Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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第三章 ブラジルの大地とともに
「太陽と大地開拓の曲」児玉良一(池田大作全集第61巻)
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1
アマゾン開拓六十周年
池田
日本では、児玉さんたち第一次移住者がブラジルに到着した「六月十八日」を「海外移住の日」と定めて、毎年、意義を刻んでいます。
児玉
そうですってね。うれしいことです。
池田
また一九八九年は、ブラジルの中でもアマゾン川流域への日本人移住が始まって六十周年という佳節にあたります。
児玉
ああ、ちょうど、そうなりますか。
池田
アマゾン移住は一九二九年(昭和四年)、南米拓殖会社の斡旋でアマゾン河口のアカラ(現在のトメアス)に百八十九人が入ったのが始まりです。この地の開拓も、マラリアに倒れたり、栄養失調で一家の大黒柱を失ったり……。前途を悲観して自殺した人もいるほどだったと聞いています。
児玉
アマゾンの人たちは厳しかったですよ。私らサンパウロの契約移民よりもたいへんだったかもしれんですね。
池田
言い尽くせない苦しみと闘いながら、アマゾンの日系移住者の方々は、やがてジュート(黄麻)、ピメンタ(コショウ)などの栽培にも成功し、ブラジルの一大輸出品に育てあげました。現在、ブラジルの日系人は、アマゾンの一万二千人を含め約百十六万人――。草創期の「開拓」が二世・三世の世代へと受け継がれ、ブラジルの天地で大きく花を咲かせています。
そうした方々の歩みも紹介させていただきながら、対話を進めたいと思っております。
児玉
よくわかりました。
池田
一つの歴史の証言となると思いますし、もう少し、児玉少年の航海の様子をおうかがいできればと思います。
船の中では、困ったことはありませんでしたか。食べ物などはどうでした。
児玉
もちろん、そんなご馳走は食べられません。出てくるものはありきたりです。それでも私は、船員さんにかわいがってもらったおかげで、ずいぶんいいものを食べさせてもらいました。カツオの缶づめとか、大根の漬物とかですね(笑い)。いやあ、本当においしく感じましたよ(笑い)。とにかく船員さんの後ろをくっついて歩いていましたからね(爆笑)。ブラジルに着くまで、不自由を感じたことは何一つありませんでした。
遊び友だちも、広島から来た同い年ぐらいの子どもが三人いて、すぐに仲よくなってね。それで、時折ですが、船員さんの作った食べ物を三人の子どもが連れだって売って歩いたりしてました。皆さんにね。(笑い)
ただ、なぜか船長さんにはあまりかわいがってもらえず、怖い人だなと思っていたのを覚えています。(爆笑)
池田
いや、少年の日のそういう印象は、いつまでも消えないですね。(笑い)
さまざまな出会いと思い出を乗せた航海――。航路は南まわりですか。途中、どこかの港に降りましたか。
児玉
ええ、シンガポールと、アフリカのケープタウンの二カ所に寄りました。日露戦争の終わった直後でしたから、シンガポールでは寄港しても、警戒して上陸できませんでね。貨物船が出入りしていて、港の前には戦争で沈んだ船がたくさん見えました。痛ましい光景でした。
池田
私もシンガポールにはこの前、行ってきました(一九八八年二月)。すばらしい発展をしています。
故郷を遠く離れての一人旅は、行き先、行き先が、映画のように心に記憶されたんでしょうね。
お話を聞きながら、何かで読んだ、日本民俗学の創始者・柳田国男氏(一八七五年―一九六二年)の少年時代の船旅のエピソードを思い起こしました。柳田氏は、創価学会の牧口常三郎初代会長とも親しい友人だった方です。ここでちょっと紹介させていただいていいですか。(笑い)
2
柳田国男の船旅
児玉
どうぞ、どうぞ。(笑い)
池田
兵庫県神東郡(現・神崎郡)に育った柳田氏は、高等小学校を卒業すると、茨城で医院を開業しているお兄さんのもとに身を寄せることになり、生まれて初めての旅に出ました。明治二十年(一八八七年)、十三歳の時のことです。
児玉
私と同じだ。(笑い)
池田
柳田少年はお兄さんに連れられ、やはり神戸の港から東京に向けて出航しました。この時のことを、次のように回想しています。
「たしかそれは日清戦争にも働いた『山城丸』で、二千三百トンだった。『二千トン以上の船にのるのだ』という誇りめいた興奮から、船に乗りこんでも、船酔いどころかすべてが珍しく、よく眠れないほどで、立入禁止区域に入っては一等船室の西洋人をのぞき見したり、すべてが意外のことばかりであった」(柳田国男『故郷七十年』朝日選書)――。
そして、柳田氏は「これが私の世の中を見たはじめであった」(同前)と振り返っています。
児玉
ああ、その方のお気持ち、よくわかるような気がします。私の場合も本当にそうでした。あの感動は、忘れられません。
池田
空も海も輝いて見える初めての世界だったのではないでしょうか。今の子どもたちにも、大海原を友とし、星空と語りあうような機会を、もっとつくってあげたい。
児玉
出発したばかりのころは船酔いがひどくてまいりましたけど、じきに慣れました。あとはもう、見る物、聞く物がめずらしくて、うれしくて、あっという間の五十二日間でした。
池田
本当に、若いというのはいいですね。新しい世界を知り、どんどん吸収していくことができる。当時、世界に目を向けて行動されたことは、今から考えるとたいへんなことでした。
児玉
サントスの港に入ったのが一九〇八年(明治四十一年)の六月十八日でした。上陸したのは翌日の早朝です。
池田
夢に見たブラジルの天地――。サントス港に着いた時はどうでしたか。
児玉
サントスに着く直前、酔っぱらった船員が刃物を振りまわして、止めに入った別の船員さんが刺されるという事件が起きたのを覚えています。それと、船の人が私の持っている猫やら犬やら小鳥のオモチャを見て、「君、そんなもの持っていたら税金を払わなくてはいけないよ。さもなかったら、差し押さえられるよ」と言うんです。私はそんなお金もないもので、日本から持ってきたオモチャを仕方なく全部、海に捨てたんです。
池田
がっかりしたでしょうね。しかし、少年時代との一つの訣別になったのかもしれませんね。
児玉
船が港に着くと、皆がたいへんに歓迎してくれました。風船や花火をポンポンやってね。ああ、ブラジル人がこんなに歓迎してくれているって喜びました。ところが、あとでわかったのは、それはカトリックのフェスタ(祭り)の花火だった。(爆笑)
池田
すると出迎えの人は。
児玉
殖民会社の方や藤崎商会(仙台の貿易業者で、第一回移民以前にサンパウロに進出していた)の方。それと通訳の方……。全部で四、五人ほどでした。
池田
それが今日の記念すべき“第一歩”になるとはだれも想像しなかった。日伯友好の大いなる源です。
まったくゼロからの出発で、まず言葉の問題があったと思いますが。
児玉
通訳の方が全部で六人いて、いろいろと面倒をみてくれました。この人たちは少し早く、シベリア回りでブラジルに着いていたんです。何もわからない私たちは、ずいぶんとお世話になりました。
池田
なるほど。最初はどこに……。
児玉
サントスに上陸してから、汽車に揺られてサンパウロに出ました。そこで移民の収容所に入りました。その収容所は、今のピラチニンガ村にあたる地域にありました。たしか、二、三年前に設立百周年を迎えましたよね。
池田
笠戸丸の七百八十一人全員がそこへ入ったのですか。
児玉
そうです。レンガ造りの相当大きい二階建ての建物でしたので、皆びっくりしました。イタリアやポルトガルや、ほかの国から来た移民もたくさんいました。
池田
当時、ブラジルの人は日本人をどのようにみていましたか。
児玉
汽車の中では、とにかく日本人の移民は礼儀正しくてね(笑い)。お行儀がよかった(笑い)。ゴミひとつ出さないんです。収容所でも、日本人は皆、静かに穏やかにしている。ほかの国の人たちは食事のたびに歌を歌ったり、大騒ぎでしたけれど。(笑い)
その日本人の立派な態度に、ブラジルの方々も感動されたらしく、新聞に載せてほめてくれました。ブラジル政府の高官の方も私たちには敬意を払って、会うたびに敬礼されてました。(笑い)
池田
食事中、食べるのが遅れた人がいても、騒いだりしないできちんとがまんして待っていた。それは、現地の人から驚かれた――私も何かの本で読んだ記憶があります。
日露戦争が終わったばかりで、“大国ロシアを破った日本人”というイメージも強くあったようですね。
児玉
収容所に入ると、さっそくサンパウロの町を見て回ったんですが、着るものからして、ものめずらしかったですね。現地の服を着せてもらって“あれ、男だか女だかわかんない”と。(笑い)
ブラジル人に会っても何となく不思議な感じでした。向こうも日本人がめずらしかったみたいで、面白がって見ていました。
池田
豊かになった今でも、日本人は「文化」や「習慣」の壁をどう越えるかが、大きな課題です。
ところで、初めて飲まれたコーヒーはどうでしたか。(笑い)
児玉
生まれて初めて飲みましたからね。最初は“こんな苦いもん、よく飲めるな”と(笑い)、みんなで顔をしかめました。でも、すぐに慣れて“おいしいもんだ”と。(爆笑)
池田
サンパウロの収容所には、どれくらいの期間いたんですか。
児玉
十日間ほどですね。その後、リベロン・プレットのドゥモン耕地というコーヒー園に入って働きました。
3
コーヒー農場での苦闘
池田
それがブラジル航空界の先覚者サントス・ドゥモンの所有耕地ですか。そのコーヒー園に入ることは、日本を出発する時に知らされていたんですか。
児玉
いえ、まったく。われわれが応募した時点で、日本の移民会社はブラジル政府と連携して渡航の契約をしたんです。その段階では、移民会社との契約はコーヒー農場で六カ月間という話でね。移民会社はサンパウロ州政府と契約しました。ドゥモン耕地との契約は、われわれがブラジルに着いた後、収容所にいた間のことらしい。この時、私たちはコーヒーの穫れる期間の半ばに着いたという理由で、契約が一年という話に変わったんです。
池田
初めてのブラジル移住で、政府や関係者も手続き等で、手間がかかったのかもしれませんね。
このコーヒー園には、笠戸丸の人々のうち、何人くらい入ったのですか。
児玉
七百八十一人のうち、五十家族二百人くらいでした。コーヒーの木が三百万本もあるとかで、ブラジルでも広い耕地のほうでしたからね。日本人が入ったのは六耕地ありまして、私らの耕地には福島・熊本・広島・宮城・東京出身の人が入りました。隣(サンマルチーニョ農場)には鹿児島の人たちが入っていました。皆でにぎやかでしたよ。
池田
家はどういう……。
児玉
家は一家族から二家族で二間の家が一軒ずつあったんですが、入った時分は馬小屋みたいに干し草が入れてあってね。整備ができていなかったのか、まあ、二百何人が一緒に入ってきたもんですから無理はなかったと思うんですね。あんまりひどかったので、四つんばいになって「ヒヒーン」と馬の真似をして(笑い)、通訳や監督を困らせた人もいました。
池田
みんな、ある程度は覚悟はしていたんでしょうが、コーヒー園の仕事は、どうでしたか。
児玉
朝は六時から農園に出て、枝についたコーヒーの赤い実を手でこき落とす仕事でした。私は子どもでしたから、とにかく一人前の仕事をしようと、必死でした。最初は土を掘って耕す作業に汗を流す毎日でした。そのうちにコーヒーの実を洗ったり、いろいろな作業をしました。
池田
ブラジルは気候がぜんぜん違いますね。
児玉
日本とは夏と冬が逆ですから、私たちの着いた六月はけっこう寒かったですね。これはちょっとびっくりでした。皆、ブラジルは暑い国と思い込んでましたから、布団もろくに持っていませんでしたしね。食べ物も、干した鱈を焼いたものとか、お米も芯の固いボロボロのを油で炒めて食べました。
耕地には砂蚤というノミみたいな虫がいまして、いつの間にか足の爪の中に入るんです。これが小さくて見えない。しばらく気づかないうちに、その虫が爪と肉の間に卵を産んで、膿んでしまってね。
池田
爪の中に卵を産む虫ですか。
児玉
痛くはないんだけど、もう、ひどい痒さでした。悪臭だし、弱ってしまいました。寝ている間も痒みがあって、かいたときには穴だらけ……。(笑い)
池田
それはひどい。現地では皆さんやられたんですか。
児玉
みんなやられてましたね。耕地で仕事をしていて入るんでしょう。あんまり臭くて歩くのに苦しいからお医者に診せにいってね。それからは、入ったらすぐに取るようにしました。取るのが少し遅れると、卵を産んでしまう。ブラジル人が見ていて「ジャポネジーニョ(小さい日本人)、かわいそうに、かわいそうに」ってね。それで耕地の監督が私を工場のほうへ回してくれた。女の人たちにまじって手仕事をしましたよ。
池田
故国を一人離れての生活は、どんな気持ちでしたか。
児玉
最初はめずらしいことばかりで楽しくてね。でも、仕事を始めてからはやはり寂しく思いました。虫にやられるし、朝早くから起こされて、帰ってくると夕食の支度の手伝いで、火を焚いたり薪を持ってきたり……。広島では、そんなことしなくてもすんでいましたから。悲しくなっちゃいましたね。
4
池田
苦しいとき、児玉さんを支えたものは何でしたか。
児玉
私は独りぼっちでしたものね。「構成家族」ですから、自分だけ弱音吐くわけにいかないし。だれか一人でも身内がいれば、だいぶ心強かったでしょうけれど。
池田
休日は……。
児玉
日曜日も働きづめです。辛くて夜など、涙があふれて寝られないようなときもありました。でも、私は父母やおじいちゃんに反対されたのを押し切って来ましたからねえ。ほかの人を恨むわけにはいかなかったです。やっぱり頼れるのは「自分」だけでした
。あの当時、みんな、「頼れるのは自分だけ」という自覚で生活してましたよね。
池田
よくわかりました。今でいえば、まだ中学一年生の少年の偉大なる「冒険」です。児玉さんのお話にふれて、多くの青少年もきっと勇気づけられると思います。
しかし児玉さんは、ふだんそうした苦労をまったく顔に出されない(笑い)。本当の苦労をした人は皆そうです。すがすがしい人生の年輪を私は感じます。
児玉
あの当時は皆、本当に苦しかったですよ。山田さんも、池町さんも……。皆、生きるのが戦いだったもの。あんまり辛いので、しばらくして耕地を脱走した人もいたほどでしたから。それでもまだ、身内で来ていた人たちは、一緒に励ましあえた。私は独りぼっちで、慰めてくれる人もいなかった。
池田
コーヒー園の耕地に入って二週間たったころ、四人の青年――いずれも独身だったようですが――が脱耕してサンパウロ市内に流れたという事件が記録されています。まさに“生きるのが戦い”のなかで、児玉さんは、たった一人で生きぬいてこられた。それ自体が、すばらしい「勝利」のドラマです。
しかし、新しい生活に慣れるまでには、いろいろあったんでしょうね。
児玉
はい。家も皆と相部屋でした。ろくに寝つかれず、朝はいつも機嫌を悪くしてました(笑い)。炊事や洗濯なんかも、最初は山田さんたちと一緒にやってましたが、のちに別れましたから、その後は自分でやりました。
池田
それで、コーヒーの収穫は。
児玉
その年は凶作でね。一人あたま、一俵分も穫れなかったんです。もう、初めの宣伝の四分の一でした。収穫がないから皆、収入もない。一日平均五十銭だけで、とても食べていけない。おまけに耕地主には支払いをしなければならん。労働は激しいし、肉とか野菜も足りない。生活環境には慣れないし、言葉も通じない。その鬱憤を通訳の人にぶつけたので、通訳と移民も仲が悪くなってしまってね。
どうしようもなくなって、夏ごろ、移民会社の水野社長と、引率で日本から来ていた上塚周平さんとが耕地にやってきたので、皆で賃上げの交渉をしましたよ。みんな積もりに積もっていた怒りをぶつけ、さんざん文句を言いました。それでも結局、埒があかず、“もうこれ以上、生活できない”と言って、全員がコーヒー園を出ることにしたんです。
二回に分かれて、最初に半分が一カ月半で出た。一緒に来た山田さん一家もその時、出ていきました。それで私は本当に独りぼっちになった。私は子どもでしたし、頑張ったけれど、三カ月でそこを出ました……。
池田
仕事を失って、その後の生活は皆さん、どうされたのですか。
児玉
皆、必死でした。そこを出てから、散らばったんです。ほかの農場に移ったり、若い人たちはリンスやトゥパンのほうへ鉄道工事に行きました。また沖縄の人が多かったみたいですが、サントスで働いた人もいました。日本船が来るからといって、サントス港からアルゼンチンに旅立った人もいます。私も「アルゼンチンに行こう」と誘われました。一緒に農地にいた人に相談して、行くのをやめたんですが。大半は、職にあぶれて乞食同然の生活に落ち込みましたよね。
池田
ほかの耕地に行っても、たいへんな不作で、やはり逃亡者が出たりストライキを起こしたりしたと聞きました。
さんざん苦労して、やっと穀物が実っても、大発生したバッタの大群に食いつくされたり……。想像もしなかった困難に、“金を返せ。日本に戻せ”ということになり、あまり騒動がひどいので“日本移民追放”の事態になった農場もあったそうですね。
それでも、児玉さんは、日本に帰りたいと思わなかった。
児玉
私はまったく思いませんでした。帰ろうと思っても、費用は莫大で、絶対に手が届かないし、航海にはまた五十日もかかる。現地で頑張るほかに道はありませんでした。
池田
でも実家のお父さん、お母さんは児玉さんが帰ってくることを望んだでしょう。
児玉
母からは再三、手紙を送ってきました。「帰ってこい。帰ってこい。旅費も送ってやるから」とそのことばかり。でも私は帰る気がありませんでしたから。
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