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日蓮大聖人・池田大作

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伊豆広布四十周年記念幹部会 わが境涯を大海のごとく

1987.11.23 スピーチ(1987.7〜)(池田大作全集第69巻)

前後
1  正義の厳たる証明の歴史を
 本日は、伊東、伊豆方面(静岡県)の広布開拓四十周年の意義を含め、未来を担う青年部をはじめ各部の代表が集い合っての幹部会となった。心からお祝い申し上げる。
 きょうは祝日である。本来ならゆっくりと、疲れをいやすべき日であったかもしれない。それがこのような幹部会となり、申し訳なく思うし、また本当にご苦労さまと申し上げたい。
 きょう初めてお会いする方も多いようである。スピーチは少々難しい内容となるかもしれないが、大半は青年部の代表でもあり、かえってその方が将来、「伊豆での話は難しかったな」と、深く思い出に残るかもしれない。どうか、ご了承願いたい。
2  昭和二十二年(一九四七年)の一月、戸田先生は総本山への正月登山を終えた後、即座に伊豆・下田へと地方指導におもむかれた。これが、前年の栃木、群馬に続く戦後二度目の地方指導であり、本年が広布四十周年となる淵源ともなっている。
 この折、戸田先生は下田、蓮台寺れんだいじ箕作みつくりなどで座談会を開かれている。
 また、この年の七月にも、再び伊豆の下田、蓮台寺を訪れ、さらに翌二十三年一月にも下田を訪問し、全魂をこめて弘教や激励にあたられた。
 学会再建の途上、再三再四、伊豆に足を運ばれた戸田先生の胸中に、いかなる思いが去来していたか。それは、伊豆・下田の地で官憲に検挙された恩師・牧口先生への追憶であり、そのお姿であったにちがいない。その点については、かつて小説『人間革命』(第三巻)にもとどめておいた通りである。
 昭和十八年七月六日の早朝、牧口先生は、下田の須崎で特高刑事二人に逮捕、連行された。ともにいた同志と別れる時、牧口先生は「戸田君によろしく」と、伝言を託された。
 が、戸田先生もまた、同じ日に東京・白金台の自宅で逮捕されていた――。
 この伊豆は、牧口先生の生涯最後の弘教の天地となった。弟子の戸田先生も、この地を再三訪れ、学会再建に当たった。まことに、私ども学会員にとって、ゆかり深い国土といわねばならない。
 その意味からも、きょうは、諸君とお会いしたかった。この広布有縁の地で活躍する若き諸君に、尊き人生の「師弟の絆」について、私はぜひとも語っておきたかった。
3  奇しくも、ここ伊豆は、日蓮大聖人の王難の地である。大聖人は、弘長元年(一二六一年)五月十二日から弘長三年二月二十二日まで、約二年間、この伊東に配流され、苦難の日々を過ごされた。聖寿四十歳から四十二歳のことである。
 弘長二年の正月、大聖人は、ここから、安房(千葉)の門下・工藤左近尉さこんのじょう吉隆に御手紙を書かれている。これが有名な「四恩抄」である。そのなかに、次の御文がある。
 「此の身に学文つかまつりし事やうやく二十四五年にまかりなるなり」――この身に仏法を学ぶこと、ようやく二十四、五年になる――。
 むろん、示同凡夫の御立場からの御言葉である。
 「法華経をことに信じまいらせ候いし事はわづかに此の六七年よりこのかたなり」――そのうちでも、法華経をとくに信じまいらせたのは、わずかにこの六、七年のことである――。
 これも、大聖人の御謙であられるが、仏法研鑽に没頭されていた時ではなく、立宗後、数々の大難を受けるなかに、法華経の真実の″色読″があったとの御指南と拝される。
 「又信じて候いしかども懈怠の身たる上或は学文と云ひ或は世間の事にさえられて一日にわづかに一巻・一品・題目計なり」――また、信じてはいたけれども、怠惰たいだの身であるうえに、あるいは学問のこと、あるいは世間の事に妨げられ、法華経に打ち込むことは、一日にわずかに一巻、一品、題目ばかりであった――。
 あたかも繁忙な世事に追われ、思うように行学に励めぬ諸君のことを、ズバリと見抜かれ、指導されているようでもある。
 「去年の五月十二日より今年正月十六日に至るまで二百四十余日の程は昼夜十二時に法華経を修行し奉ると存じ候」――伊豆に流罪さた去年の五月十二日から今年の正月十六日にいたるまでの二百四十余日は、昼夜ひまなく、一日中、法華経を修行していると思っている。なぜか――。
 「其の故は法華経の故にかかる身となりて候へば行住坐臥に法華経を読み行ずるにてこそ候へ
 ――その理由は、法華経ゆえにこのような流罪の身となったので、立ち居振る舞いのすべてが法華経を読み、行じていることになるからである――。
 つまり、難を受けてこそ初めて、法華経の″身読″″色読″が可能となる。
 そこで大聖人は「人間に生を受けて是れ程の悦びは何事か候べき」――人間に生を受けて、これほどの悦びがほかにあるであろうか――との深き御境界を述べられるのである。
 さらに「凡夫の習い我とはげみて菩提心を発して後生を願うといへども自ら思ひ出し十二時の間に一時・二時こそは・はげみ候へ」――凡夫の常の習いとして、みずから励んで菩提心をおこして後生を願うといっても、せいぜいみずから思い出して十二時(一日)のうち一時ひととき二時ふたときぐらいは励むであろう――。
 つまり、平凡な日常のなかで、仏道修行に自発的に励もうとしても、多くて二時間か四時間程度しか、励むことはできないものである。
 ところが「是は思ひ出さぬにも御経をよみ読まざるにも法華経を行ずるにて候か」――だが、流罪のわが身は、思い出さなくとも、おのずと法華経を読み、読まなくても、おのずから法華経を行じているのである――と。
 何という透徹した御境界であろうか。
4  対告衆の工藤吉隆は、御手紙をいただいた二年後、小松原の法難で身を挺して大聖人をお守りし、命を落としている。
 この御抄を拝した時の純粋な決意と発心が、尊き殉難への遠因となったのかもしれない。
 当然のことながら、御本仏が受難されるのと、私ども凡夫が難を受けるのとでは、次元が異なる。しかし門下にとっても、難に耐え、難と戦うなかに、信心の深化と開花があり、広布への前進があることは変わらない。仏意仏勅の団体である我が創価学会の歴史にあっても、大難にあうごとに、成長の節を刻み、発展してきたことは、事実である。
5  創立記念日のスピーチのさい、フランスの哲学者アランについて、少々語った。彼が″一流の人物″について述べた言葉のなかに、次の一節がある。
 「誤謬ごびゅう中の誤謬は障害物から身を遠ざけて自由でありたいと望むことだからだ。これがもとでひとは困難に不平を鳴らす。ところが困難とは、むしろ逆に、人がそれを越えて発展しつつ、あるしかたでそれにすっかり身をまかせようとすれば、直ちに人を強めてくれるものなのだ。二流の思想家というのは、おそらく困難を遠くからながめ、防御態勢をとる人々だろう。これでは戦わぬさきにつかれてしまう」(『わが思索のあと』田島節夫訳、『アラン著作集10』所収、白水社)
 仏法の「難来るを以て安楽と意得可きなり」との御文にも一分通ずる名言である。困難を避けていては″一流″の人生を歩むことはできない。所詮、″二流″にとどまらざるをえない。
 四十代、五十代、六十代となって、堂々たる大樹と成長するか、それとも弱々しい、かぼそい木のまま朽ちはてるか。その岐路は、人生の困難とどう取り組んでいくかという一点にあることを忘れてはならないであろう。個人であれ、団体であれ、この原理は変わらない。
6  大法有縁の尊き天地を誉れを
 さて、大聖人が伊豆へ配流されたあと、日興上人は直ちに師のもとへせ参じた。御年、十六歳。今でいえば、高校生の年ごろである。
 その御姿を日亨上人は次のように描かれている。
 「弘長元年、大聖人伊東配流の時は、みずからいて薪水しんすい(=たきぎ拾いや水み)の労をとり、艱苦かんくをともにし、間をえて(=あいている時間をみては)、附近に行化ぎょうげ(=折伏)せらる」(『富士日興上人詳伝』)と。
 まさに日興上人は、大聖人と苦楽をともにされながら、青春を躍動させ、伊豆の天地を弘教に疾駆された。
 その転教の舞台は広く、伊東市の中心から北北西四キロの宇佐美や、南四キロの吉田等での活躍が伝えられている。また熱海では、当時の有力な密教僧・行満と法論を交わし、破折。見事、正法に改宗させている。十代半ばの少年とは思えぬ活躍である。
 また、第三祖日目上人も、お生まれは、この伊豆であられた。現在の田方郡函南かんなみ町の畑毛である。そして、日興上人と日目上人の出会いの舞台も、同じく伊豆であった。その時、日興上人は二十九歳、日目上人は十五歳。伊豆は幾重にも、仏法の「師弟」のゆかり深き国土となっている。
 一方、諸君にとっても、この伊豆は、信心の同志、先輩、後輩と出会った「広宣」の尊い天地である。次元は異なるが、日興上人と日目上人が出会われ、絆を強めていかれた御様子と二重映しに浮かんでならない。
7  ところで御本仏を伊豆へ遠流おんるした法罰は、厳然と現れた。遠流の決定に力を及ぼした北条重時は、配流の翌月、にわかに病に倒れた。そして、夜ごとの発作に見舞われ、ついには発狂し、この年の十一月、六十四歳で死去した。さらに、長男・長時も、三年後に急死している。仏法の因果は、どこまでも峻厳しゅんげんである。
 戸田先生も、そのことをご自身の経験から、さまざまな角度で話してくださった。
 たとえば、牧口先生や戸田先生に獄中で、厳しく詰問した担当者は、不慮の事故にあい、最後は悲惨な姿であった。また、牧口先生につらく当たり、暴行を働いた係官も同様であった。さらにはその上司も、その後、転落の人生をたどり、みじめな姿となった。戸田先生は、こうした現証を目の当たりにし、仏法の厳しさを痛感したとの思いを、よく語っておられた。
 伊豆は、日蓮大聖人御留難の舞台となった、永遠に忘れえぬ天地である。また、牧口、戸田両会長が、御本仏をお慕い申し上げながら、熾烈しれつな法戦を展開された地でもある。
 私は、ここへ来るたびに、流罪中の大聖人の御心境を思い、厳粛な気持ちにならざるをえない。果てしのない海を見ながら、″御本仏が、どのようにこの大海を御覧になられたであろうかと″と、いつも思う。牧口先生、戸田先生もまた、私と同じ思いであったにちがいない。
 ともあれ、伊東から望んだ海には、荘厳さがある。歴史があり、光がある。表現しえぬ詩がある。無量の人々に、幾多の思い出をつむぎゆく不思議な海である。
 そこで、この「海」について、少々、思いつくままに話しをさせていただきたい。
8  ″生命の母″なる海に妙法の力用
 海は″生命の母″といわれる。地球上には多くの生物が現存しているが、それらの生物が生きていくうえで必要な大気を、現在のように調合したのは「海」ともいわれる。
 ところで、地球の大気、そして海はどのようにしてできたのだろうか。ここでは『MEGA〈科学大事典〉』(講談社)の中でわかりやすく紹介されている「大気誕生」の内容にそって説明したい。
 大気の発生については、いろいろな説があるが、京都大学理学部の林中四郎教授(=当時)らの新しい説によれば、
 ――四十六億年前、地球が誕生したころ、表面はすべて煮えたぎる岩石(マグマ)におおわれ、地表付近は高温・高圧(摂氏三千七百度、二万気圧)になっており、非常に濃い水素とヘリウムの大気ができた。これが地球の最初の大気(一次大気)である。やがて太陽活動が活発になり、太陽風(太陽からの粒子の流れ)という巨大なエネルギーによって、一次大気が吹き飛ばされたという。
 これが新しく提唱された学説であるが、この一次大気が吹きはらわれると、地表付近の気圧、温度が下がり、マグマの中から、さまざまなガスが発生してきた。これを二次大気と呼ぶ。主な成分は、水素、水蒸気、一酸化炭素、二酸化炭素、窒素、塩化水素、亜硫酸ガス、などである。
 この過程を脱ガスといい、約五億年間続くが、現在の地球w取りまく大気の八五パーセントが、煮えたぎるこのマグマの中から生まれている。「大気のもとは、原始の地球が吐いた熱い息」(『MEGA〈科学大事典〉』)といわれるゆえんである。
 太陽の活動も、この間にほぼ現在の状態に落ち着く。地球には最初の雨が降り始めるのは、二次大気がある程度、冷えてくるころであるが、大気の下層部分はまだ熱いので、雨は途中で蒸発してしまう。このときに大量の気化熱を奪うため、地球の急ピッチで冷却され、マグマが固まって地表をつくり、さらに雨が地表まで降り注ぐようになり、やがて海が誕生する。
 大気中の塩化水素は、水に大変溶けやすいため、雨や海に溶け込み、″塩酸の雨″″塩酸の海″ができる。つまり塩化水素の溶けた水は塩酸であり、この強い酸性の海水は、岩石中のナトリウムなどを溶かし、しだいに中和される。この過程で、塩酸とナトリウム(塩)を合成し、現在のように塩分を含んだ海水となったと考えられる。
 一方、二次大気中の二酸化炭素は、中性の水に溶けやすいため、どんどん海水中にとり込まれ、石灰岩となって海底に堆積する。また、海水は窒素を除く二次大気をすべて急襲して溶かしこんでいく。
 さらに時は進み、三十三億年前になって初めて海水中に生物が発生する。一億年ほど経て光合成を行う生物が生まれ、光合成によってつくられた酸素が、海水と大気中に供給される。また地上にも植物が生育するようになり、大気中に酸素が急速に増えていくことになる。こうして地球は三十億年ともいわれる長い年月をかけて酸素を蓄積してきたのである。(同前、参照)
 現在、地球上には人類が住んでいるが、海の誕生といい、酸素をもった大気の出現といい、人類の生存のための壮大な舞台が形成されてきたといえる。
 その意味で、太古の雨は、人類にとって、″功徳″ともいうべき″恵みの雨″であった。また、生をはぐくんできた大気中の酸素も、広大なる海も、人類に寄せられた地球の″福運″ともいうべきものであった。
 まさに地球上に、人間と仏法が出現するために、大宇宙が演じた深遠なドラマと私は思わずにはいられない。人類はこの″功徳″と″福運″を、環境破壊によって、みずからの手で消すようなことがあってはならない。
9  日蓮大聖人は、涅槃経や法華経薬王品の文を引かれて「海」のもつ徳について述べられている。
 「同一鹹味御書」には涅槃経の「八つの不思議」として、詳しく示されているので、ここで拝しておきたい。
 「大海に八の不思議あり、一には漸漸に転深し・二には深くして底を得難し三には同じ一鹹の味なり・四には潮限りを過ぎず・五には種種の宝蔵有り・六には大身の衆生中に在つて居住す・七には死屍を宿めず・八には万流大雨之を収めて不増不減なり
 ――大海には八つの不思議がある。一にはだんだんと非常に深くなる。二には深くして底をきわめ難い。三にはどこの海水も一様に塩辛い味である。四には潮の干満には一定の法則がある。五には種々の宝を蔵している。六には大きな生物が住んでいる。七には死骸しがいをとどめない。八には諸河が流れ込み、大雨が降っても増減がないことである――。
 これら八つの海の姿、働きを具体的にみてみたい。(主に岩波書店辞典編集部編『科学の事典』参照)
 (1)大陸に続く海洋には、大陸棚と呼ばれる海底のゆるやかに傾斜した部分があり、次第に深くなっていく。
 (2)海の深さは平均三・七キロといわれるが、もっとも深いところは一万一千三十メートル(マリアナ海溝)にもなる。
 (3)海水には約三・五%の塩が含まれており、塩辛い。海に溶けている塩だけでも、地球全体を五十メートルの厚さでおおうほどだという。
 (4)潮の干満は、太陽と月と地球の引力によって周期的に起こり、一定の法則性がある。ちなみに、カナダ東南部ニューブランズウィック州にあるファンディ湾では、潮の干満の差が世界最大の十五メートルを示したという記録がある。
 (5)海水は鉱物やエネルギーなどの極めて多くの資源を蔵している。
 (6)海には最大の哺乳類であるクジラをはじめ大きな動物が生息している。
 (7)海に死骸がないのは、それを食べる生物がいたり、バクテリア等で分解されてしまうからである。
 (8)河川や大雨で大量の水が海に流れ込んでも、海水に変動はない。これは太陽熱によって絶えず海の水が蒸発しているためで、蒸発した水は上空で雲となり、雨を降らせて川となって海にもどってくる。これが水の循環で、自然界の巧みな働きの一つなのである。
 さらに大聖人は、この海の八つの不思議を通して、法華経の偉大さをたとえられている。
 まず「漸漸に転深しとは法華経は凡夫無解むげより聖人有解に至るまで皆仏道を成ずるに譬うるなり」と。――海がだんだんと深くなるということは、法華経は無解の凡夫から、有解の聖人にいたるまで、皆仏道を成就できることにたとえている――。
 次に「深くして底を得難しとは法華経は唯仏与仏の境界にして等覚已下は極むることなきが故なり」――深くて底をきわめ難いとは、法華経はただ仏と仏とのみが悟っている境界であり、等覚以下の菩薩はきわめられないからである――。
 また「同じ一鹹の味なりとは諸河に鹹なきは諸教に得道なきに譬ふ、諸河の水・大海に入つて鹹となるは諸教の機類・法華経に入つて仏道を成ずるに譬ふ」――つまり、海水はどこも一様に塩辛いが、川の水はそうではない。この諸河の水に塩(鹹)がないとは、諸教では成仏できないことにたとえられる。また川の水が大海に入って塩辛くなるのは、諸教のさまざまな機根の者が、法華経に入って、すべて仏道を成就できることを示すのである――。
 さらに「潮限りを過ぎずとは妙法を持つ人寧ろ身命を失するとも不退転を得るに譬ふ」――潮の干満に一定の法則があるとは、妙法を持つ人はたとえ身命を失うことがあっても、必ず不退転の位を得ることができるというのである――。
 「種種の宝蔵有りとは諸仏菩薩の万行万善・諸波羅蜜の功徳・妙法に納まるに譬ふ」――海は種々の宝を蔵している。これは諸仏・菩薩のすべての修行・善行・諸の波羅蜜を修行する功徳は妙法に納まっていることにたとえる――。
 また「大身の衆生所居の住処とは仏菩薩・大智慧あるが故に大身衆生と名く大身・大心・大荘厳・大調伏・大説法・大勢・大神通・大慈・大悲・おのづから法華経より生ずるが故なり」――大きな生物が住んでいるところとであるとは、仏・菩薩の住むところをたとえたもので、仏・菩薩は大智があるから大身の衆生と名づけるのである。このような大身も、大きな心も、三十二相八十種好をそなえる大荘厳も、諸悪を屈服させる大調伏も、梵音声の大説法も、大勢力も、大神通も、大慈、大悲も、もともと法華経から生じたものである――。
 次に「死屍を宿めずとは永く謗法一闡提ほうぼういっせんだいを離るるが故なり」――死骸をとどめることがないというのは、法華経によって永遠に謗法、一闡提を離れることができるにたとえる。つまり諸教を誹謗しても法華経(御本尊)にそむかなければ必ず成仏できる。たとえ一切経を信じても法華経にそむくならば、必ず無間地獄に堕ちることを意味している。
 最後に「不増不減とは法華の意は一切衆生の仏性同一性なるが故なり」――海の水に増減がないとは、法華経の意は一切衆生の仏性は同一であることにたとえたものである――。
 大宇宙が地球上に生み出した″生命の母″なる海。それは″信心の大海″の象徴として、″生死の大法″にのっとって歩むべき人生の道を、さまざまに教えてくれる。
10  冠婚葬祭は真心で簡素に
 話は変わるが、「冠婚葬祭」のありかたについて、日ごろ感じている点を、少々、述べておきたい。
 先日、福岡を訪れたさい、「西日本新聞」のインタビューを受けたが、十月十八日付の同紙に、次のような記事が掲載されていた。それは福岡県三井郡大刀洗たちあらい町では、町をあげて「冠婚葬祭」の簡素化に取り組むことになった、というのである。
 私も、機会のあるごとに話をしてきた点であるし、よりよい慣習のありかたに真剣に取り組んでおられることを知り、深い感銘を覚えた。
 大刀洗町は、農村地帯であり「厳しい農業情勢の中で、無駄な出費は減らそう」という声が強く出されるようになったという。そこで町の代表が集まって協議し、具体的な申し合わせ事項を決めることとなった。
 たとえば、結婚式については、披露宴の祝い金は五千円程度、家庭で眠らせることの多い引き出物は廃止する、などである。また葬儀については、香典は二千円以内、会葬御礼は礼状だけにし、品物は廃止、個人への香典返し(主に品物)は廃止、祭壇は豪華にならないように、などとなっている。
 また「出産」「入学」「卒業」の祝いなども、社会通念の範囲内とし、お返しは廃止する。そして、さらに「その他、改善した方がよい生活慣習が見つかれば、協議会で話し合っていく」という。
11  当然、各地域で事情は異なり、この大刀洗町の例をそのまままねる必要はない。ただ年々慶弔事が派手になりつつある時流の中で、多くの人がこうした簡素化を心の中で望んでいることは事実ではなかろうか。
 特に私達学会員は、じつに多くの同志とのつながりがある。こうした出費がかさんで、負担がかかるようなことがあっては、かえって信心の妨げともなりかねない。
 あくまでも信心の世界は、信心の絆が第一義である。ありのままの人間、ありのままの同志として、″真心″を大切にしながら、互いに賢明にまた堅実にともに進んでいくべきである。
 特に幹部は、広宣流布の活動で人一倍出費がかさむ場合が多い。結婚を披露するにも招く側は、これまでお世話になった親しい方にきてもらえれば、それが何よりのお祝いであり、喜びであるとの気持ちで出席を願うこともあっていいのではないだろうか。
 御書の中には、華麗な結婚式の模様など、どこにも見当たらない。華麗な式典が信心の強弱、さらには幸福の尺度でもまったくない。その人の見えもあろう。その家のしきたりもある。その地域の慣習もそれなりにあろう。また両家の親類・姻戚いんせきに対する体裁もあろう。全部私は知っているつもりであり、よく理解できる。しかし、本当に時代と人生と未来を見つめた場合には、おのずからそこに聡明な答えが返ってくるであろうと、私は申し上げたいのである。
 ともあれ信心の世界に、華美な形式や金額の多少で人を判断する風潮だけは、絶対にあってはならない。もしそうであれば、後世に大きな世法の濁流を残すだけである。
12  「改善すべき点を協議会で話し合っていく」という大刀洗町の方式は、すでに、はるか以前から学会が各地域で行ってきたものである。
 この学会の協議会の場をさらに充実させ、地域の慣習などについても具体的に考えてもいいのではないかと思う。そして率直な、また建設的な意見を交換しあいながら、地域広布へと前進していただきたい。
 また、葬儀の祭壇についても、決して豪華である必要はない。
 宗門発行の「続・日蓮正宗の行事」にも「見栄などで、特別豪華な祭壇にする必要はありません。各々の家に合った祭壇を作ればよいのです」と、明快にある通りである。
 葬儀一般も、徐々に、簡素化を期していくべきではあるまいか。
 日有上人の「化儀抄」に、葬儀のありかたについて、次のような一節がある。
 「仏事引導の時、理の廻向えこう有るべからず智者の解行は観行即の宗旨なるが故なり、かにも信者なるが故に事の廻向しかるべきなり、迷人愚人の上の宗旨の建立なるが故なり、それとは経を読み題目を唱へてこの経の功用に依って成仏す」(富要一巻)と。
 日達上人は、この一節について、次のように講述されている。
 「葬式において、読経して引導をなす時は、決して理論めいた言葉を弄した引導文をのべてはいけません。そういう理論めいたことは、智者の悟りで、天台宗のごとき観行相似即の宗旨で行うのであります。本宗は信をもととした宗旨でありますから、簡単に御本尊に向ってなき霊の即身成仏を願うのであります。本宗は末法本未有善ほんみうぜん凡愚の人々を救うための宗旨でありますから。そのわけは、方便品、寿量品を読み、題目を唱えることによって、『妙法経力即身成仏』と示さるごとく、御本尊の功力で即身成仏するからであります」(『日達上人全集 第一輯第四巻』)と。
 たれびとも納得のいく方軌であり、まったく正しい仏法の法理と、私はいつも思ってきた。
 さらに日亨上人は、同じくこの「化儀抄」の一節を註解され、「導師たるものは・他宗他門の様に理智じみた広漠たる言辞を宣ぶべからず、れは理の廻向の文なれば・宗門の精神に違反す、宗門の事の廻向とは・簡明に亡き霊の成仏を念ずるばかりにて足る」(富要一巻)と述べられている。これは、僧侶の化儀についての御言葉である。
 いずれにせよ、御本尊に追善回向していくならば、妙法の偉大な功徳力により、故人は必ず、成仏できる。ゆえに、見えを張り、ぜいを尽くしたような葬儀は、必要ない。簡単、簡明なもので、一向に差し支えないのである。それが大聖人の御心にも適ったいき方であると思う。
 世の風潮に流され、華美を競ったり、見えを張ったりするのは、あまりにも愚かである。葬儀、また他の儀式にあっても、肝要なのは、あくまで「信心」の二字であることを、改めて銘記したい。
13  角度は変わるが、葬儀に関連して、ベルギーのある哲学者ペエレルマンの言葉を紹介しておきたい。彼は「言論・弁論」をテーマとした学術書の中で、こう記している。
 「ある弁論家が亡友の弔辞ちょうじを述べる機会を利用して、葬式参会者の一部を非難攻撃する演説を行うのを聞いたことがある。その時の不愉快さを、私は三十年以上もたつ今日、なお忘れ得ない」(『説得の論理学―新しいレトリック』三輪正訳、理想社)と。
 厳粛なる葬儀の席である。死者をいたむ心で、みな集っている。にもかかわらず、その弁論家は自分がしゃべる機会を勝手に利用し、参列者を悪口あっくする演説をしたというのである。何と非常識きわまりない、心根の卑しい姿であることか。この哲学者ならずとも、忘れることができないのは当然であろう。
 近年、私どもはそれ以上に理不尽きわまりない仕打ちを、受けてきた。ほかでもない、法衣をまとった者たちからである。その残酷さ、理不尽さは筆舌につくし難い。
 そうした悪侶をかつて次のように戒められている。
 「私もよく聞くことでありますけれども、活動家といわれる僧侶が、創価学会員のお通夜に行って、親戚の人達のいる前で創価学会の悪口を言う。すると、その中の邪宗を信じている人達は『いったいなんだ、おまえのところの宗教は』といって、あきれかえっている。そして『やめろ、やめろ、そんな信仰は』と言われる。その創価学会員は、せっかく正しい御本尊を頂いた人々は、困り抜いています」(「大日蓮」昭和五十五年八月号 日顕法主)と。
 まさに、僧侶の権威を利用した暴言や狂気めいた振る舞いは、聖職者どころか、人間としての最低限の良識にも達しない。現代の世界に、こんな非道なことが許されるはずがない。宗教の悪しき権威の恐ろしさ。それを骨身に徹して味わった私どもは、再び繰り返すことのないようこの体験を後世に伝え、万代の広宣流布のために残していかねばならない。その意味から、将来への戒めの意義もこめ、各地における近年の大難の歴史を記録としてまとめていきたいと思っている。
 誰がいつ、どこで何を言い、いかなる迫害をしたのか、後世に証言として残しておきたい。とくに婦人部の皆さま方は、じつにことこまかに記憶しておられる。また決して忘れることはできないであろう。このようなことを絶対に二度と起こしてはならない、と深く決意されていることを私はよく知っている。
 ともあれ、私も戦った。かわいい後輩のために。大聖人さまの大切な仏子を守らんがために。そして、すべてに勝った。今や、一切の正邪は明らかになった。また、これから年ごとに、ますます明白になっていくことは間違いない。
14  「死」は「生」への新たな出発
 葬儀に関して、もう一点、申し上げておきたい。それは「死」にまつわるものをいたずらにみ嫌う、迷信的な悪弊についてである。
 日有上人の「化儀抄」には次の一項目がある。
 「法華宗は人の死去円寂えんじゃくの所をばまず、只今荼毘だびのにわより来る禁忌きんきの人なれども一向に忌まざるなり」(富要一巻)と。
 日達上人は、この文について、「本宗においては、人が死んだ所とて別にいみきらうことはしません。また、今、火葬場から帰って来たに服すべき人々に対しても、決していみきらいません」(『日達上人全集 第一輯第四巻』と講述されている。
 一般の他宗では、こうした事を縁起が悪いなどと忌む場合が多いのは、ご承知の通りである。とくに神道では死をケガレとしてっている。
 また日亨上人は、この「化儀抄」の項目について「みだりに死を嫌う通俗の頑冥がんめいを破したるなり(富要一巻)」と注解されている。「通俗の頑冥」とは、世間一般のかたくなで道理に暗い悪習のことである。
 現代にあっても、たとえば「忌中きちゅう」などとよくいわれるように、葬儀のあと、遺族はしばらく身を謹んでいなければならないような雰囲気が、いまだに残っている面があるのではないだろうか。また地方によっては、もっと厳格なしきたりもあるようだ。
 しかし、そのために、のこされた家族が暗いムードに包まれ、のみこまれて、新しい前進への勇気と生命力を失ってしまうようでは本末転倒である。そうした悪しき風習は断固、打ち破っていかねばならない。
 大聖人の仏法では「生死不二」と説く。死は次の生への荘厳な出発でこそあれ、忌むべきものでは決してない。何より、家族が明るく自信をもって、晴れわたる青空を見つめながら、未来へと進み、より幸福になっていくことこそがもっとも重要なのである。また、それが、とりもなおさず故人の成仏のあかしともなっていく。
 宗教、信仰は、そうした、凛々りりしき出発の原動力でなければならない。その新しき時代の要請にこたえる最先端の存在こそ、我が創価学会でなくてはならない。
15  平左衛門にみる仏法の因果
 さて平左衛門尉へいのさえもんのじょう頼綱よりつなといえば、ご存じのように、極楽寺良観と結んで大聖人を迫害した張本人である。その末路はどうであったか、この点にもふれておきたい。妙法の厳然たる因果の証を学び、諸君のこれからの長き人生を照らしてほしいからである。
 平左衛門尉は執権北条氏の家司けいし(執事)と、侍所さむらいどころの所司(次官)を兼ね、軍事権と警察権、そして政務の権限を統轄していた。権力を分散させている現代では考えられないほど、大きな権力を手にしていたわけである。
 大聖人も彼にあてた御手紙の中で「貴殿は一天の屋梁為り」また「貴辺は当時天下の棟梁なり」と記されるほどの大実力者であった。
 文永五年(一二六八年)、大聖人は彼に、諸宗との公場での対決を認めるよう迫られた。しかし彼は応じなかった。それどころか、大聖人をなき者にしようと機会を狙っていた平頼綱は、文永八年(一二七一年)九月十日の大聖人の諌言かんげんも受けいれず、かえって二日後の九月十二日、武装した家人とともに大聖人を襲った。
 その折、「平左衛門尉が一の郎従・少輔房」が、大聖人の御顔(頭)を法華経の第五の巻で三度打ったことは有名である。家来に襲撃させたのは平左衛門尉であり、彼が大罪を免れえないことはいうまでもない。
 その折のことにふれられた大聖人は、「教主釈尊より大事なる行者を法華経の第五の巻を以て日蓮が頭を打ち十巻共に引き散して散散にふみたりし大禍は現当二世にのがれがたくこそ候はんずらめ」と断言しておられる。
 大聖人は末法において″教主釈尊よりも大事な法華経の行者″であられる。その御本仏の頭を打ち、法華経の十巻を引き裂き、さんざんに踏むという狼藉ろうぜきによる大重罪は、現在から未来にかけて絶対にのがれられない、との大確信の仰せである。私ども門下も、この大聖人の御確信を、よくよく深く拝さねばならない。
 さらに佐渡流罪から鎌倉に戻られた大聖人は、平左衛門尉に対し、また強く諌暁かんぎょうを行われる。しかし、再三のいさめにも耳を貸さず、彼は大聖人の身延御入山後も、執拗に門下に迫害・弾圧を加えた。
 熱原の法難の折も、彼は迫害の中心にいた。弘安二年(一二七九年)九月、彼は二十人の農民を捕らえて私邸に引き立て、退転を迫った。そして、ついに神四郎・弥五郎・弥六郎の三人の首を斬るという暴挙に出た。
 こうした大弾圧のさなかにあって、大聖人は、いよいよ仏法の厳然たる因果の理法を確信するよう、門下に強く言い切っておられる。
 すなわち「聖人御難事」には「過去現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」――過去および現在の末法の法華経の行者を軽蔑したり、いやしんだりする国主や臣下、民衆は、たとえはじめは何事もないようであっても、最後に滅亡しないものは絶対にない――と。
 法難の嵐の真っただ中である。表面的には、負け戦の連続である。しかし、ひとり大聖人は赫々かっかくたる大確信の御境界であられた。
 また同抄には「日本国の大疫病と大けかち飢渇どしうち同士討と他国よりせめらるるは総ばちなり、やくびやう疫病は冥罰なり」――日本国に大疫病が起こり、大飢饉に襲われ、内紛が起こり、また他国から攻められるのは(総罰・別罰のうち)総罰である。また疫病は(顕罰・冥罰のうち)冥罰である――と、「法華経の罰」がさまざまな姿をとって必ず現れることを述べておられる。
 総罰は社会全体に、別罰は個々別々に受ける悪い果報である。また顕罰はあらわに、はっきりと現じ、冥罰は知らず知らずのうちに苦悩の方向へと向かっていく報いである。
16  今を時めく大権力者・頼綱。だが、大聖人は、その悲劇の末路を、明々白々に見通しておられた――。
 彼は、大聖人御入滅後の弘安八年(一二八五年)、ライバルであった安達泰盛あだちやすもりを滅ぼし(霜月騒動)、幕府の実権を一手に握った。大聖人が「聖人御難事」で「平等も城等も」と並べて呼ばれている「平等」とは平頼綱、「城等」とは秋田城介あきたじょうのすけの職名をもつ安達泰盛を指す。この二人は幕府における二大勢力をなしていたのである。
 競争相手を滅亡させた平左衛門尉の勢いは、執権をしのぐほどのものになった。まさに「始めは事なきやう」に見えていた。しかし、永仁元年(一二九三年)、幕府反逆の陰謀が発覚し、頼綱自身と次男・資宗すけむねの父子は斬罪、長男・宗綱むねつなも佐渡へ流罪されるにいたる。我が世の春を誇った平頼綱一族は、こうしてあっけなく滅亡した。
 「ついにほろびざるは候はず」との大聖人の御断言から、わずか十四年。御入滅から十二年目の出来事であった。
 日興上人は「これただ事にあらず、法華の現罰をこうむれり」と記されている。
 また、この年、鎌倉に大地震があり、死者一万余人という大災害も起こっている。総罰の一つと考えられる。
17  日寛上人は、この事件について、「撰時抄愚記」(文段集三〇五㌻)で、次のように具体的に述べられている。私は、この段を青年部時代に学んだ時の感銘を、今も鮮やかに心に刻んでいる。
 「今案じて云く、平左衛門入道果円の首をねらるるは、これすなわち蓮祖の御顔を打しが故なり」――平頼綱(当時、入道して果円と名のっていた)が首をはねられたのは、大聖人の御顔を打ったゆえである――。
 「最愛の次男安房守あわのかみの首をねらるるは、これ則ち安房国の祖の御くびを刎ねんとせしが故なり」――最愛の次男、安房守・資宗が首を斬られたのは、安房国御聖誕の大聖人の御頸を斬ろうとしたためである――。
 資宗は頼綱がもっとも愛し、ひそかに将軍に立てようと画策した息子であった。しかし父子ともに斬罪。その陰謀を密告したのは何と長男の宗綱である。まさに御予言通り、同士討ちに同士討ちを重ねる姿であった。
 その長男は「嫡子ちゃくし宗綱の佐渡に流さるるは、これすなわち蓮祖聖人を佐渡島に流せしが故なり」――長男の宗綱が佐渡へ流されたのは、大聖人を佐渡へ流したゆえである――と日寛上人が仰せの通りの結果であり、頼綱一族は完全に滅亡した。
 ことごとく、恐ろしいまでの厳しき現証である。「その事、既に符合せり、豈大科免れがたきに非ずや」――これら(現罰の因果)は、すでにぴったりと符合している。仏法上の大罪の報いを免れることはできないのである――と。
 日寛上人は彼の一族滅亡の因を、遠くはこのように大聖人迫害の大罪に、そして近くは熱原の法難の際の三烈士殺害に求めておられる。これらの符合は一見すると、現代人の目からは、飛躍のように見える面もあるかもしれない。だが事実は事実である。大聖人の仰せ通りの現実が、厳しく歴史の事実となって現れたことは、たれびとも否定できない。
 私は十九歳で入信し、この文段を拝した時、痛烈に思った。ああ、妙法の因果の法則とは何と厳然たるものか。何と厳正にして、曇りなき賞罰かと。胸がうちふるえる思いで、仏法の真実を直覚し、確信したことを今でも明確に覚えている。また私の信心の確信は、この時に一つ結晶をみたといえるかもしれない。
18  信心の大確信を揺るぎなく
 いかなる権力の人も、有名の人も、またどれほど知識や財産があったとしても、この厳たる妙法の法則からは、たれびとも逃れられない。
 「讃る者は福を安明に積み謗る者は罪を無間に開く」と。
 ″因果の法″絶対ならば、″仏法の勝負″もまた明白でなければならない。必ず明らかな結果となって現れることは間違いない。その一点を、私は十九歳にして、信じたゆえに、何ものも恐れない。
 難があればあるほど、状況が厳しく見えれば見えるほど、大確信をもって一切を切り開き、悠々と、すべてに勝利のあかしを築いてきたつもりである。嵐にも微動だにせぬ大確信の「信心」にこそ、戸田先生の精神があり、真実の学会精神があるからだ。
 そして、この四十年間、仏法の厳しき勝負の姿を、さまざまな人のうえに私は見てきた。その経験の上からも、大なり小なり、御書に仰せの通りの現証が明らかである。
 皆さま方は現実に妙法を弘め、広布を進めておられる尊き仏子であられる。また創価学会は広宣流布のために出現した仏意仏勅の団体である。たれびとたりとも、私どもを迫害し、苦しめた罪は、厳しきその果報として受け逃れることはできない。
 この数年で、はや数々の現証があらわれている。より長い目で見れば、勝負は一層、明らかになることは間違いないであろう。そして広布に進む学会を大切にし、守り、発展させていく人の功徳もまた計り知れない。まさに須弥山のごとく、大海のごとく、大いなる福徳を現当に開いていくことができる。
 信心した以上、御本仏の門下として、その強き大確信がなければならない。ゆるぎなき大確信の一念を強盛に発揮し、貫いてこそ、晴れ晴れとした壮大なる境涯を我が胸中に開ききっていけるからである。この厳たる理法を、後世の大切な仏子を守るためにも、本日、明確に申し上げておきたかったのである。
19  若き日にこそ徹底して学べ
 さて、先ほども少々ふれたが、御書をはじめ日寛上人の文段等を、私も青年部時代に真剣に拝読し、勉強した。法華経も、その要文はすべて暗記するほど繰り返し学んだ。
 戸田先生は厳しかった。「青年部員が、興味本位の低級な雑誌ばかり読んでいるようでは深き仏法は会得できない。またすべての事象を深く正しく見抜くこともできない。長編の古典を読め。歴史を学べ」と、よく叱られたものである。また「その根幹である御書を常に拝するように」と厳しく叱責された。これではじめて指導者に育っていくものだと、いつも厳しかった。
 そうしたなか、若き日より私が暗唱するほど胸に銘記してきた御書の一つに「椎地しいじ四郎殿御書」がある。
 椎地四郎とは、駿東すんとう郡すなわち、この静岡の地にいたといわれる門下で、四条金吾と親交があったようである。諸君と同じく、励ましあいながら広布に進んだ同志であった。また四郎は、大聖人の御葬列には、大聖人の御腹巻を捧げて加わったことが知られている。
 この方に、弘長元年(一二六一年)四月、大聖人は御手紙を与えられている。伊豆に配流される、わずか二週間ばかり前のことであった。
 その一節に「末法には法華経の行者必ず出来すべし、但し大難来りなば強盛の信心弥弥いよいよ悦びをなすべし、火に薪をくわへんにさかんなる事なかるべしや」と。
 末法には法華経の行者が必ず出現する。現に、御本仏・日蓮大聖人がこうして出現される。ただし、法華経の行者には必ず大難がある、その時こそ、強盛の信心を奮い起こして、いよいよ喜んでいくべきである、と。
 ″来たか、待っていた、さあ戦おう″と、歓喜して進んでいく。それを、少し悪口をいわれたくらいで、悲しみ、嘆き、疑い、グチをこぼし……。それでは本物の地涌の勇者ではない。難があればあるほど、強盛な信心を燃えたたせるさまは、「火」に「薪」を加えれば勢いが盛んになるようなものである、と大聖人は述べられている。小さな火であっては、薪を燃やし切ることはできない。かえって消えてしまう。
 そして「大海へ衆流入る・されども大海は河の水を返す事ありや、法華大海の行者に諸河の水は大難の如く入れども・かへす事とがむる事なし」と。
 ――大海には多くの河水が流れこむ。しかし決して水を押し返すことはない。「法華大海の行者」に、諸河の水が大難として流れこむけれども、押し返したり、とがめだてすることはない――との広大なる大境界を示されている。
 先ほども、大海について種々、述べたが、大難にいよいよ、喜びを増す人こそ真実の法華大海の行者であり、その胸中には、何ものをも恐れず、何ものをも受け入れて動じない、限りなく広々とした″生命の大海″の世界がある。
 次下には「諸河の水入る事なくば大海あるべからず、大難なくば法華経の行者にはあらじ」と。すなわち、諸河という大難があってこそ、「法華大海の行者」はある。それ以外には絶対にないとの仰せである。
 当然、ここでは別して大聖人のことを指されている。その上で、総じて私ども門下もまた、この伊豆から見る太平洋のごとき壮大なる自身の境涯を開いてまいりたい。
 いかなる難があろうとも、大聖人ほどの大難をうけるわけではない。比べるのももったいないほどの小さな小さな難である。しかも、仏道修行の途上における苦難は、すべて自身の宿命転換につながり、一切が自分のためである。
 それらのすべては、光輝満つ″栄光の人生″の完成への滋養であり、屹立きつりつした″勝利の人生″の軌道を進むための推進力になっていくのである。これが妙法をたもった諸君の大いなる特権であり、生涯をかけて証明していくべき課題である。
20  戸田先生は、かつて「佐渡御書」の講義のなかで、こう述べられた。
 「私も第一回の王難にあいましたけれども、運がよければもう一回あいたいものだと思っている。運がよければです。運がなければ、これっきりです」
 「もう一回王難にあってみたいのです。運がなければ、あえない。王難というのは牢に入れられることです」
 戦中の二年間にわたる獄中生活。その苦しさは牢に入ったものでなければわからない。それなのに戸田先生は、もう一度、法華経ゆえに牢に行きたいといわれている。
 何と偉大な、男らしい信心の一念であられたか。他の誰が、そんな決心で信心を貫いたか。まことに希有けうにして不思議なる大信者の先生であった。これほどすばらしき人生の師匠を、私どもは持ったのである。これ程の誇りはないし、この厳たる事実を忘れてはならない。
 さらに続けて戸田先生は「それからピストルの弾の一発ぐらい、ぶつけられたい」ともおっしゃっている。ただし「なるべく死なないところにあててくれるといい」と。これは戸田先生一流のユーモアである。そして「だが、それくらいのことは覚悟しています。覚悟していなければやれません」と、死身弘法への決意を述べられている。
 ユーモアをまじえながらの話ではあるが、私には、戸田先生の真意が、すなわち死を決意しての広宣流布への並々ならぬ「心」が、強く鋭く胸に迫ってきてならない。
 ともあれ、この伊豆、伊東の地は、永遠に″歴史″と″名誉″と″栄光″に輝く大法有縁の国土である。その地にあって、未来万代にわたる広宣流布の大道を見事に切り開いてくれるであろう若き諸君の尊きかんばせを、私は心に楽しく思いうかべながら、本日の記念のスピーチを終えさせていただく。

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