Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第1回香港青年部合同総会 ″民衆の時代″の希望の虹に

1988.2.14 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

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2  先日も少々お話ししたが、二十七年前の一九六一年、私は日達上人をご案内して、この香港を皮切りにアジア諸国を歴訪した。当時、私は三十三歳。私もまた今の皆さまと同じ青年の一人であった。
 この年の秋、日本の国立競技場で開催された第十回男子部総会の折、日達上人が次のように話されていたことを、私は忘れられない。
 「人類を救うところの慈悲のその大法は、すなわち久遠の妙法華経は、久遠の初めからずっとそなわって今日にきております。(中略)たとえば、あの広ばくたる砂漠さばくの中に、その泉の水はそなわっているけれども、長い時代にはなかなか表面に出てこなかった。
 あるときは、釈尊の時代に少し出、また天台、伝教のあいだに、その水の湿りが少し大地に出たにすぎないが、末法において宗祖大聖人様の時代に、その南無妙法蓮華経の功徳のくめども尽くせぬところの水は、こんこんとき出てきている」と。
 この妙法の無量の功徳の水が、アジアにそして全世界に涌きずる大いなる″時″を、私は今、いやまして感じている。
 さらに日達上人は、この折、もったいなくも次のように仰せくださった。
 「いまその(妙法の)水をくみとるところの大将として、創価学会の会長、池田先生がある。そのあとにつづく十万の諸君は、堂々一致団結してこの水をくみとり、日本はおろか世界のすみずみまでも、これを散布してどうぞ世界平和の実現を期していただきたい」と。
 私のことは別として、この総会に香港の李剛寿理事長も、若き旗手の一人として参加していたことを、皆さまに紹介しておきたい。
 青年時代に確固たる「原点」を持った人は強い。その意味において、本日の「記念総会」に参加した皆さま方が、これからの十年、二十年、そして三十年と、妙法の慈水をさらにくみ出しながら、アジアの平和、世界の平和へと活躍しゆく姿を思い描くと、私の心は躍る。
 きょうは少々話が固いかもしれないが、「知性」と「情熱」をそなえ、二十一世紀の指導者となりゆく皆さま方である。世界の思想、哲学をはじめ、さまざまなことを知っておいてもらいたいとの思いでお話をさせていただきたい。ご存じの方もおられると思うが、復習の意味でお聞きくだされば幸いである。
3  「平和」と「文化」の水路を全世界へ
 世界の歴史は今、二十一世紀を目前にして、激動とカオスの時代から、恒久平和を志向する新たな人類史の夜明けを迎えつつあるといえる。
 諸君も周知のごとく、昨年十二月に米ソ間でINF(中距離核戦力)全廃条約が調印され、軍縮史上、初の核兵器実質削減が行われようとしている。また、中国にあっても、戦争の危険が切迫しているとの従来の見方から、少なくとも今世紀における大戦争勃発ぼっぱつはないとの国際情勢の認識に立ち、一九八四年以降の三年間で約百万人の兵力削減を行っている。
 これらの世界の軍縮の動きを見るとき、いまだ楽観は許されないとしても、時流が軍拡から軍備縮小へ、さらに核廃絶へと向かいつつあることは、誤りない事実であるといえよう。
 それはまた、民衆の「悲願」であり、切実な「声」であった。もはや指導者は、民衆の声に耳を傾けざるをえない「民衆の時代」に入ったとの実感を、私は深くする。
 古来、戦争の最大の犠牲者は、常に無辜むこの民衆であった。そして、民衆が戦争をいとい、平和を念願する痛切な思いもまた、長い戦火の歴史とともにあったといってよい。
 中国・唐代の詩人、白居易はくきょいは、いつ果てるとも知れない戦乱に駆り立てられる民衆の心情を、多くの詩にたくしたことで余りにも有名である。その一つ「新豊しんぽううでを折りしおきな」で、彼はこう歌っている。
  是の時 おうの年は二十四
  兵部へいぶ牒中ちょうちゅう名字めいじ有り
  夜けてえて人をして知らしめず
  ひそかに大石をたたいてうでを折る
  (中略)
  うで折りてより来来このかた六十年
  一肢いっし廃すといえども一身まった
  今に至るまで風雨陰寒いんかんの夜
  直ちに天明に到るまで痛みて眠れず
  痛みて眠れざるも
  ついに悔いず
  且つ喜ぶ 老身 今ひとり在るを(『中国の詩集7 白楽天詩集』山本太郎訳、角川書店)
 無益むえき軍役ぐんえきに駆り出され、尊い生命をいたずらに失うことをいとい、自ら大石で腕をへし折った。その腕は老いてもなお痛むが、しかし犬死にすることなく、こうして生きているのだから悔いはない――。こうした一老人の心境に託して、無道暴虐むどうぼうぎゃくの指導者と、愚かしい戦争とを、彼は痛烈に批判しているのである。
 そこには、単に、軍役を回避するという厭戦えんせんを突き抜け、戦争という不条理への民衆の怒り、悲しみ、人間の生き抜く権利への渇仰の叫びがある。それゆえにこそ、この詩は中国の人々の胸を打ち、長く記憶にとどめられてきたのであろう。
4  中国思想の底流には、古くから民衆を重んじる考え方が、一つの水脈として流れていたと思われる。そのなかでも、「中国のルソー」とうたわれ、十七世紀、みん朝末からしん朝はじめに活躍した黄宗羲こうそうぎは、人権の尊重を説いた代表的な思想家である。彼は、明と清との王朝交代という大変動期のなかで著した主著「明夷待訪録めいい たいほうろく」で、世の混乱を招いた原因と、今後に取るべき道を、当時の政治の得失とくしつを論じるなかで説いている。
 そのなかに「いにしえは、天下が主人であり、君主は客分であった。君主が生涯をかけて経営したのは、みな天下のためであった。それが今では、君主が主人であって天下が客である。およそ天下で安寧あんねいなところとてないのは、こうした君主のためである」との言葉がある。
 ここに見られるのは、民衆こそが社会の主体者であり、君主はその客分であるとの主張である。もとより、大儒たいじゅ(すぐれた儒教の学者)であった彼は、かみ皇帝を奉戴ほうたいし、しも万民を徳治とくちするという、中国の伝統的な封建秩序のわく組みのなかにあった。
 しかし、ルソーに先だつこと百年、民衆こそ社会の主体者であることを明言する彼の主張は、驚くほど先進的な優れた思想であったといえる。君主を「客」とし、民衆を「主」とする彼の思想は、現代でいえば、国家・社会は民衆のためのものであり、民衆がその手段にされることがあってはならない、との考えに通じよう。
 総じて儒教は、とくに制度面において、現状を固定的にとらえるあまり、一再いっさいならず、改革へのさまたげになってきたことは否めない。そのマイナス面を踏まえつつも、私が強調しておきたいのは、単に儒教というよりも、中国の歴史や思想に途切れることなく脈打っている「民衆への信頼感」「人間への信頼感」である。
5   「天下は一人の天下にあらず、すなわち天下の天下なり」(太公)
  「民を貴しとす。社稷しゃしょく(国家等の共同体)之に次ぎ、君を軽しと為す」(孟子)
  「民に信なくば立たず」(孔子)
  「衆怒しゅうど犯し難し」(子産)
 などの古賢こけんの言葉は、黄宗羲こうそうぎの″民本思想″へと、まっすぐに道を通じている。
 数千年の歴史を通じての、そうした経験の蓄積は、今後の世界平和の構築に貢献しゆく貴重な財産であると私は信ずる。″民衆への信頼感″――とひと口にいっても、口でいうほど簡単なことではない。それだけに、私には、長遠な中国文明の底流をなしている民衆への信頼という伝統が、ことのほか尊く思われてならない。
6  アメリカの元国務長官ヘンリー・キッシンジャー博士は、私の長年の知己ちきの一人である。昨年には、博士と私の対談集が、日本で刊行された。そのなかで博士は、中国の未来について、″二十一世紀には、中国の重要性が、格段に増すであろう。アメリカや日本の文化と違い、中国文化は「普遍性」をそなえている″と述べている。
 時間の都合で、博士の言葉の詳細は略させていただくが、その鍛えぬかれた炯眼けいがんが、中国民族の歴史的経験に蓄えられてきた、一つの知恵を見すえていることは間違いない。
 ともあれ、民衆と民衆との信頼と連帯の波を一国のみならず、国境を超え、幾重にも広げていくことなくして平和はありえない。その使命を双肩に担う者こそ、若き諸君である。
7  近年、香港をはじめ東アジア、また東南アジア諸国の経済的な発展は、まことに目覚ましく、世界の注目するところである。
 それは、単に経済次元のみにとどまるものでなく、アジアの民衆の活力、文化の興隆を象徴するものといっても過言ではない。まさに、環太平洋時代の幕開けを物語るものといえよう。いわば、久しく、停滞と混迷をいわれ続けてきたアジアの台頭であり、民衆のバイタリティーに根差した新しい文化と平和の波を、アジアから起こす時代が到来したとの思いを抱くのは、私一人ではないだろう。
 ことに、東洋における西洋文化流入の窓口であった香港。その文化交流に果たす役割は、はなはだ大きいものがある。なかんずく、香港の未来を担いゆく若き諸君には、多くの先人達が波濤はとうを越えてこの地にいたり、人類への偉大なる遺産を残したごとく、文化の水路を開き、民衆の心と心を結ぶ、新しき「平和の大航海時代」を創造しゆく大切な使命と責任があると私は申し上げたい。
8  日蓮大聖人は「御義口伝」に次のように仰せである。
 「漢高三尺の剣も一字の智剣に及ばざるなり妙の一字の智剣を以て生死煩悩の繩を切るなり」――漢の高祖・劉邦の絶大な威力を示した三尺の剣も、妙の一字の智の剣には及ばない。この妙の一字の智剣で、生死の苦しみ、煩悩の迷いの縄を切るのである――と。
 まさに、妙法こそ、生命の苦悩の根源を断ち切る最高の智の剣である。そして、民衆を「幸福」へ、社会を「平和」へと厳然と守り、導きゆく無上の力なのである。
 諸君は、この何ものにもかえがたい法理をもった若きリーダーである。どうか、人類史の壮大なる転換へのこの道を、私とともに前進していただきたい。
9  一昨日、私は久方ぶりに香港の繁華街を歩いた。中国正月(今年は二月十七日)を前に、街には新年を迎える活気が満ちていた。
 街角で目にする正月を祝う言葉からも、新しい年への人々の願いが感じられ、まことにほほえましく思われた。いわく、「迎春接福」「新年進歩」「如意吉祥」(良いことが思いのまま)「龍馬精神」(元気はつらつ)「福寿康寧」(福運・長寿・健康・安寧あんねいであるよう)「恭喜発財」(財産が増えるよう)等々であった。中国の人々の表現力の豊かさに、あらためて私は感銘した。
 ともあれ、幸福は万人の願いである。
 日蓮大聖人は、お正月に門下に与えられた御手紙のなかで、「さいわいは心よりいでて我をかざる」「法華経を信ずる人は・さいわいを万里の外よりあつむべし」と仰せである。
 現実の諸君の生活には、さまざまな悩みがあるであろう。また、それが青春の本然の姿である。しかし、そのすべてを悠然と開き、朗らかな成長への発条バネと転じながら、日々、月々、年々、これ以上ないという「満足」と「価値」ある人生を歩んでいけるのが、この「大法」なのである。これは、私の四十年間の信仰を通し、また多くの諸君の先輩の姿を見て、絶対に間違いのない事実である。
 どうか、ご両親をはじめ、ご家族の皆さまにも、くれぐれもよろしくお伝えください。アジアの天地に新しき平和の虹をかけゆく、我が敬愛する香港青年部の前途を心より祝し、「新年進歩」「龍馬精神」と申し上げ、私のスピーチとさせていただく。

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