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日蓮大聖人・池田大作

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12月度本部幹部会 妙法で永遠の栄光の軌跡を

1987.12.4 スピーチ(1987.7〜)(池田大作全集第69巻)

前後
1  最大に輝かしい新春を
 寒いなか、ご参集してくださった皆さまに、心よりご苦労さまと申し上げる。また、この一年、全国の同志の皆さま方は、よく戦い、よく走り、よく成長し、よく前進し、広布の基盤を、よく構築してくださった。皆さま方の偉大なるご健闘を最大に称賛し、感謝申し上げたい。そして全創価学会員が、最大の歓喜と幸福に包まれ、輝かしい新春をお迎えくださることを、私は日々、御本尊様に祈念申し上げている。
 さらに「月月・日日につより給へ」の御聖訓通り、明年も晴れがましく、一歩前進と一歩成長の、素晴らしき一年でありますよう期待してやまない。
2  御書の「聖人知三世事しょうにんちさんぜじ」には「松高ければ藤長く源深ければ流れ遠し」との有名な一節がある。
 ここでは「松」と「源」とは持つ所の″法″にたとえ、「藤」と「流れ」は法を持つ″人″にたとえられている。すなわち松(法)が高ければ、それをつたって伸びる藤(人)も高く伸びていく。川の源(法)が深ければ、その流れ(人)も長遠となる。南無妙法蓮華経というもっとも尊高にして深甚無量の「法」を持つ「人」も、福徳を無限に伸ばし、永遠の幸福を確立できる。これが「法妙なるが故に人貴し」の法理である。
 ゆえに妙法の御当体であられる大聖人は「幸なるかな楽しいかな穢土えどに於て喜楽を受くるは但日蓮一人なる而已」と、御自身の大境界を述べておられる。
 ――なんと幸せなことよ。何と楽しきことか。けがれた娑婆(しゃば)世界にあって、喜びと楽しみを受けるのは、ただ日蓮一人のみである――との悠々たる御境界であられる。
 「一生成仏抄」に「浄土と云ひ穢土えどと云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり」と仰せのごとく、浄土も穢土も、すべては一念一心の反映である。御本仏のおわしますところ、いずこであっても、そこが即寂光土じゃっこうどなのである。
 そして大聖人の門下であり、御本尊をたもった私どももまた、我が人生で絶対の幸福をつかみきることができる。また、つかまねばならない。
 戸田先生はかつて、この「聖人知三世事」の講義をされた。その折、この御文のところで述べられた指導が、今もって私の耳朶じだから離れない。
 「御本尊があるから大丈夫だ。御本尊を拝んでいるから、自分は大丈夫だ。この確信が胸の奥底から出るようになったら信心は一人前です。……私は御本尊を拝んでいるのだ。今朝も拝んだ。今も拝むのだ。わが人生は大丈夫だという確信がつけば、もう大丈夫です」と。
 妙法への信心が深く確実であるならば、その「人」は「法」とともに永遠に栄える。要は、その大確信があるか否かである。この原理は、一家一族においても同じである。また広くいえば、民族も国家も、法の流布とともに栄えていく。
 四十年前、日本は敗戦で貧乏のドン底の国であった。それが今や世界有数の繁栄を示している。そして世界で一番妙法が広まっているのも日本である。この軌を一にした眼前の現実ひとつ見ても、妙法には、どれほどまでに絶大なる力、不思議なる功力があるか。そのことを深く強く確信していただきたい。
3  強き信心の一念は何ものをも変革
 一切は「信心」、我が胸中の「一念」で決まる。ここに信心の精髄がある。それを我が人生を通して体得し、実証しなければならない。ここに仏法の要諦ようていがある。
 このことについて「四土しど」の法理を通し、少々述べておきたい。それは、大聖人が「穢土えどに於て喜楽を受くるは但日蓮一人なる而已」と仰せになった深義を、いささかなりとも正しく拝していくためでもある。
 「四土」とは、四種の国土のことである。天台宗で立てる四土のほか、唯識家(法相宗)や摂論宗で、それぞれ立てる四種の仏土などがある。ここではもっとも一般的な天台所立の四土についてのみふれることにする。
 一つは「凡聖同居土ぼんしょうどうごど」。これは人・天界等の凡夫と、二乗・菩薩・仏の四聖とが同居する国土のことである。大きく二つに分かれ、「同居どうご穢土えど」と「同居の浄土」がある。前者は娑婆世界のように、不浄が充満したなかに六道の凡夫も四聖もともに住む国土である。後者は、清浄に荘厳されたなかに、四悪趣(地獄・餓鬼・畜生・修羅)がおらず、人天と四聖のみが同居する国土である。
 念仏宗で理想とする西方の「極楽浄土」は、実はこの「同居の浄土」にあたる。阿弥陀如来のもと、この国の衆生は一切の苦がなく、もろもろの楽のみ受けると説き、安楽世界(安楽国)ともいう。しかし四土のうちでも、ある意味でもっとも低い位置に置かれた「凡聖同居土」の一種に過ぎない。
 二つには「方便有余土ほうべんうよど(方便土)」であり、二乗、菩薩が住む国土である。一説では、彼等が方便道を修して一応、見思惑けんじわくを断じたゆえに方便といい、塵沙じんじゃ無明むみょうの惑を断じ残しているゆえに有余という。
 三には「実報無障礙土じっぽうむしょうげど(実報土)」であり、別教の初地(菩薩の修行である五十二位のうち四十一位、十地の第一)以上、円教の初住位(不退位)以上の菩薩が住む国土である。真実の仏道修行の果報として必ず功徳を感得するので実報といい、色心が互いに妨げず自在なので無障礙という。
 四には「常寂光土」である。法身ほっしん般若はんにゃ解脱げだつの三徳をそなえた仏の住む国土である。
4  青年部は先日、教学試験があったが、壮年・婦人の方のなかには、長く試験も受けていないので、きれいさっぱり忘れてしまったという方もいらっしゃるかもしれない。しかし、これから述べるところは、私どもにとって、とくに大切なので、せめてこれだけは少しでも学んでいただければ幸いである。
 それは「四土不二」ということである。つまり四土といっても、法華円教の教えからみれば、一土にほかならない。四つの国土が特別な世界として別々に存在しているのではない。依正えしょう不二の法理に基づき、そこに住する衆生の「一念」によって国土に違いが出てくるに過ぎない。
 このことを端的に説いたのが有名な「沙羅しゃらの四見」である。
 釈尊が涅槃経を説いて入滅したのは沙羅樹(フタバガキ科の常緑高木。インド等の熱帯地方に産する)の林であった。この同じ沙羅林も、衆生の機根、境涯の違いによって、それぞれの見方が異なった。これに四とおりあったので四見という。
 像法決疑経ぞうぼうけつぎきょうには、あるいは「ことごとく是れ土沙どしゃ・草木・石壁と見(凡聖同居土)」、あるいは「金銀七宝しっぽうの清浄荘厳せると見(方便土)」、あるいは「三世諸仏所行のところと見(実報土)」、あるいは「不可思議諸仏の境界きょうがいにして真実の法体ほったいと見る(寂光土)」とある。
 要するに自身の境涯が低ければ、どんなに素晴らしい世界が目の前にあろうとも、「見れども見えず」の不幸に陥ってしまうのである。
 「船守弥三郎許ふなもりやさぶろうもと御書」のなかで、「迷悟の不同は沙羅の四見の如し」――迷いと悟りによって違いがあるのは、沙羅の四見のようなものである――と述べられている。
 迷いの眼には何が見えないのか。私どもが朝夕読誦している寿量品の自我偈には「令顛倒衆生りょうてんどうしゅじょう雖近而不見すいごんにふけん」――「顛倒の衆生をして近しと雖も而も見えざらしむ――とある。すなわち、久遠の本仏は常にこの娑婆世界に住されている。しかし心が転倒した衆生には、″近くにいても見えない″のであると。
 大聖人は同抄でこの経文を引かれつつ、「一念三千の仏と申すは法界の成仏と云う事にて候ぞ」「凡夫即仏なり・仏即凡夫なり・一念三千我実成仏これなり」と御教示されていおる。
 すなわち、一念三千の法門においては、仏について、十法界(十界)すべての成仏を説く。仏はもちろん九界の凡夫もまた等しく仏であり、凡夫即仏・仏即凡夫である。これが「一念三千の仏」であり、「我実成仏」の我とは十法界の衆生それぞれをさす。ゆえに凡夫もまた久遠以来、無始無終の仏であることを示されている。
 もちろん、これは別しては、示同凡夫の日蓮大聖人の御境界をさす。そのうえで、総じては、大聖人門下として、自行そして化他に励む私ども地涌の流類るるいのことである。
 我が生命は本来「仏」なり――妙法に照らされて、この一点を確信しきることが、この大切な人生を無限に、また自在に開いていくためのカギとなる。
 迷いの凡夫の眼には、御本尊が御本仏の大生命の御当体であることがわらない。ゆえに我が身の仏性も開くことができない。まさに「雖近而不見」である。
 それを感得するには、強盛な「信心」しかない。信心こそ末法の「悟り」に通じる。御本尊ましますところ、即寂光土であるという義も、信心の一念によってはじめて現実に味わい、その輝きを証明していけるのである。
 「御講聞書おこうききがき」には「所詮しょせん不信の心をば師となすべからず信心の心を師匠とすべし心信敬に法華経を修行し奉るべきなり」――所詮、不信の我が心を師としてはならない。信心の心を師としなさい。清浄な心で仏を信じ敬って、妙法を修行し奉るべきである――とあり、「霊山ここにあり四土一念皆常寂光とは是なり」と記されている。
 強く清らかな「信心」と「修行」ある、そのところこそ霊山浄土である。四土といっても、すべて我が一念の中におさまるのであり、正しき「信心の一念」あるところは皆、常寂光土である。また、これ、これ以上に「穢土」において、真実の「喜楽」を得ていく道はない。
 個人の境涯に約していえば、いずこにあっても、御本尊を中心にした生活、またその家庭は皆、常寂光土となる。国土に約していえば、妙法の広宣流布した世界こそ、常寂光土であると拝する。信心の「一念」は、そこまで大きく広がり、一切を変えていけるのである。
 信心のこの絶大な力を、どこまでも限りなく実証しゆく私どもの人生でありたい。そして大聖人の「幸なるかな楽しいかな」との大境界を仰ぎつつ、一歩また一歩、我が信心の境涯を広げ、深めゆく日々でありたいものである。
5  各人が″第一人者″めざせ
 話は変わるが、昨日、私はフランスの元首相と会見した。フランスといえば、常に世界の若者の文化を先取りしてきた国である。そのフランスの″新人類″ともいうべき、ごく若い世代は、今、多くの人から「ボッフ世代」と呼ばれているという。
 「ボッフ」とは、ため息のことで、日本語でいえば「うっふ」にあたる。「社会のことや他人のことなんか、ボッフ(うっふ)、知らないよ」というような、″ため息世代″の意味である。
 もとより、これはフランス青年の全体像ではない。逆に他の世代以上に、堅実に社会改革に取り組む姿も伝えられている。ただ日本等のミーイズム(自分中心主義)の青年層を含めて、現代世界の青年の一つの大きな傾向を象徴しているとはいえよう。
 青年のこの虚無感と無関心をどう解決していくのか。政治でも解決できない。経済でも解決できない。他の方法もみな問題の核心に手が届かないのが実情である。もはや青年の心をとらえ、青年の心を燃やし、生き生きと蘇生させていくには、妙法による正しき″生命の道″を教えていく以外にない。
 そのためにも、青年部はもちろん先輩の皆さまも、青年の「心」を知る努力が必要である。時代の流れを敏感につかみながら、若き世代の傾向性、考え方、感覚を知り、その心の奥の奥まで、温かくすくい取り、理解していくことが大事となる。そのうえでこそ、弘教もまた指導も、生きた説得力をもつことができる。
 ともあれ、私が申し上げたいことは、もしも青年時代で、この人生が終わるのであれば、あるいはどんな生き方をしてもいいかもしれない。だが、人生は長い。やがて結婚もしよう。子供も生まれる。厳しき社会で働き、生き抜いていかなければならない。これが現実である。
 ゆえに、ただ時代の風潮に流され、軽佻浮薄の波に漂うだけの青春時代を送ってしまったとしたら、後になって一番苦しむのは自分自身である。また自分の家族である。確固たる人生観・哲学を身につけ、みずからを鍛える青春でなければ、年とともに、不幸な後悔の人生となってしまうことを私は心配する。
6  かって『随筆・人間革命』(本全集22巻収録)でも紹介し、また先日も少しふれたが、ある年の夏、戸田先生を囲む青年部首脳の会合があった。その時、先生は、ある穏健そうな青年に、こう指導されていた。その青年は、戸田先生の心配どおり、後に退転してしまった――。
 「閉ざされた青年であってはならない。水の信心というけれども、水も、時と条件によっては、沸騰することもあるのだ。革命児は、ただの平穏なゆっくりした生活を夢見るようでは、成長できなくなるだろう」
 心を閉めきった、なにか陰湿な青年であってはならない。先生はよく、昼は、はつらつと太陽とともに働き、学び、ある時は大自然と語らい、夜は星月を友にしていくような、理性と感情の融合した革命児であれと語っておられた。そして「ともかく、何かで第一人者となるというだけの執念をもつことだ」と結論しておられた。
 信心した以上、可もなく不可もなくといった中途半端な生き方では、厳しく見れば、結局、不可である。何らかの意味で、自分ならではという″第一人者″になろうという志と努力・精進が大切である。その一念が信心を深め、また信心の力を証明していくことを忘れてはならない。
7  逆境こそ人間完成の厳父
 「艱難かんなん汝を玉にす」という言葉がある。十七世紀ごろの英語のことわざ「逆境は人間を賢明にする」を意訳したものとされる。
 逆境こそ人間完成の厳父である。限界ともいうべきギリギリの地点に身をおいてこそ、みずからの渾身の力も発揮できる。
 また「背水の陣」といえば、中国・漢帝国の建国の功臣である韓信の用いた有名な兵法である。川の水を背にして、もはや、さがるにさがれず、必死の奮戦をせざるを得ぬ状況をつくって、勝利を得た故事からきている。『史記』『十八史略』に出てくる話である。
 この陣の意義を問われて、韓信は、ある兵法書(『孫子』)の言を引いている。「死地しちにおとしいれられてはじめて生き、亡地ぼうちに置かれてはじめて存する」(『史記列伝(三)』小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳、岩波文庫)と。
 「死地」「亡地」という絶対絶命の場にあってこそ、むしろ懸命に生きぬく活路を開いていけるものだというのである。
 これは、あらゆる兵法においても、人生哲学においても通じる道理である。学会も「艱難」のたびに信心を深め、数々の「死地」において血路を開いてきた。近年の事件をはじめ、すべての難を発展へと転じきってきた。
 後継の青年部諸君は、この急所ともいえる原理を忘れることなく、みずからの人生と広布の前進に、素晴らしき勝利と栄光の歴史を残していっていただきたい。
8  戸田先生は三十年前の昭和三十二年(一九五七年)、六月度の男子部幹部会で講演され、「確信をもって生きよ」と指導された。その中で、次のように述べられている。
 「若い時代にとくに大切なものは、自分の心を信ずるということである。自分の心というものは信じがたい。中心が動揺し、迷っている若い時代は、ことにありがちである」
 「自分の心にひとつの確信なくしては、生きていけません。(中略)青年はみずから信ずるものをもたねばならない。みずからの心を信じなければならない。この心はあぶないものであるから、御本尊によってこの信をたてるのです。そうすれば、一生涯、ゆうゆうと生きていけると信じます。この立場にみずからも生き、他人をも指導していってほしい」(『戸田城聖全集 第四巻』)と。
 御本尊への「信」をみずからの心の中心にせよ。確固たる軸とし、しんとしなければならない。その大確信があれば生涯、堂々と立派な人生を生きぬいていけるとの指導である。
 戸田先生は、この時、また「異体同心の心というものは、心ではないのです。異体同心の心は、信ずる心です。信仰が同じという意味です。それが異体同心である。その心が強ければ強いほど、いかなることがあっても、青年は敗れることはない」と述べられた。
 異体同心とは、ただ仲がいい、気が合うとか、そのような表面的次元の問題ではない。生命をかけて御本尊を信じ、何があっても大聖人様の御生命から離れない。どこまでも、ともに進んでいく。その不退の「信心」こそ、異体同心の「心」である。その信仰の一念と広宣流布という目的が同じであるゆえに、同志であり、異体同心なのである。
 この同心の「心」が、何かあるごとに、ぐらついたり、ひるがえったりしたのでは、真実の同志ではない。また自身が人生の敗残者となってしまう。
 戸田先生が「その(信心という異体同心の)心が強ければ強いほど……青年は敗れることはない」といわれたことを、深く銘記しなければならない。
9  言論問題のさいも、その時に「心」を乱した人は、今もって立ち上がっていない。また、今回の一連の事件でも、同じように卑しい「心」に陥った人は、その後も、生き生きとした歓喜の人生を歩んでいない。本当に恐ろしく、そしてかわいそうなことであるが、それが現実である。
 戸田先生は、青年が純真な「心」を曇らせてしまった時、本当に厳しく叱咤された。
 これまでも何回かお話ししたことだが、ある時、ウソをつき、人をだまそうとした青年に対し、「君はキツネになったのか。いやしくも、信仰をたもち、立派な人生を歩んでいくために、私の弟子になったのではないか」と激怒された。
 あの時の、先生の厳しい、そしてわびしそうな顔を、私は生涯、忘れることはできない。
10  ″口舌の徒″に勝利なし
 戸田先生は、また、中国の歴史について、さまざまな話をしてくださった。その一つが戦国時代のの忠臣・屈原くつげんの生涯である。この屈原については、かつて第十一回創大祭の記念講演(本全集一巻収録)でもふれ、その「悲劇」と「信念」の人生について論じておいた。
 そこできょうは、屈原と、同時代の策士・張儀ちょうぎについて、少々述べておきたい。
 張儀は、紀元前四世紀に、巧みな弁舌と知謀で名をはせた、時代きっての策謀家である。今日でも「合従連衡がっしょうれんこう」といえば″権謀術数けんぼうじゅっすう″の代名詞として、″はかりごとを巧みにめぐらした外交政策″を意味する。この言葉は、当時の張儀らの策略に由来する。
11  戦国時代には、七つの大国が互いにしのぎを削り、覇を競い合った。そのなかで、徐々に力をつけ、頭角を現わしてきたのは、西方のしんである。
 それに対抗するため、東方の六国が連合して秦にあたるべきであるとする政策が「合従がっしょう」である。合従の「従」とはたての意であり、ほぼ南北に連なる秦以外の六国の連合を、そう称したのである。
 それに対し、強国・秦と和を結べば、第三国の領地をたやすく奪うことができる。だから、秦との東西の連合こそ上策であるとする考えが「連衡れんこう」である。「衡」とは横を意味する。この立案者が、張儀であった。
 彼は「舌があれば、それで十分」と豪語していた人物である。つまり、口先ひとつで、乱世を巧みに泳ぎ、生きていた。彼はその弁舌の力で、秦の恵王けいおうの信任を得、ついには宰相にまで登りつめる。
 そのころ、この西方の強国に対抗するため、現実に東側の六国は協力関係を結び、「合従」を実現していた。中国統一の野望に燃える秦も、そのままでは、どの国にも手が出せない。そこで張儀は、弁舌の力で、「合従」を切り崩し、六カ国の分断を図った。
 そのために彼が唱えたのが、秦との個別の連合を説く「連衡」策であった。が、「合従」と「連衡」のどちらが、他の六国にとって得策であったか。それは明白であろう。秦が個別に同盟を結べば、各国は孤立し、秦はたやすく一国一国を威圧・攻撃することができる。ゆえに「連衡」は、六国の滅亡へと帰結する″奸計かんけい″にほかならなかった。
 ところが、張儀の弁論の才は、余りに優れていた。その雄弁に惑わされ、「連衡」へと傾き、歩むべき方向を誤る国が相次いだ。東方諸国の「合従」同盟は、こうして崩壊した。張儀の″権謀術数″が見事に功を秦したのである。
12  主張の内容には何の″真実″もない。ただひたすら、空虚で巧みな言葉を並べ、相手に取り入り、そしてあざむき、陥れていく――近年の山崎某らの策謀も、構図は完全に同じであった。
 私は、あくまで彼等らの成長と活躍を期待していた。しかし、彼らはそれを裏切り、自身の利益のために、私と学会を利用しようとしたのである。
 私は、ある時″できるだけ早く会長を勇退したい″と、彼らに漏らしたことがあった。以来、山崎某一派は、私が会長を勇退する時を、ずっと待っていた。
 しかし彼らは、自分達がその後の学会の実権を握れそうもないことも段々と分ってきた。そこで、宗門と学会の両方に影響力を行使できる新しい位置をねらった。彼らはマスコミを使い、また宗門から学会を攻撃させ、両者の離反作戦に入った。そして、宗門、学会の間に入り、両者を巧みに操り、利用しながら、自分達の実権を固めようとした。
 私はその動きを早くから見破っていた。しかし北条理事長をはじめ、皆繁多であったこともあり、どうもおかしいと思っていたが、そのままに流されてしまったことが、今は残念でならない。
13  しかし、単なる口先や才知で、いつまでも人をだまし続けることはできない。一時の策謀や繁栄は、やがて色あせ、厳しい歴史の審判を受ける時が来る。張儀も、また、例外ではなかった。
 彼は、「連衡」策が成功し、得意の絶頂にあった。が、その渦中、張儀を信任し、登用していた恵王が急逝する。そして、次の武王が即位するが、この新しい王は張儀に信頼をおかず、嫌っていた。そうした趨勢のなかで、国中に張儀非難の世論が巻き起こり、国外からも問責の使者がやってきた。賢き民衆は、″口舌こうぜつの徒″の本質を、鋭く見抜き、張儀の″落日″を待っていたのである。
 こうした情勢から、他の列強も「連衡」を解き、再び「合従」へと動いていく。張儀は、時流の不利を悟り、誅殺ちゅうさつを恐れて、隣国のへ移らざるをえなかった。そしてそこで生涯を終えている。
14  張儀は、もともと、秦の人ではない。他国から訪れ、大臣となった、いわば「客卿かくけい」である。にもかかわらず、口先一つで宰相まで登りつめ、一時であれ、秦の覇権はけん工作を成功させた。その策略、弁論の才は、よほど卓越したものだったにちがいない。
 しかし、具眼ぐがんの人は、その本質を、張儀の全盛時代にすでに見破っていた。その一人が、かの屈原くつげんである。楚の政治家として存分に腕をふるっていた屈原は、張儀が言葉巧みに主君の懐王に取り入るのを見て、「かれの邪悪な弁舌に動かされてはいけませぬ」と決然と諌言している。そして、懐王を欺く張儀を「大王のおんために、煮殺してやりたい」と述べるほど、その卑しい心根を憎んでいた。(前掲『史記列伝(一)』参照)
 こうした心情を描くに当たり、作家の陳舜臣氏は『小説・十八史略』(毎日新聞社)のなかで、屈原に「いくら学問があり、頭がよくても、策謀をこととするような人間は、わしは大いじゃ。男たる者は、まっすぐでなくちゃいかん」と語らせている。
 のちに『史記』を書いた司馬遷しばせんも、張儀を「傾危けいきの士」とし、「危険きわまる男」であると述べている。人を破滅へと″傾け″、″あや″うくさせる″口舌の徒″の本質を、歴史家の眼で、鋭く見ぬいていた。
 いかなる知謀であれ、所詮、策は策である。いかに名句で飾りたてても、その場しのぎの奸智かんちでしかない。ゆえに策の人は、やがて時とともに崩れ、滅んでいく。この厳しき方軌を、決して忘れてはいけない。
 仏法の深き眼で見るならば、卑しき謀略の徒の末路は、さらに無惨である。いかに人を欺き、陥れようとしても、″汝自身の生命の因果の理法だけは、決してだませない″からである。
 ともあれ、私どもは、いかなる法難にあい、いかなる非難を浴ようとも、厳たる妙法の因果を確信し、胸中に″太陽″をあかあかと輝かせながら、晴ればれと前進していきたいものである。
15  夫婦の麗しい絆に家庭の幸福
 私のスピーチに対し、なるべく難しい話題は少なくし、分りやすい内容にしてほしいとの要望がある。とくに婦人部の方に、そうした声が強いようだ。きょうも「屈原」の話を紹介したが、″クツ屋さん″か何かの話と勘違いし、よく分らなかった方もいたかもしれない。そこで、壮年・婦人部の皆さまに対し、まことに分りやすい、戸田先生の指導をお伝えしたい。
 ある質問会の折である。一人の女性が「主人が段々、遅く帰るようになり、最近では帰らなくなってしまった」との悩みを、戸田先生に話した。
 それに対し、先生は「(夫が)帰っていくと、ぐずぐず、ぐずぐずいうからです。『あなた、きのう、どうしたの。おとといはどこにいってたの』」「そうすると、おやじのほうは、いやになってくる。そんなときは、おでんでもつくって『あなた、めしあがれ。おとうふはいかが』」「と、サービスしてごらんなさい。なんとなく自分の家がよくなってくるのです。……金がなかったら、安いのだけ買ってくればよい。ガンモドキで『あなた、めしあがれ』と」
 「だいじょうぶ、だいじょうぶ、あしたから、それをやってごらんなさい。……ぐずぐずいうから、男のほうは、たいてい、いやになってしまうのです」と。
 人間の心の動きを鮮やかにとらえた、それこそ見事な″夫婦の対話″である。人の心は、理屈ではない。ちょっとした心尽くし、また、こまやかな人情に動かされ、変わっていくのが凡夫である。どうか婦人の皆さま方は、つねに聡明にして、心温かき振る舞いをお願いしたい。
16  女性に注文するだけでは、不公平との批判も出そうなので、男性の皆さまには、戸田先生の次の指導を紹介したい。
 ある男性の「妻が信心しないが」との質問に対し、先生は「女房に文句をいううちは、まだまだ信心ができていません」「女房が仏様みたいに、ありがたいと、このようになると、女房が文句いうわけがありません。……みんな、女房になんか月給を払ったことがないのですから。払ったものありますか。着物など買ってやったことないではないですか」
 「だから、あまり、そのようにぐずぐずいわず、女房を大事にしなさい。それが信心の始まりです。女房が信仰しないとか、自分がろくなこともやらないで、女房をせめてばかりいるのは嫌いです」と答えている。
 これで、夫婦ともに、戸田先生の指導を通し、いうべきことはいったので、平等になったと確信する。
17  人は、たとえ、社会的地位が高くても、幸福とは限らない。財産をもち、土地や宝石があったとしても、本当に幸せかどうかはわからない。また、広布の庭にあって、役職が高くとも、必ずしも、幸福と直結しない場合もある。
 何が、真実の幸福となるか。私は、まず何よりも、夫婦の麗しい「きずな」こそ肝要であると思っている。
 夫は、妻を心から大切にする。また妻は、夫を尊敬し、信頼し、深く愛していく。まるで浪花節のセリフみたいだが、こうした目に見えない「心」と「心」の絆こそ、地位や役職、富や名声を超克した、大勝利の人生と家庭を築く源泉となる。このことを、きょうは、強く申し上げておきたい。
18  真実をきわめる「目」と「耳」を
 ここで「椎地四郎殿御書」を拝しておきたい。この御抄の御執筆年代については諸説があるが、ほぼ弘長元年(一二六一年)四月、伊豆流罪の二週間前にしたためられたものとされている。
 冒頭に「先日御物語の事について彼の人の方へ相尋ね候いし処・仰せ候いしが如く少しもちがはず候いき、これにつけても・いよいよ・はげまして法華経の功徳を得給うべし、師曠が耳・離婁が眼のやうに聞見させ給へ」と仰せである。つまり椎地四郎は、大聖人に何らかの御報告をした。その件について大聖人が、ある人に確認をされたところ、四郎の報告と全く同じであったと述べられている。
 四郎の報告が、どのようなものであったかは、定かではない。しかし、報告の件の御文のあとに、難が来てもいよいよ強盛な信心を貫いて功徳を得ていきなさいと述べられていること、また本抄が伊豆流罪の直前に認められ、当時、大聖人一門に対する幕府の弾圧の動きがあったことなどを考えれば、迫害や弾圧に関する情報であったとも推察される。いずれにしても、大聖人は四郎から情報を、慎重に確認し、把握しておられるのである。
 私どもの広布の戦いにあっても、さまざまな情報を、緻密に分析し、的確に把握していかねばならない。報告は正確と迅速が大事である。とともに、報告の正誤の確認が、さらに大事となる。もし誤った報告をうのみにすれば、以後の対応に大きな過ちを犯すことになるからだ。幹部の皆さま方は、特にこの点をよくよく銘記していただきたい。
19  また、「師曠しこう」と「離婁りろう」については、戸田先生もよく話題にされ、私ども青年に教えてくださった。
 二人は、ともに中国古代の人で、それぞれ″耳のさとい者″と″眼の明らかな者″の典型とされる。宮廷音楽家であった師曠は、主君が鋳造ちゅうぞうした鐘の音色のわずかな狂いを、ただ一人聞きわけることができたし、離婁は、百歩離れたところからでも、細かい毛の先端まで見極めることができたという。
 つまり、大聖人は椎地四郎に対して、この師曠のようなさとい耳、また離婁のようなよい目で、聞いたり、見たりしなさい、といわれているのである。
 近年においても、あまりに低次元の作り話に踊らされた人がいた。学会を攪乱しようとした策略と小才の者の企みが見抜けなかったのである。こうした動きは今後も起こるかもしれない。しかし、皆さま方は、何があっても真実の姿を見極める鋭い「目」、真実の声を聞きわける確かな「耳」を、もっていかねばならない。それが多くの妙法の友を守っていくことになり、誤りなく広布の法戦を進めていくことになるからである。
 このことで私が思い起こすのは、山崎某らの悪の本質を見破った、下町のある婦人部長のことである。
 一連の事件の二、三年前のことであるが、その婦人部長の子息が、あるとき山崎某からマージャンに誘われた。それを聞いた婦人部長は、山崎某の人間性と魂胆をすでに見抜いていて「あの人は悪人だから、けっして付き合ってはいけない。自分の家にも入れてはいけない」と厳しく、諭したという。その鋭い直感はさすがである。
 社会は、大動乱への様相をみせはじめているし、人の心もますます濁り、よこしまになりつつある。そうした世相であるからこそ、真実の姿を見抜き、聞きわける「目」と「耳」をもつことが、ますます大事なのである。
20  さらに、先日の伊豆の代表幹部会でも拝したが、大聖人は「大海へ衆流入る・されども大海は河の水を返す事ありや」――大海には多くの川の水が流れ込む。しかし大海が川の水を返すことがあるだろうか――と言われている。
 この御文を拝するたびに、幕府の非道な迫害に対し、悠々と大難を受け入れていかれる広大な御本仏の御境界をしのび、深く感動したものである。
 学会における大難にあっても、私は、この大聖人の仰せのごとく進んできたつもりである。特に近年、山崎某や内藤某らが、盛んに悪意の攻撃をし、事実でなければ「聖教新聞」などで反撃すべきではないかと、うそぶいていた。
 しかし、私は弁解も反撃もしなかった。もともと彼らの言っていることは、何の価値もない、弁解とか反撃とかの必要のない低次元のことであった。しかも彼らの企みはわかっていた。我々が反撃をすればするほど、世間の注目をあびて自分達が有名になり、本が売れるとの作戦であり、計算だった。そんなことは分かり過ぎるほどわかっていた。
 我々は信仰者である。仏法者である。当然、広布の道を塞ごうとする障魔とは厳然と戦うが、低次元の者と争っても仕方がない。ゆえに「大海は河の水を返す事ありや」との思いできたのである。こうした点も、広布の指導者である皆さま方は、よく知り、おぼえておいていただきたい。
21  才知でなく「人徳」光る人に
 かつて戸田先生は、私によく言われていた。
 「おまえは江戸っ子で、お人好しで、気前がいい。いつも、自分を犠牲にしてまで皆によくしてあげたい、との心でいる。しかし、人間は、皆、お前と同じ心ではないよ。牧口先生は″人間というものは、自分が何かしてあげたことは覚えていても、自分がしてもらったことは忘れるものだ″といわれていた。
 お前がいくら自分を犠牲にし、大勢の人によくしてあげても、残念なことだが相手は全部忘れるものと思っていきなさい。そうでないと、長い人生にあって、本当に人間の世界は、こんなにも不知恩で、無残で、裏切りが多く、真心が通じないものかと、慨嘆することになるだろう」と。
 近年もまったくその通りであった。
 確かに人間というものは、他人にしてあげたことはよく覚えているが、してもらったことは忘れがちである。しかし、人からしてもらったことを、いつまでも忘れない人間になることが、自分をして深く、大きくするのである。
 戸田先生は「本当の偉さとは、たとえ人にしてあげたことは忘れても、してもらったことは一生涯忘れないで、その恩を返していこうとすることだ。そこに仏法の光がある。また人格の輝きがあり、人間の深さ、大きさ、味わいがある」と、私に教えてくださった。
 ともあれ、戸田先生の指導は、まことに鋭く、先の先を見通してのものであったと、痛感する昨今である。近年の裏切り、退転していった連中は、困っている時、私が個人的に最大限によくした連中である。
22  昨日、ある日本の著名な財界人と、聖教新聞本社で会談した。
 そのさい、その人は「時代は『才知の時代』から、『人徳の時代』に入ったように思う。才知だけでは善悪の両刃となる場合がある。人徳のある人には、自然のうちに人々が安心して心を寄せることができる。また、その人には信頼してついていける」との趣旨の話をされていた。
 長年、人の上に立ち、苦労してこられた一流の見方はさすがだと思った。
 一般世間ですらそうである。いわんや信心の世界では、信仰の証でもある「人徳」の輝きがもっとも大事となる。
 私は、一時、一流大学出の、いわゆる才知にたけた人を重要な立場に登用してきた。全部が失敗であったとはいえないが、近年の事件にみられた裏切りの姿は、皆さま方がご存じの通りである。私としては、できうるかぎりの善意で成長させようと努力した人々であった。
 しかし、彼らは、信心も忘れ、広宣流布の目的も忘れ、後輩への育成の愛情も忘れた。そして、自分自身の才知を鼻にかけて、自分の名誉のため、自分の出世のため、名声のため、自分の利益のためしか考えなくなってしまった。そういう人徳のない、策や小才の人間が幹部になれば、人々が余りにもかわいそうである。
 二度と、このようなことを繰り返してはならない。その意味で、これからは、信心の組織でも、人柄のよい人格者が中心となっていくべきである。いわゆる学歴や才知だけであってはならない。人徳のある、信心の深い、公平な人でなければならない。そして自分を顧みず、法のため、人のため、後輩のために貢献していく誠実な人でなくてはならない。このことを、後世のために強いて言い残しておきたい。
23  さて、先日の関西総会でも話があったが、私はちょうど三十年前のきょう、十二月四日の日記に、次のように、青春の誓いを記している。(本全集37巻収録)当時、戸田先生のお体の具合は、大変に悪かった。
24  「先生のお声をお聞きしたい。しばし、お会いできず。なんとさびしきことよ。先生とともに戦い、進み、生きぬくこと以外に、私の人生はない。師ありて、われあるを知る。(中略)
  十歳まで……平凡な漁師(海苔製造業)の少年時代
  二十歳まで……自我の目覚め、病魔との闘い
  三十歳まで……仏法の研鑽と実践。病魔の打破への闘い
  四十歳まで……教学の完成と実践の完成
  五十歳まで……社会への宣言
  六十歳……日本の広布の基盤完成
 いろいろに思う。未来の指標。
 今、三十代になんなんとし、今世の指標、いずこまで完成できたと、一人思索する」
25  私は、間もなく六十歳。日本の広宣流布の基盤は完璧につくりあげた。また大謗法の国・日本の広宣流布の基盤ができれば、世界広布は絶対に間違いない流れとなると確信する。
 私は、この四十年間、いわれなき非難また、ありとあらゆる迫害の荒波を幾たびとなく受けた。しかし、広宣流布のために、絶対に負けなかった。万年の妙法広布の大道をつくるために耐え、すべて勝ってきた。私は、いくつもの三類と三障の怒涛の嵐を乗り越えてきた。そして、全部、大聖人の仰せのごとくに、信心を貫き通してきたつもりである。また、近くは人生の師・戸田城聖先生の遺訓通りに、走り続けてきたつもりである。これが学会精神であるからだ。
 この青春時代の誓いを果たし、勝ち抜いたことは、私の永遠にわたる″錦″であり、″誉れ″であり、崩れざる″大福運″と確信している。
 皆さま方も、これからも同じように、純粋にして強盛なる信心の大道を生き抜いて、三世にわたる勝利と名誉と誇りと凱歌の不滅の勲章を、生命に光り輝かせていただきたい。
 最後に、本日、お目にかかれなかった大切な、また親愛なる全同志の方々に「くれぐれもよろしくお伝えください」と申し上げ、私のスピーチとしたい。

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