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日蓮大聖人・池田大作

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学会創立五十七周年記念合同総会 妙法は「永遠の生命」活かす本源

1987.11.15 スピーチ(1987.7〜)(池田大作全集第69巻)

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1  広布の文芸活動に期待
 本日は、11・18「創価学会創立記念日」を祝賀しての合同総会である。心からお祝い申し上げたい。また寒いところ、休日にもかかわらず参集してくださった皆さま方に、私の方こそ感謝申し上げ、その労に深く敬意を表させていただく。
 本日も、この席を借りて、昨今、つれづれに思い、考えていることを、後世のために、お話しさせていただきたい。
 自分のことで恐縮であるが、私は早くより、どちらかというと文を書くことが好きであった。幼少時代から体は弱いし、これといった取り柄もない。しぜんと文だけは好きになっていったようだ。
2  尋常小学校の一年の時である。手島先生という優しい女の先生がいた。その先生に「つづり方」、今でいう作文が大変よくできていると、全学年から二人だけ選ばれてほめてもらった。その思い出は今なお懐かしく、忘れ得ぬ、私の″おとぎの国″の一シーンとなっている。
 ともあれ体も強くない。他に特別な才能もない。何とか文筆で立てればと思ったことも青年時代にはあった。そうしたなか、戸田先生が日本正学館という出版会社を経営されている時、当時の幹部から誘いがあり、喜んで入社した。
 短い期間ではあったが、多くの著名な作家とも出会えたことは、大変うれしかった。それは、懐かしくも思い出多き、私の大事な歴史となっている。詩人の西条八十やそ、ユーモア小説の佐々木くに、時代小説家の山岡荘八、山手樹一郎等々の諸先生であり、他にも多くの面識を得た。
3  きょうも、全国の文芸部の代表の方が参加しておられる。私も、かねてより文芸部の一員の自覚で進んできた。広宣流布における文芸活動は非常に重要である。私はつねに注目してきたし、懸命にその″道″を開いてきたつもりである。また、これからも見守っていく決意である。
 ところで、我が文芸部の草創からの同志であり、多大な貢献をされてきた大林しげるさんが、このたび『人間の旗 小説・吉田松陰』(上下巻、潮出版社刊)を出版された。大変に意義深く、うれしいニュースであり、文芸部の一員として心から祝福させていただく。大林さんは本日の会合にも遠路、出席されている。真心からの拍手を送りたい。
 同じく社会的に大きな活躍をしている人にも、二種類ある。すなわち、さほど学会内で広宣流布のための苦労もせず、じょうずに泳ぎながら偉そうに見せている人。一方、組織のなかで、苦労に苦労を重ね、汗まみれ、泥まみれになり、真実の広宣流布を推し進めながら、前者ほどには社会的に恵まれない人がいる。
 どちらの人が尊いか。また大切か。信心の次元からみる時には、その答えは、おのずから明瞭である。いうまでもなく、それは後者の人である。
4  時代は仏法の「知恵」と「哲学」を志向
 さて先日の夜、私は妻と秘書の大山総務と一緒に、都内をしばしば車で回った。東京にいる時も、私はできる限り、時間がある時は、せめて同志の家のそばに行って、陰ながら見守り、唱題してくるのが常である。
 その夜は、たまたま毎日新聞社のそばを通った。そこから、ある日の同紙のコラム「余録」(昭和六十二年十一月四日付)が話題になった。
 その記事によると――。
 京都で「寿命」の意味を考える小さな催しが開かれ、席上、二つの「死」が取り上げられた。
 「享年はともに八十六歳の婦人で、死因はいずれも老衰。家族が異常に気付いた時には意識混濁。どちらも大往生だった」
 「違ったのは医師の態度と肉親の対応だった。一方の医師の判断は、生命維持の手段を尽くしても、一カ月。再び意識の戻る望みはない。静かにかせてあげるべきだ、と。家族は波立つ胸中を抑え進言を受け入れた。一週間後に息を引き取った」
 「片方の家族は、近代医学で最善の対応を、と要請した。タンがつまる。のどを切開した。その手術の出血に輸血。さらに栄養剤の点滴。不眠不休の子供たちが疲れ果てたなかで、った。むなしさが遺族に突き上げてきた」
 その会合では、未来の生命維持技術の進歩などを踏まえつつ、「寿命の限界」について、宗教家と医学者らの意見が交わされた、という。その折、延命策をとった方の息子さんが、こう発言した。
 「もう今日か明日かに迫った深夜、あえいでいたその母のほおが、きゅっとゆるみ、まぎれもない笑みの浮かんだのを、たしかに見た。うれしい思い出が脳裏を走ったにちがいない。あのほほえみの瞬間を、母のもったことが、私の救いになった」と。
 この発言に「会場は、静まり返った」――という。
5  このエピソードは、現代人が直面している「死」をめぐる一状況を、鮮明に映し出していよう。
 これに対し、「無理な延命をせず、静かに死なせてあげるべきだ」という意見の人も当然、多いだろう。逆に「最善を尽くすべだ」という心情も、もっともである。それぞれの立場や状況、また生命観、寿命観、孝養観などによって、意見は分かれるであろうし、どちらが望ましいか一概に断ずることはできないであろう。また断ずる必要もないかもしれない。
 ただ言えることは、みずからを生み育ててくれた親の「長寿」と「安らかな臨終」は、子供にとっては、最大の願いである。その祈るがごとき心境は、このエピソードからも切々と伝わってくる。
 しかし、どんなに現代医学のすいを尽くしたとしても、それで本当に納得できる方途が開かれているかといえば、必ずしも、そうではない。科学のみで、子供として、人間としての、この切なる願望が果たせるわけではない。これが偽らざる現実である。ここに、医学の進歩への尊重は当然として、もう一歩深き「生命観」が要請されるゆえんがある。
 医学が人間の延命をも十分可能にするにいたった現代にあってこそ、医学のみではどうしようもない「死」の課題がいよいよクローズアップされてきたわけである。すなわち、その医学を人間の真実の安穏と幸福へと用いていける「知恵」と「哲学」の必要性が、一段と切実になってきたのが現状である。
 その正しき「生命観」が確立されてこそ、人々が求める真実の「孝養の道」も広々と開けていくにちがいない。私どもの広宣流布の運動の重要な意義がここにもある。
6  親子は「一体の成仏」と富木殿を激励
 そうした意味から、ここで日蓮大聖人の門下の重鎮であった富木常忍じょうにんの母の死について、少々ふれておきたい。
 建治二年(一二七六年)二月下旬、常忍は母を亡くした。すでに九十歳を超える長寿であり、安らかな臨終であった。しかし、いずれにしても、母との別れはつらい。
 常忍は翌三月に、母の遺骨を胸に抱いて、大聖人に追善の仏事をお願いするため、下総の若宮(現在の千葉県市川市)からはるばる身延を訪れた。母を思う常忍のその心情を、大聖人は温かく包まれ、またくまなくみとっておられる。
 御書には「去月下旬の比・生死の理を示さんが為に黄泉の道におもむ」――(あなたの母堂は)先月下旬のころ、生死の理を示すために、黄泉路よみじの旅へとおもむいていかれた(亡くなられた)――と述べられ、続いて「此に貴辺となげいていわく」として、以下、常忍の心境と行動が縷々るるつづられている。
 すなわち大聖人は、常忍とともに嘆き、常忍の悲しみを我が悲しみとして、心通わせ、語り合われたのである。さらに、その模様を次のように御手紙に記されて、常忍を慰め、励ましておられる。
 まず「齢既に九旬に及び子を留めて親の去ること次第たりと雖もつらつら事の心を案ずるに去つて後来る可からず何れの月日をか期せん二母国に無し今より後誰をか拝す可き」と。
 ――年はすでに九十にもなり、また子を残して親がくことは自然の順序でもある。しかし、よくよく考えてみるに、母が去った後、いつの日か再び会うことができようか。世に二人の母はいない。これから後は誰を母としてあがめていくべきだろうか――との常忍の心情である。
 大聖人が、ここまで自分の心のひだをわかってくださっている事実に、常忍は言い知れぬ深き感動を覚えたにちがいない。
 さらに「離別忍び難きの間舎利を頸に懸け足に任せて大道に出で下州より甲州に至る其の中間往復千里に及ぶ」と。
 ――(母との)別離の悲しみが忍びがたいので、遺骨をくびにかけ、足にまかせて大道に出て、下総(千葉県)から、この甲州(山梨県)まで来た。その間の道のりは往復千里にも及ぶ――と、常忍の孝心をたたえ、その労をねぎらっておられる。
 このあと引き続いて、大聖人は、常忍の道中がいかに困難であったかを思いやられつつ、その苦労を、じつに心こまやかなる筆致ひっちで描写しておられる。
 国々はみな飢饉ききんで、宿々の食糧も乏しかったこと、山野には盗賊があふれ、自身は体も弱く、従者もないに等しかったことなどを語られ、その険難の道のりを、母への孝養の一心で越えてきた常忍の行動を称揚しょうようされている。
 山また山、川また川を越えてきたその姿を、大聖人は「羅什らじゅう三蔵の葱嶺そうれい……も只今なり」と、鳩摩くま羅什が仏法東漸とうぜんのために、世界の屋根ともいわれるパミール高原を越えた姿にまで、たとえておられる。多くの仏典翻訳者が、仏法流布のために、この険難を越えた。その彼らの代表として羅什三蔵を挙げ、記されたといってよい。
 ――常忍の苦労も並たいていではなかったであろう、″本当に大変だったね″″よくこられた″と最大限に歓迎されている。何と温かい、こまやかな御本仏の激励であろうか。私どもは、この御文の心を見逃してはならない。
 人間の心理、一念というものは、まことに微妙である。その、いわば毛細血管のごとき微細な要所に向かって、指導・激励の注射をし、薬を入れて癒していく。ここに真実の仏法指導者、人間指導者の実践がある。繊細なうえにも繊細に心をくだき、そのうえで、力強き蘇生への励ましを続けていけるリーダーでなければならない、といつも私は思っている。
 また私どもは、大聖人が常忍の遠来の労を、心から称賛されておられる御心を決して忘れてはならない。
 すなわち、現在では、会合に集う友の労を、ゆめにも当然のように思ってはならない。本日の会合にしても、せっかくの休日であるし、もっとゆっくりしていたかった方もおられるであろう。子供さんに、どこか連れていってほしいと、出がけにねだられた人もおられるにちがいない。しかし仏道修行のため、広宣流布のために、このように勇んで集ってこられた。まことに大切な方々である。私はいつもその尊い姿を決して忘れないようにしてきたつもりである。皆さま方も同じ思いの指導者であっていただきたい。
7  さて大聖人は、常忍が身延に着いてからの様子を、常忍の立場に立って、次のように描いておられる。
 「案内を触れて室に入り教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し五躰を地に投げ合掌して両眼を開き尊容を拝し歓喜身に余り心の苦み忽ち息む」――案内を請い部屋に入り、御本尊の御宝前に母の遺骨を安置し、五体を投げて、掌を合わせ、しかるのちに両眼を開いて、仏様の尊い御姿を拝すると、歓喜が身にあまり、(母をうしなった)心の苦しみが、たちまちにやんだ――と。
 御本仏に御目通りして歓喜する常忍の様子が目に浮かぶようである。
 さらに、結論として「我が頭は父母の頭・我が足は父母の足・我が十指は父母の十指・我が口は父母の口なり、たとえば種子と菓子と身と影との如し」――(思うに)我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十本の指は父母の十指、我が口は父母の口である。たとえれば種子と果実、また身と影のよう(に一体)である――と親子の一体性を述べられ、「教主釈尊の成道は浄飯・摩耶の得道・吉占師子・青提女・目犍尊者は同時の成仏なり」と記しておられる。
 釈尊の成仏は、その父・浄飯王、母・摩耶夫人の成仏でもあった。また子供の目連尊者と、父の吉占師子、餓鬼道に堕ちていた母の青提女の親子三人は、目連の成仏と同時にみな成仏した。そのように親子は″一体の成仏″である。
 「是の如く観ずる時・無始の業障忽ちに消え心性の妙蓮忽ちに開き給うか」と。
 今、常忍は御本尊に御目通りし、即座に「歓喜身に余り心の苦しみ忽ち息む」境地にいたった。親と子の生命が一体不二であるゆえに、常忍の成仏は、そのまま母の成仏である。――常忍が、こう信じて妙法を唱えた時、母の無始以来の罪障もたちまちに消え、己心の仏性を即座に開いて成仏されたにちがいない、との仰せである。
 甚深の仏法に基づく時、親も子も、ともどもに、また三世永遠にわたって、生命の大歓喜の軌道を上昇し、天界へ、いな仏界へ、成仏へと、限りなく境涯を高めていくことができる。これが妙法の絶大なる力である。逆に、この大法の軌道に反する時、地獄の苦しみの境涯へと限りなく「下向」していく。
 妙法をみずから修行し、親をも成仏させていく。そこに世間一般の親孝行もすべて包含した「真実の孝養」の道がある。この尊極の道を実践し、広め、また実証されている方々こそ、皆さまである。
8  余談になるが、この御手紙が「忘持経事」とよばれるそもそものゆえんは、常忍が大切な持経を身延に置き忘れて帰ってしまったことにある。無事、母の追善回向ができた喜びの余りだったかもしれない。そのままにしておくわけにもいかない。大聖人は、ある弟子に託して持経を常忍に届けられた。その時に添えられた御手紙が、この「忘持経事」である。
 常忍にしてみれば、すでに途中で気がつき、「大変な失敗をした」と青くなっていたかもしれない。そうでなくとも、使者によって気がつき、しきりに反省したであろう。加えて、わざわざ届けてまでいただいて、恐縮至極であったにちがいない。
 そうした常忍の心を見通されたかのように、大聖人は、まず御手紙の前半では「常忍上人は持経を忘る日本第一の好く忘るるの仁か」――常忍上人は御持経をお忘れになった。これは日本第一の物忘れの人であろうか――と、ユーモアと親愛をこめて揶揄やゆしておられる。いわば″もの忘れの日本チャンピオンですよ″と。その上で、後半では、先に拝読したように、身延への参詣をたたえ、温かくねぎらっておられる。
 いずれにしても、大聖人は一貫して常忍を、どこまでも深く大きな御慈愛で包容されている。この御手紙にふれて常忍はどれほどかホッとし、また温かいものが心に満ちるのを感じていったにちがいない。
 この段を拝して、私は申し上げたい。″すでに反省し、苦しんでいる人を決して責めてはならない。そのような、心の狭いリーダーであっては絶対にならない″と。
 人間である以上、失敗もある。過ちもある。本人がそれを反省し、苦しんでいれば、それ以上、追い打ちをかけるような残酷なことをしてはならない。
 もちろん、本人が反省していない場合は厳しく注意しなければならない。また、悪の心根をもって広布を妨害する場合には、その本質を厳しく論破していくことも当然の理である。
 また、大聖人が信徒の常忍を「常忍上人」と呼ばれていることも、単なるユーモアばかりではなく、信心強盛なる門下への敬意を表されたものと拝する。総じて御本仏は、たとえ相手が在家の身であれ、いささかも軽んじてはおられない。
 この一点を見るだけでも、僧侶の立場を利用して在家の私どもを見下し、権威をカサに地涌の友を迫害した近年の悪僧たちが、いかに御本仏の御心を踏みにじったやからであるか、明白である。
9  真実の「孝養の道」は仏道に
 妙法こそ真実の孝養の道であることについて、次に「開目抄」を拝して申し上げておきたい。ここでは、世間でのさまざまな「孝養の道」との相違に関して端的に述べておられる。
 まず「儒家の孝養は今生にかぎる未来の父母を扶けざれば外家の聖賢は有名無実なり、外道は過未をしれども父母を扶くる道なし」と。
 儒教では、しきりに親への「孝養」を説く。しかし、どんなに孝行を尽くしたとしても現世に限られている。父母の死後を救うことはできない。もっとも大切な「死」に対して、全く無力なのである。これでは真実の孝養とはいえない。ゆえに儒家の教えで「聖人」「賢人」といわれている人々も、「名」のみあって「実」はない。まことの聖賢ではない。
 また外道(バラモン)は、過去・未来を含めた三世の生命を一応は知っている。しかし、観念のみで、実際には、父母を救う方法を具体的に持ってはいない。
 これらに対し「仏道こそ父母の後世を扶くれば聖賢の名はあるべけれ」と。
 仏道こそ両親の死後をも救う「孝養の道」であるゆえに、正法の行者こそ真の「聖賢」の名にふさわしいと述べられている。
 いかに著名人であり、また人格者と尊敬されている人であっても、正法の根本的な「永遠の生命観」を持っていない場合は、「有名無実」の存在であるとまで、大聖人は見抜いておられる。
 世間の最高の栄誉も、社会的地位も、それのみでは、悠久たる「永遠の生命」の流れから見る時、余りにもはかない。とるに足らぬ、″うたかた″である。また、大宇宙に輝き満ちる妙法の眼から見れば、極小の豆つぶにも足らない″空虚″そのものである。
 妙法の完璧なるリズムに生きゆく皆さま方の人生こそ、世間で仰がれる聖賢、指導者をもはるかに超えた尊極の人生である。限りなき永遠性へと通じ、広々と大宇宙の生命の庭に自他ともに遊楽せしめゆく、最高に価値ある人生であられる。これが御本仏の御断言なされておられるところである。この誇りと自覚を胸に、どこまでも晴れやかな、王者の境涯であっていただきたい。
 「開目抄」ではさらに、仏法の中での浅深を述べられ、「法華経已前等の大小乗の経宗は自身の得道猶かなひがたし何にいわんや父母をや但文のみあつて義なし」と。
 ――法華経已前の大小乗経を立てる諸宗では、自身の成仏すら実現できない。まして父母を救うことは、とうていできない。成仏とか孝養の「文」はあっても、その「義」はない。もちろん現証もない。
 そして「今法華経の時こそ女人成仏の時・悲母の成仏も顕われ・達多の悪人成仏の時・慈父の成仏も顕わるれ」――いま法華経の時にいたって女人成仏が現実に証明されてこそ、悲母の成仏も顕れ、また提婆達多の悪人が成仏する時にはじめて慈父の成仏も顕れるのである――とされて、「此の経は内典の孝経なり」と結論しておられる。
 父母の即身成仏を現実に可能にした法華経こそ、外典である儒教の「孝経」を超えた″内典(仏典)中の孝経″ともいうべきである、との仰せである。この法華経とは、末法においては御本仏・日蓮大聖人の三大秘法の教えであることはいうまでもない。
 ともあれ、科学が進歩し、時代が進めば進むほど、この真実の「孝養の経」が注目され、無限の喜びの光を社会に広げていくことは間違いない。
10  先ほど紹介した新聞記事は、医療のありかたに対する問題提起ともなっている。
 また科学の長足の進歩のなかで、人類の生命を長びかせることはできたが、肝心の生命の内実について十分に関心がはらわれていなかったともいわれている。こうした意見には、心ある識者の現代医学への反省と、尊貴なる生命を全うすることへの万感の思いがこめられているように思えてならない。
 古来、医学の目的は、「病苦の除去」と「生命の延長」にあるといわれる。当然、これは医学の重要な使命である。
 しかし、いかに医学が進歩、発達しても、「生」「老」「病」「死」は人生の避けることのできない現実である。ゆえに、この人間の本源的苦悩をいかに打開し、価値ある充実した人生を生き抜いていくか――ここに人生の確かなる「哲学」と、苦悩の現実を生きゆく大いなる「生命力」への、絶対的な要請がある。生命蘇生の「大法」である大聖人の仏法、そして一生成仏への絶えざる信心が必要とされる理由も、ここにある。
11  仏教の一つの視点として考えておきたいことに″「死」の問題を切実にとらえないところに生まれることは不幸である″という話がある。
 それは、極めて長い寿命を得ることができるといわれる「長寿天」に生まれると、死の無常を切実に感じることがない。そのため、なかなか無上菩提ぼだいを求める心を起こそうとせず、成仏も得られない。そこで、この「長寿天」を、成仏できにくい「八難処」の一つとする有名な説話である。
 もちろん、これは「長寿」を否定したものではなく、人生の生き方への、鋭い警鐘であろう。
 常に「病気」とは無縁の「健康」であり、また「死」を知らぬほどの「長寿」であった場合、どれほど深き「人生観」を確立できるか、確かに疑問となってくるにちがいない。
 真剣に「生きる」ことも考えなくなる。真剣に「死」という問題も考えなくなる。ただ惰性に流されてしまう傾向が強くなるのは、確かに考えられることであろう。そこに「生」「老」「病」「死」という人生のそれぞれの段階を直視し、一切を発条ばねとしながら、永遠性の幸福へと質量ともに高めゆく、仏法の法則の偉大さを感じとることができる。
12  また戸田先生が遺言のひとつとして、「日淳上人は、根本的に、創価学会の出現、創価学会の信心、創価学会の前進を信じ、理解してくださっている御法主であられる。後世のために、何か動揺があったときには、自分の指針は当然であるとしても、日淳上人のご指南を大きな基準としていくように」と、何度となく言われていた。
 近年も、師敵対の悪僧や、彼等と結託した退転者が出たことは記憶に新しいが、将来もそれは皆無とはいえない。ゆえに私は、後世のために厳として、日淳上人の教えを拝しておきたい。
 日淳上人は、若き日の論文に、次のように言われている。
 「自ら幸福だと思っている人は、とかく二乗根性になりやすい。そうして真実な人生、感激にちた生活をなしない。それから見ると、死に向かった人は生を知り、病に罹って健康を知り、災難に遇あって初めて幸福を知るということができる。罪障があってこそ、仏の円満な姿を如実に感得する、此れは尚相対界そうたいかいのことである。真の仏子は『苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経』と唱えられるのである」(『日淳上人全集 下巻』)と。
 二乗根性とは″自分のみの幸福の世界に閉じこもろう″とする性格の人である。その人は自分一人が喜びを感じ、まんを起こし、他の人を顧みようとはしない。あえていえば、人はどうでもよいとの心で、他人の幸福のために決してみずからの手を汚し、汗を流して尽くそうとはしない。そこでは真の人生の喜びも感激も感じられない、偏頗へんぱな生き方となる。
 学会にあっても、悪事を働き退転し去った者は、必ずといってよいほどエゴの固まりであり、いわゆる″二乗根性″の卑しい性格の持ち主であった。
 さらに日淳上人は「妙法の行者(行者といったほうが適当であろう)には災難がこないとか命が延びるとかもいい得ない。御利益で金がもうかるともいえまいが、しかし、(中略)信仰は活命である。善につけ悪につけ信仰にいてこそ其の中に無限の意味を発見することができる」(同前)と言われている。
 ここで「信仰は活命」とあるように、信心こそ、みずからの「生命」を最大に「」かし、最大限に発揮していく原動力である。現実社会の激動の人生行路にあって、いかなる災難が襲いかかろうとも、一切を乗り越え、すべてをもっともよき方向へとかじをとり、転じていける。そして、わが胸中に金剛不壊の幸の城を築きゆくことができるのが、妙法の信心の偉大さなのである。
13  信心で無上の価値ある人生を
 次に『人は死の際に何を考えるか』(濱田美智子、講談社)という興味深いリポートがある。そのなかに、働き盛りの四十三歳で胃ガンのために死亡したあるサラリーマンが、見舞いにきた学生時代からの親友に語った言葉が記されていた。
 私は、それを読みながら、彼の無念の心情を思い、仏法者として追善の題目を唱えた。
 彼はこのように友人に言う。
 「俺がやったことといえば、女房にせがまれて家を一軒残しただけだ。まだ金は払い終っていないが、残金は生命保険で支払い完了というわけだ。あわれだと思わないか。大の男が、自分の生命と引きかえに、ちっぽけな家を一軒、妻子に残しただけなのだから……。
 いいか、お前はしっかりと俺の分まで生きてくれ。そしてせめて、引っきずぐらいの爪あとを、この大地に残せるようにな……」と。
 死を前にした言葉だけに、彼の心情は胸をうつ。彼の胸中に思いをはせながら、妙法流布に生きる私どもの人生が、いかにすばらしいものであるかを実感するのは、私一人ではないと思う。
 彼の言うように、たとえ家を一軒残したとしてもわびしいものだ。それに対して、悩める友のために「妙法」を弘め、永遠に輝く福運を「生命」に刻み、子供達に「正法」を継承していく――それは、苦労の多い道であるが、どれほど、偉大なる人生を歩み、人生の軌跡を残していることか。
 この無上の価値ある人生を教えてくれたのが、創価学会である。仏法の偉大さと、宿命転換、福運を刻みゆく信心の道を、私どもに教えてくれた、それは創価学会であった。その意味で、学会は大恩ある団体である。けっして感謝の心を忘れた不知恩の人にだけはなってはならないと申し上げておきたい。
14  また現代は、経済つまり「お金」で社会が大きく動かされている。お金さえあれば何でもできる、と、あたかもお金を″神″のごとく考える″金銭信仰″の人もいる。
 しかし、今回の世界的な株価の大暴落に対して、私もお会いしたこともあるが、『不確実性の時代』の著者として有名なハーバード大学教授のガルブレイス博士は「暴落? それは……お金に裏切られただけのことだ」(「読売新聞」昭和六十二年十月二十一日付)と言っている。
 いうまでもないが、「お金」もまた、一生をけるには、あまりにも″不確実な″そして、はかないものである。「お金」はイコール″確実な幸福″ではない。むしろ財産があるゆえに、不幸になる場合が多い。
 まさに大聖人の仰せのごとく「南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき」なのである。この御金言を心に深く刻みながら、広布と信心に進みゆく我が人生こそ″最高の幸福″と確信し、晴れやかに、また堂々と生き抜いていただきたい。
15  先日、ある青年から手紙が届けられた。連日、多くの方々から手紙が寄せられ、すべてにお応えすることは不可能だが、私にできる範囲で誠実に応えたいと思っている。
 その青年の手紙は「母の死に目に会えなかった。親不幸にはならないか」というものであった。こうした世間の風潮や風習に根差したもので、信心の面からなんとなくはっきりしない問題がけっこうあるものだ。私は指導者の責務として、こうした問題にも、これから私なりの意見、考え方を、できうる限り話していきたいと考えている。また幹部の皆さまも同じようによろしくお願いしたい。
 さてよく世間では「親の死に目に会えたかどうか」といわれる。そして、あえなかった場合、なんとなく親不幸をしたような″ひけめ″を感じる風潮もあるようだ。しかし、これはあくまでも、いわゆる″人情″の次元の問題といってよい。
 つまり、仏法の透徹した目からみれば「死に目に会えたかどうか」それ自体は、親の成仏を決定づける要因では、決してない。どのような形で親との別れがあったとしても、追善回向の方軌にのっとって最高の孝養ができるのが、この仏法なのである。
 当然死に目にあえるにこしたことはない。しかし、今は国際化の時代であり、人々の活動の舞台は世界に広がっている。あえない場合も多々あるとも思われるので、この点を確認しておきたい。質問を寄せた青年には、先にも連絡をとったが、この話をもって、詳細な返事としたい。
16  日蓮大聖人にあられても、正嘉しょうか二年(一二五八年)二月十四日、父君・重忠(妙日)が、安房あわの故郷において逝去された。行年こうねん八十七歳であったといわれる。
 大聖人は、この知らせを駿河(静岡県)の岩本実相寺で受けられた。時に大聖人は御年三十七歳。「立正安国論」の御執筆を前に、一切経を閲覧されていた。大聖人は安房には戻られず、はるかに題目をもって無上菩提の回向をささげられ、その閲覧を続けられたのである。
 また、文永四年(一二六七年)八月十五日、大聖人の御母・梅菊(妙蓮)が逝去された。大聖人は、この三年前の文永元年(一二六四年)の秋、立宗宣言以来十二年ぶりに故郷に帰省されている。その折、病重く臨終の状態にあった慈母を蘇生なされ、寿命を延ばされたことは有名な話である。
 だが、文永四年、御母の逝去をみとられたという記録は見当らない。弘安元年(一二七八年)の御消息文には「東条の郡ふせがれて入る事なし、父母の墓を見ずして数年なり」――(地頭の東条景信や極楽寺殿〈北条重時〉の身内のために)東条郡への道をふさがれてしまい、帰郷することはありませんでした。父母の墓を見ることなく数年たっています――と。このように、大難の連続の中で、大聖人は御両親の墓参もできない状況にあられたと拝察される。
 しかし大聖人は「報恩抄」で次のように断言されている。
 「此の功徳は定めて上三宝・下梵天・帝釈・日月までも・しろしめしぬらん、父母も故道善房の聖霊も扶かり給うらん
 ――(日蓮大聖人の)死身弘法の功徳は、必ずや上は仏法僧の三宝尊、下は大梵天王、帝釈天王、日天月天等までも承認されているであろう。ゆえに、わが父母も、師である故・道善房の聖霊も、必ずやこの大功徳によって成仏できるであろう――と。
 この御文は、一切衆生の救済へ死身弘法の御心で邁進される御本仏日蓮大聖人の、大功徳の御姿を述べられたものであるが、大聖人の御遺命のままに広宣流布に向かっていく人の功徳も絶大である。御聖訓のごとく、信心の功徳は、自分自身のみならず、親子一族、先祖代々、子孫末代にまで及んでいくのである。
 それが戸田先生の確信でもあった。「形式ではない。目にははっきりと見えないかもしれないが、功徳は必ずや生命から生命へと伝えられていくのだ」と、よく言われていた。つまり、広布のために、日夜活躍している子供の信心の功徳によって親も成仏していけるのである。
 さらに大聖人は、門下の一人であった刑部ぎょうぶ左衛門尉の夫人への御手紙に、次のように言われている。
 「父母に御孝養の意あらん人人は法華経を贈り給べし、教主釈尊の父母の御孝養には法華経を贈り給いて候
 ――父母に孝養しようという志のある人々は、父母に法華経を贈るべきである。教主釈尊も、父母への孝養のために法華経を贈られている――。
 「日蓮が母存生しておはせしに仰せ候し事をも・あまりにそむきまいらせて候しかば、今をくれまいらせて候が・あながちにくやしく覚へて候へば
 ――日蓮は、母が生きていた折は、いわれたことに余りに背いてきたので、母に先たたれてしまった今になって、大変に悔まれてならない――。
 「一代聖教をかんがへて母の孝養を仕らんと存じ候間、母の御訪い申させ給う人人をば我が身の様に思ひまいらせ候へば、あまりにうれしく思ひまいらせ候間あらあら・かきつけて申し候なり
 ――そこで一代聖教をかんがえて、母への孝養をしようと思っている。そんな折であるから、母をとむらおうとされる人を見ると、自分のことのように思われる。だから、あなたが母の供養を願われたことが、あまりにうれしく思われるので、父母孝養の法門をざっと記したのである――。
 このように、夫人の孝養の心をたたえられたあと、大聖人は、こう結論されている。
 「定めて過去聖霊も忽に六道の垢穢を離れて霊山浄土へ御参り候らん
 ――必ずや、亡くなられたあなたのお母さまの霊も、たちまちに六道の苦しみとけがれを離れて、霊山浄土へ参られるであろう――と。
 真剣な唱題に励み、日々まじめに、広布の活動に尊い汗を流す皆さま方こそ、最高の孝養の人なのである。このことを強く確信していただきたい。
17  厳たる「師弟の絆」に学会の礎
 さて、先月、福岡を訪れた折には、九州の皆さま方に本当にお世話になった。SGI総会、世界青年平和文化祭に加え、福岡研修道場での研修等、意義深き歴史を刻むことができた。重ねて、心から御礼申し上げたい。
 ちょうど今から三十年前の昭和三十二年(一九五七年)の四月二十一日、第一回九州総会が開かれた。これには、日淳上人が戸田先生とともに御出席し、「立正安国の精神」についての講演をされている。会場は福岡スポーツセンターで、二万八千人が参加した。ちなみに、当時の九州のメンバーは、三万五千三百五十四世帯であったと記録されている。
 その時の御講演について述べたいと思ったが、それは後日にさせていただき、きょうは、翌三十三年六月一日の第二回九州総会での話を紹介したい。これにも「師弟の道」ついて話をされている。まことに重要な指針であり、今もって私達の胸に深く刻まれ、残っている。会場は福岡・香椎かしい球場であった。その日、約五万人の友が参加した。
18  この総会は、戸田先生が逝去されて二ヵ月後のことである。そこで、日淳上人は次のように述べられた。
 「戸田先生はどうかと申しますと私の見まする所では、師弟の道に徹底されておられ、師匠と弟子ということの関係が、戸田先生の人生観の規範をなしており、この所を徹底されて、あの深い仏の道を獲得されたのでございます。私はそういうふうに感じております」
 「師を信じ、弟子を導く、この関係、これに徹すれば、ここに仏法を得ることは間違いないのであります。だから法華経神力品において、『是の人仏道に於て決定けつじょうして疑いあることなし』と説かれております。
 この決定して疑いあることなしとは、師弟の道に徹底して、そこから仏法をみてくる時に始めてその境涯に到達するんだとこれが法華の段取りになっております。それを身をもって実行されましたのが戸田会長先生でございます」
 さらに「戸田会長先生ほど初代会長牧口先生のことを考えられたお方はないと思います。親にもまして初代会長に随って来られました。これがきょう皆様方が戸田会長先生によって信仰の眼を開けて頂いたんだと、この師に対する弟子の道を深く考えられましてまいります時に、仏法に、しっかり決定することができるのでございます。
 この初代会長、二代会長を経まして、皆様方の信仰のありかた、また今後の進み方の一切ができ上っているわけです。これを一つ皆様の団結の力で、大いに会長先生の志に報いてやって頂きたいと、ただそれを念願致す次第でございます」(『日淳上人全集 上巻』)と。
 時あたかも、戸田先生が亡くなり、「学会は空中分解するだろう」等々、非難、中傷の厳しき渦中であった。その時に、日淳上人は、学会伝統の「師弟の道」を堂々と、胸を張り歩みゆくよう、私どもに繰り返し、繰り返し教えてくださった。私は、広大なる御慈愛に、今も胸を熱くする。
 同じ年の十一月、第十九回総会でも、「今日この創価学会の方々が、戸田会長先生が師匠として教えられて来られました所を、一歩も踏みずさずに遵奉じゅんぽう(=従い、固く守ること)をして益々ますますその道に邁進まいしんせられようとせられること、このことが真の妙法華経の道を実践躬行きゅうこう(=自から行うこと)することであるのでございます」と。
 さらに、亡くなられた昭和三十四年の「聖教新聞」元日号でも「会長先生の逝去は一度は必ずくることでありまして、それを乗り切って学会を確立するとき、そこに学会の永遠性が招来されるのであります。それが今こそ成就され具体化されたのであります」(前掲書 下巻)と述べられている。
 厳たる「師弟の絆」こそ、学会発展の要諦であり、永遠の興隆と前進への原動力であることを教えてくださったのである。そして、確かな「絆」が初代から二代、二代から三代へと受け継がれ、万代に崩れざる基盤が構築されていくのを、温かく見守り、また守り、見届けてくださった。
 学会は、その後も、「空中分解」どころか、異体同心の団結のもと、隆々たる発展を続けており、さぞお喜びになってくださると私は拝する。
 日淳上人は、亡くなられる前日、小泉理事長と私を呼ばれた。戸田先生をはじめ、私どもを心から信頼してくださった、その御慈愛があって、今日の学会の前進の基盤が築かれたのである。その意味で、日淳上人と戸田先生は、宗門、学会、広宣流布の土台をがっちりと固められたお二人であったと実感されてならない。
19  近年の我が学会を抹殺せんとする狂気の中傷も、そのすべてが、学会の「師弟の絆」を断ち切らんとするものであった。それは、学会に貫かれた人生の「師弟」にこそ、学会の強靭さの要があることを、彼らは知悉していたからである。この「絆」さえ破壊すれば、学会を根底から崩せると考えた。そのポイントを突いて来た彼らの戦術は、邪な奸智とはいえ、まことに巧妙であった。
 しかし、″法華経に勝(まさ)る兵法はなし″である。私どもには、いかなる三類と障魔にも負けぬ、強き「信心」の力があった。無量にして無辺の「信心の力用」によって、この大難を乗り越えることができたのである。
 これからも、″法華経の兵法″たる信心を根本としながら、「師弟の道」を踏み外すことなく、広布の清流を脈々と後世へ伝えていくことこそ、私どもの使命であると申し上げておきたい。
20  百年、二百年後を見すえ後継を育成
 最後に、末法万年への広布の道を磐石に開いておくために、広宣のリーダーのありかたについて、少々論じておきたい。
 江戸幕府を開創した徳川家康は、将軍職を譲ったあと、静岡の駿府城で隠居生活を送っていた。慶長十七年(一六一二年)のこと、七十一歳の彼は、二代将軍・秀忠の夫人、つまり息子の嫁にあてて長文の手紙をしたためた。その内容は、秀忠の子の国松の育て方について、詳しく述べたものである。つまり、家康にとっては孫となる子供の育成について、よく納得できるよう、こまかくさとしたものである。(以下、徳川義宜『徳川家康の教訓』徳川黎明会、参照)
 なぜ家康がこのような手紙を書いたのか。
 秀忠夫人は、兄の竹千代(のちの三代将軍・家光)よりも、弟の国松を溺愛していた。家康は、そのことを深く憂慮していた。
 出発まもない徳川幕府にとって、後継者となる将軍の子息の育成はきわめて大事である。もしその教育を誤ることがあれば、徳川の天下の土台から揺るぎかねない。母親の責任はきわめて重たい。そこで家康は、子どもを樹木にたとえ、諄々じゅんじゅんと説いていく。
 ――木は、若木のうちに添え木をするなど、丹念に手入れをしておけば、まっすぐに伸び、立派な木に育つ。人間も、また同じである。四、五歳からきちんとしつけ、正しい教育をしておけば、優れた人間となる。だが、幼少の時は育ちさえすればよいと、わがまま放題にさせてしまえば、大人になってから急に意見しても、もはや悪いクセがつき、なおせない。
 そして、わがまま放題に育ってしまった場合には、結局、誰からも相手にされず、思い通りの人生を送ることはできない。最後は「身をうらみ天道をうらみ人を恨み、後にはやがて、心乱る」ほかはない――と指摘する。
 不幸なことに、この家康の予言は的中する。国松は長じて、しだいにわがままで、乱暴な振る舞いが目立つようになる。ついには、二十八歳で切腹を命ぜられ、一生を終える。最初はささいな育て方の過ちであった。しかし、長ずるにつれ、それは大きな人間的過誤となり、悲惨な結末となった。まことに、人格形成の基本を決めてしまう幼少期の教育の大切さが痛感されてならない。
21  家康の人物像、また徳川幕府の功罪については、当然、さまざまな評価がある。それはそれとして、家康が死の間際まで、幕府の盤石な基礎固めのために、心を砕きに砕いていたことは事実である。諸大名にくだした十三カ条の制令である「武家諸法度しょはっと」の制定も、死の前年のことであった。
 孫の子育てにまで、細心の注意を払うその姿の中に、徳川十五代二百六十五年間の土台づくりに込められた家康の″創立″の執念をみる思いがする。
 万代の繁栄のためには、後継の人づくりこそ肝要である。また、小事のようであっても、基本の一つ一つを決しておろそかにしてはならない。ゆえに、若き友の育成に全魂で取り組み、″命″を注いでおきたい――これが、今の私の心境である。
 後継の育成を憂慮した家康が、老齢の我が身に鞭打ち、長文の手紙をしたためた心情が、私の胸に響いてきてならない。だからこそ私は、寸暇を惜しみ、青年と対話し、薫陶しながら、言うべきことをきちんと言いのこしているつもりである。
22  若き日の薫陶なくして、時代を動かす逸材となることはできない。偉大な人生には、偉大なる苦労がつきものである。一事をなす人は必ずや、見えないところで、人一倍苦労しているものだ。秀忠の子・国松は、まことに″おそまつ″な生き方しかできなかった。それも、苦労を避け、苦しみから逃げて、労苦という大成への″糧″を、我がものとできなかったからである。
 信心の世界もまた、まったく同じである。大勢に多大な迷惑をかけ、去っていったやからは、みな労苦を避け、自己のエゴの濁流にのまれていった人間である。悲しいことであるが、みな自業自得であるといってよい。
 思えば、かの五老僧も、日興上人が厳然と立たれ、打ち破っておられなければ、大聖人の至尊の教えも、濁流のなかに失われていったにちがいない。
 また、近年の邪信の僧が宗門に残っていたならば、将来の広布にとって、大なる禍根を残してしまっただろう。さらに、山崎某や原島某らが学会にとどまっていたら、純真な会員がどれほど苦しむことになったか。
 いずれにせよ、私どもは信心ですべてに勝ち、乗り越えた。そうした輩は、必ずいつしか清純な信心の世界にはいられなくなり、離れていくものである。ひとつも恐れることはない。
23  家康は、幕府創建にあたり、「小事を大事」としながら、″我が城″を築いていった。
 私どもの運動は、民衆のための、民衆の″天下″を築きゆくものであり、家康とは根本の次元が異なる。が、万代への″広布城″の基礎作りのために、細かな心づかいを重ねつつ、全魂を注いでいくべきは、まったく同じ原理であるといってよい。
 ともあれ、盤石な基盤作りは、人づくりに尽きる。ゆえに私は、百年後、二百年後を目指し、あらゆる手を尽くしながら、後継の青年部、未来部の育成に、一段と力を注ぎ、今後の躍進を期していきたい。
 愛する我が同志、尊き我が同志の皆さま方は、いわば万年にわたる″広宣流布のランナー″である。バトンを受けとる時もあれば、バトンを手渡す時もあろう。ともあれ、走ることをやめてしまえば、もはや″ランナー″とはいえない。走り続けてこそ″ランナー″である。このことを最後に申し上げ、本日のスピーチとさせていただく。

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