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日蓮大聖人・池田大作

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九州広布三十五周年記念勤行会 希望の航路へ新しき船出

1987.10.20 スピーチ(1987.7〜)(池田大作全集第69巻)

前後
2  世界的な行事であるSGI総会や世界青年平和文化祭を、大成功で成し遂げた皆さま方である。さらに、このすばらしい九州池田講堂も落成し、また信心錬磨の新たな城である福岡研修道場も完成した。
 そして明年二月には「フランス革命とロマン主義展」の福岡展が開催される。指導者として幅広い教養を身につけるためにも、こうした展覧会も鑑賞してほしいと思うが、いずれにしても、世界的な諸行事の大成功や会館等の建設は、九州の同志が大いなる力をつけ、九州広布の大河が豊かに水かさを増してきたことを示す象徴といってよい。
 九州のこれまでの歩みをみると、東京から派遣された幹部が中心となることが多かった。その中には、自分の才能を鼻にかけ、尊大な態度で、皆さま方を広宣流布に鼓舞し、ご苦労をかけておきながら、みずからは退転したり、信心の世界から去っていった者がいる。この宿命ともいえる、悲しくもつらい歴史が九州にはあった。その九州が、世界の模範として、力を発揮し、大きく発展していく時代がきたように私には思えてならない。
3  一昨日の世界青年平和文化祭は、歴史に残る大文化祭であった。
 多くの来賓も感嘆の思いで観覧していたが、とくに印象的だったのは、ドミニカ共和国のジョッティン・クーリー博士である。博士はサントドミンゴ国立自治大学の総長を数年務めた、ドミニカ共和国を代表する知性の人である。
 ロイヤル席で興奮した面持ちで盛んに拍手を送っておられた博士は、「これは壮大な美術である。世界中どこへいっても、これだけ人間性と芸術性と哲学性のレベルの高い文化祭は絶対にない。単なる文化祭という領域をはるかに凌駕した一大芸術美である。ニューヨーク、レニングラード、パリなどでプロのバレエを見てきたが、きょうの文化祭は見る人に与える心の温かさがまるで違う。信じられないほどの美しい人間の荘厳な美である。いくら拍手を送っても送りたりないくらいです」と絶賛されていた。
 またザンビアのボニフェス・ズル大使も「文化祭は全くすばらしいの一言に尽きます。平和をここまで表現し尽くした演技は、他には絶対にない。一国でも、とてもできるものではありません」と、たたえておられた。
 これほどの称賛を受けた文化祭を、九州の皆さま方の力で現実に開催されたという事実。これは九州のもつ力が見事に開花した姿であり、まことにすばらしき九州の発展の一つの証拠といってよい。
4  また文化祭のテーマは「きらめく地球人時代へ――SAIL ON FOR PEACE(平和への船出)」であった。若人達の壮大なロマンが込められたこの表題のように、九州創価学会は、希望の未来へ向け、堂々たる船出をした。
 私は、九州が宿命の鉄鎖を断ち切って、新たな広布の旅路へと出発したことを確かに感じとった。秋谷会長も同じ思いであった。
 九州のすばらしき前進が、ここに開始された。今は、一歩も後に引くことはできない。ここで一歩引けば、三年も、五年も広布の歩みが遅れてしまうにちがいない。ゆえに私は、九州が確実なる飛躍の軌道を誤りなく進んでいけるよう、これからもできる限り応援もし、激励もしていきたいと思っている。
5  九州の新たな出発に当たって、今日の大発展の原動力となってこられた方々を、私どもは決して忘れてはならない。福岡支部初代婦人部長の故・柴田宮子さんもその一人である。また、青年部の基礎と大道をつくった故・川内弘君も、私は絶対に忘れることのできない同志である。二人とも立派な方であり、九州広布の天地に残された偉大な功績は、永遠に輝いていくにちがいない。
 さらに十年前、二十年前は、若々しく、みずみずしく活躍してこられたが、現在は病に臥しておられる方が、何人かいることも知っている。私は、そうした方々の一日も早い回復を念願してやまないし、御本尊に深く祈念させていただいている。
 また、この席を借りて、申し上げておきたいが、日本国の象徴であられる天皇陛下のご容体は、新聞報道によれば、手術後のご経過もよく、順調にご回復されているとのことで、私は、信仰者として、これ以上の喜びはないと思っている。私どもは、限りなきご長寿をお祈り申し上げたい。
6  先ほど紹介した文化祭をたたえたクーリー博士の言葉には、豊かな教養と品格がにじみ出ており、卓越した表現力がある。これらは指導者のもつべき要件であり、これからの時代には特に重要となる。
 我々が仏法を知ることは当然である。信心の行動も当然である。その上で大切なことは、″良識″と″教養″と、幅広い″指導力″がなければならない。この三つをバランスよく、つねに保っていくことによって、広宣流布の見事な指揮がとれることを、絶対に自覚しなければならない。これが、社会のなかに、大きく生きゆく指導者の条件となるからである。
7  また、指導者は、絶対に″ふざけ″があってはならない。ユーモア、明るさと、ふざけとは、根本的に違う。要するに″ふざけ″は、人々を軽視している証左である。
 若き求道の方々は、すべての物事を真剣に受け止めようと、会合に参加している。それを、幹部の″ふざけ″という一点で、せっかく積み上げた指導に″ゼロをかける″ようなことがあっては絶対にならない。それではその人の成長の心を止め、破壊してしまうからだ。
 今まで、成長と発展のない地域には、必ずといってよいほど中心者に″ふざけ″の心があった。九州にあっても、同じてつをふまないよう、とくに幹部の方々はよくよく注意していただきたい。
8  確たる「生命の羅針盤」を胸中に
 話は変わるが、アメリカの思想家にソロー(一八一七〜六二)がいる。ソローは、私が何回となく紹介してきたエマソンの友人であり、インドのマハトマ・ガンジーなどにも多大な影響を与えた人物である。
 このソローも、みずからの「生命」それ自体の探究を志向した一人であり、ある詩人の次のような詩の一節を引いて、呼びかけている。
  君の眼をまっすぐに内部に向けよ、さすれば心のなかに、
  千の地域を見出すであろう、
  まだ発見されなたことのない、そこを旅して、
  自家の宇宙誌の権威者となれ。(『森の生活』富田彬訳、角川文庫)
9  ″生命の世界を旅し、そして自身の宇宙誌の大家となれ″と、ソローは言う。これこそ仏法で説く生命の世界であり、信心の世界である。一流の人の思想は、結局、仏法に通じていくように思われる。それは、表面的な現象と遊びたわむれているような、浅はかな人生態度からは決して見いだされない。物事の奥深い世界を真摯しんしに追究していってこそ、永遠にして広大なる世界を知ることができる。私どもの目指すものは、安易な狭い″人生誌″ではない。生命という広大なる宇宙につづりゆく″幸福への旅路″なのである。
 またソローは「思想の新水路を開発して、自分の中の新大陸、新世界全体を発見するコロンブスとなれ」(同前)と訴えている。
 いわゆる″経済摩擦″の次元とはまったく違う″内なる新世界の発見者″、″新しき思想の開拓者″になれ、というのである。仏法の教えの一分にも通ずるすばらしい言葉である。
 ここでは、いみじくも″心の中の千の地域″と表現されているが、残念ながら「一念三千」の法理にまでは至っていない。また″心を旅したまえ″と呼びかけているが、その確かなる方途は示すことができなかった。
 これに対して、私どもは幸せにも「事の一念三千」の大法を知り、その当体である御本尊を受持することができた。まさに″生命の旅″の最高の羅針盤を抱いて、現実社会のまっただなかで、日々、新しき航路を切り拓きつつ進んでいるのである。これほどの″幸福な人生″を築く道はないことを深く確信していただきたい。
10  ドイツの作曲家メンデルスゾーン(一八〇九年〜四七年)は今も多くのファンを魅了してやまない、著名な大音楽家である。そのロマン主義的な作品で一世を風靡ふうびし、指揮者、ピアノ・オルガン奏者としても名声を博した。
 三十八歳で亡くなったが、その生い立ちは、順風そのものといってよい。祖父は哲学者、父は銀行家であり、富裕にして教養と文化の薫り高い家庭に育った。母親も音楽の素養をもち、その手ほどきを受けたメンデルスゾーンは、音楽への才能をメキメキと伸ばしていく。九歳の時、初めて公衆の前で演奏。また十代で次々と新作を書きあげ、文豪ゲーテも、その彼の才能をこよなく愛したという。
 二十六歳で、ライプチヒの世界最古の楽団「ゲバントハウス・オーケストラ」の指揮者に迎えられた。彼の持てる力は、この楽団をヨーロッパ随一の楽団に成長させ、その誇りと伝統は今日に引き継がれている。
 また、二十歳の時には、バッハ畢生ひっせいの大作「マタイ受難曲」をバッハ死後、初めて演奏。このことが、ほぼ一世紀にわたり忘れられていたバッハの復興の糸口となり、ドイツ音楽へのかけがえのない貢献となったことは、よく知られている。
11  こうして、音楽の歴史に不滅の足跡を残した彼も、その人生の最期は安良かとはいえなかった。
 三十八歳のその年、五月に、音楽上のパートナーともいうべき姉が急死。それが、数年前から悪化していた彼の健康に、深刻な打撃を与える。十月、突如の発作に見舞われ、激しい痙攣と頭痛――。そのとき手の体温を失い、ひどく冷たかったという。
 難解化の発作の後、最後の発作では、完全に意識を失ったが、無意識のなかで体を激しく動かし、するどいうめき声をあげ、一晩中、苦しみを訴えた。
 やがて、しばし意識を回復し、「『うん、疲れたよ、ひどく疲れた』と彼は答えた。これが彼の最後の言葉となった」(クッファーバーグ『メンデルスゾーン家の人々―三代nおユダヤ人―』横溝亮一訳、東京創元社)高血圧による若年性の脳溢血であったらしいが、くわしいことはわからない。
12  メンデルスゾーンには、才知もあった。全欧にとどろく名声もあった。そのうえ、経済的にも恵まれていた。しかし最期は、決して幸せとはいえなかった。
 なぜか。それは、真実の″人生の羅針盤″をもたなかったからである。羅針盤なき旅は、迷走を余儀なくされ、正しい航路を進むことはできない。それでは、絶対の幸福という目的地への軌道を歩むことはできない。
 私どもは、決して有名ではないかもしれない。財力もなく才能もなく、平凡な人間であるかもしれない。だが、「妙法」という確たる″生命の羅針盤″がある。ゆえに、宇宙の大法則にのっとり、最極の幸福と勝利への道を歩むことができる。これ以上の幸せはないし、誉れもない。
 反対にいかなる「世法」も、絶対の幸福軌道を指し示す″海図″となることはできない。ここに「仏法」と「世法」との根本的な違いがある。
 確実にして尊極の″幸福への羅針盤″を手にされた皆さま方である。決して、目先のことにとらわれ一喜一憂する必要はない。一生、三世という次元で、自身を見つめ、磨き、完成への道を進んでいけばよいのである。とくに若き諸君に、この点を強く、申し上げておきたい。
13  永遠に異体同心の九州たれ
 さて「九州人」というと、″熱しやすく、さめやすい″というイメージがある。決して、私が広めている話ではない。が、長年の経験からみて、当たっていないともいいにくい。
 それはそれとして、『人国記』という古書にも、九州人についての興味深い記述がある。
 『人国記』とは、かつて、日本の六十六国・二島の、それぞれの人情・風俗・気質・性格などについて書かれたものである。作者や成立年代は不詳だが、戦国の武将・武田信玄も愛読したといわれる。
 そのなかで、筑前(現在の福岡県北西部)の人々については、次のように記されている。
 「筑前の国の風俗、大体たいてい飾り多くして、人の心十人は十人、皆思い思いに違えり。勇気も一応は勤めぐるといえども。飾りある風俗ゆゑに、終には何事も成就すまじき国風なり」(『人国記・新人国記』浅野k建二校注、岩波文庫)と。
 つまり″筑前では、うわべはとりつくろうが、その心は十人が十人バラバラである。したがって勇気はあるが、団結できず、結局、何事も成就できない″との指摘である。
 かなり厳しい評価ではある。が、九州の方々を見ていて、私も、同じように感ずる場合がある。ある意味では、この指摘を我が戒めとしていくべきかもしれない。
14  しかし、これは、遠い昔の話でもあり、また、作者の偏見もあったかもしれない。
 現に、九州は、今回の世界青年平和文化祭で、見事な団結と調和の美を織りなし、一大イベントを完璧に″成し遂げ″られた。もしも『人国記』の作者が来賓として、この文化祭を見たならば、必ずや偏見をひるがえし、この言葉を取り消すにちがいない、と主張する人もいた。
 が、人間の傾向性はなかなか変わるものではない。それを変えていくことは、本当に難しいことであると思うが、ともあれ、皆さま方は、この文化祭を新たな出発点とし、新生と躍進のスタートを刻まれた。どうか、永遠に「団結の九州」「異体同心の九州」であっていただきたい。
 九州の皆さまは、凛々りんりんたる勇気の方々である。情熱的であり、目的にあたっては″捨て身″となることを恐れない方が多い。それだけに、あとは、異体同心であるか、否か。ここに将来の九州広布の″勝敗″を決する重大なカギがある。
 皆さま方一人一人の人生も、また同様である。「団結」の心なくして、人間としての成長も飛躍もない。うるわしき同志との「絆」なくして、個人の幸せもない。一人一人が立派な「信心即生活」の姿を示しながら、社会での大成の道を歩めるか否かも、「団結」が大切なカギとなっていることを忘れてはならない。
15  日蓮大聖人は弘安三年(一二〇八年)、前の年に夫・阿仏房に先立たれた千日尼への御手紙のなかで、次のように記されている。
 「九界・六道の一切衆生・各各・心心かわれり、譬へば二人・三人・乃至百千人候へども一尺の面の内しちたる人一人もなし、心のにざるゆへに面もにず、まして二人・十人・六道・九界の衆生の心いかんが・かわりて候らむ
 ――九界・六道の迷いの境地にある一切衆生は、おのおの心が異なっている。たとえば二人、三人、ないし百人、千人いても、一尺の顔が本当に似ている人は、一人もいない。心が似ていないから、顔も似ないのである。まして、二人、十人、六道・九界の衆生の心は、いかに異なっていることであろう――と。
 きょう、こうして集い合っている皆さま方も、心のなかは様々である。「おなかがすいた」、「自分はおなかが一杯で満足だ」という人もいよう。早く帰宅したい人、途中で寄り道したい人もいるかもしれない。ともあれ、一人一人も心の内は、様々に異なっている。ゆえに、顔つきも千差万別であるとの御指南である。
 続けて大聖人は「されば花をあいし・月をあいし・きをこのみ・にがきをこのみ・ちいさきをあいし・大なるをあいし・いろいろなり、善をこのみ悪をこのみ・しなじななり、かくのごとく・いろいろに候へども・法華経に入りぬれば唯一人の身一人の心なり」――それゆえ花を愛し、月を愛し、すっぱいものを好み、にがいものを好み、小さいものを愛し、大きいものを愛し、いろいろである。善を好み、悪を好み、様々である。このようにいろいろであるが、法華経に入れば、ただ仏一人の身、仏一人の心であり、すべて一人もかけず、成仏できる――と。
 ここで大聖人は、人の心、そして個性が、すべて異なり、多彩であることは当然であるとされ、そうした現実世界の相違は相違のままで、各人の個性として生かし切っていけるのが妙法である。つまり、それぞれの姿は異なっても、正法を受持するならば、万人が″如来の身″″如来の心″となり、平等に仏界の生命を涌現できると述べられている。
16  次元は異なるが、世界青年平和文化祭でも、五十一カ国の友が、平和へと乱舞し、見事な調和の美をうたいあげた。彼らは、肌の色も違えば言語も異なる。伝統も違うし、風俗・習慣も別である。が、彼らの「心」は一つであった。そこに文化祭の美と感動の源泉があったのではあるまいか。
 いかに人種が異なり、文化が違っていても、平和へ、人類は「心」を一つにして進むことができる。この一つの証明が、規模は小さいながら、凝結した姿として示されたといっても過言ではあるまい。
17  ともあれ、「団結」は、広布への活動の一切の基本であり、鉄則である。「団結」という回転軸なくして、前進の力は生まれない。どんな活動であっても、「心」と「心」が通じあい、強固な信頼の絆さえあれば、その活動は限りなく楽しく、無限の力が出てくる。
 広布の歴史でも、大切な信頼をこわし、友と友の絆を弱めてきたのは、つねに幹部のふざけであり、悪しき行動であった。それが、組織への不信、信仰への疑いとなり、「団結」と「信心」が破られていった。ゆえに皆さま方は、この点に、くれぐれも留意し、広布のリーダーとして真剣と誠実の行動を堅持し、進んでいただきたい。
18  心と心を一つに″広布の城″を
 話は変わるが、私はきのう、東京から来た青年と、福岡城を見学した。
 今年の八月、北海道を訪問した時は、青年達と函館の五稜郭ごりょうかくへ行った。五稜郭は、戊辰戦争における最後の激戦地であり、薩長の新政府軍に対して、榎本武揚の率いる旧幕府軍がたてこもり、戦いを挑んだところである。
 ところで五稜郭は、日本で初の西洋式の城郭として有名である。幕末の一八五七年(安政四年)に着工し、一八六四年(元治一年)に竣工している。
 その名は″五角形の平面をもつ城塞じょうさい″の意であり、設計したのは、伊予大洲藩(愛県大洲市)出身の蘭学者・武田斐三郎あやさぶろうであった。彼は、フランスの築城書のオランダ語訳をたよりに、設計にあたった。
 それにしても、愛県出身者が函館の城を設計したことは、当時の盛んな交流ぶりを示していて興味深い。交流が盛んであればあるほど、文化も社会も発達する。今日、広布の人材の交流も活発であり、東京から九州に来て地域発展の手助けをすることもあれば、その反対もある。その意義も、ここにあることをご理解願いたい。
19  この五稜郭の築城法は、大砲の発達とともに、フランスなどでよく行われた独特のものであったようだ。平地に星形に濠を掘り、その土で土塁を築く。そして、五つの突角部(稜堡りょうほ)に砲座を置く。そして周囲には外堀をめぐらすというものである。
 この稜堡式築城は、日本でも十七世紀のなかごろには、兵法書に登場している。やはり幕末に築造された、長野県南佐久郡の龍岡たつおか城も、これと同型であるという。(『世界大百科事典10』平凡社、参照)
 当時、なぜ、こうした築城が主流となったのか。それは、郭内からの砲撃に″死角がない″からである。この形であれば、攻撃してくる敵に、二重三重に、砲弾を浴びせることができた。
 ″死角を作らない″――これは、活力ある組織を構築するうえでも、大変に重要な視点である。
20  恩師・戸田先生は、つねづね、あらゆる角度から組織のありかたについて話してくださった。この組織と″死角″の問題についても経営論を通じて、次のように指導された。
 「会社を経営するには、銀行のように、大きい一つの部屋で仕事をすることがもっとも大事だ。衝立ついたてや小部屋をつくっていくような仕事場は、かげをつくるような結果を生むから、注意しなくてはいけない。会社員の仕事ぶりを、社長は一望できることが大事である」と。
 広宣流布の組織にあっても、原理は同じである。何となく見えにくい″死角″が生まれ、中心者から見て、見通しが悪い部分があった時には、必ずそこから問題が発生している。ゆえにリーダーは、全体を一望できる″明快″にして″見通し″のよい組織を作ることが大切である。そのためにも、メンバーの意見をよく聞き、全員をよく理解することが肝要となる。
 また″死角″を作る怖さは、組織だけにあるわけではない。人間もまた同じである。
 どこかに不透明な部分をもつ人間、また何か、心の底が知れない人は、リーダーはくれぐれも注意すべきである。
 これまでも、正法を捨て、同志を裏切っていった者には、どこかに見えない、不透明なところがあった。来るべき会合に来なくなったり、話すことが明快でなくなったりして、だんだん、不透明な部分が増すにつれ、信心の後退が始まっていることが多いからである。
 全体が、リーダーの一望のもとに、すべて「妙法流布」へと連動しながら進んでいる――こうしたダイナミックにして明るい広布の組織こそ、前進の組織といえよう。
21  同時にまた、五稜郭は″平城″であることに注目したい。ここにも重要な組織の視点がある。
 私どもの組織は、支部であれ、地区であれ、一つ一つが、大切な″広布の城″である。が、それは、何層にも組み上げられた″そびえ立つ″ようなものではない。皆が同じ次元に立ち、ともどもに経験を積みながら進んでいく、「公平」して「平等」な″平城″である。
 山頂に高く″そびえ立った″山城では、リーダーは結局、下の方が見えなくなり、″死角″を作ることにもなりかねない。大御本尊のもとに、お互がよく見えるような、明るい″広布の城″を、ともどもに構築してまいりたい。
22  「不退」こそ仏法の根本精神
 近年の退転者達も、そうした信心の不透明なやからばかりであった。少しばかりの教学の知識に慢じて、何の地道な実践もない。また口では厳しき「師弟」の道を説き、学会の「正義」を叫びながら結局、みずから問題を起こし、多くの人に多大の迷惑をかける。しかも自分の責任を放棄ほうきし、広布の戦野から卑怯にも逃げ去ったばかりか、そうした自己の正当化のみに汲々きゅうきゅうとしている。
 信心なき彼らの本質については、これまでにも何度か述べてきたが、所詮、彼らはいかに巧みにみずからを飾ろうとも″自分で自分を裏切った人間″である。みずからが主張してきたことを、みずからの行動で裏切った退転者である。この厳たる事実を直視する時、彼らの「言」がいかに信用できないものかは明瞭である。この明らかな道理に照らして、一切を賢明に見ぬいていただきたい。
 先日もふれたように、御本仏の御在世の時代でさえ、三位房らの退転・反逆者が出た。学才に恵まれ、門下の重要な立場につきながら、みずからの小才におぼれ、信心を失って滅びていった輩である。まして今日、そうした同類の人間が出ることも、ある意味でやむを得ない。皆さま方の先輩の中からも、何人か現れたが、すべて御書の仰せ通りであることを確信していだきたい。
23  一方、これとは対照的に、たとえ無学であり、また無名であっても、堂々と「不退の信心」を貫く勇者がいる。そこにこそ学会精神がある。
 大聖人御在世の門下にも、こうした平凡にして偉大なる信仰者がいた。佐渡の流罪の地から、大聖人は一婦人に、次のようにしたため送っておられる。
 まず「日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし」と。
 すなわち、大聖人は第六天の魔王と戦う法華経の行者として、魔軍に対し広布の大兵を起こして二十余年である。その間、一度たりとも「退く心」はなかったとの仰せである。この不転の一念にこそ広布の精神がある。
 そして「しかりと・いえども弟子等・檀那等の中に臆病のもの大体或はをち或は退転の心あり」と続けておられる。
 ――大聖人門下でありながら、出家の弟子の中にも、在家の檀那の中にも、憶病なものは、大体、退転してしまった。あるいは身は墜ちねども、退転の心がある――と。大聖人は、すべて見ぬいておられた。
 その上で「ごぜん御前の一文不通の小心に・いままで・しり退ぞかせ給わぬ事申すばかりなし」と。
 尼御前とは辧殿尼べんどのあま御前のことで、妙一尼と同一人物ともいわれている。彼女は「一文不通」と仰せのように、学問があるわけでもなく、仏法の教理に通じていたわけでもなかった。しかし、今まで何があっても断じて退転しなかった。その姿は言い表せぬほど立派である――と大聖人は称讃されておられる。
 すなわち、どこまでも「信心」が基準である。学問ではない。地位でもない。名誉でも財産でもない。ここに世間の次元とは全く異なる仏法の絶対的な観点がある。
 たとえ、なにがなくとも、正しき信心を貫く人は、必ず永遠の幸福境涯に至る。たとえ、華やかな一切を持っていたとしても、信心なき人はむなしく、暗い境涯である。この厳しき理法を深く銘記していただきたい。
24  また大聖人は窪尼くぼのあま御前のけなげなる信心をたたえて、次のように激励されている。
 婦人ばかりが続くようだが、男性がダメだというわけではない。ただ、いつの世にあっても、もっとも純真にして、愚直なまでに地道な実践を重ねていくのは婦人が多いような気がする。男性の皆さま方も、見ならって奮起すべき点が、多々あると私は思う。
 大聖人は尼御前に、まず「大風の草をなびかし・いかづちの人ををどろかすやうに候、の中にいかにいままで御しんよう信用の候いけるふしぎ不思議さよ」と仰せである。――今の世の中は、三障四魔が激しい。その勢いは、大風が草をなびかし、雷が人を驚かすようである。そのなかにあって、今まで大聖人を変わらず御信用されてきたことは、何と不思議なことか――と。
 そして「ふかければかれず・いづみに玉あれば水たえずと申すやうに・御信心のねのふかく・いさぎよき玉の心のうちに・わたらせ給うか、たうとしたうとし」と。
 ――植物は根が深ければ葉は長く枯れず、泉は玉があれば水が絶えないと言われている。それと同じく、尼御前の信心が常にみずみずしいのも、信心の根が深く、また勇気ある信心の玉が心に輝いているからであろうか。まことに尊いかぎりである――。
25  このように、大聖人は常に「不退の信心」の人をこそ、最大にたたえておられる。潔き信心があるかどうかが、一切の根本なのである。
 戸田先生は、昭和三十二年(一九五七年)二月の本部幹部会の席上、こう指導された。
 「事業家は金をもたなければならない。政治家は権力をもたなければならない。しかし、学会は信心をもって構成し、運営しなければならないというのが、学会の精神であり、私の精神なのです」(『戸田城聖全集 第四巻』)と。
 世の中は、つまるところ「金と権力」かもしれない。しかし学会は「信心」の団体である。信心一途に行くのが根本精神である。これが戸田先生の指導であり遺言である。この峻厳なる学会精神を、いささかも、ゆるがせにしてはならない。
26  正確かつ迅速な情報は力
 次に、「正確な連絡・報告」の大切さにふれておきたい。
 よく「人生はマラソンのようなものだ」という。たしかに、はじめに先頭の方を走っていても、後から抜かれることがある。スタート地点でつまずいても、次第に追い上げ、最後の勝利を得る場合も多い。人生と同じく、長いレースの間に、さまざまなドラマを生み出していく。マラソンの高い人気の秘密の一つも、ここにあると思う。
 このマラソンの起源として有名なのが、「マラトンの戦い」である。
 紀元前四九〇年のペルシャ戦争でのことである。強敵のペルシャ軍が、アテネの北東約四十キロにあるマラトンに上陸した。だたちに出動したアテネ軍と対峙するかたちとなった。そのころ、アテネ市内には、強大なペルシャ帝国と同盟を結ぶ方が有利と考え、ペルシャ軍に内応とする者が出るおそれがあった。
 アテネは、名将ミルティアデスの建議に従い、ペルシャ軍との交戦を始めた。激戦のすえアテネ軍は勝利する。この勝利の報をもたらすために伝令となったのエウクレス(フェイディピデスともいう)はひたすら走りつづけ、群衆に「われら勝てり」と告げて絶命した。
 彼が急いだのには理由がある。アテネではこのとき、交戦派と降伏派とが争い、一触即発の田変な危機にあった。命をかけて伝えた「われら勝てり」の勝利の一報がなければ、収拾のつかない大混乱も予想されたのである。(『世界大百科事典27』平凡社、参照)その意味で、彼の情報には万鈞ばんきんの価値があった。
 いかに迅速・正確な情報が大切か。その教訓を与えてくれるエピソードである。この故事にもとづいて、アテネで開かれた第一回近代オリンピック(一八九六年)では、マラトンの古戦場からアテネ市までの約四十キロの競走を行った。これが現在のマラソンの由来である。
27  何においても大事なことは、瞬間瞬間、どのように先手を打っていくか、その機微を知ることである。後手にまわっては、どんなに力があっても負けである。
 桶狭間おけはざまの合戦で、織田信長が今川義元を急襲し破ることができたのは、一武将から義元の本陣の正確な情報が、時期を誤ることなく迅速に伝えられたことが一つの大きな因であった。そのことは信長自身が、その武将・梁田政綱を勲功の第一としてたたえたことからも明らかである。
 いつの世も「情報は力」である。また、的確な情報は、必ずしもいわゆる専門家や中枢の人々のなかにのみあるのではない。
 織田信長が岐阜の稲葉山城を攻めたとき、抜け道の手引きをしたのは、木こりの息子であった堀尾茂助であったし、逆にまたナポレオンがワーテルローの戦いで負けた一因は、一牧童がプロシア軍に正しい道を教えたことにあったともいわれる。
 日蓮大聖人の「松葉ケ谷法難」の折も、草庵を襲った鎌倉の念仏者達の動きを、いち早く大聖人にお知らせしたのは、門下の一婦人であったとの説がある。こうした真剣な″一人″の働きこそ重要な力なのである。
 その意味で、民衆を味方にするかどうかは戦いの生命線であるとともに、最前線の現実の中にこそ、真実に、生きた情報があることを知るのが、優れたリーダーの要件となろう。
28  まして、現代は情報化時代であり、スピード時代である。″情報戦″が社会の一実相である。この傾向は、ますます強くなつていくに違いない。正確な情報を迅速に手に入れ、入念に検討し、的確な手を素早く打っていく。その積み重ねに、勝利が生まれる。
 学会が、ここまで発展したのも、そうした緻密な″連絡・報告″とスピーディーな″決断・実行″があったからである。この原理は、企業をはじめ、あらゆる組織に通ずる。
 逆にもっとも恐ろしいのは、不正確・不明瞭な情報である。また、あいまいな処理である。
 近年の一連の事件でも、断片的な情報は早くから届いていた。しかし、私が一切の運営等を幹部に委任していた時期でもあり、本部として、それらの情報を総合し果断な処置をとることが遅れた。その遅れた分だけ、問題が広がり、大きくなってしまった面がある。このことを後世への戒めとして申し上げておきたい。
29  信心の幸の大輪を年ごとに
 さて、よく「自分は学会にこれだけ多大な貢献をした」等という人がいる。しかし、こういう人は、たいてい自分自身の宣伝に過ぎない。実際には大したこともしていないのに、自己を過大に宣揚して騒いでいる場合が多い。
 学会員は総じて、みな真面目であるし、人がよい。ゆえに、こうした人々に、だまされてはならないと、あえて申し上げておきたい。私も何度となく善意を裏切られてきた。このような人は、最後はやはり去っていったり、退転したりした人が、事実の上で多い。
 また、いわゆる著名人とか、それなりの社会的地位のある人とか、虚栄の人が「学会は私に何かしてくれるのが当然だ」と言ったり、そういう不平を持ったりし、それが理由で信行を怠る場合も多々ある。しかし、それは全く転倒した考えである。私達が頼んで学会に入ってもらったわけではない。信心をするのも、やめるのも、本人の自由である。むしろ、正しき信行の実践をしようとしないのであれば、かえって迷惑な存在となると言わざるを得ない。
 ともあれ、妙法の絶大な功徳を受けられるかどうかは、自分自身の「一念」の姿勢で決まる。成長するのもしないのも、功徳を受けるのも受けないのも、すべて信心の「一心の妙用」であることを忘れてはならない。
 「道理証文よりも現証にはすぎず」と大聖人は仰せである。まじめな信仰を力強く続けていった人は、長い目で見る時、すべての人々が厳然と幸福を享受している。反対に、策の心と傲慢と要領だけで組織の中を泳いでいるような人は、やがて人々から見放されていく。また清浄な信心の世界から去っていかざるを得ないであろう。
 しかし、御本尊即大宇宙であられる。どういう人が出ようとも、どういう人がいようとも、誰びとも、宇宙の外へ逃げ出ることはできない。ゆえに、いつかまたみずからの過ちに気がつき、反省せざるを得なくなる時がくるに違いない。そして懺悔をしながら、また妙法の世界に帰ってきて、私ども地涌の友を守っていかなければならない時がくるに違いない。これが妙法のリズムであり、絶対の法則だからである。
 ゆえに三世にもわたる長い目で、我々は大きく見ていかなければならない。
30  ともあれ、今、学会は、信心の花が満開である。すがすがしき晴天つづきである。天空の月も、満月である。そして日本全国、世界各国に植えられた妙法の大樹は、その土地に根を盤石に張りめぐらしている。
 これからは一年また一年、年ごとに、偉大なる妙法の花が咲き薫っていくに違いない。皆さまの人生もまた、年ごとに素晴らしき幸の大輪を花開かせていく歩みであっていただきたい。
 最後に今回の諸行事の大成功に対し、重ねて九州のすべての友に感謝申し上げたい。皆さま方のご多幸とご健康を祈りつつ、また青年部の諸君の前途に「大いなる栄光あれ」と申し上げ、本日のスピーチとさせていただく。

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