Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第1回全国青年部幹部会 「新しき世紀」を「新しき力」で

1988.1.9 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

前後
2  諸君の未来は、洋々と広がり、限りない可能性に満ち満ちている。その諸君の前途に対し、恩師・戸田先生の指導の一端を伝えて、今後の前進への祝福としたい。
 戸田先生は、私ども若き門下に対し、よく次のように話し、激励された。
 ″人生にあっては、大なり小なり、何らかの難に直面するものだ。その時は、もうこれでおしまいかと落胆し、諦めようと思うことがあるかもしれない。また苦しみのあまり、絶望の淵に沈む場合もあるにちがいない。
 しかし、絶対に、人生の苦難に屈してはならない。負けてはならない。必ずや、あとになれば、あの時、頑張り抜いて本当に良かったと、さわやかに思い返せるものだ。
 敗戦当時、日本人は誰しも、前途に希望をもつことができなかった。それが、五年たち、十年たってみれば、あたかも夢のようになる。一事が万事で、人生もまた、その通りなのである″と。
 私の人生経験からも、戸田先生の言は、すべて真実であると申し上げられる。
 人生の行路は、決してたやすいものではない。暴風雨にさらされることもあれば、激しい高波に揺れ動く場合もある。とくに、広宣流布という未聞の大事業の達成へと向かう光輝ある人生であれば、なおさらである。平凡な一生を送る人に倍する苦節と労苦を強いられるのは当然といえよう。しかし、こうした苦難に押し流されてはならない。決して、後退してもならない。
 私どもは、人生勝利の原動力たる「妙法」を信受している。題目を唱え、真摯しんしに信行の実践に励んでいく時、一切の苦難は「歓喜」と「希望」へと開け、生命と人生の「栄冠」を飾っていくことができる。これほどの幸せもないし、誉れもない。
 ゆえに諸君は、たとえ、今がどんな苦境にあったとしても、未来への希望と行動を忘れることなく、誇り高く前進していくことだ。妙法を受持する限り、必ずや、″あの時、頑張っておいて本当に良かった″と、しみじみと思う時がくることを確信していただきたい。
3  常に悠然たる心の王者に
 話は変わるが、年頭に当たり、全国の会員の皆さま、また若き後継の友らから、数多くの年賀状をいただいた。その数は、数万にも及ぶかもしれない。
 また、政界や財界、文化人の方々からも、かなりの年頭の御祝詞を頂戴した。多数のため、お一人お一人には返書が書けないが、この席をお借りし、心より御礼を申し上げ、ご返事とさせていただきたい。
 そのなかから、きょうはおしかりを受けるかもしれないが、松下幸之助氏よりいただいた新年の御祝詞を紹介させていただく。信心や仏法とは別次元かもしれないが、人生の″大先輩″としての含蓄ある言葉と思うからである。
 松下氏の祝詞には、こうしたためてあった。
 「おすこやかに、六十歳のお誕生日をお迎えになられ、心からお祝い申し上げます。先生には、お体も、お心も、若さにあふれておられ、とてもご還暦には思われませんが、本日を機に、いよいよ真のご活躍をお始めになられる時機到来とお考えになって頂き、もうひとつ〈創価学会〉をお作りになられる位の心意気で、益々ご健勝にて、世界の平和と人類の繁栄・幸福のために、ご尽瘁じんすいとご活躍をお祈り致します」
 松下氏は、現在、九十三歳。まさに、人生の大先達である。
4  私は、何度か、松下氏と会い、懇談する機会をえた。氏が、渋谷の国際友好会館においでくださった時のことである。来館者の名前をしるす芳名録の第一ページに、氏は「素直な心」と揮毫きごうされた。私は、この言葉を、今も忘れることができない。
 人は、社会的な地位を手にし、財産を築くにつれ、徐々に「素直な心」を失っていくものだ。若き日の理想を忘れ、慢心とおごりに堕していく人も、少なくない。
 そうしたなかにあって、有数の財界人である松下氏は「素直な心」としるされた。私は、真実の法則と人生に対する敬虔けいけんな心の音律を、そこに感じてならなかった。
 偉大な人は、どこまでも偉大である。偉大そうな人と、偉大な人とは違う。これが私の人物観である。見せかけだけの人は、いかに偉そうに見せても、所詮、長続きはしない。ふとした態度、言葉に、その本質がすべて表れてしまうものだ。
5  広々とした壮大な心の人がいる。反対に、狭量な心の人もいる。明るい心の人もいれば、暗い心の人もいる。清らかな心もあれば、卑しい心もある。
 「心」とは、まことに複雑、精妙にして、不可思議である。
 私も、人生六十年を経た。数限りない人々と会い、その「心」に触れてきた。とくに近年、正法と信義に背いた裏切りの人々の姿を見、焼けつくような嫉妬の心を目の当たりにした。
 多難といえば多難な人生行路であったが、こうした経験を経て、人々の心の様相を、まざまざと感じ、見えるようになったようだ。そうした感を深めるにつれ、ますます、「清き心」「素直な心」の大切さが痛感されてならない。
6  信心の世界でも、「素直な心」ほど大切なものはない。
 御本尊に対する素直な心、妙法に対する素直な心、そして大聖人への素直な心――。これこそ無限の福徳を開きゆく源泉である。そのことを日々実感しているがゆえに、私は、松下氏がしるされたさりげない言葉の素晴らしさを、一層、強く感じるのである。
 ともあれ、諸君も、信心と人生に対しては、どこまでも素直な心の持ち主であってほしい。正しき信仰で、正しき人生観に立って、広々とした雄大な境涯の人に成長していただきたい。そして、清く、悠然たる心で、地域、職場、家庭にあって、存分の活躍と貢献をお願いしたい。
7  話は、だいぶさかのぼるが、昭和五十四年に、私が会長を勇退した折、励ましやそれまでの御礼の手紙、電報等を、たくさん頂戴した。合計すれば、十万通にものぼると思う。
 私は、それらの一通一通が、皆さまの温かな真心の結晶と思い、今日まで、大切に保管してきた。遅まきながら、ここで謹んで御礼を申し上げるとともに、その方々のご長寿とご多幸をお祈りしたい。
8  オペラ歌手ベロンさんとの忘れえぬ出会い
 きょうは、もう一人の″人生の大先輩″についても、少々、話しておきたい。
 私の誕生日は、一月二日のせいか、日本中の人がお祝いしてくれているような気がする。それはそれとして、世界中の方々からも、祝福のお便りをいただき、これほどうれしいことはない。深く、感謝申し上げる。
 そのなかの一人に、イタリアのオペラ歌手である、レオーニ・ダ・ベロンさんがいる。八十二歳の高齢であり、文字通り、私の大先輩である。ベロンさんは、私の誕生日に寄せて、自ら歌った歌をテープに吹き込み、イタリアの地より、はるばる送ってくださった。
 テープの冒頭には、たどたどしいが、何度も何度も練習したであろう日本語で、一言一言に心を込め、お祝いの言葉を添えている。「新年、おめでとうございます。先生のお誕生日を、心よりお祝い申し上げます」と。そして、「ある晴れた五月の日のように」という曲を、八十二歳とは思えぬような、みずみずしい青春の歌声で響かせている。
 私は、このお正月に、この曲を何回も聴いた。歌詞も翻訳してもらい、繰り返し味わった。ここで、皆さま方にも紹介したい。
 新年早々、本場のオペラを鑑賞しながらの幹部会は、世界中のどこにもないと思う。八十二歳の我が同志への温かな諸君の拍手に、衷心ちゅうしんより感謝したい。
9  ベロンさんは一九〇五年(明治三十八年)生まれ。入信は一九八〇年、七十四歳のときだった。
 この年、総本山参詣のために来日された氏と、神奈川文化会館で、初めてお会いした。入信して日もまだ浅いなか、海を越えてはるばる日本を訪れてきたこの高齢の友を、私は、肩を抱きかかえて迎えた。
 当時のベロンさんには、仏法の深遠な法理は、よく理解できていなかったかもしれない。しかし、私どもの真心の「包容」と「励まし」に、氏の琴線が強く共鳴したようである。ベロンさんは、当時を振り返って、次のように語っている。
 「枯れかかっている花に、きれいな水を注げば、花は生き返る。と同じように私は、妙法との出あいをきっかけにして、自分が生まれ変わったことを感じています。
 池田先生と初めてお会いしたとき、先生の前で『オー・ソレ・ミオ(我が太陽よ)』を歌ったのです。その時、三、四年前には、もう死んだように響きを失っていた私の声が、昔に戻った。ああ、昔の声が出たな、若々しい生命が戻った、という思いが込みあげてきたのです。まさに『我が太陽(オー・ソレ・ミオ)』の実感でした。私は、先生との出会い以来、いつまでもたもつべき一つの″基盤″を見いだしたという思いです」と。
10  その後も私は、ベロンさんとの一回一回の出会いを大切にし、深い、有意義な思い出を刻んできた。うれしいことに、私には、ベロンさんのように深い心の絆で結ばれた友や同志が世界の各地にいる。
 それは、私にとって何ものにも代えがたい人生の財産となっているし、そうした方々との麗しい心の交流の世界にいると、卑しい心の非難の人などが、あまりにわびしく、哀れに思えてならない。
 人生において「出会い」は大事である。ある意味で、人生は「出会い」によってつづられているといってよい。いつしか忘れ去られていく出会いもあるかもしれないが、一瞬に人生を変える出会いもある。
 ゆえに、私は一つ一つの出会いを最大に大事にしてきたつもりである。諸君も、同志や後輩の人との「出会い」を決しておろそかにしてはならない。最大の「誠意」と「真剣」と「真心」をもって接し、激励をお願いしたい。
 一人の人との「出会い」にどのように振る舞うか、そこにその人のありのままの人間性が表れると私は思っている。自分の立場や多忙さのために、いいかげんな、不誠実な対応であったり、傲慢ごうまんな、人を見くだすような姿があれば、先輩としてまた幹部として失格である。それでは人間としても嘆かわしいし、後輩もかわいそうである。
 広布の未来を担いゆく若きリーダーである諸君は、この点を、よくよく心に留めていただきたい。
11  オペラ歌手としてのベロンさんの声はテノール(男声の高音)。一般に、テノールで歌えるのは五十歳までともいわれているが、先ほどテープで聴いたように、ベロンさんは八十二歳の今もなお、美しく、声量豊かに歌い続けながら、後進の育成にあたっている。
 氏はいう。「『若くなった』ということが信仰の功徳です。身も心もきよめられていきます」と。また氏は、「誠実」と「信義」の人である。
 信心の世界では、「誠実」と「信義」の心の人こそ、妙法のリズムに包まれ、功徳も早く、いや増していくものである。日蓮大聖人も「心こそ大切なれ」と仰せのごとく、信心では「心」「一念」の姿勢が最も大事となる。
 功徳が出る、出ない、ということも、また、生命力が豊かになる、ならない、そして宿命が打開できる、できないということも、だれのせいでもない。すべては、自分自身の「心」いかんであり、「一念」の姿勢によることを忘れてはならない。
 ベロンさんは十八歳のとき、エドアルド・ガルビンを歌の師匠とした。ガルビンの詳細については時間の都合で割愛かつあいするが、彼はイタリアのテノールで、主にミラノ・スカラ座やローマのコンスタンツィ劇場を舞台に活動。十九世紀のイタリア・オペラを中心に幅広いレパートリーをもっていた。
 ベロンさんがガルビンに師事したとき、周囲の友人達は「ガルビンに教わるなんて、歌手になる気があるのか」と反対した。しかし、ベロン青年は「自分が決めた先生だから」と、ガルビンにつき通した。「ガルビン先生は、生涯にたった一人の恩師である」と胸を張って氏は言い切っている。
 ベロンさんのミラノ・スカラ座でのデビューは「ウィリアム・テル」で、非常に難しいオペラであった。「きっと失敗して帰ってくるぞ」と言う人もいた。だが、見事に大成功を収めることができた。そのとき人々は「だれに歌を学んだのか」と言い、初めて、ガルビン先生の偉大さを皆が認めてくれた、とベロンさんは懐かしそうに、またうれしそうに述懐している。
 人生にあって「師」をもてることは幸せであり、大きな喜びである。師弟の深い結びつきは、他の人にはなかなか理解できないものだ。しかし、自らが決めた師弟の道は、それを人生の誇りとして貫き通すところに、人間としての美しさ、尊さがある。またそうでなければ師弟ともに不幸である。ベロンさんが、舞台の大成功と人生の勝利をもって、師の偉大さを実証した姿に、私は感動さえ覚える。
 青年部の諸君の中には、若くして、仏法の道を求め、学会に入会したことで「どうしてそんなことを」と、言われた人もいるかもしれない。しかし、そんな無認識な声によって、自分の決めた信念の道をさげすんだり、恥ずかしく思うような必要はまったくない。自らが信じた道を堂々と進めばよいのである。
12  理想に準じた革命詩人シェニエ
 さて「ある晴れた五月の日のように」の歌は、フランス革命に殉じ「ロマン派」の先駆ともなった詩人・シェニエ(一七六二年−一七九四年)を主人公とするオペラ「アンドレア・シェニエ」の最終幕で歌われる、大変に有名な歌である(以下、シェニエについて主にG・ランソン、Pテュロフ『フランス文学史2』鈴木力衛、村上菊一郎訳、中央公論社を参照)。
 シェニエは、古代ギリシャの大詩人を彷彿ほうふつとさせる豊かな詩才に恵まれ、「正義」と「美」を愛する純粋な青年であった。彼は、「自由」「平等」「友愛」の精神に共鳴し、「人権宣言」の原理を奉じて新しき時代を開かんと、フランス革命に身を投じた。
 この「人権宣言」は、昨秋以来、各地で開催されている「フランス革命とロマン主義展」で実物が展示され、ご存じの人もいると思う。
 やがて革命は成功した。しかし一握りの新指導者達が権力を乱用しはじめ、残忍な恐怖政治の嵐が起きる。
 これに対しシェニエは、革命の本来の理想を守り抜くため、勇敢にペンをもって立ち上がった。「正義の仮面」をかぶり、民衆を抑圧し、次々に生命を奪っていく「凶暴な精神錯乱」の支配者を、彼は断じて許せなかったのである。
 シェニエは青年らしく戦った。令状もなしに逮捕され、牢獄に入れられても、決してペンを折らなかった。自らのまわりにいる不幸な人々への憐愍れんびん、また思いあがった権力者達への怒りを込めて、彼は、次々に詩をつづっていった。
 これこそ諸君達の精神でなくてはならない。青年は「見栄」に流されたり、「物欲」にとらわれ、世間を要領よく泳いでいくような、いわゆる″老年″のごとき心であってはならない。「正義」と「勇気」と「情熱」こそ青年の命であり、特権である。
 多くの草創の同志は、どんなに大変でも「愚痴」や「文句」など一言も言わなかった。ひたすら戦い、必死に折伏をし、道を開いてきた。時代は変わっても、この誉れある精神だけは諸君がしっかりと受け継いでいただきたい。
 しかし、シェニエは、権力の策謀によって、暴動の罪を捏造ねつぞうされ、三十二歳を前にした若さで断頭台に送られてしまう。この「ある晴れた五月の日のように」という歌は、オペラの中で、処刑を目前に控えた獄中のシェニエが歌う辞世の歌なのである。
 ベロンさんは、美しいテノールで切々と、また力強く、詩人シェニエの心情を歌いあげている。氏は、この曲に託して、学会青年の在るべき姿と心情を歌いあげたかったと、私には思えてならない。ゆえに本日、年頭の出発を期す青年部の集いで、この歌を紹介させていただいたのである。すなわちシェニエは、″死″を眼前にしがら、その胸中には、「詩の女神」の慰めと励ましを確かに感じとっていた。
 死の恐怖にも侵されない永遠なる詩魂の源泉。それはまるで「ある美しき五月の日」の「そよ風」と「光」のようにやさしいと――。そして彼は、高らかにこう歌う。
  私は今、生涯の
  最も高いいただきを登っている。
  (中略)
  きっと私の詩の最後の一行が
  終わろうとするよりも早く
  執行が生の終焉しゅえん
  私に告げるでしょう。
  私にとっての最後の詩の女神よ!
  あなたの詩情に
  燃え上がる理想と
  変わりない情熱の炎を与えられんことを! (武石英夫訳)
 この叫びの通り、「燃え上がる理想」と「変わりない情熱の炎」を抱いて、詩人は若き生命を燃焼し尽くして生き、そして死んでいった。この鮮烈なる生死の姿に、けがれなき「青春の魂」の精髄せいずいがある。
 ――私も戦った。我が青春を燃焼し尽くした。広布のため、正法のために、走りに走りぬいた。そこには少しも悔いはない。悔いなき人生を送るために、私は広布の道を、学会のなかに入り貫き通してきた。
 私には妻も子もあった。しかし、後世のために、本物の弟子の生き様を示しておこうと思った。護法のため、いわゆる御書に仰せの死身弘法の精神できたつもりである。
 会長就任の日、妻は、私のお葬式をすませたつもりだと言った。この殉教の信心の一念が、広布の原野をひらき、また、短命といわれた私の寿命をも延ばしてくれたと思っている。
13  若き使命の翼を限りなく
 ともあれ「偽善」と「欺瞞ぎまん」の恐ろしき権威は、無辜むこ(無実)の詩人シェニエを、抹殺まっさつせんと画した。彼らは鉄面皮てつめんぴにも、詩人を″人民の名において″取り調べた。そして″人民の敵″との正反対の烙印らくいんを押し、投獄した。このように悪は、大抵たいていの場合、見ばえのよい正義の「仮面」をかぶっている。近年の一連の大策謀も、またそうであった――。
 しかし、シェニエは歌っている。
  牢獄の壁がむなしくも
  重くのしかかっても
  私は希望のつばさをもっている
 いかなる迫害をもってしても、詩人の魂の翼を折ることはできなかった。牢獄という最悪の環境でさえも、詩人の高邁こうまいなる精神の飛を抑えることはできなかった。いわんや「信心の魂」は、もっと深い。もっと永遠性のものである。苦難の″壁″が四面を包み、重くのしかかればかかるほど、大いなる希望の青空を胸中に限りなく広げていける力をもっている。
14  シェニエは生前、詩を十分に発表することもできず、全く無名の詩人として短い生涯を閉じた。彼の詩集が発刊されたのは、実に、死後二十五年も経てからである。しかし発刊とともに、その詩はビクトル・ユゴーらロマン派の詩人達に熱烈に迎えられ、深い影響を与えた。
 今日、シェニエの名は、フランスにおいて「十八世紀の時代精神を表現した最高の詩人」として、また同時に「十九世紀における詩の復権を準備した先駆者」として、不滅の光彩を放っている。まさに、苦難に屈せぬシェニエの希望の翼は、限りなく陸続と続きゆく青年に受け継がれ、世紀の大空を見事に羽ばたいていった。その光景が私にはまばゆく思えてならない。
 この事実ひとつ見ても、一時の時流に乗り、華やかさのみを追う青春が、いかに空虚であり、はかないか。反対に、地位も財産も名誉もいらぬ、ただ崇高なる理想に生きんと戦う青春が、いかに多くの青年の魂を揺り動かし、時を超えて永遠の輝きを得ていけるか。そのことが諸君の胸にも迫ってくるにちがいない。
 苦難の中にも希望はある。いな苦難に鍛えられてこそ、はじめて希望はその真実の強さを発揮する。″鍛え″無き希望は、単なる夢想に過ぎぬ場合が余りにも多い。
 近年の嵐も、私は一人すべてを耐え、ことごとく打ち勝った。私は苦難を喜んでいた。むしろ自ら望んでいたといってよい。それは何より、これによって若き諸君の信心が鍛えられ、成長することを期待したからである。そして、風雨をしのぎ、時をかせぎながら、一つまた一つ、青年の心につよき不屈の「希望」をはぐくんでいった。その営々たる陰の作業に気づいた人は少ない。世間の浅薄な眼にも全く映らなかったかもしれない。
 しかし、こうして学会の庭、広布の庭で育った、青春の「希望の翼」は、やがて必ず、二十一世紀の大空を堂々と飛していってくれることを私は確信している。
15  いつの世にも、時勢に迎合し、正義の人に卑劣な攻撃を加える者は、後を絶たない。
 しかし、誇り高き魂は弁解しない。いちいち反論することもない。なぜか――。
 そうした卑しい人間を相手にすれば、自分自身を同じ低次元にまで下げてしまうからである。シェニエも、また、そのことをよく知っていた。
 彼がギロチンで処刑されたその日、衣類などの遺品の包みに隠されて、最後の日々の獄中詩が、ひそかにシェニエ家に届けられた。その中に、次のようにある。
  ペテン師にかかったら
  優雅、貞淑、饒舌な美しい女性が
  中傷の的になるのは承知のこと。
  
  あなた達が、あの卑しい男を
  声とはいえば、ごく低く、しかし、調子は恐ろしく
  卑劣、ならず者、下郎などと
  気高い口ぶりには似合わない雑言でののしったならば
  それこそ彼らの思う壷になるのです。
  
  連中にはふさわしいが、あなた方らしくない。
  これらの連中とあなた方とでは言葉が違う。
  彼らの真似をしたら、汚い侮辱が
  正当化されてしまいます。
 人のことをあげつらってばかりいる人間は、所詮どんな立派な人のことも悪口するものである。くだらない悪口など、放っておきなさい。同じ低次元にまきこまれては、彼らのねらいに乗ったことになる。誰が何といおうとも、自若じじゃくとして、わが魂の気高さを守りぬけば、それでよいのだ――と。
 シェニエの遺言とも受けとれる痛烈な詩句である。
16  次元は異なるが、大聖人は、佐渡でしたためられた諸法実相抄に、「日蓮をこそ・にくむとも内証には・いかが及ばん」と仰せである。
 余りにも有名な一節であり、いかに大聖人を憎み、迫害しようとも、御本仏としての赫々(かっかく)たる御境界は、はるか彼らの思いもよらぬ高みにあるとの師子吼ししくであられる。
 私どもは、御本仏の誉れの門下である。ゆえに、卑しきキツネのごとく人をごまかす者達が何をえようとも、歯にもかけず、堂々たる「我が道」を獅子王のごとく歩み通していただきたい。そこに人間としての正しき生き方の真髄もあるからだ。
 また熱原の法難の際の聖人御難事には、「からんは不思議わるからんは一定とをもへ」と。私が常に胸に刻んできた御聖訓である。この仰せを深く強く拝するがゆえに、いかなる怒涛どとうをも私は悠々と乗り切ってきた。
 この「覚悟の一念」もまた、諸君の未来を照らす大切な要件であるにちがいない。
17  すばらしき一日、一年、一生を
 ともあれ、イタリアの同志の真心の歌「ある晴れた五月の日のように」は、青春の誇り高き魂の調べである。
 さらに、五月といえば、私どもにとって胸の高鳴りゆく月でもある。
 立宗七百年を目前にした昭和二十六年(一九五一年)五月三日。雲ひとつない、青く美しく広がりゆく天空のもと、我が恩師・戸田先生が会長に就任されたからである。
 そしてまた同じように、陽光輝くこの月この日――私も第三代の使命のバトンタッチを受けた。三十二歳の青年であった。
18  私どもは、正しき信仰という無上の「希望の源泉」を持っている。ゆえに、いかなるよこしまな泥沼のごとき現実社会にあっても、我が胸中には、いつも「美しき五月の青空」が広がりゆく″幸の大王″でありたい。また″幸の女王″であっていただきたい。
 そして、何があろうとも、さわやかな「そよ風」と「光」を心に感じ、楽しみながら、心豊かに妙法を唱え、詩歌を口ずさみゆくような素晴らしき「一日」「一日」でありたい。また同じく素晴らしき「一年」「一年」を、そして悔いなき素晴らしい「一生」を送っていただきたい。
 最後に、輝く二十一世紀に向かいゆく青年部の限りなき「前進」を願い、また「使命」と「信念」を持って進みゆく諸君の前途を祝賀し、その意義のうえから提案しておきたい。
 すなわち一九八八年の本年を「創価学会青年世紀の年」の第一年と決めてはどうか。そして明年を第二年とし、十二年後の二〇〇〇年までを「学会青年世紀の年」と銘打って、前代未聞の「広宣流布の上げ潮」と「自らの成長」と「偉大なる連帯」を、見事に、そして壮大につくり上げていっていただきたい。
 このことを切に願い期待して、本日の記念のスピーチとさせていただく。

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