Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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第八章 繰り返すまい戦争の惨禍
「太陽と大地開拓の曲」児玉良一(池田大作全集第61巻)
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長男を戦地に送る
池田
第二次世界大戦では、お子さんが出兵されましたね。
児玉
長男のハウーがイタリアに行きました。ブラジル政府の命令でね。
池田
ハウーさんが何歳の時ですか。
児玉
二十八、九歳だったと思います。なんというか、法令だったからね。私にはどうすることもできない。
池田
お父さんとしては、息子さんを戦争にとられた。これはもう、止めることができない。口には出せなかったけれど、辛かったでしょうね。
児玉
別れて、息子は最初、サンパウロからリオ(リオデジャネイロ)に行ってね。一カ月ほど滞在して、ある晩、リオから帰ってきたんです。最後の別れを言いにね。
じつはそういうことが何回かあった。「ああ、今度はとうとう行っちゃうんだな。これで最後なんだな」と、いつも思った。
でも、はっきりした指令が下されず、戦場行きは中止だといってまた戻ってくる。そんなふうに繰り返しているうちに、「もしかしたら行かずにすむかもしれない」と、ふと思ったものです。しかし結局、戦場へ行ってしまった――。
池田
戦時中、私の友人たちも、少年航空兵に志願していきました。しかし、わが家では四人の兄が次々に徴兵されましたので、父は「どんなことがあっても戦争に行かせない」と、ものすごい勢いで、私を止めました。
今となって、ありがたかったなと、あの時の父の顔を懐かしく思い出します。
児玉
そういうことがあったんですか。
息子に配属の命令が出たとき、私の妻はハウーに形見の品を渡しました。これは妻が昔、日本を出てブラジルに来るときに母親からもらったものだそうです。
母親は、それを託して「これを持って必ず帰ってらっしゃい。あなたの兄さんは、この形見を持って中国から生きて帰ってきた。だから、あなたも必ず生きて帰ってくる」と言って、妻を送り出したそうです。今度は、妻がそれをハウーに渡して、「必ず生きて帰っておいで」と、送り出したんです。
池田
胸を打たれるお話です。ビルマで戦死した私の長兄も、母の嫁入り道具だった鏡の破片を大切に持って戦地にむかいました。同じ鏡を私も持っていましたので、それを手にするたびに、戦場の兄を思ったものです。
ところでハウーさんの兵役は、どのくらいの期間だったのでしょう。
児玉
わずかな間でした。砲兵隊でね。日系の人はほかにも大勢いたそうです。一九四五年(昭和二十年)にイタリアで脚を負傷して、その治療のためにアメリカに渡り、プルデンテに戻ったのは、翌年、戦争が終わってからです。
息子がいたのはイタリア南部のある小さな町で、休息をとる場所だったそうです。大砲で攻撃され、たくさんの兵士が死にましたが、息子はたまたま軍需品を取りに行っていたために、危ういところで助かったんです。
池田
そうでしたか。無事でおられたことが何よりの親孝行です。
児玉
本当に無事でよかったなと安心しましたよね。とにかく、息子はブラジルの兵隊として行ったんですからね。日本の敵国ですから。
池田
そのハウーさんも、今は七十代ですね。
長兄を戦争で亡くした時、私も辛かったけれども、母の悲しみ、落胆の姿は、とても見ることはできませんでした。
母はよく、戦地に行った長兄のことを夢に見たと話していました。「喜一は大丈夫、大丈夫だ。『必ず生きて帰ってくる』と言って出ていった」――母はこれを口にすることで、自分を励ましていたようです。
その一縷の望みが絶たれ、兄の戦死の報を受け取った時の、母のあの後ろ姿――。世の母たち、親たちをこれほどまでに苦しめる戦争を、私は心の奥底から憎いと思いました。
児玉
私らは皆、苦しんできましたからね。大切なことは、戦争を起こさないことです。戦争は、勝ったとか負けたとかの問題ではないと思います。
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