Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第一章 日伯友好の先駆の道  

「太陽と大地開拓の曲」児玉良一(池田大作全集第61巻)

前後
1  心と心を結ぶ大功労者
 池田 初めてお会いした時には、驚きました。お顔がつやつや輝いていて、とても九十歳を超えていらっしゃるとは思えない。そして、にこやかなお顔からにじみ出る人生の年輪――。日伯友好の先駆者として歩んでこられた八十年のドラマは、どれほどのご苦労と喜びと波乱に満ちておられたことかと、心から感動いたしました。児玉さんのそばに来たら、どんな映画俳優の表情もかすんでしまいますね。(笑い)
 児玉 いやいや、恐縮です(笑い)。東京の聖教新聞社におじゃましたさいには、息子ともども、たくさんの方々に歓迎していただき、もう、夢のような気持ちでした。なんと感謝申し上げていいかわかりません。
 池田 こちらこそ、遠いところをお越しくださり、ありがとうございました。児玉さんは、日本とブラジルの心と心を結ぶ大功労者です。人生の大先輩として、庶民の英雄として、最大にたたえられるべき存在だと思っていますから。それにしてもお若いですね。一緒に来られた息子さんのほうが年上のようでした。(笑い)
 今回は、このような語らいの機会をもつことができ、私は心からうれしく思っております。じつは、児玉さんのことを知るうちに、その尊い軌跡を何らかの形で後世に伝えたい、そして、日伯の青年たちに一つの指標を残せれば、との思いを強くしていたのです。
 児玉 お恥ずかしい限りです。私はそんな、人に何か言えるような立場の人間でもないし、学があるわけでもない。明治の生まれですので、昔の記憶も少々、薄らいできているところなんです。
 池田 こう申し上げては失礼かもしれませんが、むしろ私が強く共感を覚えるのは、児玉さんが、庶民のなかの庶民の一人だからです。私だって庶民です。しかし、平凡にして飾り気のない庶民のなかにこそ、すばらしき人生のドラマがある。陰に隠れた庶民の尊き歴史を顕彰したい――これが私の一貫した信条です。
 児玉 よくわかりました。私に答えられることであれば、何でも聞いてください。そのあとはいっさい、池田先生におまかせします。
 池田 ありがとうございます。
 児玉さんのお生まれは、いつですか。
 児玉 明治二十八年(一八九五年)です。ブラジルに渡る手続きで、書類に七月十日生まれと書き込まれましたので、そのままにしていますが(笑い)、母親から聞いた話では、一月二日生まれとのことです。役場には一月十日に届け出ているようです。
 池田 一月二日ですか。奇遇ですね。私も昭和三年(一九二八年)の一月二日です(笑い)。ご出身は広島の豊平町とうかがいましたが。
 児玉 ええ、もとは広島県山県郡津谷村です。私がブラジルから最初に帰国したのが一九四六年(昭和二十一年)でしたが、その後、いくつかの村が集まって現在の町になったんです。当時は小さな村でしてね。私の家の後ろは山また山でした。ちょうど広島市から島根のほうに行く街道筋にありまして、実家がその中間ぐらいにあったんです。ですから、往来する人たちが“この家まで来たらあとどれぐらい”という目印にしていたんですよ。(笑い)
 池田 地図を見ると、豊平町というのは中国山地の山あいにある。瀬戸内と日本海側との中間で、昔の旅人にとっては、まさに“胸突き八丁”の所でしょうか。児玉さんの家を見つけると、灯台を見つけた船のように、ホッとしたんでしょうね。
 児玉 じつは、この家が今も残っているんです。児玉家が始まって、もう三、四百年にはなりますか。なんでも、家屋は栗の木でできていると聞いたことがあります。栗の木は長持ちするそうですね。昔はこの家で学校まで開いて、子どもたちに教えていたようです。
 池田 なるほど、由緒ある家柄だったんですね。児玉さんの子どものころは、家はどのようなお仕事をされてましたか。
 児玉 お酢の問屋です。酢を作りながら、せまい畑で農作業もしていました。本当は醤油も作りたかったようです。けれど、その当時は醤油業を営むのに規制がありまして、何キロメートルに一軒とか決まっていたんですね。それで、私の家の近くに醤油屋さんがあったので、わが家では醤油は作れなかった。
 池田 そうですか。懸命に働いていた親の後ろ姿というものは、何歳になっても懐かしく思い出されますね。
2  八十年祭の思い出
 池田 一九八八年の五月は、ブラジル日本移住八十年祭のキャンペーンで八年ぶりのご帰国でした。前に里帰りされたときと比べて印象はどうでしたか。
 児玉 建物がずいぶん高くなっていて(笑い)。日本の都市の発展は本当に速いですね。帰るたびに驚いています。今回は二週間ほどの滞在でしたが、広島の豊平町でもたいへんな歓迎を受けました。本当に楽しかったです。「生きててよかったな」って。
 池田 それからブラジルに戻られて、六月十八日には、サンパウロでブラジル日本移住八十年祭に臨まれた。
 児玉 パカエンブー競技場でした。
 池田 その時、日本からの移住者を代表して、万歳三唱されましたね。どんなお気持ちでしたか。
 児玉 いやあ、何と言っていいか。あの時は皆さんの代わりに万歳をさせてもらったから。それに一万人の方々に人文字で私の名前まで描いていただいて。
 池田 「RYOICHI KODAMA」とですね。SGI(創価学会インタナショナル)のブラジルのメンバーです。ご覧になりましたか。
 児玉 それが、その時はわからなくて、後で聞いたんです。皆さんの真心がうれしかったですね。演技の最中は、私もかなり興奮していたんでしょうか。もう、胸がいっぱいで。
 池田 “八十年祭”の委員長を務められた尾身倍一さん(日伯文化協会会長)が語っておられました。尾身さんが大統領にあいさつに行かれたさいに、大統領は華麗な人文字の絵巻にとくに感嘆されていたそうです。ほとんどの演技者が日本人だと思われていた大統領に、「演技者の七割以上は日系人ではないんですよ。ブラジルの青年で、すべてSGIのメンバーです」と話すと、大統領はたいへんに驚かれたようです。
 児玉 私が日本に戻る直前だったと思いますが、ブラジルSGIと日本の青年メンバー合同の音楽祭も圧巻だったとうかがいました。
 池田 ぜひ、ご覧になっていただきたかった(笑い)
 。八十周年記念式典の序幕として八王子市の創価大学で開催しました。ブエーノ駐日ブラジル大使、新志正夫日本ブラジル中央協会常務理事もご夫妻で出席してくださり、多数の来賓の方々が祝福してくださいました。
 それに“八十年祭”では鼓笛隊や音楽隊も活躍しました。ブラジルで人気者ですよね。
 「文化の波動」のおよぼす力は偉大です。また「青年の情熱」は「絶望」を「希望」に、「困難」を「飛躍への源泉」に変えていく。そういう意味で、ブラジルの若い世代が陸続と育っていることは、何よりもうれしい。夢がふくらみます。展望が広がります。
 児玉 そう言えば、“八十年祭”の時、私の席は通路のそばにあったんですが、そこを大統領が通られましてね。私の前で声をかけてくださったんです。
 池田 何と言われたんですか。
 児玉 それもじつは覚えてないんです(笑い)。自分の前で止まってあいさつをされたので、びっくりするやら、ありがたいやら、不思議に思うばかりで。
 池田 よくわかります。きっと大統領も、“日伯友好の先駆者”である児玉さんを、最大にたたえたかったのでしょう。
3  日系人の活躍
 池田 いずれにしても、日系人の方々が日伯友好に果たされた功績は計り知れません。本当にたいへんななか、道を開かれましたね。国家を超え、まったく異なる文化や慣習を持った人間同士が、たがいのよきところを生かしながら、支えあい共存していく――。現代において、皆さんの足跡は、一つの模範となっています。
 児玉 たしかに、渡航前の契約内容では“金のなる木”のように宣伝されていた新天地も、実際に来てみると大違い。船賃がなくて帰るにも帰れず……。とにかく、いろいろありました。
 池田 しかし皆さんは、「希望」を捨てなかった。工夫を凝らし、知恵をわかせ地域に定着された。そして日本人として、またブラジルのよき市民として社会に貢献し、信頼を勝ち得てこられた。今日のブラジルと日本の友好関係も、庶民の懸命な努力と、波瀾万丈のドラマによって築かれたことを絶対に忘れてはなりません。
 児玉 私は小さい時にブラジルに来たもので、好奇心というか、ただ変わったところに行ってみたいという一心でした。日本に未練はありませんでした。苦労はしましたが、それは私一人ではありません。でも私の場合、いくら働いても苦しかったのは、自分の努力が足りなかったからだと思っています。まわりを見ると、成功した人というのは、やはりそれなりに苦労をしていますね。
 池田 だからこそ、皆さんの尊い開拓の足跡を残していかねばならない。一九八八年の十月、“八十年祭”の尾身委員長、サンパウロ日伯援護協会の竹中正会長、ブラジル日本都道府県人会連合会の高野芳久会長をはじめ、“八十年祭”の答礼使節団の方々が、わざわざ、ごあいさつにお越しくださいました。そのさいにも私は、日伯友好の先駆の功労は永遠に顕彰されていくべきであるとの心情を申し上げました。
 児玉 近いうちに必ず、ブラジルに来てください。私だけでなく、皆が待っていますから。
 池田 ありがとうございます。必ずまいります。ブラジルは、日本にとって大恩ある国です。ブラジルの人々が受け入れてくださったからこそ、日本人は活躍の舞台を得、かけがえのない友好の絆を結ぶことができました。その恩返しとして、ブラジルのいっそうの発展と日伯の友好交流の促進のために、私もできる限りのことをさせていただきたいと思っています。
4  ブラジル移住の背景
 池田 ブラジル移住が始まる経緯について少し調べてもらったのですが、日伯の国交は、一八九五年(明治二十八年)の日伯通商条約の調印を契機として開かれました。ちょうど、児玉さんがお生まれになった年のことです。
 児玉 へえ。それは知りませんでした。何か深い縁を感じます。
 池田 その一年前、一八九四年(明治二十七年)には、サンパウロ州のプラド・ジョルドン商会の代表が来日し、日本の吉佐移民会社と移民輸送契約を結んでいます。
 国交を結ぶ前で、結果的に日本政府の許可は得られなかったのですが、じつはこれがブラジル移住への関心を高める機縁となった。そこで、児玉さんがブラジル移住を決心された経緯についてお聞かせください。
 児玉 私がブラジルへ行ったのは、十三歳の時でした。
 池田 ええ、そうでしたね。それも、一人で行かれた。
 児玉 当時、北米やハワイへの移住が盛んでして、私もその話を聞いて、行ってみたいなと思いました。それで父に「ハワイへ行かせてちょうだい」と頼んだんです。じつはハワイに叔父が住んでいまして、「おじさんのところに行かせてちょうだい」と。しかし父は、「お前はまだ子どもだから、十五歳になるまで学校に行け。十五歳になったらどこへでも好きなところに行かせてやるから」と言うのです。
 私はそれでも気持ちを抑えきれずに、行きたい行きたいと、いつも父に言っていたんですよ(笑い)。ところが、そうこうするうちに、日本政府がハワイ移住を中止にした。というのは、移住した日本人が現地の人々からいじめられたらしいんですね。それでハワイが中止になって、今度はブラジル移住の話が出てきた。
 池田 一九〇〇年代、北米では排日機運が濃くなりましたからね。そこで代わりに、まずメキシコとペルーへの移住が開始された。メキシコへは、一九〇六年(明治三十九年)から二年間で、八千人以上が渡航。またペルーには、一九〇三年(明治三十六年)から、四回目までに約二千人が行ったといいます。このころのペルー行きの船には、のちに児玉さんたちが乗る笠戸丸が就航しています。
 この少し前、先ほどの吉佐移民会社が母体の東洋移民会社が発足し、ブラジル移住についてプラド・ジョルドン商会とふたたび交渉しました。それでハワイで上陸を拒否された二千人をブラジル行きに切り替え、送り出すことになった。ところが、いざ出発の四日前になって、同商会から「コーヒー暴落のため、移民引受不可能」の通知があり、中止になってしまう。
 しかしその一方、ブラジルに赴任した日本の外交官は、相次いでブラジルに関する好意的な報告を政府にもたらしました。またブラジル国内でも、当時、イタリアからの移民が中断されていたこともあって、移民受け入れの機運が高まっていました。こうした理由から、徐々にブラジル移住が現実味を帯びてきた。
5  児玉 それでブラジルの話がよく私のところでも出てきましてね。私のほうは、家の前に住んでいた山田さんがブラジルに行くことになったという話を父から聞きました。山田さん一家は旅費や衣類の支度を始めていた。で、このお宅には十二歳の男の子がいて、「児玉君、ぼくはブラジルに行くからね」と、あんまりブラジル、ブラジルと繰り返すものだから、それを聞いているうちに私も行きたくなった。(笑い)
 さっそく父に「ハワイに行けなくなったから、今度はブラジルに行かせてちょうだい。山田くんは十二歳でブラジルに行くじゃないか。ぼくは十三歳なんだから行かせてくれてもいいじゃないか」と(笑い)。それで父の言うことをぜんぜん、きかなくなった。(笑い)
 父としては行かせたくなかったんでしょうね。でも結局根負けして、しぶしぶ山田さんに後見人をお願いして、行かせてくれることになったんです。
 池田 なるほど。見事にお父さんの説得に成功したわけですね(笑い)。しかし、少年の一途な夢を大切にしてくれたお父さんも偉かった。
 児玉さんご自身は、そのころ、海外移住ということについては、どのようなイメージをお持ちでしたか。
 児玉 そうですね。北米に行った人は、みんな二、三年したらお金を稼いで帰ってきてましたから、とくに地元の若い人の間では有名になってましたよね。
 池田 ある資料によれば、ハワイ移住の人々は、最盛期には日本の月収の十倍以上の収入を得たともいいますから、たいへんなものだったんでしょうね。
 児玉 でも、ブラジルについては、私はほとんど何も知りませんでした。学校の授業で国の名前くらいは聞いたことがありましたが、日本とどれぐらい離れているかとか、そんなことはぜんぜん、わかりませんでした。
 池田 すると、ブラジルについての予備知識はなかったわけですが、何が児玉さんをそこまで駆り立てていったんでしょうか。
 児玉 私は昔から、見知らぬ土地に行くことがたいへんに好きでした。ブラジルに行くのも、正直言って、生まれ故郷から出て知らないところへ行くのがうれしかったんですよ。(笑い)
 先ほどお話ししたように、幼い時から家では酢を作っていました。ある時、父から「この酢をどこそこの家へ届けてこい」と言われて隣の村に出たんです。初めて自分の土地から出て、行った先のいろいろな景色に目を奪われました。変わった形の山があったり、大きな木が立っていたり――。それ以来、よその風景を見るのが大好きになった。一人で酢を配りながら、あちこちの土地のいろんな眺めを印象深く見入って歩くようになったんです。おそらく、私がブラジルに行きたいと思ったのも、こういう性格からきたのだと思います。
 池田 初めて見るほかの土地の風景がたいへんに興味をそそった、と。
 児玉 ええ、外国に行くことも、怖いとかまったく思いませんでした。
 池田 なるほど。そういえば、ブラジルでは「子どもの笑顔は未来への道を開く」とか「子どもの純粋さは世界の力である」と言うそうですね。
 子どもの考えや夢に耳をかたむけてみると、きらきら光る“宝物”のような、すばらしい発想に、かえって大人のほうが驚き、感動を覚える場合があります。子どもだからといって軽くみるような態度は、とくに禁物ですね。
 私も大学や学園を創立した一人として、子どもを一個の対等の「人格」として尊重し、その自主性・可能性を信じ、伸ばしていくことをつねに心がけてきました。
 その後、ブラジル移住については、どのように話が進みましたか。
 児玉 移民会社というのがありまして、「ブラジルに行こうよ」とずいぶん、宣伝していたんです。以前に私らの家にも通知がありましたので、参加したいという連絡をしたところ、さっそく先方が、わが家に見えました。
 池田 いわゆる「皇国殖民会社」ですね。
 児玉 そうです。当時は“農業労働に従事する三人ないしは十人から成る家族単位で参加する”というのが条件で、私は隣村の池町弥市さんという方と「構成家族」を組んだんです。
 つまり、ブラジルへ行くときだけ、池町さんの弟としてのあつかいで……。移民会社からは、ああせいこうせい、と。(笑い)
 池田 かなり多くの移住者の方が、人数の条件をパスするために、この構成家族を組んだそうですね。でも、旅費はどうされたのですか。
 児玉 私の旅費は父が山田さんにお願いして借りました。ほかの人たちも、土地を売ったり高利貸しに借金したりして、相当、無理をして用意したようでした。
6  なにしろ、船賃や途中の宿賃、手数料など、当時のお金で百五十円くらいしましたから、たいへんな額です。サンパウロ州政府からも船賃として多少の補助金はもらったのですが。
 池田 たしか当時は、小学校の先生の初任給が十数円という時代でしたね。旅費の工面も容易ではなかったことでしょう。お父さんも、やはり寂しいお気持ちだったでしょうね。
 児玉 そうですね。ただ、二、三年経ったら私が帰ってくると考えていたようでしたから、それほどでもなかったかもしれません。もっとも私は、二年や三年で帰ってこようなどとは思ってもいませんでしたが……。(笑い)
 池田 では最初から永住する決心だった。
 児玉 そう。それだけ深く決めてましたからね。帰るという考えは毛頭ありませんでしたね。私は変わったところに行くことが楽しみだったんです。そして、早く自分で働いて稼ぎたいという思いだけだった。
 池田 日本を旅立つ時、ご両親は。
 児玉 父は広島まで見送ってくれました。別れる時、無言でした。同級生たちも一緒に来てくれました。
 母と姉は、広島に向けて出る川船の乗船場まで来てくれました。母はたいへん悲しがってましてね。姉も黙っていたけれど心配そうな様子でした。けれども、私はただただうれしくて、胸をわくわくさせていました。
 池田 ご両親の胸中は言葉には表せないものだったでしょう。かわいい息子を外国に旅立たせる辛さ、心細さは、いかばかりだったかと思います。
 しかし、お父さんは、一個の人格として、児玉さんの生き方を尊重し、信じた。
 児玉 そう。おじいさんも親戚の者も皆して、父に「お前は長男を家からよく考えて出せよ」と言ってました。
 でも私は、そんなことはもう耳に入らなかった。(笑い)

1
1