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日蓮大聖人・池田大作

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第二章 新天地に夢を馳せて  

「太陽と大地開拓の曲」児玉良一(池田大作全集第61巻)

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2  戦争の記憶
 池田 先ほどもちょっと話が出ましたが、児玉さんが子どものころ、日露戦争が起きました。戦争について、何かご記憶はありますか。
 児玉 日露戦争は、私が十歳くらいのことでした。たしか「第五師団」といいましたが、広島から出征した部隊がありました。
 私たちは直接、戦災に遭うことはなかったですが、当時は、小学校でも銃を教えられたんです。
 もちろん本物ではなく、木で作った「模造銃」でしたが、それで練習したのを覚えています。学校には着物で行ってましたが、練習のときはズボンにはきかえてね……。
 池田 私も太平洋戦争の時、木製の銃を与えられ軍事教練に参加させられました。結核は進行するし、体が弱ってましたから、行軍訓練中に血を吐いたりもしました。
 当時十六歳でしたか。ちょうど児玉さんが、ブラジルで本格的に仕事を開始されたころの年齢です。
 児玉 ブラジルに移住してから、長男を戦争にとられたことがありました。幸い無事に帰ってきましたが、とにかく戦争は、人の生活も心も、めちゃくちゃにしてしまうものです。
 池田 私の一家も、空襲に追われ、兄弟は戦争にとられました。長兄は出征先のビルマで戦死しました。
 戦争の残酷さ、悲惨さを体験した人々は、戦争をこの世界からなくし、真に平和な社会を築くために、若い世代に語り継いでいくべきだと私は思います。
 児玉 恐ろしい戦争は、もう二度とあってほしくない。人間のいちばん悪い行いだと思います。
3  歴史的な笠戸丸の船出
 池田 児玉さんをはじめ、第一次日本人移住者の方々を、新天地ブラジルへと運んだ船、これが歴史に名をとどめた「笠戸丸」です。
 資料によると、一九〇〇年、英国の造船会社が建造したもので総重量六〇〇〇トン。元の名は「カザリン丸」ですね。この船は、じつはロシアに購入され、日露戦争ではバルチック艦隊の病院船でした。
 戦争後、日本軍がこの船をロシアから収容して、改造したものを、政府が東洋汽船会社に払い下げたのです。その後ハワイ(一九〇六年)、ペルーおよびメキシコ(一九〇七年)の移民輸送に活躍し、ブラジルへも就航しました。
 ブラジル行きの「笠戸丸」は、神戸港からの出航でしたね。
 児玉 ええ、そうです。広島から神戸まで汽車でやってきて、そこから出航しました。
 一九〇八年(明治四十一年)四月二十八日の午後五時五十分――。山田さん親子や池町さんとも一緒でした。
 神戸では、たくさんの人たちに見送ってもらったのを覚えています。何とかという政治家の人が、「皆さんが無事ブラジルに着いて、しっかり働いて成功することを期待します」といった内容の話をしました。
 池田 移住者は、全部で七百八十一人ということですが。
 児玉 いちばん多かったのが沖縄の人で(約三百人)、やはりサンパウロが亜熱帯ですから、体質的に最も合うということだったのかもしれませんね。二番目は鹿児島だったと思います(約百五十人)。それから福島・熊本・広島・山口・愛媛と……。監督として、移民会社の水野龍社長、上塚周平さんという二人の方が同乗していました。あとはほんの小人数でしたが、自由移民としてアルゼンチン、ペルーなどに行く人も二十人ほど乗っていました。
 池田 皆さんは、どのような職業だったのですか。やはり農業が多かったのですか。
 児玉 いえ。学校の先生などが多かったようですね。農業者というのが条件だったのに、農業の人は少なかった。他の職業の人のほうがたくさんいたんではないでしょうか。
 池田 そうですか。それぞれの人たちのそれぞれの「人生の夢」を乗せた笠戸丸――。渡航する人たちの様子はいかがでしたか。
 児玉 皆、希望に燃えていました。コーヒーをやって早くお金を儲けて、故郷に帰ろうと話しあっていました。
 池田 でも、現地での生活のこととか、お金のこととか、心配だったでしょう。
 児玉 それはそうですね。お金は行く前から必要でした。生活費や、服も自分で用意しなければなりませんでしたし、“裸一貫”ではこれませんでした。移民会社からは、余分のお金を用意してくるようにとは言われませんでした。おまけに出発の時にお金を移民会社に預けたんですが、ブラジルに着いた時に返すという約束だったのに、着いてもしばらくは返してくれないんです。
 とうとうそのまま返してもらえず、泣き寝入りに終わった人もいました。皆あとで困ってしまって、呆れかえったものでした。
 池田 うたい文句とは裏腹の厳しい現実に、皆さんの落胆は相当なものだったと思います。とくに第一次移住の方々は、艱難辛苦の連続を乗り越えて生きぬかれた尊い“歴史の証人”です。
4  ところで、笠戸丸の乗船者のなかでは、児玉さんや山田さんの息子さんが、いちばん若かったのでしょうか。
 児玉 私が十三歳、山田君が十二歳で、まだほかに十二歳の子が何人かいました。当時は、世間的にも「十二歳で一人前」という考え方があったんです。サンパウロ州の補助金も、十二歳以上で一〇ポンドという話でした。
 池田 ブラジルへは、長い船旅でしたが、船の中の生活はどうでしたか。
 児玉 そうですね。とにかく、船員さんや同じ移住者の人たちにかわいがってもらいましたよ。なかでも矢崎節男さんという方と知りあって、本当にお世話になったんです。この方は長野出身の自費移民で、まだ二十代くらいの方でしたが、のちに現地で、家庭奉公の口を紹介していただいたり、いろいろと私の面倒をみてくれてね。
 池田 船の上では何か楽しみはありましたか。(笑い)
 児玉 船が日本を発つと、私は毎日、神戸の港で買ったオモチャで遊ぶのが日課になりました。小鳥やら、猫やら、犬やら、小さいオモチャでしたね。
 夜になると、ほかの子はお姉さんとか両親がいましたから部屋に帰っていくのですが、私は一人きりで遅くまで甲板で遊んでいました。その姿を見てふびんに思ったのか、矢崎さんが声をかけてくださり、毎晩、話を交わすようになったのです。矢崎さんはいつも私を呼んで、いろいろ話を聞いてくれたり、面白い話をしてくれました。その矢崎さんも、今はもう亡き人ですが……。
 池田 皆さんの関係は、同船者から、もっと緊張感に満ちた“運命共同体”となり、いわば「家族」のようであり「同志」のような関係に近くなっていった……。
 児玉 まあ、どうしても、そうなってしまいますよね。
 池田 苦難を共にすればこそ、人と人との心の絆は深く結ばれていく。立場は違いますが、私にも一緒に険しい人生の航路を越えてきた多くの友人がいます。その尊い方々がいればこそ、私自身も、一歩も退かずに人生を前へ前へと進むことができたと、深く感謝しています。平坦な人生は恵まれているようで、深い心の結びあいも、人生の味わいも芽ばえない。
 児玉 私も今、こうして自分がいるのも、大勢の人たちのおかげと、ありがたく思っているんです。
 船員さんにくっついて広い船内を歩きまわったり、監視室に入ったり、船員さんにかついでもらって遠い景色を眺めたり。みんな気さくで優しい人たちでした。とにかく、何から何までめずらしくてしようがありませんでした。(笑い)

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