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日蓮大聖人・池田大作

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「創価班」「長城会」第2回合同総会 苦闘なき青春に栄光なし

1987.11.2 スピーチ(1987.7〜)(池田大作全集第69巻)

前後
2  ところで、仏法を基調とする″人間の機関紙″の社説(「聖教新聞」昭和六十二年十月六日付)に、「″嫉妬しっと″の世相に思う」との一文があった。
 そこでは、まず「人のよに・すぐれんとするをば賢人・聖人と・をぼしき人人も皆そねみ・ねたむ事に候、いわうや常の人をや」との「四条金吾殿御返事」の一節を拝し、論を進めている。先ごろ、広島大学の学部長殺害の犯人が同じ学部の助手であったとのニュースがあったが、それを聞き、「ふと、この御金言を思い出した」という。
 確かに、「賢人・聖人と・をぼしき人人」、また″エリート″も、人のことをねたみ、そねむ。まして、普通の人であれば、すぐれた人に嫉妬を抱くのは、当然のことかもしれない。
 「現代を『嫉妬の時代』と見立てた人がいる」と社説は述べている。そして「嫉妬の『嫉』も『妬』も、そねみねたむことを意味するが、ともに他人の善事・よきことを、そねみねたむところに特徴がある。他人が成長し、幸せになっていくのを見て、その足を引っ張ろうとする」「立派な人格者や有能な人物を尊敬することを知らず、いたずらに自分と同じ低い境涯に引きずりおろそうとする」「嫉妬の人に共通するのは自信を喪失(そうしつ)していることだ。(中略)そういう人に限ってよく社会や時代が悪いという。自分の外に原因を求める、いわゆる外罰性が強い」と。
 さらに「同じ生きているといっても『生ける生』を生きている人と、『死せる生』を生きている人がいる」といっている。生命力が弱くなってくると、人は次第に「死せる生」へと落ち込み、やがて一部のマスコミと結託する。そして「ありもしないスキャンダル」を捏造ねつぞうする。これが「嫉妬の構造」である、というのである。
 ある著名な記者と懇談した折、彼はこう語っていた。学会は、余りに清らかである。学会は喜びに満ちている。しかも、ますます発展している。学会への非難は、それに対する日本人の小さな心の「やっかみ」「嫉妬」「ヤキモチ」である、と。
 社説は、「嫉妬の時代」といわれる現代にあって、まず自分の心中に巣くう嫉妬の心に支配されることなき、より大きな「勇気」と「慈悲」の人に育っていく以外にないと思うとし、論を終えている。
 諸君は、まずみずからの卑しい心と戦い、克服しながら、堂々と正義の道を進みゆくリーダーであってほしい。
3  広布の「大志」貫く勇者の道を
 諸君は、「将のなかの将」の存在である。が、その責務は、大半が目立たぬ陰の任務である。ゆえに、政治家や有名人のように、マスコミに騒がれ、チヤホヤされることはない。しかし、広布のために身を尽くすその使命は、いかなる立場の人よりも尊く、しかも一時的なものではない。永遠なる広布の大道をつくっている。また人類の平和の道をつくっているのである。
 陰の任務に徹している尊貴な方々は、諸君だけではない。以前、転輪会総会で、″広布の輸送に黙々と励む皆さまに心から感謝したい″と述べた。私は、陰で広布の使命に挺身しているすべての方々に、私は、この席を借りて、あらためて「本当にありがとうございます。ご苦労さま」と申し上げたい。
4  「将の将」たる諸君に、重ねていっておきたい。自分を常に磨き、常に鍛えなければ、将来の大成は決してありえないということを。
5  昭和三十一年、二十八歳の時の日記に、私は、こうしるした。(本全集37巻に収録)
 「自己の修養に、努めねば、大器の将軍になれじ。
  一日一日、信心に依り、行学に励め、しこうして見識の人に進まねばならぬ」
  そして今、なおさら強く、私はこのことを実感せずにはいられない。
 さらに、日記の続きには
 「家康の訓話に、またおもう。
 ″人間の、その一生に三段の変り目あり。よく心得べし。まず十七、八歳の頃は、友人により悪く染ることある。三十歳頃は、物事に慢心出でて、老功者をも、尊敬せぬようになるものだ。四十歳の時分は、物事退屈し、昔を述懐するようになり、心弱くなるべし″」と。
 確かに、人生のツボを心得た家康の言葉である。私どもは、いかなる年齢になっても、偉大なる目標に向かって、人生の坂を上っていかねばならない。
6  さて、正法の道を外れ、退転していった者に共通した傾向として、概して、その夫人もまた信心が薄く、愚かであったといえる。夫人の信心の厚薄、また人間性は、一家の信心に大きく影響を及ぼすものである。
 大聖人は池上兄弟についても、夫人達の信心が一つのカギとなることを見通されていたのであろう。夫人達にもこまごまと指導し、激励されている。とくに弟の宗長は、家督の相続という誘惑もあり、ともすれば動揺しがちであっただけに、夫人にはとりわけ心を砕かれていたことがうかがえる。
 大聖人は、次のように仰せになっている。
 「此度此の尼御前大事の御馬にのせさせ給いて候由承わり候、法にすぎて候御志かな・これは殿はさる事にて女房のはからひか
 すなわち――このたびは、この尼御前を身延に遣わされるにあたって大事な御馬に乗せてくださったとうかがいました。過分の供養だと思います。これは兵衛志ひょうえのさかん(宗長のこと)のお志はいうまでもありませんが、むしろ女房殿のお心づかいであろうかと思います――と。
 ここで、大聖人は、大切にしてきた馬に尼御前を乗せて身延まで遣わせたことに対し、わざわざ″宗長殿の志でもあるだろうが、むしろ女房殿の心づかいであろう″と述べられ、宗長の夫人の信心を賛嘆されている。
 そのあとで大聖人は「悉達太子檀特だんどく山に入り給しには金泥駒きんでいく・帝釈の化身、摩騰迦・竺法蘭の経を漢土に渡せしには十羅刹・化して白馬となり給ふ、此馬も法華経の道なれば百二十年御さかへの後・霊山浄土へ乗り給うべき御馬なり」と記されている。
 ――悉達太子(釈尊の出家前の名前)が出家して、修行のため檀特山に入った時に乗った金泥駒という馬は、帝釈天の化身であった。摩騰迦・竺法蘭という人が、釈尊の経巻を漢土に伝えた時は、十羅刹女が化して白馬となった。と同じように、今、この馬も法華経(御本尊)への道を来たのですから、あなたが大功徳を受け、上品の百二十の長寿を生きたのちに、霊山へ行かれる時、お乗りになる馬となるでしょう――と述べられている。
 宗長夫妻、そして池上兄弟の一層の奮起を促される御本仏の大慈大悲が、惻々そくそくと伝わってくる御文である。門下を思う広大な大聖人の御心を、私どもは深く拝していかねばならない。
 私どもが総本山に参詣するさいには、諸君は、皆を安全に輸送し、運営に万全を期しておられる。同志である尼御前を参詣登山のため、馬に乗せてあげた宗長夫妻にも通ずる尊い姿である、と私はつねに思っている。その諸君の因果の福徳が、生涯にわたり、三世にわたり、燦然と輝くことを確信されたい。
7  青春時代の労苦こそ、「宝」である。
 恩師・戸田先生は、若き日の苦闘時代、渋谷の道玄坂で下駄屋を開かれたことがある。下駄屋といっても、露天商のようなもので、下駄の緒は、戸田先生みずからが、夜なべをして作られた。そうした話を、先生はむしろ自慢気に、よく聞かせてくださった。そして、苦労は決して恥などではない。将来の成長と大成へのステップ台であることを教えてくださった。戸田先生にあっても、若き日の苦境が、大指導者としての骨格を築きあげたわけである。
 青春時代の労苦なくして、真に偉人となった人はいない。「将の将」として大成した人もいない。苦しみとの戦いなくして、人生の栄光はないし、たとえ一時は繁栄しているように見えても、いつしか滅び去ってしまうものだ。この厳粛なる方程式を、諸君は絶対に忘れてはならない。
8  下駄屋を開いたのは、大正十一年(一九二二年)、戸田先生が二十二歳の時である。それまで、牧口先生のもとで本所(現、東京・墨田区)の三笠尋常小学校に勤務していたが、師が芝(同、港区)の白金尋常小学校に転任するとともに退職。その後、目黒で私塾「時習学館」を開くまでの一時期、この下駄屋で生計を立てていた。
 そのころ、戸田先生は、日記(『若き日の手記・獄中記』青娥書房)に次のように記している。
 「そして最後に僕の運命を開いた大なる力は自分であった。行きづまる、もだえる、変転する。(少)時代(=(少)合資会社に勤めた十六歳から十九歳までをさす)からたびたびあったことだ。しかして今またその行きづまりの時代がきたのだ。変転期がきたのだ。もだえもしよう、考えもしよう、苦しみもしよう。当然あるべきことで、何も不思議ではない」
 この時戸田先生はまだ入信してはいない。が、文面から察するに、仏法に相通ずる志向性を、すでに胸中豊かに抱いていたように思える。
 さらに、つづる。
  「我れを支配するものは我れなり、真剣にて我が前途を案ずる者は我れなり。
   我れを知るは我なり、我が意気の所有者は我れなり。
 しかし過去のもだえの時代にも、光明を幾月かの後には間違いなく認めることはできた。(中略)自分はしかし、光明を認めるつもりでやってみなくてはならない。我れを殺す者は我れで、我れを生かす者も我れである」
 そして「学問も一時思いとどまろう。一切を捨てる意気が一切を拾う勇気を与えるに違いない」と。
 また別の日には「男子何の躊躇ちゅうちょかあらん。堅実の計画、確実の方法のもとに、一歩一歩と進まなん」と記している。
 二十代の恩師の精神の高なりが、彷彿ほうふつと伝わってくる一節である。
 多かれ少なかれ、青年の心境とは、こうしたものに違いない。戸田先生もまた、悩み、もだえ、苦しんだ青春であったし、そのなかから大いなる人生の道を開いていったのである。
9  胸中に″王舎の城″の輝き
 昨年のきょうになるが、東京・渋谷区の友に「菊薫り 無量の義をば つつみたる 王舎の城か 渋谷のこの地は」との歌を贈った。この歌を知った渋谷の男子部有志が、さっそく「王舎城」について研究し、「王舎城と渋谷」と題するリポートを届けてくれた。
 私は、敏感に応じてくれた青年達の心がうれしかった。とともに、何事でも、言うべきことをきちんと言っておけば、青年達はそれを必ず受けとめ、何倍にも広げてくれることをしみじみと感じた。その意味でも、私は、今こそ青年達に、さまざまなことを語り、伝えておきたいと強く心に思っている。
10  「王舎城」とは、王舎大城ともいい、古代インドのマカダ国の首都であった。頻婆娑羅びんばしゃら王、阿闍世あじゃせ王父子が都とし、釈尊が説法した場所でもある。付近には私もかつて訪れた霊鷲山がある。また竹林精舎、園精舎、釈尊滅後、第一回の仏典結集を行った七葉窟などがあり、聖地とされている。
 この「王舎城」について、渋谷の男子部の研究では「王舎城と渋谷の類似性」として、次のような点をあげていた。
 一つは、マカダ国の首都である王舎城は、自由の気風がみなぎっていた。そして、地方から多くの民が流入し、活力にあふれた新文化興隆の一大拠点であった。
 渋谷も東京の副都心であり、″若者の街″″文化の街″として、躍動感にみちていると。二つ目として、王舎城には、インドでは珍しい温泉、また冷泉があり、よい水に恵まれていた。
 それに対し渋谷は、と。何か渋谷の宣伝をしているようだが、神泉町には、今も冷泉、涌き水が出ている。また、なじみの深い唱歌「春の小川」は、大正時代の渋谷・代々木あたりの景観を歌ったものである。さらさらと小川の流れる、のどかな田園風景が広がっていたという。
 三つ目として、王舎城は大変に風光明美な地であり、また鉱物資源に恵まれた豊かな国土であった。
 渋谷も、国木田独歩が『武蔵野』を記した地であった。現在でも区の約一割が緑地であり、都内としては、緑に恵まれている地である。また「山の手」の中心地として、高級住宅地もあり、各国の大使館なども多い、と述べている。
 そして、渋谷男子部の心意気として、こうつづっている。
 つまり、王舎城の東北の方角の郊外約三キロのところに、霊鷲山があった。今、渋谷文化会館、国際友好会館の東北の方角の約三キロの地には、学会本部があると。
 物事をどう自分のものとするかは大事であるが、それはそれとして、私は渋谷男子部の心意気に敬意を表したい。
 さらに、王舎城は阿闍世王の外護のもと、仏典結集が行われた地でもある。そうした意義からも、本陣厳護の深き使命を自覚して頑張っていきたいとの決意が記されていた。この青年達の熱い心情を、私は本当にうれしく思った。
11  「王舎城」といえば、大聖人の御書にも、有名な「王舎城事」がある。この御書は、四条金吾が、鎌倉の極楽寺と将軍家の御所が炎上したとの報告をしたことに対する御返事である。
 大聖人は、この中で、「王舎城」が焼けない因縁を述べられ、大果報の人は大火にあうわけがない。極楽寺と御所の火災は、極楽寺良観の謗法の心火が、その原因である、と厳しく仰せになっている。
 ――昔、インドに王舎城という九十万戸をようする大城があった。しかし七度も大火が起こり、万民はこの国から逃げようとした。それを知って嘆く大王に、賢人がいった。七難の一つである大火は、聖人が去り、国王の福運が尽きるときに起こる。だが、今の大火は、万民の家を焼いても、王宮には火はこない。これは王の過失ではなく、万民の過失によるものだ、と。
 そして「(賢人が)されば万民の家を王舎と号せば火神・名にをそれてやくべからずと申せしかば、さるへんもとて王舎城とぞなづけられしかば・それより火災どまりぬ、されば大果報の人をば大火はやかざるなり」と。
 つまり――賢人が、万民の家を「王舎城」と名づければ、火神は、その名に恐れをなして、焼くことはできないと言った。そのようなことがあるかもしれないと思った王は、民の家を王舎城と名づけてみた。すると、それ以来、火災はやんだ。このように、大果報の人を大火は焼かないのである――と言われている。
 すなわち「王舎城」とは、建物のみでなく、その人の境涯をも表しているといってよい。
 さらに、ある仏典には、「王舎城」の因縁話として、次のような話があるので紹介しておきたい。
 ――昔ある所に、好んで人肉を食する国王(食人王)がいた。王は、夜こっそりと人を捕らえ、料理人に調理させて食べていた。やがて、この愚行を知って驚いた臣下が、この「食人王」を国外に追い出し、新たに賢人を探して国王にした。
 ところが、食人王は、追放後十三年して、その体の両側に羽根がはえ、遠い近いに関係なく自在に飛べるようになったので、ふたたび人をつかまえて肉を貪っていた。
 食人王はある日、昔の夢たちがたく山の中にいる樹神に「千人の国王を捕らえてささげますから、自分を国に返し、王位に復帰させていただきたい」と、とんでもない誓願をしました。こうして空を飛んでは王を捕らえ、九百九十九人を数えた。そして最後の一人として、たまたま温泉に来ていた賢い国王を捕らえて、山中に連れて帰ったのである――。
 この食人王の話を聞くとき、私は、現在の″エコノミック・アニマル″と非難される行き方を連想する。みずからの欲望を満たすために、人の血肉を食べていくようなことは、いかなる世界でもあってはならない。地球上のすべての国や人々が、ともに繁栄し、ともどもに幸福な人生を送っていける世界を築いていくのが、仏法の「慈悲」と「平等」の思想であり、私どもの運動なのである。
12  ――そこで、賢い国王は、食人王の恐るべき人身御供の野望を聞かされたが、少しも恐れるようすを見せない。食人王が不審に思い、その理由を聞くと、国王は次のように答えた。
 「人生には死がある。また物は長く置けば置くほど腐るものだ。また会うものはやがて別れる時がくる。だから別に悲しむところはないが、今朝宮城を出る時、道士が自分のためにを説いてくれた。そのために布施を約束したが、それを果たすことのできないのが心残りで、うらみといえば恨みである。王よ、慈悲をもって数日間の猶与を願い度い。布施の約束を果たせば、必ず帰ってくるから」(『仏法説話文学全集6』降文館)
 食人王は七日間の猶予を与えた。
 行方不明だった国王が帰り着くや、国中の人々が胸をなでおろし、喜こんだ。国王は、さっそく倉庫や蔵を解放して遠近の別なく国民に布施を行い、後継の太子を王位につけ、心から人々の労をねぎらったあと決然と別れ、都から食人王のところへもどってくる。
 食人王は山中からそのようそを見ていて、この王はただ者ではない、死地を脱して生きのびたのに、なぜもどってきたのか、いぶかった。
 そこで食人王は国王に問うた。「身命は世人のもっとも愛するものである。しかるに、あなたは命を捨てに来た。これには何か深いわけがあるのであろう。聞かしてもらいたい」(同前)と。
 さっそく、国王は仏道を求める尊さをわからせようと広く教えを説いたところ、食人王は邪な心を入れかえ、清信士となった。そして幽閉していた九百九十九人の王を釈放し、それぞれの国にもどうそうとした。
 ところが、諸王達は、賢王の不屈の信によって命を助けられたことに感謝し、結局、自分の国にもどらず、この国を動かずにいたのである。そこで賢い国王は、とどまった諸王一人ずつに屋敷を建て、食べ物から服装まで公平な遇した。
 周囲の国々からここを訪れた旅人は「どうして一つの国に王舎のような城が多く建っているのか」と聞くので、国の人々は「すべてが諸王の王舎です」と答えた。
 いつしかこの話が遠くまで流布され、以来、ここが「王舎城」と呼ばれるようになった、というのである。
13  少々、長い引用になったが「王舎城」といってもただ一つのものではない。御本尊のまします所は、いずこも霊鷲山であり、尊極の財宝で飾られた王舎城である。
 住む家も、生活の場の価値も、依正不二の法理からみると、そこにいる人の境涯によって決まるといってよい。その意味で、御本尊を信受し、日夜、広布に走りゆく地涌の眷属である諸君の住んでいるところは、いずれの所であれ″広布勇者の城″であり、「王舎城」である。その強き確信をもって、日々の人生を生き抜いていただきたい。
14  同志を守る責務と使命
 次に″広布の指導者″として生きゆく諸君には、どこまでも後輩を、同志を、そして仏子を守り抜く人であっていただきたい。
 これまでも幹部になって退転していった者は、ほとんどが同志のために骨身に及ぶ苦労をしない、自分はできるだけ手を汚さない要領の人間であった。″心哀れ″″心卑怯″″心軽薄″な人間であった。会員のために我が身を惜しまず、労苦の泥と汗にまみれながら戦ってきた、本当の学会精神に立った人は、決して退転をしていない。
15  これまで何度も申し上げてきたが、大聖人は門下の一人一人を、御みずからが矢面に立って守りぬいておられる。
 たとえば四条金吾は、建治三年(一二七七年)、鎌倉の桑ケ谷問答に端を発した讒言ざんげんによって、冤罪えんざいをきせられてしまう。そして主君からは「くだし文」で、法華経への信仰をやめる起請文を書くよう命じられ、そうでなければ所領を没収し、追放すると迫られた。
 この報告を聞かれた大聖人は直ちに、主君の下し文に対して四条金吾が応える形で、御みずから「頼基よりもと陳状」を代筆される。この書状は、『御書全集』で十ページにもわたる長大なもので、事実と道理の上から、四条金吾の立場と行動を釈明し、主君の疑惑を晴らすものであった。
 この陳状に続くお手紙の中で、大聖人は四条金吾に次のように仰せである。
 「これはあげなば事きれなむ・いたう・いそがずとも内内うちを・したため・又ほかの・かつばら彼奴原にも・あまねく・さはがせて・さしいだしたらば若や此の文かまくら内にも・ひろう披露し上へもまいる事もやあるらん、わざはひの幸はこれなり(中略)此の陳状・人ごとに・みるならば彼等がはぢあらわるべし
 ――この陳状を主君に差し出せば、一切、決着がつくでしょう。それほど急がずとも、内内に用意をし、また、ほかの法敵にも騒ぐだけ騒がせて、これを差し出したならば、もしかしたら鎌倉中にこの陳状のことが伝わって、執権のところへ入ることもあるかもしれません。わざわいが転じて幸いとなるというのは、このことです。(中略)この陳状を人々が見るならば、彼らの誤りがはっきりとわかるでしょう――と。
16  苦境の四条金吾に対する大聖人の御振る舞いを拝して、しみじみ思うことは、いざというときに、大確信に立って仏子を守り抜く、勇気ある行動がどれほど大事かということである。この一点がその人の偉大さを決めるといってよい。
 世間に迎合して、みずからの信念を曲げたり、また同志が苦境に立ったとき、巻き込まれるのを恐れ、避けるようでは、真実の指導者とはなりえない。
 また正義を証明するために、真実を叫ぶべきときは堂々と叫びきっていく人が大事である。信心の世界で、逡巡しゅんじゅんや遠慮があってはならない。言うべきことをきちっと言わないと、いつかそのあいまいさが皆に複雑性を残してしまう。そこには、必ずていってよいほど、魔の蠢動しゅんどうの″巣″を作ってしまうからである。
17  「庶民の心」に生きる将たれ
 戸田先生はじつにさまざまな角度から指導者論を展開し、教えてくださった。中国の史書『十八史略』についても勉強するよう、幾度となくすすめられた。またみずから教えてもくださった。
 そこで今日は、学会後継の指導者である諸君に、この『十八史略(上)』(林秀一、明治書院)の中から幾つかのエピソードを紹介しておきたい。ただ原本のみでは、一般には若干難しいかもしれない。そこで、作家で歴史にも造詣の深い陳舜臣ちんしゅんしん氏の『小説 十八史略』(毎日新聞社)からも参考に引かせていただくことにする。
 はじめにしん帝国の末期(紀元前三世紀末)、最初に反乱の戦端を開いた陳勝ちんしょうにふれておきたい。
 彼は若いころ、しがない雇われ農夫であった。ある時、彼は将来の夢を語って仲間にあざ笑われた。その時、彼は「嗚呼ああ燕雀えんじゃくいづくんぞ鴻鵠こうこくの志を知らんや」(前掲、林秀一)と大きくため息をついたという。
 ツバメやスズメ等の小鳥には、オオトリやハクチョウ等の大鳥の志がわかるはずがない。小人物に、自分を超えた器量の人物の大志大望が、どうして理解できようか――との嘆きである。これは本来『荘子』にある話だが、陳勝の名句によって有名になった。
 私どもの目的である広宣流布は、最高の「大志」である。その遠大なる志、純粋にして壮大なる目的観と心意気は、社会の人々には、なかなかわからないであろう。まして濁世にあって、目前の利己的欲望や、過去の既成概念にみずからの目を覆われてしまった人々には、想像すらできないにちがいない。ゆえに諸君は、すべてを悠々と達観しながら、大いなる「鴻鵠の志」を、使命の人生の大空に広げていっていただきたい。
18  陳勝はやがて農民反乱(陳勝・呉広の乱)の指導者として立ち上がった。その時、九百人の農民を前にして行った名演説は有名である。
 「王侯将相おうこうしょうそういずくんぞ種あらんや」(前掲)――王侯、将軍、宰相といっても、生まれつきそうなる人種が決まっているわけではない。皆、同じ人間ではないか。だれでもなれるのだ。われわれも、そうなってみようではないか。
 陳勝の人間としての捨て身の叫びは、聴衆の心を見事にとらえた。
 陳氏の『小説十八史略2』では、この陳勝の名句について、「貧農出身の陳勝は、おそらく正規の教育など受ける機会はなかったであろう。たいした学問はないはずである。それなのに、その時に応じて、名文句を吐くことができた。ひとを感動させる壷を心得ていたのだ。天賦てんぷの才能というべきであろう」と評している。
 また九百の貧しい農民の決起について「みんなその心に不平不満をもっていた。しかし、それがばらばらでは『力』にならない。陳勝はその名演説によって、九百の不平不満をひとつにまとめ、それに火をつけた」と、陳勝の演説の力を高く評価している。
 言葉の力は偉大である。全魂の演説、指導、スピーチが人の心をとらえる時、どれほど素晴らしい可能性を開き、大きな価値を生むか、わからない。ゆえに指導者は一つ一つの話を決しておろそかにしてはならない。
 私も、これまでにも、あらゆる機会に多くの講演、指導等を行ってきた。今、立派な社会人として雄飛している友の中にも、高校時代等、若き日に聞いた指導が成長の″原点″となったと語っている人が数多くいる。
 諸君もまた未来の人である。これからの人材である。将来は、どれほど偉大な指導者となるか、わからない。この中から将来の学会の中心者、また社会のリーダー、世界的活躍をする人物が必ずや出ていくに違いない。また、いざという時、学会のため、広布のために、″あの人ありて″とうたわれる死身の活躍をする勇者が現れることも間違いないであろう。
 ゆえに私は今、青年に対する指導に全力を挙げている。「只今臨終」の決意で、全魂を注いでいるつもりである。
19  さて陳勝らの乱に乗じて兵を挙げた二人の英傑がいた。これまでにも何度かふれた項羽こうう劉邦りゅうほうである。後に漢を建国し初代の皇帝となった劉邦と、天下第一の勇士とうたわれながら最後は四面楚歌におちいり自害するにいたった項羽――。結果のみを見て論じるわけにはいかないが、やはりさまざまな面で二人の相違は大きかった。
 その一つに、指導者として「庶民の心を知る」ことができたかどうかという一点がある。
 秦の首都・咸陽かんようは劉邦によって占領された。しかし彼は財宝等にも手をつけず、人々を安心させ、無血入城というべき穏やかさだった。自然、人々は劉邦を信頼し、項羽の進軍から彼を守ろうとさえした。
 一方、項羽は咸陽を徹底的に破壊した。打倒・秦国を夢み続けた彼にとって、秦の都を廃虚にしてしまわない限り、祖国のを滅ぼされた恨みは晴らせなかった。項羽が都に放った火は、三カ月の間、消えなかったという。
 この項羽の行動に対して、陳氏はこう述べている。
 「楚の名門に生まれた項羽は、自分たちが貴族として君臨していた国の滅亡にこだわりすぎていた。それに反して、劉邦は庶民であるから、肌にかんじる生活の苦しみが、判断の基準になったのである」
 「住んでいるまちを焼かれてしまえば、庶民はたちまちその日から路頭に迷い、家族を養うことができない。――そんな生活感覚では、とてもまちに火をつけることなどできるものではないのだ」(前掲、『小説十八史略2』)と。
 『十八史略』では、項羽の暴虐を見て「秦の民大いに望を失ふ」(前掲、林秀一)と記している。民心は完全に項羽から離れてしまったのである。
 いかなる戦いも庶民の心を失っては敗北する以外にない。かつて中国共産党の紅軍も民衆を守るという一点に徹して勝利を得た。
 庶民ほど大切なものはない。庶民の幸福こそ究極の目的であり、学会の根本精神もここにある。戸田先生も名もなき庶民一人一人を愛し、守り、その幸福を一切の判断の根幹にしておられた。この戸田先生の精神を今日まで貫いたゆえに、学会は一切を乗り越えて勝った。奇跡ともいうべき大発展をした。
 諸君も、この尊き学会精神を立派に継承していただきたい。
20  エリート意識で民衆を見下す指導者ほど、悪すべき存在はない。私どもは断固、そうした権威の指導者と戦っていかねばならない。
 貴族出身の項羽は、みずからのわがままな感情にとらわれて、庶民の犠牲をかえりみなかった。彼は″秦を滅ぼした英雄″という名と形式を最優先させた。
 庶民の「心」を知らず、時代の底流の動きをつかめぬ指導者は、往々にして、悪しき形式主義に陥る。庶民の願いを未来に実現しようとする責任感ではなく、自分の勝手な理想を押しつけようとする虚栄が、行動の原動力になってしまうのである。
 項羽もまたそうであった。彼の「復古主義」も、その一つの表れである。陳氏は書いている。
 「秦をたおしたあとの天下の経倫けいりんについては、項羽はただ、
 ――いにしえにかえす。
 という以外の抱負をもっていなかった。
 新しい体制をつくり出そうという意欲はない。秦が天下を統一する前の、あの群雄割拠ぐんゆうかっきょの状態が、項羽のえがいていた未来像なのだ。創造ではなく、ただの復古にすぎない」(前掲、『小説十八史略2』)
 これでは民衆がついてくるはずがない。逆に私どもは、どこまでも庶民の生活感覚を大切にし、常にそこから発想していかねばならない。そのいき方の中に、未来への創造が生まれ、行き詰まりなき知恵が発現するのである。
21  劉邦の建てた前漢の王朝の中で、「中興の」とたたえられたのは第十代(九代とも)の皇帝・宣帝せんていである。
 彼は祖父が事実無根の謀反の罪に問われたため、一庶民として育った。そのため初代の劉邦と同じく、庶民の生活の知恵を身につけていた。異色の皇帝である。
 彼は形式主義や虚飾を憎んだ。また知識階級の儒者たちが、いたずらに伝統を振りかざしたり、庶民の現実生活と無縁の理論をもてあそぶことを大いに嫌った。
 あるとき、豊かに育った苦労知らずの皇太子が、肝炎的に儒者の登用を訴えたのに対し、宣帝は顔色を変えて断固、退ける。『十八史略(上)』(林秀一)では次のようにいっている。
 「俗儒は時宜じぎに達せずして、好んでいにしえを是とし今を非とし、人をして名実にげんして守る所を知らざらしむ。何ぞ委任するに足らんや」
 形式に堕し、現実を踏まえることなく、ただ古法の復活を願うような儒者を厳しく退けたのである。
 陳氏は、宣帝がたとえば「宮廷のものものしい礼儀作法」を「ばかばかしくてならなかった」としている。「そんなもので飯が食えるか」「人間が生きて行くというのが、どんなことであるか、儒者たちはまるで知らない」と。
 そして「礼儀作法の指南番に高禄を与えるなど、宣帝にとっては、国費の無駄使いとしか思えなかった」とし、現実から遊離した彼らの空言を聞くたびに、宣帝はいらだち「かつて自分のまわりに漂っていた庶民の汗のにおいを思い出す」(前掲、『小説十八史略3』)と描写している。
 宣帝は、飢えに苦しむ貧民の救済を積極的にはかるなど善政をしいた。世にいう「常平倉じょうへいそう」の設置もその一つである。
 陳氏は「漢王朝歴代皇帝のなかで、庶民の生活を経験した宣帝が、人間的にもっともすぐれていたことでもわかるように、苦労した者は鍛え方がちがっているようだ」(同前)と指摘している。
 私が若き諸君に、「苦労をせよ」「みずからを鍛えよ」と繰り返し申し上げるのも、その厳しさにもまれる中にしか、優れた指導者になる道は絶対に無いからである。
 甘やかされた特権階級になってはならない。「庶民の味」「庶民の心」のわからぬリーダーでは、民衆がかわいそうである。広布の前進にあっても、庶民性豊かな、誰もがホッとする指導者の存在が、どれほど大切なことか、銘記したい。
22  人材集う人間的魅力を
 劉邦と項羽の、もう一つの違いは、その人材群の厚みにあった。劉邦のもとには多彩な人材が集った。
 陳氏は「功があれば、かならず賞す。――これが劉邦軍の原則であった」「項羽軍はどうかといえば、すべての手柄は項羽のものだから、功が賞されることはなかったのである。項羽の勢いをみて、彼の下についた者も、けっして心服したわけではなかった」と書いている。ゆえに劉邦のもとでは「いろんな才能をもった人間が、それぞれ得意とするジャンルで、じゅうぶんに腕をふるうことができたのだ」(前掲、『小説十八史略2』)と。
 やはり大切なのは指導者の度量であり、人間的魅力である。一人の力には限りがある。しかし指導者に人材を愛し、功績を公平にたたえる心があれば、人々の力を結集し、無限の力を引き出すことをも可能にするのである。
23  劉邦のもとに集った、こうした人材の一人に有名な張良ちょうりょうがいる。「寂日房御書」など何編かの御書にも登場する人物であり、その名は私どもにも親しみ深い。
 前漢建国の功臣であった彼は、韓の出身で、自国を滅ぼした秦の始皇帝の暗殺を図った。が、失敗し、後に黄石こうせき老人から兵法を学び、劉邦の軍師として活躍した。二人の英雄が相会し、劉邦が項羽にふい打ちされそうになった有名な「鴻門こうもんの会」においては、巧みに劉邦の危機を救っている。
 彼が劉邦と出会う前のことである。陳氏の小説では、師の黄石老人が張良にこう告げる。
 「天下はひろい」「そのひろい天下をうごかすには、人を集めなければならぬ。孟嘗君もうしょうくんや平原君は食客三千と、ずい分人を集めたが、彼らを養う力をもたねばならぬのじゃ」
 「その力とはなにか?人間的魅力と財力である。……ま、そうして人を集めても、これを用いる方法を知らねばならんのだ。戦国の四君は、惜しいかな、人を用いる方法に通じておらなんだ」(前掲、『小説十八史略1』)
 人を集めるだけでは意味がない。一つの目的に向かって、その力を価値的に用いていかねば、時代は動かせない。
 戦国の四君――せいの孟嘗君、信陵しんりょう君、ちょうの平原君、楚の春申しゅんしん君――は人を多く集めても、十分使いこなせなかったから、結局は烏合うごうの衆であった。その過ちを超えて、人材の力を使いこなす道を知り、限りない「人間的魅力」を持った人物こそ、乱世をおさめて新しき世を開く人であろう。――張良は、劉邦こそ、「その人」と見たのである。
24  劉邦の軍師であった張良は、決して短兵急の、あせった戦いはしなかった。ねらうのは、ただ一つ、天下の統一である。むしろ劉邦軍は、項羽軍の追撃から、逃げ続けていたし、一見、負け続けのようにみえた。
 「『連戦連敗……九十九敗して、最後の一勝、決定的な一勝を得ればよいのです』
 張良は繰り返してそう言った。
 九十九敗後の一勝――それをいつも聞かされている将兵は、敗戦しても、挫折感はすくなかった」(前掲、『小説十八史略2』)とある。
 彼は、格好や見えにとらわれなかった。要は「最後に勝つ」ことだ。その一点を見つめて、着実に時をかせぎ、力をたくわえることだ――。どんな苦戦を強いられようとも、決して大局を見失わず、動じなかった。そして将兵たちにも、その信念を訴え続け、「希望」と「確信」を与え続けた。漢帝国の礎を築いた名将とうたわれるゆえんである。
 逆に、連戦連勝に見えた項羽軍は、一向にへこたれない劉邦軍の前に、次第に疲れ、結局は大敗をきっしたことは周知の事実である。
25  劉邦が、この張良と並んで重用した名将に韓信かんしんがいる。
 有名な話がある。すでに皇帝となったある日、劉邦は韓信と雑談をかわし、諸将が何人くらいの兵を統率できるかという話題となった。(以下、会話の部分は前掲『十八史略(上)』)
 諸将をあげつらったあとで、劉邦が聞いた。
 「わしはどれくらいの兵の将となれるだろうか」
 すると韓信は、にべもなく「陛下は、せいぜい十万ぐらいにすぎません」と答えた。
 「じゃあ、お前はどうなんだ」。劉邦が問うと、韓信すかさず「多ければ多いほど、ますますうまく処理することができます(多々益々弁ず)」と。
 これを聞くと劉邦は笑って「多ければ多いほどうまくやれるというならば、どうしてわしのとりこになったのか」と鋭く突いた。
 韓信の答えがふるっている。「陛下は兵に将たるには不向きですが、善く将に将たる器量を備えておられます。これが私が陛下の擒とされた理由です。その上、陛下は世にいう天から授けられて人君となる素晴らしい運勢のお方で、とても人間業ではありません」
 まことに巧みな返答である。よほど頭脳の回転の速い男だったのだろう。ぬけめなく自分を売りこみながら、皇帝を最大限にほめ上げている。また事実、的確な劉邦評であった。
 じつは韓信は項羽のもとから劉邦に走った男だ。その韓信が「漢王(劉邦)は私の言を聴き、私を用いてくれた。私はそむくことはできない」という趣旨の述懐をするが、これは、まさしく人間心理の一つの真実を示している。
 これが戸田先生がよく指導された有名な「卒に将たるは易く将に将たるは難し」の由来である。劉邦のそうした資質の一端は、先に述べた通りである。
26  さて「十八史略」のもととなった中国の正史を、日蓮大聖人も広く読んでおられた。その中の人物の故事などを、御書では縦横に用いておられる。
 本日は時間の都合上、その一人を紹介すれば、春秋時代の人では伍子胥ごししょがいる。
 「種種御振舞御書」には「呉王は伍子胥がいさめを用いず自害をせさせしかば越王勾践の手にかかる」――呉王は伍子胥のいさめを用いず彼を自害させてしまった結果、越王の勾践の手にかかって、滅ぼされた――と。
 すなわち伍子胥は楚の国に生まれたが、父と兄が楚の王に殺されたため、敵国の呉に赴いて宰相となり、楚を破って、仇を討った。
 その後、呉の王に仕えた時のことである。彼は呉王に再三いさめた。「今こそ越を滅ぼさなければ、あとで必ず後悔するでしょう」と。しかし王はそのいさめに全く耳を貸さなかった。それどころか、他の臣下の根も葉もない讒言ざんげんを用いて、彼を自害させてしまった。まことに愚かな王である。
 その後、彼の予言通り、呉は越に攻め滅ぼされてしまった。呉王は伍子胥のいさめを用いなかったことを悔い、恥じながら自殺したという。
 大聖人は、この故事を、正義の主張を受け入れない権力者の末路を述べるために引いておられる。
 いつの世にあっても、権力者の″傲り″は、もっとも国家、社会のためにつくし、貢献している人の真実を見えなくさせてしまう。そのため正義の人を迫害し、ゆえに社会は乱れ、結局、自分で自分の首をしめる愚を犯すのが常である。とりわけ正法の人を迫害した罪は重い。
 鎌倉の幕府も、御本仏の情理をつくした御諌暁ごかんぎょうに耳を貸さず、あまつさえ死罪・流罪という重罪を課したのである。
27  「十八史略」の中には、現代の日本でも使っている言葉の淵源となったエピソードも多い。「共和」制も、その一つである。
 ――中国古代の王朝、周の第十代・厲王れいおうの時代(紀元前九世紀)のことである。王の余りの暴政に、たまりかねた国民が立ち上がり、王は現在の山西省に逃亡した。その後、二人の大臣が協力して、王のいない国を治めること十四年に及んだ。大臣たちが、「ともに和して」政治を行ったので、この体制を「共和」制と呼んだのである。
 学会は「人間共和」の世界である。信心を根本に、みな御本尊の前に平等である。また今後、諸君の時代には、一人のリーダーの力というよりも、ますます皆の力で、皆の意見を大切にしながら、「合議」と「共和」で進んでいく傾向性が強まっていくに違いない。
 私どもの広宣流布の前進も、もっとも道理にかなった、もっとも根本的な社会貢献の大道である。戦後、戸田先生の確信どおり、創価学会の発展と日本の繁栄とが軌を一にして進んだことは、厳然たる事実である。
 諸君は、この深き大確信に立って生涯、いかなる権力の前でも、正義を訴えつづけていける指導者でなくてはならない。
28  そうした将来のために、最後に戒めとして一言申し上げておきたい。
 それは、今後たとえば、自分は社会的地位がある。有名大学を出ている。また自分の付き合っている人々は、いわゆる上流階層である。自分はそういう階層の人から信用がある。あるいは自分はテレビやマスコミで人気がある――等々と言って、自分を特別あつかいにしてほしいとする人が出るかもしれない。
 これだけの大きな学会であるゆえに、そうした人が現れても、ある意味で不思議ではない。しかし、それらは絶対に「信心」とは何の関係もない。学会員は余りにも人がよいために、私はあえて言っておきたい。
 妙法はどこまでも妙法である。信心はどこまでも信心である。広宣流布の精神は、どこまでも広宣流布の精神である。そして学会は妙法と信心の世界であり、広宣流布の団体である。ゆえに信心強盛な人、現実に法を広め、仏子を守り、広布に進んでいる人こそもっとも偉く尊い人である。これが当然の道理である。
 さらに、私のそばにいたから信用ができるという見方も、これまであったかもしれない。しかし、決してそうとは限らない。率直に申し上げて、自分のために私を利用した者も多くいた。私を利用して、人々を信用させながら、陰に隠れてさまざまな悪を犯した人間もいた。また最高幹部でありながら、五老僧と同じように、信心を失い、″あの人がなぜ″といわれるような退転の姿を見せる者もあるかもしれない。しかし、そういう人間は、一切、信用する必要はないし、また信用してはならないと強く申し上げておきたい。
 ともあれ若き諸君は、未来にわたって尊き広宣流布の「将の将」として指揮をとられる方々である。その二十一世紀の大指導者である皆さまの、栄光と健康と長寿を深く強く祈りつつ、本日の記念のスピーチを結ばせていただく。

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