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日蓮大聖人・池田大作

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第四章 ブラジルの“土”に  

「太陽と大地開拓の曲」児玉良一(池田大作全集第61巻)

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4  サンパウロ草分けの運転手
 児玉 でも、給料がいちばんよかったのは自動車の運転手の仕事です。
 池田 今度は運転の仕事ですか。
 児玉 ええ。私が十七歳のころですから一九一二、三年でしたか、家庭の運転手を始めました。というのは、奉公に入った先のマリアノ・プロコッピオ・デ・カルヴァーリョさんというブラジル人のお金持ちの家庭で、「自動車があるので運転してくれ」と言われたんです。
 池田 当時は自動車は、あまりありませんよね。
 児玉 ひじょうに少なかったですからね。ご婦人方は車を持っていることを人々に見せたかったんです。(笑い)
 そこでは私は、カルヴァーリョ夫人を乗せて、午前中に市街をひと回りしたり、買い物をしたりするのが日課でした。
 ところが私はまだ免許をとっていなくてね(笑い)。「運転手になった以上は免許をとらなきゃ」(大笑い)というんで、息子さんにガレージで運転を教えてもらい、すぐにとったんです。
 サンパウロで免許をとったのは、日本人では私がいちばん最初なんですよ。本当は十八歳にならないととれないのですが、頼みこんで十七歳でとりました。
 池田 日本人で第一号の運転手でもあったわけですね。児玉さんは何でも早い。(笑い)
 児玉 ブラジルで、たしか一九〇三年ごろに自動車の免許を発行しはじめたばかりでしたからね。
 当時の台帳を見ると、免許番号がサンパウロ全体のうちの三六ページに出ていますよ。その翌年から、免許証も大きい判から小さな携帯型になったのを憶えています。
 池田 すごいことですねえ。
 児玉 時の農林大臣の家にも働きに行きました。カルヴァーリョ夫人が大臣の姪で、その紹介です。
 大臣の家を訪ねると、夫人からは「主人は今ヨーロッパに行っているが、帰ってきたらいい仕事をあげる。それまで私の母の家で働いてほしい」と言われました。月給は六十円。家にはメルセデスの自動車があって、立派な家庭でしたよね。
 じつはほかに、百五十円という働き口もあったんですが、結局、その大臣とお母さんのところに奉公しました。ここでは、ずいぶん気に入られたようです。
 池田 児玉さんが自動車を最初に見たのはいつごろでしたか。
 児玉 いちばん最初にサンパウロで自動車を見たのは一九一〇年ごろです。石炭で走る車でね。マッチで火をつけて、その蒸気で走るような車。そんなのがあった。まあ湯沸かし器みたいなもんでしたね。(笑い)
 でも一九一五年ごろには、だいぶ新式のが出てました。ギアもあってね。アクセルは手で操作するものでした。
 池田 日本では、戦後もしばらく木炭車というのがありました。私たちもよく乗ったものです(笑い)。でも力が弱くて、坂にくると止まってしまうんですね。(笑い)
 当時は運転手の仕事は、どうでしたか。交通事故とか。
 児玉 そうですね。あの当時は車といっても市内で二十台くらいしかなかったし、ゆっくり走ってましたよね。そんなにきつい仕事ではありません。
 私の仕事は家の、何という名だったか忘れましたが、イタリア製の自動車に乗って、奥さんのお出かけや買い物の運転でした。バロン・デ・イタペチニンガ街やジレイダ街、ルア・サンベルト街……こんなところをよく回りました。
 池田 ようやくブラジルの地になじんできたころなんでしょうか。
 児玉 そうですね。でも、時には、大臣がイタリア大使の祝宴に出たりして、その身の回りのことを手伝ったときなどはたいへんでした。
 一週間くらい、主人が毎晩十二時に帰ってくる。その迎えと、帰ってきたらお茶を出したりで、寝るのは毎日午前二時ごろですからね。くたびれた(爆笑)。給仕の仕事も、主人がサンパウロのいちばんいいホテルから雇ったお手伝いさんの助手として(笑い)、いろいろ習いました。テーブルの上の食器の並べ方から何から、一つ一つ覚えていきました。
 とにかく、外国からのお客さんがよくみえてました。家庭がいいからね。
 池田 朝から晩まで、働き通しの毎日だったわけですね。しかし、それが人生の財産になり、立派に成長していかれた。ブラジル社会での「日本人は勤勉でよく働く」という一貫した評価も、児玉さんたちの血のにじむような努力があったればこそと思います。
 フィゲイレド元大統領も日本で再会した時、「日本の青少年のイメージはブラジルの青少年の心に強く刻まれています」とたいへん高く評価されていたのを、私は今でも鮮明に憶えています。
 児玉 そうですか。たいへんなことも多くありましたが、やはり仕事をするのは楽しかったですね。
 このころ、機械工の仕事に興味を持ちまして、知りあいのポルトガル人から、自動車の修理の仕方を教わったりしました。「お前、運転手になったんかい
 」「なったけれども、機械のことはわからん」と(爆笑)。むずかしい技術をなかなか教えてくれないので、「ま、一杯」とビールをおごって(笑い)、教えてもらったり。機械工の技術があったから、よけい主人に気に入られた。
 池田 そうした技術とともに、ちょっとした処世術というか、人情の機微を大切にしていくことも、意外と大きな力になるもんですね。それにしてもコーヒー農場、家庭奉公、そして運転手、車の修理……。じつにさまざまな経験をされましたね。
 児玉 そうそう。その間に、ルア・サンベルトの「藤崎商会」という会社で、日本のオモチャも売りましたよね(笑い)。私らがブラジルに来る二カ月前から開業したみたいですが、とても繁盛していましてね。(笑い)
 池田 それもこれも人生の歴史ですね。しかし、どこへ行っても、不思議と児玉さんは周囲の人々から愛され、信頼された。これも人柄の賜物なんでしょう。こうしてお話ししていても、何ともいえない魅力があります。
 児玉 先生は若い時は、どんなお仕事を……。
 池田 私もいろいろやりました。海苔屋の手伝い、新聞の配達以外にも、工員、営業、出版……。
 今思うと、青年時代の経験の一つ一つが、あとで全部生きてきました。苦労を重ねた分だけ、何倍も充実した青春だったと感謝しています。若い時に思うぞんぶん働いておかないと悔いが残りますからね。
 児玉 そうですね。私もいろんなことをやってきて、本当によかったと思っています。とくに私の場合は、辛いことや悲しいことはすぐ忘れる質で(笑い)、こういう性格だったからやってこれたのかもしれんですね。(笑い)
 池田 移住八十年祭の年の夏、児玉さんのことを紹介した新聞の記事に、こんなことが書かれていました。
 ――日本への旅行中、児玉氏が唯一不満に感じたのは、彼のような年配者に対する日本の人々の“過保護”だったそうだ。「私は空港で車椅子を出すといわれても断ります。皆さんの親切は本当にありがたいが、老人は“壊れもの”のように扱ってはいけない。それは彼らを早く老けこませるだけだ」と児玉氏は語る――。
 私は“これは名言だ”“さすがは人生の達人”と感動しました。やはり若き日からの鍛錬ある人は、かくしゃくとして光っています。
 児玉 ありがとうございます。

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