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日蓮大聖人・池田大作

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学会創立五十七周年記念勤行会 「創立の志」を広布の炎と

1987.11.18 スピーチ(1987.7〜)(池田大作全集第69巻)

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1  民衆万年の幸福こそ学会の使命
 菊薫り、晴天のよき日、我が創価学会の創立記念日を迎えることができた。ここには海外七ヶ国の同志も集い、また秋谷会長はじめ、ますます意気高く広宣流布の指揮をとる全幹部の皆さま方とともに、この日を祝賀でき、私は大変にうれしい。特に、牧口家、戸田家のご家族もおいでくださり、感謝申し上げたい。
 御書に云く「夫れ須弥山の始を尋ぬれば一塵なり・大海の初は一露なり」と。
 生きとし生けるものすべてに厳粛なる″誕生″の瞬間がある。とともに、いかなる組織、いかなる大事業にも忘れ得ぬ″創立″の時がある。
 我が創価学会の淵源は、昭和五年(一九三〇年)の十一月十八日。この日発刊の「創価教育学体系」第一巻(著者・牧口常三郎、発行兼印刷者・戸田城外)の奥付で「創価教育学会」の名が、初めて世界に発表された。まさに、学会の出発はそれ自体、大いなる広布への戦いの旅立ちであるとともに、思想戦の開始であった。
 時に牧口先生は五十九歳。今の私と同じ年齢である。また戸田先生は三十歳。現在の青年部幹部と同じ年代である。牧口先生と戸田先生のお二人は、この二年前の昭和三年(一九二八年)に、日蓮大聖人の仏法に帰依された。この年は私が生まれた年でもあった。
 当時、世界は前年の昭和四年(一九二九年)十月二十四日に起こった、ニューヨーク・ウォール街の株式市場大暴落の暗雲に見舞われていた。いわゆる「暗黒の木曜日」に端を発した大恐慌の真っただ中であった。
 創立四日前の昭和五年十一月十四日には、時の首相・浜口雄幸おさちが、東京駅のプラットホームで狙撃されるなど、世情は騒然としていた。そうした中で学会は、人知れず、しかし大いなる誕生の産声をあげたのである。なお、創価教育学会の正式な発会式は、昭和十二年秋に行われている。本年でちょうど五十周年になる。
2  牧口先生は、若き日の日淳上人から正宗の法門を学ばれた。日淳上人は、牧口先生の思想と行動、また人格をじつに深く理解なされ、称賛されていた。たとえば次のように述べられている。
 「(大)聖人の御教示と牧口先生の観ずる世界と、少しも相違していないといえましょう。ただ牧口先生は教育家であり、したがって教育の面から、創価ということをいわれたものであると見られます」
 「私は先生が、法華によって初めて一変された先生でなく、生来仏の使であられた先生が、法華によって開顕し、その面目を発揚なされたのだと、深く考えさせられるのであります。そうして先生の姿に、いいしれぬ尊厳さを感ずるものであります。先生には味方もありましたが、敵も多かったのであります。あのいばらの道を厳然と戦い抜かれた気魄、真正なるものへの忠実、私はおのずから合掌せざるを得なくなります」と。
 そして、あとに続く私どもに、次のように呼びかけられた。
 「自分の使命を、自覚し、しかも各々その境地のままに、仏身仏国土の顕現をなし得るという牧口先生の実証されたこの道に学会の存在理由と、特別な意義が、あると思いますが、皆さんには、それを益々確実に把握せられて、さらに先生を乗り超えその使命にって邁進まいしんせられんことをねがってやまないのであります」(『日淳上人全集 上巻』)
 これは学会再建後の間もない昭和二十二年(一九四七年)、第二回総会での御講演であり、日淳上人は心から学会を理解し、私どもを大切にしてくださった。また代々の上人も同じ慈悲の心で見守ってくださった。
 日淳上人が言われたように、学会は、大聖人の仏法を信奉し、民衆一人一人の成仏と仏国土の建設、つまり広宣流布の実現のために誕生した団体である。それは牧口先生と戸田先生によって創設されたが、広宣流布のため、仏意仏勅の実現のため、時を得て出現したのである。決して簡単に考えるべきものではない。
 戸田先生は、昭和三十年、関西の第一回堺支部総会の席上、「百年の大計、いな何千年の平和の大計をたて、もって日蓮大聖人様の御恩に報ずるとともに、民衆万年の幸福を確立することが、創価学会の使命である」と述べられている。
 私どもはこの指導のごとく、学会創立の意義に思いを深くし、どこまでも地涌の勇者としてみずからの使命に邁進したい。
3  ところで、この十一月十八日は、学会の創立記念日であるとともに、奇しくも牧口先生の祥月命日にあたる。
 すなわち、昭和十九年の十一月十八日、牧口先生は、約一年四ヶ月の獄中生活の末、東京拘置所の病監で逝去された。『富士宗学要集』の法難史にも厳然と記されているごとく、牧口先生は、妙法弘通ゆえの大難に殉ぜられた。時に七十三歳であった。この牧口先生の獄死は、大聖人の仏法の精髄を体得されての覚悟の殉教であった。
 学会の発会式が行われ、本格的な折伏活動が開始されたのは今からちょうど五十年前、昭和十二年のことである。牧口先生は、会員のために発行された小冊子の中で、信心の極意ともいえる次の一点をあげられている。
 「紛起ふんき(=みだれ、おこること)する内外の障魔を恐れざる上、進んで之をり出し、克服することによって、益々信仰を増し、之をもって他を化する(=他人を教化する)ことによって、旧債償還きゅうさいしょうかん(=以前の負債を返却すること)以上の功徳を積み、毒を変じて薬となす如く、わざわいを転じて福となし、もって最大幸福の域に達する法を授けられる」(『牧口常三郎全集 第八巻』第三文明社)と。
 まさしく牧口先生は、あえて難を引き起こし、難と戦い、難を乗り越えていく一点に、信心の精髄があり、大聖人門下の誉れがあることを身をもって教えてくださったのである。
 みずからがつくられた学会″創立″の意義深き記念の日に、広布の大難に屈することなく、厳然と戦い抜かれて、殉教の誠を尽くされた。ここに、学会の″創立の精神″が象徴的に示されているし、広布に向かいゆく学会精神の真実があると、強く申し上げておきたい。
4  嵐を乗り越え現在の栄光
 また、ここでは「難」と戦うことの意義に込められた訓練の意義を確認しあいたい。
 足を使わない人は足が弱る。頭を使わない人は頭の働きがにぶくなる。皮膚をただ保護ばかりしている人は、皮膚が弱くなり、寒風に耐えられない。
 と同じように、大宇宙の仏界という次元に行くためには、妙法を唱え、難を受けることによって「一念の我」を強靭にしていかねばならない。信心は、苦難に耐え、難を乗り越え、みずからを鍛えていく以外にないのである。
 たとえば、完璧な、そして精巧にして強力な推進力なくしては、スペースシャトルも地球の重力圏を脱して、宇宙空間へと飛び出すことはできない。普通の飛行機より、はるかに精巧で、頑丈な機体と、強力な推進力のロケットエンジンをもってこそ、初めて宇宙飛行ができ、目的を達成できる。
 成仏への我が生命の強力な推進力も、難に耐え抜いてこそできあがる。
5  大聖人は「開目抄」をもって「人本尊」であられることを明かされた。それは竜の口の法難という身命に及ぶ大難の中で、御本仏としての御境界を顕現されたからである。
 この方程式は、私ども大聖人門下の仏道修行にあっても変わらないと私は拝したい。難に耐え、乗り越えて御本尊への信心を貫いていく中に、成仏への道がどこまでも開かれていく。大宇宙を自在に遊戯しゆく「常楽我浄」の「我」を築くことができ、そこにのみ真実の「安楽」の境涯が確立される。ゆえに大聖人は「難来るを以て安楽と意得可きなり」と仰せなのである。
6  また戸田先生は、昭和二十二年(一九四七年)の第二回総会で牧口先生のご生涯について、次のように述べられている。
 「先生の後半生、すなわち創価学会の活動以来の先生は、多くの悪口、罵詈めり誹謗ひぼうがあたかも先生の全人生のごとくであった。そのなかになんら恐るるなく、妙法流布のために寧日ねいじつなかったのであります。しかも、軍閥主義の横暴と、時の警視庁の小役人の無知蒙昧もうまいから、ついに牢死までなされて、御仏に命を捧げたお方であります。
 されば、その後をつぐわれわれも、三障四魔紛然ふんぜんとしておこるとも恐るるなく、三類の強敵、雲のごとく集まるも、日蓮大聖人様のおことばを信じ、霊鷲山会りょうじゅせんえに参ずるときは、三世常恒じょうごうの御本尊様に胸を張ってお目通りのかなうよう、たがいに努めようではありませんか」(『戸田城聖全集 第三巻』)と。
 信心には憶病は大敵である。見栄は大敵である。憶病や見栄の信心の人は、成仏はできない。難が起きたとき、いざというとき勇敢に、獅子王の心で進んでいくのが信心である。
 学会にも、これまで数々の大難があった。そのとき決然と一人立って、道を開いてきたのは牧口先生、戸田先生であった。私もまた、一切の矢面に立って、苦闘の連続であった。それが牧口先生、戸田先生に貫かれた″創立の精神″であり、学会精神に連なる道だからである。
 これからは、後継の青年部が、その誉れの道を歩み続ける番である。そのために私は、多くの青年、多くの後輩を何とか本物の指導者に育てたいと念願し、力を尽くしてきた。
 青年達の訓練、成長のために、私はあえて難のあったことを喜んでいた。「難」こそもっとも信心を鍛え、成長の発条ばねとなる。私一人では指導できる青年の数にも限りがある。だが学会全体に競う難は、多くの青年の信心を鍛え、育ててくれる。難と戦い、乗り越えていくなかに、真実の信仰の勇者がつくられていくことを忘れてはならない。
7  『大漢和辞典』(諸橋轍次、大修館書店)によると、「創立」の「創」には、「はじめる」「はじめてつくる」「さだめる」等の字義があり、「立」とは、人が大地に立って動じない姿を象形した字で、「まっすぐに立つ」「たちあがる」「さだまる」「固く守って動かぬ」「つたわる」「すたれない」などを意味するという。
 まさしく、はじめて立てる、大いなる「創造」の第一歩。そして、いかなる嵐にも、怒涛にもたじろがぬ不動の「屹立きつりつ」――ここに「創立」の魂がある。
8  順調な時はよい。しかし、ひとたび難が起こると、人の心は揺れ動いてしまう。また、諸天の加護がないことに迷い、臆してしまう。
 しかし、絶対なる妙法を持った大確信に立つとき、大難といえども、すべては一時の波風にすぎないことを知る。永遠からみれば、二十年、三十年は「一時いっとき」である。しかも、難は五十年、百年と続くものではない。信心を失わず、難に耐え、忍んでいくなかに、必ず勝利の道は開けていくものだ。
 私は十年単位で物事を見てきた。何事も十年たてば一つの明確なものが見えてくる。これが私の自論である。仏法勝負の証も、十年単位でみていけば、必ず明確になっていくことを、これまでの経験から確信している。
 その意味で、これからも学会に障魔の風波があるかもしれない。しかし、何があってもたじろぐことのない不動の信心をもち、新たなる前進の一歩をふみ出していこうとの「創立」の気概がある限り、いつの日か仏法勝利の証はさん然と輝いていくことを忘れないでいただきたい。
9  大聖人は弘安二年(一二七九年)、八年前の佐渡への御流罪を振り返られ、次のように淡々と述べておられる。
 「水は濁れども又すみ・月は雲かくせども・又はるることはりなれば、科なき事すでに・あらわれて」云々――水はいったん濁っても、やがて澄む。月は雲がひとたび隠しても、また晴れる。これが自然の道理である。そのように(大聖人に)罪科がないことが、もはや明白となり、(赦免になった)――と。
 「正義」は、一時的にいかにゆがめられようとも、やがて必ず証明される時がくる。また、断じて証明せねばならない。とともに、「悪」はどのようによそおうとも、いずれ必ずその正体が、あらわにされ、滅び去っていく。
 大聖人は別の御書では、こう正義の勝利を断じておられる。
 「根露るれば枝枯れ源乾けば流竭く自然の道理なり、念仏宗・禅宗と真言とは其の根本謬悞みようごを本とし誑惑おうわくを源とせり」と。
 すなわち――(三論宗が智者によってその邪義を顕されたのは)根が地上に露見すれば枝は枯れ、源が乾けば流れがつきるという自然の道理である。また念仏宗、禅宗、真言宗は、その根本が誤りを本とし、人をまどわす悪を源としている――との破折であられる。
 続いて「其の根源顕れなば設い日蓮はいやしくとも天のはからひ大法流布の時来るならば・彼の悪法やぶれて此の真実の法立つ事疑なかるべし」――その(悪の)根と源が露見するならば、たとえ日蓮は卑しい身であっても、天のはからいで大法流布の時が来れば、そうした悪法は破れて、(大聖人の)この真実の法が建立されることは疑いない――との大確信を披瀝されている。さらに「すでに此の悪法消えんとするは汝知るやいなや、日蓮をいやしみて・さんざんとするほどに」と。
 ――すでに、これらの悪法は消えようとしていることを、あなたは知っているかどうか。よく見てごらんなさい。日蓮をいやしんで、さんざんと迫害するうちに――いかに正義の人を迫害しても、必ず悪の「根」は白日のもとにあらわれ、その「源」はつきていく。正邪は明らかになっていく、との師子吼である。
 近年における破門の悪僧、反逆者等もの、その邪悪の「根」と、人をたぶらかそうとする誑惑おうわくの「源」とは、今や明々白々となった。
10  このように一時の嵐が過ぎ去れば、晴天のもと、正邪は明らかに照らし出される。にもかかわらず、今度の事件でも、またかって言論問題の時もそうであったが、「身はちねども心をち」た人が多く出た。また世間に迎合して、学会の内部から、矢をうしから放ってきた人間もいる。
 難をうけると、とたんに増上慢になり、居丈高いたけだかになって、私どもを批判し、おとしいれようとした者も大勢いた。また、ある人は、とたんに世間体を気にしながら、活動を停止した。ある人は、もうこれで学会は壊滅したと思いこみ、悪僧の手先となって、さんざんにかつての同志の悪口雑言した。
 これしきの難で、あまりにもなさけない姿であった。あまりにも信心なき本性であった。その醜い心根は、なにより御本尊がすべて見ぬかれておられる。また自分自身が、よく知っているはずである。
 そうしたなか、まことの地涌の勇者として、雄々しくも、けなげに戦いぬいてこられた学会健児もいる。その方々の一念と信心の功徳は法華経に照らし、御書に照らして、絶大である。御本仏が絶対に称賛してくださっている。
 さらに三世十方の仏・菩薩が最大に賛嘆し、永遠に守っていくことは間違いない。私は今日、この席を借りて、このことを明確に申し上げておきたい。
11  いわゆる見栄っぱりで、憶病で、広宣流布の前途を妨げていくような人は、いない方がよいのである。驕慢きょうまんと愚痴の人は、去ってもらった方がよい。その方が未来のために、広布の大道が清らかになり、走りやすくなる。ゆえに、すべて御仏智であり、すこしも寂しがることも、恐れることもない。この考え方は、牧口・戸田先生も同じであった。
12  歴代会長の″獅子の心″忘れるな
 ところで戸田先生の御書の講義は、まことに自在なる名講義であられた。私は、そのすべてを暗記するほど、真剣に若き心と頭脳に刻んできた。
 総じて、戸田先生が、いつ、どこで何を話されたか、ある日の何時頃、どのような様子であったか、一切が記憶の中にある。生命に刻まれている。恩師の一言一言を私は絶対に忘れない。
 戸田先生は、ある時、大聖人の佐渡流罪中の諸御抄を拝して、こう語られた。
 「当時は総大将の大聖人が敗けて、佐渡へ流されてしまい、門下は信心ができなくなっている。そういう時に、大聖人様の御心をしのびまいらせ、『退転させては絶対にあいならん。敗けるのがなんだ。いち時の敗けではないか。必ず勝たせなければならん。全部を幸福にしなければならん』という、火のように燃え立った御心だと思うのです。また、そうした大聖人の御精神が、それらの佐渡の御手紙には強くにじみでているのです」――と。
 短いお言葉ではあるが、私には戸田先生の万感の思いが胸に迫ってくる。戸田先生ご自身が、嵐の中、大聖人のご心境を拝し、しのびまいらせながら、みずからの心の絶叫ともして、述べられたお言葉であるからだ。
13  創価学会の永遠の原点は牧口先生、戸田先生の「師弟」の御精神である。
 今日、このような未曽有みぞうの大発展のなか、晴れやかに創立の記念日を祝せるのも、その根幹はすべて、嵐の中を、牧口先生が厳として立ち上がられたからである。戸田先生が、炎のごとく″獅子の心″を燃やして、立ち上がられたからである。そして「師弟」の精神で、第三代の私も立ち上がった。
 この三代までの厳然たる「師弟の道」によって、今日の完璧な発展ができあがった。万代の土台を築いた。
 ここに学会の魂がある。″創立の精神″がある。真実の地涌の勇者、学会っ子であるならば、この人生の「師弟」という精髄を、自覚されたい。
14  牧口先生には、私は直接お目にかかってはいない。皆さま方の中にも、会われた方は少ないと思う。あるいは肖像写真等から厳格な、こわいイメージでのみ想像しておられる方が、おられるかもしれない。しかし、生前の牧口先生を知る人々は、一様に、先生の慈愛深いご人格を証し、懐かしく語っている。
 有名な話であるが、和泉副会長(=現在、最高指導会議議長)の追憶談によると、寒い夜など、座談会に来た婦人が子供を背負って帰ろうとすると、牧口先生みずから古新聞を出して、みずからはんてんの間に入れてあげ、「こうすれば着物一枚よけいに着せたのと同じだよ」と言われる姿が、しばしば見られたという。温かいご人柄が、美しい絵のごとく浮かんでくる話である。
 また、別の人の思い出によると、ある時は、台所の方でお茶をわかしている会場提供者の夫人に、「奥さん、お茶は結構ですから、こちらに来て、お話をいたしませんか」と気さくに声をかけるなど、こまやかな心くばりをなされる先生であった。
 ここに″創立のこころ″また″学会のこころ″ともいうべき、温かい同志愛がある。人間性がある。ここに学会の強みがあり、現代に稀有けうなる美しさがある。この一点を、いかなる時代になろうとも見失ってはならない。
 広布の指導者は、深き人間愛の人でなければならない。反対に傲慢な指導者ほどむべきものはない。また信用できない存在はない。所詮、力のない人間ほど、すぐに慢心し、いばり出すものだからだ。
 これは社会のあらゆる分野のリーダーも同様である。また、そうしたリーダーのもとでは、組織は硬直し、官僚化し、弱まっていくにちがいない。
15  激動の時代を迎え、社会の多くの団体が、「強い組織」をつくる努力を全力で開始している。先日の「日本経済新聞」でも、アメリカの著名な経営コンサルタントの言葉として「官僚体質を打破した柔軟な組織構造を早く確立した企業だけが、二十一世紀に生き残る」(昭和六十二年十月二十五日付)との意見を紹介していた。まさしく、その通りであろう。
 戸田先生も、つねづね「学会においても、最先端の組織が動いたならば、本部がピリッと感ずるようでなければならない。神経がマヒしているような指導者であっては、大衆がかわいそうである。会社も、他の団体も同じことだ」と語っていた。
 この先生のお心は、私には本当によくわかる。先生みずから、常に先頭に立って、学会精神の脆弱ぜいじゃく化と戦い、形式に堕す組織の官僚性に、真正面から挑戦されていた。
 ともあれ戸田先生ほど偉大なる人間指導者を私は知らない。世界中、いずこにあっても胸を張って、そのことを断言してきた。これまで有名な世界的指導者とも幾度となく会った。歴史に残るであろう人物とも何人も語り合った。
 しかし、戸田先生は他には見られない偉大な指導者であられた。その事実は、私が一番よく存じあげている。そして戸田先生を人生の師とし、師弟の道を貫いたことこそ、私の最大の誇りである。
 私には戸田先生しかない。それが私の一切である。戸田先生の「心」をこの世で実現していく、それのみが私の使命であり栄誉であると思っている。それ以外の私自身のことや一家一族のことなど、全く眼中にはない。
16  牧口先生はかつて、こう言われた。「現在、栄えていればこそ、先人が偉大になるのであり、今が栄えなければ、先人の偉大さも光彩がなくなるのである」と。まさに至言である。
 私も牧口先生、戸田先生の偉大さを証明するために、その構想を何としても実現しようとの一念で走り、戦ってきた。第三代の私が学会を栄えさせなければ、先人への報恩はできない。師の偉大さを宣揚できない。ゆえに、この三十年間、休みなく働いた。すべての道を拓きに拓いてきたつもりである。
 私は公明党もつくった。民主音楽協会、二つの富士美術館、東洋哲学研究所そして創価大学、創価学園も創立した。それもすべて戸田先生が折々にもらされ、また思索されていたお心をうけて、実現したものである。一切の淵源は戸田先生のただ一言であった。
 「何とか作りたいなあ、大作」――「わかりました。必ずやります」
 ふとした折の師の一言をも胸に刻み、拡大して、実現していくことが、私の人生の使命と思ってきた。それ以外に何ものもない。
 その意味において、これらの事業は、私の功績のように見えるかもしれないが、実はすべて戸田先生の、そして牧口先生の偉大さを証明し、輝かせるものである。
17  人間教育の精華を二十一世紀へ
 創価学園もまた、教育者であられた両先生の構想を受けて、私が創立した。本日で晴れの創立二十周年を迎える。きょうも教職員、生徒の代表がみえておられる。心から祝福申し上げる。
 現在の東京校の敷地を購入したのは昭和三十五年(一九六〇年)。私が第三代会長に就任した年の秋である。両先生の構想の実現にまず第一歩を踏み出した。
 また学園ならびに創価大学の設立構想を発表したのは昭和四十年七月三十日、教育部の第四回幹部総会の席上であった。その折、私はこう述べた。
 「ここ(創大・学園)において、二十年先、五十年先の日本の指導者、世界の平和を築いていく指導者を育ててまいります。と同時に、特に初代会長の創価教育学説を、この社会で実践しきっていく教育をしたい。したがって、そのための完璧なる教育陣営、教育設備をつくりあげたいと思っております」
 この宣言通り、学園の創立から本日で二十年。これまでの卒業生は五千五百人にのぼり、関西校も含めて八千八百人の俊逸を社会に送り出すことができた。この姿を牧口先生、戸田先生が一番、喜んでくださっているにちがいない。私は今朝、唱題しつつ、その喜びのお姿を胸に浮かべた。
 さらに三十年後の創立五十周年には、陸続とこの学園から巣立った卒業生が、ありとあらゆる世界の舞台へ、凛々りりしきリーダーとして、思う存分の活躍をしていくにちがいない。その姿を思う時、私の胸はふくらみ、大きく鼓動しゆくのを、どうしようもない。また両先生も、どれほど喜んでくださるであろうか。
 創価一貫教育の流れは、年ごとに水かさを増している。いうまでもなく昭和四十三年四月、創価中学校・高等学校を、東京・小平の地に開校したのが、そのスタートであった。以来、四十六年には創価大学を開学、四十八年には学園の関西校、五十年に創大大学院、五十一年に創価幼稚園(=後に創価幼稚園は香港、シンガポール、マレーシアに開園)、五十三年に東京の創価小学校、五十七年には関西の創価小学校、六十年に創価女子短期大学、そして創価大学ヨーロッパ語学研修センター、さらに本年六十二年には、創大ロサンゼルス分校(=現在、アメリカ創価大学)を開くにいたった。
 創価学園の創立記念日は、牧口先生のご命日である十一月十八日とさせていただいた。また創価大学の創立記念日は、戸田先生のご命日の意義をこめて、四月二日にさせていただいた。両先生のご精神を永遠に顕彰し、また立派に継承していってほしいとの願いからである。
18  母校愛で築かれた慶應義塾の礎
 ところで、日本を代表する私学の一つに、慶応義塾大学がある。すでに百年有余の歴史をもつが、『慶應義塾百年史 上巻』を読んでみても、建学の道は決して平坦なものではない。
 幕末には、有数の学塾として栄えていた。だが、明治五年(一八七二年)ごろから、次第に塾生が減少する。明治四年、三百七十七人とピークを示した入学者数は、同十年には百五人、約三分の一に激減している。当然、経済的にも逼迫ひっぱくし、塾経営は危殆きたいひんした。この原因は、何であったか。
 一つには、明治四年の廃藩置県はいはんちけんがある。これまで藩から収入を得ていた士族が職を失い、生活に困窮するようになった。塾生の多くは士族の子弟であり、こうした経済事情から、学問をあきらめざるを得なかった。
 さらに政府は、廃藩置県と同時に、″藩費生はんぴせいの制度″を廃止した。これは一種の奨学金制度で、貧しい一家の子弟を″藩費生″として藩が学費援助していた。が、これ以降、府・県の″公費制度″に切り替えられ、私学の学生は″公費生″として認められなかったため、私学への進学が困難となる。完璧なる″官学重視″の政策であった。
 この結果、私学の入学者は急速に減り、多くの私塾が廃校を余儀なくされた。日本の私学はまさに存続の危機の時代を迎える。むろん、慶応義塾も例外ではなかった。それに加え、明治十年の西南戦争のさいには、鹿児島出身の学生の多くが退学し、塾生の減少に拍車をかけた。
19  深刻な危機を迎えた塾内では、人件費削減のため、教員数を減らすことが検討された。出費のなかでも、人件費はかなりの割合を占めており、ギリギリの財政事情から、人員削減は、ほぼ不可避の選択であったにちがいない。
 しかし、塾長をはじめ教員たちは、「今、教員の数を減らせば、ますます塾は衰えてしまう」と考え、「それより、自分達の給料は半分、いな三分の一になってもよい。全員で協力し、全員の力で塾を守り抜こう」と、創立者の福沢諭吉に申し出る――。
 何という、美しくも、尊い心根であろうか。こうした厳しい苦境の時こそ、人間の真実が表れるものである。教員達の″慶応″を愛する思いは、純粋にして一途な心情であった。
 いうのも、何より、教員の大半は塾の出身者であった。青春を過ごし、自身を豊かにはぐくんでくれた″我が母校″――。その衰退は、彼らにとって、何よりも耐えがたい悲しみであったにちがいない。
 また、「勉学」を第一とする気風が、塾にはみなぎっていた。それは、何物にも代えがたい″義塾″の美風であった。
 教員は、それまで学んだ知識を塾生に教えるかたわら、みずから、より高度な学問を求め、その研鑽を決して怠らなかった。″教員である″ことにあぐらをかくのではなく、″塾生と一緒に学びあっていこう″とする気概があふれ、こうした気風にふれた塾生達も、おのずと向学への情熱をいや増していった。
 給料を配る時のことである。「『僕はコンナに多くを取る訳はない。君の方が少ない』と言うと、『イヤそうではない、僕はこれで沢山だ』」(福沢諭吉『福翁自伝』富田正文校訂、岩波文庫)と、教師の間で議論が起こった。我慢できるかぎり、たがいに譲りあうこともあったという。それほど、お金や世事に頓着せず、ひたすら学問と塾の建設に、一人一人が徹していた。
20  私どもも″生涯求道″″生涯研鑽″のみずみずしい息吹を忘れず、絶えざる向上の道を進んでいきたいものだ。とりわけ青年は、″向学″の姿勢を絶対に失ってはならない。
 戸田先生は、この点で、まことに峻厳な師であった。私が読書を怠ると、厳父のごとく叱咤された。また、しばしば「今は何を読んでいるのか?」と聞かれた。「『エミール』です」と答えると、「内容をいってみろ」といわれる。だから、読んでいないのに″読んでいる″とは、決して言えなかったし、必死に内容の把握に努めたのを、きのうのように覚えている。ともかく若き日には、寸暇を惜しんで書物に向かったものだ。その薫陶が、今になって本当に大きな力となり、財産となっている。
 どうか、若き広宣のリーダーの諸君は、未来の大成と栄冠のために、″学び″の姿勢に徹しぬいていただきたい。
21  義塾の教員は、いずれも当時の最優秀の青年達であった。他の塾で教えていれば、収入もはるかに恵まれているはずであった。
 だが、彼らは″自分達の塾″を愛する思いで、一心に教育に当たり、我が身をかえりみなかった。だから、この経営危機にさいし、給料が半減しても、何一つ不平をもらさなかった。誰もが塾を守り抜くために、歯をくいしばって力を尽くした。
 いかなる団体、またいかなる人生であれ、″順風″ばかりが続くことはありえない。激しい嵐の日もあれば、冷たい雪の日もある。苦悩の余り、心を消耗し尽くすこともあるかもしれない。しかし、逆境に耐え、それを乗り越えてこそ、何にも揺るがぬ″本物″が生まれてくる。いわば″苦しみ″が価値ある人生の″母″であり、栄光を築く源泉となる。
 慶応義塾大学もまた、しかりであった。″私学の雄″としての揺るぎない今日の伝統は、決して安易にもたらされたのではない。数々の苦難と戦い、泥まみれの苦闘の末に勝ち得た″栄冠″である。
 反対に、経済的にも、設備の面でも、あらゆる点で恵まれた環境に甘んじては、″本物″は絶対に生まれないし、真の「人間教育」の府を建設することも出来ないであろう。
22  ともあれ、慶応義塾の草創期にあって、存続の危機に直面した人達は、自己を犠牲としてでも、塾の復興に力を注いだ。経営改善のため、一致団結して事に当たった。
 しかし、無理は、長く続くものではない。生活を犠牲にしての非合理な経営では、義塾を将来にわたって安泰たらしめることは不可能であった。
 そのことを、福沢は深く悩み、苦しんだ。その末に廃校を決意し、塾の主だった人々に心境を伝える。福沢とともに、長年、塾の建設に貢献してきた者ばかりである。彼らは何日も議論を交わし、それでもあくまで義塾の存続を決意しあった。そして、そのための″方法″を考え出すのである。つまり、「慶応義塾維持法案」なるものを決め、志ある人々から資金を募り、維持費にあてようとした。明治十三年(一八八〇年)のことである。
 「法案」というと、すぐ「国会」を連想するかもしれない。が、とにかくこの法案の威力は絶大であった。発表と同時に、百三十人が募金に応じ、当時の金額で四万八千二百五円もが集まった。そのころ、塾の教員の月給がせいぜい五,六〇円だったというから、大変な高額である。そして、募金した人のほとんどが、塾の卒業生もしくは塾生の父母であった。
 この資金を当座の維持費にあて、″慶応″は急場をしのぐ。さらに、翌明治十四年からは、入学者も増加に転じ、経営は順調にもち直していく。こうして百年余にわたる「慶応義塾」の発展と繁栄への強固な″礎石″が築かれていった。(以上、前掲『慶應義塾百年史 上巻』を参照)
 存亡の危機から、安定と前進への劇的な転換――。それは、いざという試練の時に、″自分達の塾″を、絶対に守り抜かんとする、卒業生と教師の″一念″の結果であり、福沢を中心に″心″を一つにし、結束したがゆえの勝利であったと、私は見たい。
 これと同じく、我が創価学園を愛し、守り抜くという教職員の皆さまの一念が、永遠の繁栄への一切の基盤となることを、きょうお集まりの方々は、どうか忘れないでいただきたい。
23  創立者として、学園生が健康で、生き生きと勉学に励めるよう祈らぬ日はない。また創価学園が「日本一」「世界一」へと発展しゆくことを願わぬ日もない。そうした意味から、目指すべき教育者のありかたについて、もう少々、論じることを了解いただきたい。
 高校、中学といえば、もっとも多感な時期である。その時に出会った教師の人格は、生徒の一生を決定づける重みをもっている。小学校の恩師との出会いも懐かしく心に残るものだが、人格形成のうえでは、やはり中学、高校の方が、もう一歩、深く影響を残していくもののようである。
24  師弟の絆は″魂の触発″のなかに
 フランスの哲学者アラン(一八六八年〜一九五一年)は、二十世紀前半を代表する″知性″の一人として、ベルグソンと並び称された。その主著の一つは『幸福論』だが、それは、私にとっても若き日に手にした名著として、まことに思い出深い。
 彼は、デカルト流の合理的思考に立つ優れたヒューマニストであり、「現代のソクラテス」とも呼ばれた。だが大学の教授ではなかった。生涯を、高校の一教師として送っている。とともに、地元の新聞に、日々の思索を短文にまとめた「語録」を掲載するなど、執筆活動も続けた。
 教育者として力を磨いていくうえで、教育以外に自身の鍛錬の場をもつことも大切なことであろう。信仰者として、広布の庭でみずからを鍛え、人間的な成長を期していくことが、力ある教育者への道を開く重要な″錬磨″となっていることを忘れてはならない。
 ともあれ、アランの教室からは、作家のアンドレ・モーロア、ジャン・プレボー、女性思想家のシモーヌ・ヴェーユら、数々の逸材が輩出した。高校の教師としても、彼は超一流であった。
 そのアランが、八十三年の生涯で、「私が出会ったただ一人の『偉人』」(『ラニョーの思いで』中村弘訳、筑摩書房)と仰いだ人がいる。それは、高校時代の恩師ラニョーであった。
 ラニョー(一八五年一〜九四年)は、教師であるとともに卓越した哲学者であり、大学教授として名を成すこともあえて歩まず、ひたすら若き魂の触発と育成に全生命を捧げた。それゆえに、一冊の著作も残してはいないが、その″魂の著作″は、卒業しゆく高校生達の″心の本棚″に確実に納められていった。
 アランは、追憶する。
 「謙虚な師は、この隠れた栄誉以上のものを、決して望まなかった」(白井成雄「ラニョーとアラン」、前掲『ラニョーの思いで』所収)
 たしかに、さまざまな勲章や一時の名声など、永遠なる″心の財宝″から比べれば、大した意味はない。ましてや仏界の生命という永遠不滅の「宝」からみれば、大した価値もないといえまいか。
 弟子のアランも、名聞名利を超克した恩師の生き方を、若き生命に、鮮烈に刻みつけたにちがいない。アラン自身、六十五歳で定年退職するまで、四十年余、高校の哲学教師として勤め抜いた。大学の権威に心を奪われず、高校教育に、生涯、誇りと情熱を持ち続けた。
 戸田先生は、かつて「人を引っ張っていくには、名誉欲と金欲をかなぐり捨てることだ。これらを捨てた人間ほど強く、いい意味で、手のつけられぬものはない」と話してくださった。
 自己の名声や富を第一とする人に、本当の意味での指導者の資格はない。また、教育者も同じであろう。学生、生徒らの鋭敏な「心」は、教師のエゴイズムを、ただちに見抜いてしまうだろう。世俗的な欲望をかなぐり捨てた、純粋にして高潔な情熱のみが、子らの澄んだ心に分け入り、胸中に感銘と共感の鐘を打ち鳴らしていくにちがいない。
25  ラニョーとアランは、大学での教鞭をとらず、高校の教壇で生徒の育成に全魂を注いだ。
 かつて、戸田先生は、私にこう言われた。
 「お前を大学へ行かせてやりたい。行かなければ、社会で大きなハンディを背負うことになるやもしれぬ。しかし″人間の大学″へ行けばよい。″信心の大学″、この″戸田の大学″へ行けばよい。人間としての最高の力をつける全人格的大学と思って」と。
 食事をした帰路のことであった。今も、一幅の名画のように、脳裏を離れない、青春の一光景である。
 私は恩師の言葉のままに、広宣流布の大道を疾走してきた。そして今、何の悔いもないし、むしろ最極、無上の生き方を教えていただいたと感謝してやまない。
26  アランが師のラニョーと出会ったのは十八歳の時。ラニョーから現実社会のなかで″生きている″哲学を学んだ。それは″新しき精神″の目覚めであり、″新しき世界″の発見であった。まさにアランにとっては、″青春の朝″ともいうべき覚醒の日々であった。彼は、この時代を振り返り、″哲学者は朝ごとに二重の目覚めをする″(『我が思索のあと』田島節夫訳、『アラン著作集10』所収、白水社)といっている。
 すなわち、人が毎朝、目覚めるということは、本来、それ自体が、日々、新たな世界との出あいである。その上で、哲学をもち、新しい「ものの見方」を学んでいくことは、二重の意味での「目覚め」といえる。アランは師ラニョーのもとでは、その新鮮な感動の連続であったにちがいない。
 「スタンダールの『人生は朝から成る』との言葉を愛していた」(前掲『ラニョーとアラン』)というアランは、いわば″朝の哲学者″だったのかもしれない。教えるにも、この言葉を繰り返し語ったといわれ、太陽が昇る「朝」のイメージをこよなく愛していたようだ。
 話の内容は若干異なるが、一日一日の充実には、朝の出発こそ肝要である。朝の勝利は、一日の勝利となり、やがて人生の大勝利へと結実していく。
 そのためにも、朝の勤行が大事である。朝の勤行は″生命の目覚め″であり、胸中に赫々かっかくたる太陽を昇らせゆく源泉であり、この生命の大いなる覚醒の座から出発していくならば、その日一日、新鮮な「朝」の息吹をたたえ、確実な充実と成長の″一歩″を刻みゆくことができる。まさしく勤行は、荘厳なる「元初の朝」の儀式なのである。
27  さて、ラニョーは、高校での教育に自身を捧げ尽くし、四十二歳で逝去する。前述のごとく、著作を出す余裕もなかった。アランは、その師をしのんでいう。
 「師は現代のもっとも深遠な哲学者の内に、生前当然地位を占めるべきであった。師を敬愛する者、師からじかに全思想を授けられた者達は、師がこのような地位を死後占めうるよう、努めねばならない」(前掲『ラニョーとアラン』)
 そして、この言葉通り、アランらは全魂を込めて、ラニョーの講義草稿をまとめ、出版する。麗しい師弟愛である。師を思う弟子の深い一念に、私は胸を打たれる思いがする。
 アランは、生涯を通じて、繰り返し繰り返し、ラニョーを宣揚した。こうして今日、ラニョーの名は、アランとともに、歴史の花園に馥郁ふくいくと薫りを放っている。
 著名な作家モーロア(一八八五年〜一九六七年)は、アランの教え子であった。つまり、ラニョーの孫弟子にあたるが、モーロアもまた、師アランの伝記を、敬愛の心を込めてつづった。その冒頭の一節は、こうである。
 「アランはつねに偉大だが、師ラニョーについて語るとき、かれはつねにもまして偉大である」(『アラン』佐貫健訳、みすず書房)
 人生には、数限りない「出会い」があり、数限りない「絆」がある。しかし、そのなかにあって、「師弟の出会い」「師弟の絆」こそ、もっとも崇高なる″精華″であると思えてならない。このことを申し上げ、記念のスピーチとさせていただく。

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