこめて探究している。
 人は何によって、この人生を生きてゆくのか。何が真実の″人生のかて″であるのか。このテーマこそ、本日、私が諸君に語りたい重要な一点である。
 もとより、トルストイの説かんとしていた″人生の糧″は、キリスト教の「愛」を根幹としたものであった。それはそれとして、この大切な人生を、かけがえのない青春を、どう生きるべきなのか。その生き様を考える上で、「人は何で生きるか」とのトルストイの問いかけ自体が、大きな示唆を与えてくれていると私は思う。
11  仏教では、この人生の「無常」を強調する。また「無常迅速じんそく」との言葉もある。
 無常とは、言いかえれば″変化″のことである。「すべては変化する」、これが仏教の根本の認識である。また人生の厳粛な真実といえよう。
 哲学者で作家の倉田百三ひゃくぞう――といっても、現代の若い人には、あまりなじみがないかもしれないし、読む必要もないと思うが、彼の小説のなかに、こんな一節があった。
 「この世は無常迅速というてある。その無常の感じは若くてもわかるが、迅速の感じは老年にならぬとわからぬらしい」
 つまり、すべてが″変化″していくということは、若い人にも観念的には、よく理解できるかもしれない。しかし、″迅速″という、その変化の速さの実感は、ある一定の年齢にならないと、なかなかわからないというのである。
 たしかに誰しも、振り返ってみると、子供の時代の一年は、比較的ゆったりと過ぎていったのに比べ、年配になるにつれて、一年が、また一月、一週間が余りにも早く過ぎ去っていくのに驚くものである。
 先日も、ある財界の方が、しみじみと「一週間過ぎるのが、本当に早いですね」と語っておられた。その深い実感をたたえた口調が忘れられない。
 無常迅速――人生は、うっかりしていると、あっという間に過ぎてしまう。諸君もやがて、そのことが身にしみて感じられる時が来るにちがいない。
 ある意味で、私はその時のために今日、話しておきたい。先ほども申し上げた通り、たとえ現在は実感できなくとも、いつか「ああ、あの時、聞いた話は、このことだったのか」と思い当たる日が必ずくると思う。その時に、諸君が人生行路のカジを正しき方向へと向け、勇んで進んでくれることを心から願い、語りのこしておきたい。
 私は青年に、ありとあらゆる角度の話をしておきたいと思っている。青年は、その鋭敏な心に触れたものを、生涯何らかの形で、よく覚えているものだ。一見、忘れたように見えても、その本質を、心のどこかに刻んでいる。
 そして、やがて、その種子が大きく拡大していく。幾重にも開花し、価値を生んでいく。ゆえに指導者は、青年にこそ語っておかねばならない。
 この方程式は戸田先生の時代も同様であった。広く人類の歴史にあっても、同じことがいえよう。
12  こうしたことから仏教で説く本来の「無常観」がゆがめられて、一般に、何かセンチメンタルな、諦観的ていかんてきなものとして受けとめられていることが多いようだ。
 世界的にも、現実否定的な、また受動的な人生観と結びつけて連想されている傾向がある。日本の文学、芸術においても、「無常感」として、深くその底流を形成している。この「無常感」の系譜を日本文学のなかに探った研究も少なくない。
 しかし、真実の仏法は、決して、そうした感傷的なものではない。むしろ、力強い、ダイナミックな、前向きの人生を教えている。
 釈尊はたしかに、この世は「無常」であり、「苦」であり、「無我」である等と説いた。しかし、それは、享楽や安易な現状肯定に耽溺(たんでき)し、真実の人生を求めない者に対する、いわば方便の教説であった。つまり、釈尊のそれらの教えは、むしろ人々に人生の無常を自覚させることによって、真剣に「常住」の法を求めさせようとするものであった。大乗仏典において、一転して「常楽我浄」と説いたのは、このためである。
13  多くの日本の文人等が表面的な無常感にとらわれるなかで、仏法の真実に迫ろうと努力した人もいた。高山樗牛ちょぎゅうや姉崎嘲風(ちょうふう)らも、法華経の文上の理解までは近づいていたようだ。また文芸評論家の故・小林秀雄氏も、さすがに一流の哲学を感じさせた一人である。彼の「無常といふ事」とのエッセーも、他とは、ひと味ことなった深い趣をもっている。
14  ともあれ、変化のなかに常住の法があり、永遠の生命がある。たえまなく、うつろう雲の高みに、不変の大空がある。不滅の太陽が輝いている。
 「無常感」にとらわれた人生は、この雄大なる天空の高みを知らず、下ばかり向いて歩んでいるようなものである。また、そうした弱々しい人生観と諦観的な文化からは、もはや二十一世紀に生きゆく国際的人物は生まれないであろう。人格の確かな″しん″を持たない、幼児性の取れぬ人間ばかり、つくってしまう恐れさえある。
 諸君は仏法の真髄を実践する、新しい時代の新しい人材である。人生の無常に流されてはならない。感傷に負けてもならない。
 たとえば旅客機が飛行していく。到着までには、気流をはじめ多くの気象状況等の「変化」に、すばやく対応していく必要がある。あらゆる変化を見極め、逐一ちくいち対処しながら、悠々と目的地への進路を進んでいかねばならない。
 それと同じく、人生も変化に次ぐ変化である。無常である。諸君自身も、肉体的、精神的に変化していく。環境も変わる。家族も社会も変化する。時をとどめられるものは何ひとつない。そうした無限の変化にも最も的確に、最も価値的に対処し、最高の幸福の方向へと飛行していく。そのための原動力が信仰である。
 そして、これこそ正しき「常住の法」に基づいた人生の生き方である。すべての変化を、よき方向へ、よき方向へと、リードしていける力が妙法にはある。
15  真実の「宝」は汝の中にあり
 さて仏教の説話に、こんな話がある。
 ある時、釈尊のもとに、遠方からやってきた七人の修行者がいた。彼らは一つの房に同居していた。ところが、彼らはせっかく釈尊のもとに仏道を求めてきながら、毎日、房に集まっては世間話に明け暮れ、笑い興じながら、その日その日を送っていた。
 そこで釈尊は、七人の修行者を訪ねて説いた。
 「生きとし生ける、すべてのものは、たいてい五事をたのんで、自ら安んじている。五事というのは、一には年の若きを恃み、二には端正たんせいの容姿を恃み、三には力の強きを恃み、四には財産の多きを恃み、五には族姓ぞくしょう(=社会的身分)の高きを恃むことである。しかし、これらは真に恃みとするに足りるだろうか。お前たち七人は、毎日、世間話に笑い暮らしているが、いったい何を恃みに安んじているのか」
 そして釈尊はさらに、人生は無常迅速であること、人生には生老病死の「四苦」があることを説いて教えた。これを聞いて、七人の修行者たちは、はじめて自分たちはここで何をすべきかを知り、心を改めて、修行に励むようになったという。
 「お前たちは何をたのみに生きるのか」――これが釈尊の問いであった。この人生を何を糧として生きるのか。
 日蓮大聖人は「蔵のたから」「身の財」「心の財」という三つの″人生の宝″を述べられている。
 この説話の中の「五事」とは、いわゆる「蔵の財」「身の財」に当たるといえよう。
 財産は言うまでもなく「蔵の財」である。若さ、容姿、健康や能力等の力、地位・身分や名声は「身の財」である。いずれも人生と生活上の価値であり、それらを求めることは一面、当然のことともいえるかもしれない。しかし、問題は、それらがはたして人生の真実の″宝″であり、永遠の″かて″であるかどうかである。
 具体例を挙げるまでもない。財産があるために、ねらわれたり、殺されたりする人もいる。美しいために、ねたまれ、また、おとしいれられる女性も少なくない。
 名声や力があるがゆえに心おごり、人生をあやまる人。地位が高いために、権力の魔性に心破られてしまう人等々、枚挙にいとまがない。また、これらの中には、何ひとつ永遠に続く″宝″はない。
 とすれば、「蔵の財」「身の財」は決して真実の幸福を与えてくれる″人生の糧″とは言えない。少なくとも、それらのみでは、人は本当の満足の人生を生きることはできない。
16  人は何で生きるか。大聖人は「心の財第一なり」と端的に教えてくださっている。
 この「心の財」とは「信心」である。信心こそ人生の永遠の″宝″であり″糧″である。「信心」には無量の功徳、無辺の福運が含まれている。国土をも変革しゆく宇宙大の力用が秘められている。つきぬ歓喜と、絶大なる智慧と慈悲との源泉であり、「蔵の財」「身の財」もすべて永遠の幸福へと生かしきっていけるのである。
 諸君はすでに、この最高の″人生の糧″を持っている。あとは、その無限の力をどう引き出すかである。
 人生は、はやい。逡巡しゅんじゅんしたり、愚痴や他の批判に、いたずらに時を過ごし、また自らの怠惰に負けてしまったりしているうちに、あっという間に青春は過ぎ去ってしまう。大切な一日一日である。
 諸君は現実のまっただなかで、たくましく生きぬきながら、同時に「大宇宙」を仰ぎ、「永遠」に思いをはせる広々とした境涯で、一日が千年にも千こうにも通じるような、充実の青春と人生を送っていただきたい。
 フランスの大哲学者パスカルは、人生の真実相から目をそむけることになるすべての営みを、「慰戯いぎ」と呼んだ。「慰戯」とは、単なる気晴らし、娯楽のいいであり、人生の構築に何ら資することのない無価値の行為のことである。
 また、ソクラテスは、人間がその本来性を開覚するためには「自己に関する無知」から脱出しなければならないと考えた。さすがに、ギリシャ文明を代表する大哲人である。
 ″自己に関する無知からの脱出″――二流、三流の思想家・評論家からは、決して出てこない、人生への卓見が、ここにはある。
 すべての不幸は、確かに、「自己に関する無知」から生じているといって過言ではない。永遠の生命という真実の「自己」を知ることなく、財産や名声、快楽や地位といった「自己ならぬ自己」を求めて、大半の時を費やすのが、多くの人の現実の姿かもしれない。
 しかし、所詮それらは「蔵の財」「身の財」を求めているに過ぎず、いわば「慰戯」の範ちゅうを出ないのである。ゆえに、「無常」を免れず、結局は不幸の流転へと身をさらさざるをえない。
 それに対し、真の「自己」を見いだし、真正の「幸福」と「価値」の実像を知った時には、人はすでに「慰戯」にとどまることはできない。本来の「自己」を実現し、永遠の幸福をつかむために動き、祈り、「価値」を生み出していく――つまり至高の「心の財」を築いていくことができるのである。
 ゆえに、″偽りの自己″に迷うことなく、仏界という尊極の境界をも秘めた、十界互具の「自己」の真実を、鋭く見極めることが、人生の最も重要な課題となる。
 ソクラテスが、「自己」そのものを明らかにするのが、「愛知」であるとした深い意義が、ここにあると私は考える。
17  ところで、かなり以前のことになるが、「パンの耳」というドキュメントを読んだことがある。私の記憶になるが、ある若き母親の生と死をつづった、忘れられぬ現実の出来事である。
 彼女は、五人の子供をかかえ、都会の一隅で生活闘争にあけくれていた。夫は、他の地方に出かせぎに行っていたようだが、家庭への仕送りは少なく、彼女が薄給の内職で生活を切りもりしていた。しかし、五人の食べ盛りの子に食物を与えると、自分の分はほとんど残らなかった。彼女は、ついに栄養失調で亡くなる。
 死後、彼女の日記が見つかった。それによると、彼女は数カ月も、パンの耳だけを食べて暮らしていた。だが、彼女の死は、単に栄養失調のみが原因ではなかったようだ。死去の日の日記に、彼女はこうしるしている。
 「こわい(中略)。もっと近くに話をしてくれる人がいたら、私はこんなに悩まず、はりをはった生活を続けることができるでしょうに」(「パンの耳」読売新聞)
 生前、彼女はあえて生活保護を拒んでいる。一風、変わっているようにも見えるが、自分で生きていこうとする意志力が、人一倍、強かったのではないか。生きるために必要な″物質的な糧″は、何とか自力で働き、得られる自信をもっていたようにも思える。しかし、じつは彼女は、語り合える友という″精神的な糧″を喪失そうしつしていた。だからこそ生きるための根源の力を、なくしてしまっていた、と私は見たい。
 頼るべき依怙依託えこえたくを失い、孤独の極限にある彼女の寒々しい心象風景を思うにつけ、こうした寄る辺ない民衆に救いの手を差しのべられなかった社会の現実に、私は憤りを感じざるをえない。この事件には、″人は何で生きるのか″との問いを、再び深く考えさせられる。
18  それにしても私は、この若き母親に、もしも、学会員の友人がいれば、との感慨を禁じえない。
 我が学会の同志ほど、善意と親切の心に満ちた方々はいない。わずかでも悩める友があれば、寸暇をさいて駆けつけ、心から励まし、絶対に、相手を″孤独″などにはしておかないのが、皆さま方なのである。そして、正しき法と実践を教え、力強い励ましで″妙とは蘇生″の実証を示しておられる。本当に同志は有り難いし、学会の存在こそ、個がバラバラに切り離された現代社会の″希望の灯台″といえよう。
 学会を知り、妙法を知ってさえいれば、あの母親は、死ぬことはなかったし絶対に蘇生することができたにちがいない。そのことが私には、残念でならないのである。と同時に、人々に希望を与えゆく力強い活動を、いや増して誇り高く推進していかれるよう心から念願したい。
19  こまやかな「心」に大事な広布あり
 最後に、御書を拝しながら、盤石な広布の展開のため、妙法のリーダーとしての在り方について少々、述べておきたい。
 「熱原の法難」は、皆さまもよくご存じの通り、大聖人が一閻浮提いちえんぶだい総与の大御本尊を建立される機縁となった意義深い法難である。それはまた、当時三十代前半の日興上人のもと、門下の若き世代の青年達が中心となって、大難にも決して屈せぬ″後継の誉れ″を満天下に示した歴史でもあった。とともに、法難のさなか、青年達の偉大なる法戦の姿を、日蓮大聖人が温かく見守られ、まことにこまやかな心配りをされつつ、一人一人を守り、育成されていったことも見逃せない。
20  法難の渦中の弘安三年(一二八〇年)七月、大聖人は、弱冠二十二歳の青年・南条時光に、次のような御手紙を送られた。
 「かうぬし神主等が事いままでかかへをかせ給いて候事ありがたく・をぼへ候」――あなたが、神主等の同志を、今まで庇護ひごされてきたことを、有り難く思っています――と。
 つまり、当時、熱原の門下への不当な弾圧は、執拗しつように続いていた。が、正法正義の炎はかげることなく燃え、そのなかで神主までが強盛な信心に励んでいたようだ。若き時光は、法戦のまっただ中にあって活躍しており、権力の迫害を受け窮地にあった多くの同志を保護し、時にはかくまった。その一人が、この神主であったようだ。
 大聖人は、ここで、同志のために惜しみなく力を尽くす時光の「勇気」と「献身」を、厚く称賛されている。
21  そのうえで大聖人は、幕府の御家人であり、地頭を務める時光の社会的立場を思いやられ、続けて次のように仰せである。
 「ただし・ないない内内は法華経をあだませ給うにては候へども・うへには・の事によせて事かづけ・にくまるるかのゆへに・あつわら熱原のものに事をよせて・かしこ彼処ここ此処をもかれ候こそ候いめれ、さればとて上に事をよせて・かれ候はんに御もちゐ候はずは物をぼへぬ人に・ならせ給うべし」――ただし国主等は、内々は法華経を怨敵としていても、表面には他の事にかこつけて憎み、非を鳴らしてくるのが常であるから、熱原の者にことよせて、ここかしこと邪魔されるでしょう。そうかといって、国主等の意向として命令を受けていながら反抗して従わなければ、あなたは物を弁えぬ愚迷の人となってしまうであろう――と。
 ここで大聖人は、いつの世も変わらぬ権力者による正法弾圧の構図を、まず明快に示されている。心のなかの憎悪や嫉妬しっとはひた隠しに隠しながら、その醜悪な感情を、別次元のことにすりかえ、迫害していく――こうした巧妙なやり方は、時代を超えて、つねに同一の方程式である。
 しかし大聖人は、そのあとで、時光に対し、いかなる場合にも、社会の道理と動向を弁えた賢明な判断、堅実な行動がたいせつであることを強調されている。一時の感情に動かされた、子供じみた世間知らずの振る舞いは、信仰者として絶対に慎むべきであると厳に戒められている。
 社会の道理は道理であり、ルールはルールである。世間の法は遵守じゅんしゅすべきであり、信仰者が社会のルールを破るようなことは、決してあってはならない。また、非常識な活動を進め、同志や後輩に、無理をさせてはならない。あくまで、良識豊かな行動と実践が大切であるとの大聖人の御指南と拝する。
22  さらに大聖人は、次のように述べられる。「かせ給いて・しかりぬべきやうにて候わば・しばらく・かうぬし神主等をば・れへとをほせ候べし、めこ妻子なんどはそれに候とも・よも御たづねは候はじ、事のしづまるまで・それに・をかせ給いて候わば・よろしく候いなんと・をぼへ候」――もしも、神主等を置いていることがあなたにとってまずいようであれば、しばらくこちら(身延の大聖人のところ)へ来るよう、彼らに言ってください。ただ神主の妻子などは、そちらに置かれていても、決して捜されるようなことはないでしょう。事が静まるまで、そちらに置いていただければ、と思います――。
 まことにこまやかな、大聖人の心遣いであられる。社会の状況を的確に踏まえ、一人一人の立場や境遇をこまやかに配慮されつつ、今後の在り方を示されている。そのうえで、自らタテとなり、門下を厳護されている。まさに御本仏の大慈大悲の御振る舞いであると拝せよう。
 事実、こうした大聖人の心配りと激励を受け、広大無辺の大慈悲に守られながら時光も、神主も見事に難を乗り越え、信心を全うすることができたのである。
 もとより次元は異なるが、私ども広布のリーダーもまた、尊き仏子を厳然と守り抜いていかねばならない。それが妙法の指導者の第一の責務であり、使命である。
 それは、口先だけの指導でできることではない。現実に苦悩し、救いを求めている友は数多い。しかし、理屈をいうのはたやすいが、それで悩める友を救うことは、決してできない。本当の広布の戦いは、そんな安易なものではない。
 泥沼のごとき現実社会のただ中にあって、民衆とともに懸命に動き、祈り、心を砕きに砕いてこそ、リーダーは、真実の広布の大道を開き、その責務を果たすことができるのである。皆さま方の先輩は皆、それを行動してきた方々である。ゆえに今日の広布の盤石な基盤ができたことを決して忘れてはならない。
23  大聖人は、次のようにも仰せである。「一切の事は国により時による事なり、仏法は此の道理をわきまうべきにて候」――一切のことは、国により時による。仏法を行ずる者は、この道理をわきまえていくべきである――と。
 今回の東南アジア歴訪に際しても、私は、この点に最も留意しながら、行動し、対話してきた。会員の皆さま方が安心して活動に励めるよう、力を尽くし、最大に心を配ってきたつもりである。また、これまでの歩みにおいても、すべて同様であった。
 この四十年間、あらゆる人々が幸の大道を歩み、国土も、時代も、未来も限りなき繁栄へと開けていくよう、御聖訓のままに、私は心を尽くしに尽くし、走りに走ってきたつもりである。私のこの「心」を、最も大切な青年部の門下に、確かに託し、本日のスピーチとしたい。

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