Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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新宿、練馬区合同総会 この一生を青春の心で

1988.1.15 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

前後
2  未来は、若き諸君のものである。ゆえに私は、青年の諸君にこそ語りたい。伝えたい。言いのこしておきたい。また常に後輩なかんずく青年の育成に対して、全力で取り組んでいるつもりである。その心情と信念のうえから、本日も特に若き諸君を念頭において、懇談的にスピーチさせていただく。
 まず、青春時代とは何か。それは何より「悩み多き時代」であろう。
 未知の世界へ向かって、これから進みゆく青春の日々。そこには、悩みはつきものである。いや、悩みの連続こそ青春時代といってよい。
 社会に対する悩み、前途に対する悩み、どのように生きればよいかという悩み、父母をはじめ家庭に対する悩み、自分の性格に対する悩み、異性に関する悩み等々、それぞれの境遇において、悩みは実に多様であり数限りない。これが現実の「青春」である。
3  君たちよ、大鳳となって飛べ
 ――巣立ちゆこうとする小鳥は、「森」も「空」も「雲」も「雨」も、みな悩みと感じるかもしれない。小さな胸は不安と恐れでいっぱいであるにちがいない。しかし、雄々しく育った大鳳おおとりにとっては、それらは何の悩みでも恐れでもなくなる。人間も、人生もまた同じである。
 ゆえに大切なのは自分自身が大鳳へと成長することである。自らを鍛え、自らを磨き、自ら学びゆくことである。
 そのかなめの一点を避けて、他人の姿に惑い、また環境を嘆いても、真実の人生の完成もなければ勝利もない。むしろ悩みは深まるばかりであろう。
 その意味において、諸君は自分を磨き、鍛錬してくれる人々を、心からうれしく思い、感謝できる一人一人であってほしい。その求道と向上の一念に、「充実の青春」が、そして「正しき人生」が結実していく。人生の精髄せいずいを説き明かした仏法の教えの重要な一端もここにある。
 ともあれ当然、人さまざまな生き方がある。しかし、人生に「やり直し」はない。ゆえに私は諸君に、後になってい悲しむような、運命に翻弄ほんろうされた人生だけは送ってもらいたくない。この切なる心を知っていただければ幸いである。
 そして、いかなる悩み、迷いがあろうとも、いな悩みが出現すればするほど、妙法を唱えきって前へ前へと進み、「煩悩即菩提ぼんのうそくぼだい」の法理を見事、我が身に証明する生涯であっていただきたい。
4  青春――その混沌こんとんたる「情熱と苦悩」の日々。その、あふれるような多感な心理を、文学史上初めてとさえいわれる完成された表現で描ききった名作が、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」である。
 私も十八、九歳の青年時代に熱中して読んだ。本日は「成人の日」の意義を込めて、この懐かしい小説について少々、語らせていただきたい。
 あるいは、こうした古典は、現代の若い諸君には、あまりなじまないかもしれない。週刊誌のように楽に読めるわけではないし、敬遠するに限るという人も多いかもしれない。そうした傾向の是非ぜひはともあれ、本日はこの小説の粗筋と要点を申し上げるので、いちいち買って読む必要はないと申し上げておく。古典が苦手にがてな人も、安心していただきたい。
5  妙法の「大光」の輝きを生命に
 ゲーテは青春の灼熱しゃくねつも描いた。同時に晩年の荘厳な夕陽ゆうひも深く見つめた。彼は、人生のそれぞれの時期を十全じゅうぜんに生き、味わい、筆にした。そこにも、他にはまれな彼の大きさと、円熟えんじゅくした豊かさが表れている。
 広布のリーダーも、幅広い年齢層の方々を指導していかなければならない。青年の話ばかりすると、年配の方々がさびしがる。
 そこで、「ウェルテル」に入る前に、ゲーテの晩年の言葉を紹介しておきたい。また、そのことが″青春の書″「ウェルテル」をより深く味わうための背景ともなるにちがいない。
 彼の秘書役も果たした若き友人エッカーマンに対し、ゲーテが「死」と「生命」について語ったひとこまである。エッカーマンは書いている。
 「私たちは……そこで、沈んでいく太陽を見た。ゲーテは、しばし物思いにふけっていたが、やがて、私にむかって、ある古代人の言葉を口ずさんだ。
 沈みゆけど、日輪はつねにかわらじ。
 『七十五歳にもなると』と彼は、たいへんほがらかに語りつづけた。『ときには、死について考えてみないわけにいかない。死を考えても、私は泰然自若たいぜんじじゃくとしていられる。なぜなら、われわれの精神は、絶対に滅びることのない存在であり、永遠から永遠にむかってたえず活動していくものだと、かたく確信しているからだ。それは、太陽と似ており、太陽も、地上にいるわれわれの目には、沈んでいくように見えても、実は、けっして沈むことなく、いつも輝きつづけているのだからね』」(『ゲーテとの対話』山下肇訳、岩波文庫)
 ゲーテは、真実の仏法を知らなかった。しかし、このように「永遠の生命」を確信していた。生命の不滅の真髄に肉薄にくはくし、「太陽」にその象徴を見ていた。
 すぐれた二乗、さらには菩薩の境界の一分ともいえようか。人生の本質に迫る文豪の視点の深さをうかがわせる言葉である。
 ゲーテは、仏法にも通じる我が胸中の知恵を、自らの言葉で縦横じゅうおうに表現した。真実と、その正確な表現を限りなく求めてやまなかった。そこに偉大さがある。一時の流行や評価のみを追い求める作家にはない、色あせぬ魅力がある。
 ゲーテの肉体は滅びても、その生命を打ち込んだ作品は、まさに太陽のごとく、永遠に人々を魅了し、輝き続けているといってよい。
6  また、この言葉の中で、たとえ地上の人間には沈んでいくように見えても、また暗雲におおわれる日があったとしても、常に悠然ゆうぜんと、あるがままに、変わらず輝き続ける太陽の姿に、私は深く胸打たれる思いがする。
 日蓮大聖人の仏法もまた「太陽の仏法」である。御書には多く、妙法を太陽にたとえて述べられている。
 善無畏三蔵抄ぜんむいさんぞうしょうには、「日輪・東方の空に出でさせ給へば南浮の空・皆明かなり大光を備へ給へる故なり」と仰せである。
 ――太陽が東方の空に昇ったならば、南閻浮提なんえんぶだいすなわち全世界の空は、みな明るくなる。それは太陽が大光をそなえているからである、と。
 その反対に、「螢火(ほたるび)は未だ国土を照さず」――ホタルの光では(世界どころか)一国土でさえ照らすことができない――と。
 「太陽の人生」なのか、「蛍火の人生」となるのか。ここに大いなる分岐点ぶんきてんがある。
 さらに「宝珠は懐中に持ぬれば万物皆ふらさずと云う事なし、瓦石は財をふらさず」と。
 ――如意宝珠にょいほうじゅを、ふところにたもっていれば、どんなものでも一念のままに降らせることができる。しかし、かわらや石は財宝を降らせることはできない、との仰せである。如意宝珠とは、御本尊のことであられる。
 そして結論して「念仏等は法華経の題目に対すれば瓦石と宝珠と螢火と日光との如し」と仰せられている。すなわち、「太陽と蛍火」「宝珠と瓦石」の二つのたとえをもって、他宗教に比べて、三大秘法の南無妙法蓮華経の功徳が絶大であることを示されている。
 妙法こそ「宝珠」である。妙法こそ「太陽」である。題目を唱えることは、我が人生を太陽で照らすことである。
 人生は長い。晴れの日もある。強風の日もある。雨に打たれる時もある。しかし、いかなる日にも太陽は昇る。信仰とは、一日また一日、いかなる時も、胸中の大空に太陽を昇らせ続ける連続作業である。
 ゆえに信仰を持つ人は強い。不滅の「大光」を手にしている。さんとして輝く日輪の生命力を全身にみなぎらせ、無量無辺の喜びを心に感受しながら、まさに太陽のごとく、堂々と、そして悠然と生き抜いていくことができる。
 またゲーテは永遠の生を確信するゆえに、死を考えても泰然自若たいぜんじじゃくとしていられると語った。いわんや、「永遠の生命」の当体である妙法を持った私どもは、死をいささかも恐れる必要はない。生死ともに、また生死を超えて、妙法の「太陽」とともに、かけがえなき我が生命を永遠に輝かせていけるのが「信心」の力である。これ以上の人生は絶対にないことを確信すべきである。
7  『若きウェルテルの悩み』をとおして
 さて、「若きウェルテルの悩み」は、ゲーテの作品のなかでも最初の本格的な小説とされる。多くの専門の研究家がおられ、この作品についても、さまざまなとらえ方があることも存じ上げているが、ここでは、私が青春時代に読んだ記憶をもとに話させていただくことをご了承願いたい。
 当時、ゲーテは二十五歳。この小説はゲーテ自身の恋愛体験をもとにした作品であり、約一カ月ほどの短期間のうちに書き上げられ、一七七四年に刊行された。
 作品は、大きく分けて第一巻、第二巻、そして「編者より読者へ」の三つの部分からなっており、主要部分は、主人公ウェルテルが友人のウィルヘルムに手紙を書き心情を告白するという書簡体小説の形式をとっている。
 この小説は、出版されるやたちまち一大センセーションを巻き起こし、かつて例のないほどの勢いで読者の輪を広げていった。多くの若者が、純粋で多感な青春の象徴として『若きウェルテルの悩み』を読み、感激したのであろう。ドイツ国内だけでなく、フランス、イギリス、イタリアなど、各国語に次々と翻訳され、世界中に紹介された。
 日本でも数十に及ぶ翻訳があるようだが、ゲーテの作品のなかで最も多い翻訳数を誇るものといえよう。
 ナポレオンが、この「若きウェルテルの悩み」をエジプト遠征に携えていき、七回読んだといわれているのは有名な話である。
 ゲーテに対して尊敬の念を抱いていたナポレオンは、一八〇八年、ドイツ・ザクセンのエルフルトで会見する。その時ゲーテは五十九歳、ナポレオンは三十九歳であった。
 そのさい、二人は『若きウェルテルの悩み』についても語り合った。ナポレオンは、この作品の恋愛の展開について不自然と思われる個所を指摘し、ゲーテもまた、それに同意している。
 この会見の模様を、私は少年時代、大変な感動をもって知り、強烈な印象として心にとどめていた。これについて、かつて郷土の中学生の講演会で話したことは、今でも懐かしい思い出となっている。
8  ゲーテとナポレオンは、立場は異なっていたが、互いに人間的に高く評価していた。ゲーテは後年(一八二九年)、エッカーマンとの対話のなかで、ナポレオンについて次のように語っている。
 「ことにナポレオンが偉大だった点は、いつでも同じ人間であったということだよ。戦闘の前だろうと、戦闘のさなかだろうと、勝利の後だろうと、敗北の後だろうと、彼はつねに断固としてたじろがず、つねに、何をなすべきかをはっきりとわきまえていて、彼は、つねに自分にふさわしい環境に身を置き、いついかなる瞬間、いかなる状態に臨んでも、それに対処できた」と。
 これは、ナポレオンの指導者としての偉大さを的確にとらえた言葉である。とともに人生におけるさまざまな戦い、また広布の遠征において、非常に大切な示唆を投げかけている。
 勝っても負けても、また、どのような悩みに直面しても微動だにしない。騒がず、動揺もない。妙法を唱えながら、悠然とことに処し、人生を生きていく。また広布の労作業に徹し切っていく――これこそ「信仰王者」のいき方である。
 戸田先生もその通りの人生であった。私も同じ覚悟で進んできたつもりである。どうか若き諸君は、広布継承の新世紀のリーダーとして、いかなる人生の境遇になろうと、この「信仰王者」の精神をどこまでも貫いていってほしい。
9  ――この物語は、優秀にして多感な青年ウェルテルが、恋に悩む。そのうえ、職場の上司との対立、仕事での不満、ろうな階級意識による周囲からの侮などが重なり、かなわぬ恋の葛藤かっとうと、煩悶はんもんのなか、ついに自らの生を絶つ、つまり自己の破滅に至るという悲劇である。
 富裕ふゆうな家に生まれ、法律を専攻したウェルテルは、豊かな感受性に恵まれた、情熱的で夢想家むそうか肌の青年である。遺産に関する用件を処理するために、ある町を訪れた彼は、豊かな自然の息吹いぶきに包まれて、かつて経験したことのないほどの生の充実を感じ、無上の幸福感にひたっていた。
 そうしたある日、彼は舞踏ぶとう会に招かれ、ロッテという官吏の娘と知り合う。
 彼女は、素朴で快活ななかにも、奥ゆかしい優雅な魅力をそなえた少女であったため、ウェルテルは心ひかれずにはいられなかった。特にウェルテルを感動させたのは、彼が訪問するたびに接するロッテの、亡き母に代わってこまめに弟妹達の面倒をみる、かいがいしい姿であった。
 ロッテにはすでに、アルベルトという婚約者があった。だが彼女は、知的で純粋なウェルテルとの交際を喜んだので、彼は連日ロッテの家を訪れては、こよなく幸福な時を過ごした。
 間もなくアルベルトが旅先から帰ってきた。まじめな実務家であった彼は、寛容の美徳をそなえていた。そのため、ロッテに近づいたウェルテルに対しても、他の人と変わらぬ好意を寄せ、親しく交際する。しかし、ウェルテルは、ロッテへのいや増す愛情に耐えかねて、別れも告げずに去っていく。
10  ウェルテルは、ある町の公使館に勤めるようになる。典型的な官僚かんりょう主義の公使。それをとりまく人々は、あさましい出世欲にとらわれている。そして、位や家柄にこだわる封建的因習が根づよい社会。ウェルテルは憎しみと憤まんのうちに、その日その日を過ごし、上司である公使ともことあるごとに衝突しょうとつする。
 そんななかアルベルトから、ロッテと結婚したという通知が届く。その数日後、ウェルテルは、ある伯爵はくしゃく邸の夜会でひどいはずかしめを受ける。集まった貴族達が、平民であるウェルテルの同席に対して、不満の色をあからさまに示したのである。
 侮辱ぶじょくに耐えかねたウェルテルは、職を辞して放浪の旅に出る。しかし旅を続けている間に、いったんあきらめたはずのロッテへの愛の情熱が急速に高まる。″ただもう一度、ロッテのもとへいきたい″――ウェルテルは彼女のもとへ舞いもどる。
 だが、仲むつまじいロッテ達の生活を目の当たりにして、ウェルテルの懊悩おうのうは病的なまでにつのる。アルベルトへの激しい嫉妬しっと。満たされない愛による空虚感と生の倦怠けんたい。愛するロッテの平安のためには、自分を抹殺まっさつする以外に方法がないことを悟った彼は、最後の別れを告げるためロッテのもとにおもむく。
 一方、ロッテも心の底でウェルテルにひれていたことを知る。彼の来訪に、心を動揺させるロッテ。それを隠すために、ウェルテルが自分のために訳してくれた詩を読んでもらうのだが……。
 その翌日の夜十二時、ウェルテルは、アルベルトから借りたピストルで自らの命を絶ってしまう。――以上が、この小説の簡単なあらすじである。
11  いかなる時代にあっても、この小説で描かれた「人生の苦悩」や「隠された不満」「生の怠」がある。また、「人間関係の摩擦まさつ」や「社会制度との葛藤かっとう」がある。特に青年時代は、心が純粋であるだけに、それらの苦悩は強く、深い。
 なかでも「恋愛」は、理性ではいかんともしがたい″熱病″である。経験された方もいると思うが、これを治す″特効薬″は、まだ見つかっていない。
 だが、人生の苦悩に引きずられたり、負けてはならない。それでは前途に不幸の道が待っているだけである。自分自身に勝ち、乗り越えていく以外にない。
 また、因習と権威と悪しき環境にあって庶民の一人一人が力をもつ以外に、真の幸福の勝利はない。さらに、庶民の一人一人が知恵を持たなければならない。聡明でなければ、いつの時代にあっても邪知の人々に翻弄ほんろうされてしまうからである。
 その一人一人に真の力と、真の知恵を与えてくれるのは、正しき信仰の力である。その偉大なる運動こそを広宣流布運動と、一次元から、私はみたい。
12  人生究極の目的観に生きよ
 若きウェルテルの終幕は「自殺」であった。が、いかなる理由であれ、自殺という末路は、余りにむなしく、あわれである。ある意味で、人生の価値は、その最終章をいかに有意義に、また見事に飾っていくかで決まる。自殺という終焉しゅうえんは、やはり敗北と挫折の人生の終着といわざるをえない。仏法でも、自殺を厳しく戒めている。
 輝かしい「勝利」の人生と、色あせた「敗北」の人生。それを決定的に分かつのは、いかなる理想に我が人生を向かわしめていくかという、人生究極の目的観によるのではなかろうか。
 三十年前の昭和三十三年、戸田先生は「大白華」新年号の巻頭言に、「勇猛精進ゆうみょうしょうじん」と題して、次のようにしるされている。
 「一年の計は元旦にあるとかいって、元旦には、あれこれの計画を立てたがる。しかし、いろいろの計画を立てても、ほとんど、それは実行されないものだ。なぜなら、人生の目的がわからないで、一年の計も一生の計も、立てられるわけがない。少年時代からの自分をふりかえってみれば、学校へはいれたら何かよいことがあるだろう……どこへ就職したらとか、結婚したらとか、自分の家ができたなら……等々と、何かしら、これから先に幸福があるかしらんと思って、何年か過ぎるうちに、老人になって死んでしまう。もちろん、こうしたことは、生活していくうえのそれぞれの目的には違いないが、最高の目的からみれば、それ以下のことは、全部手段になってしまうのだ。逆にいえば、終局の目的がなければ、正当な手段も立ちようがないのである」(『戸田城聖全集 第一巻』)
 人生の本質を鋭くとらえた卓見である。
 人生の終極の目標と、途上でのさまざまな課題。この両者をはき違えてしまうところに、人生の悲劇の大半の理由があると私は見る。社会的な地位も、名声も、財産も、決して人生究極の目的ではない。恋愛も、同様である。したがって、仮に、事業や恋愛に失敗することがあっても、それは人生そのものの敗北ではない。
 大切なのは、さまざまな挫折や失敗を乗り越え、大いなる目的のために、どう生かしきっていくかである。私どもにとって、その最高にして終極の目標とは、広宣流布という大事業にほかならない。
 ゆえに戸田先生は、巻頭言の後半部に、次のようにいう。
 「末法の本仏日蓮大聖人は、三大秘法の南無妙法蓮華経をご建立こんりゅう遊ばされて、一切衆生に即身成仏の大直道じきどうをご教示遊ばされた……われわれ末法の衆生は、この末法御本仏のご誓願を、よくよくわが身に体し、まず人生の基本方針を決定することが第一の問題だ。ちょうど、それは、小説『人間革命』(=妙悟空著)のなかで、がんさん(戸田先生のこと)が『よし!/ぼくの一生は決まった!/このたっとい法華経を流布して、生涯を終わるのだ!』と叫び、今こそ人生にまどわず、また、おのれの天命を知ることができたと叫んだのが、これである」と。
13  広宣流布という大目的に生きゆく限り、小さな成功や失敗に一喜一憂する必要はない。たとえ、今はいかなる窮地きゅうちにあろうとも、唱題根本に広布への「実践」に励んでいくならば、必ずや、目の前のカベは開け、前進の実証を示すことができる。そのための「信仰」である。
 戸田先生は、巻頭言の結論として、「昭和三十三年の新春を迎えるにあたり、学会員の一人一人が、この決意も新たに、広宣流布の大道を、勇猛精進せられんことを祈ってやまないものである。『一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ』のご聖訓を日夜じゅして、きょうよりも明日あす、今月よりも来月、ことしよりも来年と、いよいよ信心強盛に励むことが、一年の計の基本であり、一生の計の根本となるのだ」と述べておられる。
 皆さま方は、すでに、最高の人生の目的を手にされた方々である。どうか人生の最終章まで、″きょうよりあす″と、たくましく大目的に生き抜いていかれるよう祈ってやまない。
14  「失敗は青春の辞書になし」の心意気
 さて、「若きウェルテルの悩み」は、ウェルテルの自殺という形で終わるが、ゲーテが、あえてそうした結末を配したのは、何らかの意図と意味があったと思われる。
 キリスト教的な倫理りんり観が支配するヨーロッパ社会にあっては、自殺は神の意志に反する行為として厳重に禁じられていた。ゆえに自殺で幕を閉じるゲーテの物語は、神の権威に対する真っ向からの挑戦の意味あいをもった。事実、作品発表後、世間には囂々ごうごうたる非難と論議が巻き起こるのである。
 ゲーテの青春期には、「シュトルム・ウント・ドランク(疾風怒涛しっぷうどとう)」と呼ばれる革新的な文芸運動の嵐が吹き荒れていた。これは、中世的な「神」の観念を吹き払い、人間の知性や情緒を重んずる″人間復興″の主張であった。ゲーテの著作も、そうした潮流の一つであり、神中心の考え方への反発、警告であるとともに、神の桎梏しっこくから人間を解き放つ″自由″への叫びでもあったことを見逃してはならないであろう。
 次元は異なるが、私どもの宗教運動もまた、人間の尊厳を蹂躙じゅうりんするあらゆる権威、権力と真っ向から戦う、″生命復興″の運動である。
15  これまでも繰り返し申し上げてきたことであるが、青春には、苦悩や挫折、失敗がつきものである。感性が繊細せんさいで鋭く、また、未来に大志を抱く優秀な青年であればあるほど、その挫折感も大きく、失意も深刻であることが多い。
 事実、ゲーテの一生も、「生」と「死」との絶えざる葛藤かっとうであったようだ。晩年、彼は、「若きウェルテルの悩み」の思い出に触れ「私は生き、愛し、悩んだ」と述懐している。
 ひたむきに激しく生き、愛したがゆえに、悩みに悩み抜いた青春であったにちがいない。しかし、彼は、ともすると死へと傾斜していく自分自身を、無限の創造性へと駆り立てていくことで、苦しみを芸術へと昇華させていった。ここに、天才ゲーテの真骨頂を、私は見たい。
 「青春の辞書には、失敗という言葉はない」(ブルバー・リットン=イギリスの作家)という一節が、私は好きである。未来への限りない可能性を秘めた青春時代にあっては、この心意気が大事であろう。
 またシェークスピアの戯曲に「逆境が人に与える教訓ほど、うるわしいものはない」(『シェークスピア全集4』小田島雄志訳、白水社)という言葉もある。悩みや苦難、挫折や失敗を、どう成長と向上への飛躍台としていくか――ここに人間としての真価が表れるといってよい。
16  最終の栄冠へ信念の旗を振れ
 若き日の労苦に耐え、苦しみを成長へのバネとしていった人は、数多くいる。
 いわんや″無量宝珠″ともいうべき御本尊を受持した私どもである。いかなる悩みや苦しみも変毒為薬し、それらが、最も価値ある人生勝利への源泉とならないわけがない。
 その意味からも、皆さま方は、苦悩のままに沈みゆく″ウェルテル″であっては、決してならない。最終の栄冠に向かって、生きて、生きて、生き抜いていく、信仰の勇者であってほしい。このことを、若き皆さま方に、強く申し上げておきたい。
 青春とは、希望の異名でもある。ゆえに、きょう成人となった方々だけが、青春なのではない。四十代であれ、五十代、六十代であれ、未来への希望がある限り、「永遠の青春」にあるといってよい。
 ゲーテは、うたう。
  未来が
  悲しみと幸福とをおおい包んでいる
  一歩一歩と見えようとも
  
  恐るるところなく
  前へ前へわれらは進む
  
  いよいよ重く
  畏怖いふをこめて
  おおい低くれ下がっている
  静かに天には星がいこ
  地にははか
  (中略)
  だが彼方から
  霊たちの声が呼ぶ
  巨匠らの声が呼ぶ
  「怠ることなく
  善の力をやしなえ
  
  ここに今 花冠がまれる
  永遠の静かさの中で――
  たゆまず努める者を
  ゆたかに飾る花冠だ
  たえずのぞみを失ってはならない」(高安国世訳、『ゲーテ全集 第一巻』所収、人文書院)
 ――あそこには蔽い帷がたれ、星も憩う″死″の世界がある。しかし、その彼方からは、私を励ます師らの声が響いてくる。″善の力を怠らずふるえ。そうすれば、花冠(栄冠)が待っている。だから君よ、希望を失ってはならない″と――。
 ゲーテもまた、胸中に「希望の光」をたたえながら、八十二年の″青春″を生き抜いた。皆さま方も、ゲーテに勝るとも劣らぬ″生涯青春″、いな「永遠の青春」を生きゆく一人一人であっていただきたい。
 限りなき未来性と創造性をおもちの皆さま方に、戸田先生の「もっとも偉大な人とは、結論するに、青春時代の信念と情熱を、生涯、失わない人だ」との言葉を贈り、本日のスピーチとしたい。

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