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日蓮大聖人・池田大作

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第六章 労苦が培った人生の知恵  

「太陽と大地開拓の曲」児玉良一(池田大作全集第61巻)

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2  好物は大根の漬物
 池田 自分の健康は自分がいちばんよくわかる(笑い)。食べ物では、何がお好きですか。
 児玉 好き嫌いはありません。何でも食べられますよ。昔は物がなかったしね。ブラジル人の家庭に入ってからは、出されたものを食べなくちゃならなかったから。
 池田 私は江戸っ子なもんで、海外に長く出ると、やっぱりご飯と海苔とおみおつけですね(笑い)。それがいちばん落ち着くんですけど。(大笑い)
 児玉 私が日本で育ったのは明治のころで、特別なものを食べてたわけではありませんからね。そんなに困ったことはありません。日本では、おそばがとても好きだったんですが、ブラジルにいるうちに、いつしか日本の味を忘れてしまいました。
 ブラジルに来てすぐ、奉公に入った家では、食事によくマンジオカ(山芋の一種)を出されました。
 池田 フェイジョアーダというんですか、豆や肉を煮込んだ料理がありますよね。
 児玉 あれは、私はあまり好きじゃなかった(笑い)。それから、ある人からソーセージをいただいたことがありました。これは当時、かなりのごちそうでしたが、私ら日本人は皆、見るのが初めてで、どうやって食べたらいいかわからない(笑い)。それで現地の人のところに持っていって食べました。最初は慣れませんでしたけど、今はとても好きです。
 池田 仏法では、食物の働きに三種あると説きます。「いろをまし・ちからをつけ・いのちをのぶ」――つまり「血色もよくなり」「体力をつけ」「生命を維持させる」と。ですから、人は食を宝とする。
 昔、恩師に、将来、一日に必要なカロリーを丸薬一つでとれるようになったらとうかがったら、笑いながら「それはまずい。食べるということは人生の楽しみであるから、その楽しみが減ってしまう」と言われたのを思い出します。
 児玉 なるほど、そのとおりですね。
 池田 今は、どんなものを召し上がりますか。
 児玉 朝はコーヒーとかパンとか。コーヒーは、濃いやつに牛乳をいっぱい入れて飲みます。昼はそうですね、ご飯やらマンジオカやらフェイジョン(ブラジル豆)やらを炊いて食べます。今は努めて生野菜ですね。あっさりしたものを食べるようにしています。それと牛肉は、今でも結構、食べてますよ。私はどちらかというと、パンよりもご飯ですね。
 それとね、私、大根の漬物が好物なんです。塩漬けです。これが体にいいらしくて、胃の働きを助けるんでしょうかね。
 池田 豆や大根が健康にいいというのは、昔からの知恵ですね。江戸時代の貝原益軒(一六三〇年―一七一四年)という学者も『養生訓』という本に、健康と長寿の秘訣をあれこれと書いています。
 そこにも“よその土地に行って水や土に慣れず病気になることがある。そういうときは、まず豆腐を食べると胃腸が整いやすい”とか“大根は野菜のなかでいちばん上等である。いつも食べるとよい”とあるんですよ。(笑い)
 児玉 昔の人はたいしたもんですね(笑い)。いつでしたか、正月に友だちの家で雑煮をごちそうになってね。ブラジルに来て初めて、いや何十年ぶりでしょ、よく覚えてます(笑い)。おいしくておいしくて、二杯続けて食べたら苦しくなって。(笑い)
 で、友だちが大根の漬物をもってきて「これを食べろ」と。それで食べたら、もうスッキリ。(大笑い)
 でも、いつだったか、この漬物があんまりおいしくて、お腹が痛くなるくらい食べたこともある。(笑い)
 池田 お気持ち、よくわかります。(大笑い)
 お酒、タバコはどうですか。
 児玉 タバコは、一時は相当やってました。お医者さんにやめるように言われたんですが、それでもやめられないくらい(笑い)。でも、体調が悪くなって自分で中止したんです。
 仕事で仲間と一緒に、サンパウロから田舎に行く時、「きざみタバコ」を紙に巻いてね。それをいつも持っていくんです。で、医者から注意されて、一回、持たないで出ていったら、町から三十キロ、四十キロのところで、もう吸いたくて吸いたくてたまらない(笑い)。それで、吸い殻を集めて吸った(大笑い)。結局、やめたのはやっと六十歳の時でした。(笑い)
 池田 いや、やめたのは私もだいたい同じ年代です。(笑い)
 お酒は好きですか。
 児玉 もともと酒もタバコも、運転手になった時に、仲間と一緒にいて自然に覚えたんです。運転していて主人を待っている間に「一杯飲もうか」とか。(笑い)
 体の調子が悪ければ、それ以上続けようとは思いませんしね。
 よく、タバコをやめたら、何か食べてないともたないというような人がいますよね。私はどちらかというと苦労なくやめられた。だからこれまで健康でこれたと思いますね。
 池田 貴重なアドバイスです。(笑い)
 ところで、児玉さんは第二次世界大戦の時はどちらに。
 児玉 プレジデンテ・プルデンテ市です。
 池田 すると前にお話しされていたピタンゲーラの次の所ですか。
 児玉 そう、ピタンゲーラで七年間働いた後、一九二六年にプレジデンテ・プルデンテ市へ移りましてね。それ以来ずっとここに住んでいます。
 ここでは、トラックを買って、米とか、とうもろこしとかの運搬業を自営で始めました。これは長くて、第二次大戦の終わるころまで、二十年間くらい続けましたかね。
 同業者は「コダマ、いつもいつも出ていて、自動車、壊れはせんか」(笑い)と不思議がられましてね。「僕は夜遅くなっても、ちゃんと自分で修理してるんだ」と答えた。(笑い)
 池田 たいしたもんです。児玉さんはどんなことがあっても変わらない。それが信用を倍加する。
 児玉 ピタンゲーラにいた時、日本の島根県からきた友だちがいて、その方がトラックの運搬業をしていて、繁盛してるよと誘うもんで、私も思いたったわけです。
 最初はコーヒー園に雇われる身でした。
 ブラジル人と日本人の共同でつくったコーヒー園でかなりの利益があったけど、労働者のほうは、働かされるだけで、ろくに月給ももらえなかった。
 池田 なるほど。
 児玉 私の仕事は、パラナのコーヒー園に食糧を運んだりすることで、朝のまだ暗いうちに家を出て、早く川を渡っていかないと、着くのが夜十時を過ぎちゃう。帰りも同じで、大きな川を渡るのが大仕事でね。一日中、川を渡れないで立ち往生したこともあった。
3  夢の自宅を購入
 池田 そこで家も落ち着いて。
 児玉 最初の七、八カ月は賃借りしてました。自分の家を持ちたいと思ったけれど、知人から「町に住む以上は借金しちゃだめだよ」と言われてね。まあ、少しずつは怠らずに貯金もしてました。仕事に一生懸命、頑張った。
 それでサンパウロの土地を売って、この土地に来てやっと初めて、自分の家を買うことができました。二十年ぐらいかかりましたけどね。
 だからブラジルの中でも、サンパウロと、このプレジデンテ・プルデンテは苦労がしみこんでる。(笑い)
 池田 まさに、第二、第三の故郷ですね。移ったころ、お子さんはおいくつでしたか。
 児玉 まだ小さかったですよ。末の子がまだ六カ月でしたから。
 運搬業者には日本人が結構いたんですよ。仲よく心を合わせてね、みんなにいろいろ教えてもらって。初めての仕事なもんだからね。何でも第一に人と知りあうことですね。
 一時ひどい不景気になって、仕事がなくなってね。サンパウロ州全体が不景気で、仲間が集まっても皆、仕事がない。辛い毎日でした。それで私ともう一人が仕事を探しに出たんです。お金もないですから、行きは歩き。帰りだけバスでした。
 池田 児玉さんにとって、忘れ得ぬ時代の、忘れ得ぬ人々ですね。
 児玉 はい。でも、みんな亡くなって、今では私一人になってしまった。ちょっと寂しい気持ちです。
 それでなんですね、家では子どもは小さいし、末の子のために牛乳を買ってあげなければいけないし、それで、仕方なくヤギを飼ってね。その子にヤギのお乳を飲ませて育てました。
 池田 ヤギのお乳を。
 児玉 ええ。友だちの子どももやっぱり小さかったから、私はそのヤギの乳をしぼってね。それを送って飲ませてあげたこともあった。
 だいぶ経ってから、その子どもさんが大きくなって、「子どものころにヤギのお乳をもらったんだよねえ」という話が出たこともありましたね。(笑い)
 池田 いいお話ですね。困ったとき、庶民のほうが助けあいますよね。偉い人は格好がよくて、口はうまいけど何もしてくれない。(笑い)
 児玉 そんなころ、たまたま市から八十キロくらいのところで、ある人のトラックが壊れましてね。その主人が交渉に来て「八十キロ先にトラックが壊れているけれど、お前、行ってくれるかい」と言ってきた。私は喜んで「ああ、すぐ行きます」と(笑い)、道具を借りてとんでいったんです。それで修理がすんで届けたところが、その主人が喜んで、ぜひともパラナ州のほうへ仕事に行ってくれと言うんで、やっと仕事が手に入ったわけです。
 そうやって、一生懸命にやっているうちに、独立して始めた運搬業も、だんだん調子に乗ってきた。
 池田 人生が開けるときは、必ず陰の努力がありますね。自分も苦しいときにヤギの乳をほかの家に分けてあげたり、困った人のところへすぐ駆けつけていったり――。児玉さんのお話を聞いて、仏典のある一節を思い出しました。
 「夜、人のために火を点せば、人だけでなくわが身も明るくなる」(御書一五九八㌻。趣意)――同じように、人の色つやを増せばわが色つやも増し、人の力を増せばわが力もまさり、人の命を長らえさせればわが命も長らえる――。
 人の生命を守ることは、自分の生命を守ることにもなる。人への思いやりの心が人一倍強かった児玉さんが長生きをされ、今もかくしゃくとされている。私は人生の一つの味わいを感じるんです。
 児玉 当時はだれもが生きるのに懸命でしたからねえ。助けあうことの大切さも感じましたよね。

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