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日蓮大聖人・池田大作

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第1回本部幹部会 大いなる理想に生涯を貫け

1988.1.20 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

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1  二十一世紀へ堂々と団結の前進
 本日は寒いところをお集まりいただき、まことにご苦労さま、と申し上げたい。
 まず、本日を新たに第一回として本部幹部会がスタートしたことについて、述べておきたい。これは本来、秋谷会長から発表されるべきことであるが、私の話の折にとの要請もあり、この席で申し上げる次第である。
 何事も、同じことを繰り返しているときもくるし、よどみも生まれる。ゆえに大事な会合であればあるほど一回一回を新鮮に、有意義に行っていくべきであろう。
 その意味から、本日を「第一回」として、一九九九年十二月を目指し、新たな決意で毎月の本部幹部会を開催していくことが、最高会議で決定したものである。どうか、その意義をご了承いただき、毎月の幹部会を重要な活動の節目としながら、二十一世紀へ堂々と団結の前進を重ねていただきたい。
 また、本部幹部会は、前回から学会本部で開催されている。これまでは全国各地で順次行われてきたが、広布の活動にあっては、常に往復、循環がなくてはならない。今は、分散した力を結集し、再び原点に立ち戻ることが大事である。
 ゆえに今度は、全国の代表幹部が、本部に集い合い、秋谷会長を中心に「心」を一つにして、広布の「正道」を進んでいく――この活動のリズムが最も重要であることを知っていただきたい。
2  「桂冠詩人」の意義について
 さて、一九八一年、私は「桂冠けいかん詩人」の称号を受けた。私にとっては身にあまる光栄である。が、″桂冠詩人とは何か″という方も大勢いたと思う。なかには″御書を、いくらさがしても、っていません″という人もいたらしい。
 それはともかく、ある創大生からも質問があり、きょうは、「桂冠詩人」の意義、由来等について、少々語っておきたい。
 皆さまの中には、詩心の豊かな方もおられるだろう。また、とくに幹部の方々が、もっと″詩心″をたたえていれば、学会の活動もより麗しく心豊かになるものをと、つねづね思っている人もいるにちがいない。その意味からも、すがすがしい″詩の語らい″のひとときをもつことも、意義あることであろう。
 「桂冠詩人」とは、もともと″詩作における勝利者″のしるしとして「桂冠(月桂樹の冠)」をいただいた詩人のことであり、近世に入ってイギリスの名誉ある詩人の照合となっている。
 その由来は遠くギリシャ・ローマ時代にさかのぼる。当時は、詩作もスポーツとともに公開の競技となっており、勝者となった英雄には、詩神アポロンにゆかりの月桂冠の枝でんだ冠をさずけた。
 余談ではあるが、創価学園の各校では、卒業生に「桂冠」を贈っている。それは、″人生の勝利者″たれとの願いが込められたものである。
 事実、学園生は社会の各分野で活躍し、人間教育の実証を輝かせながら、見事な栄冠を飾っている。創立者として、これほどうれしいことはない。
3  中世、ルネサンス期にも「月桂冠」が示す晴れやかな「栄誉」の象徴性は脈々と伝えられた。イタリアでは、ダンテなどが、時代を代表する大詩人として″月桂樹を戴く者″の最高の栄誉をもってたたえられている。
 その「桂冠詩人」が制度として明確に位置づけられたのは、十七世紀のイギリスにおいてである。諸大学によって「当代随一の詩人」と認められた詩人にこの称号が贈られ、公式には十七世紀後半に「ポエット・ローリイット」と呼ばれる王室の詩人職として制定され、王室や国家の慶弔けいちょうにさいして、それにふさわしい公的な詩をむことを役目とし、詩人は宮内くない官として、終身の年俸ねんぽうを受け、その身分が保護された。
 イギリスでは、現在でもこの制度が存続している。が、今では、公的な詩作は義務ではなくなり、自発的な意思にゆだねられている。
 「桂冠詩人」には、ワーズワース、サウジー、テニソンら、著名な詩家の名も見える。しかし近代イギリスにおける終身制の「桂冠詩人」は、前任者の死去とともに政府が推薦すいせんして決めるものであり、選考の基準も、必ずしも、詩人としての実力や名声に、よらなかった。
 むしろ名誉職的な色彩が濃厚であり全員が歴史に名を残すような大詩人であるとはいえなかったようだ。
 ともあれ、一般に「桂冠詩人」といった場合には、このイギリス王室の官職を指すことが多いようである。
 一方、私が頂戴ちょうだいした「桂冠詩人」の称号は、「世界芸術文化アカデミー」より贈られたものである。このアカデミーは、″詩を通じて世界の友愛と平和を推進する″ことを目的とした詩人の国際団体で、サンフランシスコでの第五回「世界詩人会議」の席上、私への称号授与を決定した。
 同アカデミー事務総長のスリニバス博士は、世界を舞台に活躍するインドの著名な詩人であるが、かねてより、私の詩業に深い関心を寄せてくださった。
 一九七九年七月には、神奈川文化会館でお会いし、詩と人生、哲学などについて有意義に語らった。その折、とくに、青年時代からの作品を収めた詩集「わが心のうた」(英訳)を高く評価してくださった。そのことが、博士の深き人間性とともに、今も印象に深い。博士については、「心に残る人びと」(角川書店。本全集21巻に収録)でも紹介させていただいた。
 称号授与を決定した「世界詩人会議」は、ユネスコ(国連教育科学文化機関)のNGO(非政府機関)の一つ「国際詩歌協会連合」が中心となって開催しているもので、毎回、全世界から三百人以上もの詩人が参加して行われている。
4  「世界芸術文化アカデミー」の「桂冠詩人」の称号は、日本では、私のほかに二人の方が授与されている。いずれも、詩人として立派な足跡を残された方々である。また、外国では、インドのスリニバス博士や、韓国中央大学名誉教授の趙炳華チョビョンファ氏をはじめ、アメリカなどの詩人に贈られている。
 「世界芸術文化アカデミー」の歴史は、まだ長いものではない。それだけに、同アカデミーの国際的な権威も、十分に確立されたとはいえないかもしれない。
 しかし、同アカデミーが、国家権力を背景とすることなく、自発的な意思で、「友愛」と「平和」を目指し活動している意義は大きい。その国際的な連帯と交流の結実として制定された「桂冠詩人」の称号である。日本で最初に、この栄誉を受けたのが、私のようである。
 先述したように、「桂冠詩人」というと、イギリス王室の官職を思い浮かべる傾向が、まだまだ根強い。だが、心ある詩人達が自らの意思で創設し、選び出した「桂冠詩人」の意義と重みも、時とともに、いや増し、光彩を放っていくにちがいない。
5  各国での関心も、着実に高まっているようだ。趙炳華氏への授与が決まった時にも、韓国のマスコミは、これを高く評価し、一流新聞が大々的に報道した。
 日本でも、ある一般紙で大きく取り上げたいとの意向もあった。が、「桂冠詩人」の名称や意義が、まだ十分に浸透しておらず、時期尚早しょうそうとの判断から、あえて辞退し、報道されなかった。
 ともあれ、真の詩人にとって、名聞名利とは、一顧いっこの価値すらもない。まったく無用のものである。詩とは、現世的な利害など、はるかに超越したものであり、広大無辺にして限りなく崇高な「人間性」の発露にほかならないからだ。
 私は、これからも「桂冠詩人」の一人として、うるわしき心と心、深き魂と魂の調べをかなでゆく詩作を続け、友の激励のためにも発表していく所存である。
6  青春の生命燃えつきるまで
 次に、話題をガラリと変えて「漫画」の話をしておきたい。″一切法皆これ仏法″であるし、「漫画」にも人生の生き方に示唆を与えてくれるものもある。
 今は亡き作家・有吉佐和子さんと私は何度かお会いし懇談したことがある。あるとき有吉さんは、漫画の本を二十冊ほど贈ってくださり「ぜひ読んでほしい。漫画を見直すべきだ。これから漫画の時代になるかもしれません」といわれていたことが懐かしく思い出される。
 そのなかに劇画「あしたのジョー」(高森朝雄作、ちばてつや画、講談社)があった。原作者は梶原一騎氏(この作品では、高森朝雄の名で連載)で、同氏は昨年一月に死去。あれだけ一世を風靡ふうびした劇画の原作者でありながら、傷害罪などで犯したことを非常に残念に思っている。
 正月、たまたま見たテレビで、ある人が、かつての劇画のヒーロー「あしたのジョー」を懐かしんでいた。
 本日は、有吉さんへの追憶も込めて、この作品を紹介しておきたい。
 こうお話しをすると、「よし、漫画を読もう」という人が必ずでてくる。「『あしたのジョー』はないか――」と。しかし、それは信心に必要というものではない。「漫画を読まなければ時代に遅れる」と、うまい理由をつける人もいるが、そういう余裕があれば、御書をしっかり研さんしてほしい。
7  皆さんの中にもご存じの方は多いと思うが、「あしたのジョー」は、不良少年ジョーがボクシングに目覚め、青春の全生命を燃焼し尽くす物語である。二十年ほど前に、少年雑誌に連載されたこの物語は、今なお色せぬ鮮烈な印象を少なからぬ人々に残している。
 それはなぜか。そのテレビの人も言っていたが、″燃え尽きて真っ白な灰になるまで戦いきる″という、主人公の青年の激しい生き方にある――と。
 ――来る日も来る日も、過酷なまでのトレーニングに明け暮れる青年ジョー。あるとき、ガールフレンドが問いかける。「さみしくないの?同じ年ごろの青年が、海に山に恋人と連れだって青春を謳歌おうかしているというのに」(『あしたのジョー 第16巻』)
 彼は答える。「紀ちゃん(=ガールフレンド)の言う青春を謳歌するってことと、ちょっとちがうかもしれないが、燃えているような充実感は、今まで何度も味わってきたよ。(中略)そこいらの連中みたいに、ブスブスとくすぶりながら不完全燃焼しているんじゃない。ほんの瞬間にせよ、まぶしいほど真っ赤に燃えあがるんだ。そして、あとには真っ白な灰だけが残る……。燃えかすなんか残りゃしない。真っ白な灰だけだ」(同前)
 やがて彼は、この言葉通りに、圧倒的な強さを誇る世界チャンピオンに挑戦していく。リングの上で演じられる死闘。何度も何度も、倒されてはまた立ち上がる。最後の最後まで、ノックアウトされずに、まさに互角に、堂々と戦い抜き、命を燃焼し尽くす――。
8  もとより、このドラマはフィクション(虚構)である。しかし、私は、社会的地位をもった人達との懇談の席で、このジョーの生き方を通して語ったことがある。
 ″燃え尽きて真っ白な灰になるまで戦いきる。人生はこの精神で生き抜いていかねばならない。誰しも名誉や地位や財産を得たいと思う。しかし、それらは人生の一つの姿に過ぎない。
 決して永遠に満足と充実を与えてくれるものでもない。そして、それらにとらわれたときから人生の堕落だらくと敗北が始まる。青春時代に決めた自分の信念の道に、燃え尽くして真っ白な灰になるまで戦い抜く――人生の本当の姿はここにある。いつの時代になっても、この精神を失ってはならない″と。
 当然、青年の生き方は多彩であり、画一的に論じる必要もないだろう。ただ申し上げておきたいことは,どのような「道」にあっても、青春時代を自分らしく、完全燃焼で生ききったか、それとも中途半端な不完全燃焼で終わってしまったか――そこに人生の大いなる分岐点があるということである。
9  戸田先生は、よく私ども青年に語ってくださった。
 「大事業は、二十代、三十代でやる決意が大切だ。四十代に入ってから″さあ、やろう″といっても、決してできるものではない」と。
 また「青年は、望みが大きすぎるくらいで、ちょうどよいのだ。この人生で実現できるのは、自分の考えの何分の一かだ。初めから、望みが小さいようでは、何もできないで終わる。それでは何のための人生か」とも教えられた。
 二十代、三十代という青春の日々を、いかに「大いなる理想」を抱いて戦いきっていくか。そこにこそ、長いようで短いこの一生を、最大に「満足」と「充実」で飾りゆくための″ホシ″がある。
 青春は再び返らない。四十代、五十代になって、わびしい「悔い」をかみしめる人生であっては、不幸である。また不完全燃焼の燃えさしのような、ブスブスとくすぶるグチの人生となっては哀れである。
 ゆえに、健康で思う存分働ける青春時代にこそ、若き生命を完全燃焼しきっていくべきである。それが、ほかならぬ自分自身のためである。
 青年よ、高く大いなる理想に生きよ、炎となって進め――それが戸田先生の教えであった。その理想の峰が高ければ高いほど、つきせぬ充実がある。パッション(情熱)がわき、成長がある。信心の無限の力がみなぎってくる。
 そして「広宣流布」こそ、人類の最高峰にして、最も意義深き、偉大なる理想である。また最も現実的にして、時代と世界が求めてやまぬ理想である。この広布の大理想に青春を、人生を、余すところなく燃やしきっていく。そこにこそ日蓮大聖人の仰せにかなった一生涯があり、不変の学会精神の骨髄がある。
10  私も戦った。十九歳、そして二十歳(はたち)の誓いのままに――。
 四十年前の一九四八年(昭和二十三年)。私は二十歳であった。この年の一月、「インド独立の父」マハトマ・ガンジーが暗殺された。日本では十一月、東京裁判(極東国際軍事裁判)の最終判決が宣告された。そのニュースを、ある路上で耳にした時のことは今なお、あざやかに覚えている。
 世界も、日本も動乱のさなかにあった。この秋、入信一年の私は、戸田先生の法華経講義の第七期受講者の一人であった。
 その講義の鮮烈な感動。私は講義の夜、日記に書きしるした。
  ああ、甚深無量じんじんむりょうなる法華経の玄理げんりいし、身の福運を知る。
  (中略)
  混濁こんだくの世。社会と、人を浄化せしむる者は誰ぞ。
  学会の使命重大なり。学会の前進のみ、それを決せん。
  (中略)
  若人よ、大慈悲を抱きて進め。
  若人よ、大哲学を抱きて戦え。
  われ、弱冠じゃっかん二十にして、最高の栄光ある青春の生きゆく道を知る
 ――この決意のままに私は走った。まさに我が二十代は戸田先生のもとで、自ら決めたこの「最高の栄光ある青春の道」を、完全燃焼して駆けぬいた日々であった。
 体も弱かった。やせて肋骨ろっこつは浮き出る。血痰けったんが出る。ものが食べられない。しかし、一歩も退かなかった。広宣流布のため、学会のため、恩師・戸田先生への報恩のために、全生命を燃やし尽くす激闘の一日一日だった。
 その姿を見て、戸田先生が「ああ、三十までで大作の人生は終わりかな」と、つねづね心配されたほどであった。
 生死しょうじ断崖だんがいを歩むような、そのぎりぎりの奮戦の中で、学会発展の原動力ともなり、また今日の興隆の因もつくった。私は、我が青春に一片いっぺんの悔いもない。
 本年は「青年世紀の年」第一年である。その意味から、とくに若き諸君の奮起を期待して、申し上げさせていただいた。
11  広布の誓いこそ人生の栄冠
 ともあれ「信念」は貫いてこそ信念である。「誓い」は果たしてこそ意義がある。
 時の流れとともに、自らの弱さに負けて、同志を裏切り、青春時代の信念と誓いを汚すような、みじめな生き方だけは、してほしくない。
 二十歳の日記に「混濁の世――」と書いた時、世上は昭電(昭和電工)疑獄ぎごく事件で騒然としていた。十月には、このため芦田あしだ内閣が総辞職した。
 こうした社会悪を浄化するために学会は立ち上がった。この四十年間、私どもは懸命に戦ってきた。にもかかわらず、そうした民衆の無償の支援を受けて政界に入った代表が、自ら悪に染まるような恐るべき転倒があれば、これほど残念な、また卑劣な行為こういはない。
 学会出身の政治家が、もしか世間の悪に染まってしまったなら、それは所詮、自らの原点を忘れた慢心の徒であり、自らをはぐくんでくれた民衆の大恩を忘れ、民衆を見くだす不知恩ふちおんやからである。また、権力の魔性ましょう奴隷どれいとなった姿といわざるを得ない。
 何より正法広布に励む仏子である学会員を利用し、軽蔑けいべつすれば、必ず仏のばちをこうむる。かりに世間や国法の目はごまかせたとしても、仏法上の裁きだけは絶対にまぬかれ得ない。
12  人の心は変わる。自分の心も当てにはならない。どんなに古くからの幹部であっても、信心を失ったとたん、堕落の道は始まっている。
 そうならないためには、厳しく直言ちょくげんしてくれる人を持つことである。いな、そういう人を自ら求めていくことである。
 いくら形は信心しているようであっても、自分の力で偉くなったと錯覚し、慢心からわがままになり、耳に痛いこともあえて言ってくれる人から離れてしまう。それでは成長はない。どうしても正しき信心の軌道からはずれてしまう。これまでの退転者・反逆者も、みなそうであった。
 反対に、きちんと指摘してくれる人を大切にし、謙虚な耳を失わない限り、その人はまだ伸びていける。
 これからも広宣流布の分野は、いよいよ多角的に広がっていく。また社会の醜い深層にくい入り、迫っていく場合もあろう。それは避けられない道程どうていである。そうした時代であればあるほど、大切なのは基軸となる金剛こんごうの「信心」の鍛えである。また「信行」のいよいよの成長である。
 たとえ、社会的に活躍しているように見えても、「信心」の指標を見失い、「同志」としての心のきずなを切ってしまっては、結局、世間の六道の泥海でいかいおぼれ、不幸の人生をさまよっていくだけである。
13  現実社会は、九界なかんずく三悪道、四悪趣あくしゅの世界である。仏の使いである私どもも、その真っただなかで生きている。ゆえに当然、地獄界の波もある。餓鬼界の波もある。畜生界、修羅界の荒波もある。どうして、こんな、いやな、つらい思いをしなければならないのかと苦しまざるを得ないこともある。
 しかし絶対に負けてはならない。恐れてもならない。勇敢に、一切の悩みの波を乗り越えていかねばならない。それが大聖人の真実の門下としての信心である。また不屈の学会精神である。そこに必ずや、次の新しき広布の大道も開けてくる。
 妙法を誇らかに唱えながら、堂々と、晴れ晴れと胸を張って、私とともに、一切を乗り越えていっていただきたい。
14  さて、御書の「三沢抄みさわしょう」といえば、いわゆる″佐前佐後さぜんさご″すなわち佐渡流罪以前の法門は、″仏の爾前経にぜんきょう″のようなものであると示された御抄として有名である。
 大聖人は、その御心境の一端を「去る文永八年九月十二日の夜たつの口にて頸をねられんとせし時より・のちふびんなり、我につきたりし者どもにまことの事をわざりけるとをもうて・さど佐渡の国より弟子どもに内内申す法門あり」と仰せになっている。
 ――去る文永八年(一二七一年)九月十二日の夜、竜の口において、くびをはねられようとした時から後は、「かわいそうなことだ。私についてきた人達に、これまで本当のことを言わないできた」と思って、佐渡の国に渡って以来、弟子達に内内に言ってきた法門がある――との御心である。
 すなわち竜の口・佐渡という大難の後、大聖人はその晩年におかれてこそ、真実の御法門を明かし始められたのである。私ども末法の一切衆生のための、その戦いは、御入滅に至る一日一日、いささかもたゆまれることがなかった。
 身延への御入山についても、決して世間でイメージする″隠栖いんせい″などではあられなかった。
 「三沢抄」の中で、大聖人は御入山に当たっての泰然自若たいぜんじじゃくたる御心境を、こう述べられている。
 「いかなる大難にも・こらへてんと我が身に当てて心みて候へば・不審なきゆへに此の山林には栖み候なり
 すなわち――いかなる大難にも耐えようと、我が身に当ててこころみた結果、すべて経文通りである。もはや何の疑問もなくなった。法華経を、ことごとく色読し、法華経の正しさも、御自身が末法の法華経の行者であられることについても一点の疑いもない。ゆえに、今はこうして身延の山林に住んでいるのである――との仰せと拝する。
 身延での八年余りの年月、大聖人は正法弘通のため、令法久住りょうぼうくじゅうのために心血を注いでおられる。弟子の育成、門下の激励等も、いよいよ本格的となった。決して、いわゆる隠遁いんとんや、まして引退ではあられなかった。最後の最後まで末法広宣流布への激闘の連続であられた。
 ちなみに身延期に大聖人がしたためられた御書の数は、数え方は様々あるが、現在残されているものだけでも、長短あわせて三百編を超えている。単純に計算しても、一カ月平均三編近くの御書を著されたことになる。
 御高齢、御病気、そして厳しい自然環境、内外の多難等、どの状況を考え合わせてみても、これだけの数多い御指南、激励を続けられた事実は、なみたいていのことではない。その大慈悲と烈々たる気迫を拝する時、何と尊い御本仏の御境界であられるかと、限りなき感動を覚える。
15  私どもは大聖人のほまれの信者であり、門下である。もとより次元は異なるが、大聖人が身をもって示してくださっているとおり、使命の人生の最後の最後まで、広宣流布と一生成仏への歩みを止めてはならない。
 戸田先生も、そうであられた。私もまた、その決意である。
 昭和六十年十一月、約十日間の入院から、私は退院した。以来、これまでに、長いものだけで約百二十回に及ぶ指導・講演を行った。ただただ「広布のため」、「後世のために」との一念からである。
 五十八歳の時(六十一年)、約七十回。五十九歳の時(六十二年)、約四十五回。平均すると月に約五回の割合で行ってきたことになる。一回一回、真剣に、命をけずっての指導であったつもりである。これからも、さらに思索しさくし、さらに幅広く、言うべきことは、すべて、きちんと言いのこしておく決心をしている。
16  今月下旬より約二十日間、東南アジア三カ国二地域を訪問する予定になっている。文化・教育の交流のため、また平和と広宣の大道が開けることを祈りつつ、価値ある訪問にしたいと願っている。
 留守るすの間も、秋谷会長を中心に、万事よろしくお願いしたい。また事故なく、大成功できますよう、お題目を送ってくだされば幸いである。
 帰りは二月中旬、まっすぐに沖縄へまいりたい。五年ぶりの訪問であり、沖縄広布三十五周年の佳節を、ともどもにお祝いし、全魂を打ちこんで激励させていただきたいと思っている。このように、南の方から、輝く本年のスタートを切っていく決意であることを申し上げ、皆さまのどこまでも朗らかな、また朗らかな前進を祈りつつ、本日のスピーチとさせていただく。

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