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日蓮大聖人・池田大作

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「序」にかえて――尊い庶民の歴史の証言…  

「太陽と大地開拓の曲」児玉良一(池田大作全集第61巻)

前後
2  日本人のブラジル移住八十周年を記念して来日された、児玉良一さんとお会いしたのは、一九八八年(昭和六十三年)五月であった。八十年前、初の移住船に乗ってブラジルヘ渡られた児玉さんは、この時九十三歳になられていた。しかし、背筋はピンと張り、表情は輝き、すがすがしい“青年”のおもむきをたたえられていた。
 私は、遠来の労をねぎらい、児玉さんに「あなたは日伯(日本とブラジル)友好の“黄金の柱”の存在です」と申し上げた。氏は、私との出会いをことのほか喜んでくださり、あどけない子どものような笑顔でいらしたことが、まことに印象深い。滞日中には、天皇陛下(当時・皇太子殿下)、また福田元総理ともお会いになったようだ。
 明治四十一年(一九〇八年)、児玉さんは「笠戸丸」に乗って、ブラジルヘ渡った。この時、乗船したのは七百八十一人。
3  出発した時、児玉少年は、わずか十三歳。船上に家族の姿もなく、たった一人の旅立ちであった。
 少年は、数百年続いた広島の旧家の長男であった。父親は酢づくりの職人であり、家は比較的、裕福であったようだ。普通なら、家督を継ぐべき長男の児玉少年が、なにゆえブラジル行きを決めたか。
 当時、少年は、父親の仕事を手伝って、近隣の町々まで酢の配達に出かけた。元来、好奇心が旺盛という児玉さんは、新しい町へ行って、自分の町にないめずらしいものを見たり、さまざまな人に出会うのが楽しくて仕方がなかった。こうしたなかで、遠い異国へのあこがれが芽ばえ、徐々に募っていったようである。
 児玉さんは、当初、ハワイに渡りたいと考えていた。叔父が先にハワイヘ移住し、成功を収めていたからだ。しかし当時、ハワイへの日本人の移住が、禁じられてしまう。
 そこへ、ブラジル移住の話が舞い込む。海外雄飛の夢に胸を躍らせていた児玉少年は、さっそく“ブラジルヘ行きたい”と父親に打ち明けた。
 ブラジルがどこにあるのか、それすら知る人の少ない時代である。当然、家族全員が反対であった。しかし、ブラジルへの夢は、どうしても消すことができなかった。彼は、父親のいいつけを守るなど努力を重ねながら説得を続け、なるべく早く日本に帰ることを条件に、ついに了解を得る。
 ようやく念願かなった彼は、四月二十八日、「笠戸丸」に乗って神戸港を出発。そして五十二日目の六月十八日、ブラジルのサントス港に到着した。「海外移住の日」が日本で六月十八日と定められたのは
 、ここに起源があるわけである。まさに、「笠戸丸」の到着は、あらゆる国への移住を象徴する重要な出来事であった。
 五十二日間もの航海にあっては、嵐の日もあったかもしれない。心細くなったこともあったにちがいない。しかも、家族もなく、たった一人で乗り込んだ少年は、彼一人であった。
4  だが、のちに児玉さんは、回想する。「たいへんな船旅ではあったが、辛いと思ったことはなかった。船員さんが、ひじょうに親切にしてくれて、かわいがってくれた」と。児玉さんの当時の記憶は、八十年たっても、きわめて鮮明である。
 子どものころに刻んだ思い出は、生涯、鮮烈に心に残り、光を放っていく。その後の人生、生き方にも、深く、大きな影響をおよぼしていくものだ。
 少年少女の心は、まことに多感である。それだけに、大人が一時の感情でしかったり、ウソをついたり、心にキズをつけてしまえば、取り返しのつかないことになる。反対に、多感な心に刻まれた真心の励ましが、どれほど生涯の成長の源泉となるか。
 ブラジルに着いた児玉少年は、ある一家と一緒に、イギリスの会社所有のコーヒー農場に入る。そこで、朝早くから夜遅くまで、働きに働いた。しかし、その年のコーヒーは不作となり、移民たちは他の農園へと移らざるをえなくなる。
 児玉少年は、何とか都会での仕事を得たいと考えた。幸いにも、ある人の紹介で、ブラジル人の家事手伝い
 の職を得、希望をかなえることができた。以来、約二十年間、日本人と出会うことは、ほとんどなかったという。
 その間の生活について、児玉さんは、次のように語っている。
 「ブラジルでの生活は、収入も少なく、総じて厳しいものでした。でも、十五歳のころには、ブラジルの土になろうとハラを決めました。広島の実家からは、旅費は出すからすぐにでも帰国しろと、再三、言ってきてくれた。しかし、一度、国を出た以上、自分の力でしか帰国はしないと決意していました。年が経てば経つほど、親に金を出してもらって帰ることなど、できませんでしたよ」
 氏は、若き日に、甘えを排し、凛然と自身の生きゆく道を定めたのである。
 やがて、同じ家で働いていた移民のタカさんと、二十一歳で結婚する。タカさんは、やはり「笠戸丸」でブラジルヘ渡ってきた女性であった。
 このころ、児玉さんは、日本人として初めて運転免許証を取得、プロの運転手となった。「当時は、まだ運転手が多くいなかったので、恵まれた職業でした」と、みずから語るように、それから、生活は多少なりとも、楽になっていったようだ。
 二十三歳の時、長男のハウーさんが生まれた。その後、年子で六人の子どもをもうける。
5  子どもたちには、ブラジル人として教育を受けさせた。そのため、日本語も、日本の習慣も、子どもたちには、なじみが薄かった。そこで、日系移民の子から“いじめ”を受けた。ハウーさんは、当時、毎日のように、彼らとケンカをして帰る日々が続いたという。
 ハウーさんが成人となるころには、ブラジル人からの差別が厳しくなった。第二次世界大戦が始まり、ブラジルと日本は、敵国同士となったからだ。
 ハウーさんは、兵役で陸軍に入隊。軍隊生活では、数々の差別や偏見にさらされた。やがて日系二世の外地派遣部隊として、イタリア戦線に赴く。
 みずからブラジル社会のなかで生きぬき、わが子をも、ブラジル人として育てあげていった児玉さん。戦時下には、その児玉さんに対しても、むき出しの反日感情が向けられた。当時、生活の支えとなっていたトラックの運転を警察から禁止されたのも、反日感情以外に理由は考えられなかった。
 児玉さんも、他の移住者と同様、数々の辛酸をなめつくしたといってよい。
 いつの時代であれ、いずこの地であれ、現実とは、厳しい障害との格闘である。それを乗り越えてこそ、人生に栄冠は輝く。
 児玉さんは、ありとあらゆる苦難を経験されたにちがいない。それにもかかわらず、私が懇談した折にも、つねに笑みをたたえられ、人生を楽しみきっているかのようであった。
 同じ一生でも、いつも辛く、悲しいような表情で生きている人もいる。反対に、どんな苦しみにあっても、明るい笑顔で、たくましく生きゆく人もいる。
 ともあれ、いかなる嵐も、つねに前進の追い風としつつ、朗らかに生きていく人こそ“人生の達人”
 といってよい。数々の苦しみを乗り越え、悠々と人生を謳歌する児玉さんは、まさにその一人であると私は直感した。
 戦後、児玉さんは、運搬業に従事した。長年にわたって、サンパウロ市から五百五十キロほどのプレジデンテ・プルデンテという町で、娘さんと暮らしておられた。地味といえば地味、平凡といえば、たしかに平凡な暮らしであったかもしれない。しかしそれは、八十年の風雪をたくましく生きぬいた、尊い一つの証であるといってよい。
 十三歳で別れた父親と、児玉さんが再会するのは、じつに五十歳の時であった。日本をたって三十八年後の初帰国の折である。だが、それが最後の父子の語らいともなった。
 私は、懇談のさい、“人生の知恵者”ともいうべき児玉さんの体験を後世のために残したいと思い、対談の提案をさせていただいた。
 児玉さんは、「自分で書いたりしゃべったりするのは苦手ですが、九十三歳という年齢でもあり、今のうちに何でもお聞きください。それにお答えします」と、快く了承してくださった。
 私はこれまでに、トインビー博士、ユイグ博士、ペッチェイ博士、キッシンジャー博士、ポーリング博士等々、数多くの世界の識者と対談を行ってきたし、現在も続けている。
 こうした“人類の知性”ともいうべき人々と、未来を遠望し、真摯に語りあうことは当然、大事なことである。しかし、それとともに、児玉さんのように、日伯の友好と平和の懸け橋となった、尊い庶民
 の歴史の証言を残しておくことこそ大切であると思い、対談を提案させていただいたのである。
 (一九八八年六月十七日、創価学会・第二東京小金井圏第一回総会での講演を抜粋し、まとめたものです)

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