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日蓮大聖人・池田大作

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第二東京支部長会 二十一世紀へ人間復興の大運動

1987.10.11 スピーチ(1987.7〜)(池田大作全集第69巻)

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1  一九九〇年へみずみずしい信心で前進
 休日にもかかわらず、本日は、遠方からもご参集いただき、心からご苦労さまと申し上げたい。きょうは、日ごろ感じていることを、そのまま懇談的にお話しさせていただきたい。
 支部長、支部婦人部長は、第一線の友にとって、もっとも大切な依怙依託の存在である。ゆえに「あの支部長の信心の励ましで、自分の人生が決まった」「あの婦人部長の真心の激励で、私の″幸福の大道″への歩みが決まった」といわれ、賛嘆される一人一人であっていただきたい。
 私も、青年部当時は、班長も務めた。壮年部では支部長代理にも就いた。一つ一つの役職を全うし、それぞれの立場で全力を尽くしながら、今日まで進んできたつもりである。
 今、おかれた立場で、みずからの使命に全魂を注いでいく――これが、まことの信心であり、幹部としてもっとも大切な姿勢なのである。
2  さて、学会草創の支部長・支部婦人部長として有名なのは、まず、小泉隆さん(=当時、参議会議長、昭和六十三年十一月死去)と白木静子さんではないかと思う。お二人とも、日本一の蒲田支部を作りあげた大功労者であり、学会発展の原動力として、長年にわたり活躍された。水の流れるような信心を堅持され、今もって会員を愛し、広宣流布を願って、真剣に祈念する日々であると聞いている。
 いずれも牧口門下生であり、現在、小泉さんは七十九歳。白木さんは八十三歳。この間、体を痛め、入院したこともあったが、病魔に屈せず、悠々たる「遊楽」の境涯を築かれている。そのかくしゃくたる信心の姿勢は、まことに模範中の模範であり、信仰者のかがみといってよい。
 お二人とも、信心は、すでに五十年に近い。それでいて謙虚であり、その姿は本当に立派である。戸田先生の信頼も抜群であったし、戸田先生が見通し、期待された通りの人生の総仕上げをしている。
 反対に、戸田先生がその信心を危ぶみ、心から信頼できなかった人は、その後、ほとんどが退転の道を歩んだ。今更ながら、恐ろしいまでの戸田先生の″眼力″に敬服している。
3  ところで、人の性格はさまざまであり、それぞれに特徴がある。会員もみな個性豊かであり、決して一様ではない。その点で、戸惑うこともあるかもしれないが、性格というものはそう簡単に変わるものではないし、また多彩な個々人がいるがゆえに、組織としての力も存分に発揮される。
 ゆえに、まず一人一人の「性格」と「個性」を、正確に把握していくことが大切である。そして、その個性が、広布の推進と前進の方向へ向かっていくよう、細かく配慮し、丹念に激励していくことが肝要である。
4  三年後の一九九〇年は、総本山大石寺の開創七百年の佳節にあたる。宗祖日蓮大聖人、また御開山日興上人はじめ歴代上人に心からお喜びいただけるよう、至誠を尽くしていく所存である。
 またこの年は、学会創立六十周年にあたるほか、恩師戸田先生の三十三回忌、私の会長就任三十周年、世界広布開幕三十周年、さらに「聖教新聞」発刊一万号、現学会本部落成二十七周年、聖教新聞社の現社屋落成二十周年等々、数々の意義深い節を刻む。一方、創価大学も開学二十年目を迎え、二十周年の記念行事を行うことになろう。
 こうした一九九〇年の意義については、すでに一九七〇年(昭和四十五年)、日本武道館での十一月度本部幹部会の折、縷々るる申し上げておいた通りである。ちょうど、言論問題の嵐の渦中であり、学会が″矢″のような攻撃を受けていたさなかであった。
 その時すでに、私は、一九九〇年の慶事について一つ一つ言及し、展望しておいた。そしてその展望の上に、一九九〇年の大きな節目を志向し、目標しとながら、一年一年の活動を着実に積み上げ、広布の駒を進めてきたつもりである。また今は、二〇〇三年の立宗七百五十年、二〇〇〇年の学会創立七十周年に向けて、確かな構想のもと、前進の指揮をとっていることを申し上げておきたい。
 ともあれ、いよいよ、数々の佳節を刻む重要な年が目前に迫ってきている。不思議なる節目を迎えるに当たり、皆さま方の一層のご長寿とご健勝、また、我が同志が一段とみずみずしい信心で、人生を飾りゆくよう祈ってやまない。
5  ニーチェも希求した仏法の生命観
 ここで、過日、中野兄弟会総会の席でもふれ、その後、数人から質問も寄せられたので、ドイツの哲学者ニーチェについて、少々、お話ししておきたい。
 フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェは、一八四四年生まれ。そして一九〇〇年に、五十五歳で死去している。ちなみに、死去の年の一九〇〇年(明治三十三年)は、戸田先生が生まれた年でもある。
 詩人でもあったニーチェは、いわば、″十九世紀の思想の山脈にそびえ立つ高峰″である。文学を含む現代思想の全般に多大な影響を与えた、思想の″巨人″といえよう。
 ニーチェの代表作は「ツァラトゥストラ」である。日本では、そう呼ぶことが多いが、正式な書名は「ツァラトゥストラはこう言った」(氷上英廣訳、岩波文庫)などの書名になる「神は死んだ」という衝撃的な言葉でも有名なこの作品は、ニーチェの四十歳ごろの著作である。ちょうど、若き支部長さん方の年代でもあろうか。
 この「ツァラトゥストラ」とは、古代ペルシャの宗教改革者ゾロアスターのことであり、そのドイツ語読みの発音である。この書は、そのツァラトゥストラの説教という形をとっており、ツァラトゥストラは、いわばニーチェの分身であるとともに、ニーチェが志向する理想的存在として登場している。
 ここでは、「神が死んだために、その空白を埋めるものとして、超人は要請されるのである」(同前、〈上〉の解説より)と指摘されているように、伝統的な価値観が崩壊したなかで″人間の卑小さを克服し、新たな価値を創造しゆく「超人」″の理想が述べられ、さらに「神」の存在を否定したうえで、「生」は永遠に繰り返されるとの「永遠回帰」の思想に到達する。そして、未来永劫にわたって回帰する「生」を積極的に肯定し、そのために「価値創造への道をひらく」(同前、解説より)、自由で力強い境地が示されていく。それは、キリスト教の限られた世界観を超え、仏法と相通ずる志向性をもっていたといってよい。
 ニーチェの著作には、他に『人間的な、あまりに人間的な』『善悪の彼岸』『道徳の系譜』『この人を見よ』『よろこばしい知識』などがある。私も何冊かは若き日に親しみ、思索の糧としたものである。
 ″思想による戦闘の人″といわれた彼がめざしたものは、″伝統的な古い価値体系の転換″であった。そして、思想上の使命として″形骸化したキリスト教″と戦うとともに、「生」への否定へと進むヨーロッパ近代文明の退廃を指摘し、精神の空白とともに″卑小化した人間″″群畜″と化した大衆社会を鋭く批判しながら、近代超克の道をさぐった。
6  次元は異なるが、鎌倉時代にあって、日蓮大聖人も生涯、形骸化し、権威と化した既成宗教と戦われた。そして人間を抑圧する権力との戦いを止めることはなかった。
 また我が創価学会も、形式と権威に堕した宗教と戦い、悪しき旧習を打破してきた。既成勢力と妥協することなく、この″悪との戦い″に挺身してきたがゆえに、今日の発展と前進があり、新しい平和と文化の沃野を開くことができた。
 先覚者にさまざまな迫害が起きるのは当然であり、それを恐れ、民衆を抑圧するあらゆる「権威」や「権力」との闘争を避けるようなことがあっては、まことの仏法者とはいえない。
7  ニーチェが生涯をかけて挑んだ問いかけは、「生きるに値する″生″は、どのようにして人間に可能であるか」という点に帰着するといってよい。つまり″真実の価値ある人生を生きるためには、どうすればよいか″という「創造的生」の問題を、真摯しんしに探究し抜いていった。
 その解答を得んがために数々の苦闘を重ねたが、不幸にして晩年は、十年にも及ぶ精神錯乱の果てに、死を迎えざるをえなかった。しかも死後、その思想は、ナチズムによって悪用されるという悲運もあった――。
 こうした歴史を思うにつけ、私は″もしもニーチェが妙法を知っていたら″との思いを禁じえない。
 妙法こそ、真正なる″人間開花″″生命復権″の大法である。ゆえに、既成の価値観が崩れゆく今日にあっても、正法の興隆とともに、数限りない人間蘇生と歓喜の実証が花開いている。あらゆる哲人が果たそうとして果たせなかった人間解放の偉業を、妙法の絶大なる力用によって、私どもは、日々実現しているのである。
 かえって、余りに偉大なる妙法を身近にたもっているために、こうした妙法流布の重大な文明論的意義を見失うようなことがあってはならないと、私は思っている。
8  仏法の真髄について、ニーチェは知るべくもなかった。だが彼は、キリスト教と対比しつつ、仏教を高く評価していた。
 たとえば、「仏教は、もはや『″罪″に対する闘い』などを口にしない。その代り、どこまでも現実というものを認めた上で、『″苦悩″に対する闘い』を言う」(『アンチクリスト』西尾幹二訳、『ニーチェ全集 第四巻』所収、白水社)と述べている。
 西洋の近代文明に深刻な行き詰まりを見て取った″知性″たちは、東洋の英知、とりわけ仏教への関心と志向を深めざるをえなかったようだ。トインビー博士はじめ多くの知識人がそうであった。ニーチェもまた、当時のヨーロッパに流布していた仏教観の域を出なかったが、真実、彼の志向したところは、大乗仏教の真髄たる大聖人の仏法への遠望であったと思えてならない。
9  「一人は万の母」を銘記
 ところで、本来ならばきょうは、愛知県の岡崎を訪問し、第二回岡崎郷土芸術祭に出席の予定であった。
 現地では、この日のために長期にわたり準備を進めており、必ずや本日は、素晴らしい舞台となっていることを確信している。
 今後、岡崎へ二度と行けなくなってはいけないので、一言申し上げておくが、予定を変更したのは、学会本部で慎重に協議・検討した結果であり、さまざまな広布の展望の上から、会長中心に判断し、決定したものである。
 学会においては、あくまで会長、本部を軸に活動を進めていくのが根本であり、名誉会長も例外ではない。安定した広布の前進のためには、絶対に勝手な行動は許されないし、一切の活動は、本部の同意・決定のもとに、推進されていくべきである。このことを、再度、確認しあっておきたい。
10  さて、岡崎のある中部の地に、広布の″第一歩″がしるされたのは、昭和二十七年(一九五二年)八月。十三日の夜、戸田先生が出席され、名古屋で初の座談会が開かれた。その折、入信したのはただ一人。それが、中部広布の″一粒種″となった東松録三郎さんであった。
 戸田先生が大切に育てたこの「一人」から始まって、中部は、今日では数十万の地涌の友が活躍する素晴らしき天地となった。いずこの地であれ、広布は「一人」から始まり、興隆していったことを銘記したい。
 御書には「世間のことわざにも一は万が母といへり」と仰せである。
 「一人」というと、いかにも弱小と思うかもしれない。しかし、「一人」が「万人」を生む「母」なのである。「大海の一たいの水に一切の河の水を納め」との御金言もある。
 真実の大法に出あい、目覚めた「一人」が、勇敢に利他の実践へと躍り出て、「一人」と会い対話する――この「一人」から「一人」へという波動こそ、限りない広布前進への源泉であり、こうした着実な方程式で、永遠に広布の歴史はつづられていくことを絶対に忘れてはならない。
11  「一人」を大切に――これこそ、脈々と受け継がれてきた、学会の伝統精神である。悩める「一人」に光を当て、全魂で対話し激励し抜いていく。とくに若き諸君は、この伝統を決して忘れてはならない。
 ただ大勢の前で華々しく話をするだけで、地道な指導や激励に積極的に行動しないリーダーはけっして本物ではないし、本物にはなれない。もしも、そうした幹部が多くなれば、これは、学会精神の退廃に通ずるであろう。
 組織のなかに権威主義や要領主義をはびこらせては断じてならないし、「一人」への全魂の指導と行動なくして、真の仏道修行はありえないことを、皆さま方は深く銘記されたい。
12  「還用利他」の実践を
 「一人」から「一人」への無限なる「利他」と「対話」の実践。この絶えざる積み重ねと連動に、永遠に広がりゆく広宣流布の方程式がある。
 このことに関連して、少々難しくなるかもしれないが、「還用げんゆう利他の恩」について、論じておきたい。
 これは『法華文句』のなかに仏の十種の恩の一つとして説かれている。
 「還用利他」とは「かえって利他を用う」と読み、″自行より還って利他行に入る″ことを意味する。換言すれば、″衆生がすすんで他の衆生を利益する″ことになる。
 『法華文句』は、天台大師が法華経の文々句々について解釈し講説したのを、弟子の章安大師が筆記したものである。その『法華文句』では、衆生がみずから妙法を信受する「自行」はおろか、他の衆生をも利する「化他」の力用まで具足できることは、仏(世尊)の大恩であるとして、この「還用利他の恩」を仏の十種の恩の第十に配しているわけである。
13  法華経の信解品第四に説かれた「世尊大恩」についての「御義口伝」で、大聖人は、次のように仰せである。
 「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉りて日本国の一切衆生を助けんと思うはあに世尊の大恩に非ずや、章安大師十種の恩を挙げたりしなり
 ――いま、末法において、日蓮およびその門下が南無妙法蓮華経と唱え奉って、日本国の全民衆を救おうとしているのは、世尊(仏)が大恩をほどこす姿ではないか。天台大師の弟子の章安大師は、この大恩について十種に分析している――と。
 そして次に、第一の「慈悲逗物とうもつの恩」から第九の「快得けとく安穏の恩」、第十の「還用利他の恩」へと連なる十恩をあげられている。
 ここで″十種の恩″の一つ一つを、文上・文底に立て分けて説明していくと時間も長くなり、また「御義口伝講義」でも述べているので、その第二から第八までは略させていただく。
14  第一の「慈悲逗物の恩」とは、仏の慈悲が一切の衆生にあまねく及ぶことである。「とう」とは″とどまる″と読み、浸透していくことを表す。「慈悲逗物の恩」を文底から拝すれば、生きとし生けるものに及ぶ大聖人の広大無辺の大慈大悲を示された言葉と拝せよう。
 また第九の「快得安穏の恩」とは、法華経譬喩品第三に説かれる「身意泰然しんいたいねん快得安穏(身意泰然として、快く安穏なることを得たり)の恩」のことである。この文については、春に講義したが、衆生が妙法を信受して心身ともに歓喜に満ちあふれ、安穏な境涯を得られることを、仏の大恩としているわけである。
 そして第十が「還用利他の恩」であり、すなわち、妙法を受持(自行)して歓喜した衆生が、すすんで他の衆生を利益(利他)できるるようになったことの恩である。
 「衆生」が「衆生」を利していく――一見、平凡なようではあるが、ここに妙法弘通の重大な方軌があると、私はみたい。
 つまり、私どもが、歓喜をもって自行化他の実践に励み、広宣流布にまい進していけることは、仏の大恩であり、無上の誉れである。とともに、衆生から衆生、民衆から民衆へという「利他」の流れがなければ、妙法流布といっても広大なうねりとはならないし、したがって広布の躍進と興隆もない。
 すなわち、この衆生から衆生へという「還用利他」の潮流を、いかに確実、かつ広範に拡大していくか。ここに広宣流布の前進のカギがあるといってよい。
15  私ども創価学会は、日蓮大聖人の仏意仏勅のままに、正法弘通にまい進し、かつてない民衆による弘教のうねりを築いてきた。それは、つまり、「還用利他」の流れを、全世界に創出してきた歩みでもあり、ここに学会出現の仏法史的な意義があると思えてならない。
 ″立宗七百年″という節に、「創価学会」が出現し、本格的な行動を開始したことは、まことに不思議である。
 さらには学会は、エゴとエゴがぶつかりあう暗黒の現代にあって、″ヒューマニズムの灯台″″生命の灯台″として、人々の心に希望の明かりをともしている。その意味で、まことに深い文明論的意義をもった存在ともいえよう。
 ともあれ、自行化他に励み、広布を目指す学会の活動に参加できることが、どれほど素晴らしいことであるか。また、どれだけ御仏意に叶ったことであるか。その大切な意義を深く胸に刻み、一段と意気軒高に広布の実践に励んでいきたいものである。
16  創価学会員であればだれ人たりとも、一閻浮提総与の大御本尊の信者である。つまり末法の御本仏の日蓮大聖人の門下である。その人法一箇の大御本尊が、すべての根本である。そして御法主上人のもとに、宗門あっての学会であり、学会あっての宗門であるとの強い絆をつくってきた。ゆえに、僧俗和合は永遠のものでなくてはならない。
 ここ立川の近くには、大宣寺がある。過日、近代的な堂宇が完成し、新築落慶法要が盛大に営まれた。また、学会本部のある新宿の大願寺は、近々、立派に新築される予定である。これ以外にも全国各地で、寺院の建立、改築等が、数多く進んでいる。さらには、総本山大石寺でも、開創七百年の記念事業が着々と進行中である。
 これらすべてが、皆さま方の真心の御供養と実践の結実なのである。ゆえに、皆さま方の大功徳、大福運として返ってくるのである。その誇りと確信をもって、胸を張っての参詣をお願いしたい。
 さまざまな見方があろうが、現在は、既成宗教が大きく発展しにくい時代である。そのなかにあって、我が日蓮正宗創価学会だけが、たえず躍進を続け、発展してきたのは、「僧」と「俗」、「宗門」と「学会」が和合の姿で進んできたからにほかならない。
17  ところが近年、邪悪な僧らの策謀があった。もっともはらのすわった婦人部の皆さまでさえ、寺院へ行くのが、恐ろしく、悲しく、本当に苦しいとの悲痛な声をあげていたのを、当時、数限りなく聞いた。
 本来、慈悲の「法城」であるはずの寺院が、信徒を悩ませ、苦しませる地獄の城となった。その驕慢な僧らは、まさに法盗人といわざるをえない。それが、正宗内に巣くっていた悪侶の実像である。
 ある婦人部の方が「本来、僧は小欲知足であるのに、『布施が少ない、布施が少ない』と強要された。大欲主義の僧であっては、擯斥されるのは当然である」と語っていた。
18  忍耐と慈愛で生命の宮殿を開こう
 さて、四十年前になるが、昭和二十二年(一九四七年)十月の第二回総会の折、戸田先生は次のように話されている。
 「われらは、日蓮大聖人様御図顕の大御本尊様のご威徳、広大なる大聖人様のご慈悲によって、このようなつまらぬ凡身に仏を感応することができる大果報を喜ぶとともに、人々にもこの喜びをわけて、仏の国土を清めなくてはならない」
 「吾人は、仏を感得しうるの大果報人であるとともに、世の中に大確信を伝えなくてはならない」
 私どもは、御本尊の偉大さ、信心の喜びを、大確信をもって人々に伝えていかねばならない。
 また、戸田先生は「されば仏の集まりが学会人であると悟らなくてはならない。迷える人々を、仏のみもと、すなわち御本尊様の御もとに、案内するの集まりである」といわれた。この確信と使命を、私どもは絶対に忘れてはならない。
19  さらに戸田先生は、昭和三十年十二月の本部幹部会の席上、次のような展望を語った。
 「(学会員一人一人に)功徳をうけきった生活をさせてみたい。全世界に向かって、どうだ、この姿は、といわせてもらいたい、と私は思うのであります。
 いまでも大御本尊様にたいして、学会全体の御祈念は申しあげておりますけれども、来年(=昭和三十一年)は、今年にまして、私も真剣に御本尊に取り組もうと思います。一人として功徳をうけない者はない、みな功徳をうけているという、私は御本尊様との(信心の)闘争をいたします。……
 遠く論ずるならば、広宣流布の途上に働くわれわれとしては、東洋のあらゆる大人材を総本山に集合して、東洋の仏法というものは、こういうものだということをわからせたい、と思う。……
 たとえていえば、インドのネール首相にしても、中国の周恩来先生にしても、毛沢東先生にしても、一応、お山にきてもらって、東洋の仏法は、かくあるものだということを、かの大先輩にお知らせ申しあげたいと念願する」
20  戸田先生が、この話をされた三十二年前といえば、海外のメンバーはゼロに等しかった。しかし、今日では世界百十五カ国で妙法の友が活躍している。今年も一週間後に、九州で、海外五十一カ国・地域の友が集い、SGI(創価学会インタナショナル)の第八回総会と世界青年平和文化祭が開催される。
 戸田先生の時代からは、想像もできない世界的発展である。これも、戸田先生が折々に言われた指導や展望を″必ずや実現せん″と決意して実践してきたがゆえである。
 私は、これまで世界各国の指導者と数多く会ってきた。昭和六十一年(一九八五年)十一月二十九日には、インドのラジブ・ガンジー首相と会談した。ご存じのように、私が退院して間もなくのことであった。そのさい「いつの日か、ぜひ総本山大石寺に訪問を」とお話ししたところ、首相も「ぜひ訪問したい」との希望を述べておられた。
 また中国の今は亡き周恩来総理とも会見した。アジアだけでなく、私は世界の各界の指導者と会談を重ねてきた。その理由の一つは、広宣流布のために言われた戸田先生の一言一句も虚妄にすることなく実行したいとの思いからである。
 私の脳裏には、戸田先生のさまざまな指導、話が刻まれている。そして、それをどう実現し、社会へ広げていくかを常に念じ、実践してきた。それが師に対する弟子としての私の務めであり、生き方だと考えている。
21  ところで、皆さまは、支部長、支部婦人部長として、多くの支部員の方々の面倒をみておられる。しかし全員が信心も強く、理解のある人とは限らない。悩みがありながら純粋に信心に励もうとしない人もいる。不平不満ばかり言っている人もいるだろう。皆さまの思い通りに活動しない人も多くいるに違いない。
 そうした人達を、どこまでも粘り強く、指導・激励していくことは、並大抵のことではない。背信の僧や檀徒などにこの苦労がわかるものか、とある幹部がいっていた。まさに、地涌の眷属の使命に生きているがゆえに、また仏の使いとしての自覚があるゆえにできるのである。
 ありとあらゆる境遇の人々を、労をいとわず、時間をさいて指導する人は、社会的地位に関係なく、まことに尊い。御本仏の賛嘆は絶対に間違いないことを確信されたい。
22  御本尊こそ万人の成仏の根本
 そこで、さまざまな境遇の信徒であり、会員であっても、この妙法によって、必ず成仏できることをご指導された御書を拝しておきたい。
 「此の道に入ぬる人にも上中下の三根はあれども同じく一生の内に顕はすなり、上根の人は聞く所にて覚を極めて顕はす、中根の人は若は一日・若は一月・若は一年に顕はすなり、下根の人はびゆく所なくてつまりぬれば一生の内に限りたる事なれば臨終の時に至りて諸のみえつる夢も覚てうつつになりぬるが如く只今までみつる所の生死・妄想の邪思ひがめの理はあと形もなくなりて本覚のうつつの覚にかへりて法界をみれば皆寂光の極楽にて日来賤と思ひし我が此の身が三身即一の本覚の如来にてあるべきなり
 御本尊を信受して、仏道修行に入った人にも、信心の機根に「上」と「中」と「下」の機根の違いがある。しかし機根に違いはあっても、信心を貫いていけば、一生の内には、すべての人が等しく成仏できるのである。
 「上根」の人は、法を聞くや即座に悟りを極めて成仏できる。「中根」の人は、あるいは一日、あるいは一カ月、あるいは一年の内に成仏することができる。
 「下根」の人は、成仏までの時間が延びたとしても、つまるところ、それは一生の内と限られていることであるから、臨終の時にいたったとき、たとえば種々の夢からさめて、現実にかえるように、生死妄想の邪思・邪見が跡形もなく消えて、本覚のうつつの悟りにかえるのである。そのときに、法界、つまり全世界を見渡すとき、すべてが清浄な寂光の世界となり、日ごろいやしい凡夫の身と思っていたこの我が身が、三身即一身の本覚の如来(仏)と、仰せなのである。
 信心の道に入った人は、すべて仏種を心田に植えた人である。その種子をたえまなく育てていけば必ず幸せの花を咲かせ、成仏の実を結んでいく人達である。ゆえに今は十分に信心の活動に励んでいない人であっても、全員が成仏の種子をいただいた仏子であるとの自覚で、一人一人を慈愛と忍耐で粘り強く、指導、激励をしていただきたい。そこに学会の幹部としての根本精神があり、また仏法者としての最大の喜びと誉れがあるのである。
23  この御文に続けて大聖人は、信心によっていかなる人も成仏できることを、稲の実りにたとえて、こう述べられている。
 「秋のいねには早と中と晩との三のいね有れども一年が内に収むるが如く、此れも上中下の差別ある人なれども同じく一生の内に諸仏如来と一体不二に思い合せてあるべき事なり
 ――たとえば秋の稲には、早稲わせ晩稲おくてとその間に実る稲と、実りの時期に三種の違いがあっても、必ず一年の内に収穫ができるように、法華経の行者にも、上中下の機根の差別はあっても、同じく一生涯の内には、三世十方の諸仏と一体不二の身となれることは疑いない――と。
 自行化他の信心を純粋に貫き通した人は、臨終の時までに、一生成仏の確たるあかしが必ずある、との断言であられる。そして、″三世の諸仏と一体不二の身となれる″とは、「始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く」と仰せのごとく、歓喜の中の大歓喜の境涯を会得できるのである。
 臨終にあたって、仏の大歓喜の生命に、我が生命が包まれるということは、人生の最終章における最高の凱歌である。また、信心さえあれば、たとえ短命で人生を終えても、その証は厳然とあることにも通じよう。
 いかに社会的な名声を得、財宝を持っても、それは夢、幻のようなもので、成仏への種子とは絶対になりえない。御本尊への正しき信仰こそ、今生の真の名聞であり、永遠に生命を飾りゆく財宝なのである。
24  また、この成仏の境界について、私見になるが「九識論」の上から次のようにも考えることができよう。
 すべての人々の生命には、本来「九識心王真如の都」という、尊極無比の素晴らしき世界がある。それは「宇宙即我」という次元にまで広がりゆく、力強くも広大な大境界である。
 御本尊に南無しゆくとき、この我が生命が即「九識心王真如の都」と現れることは厳然たる事実である。しかし、この大境界は、なかなか定着しない。それは、現実の日常生活においては「感覚・意識」(六識)、「自我意識」(第七識)という、自己を狭く限定するワクがあるからである。
 しかし、だからこそ、「心地を九識にもち修行をば六識にせよ」との仰せのごとく、六識の次元において信心の実践を貫き通していくとき、まさに臨終に際して、その狭小な自己限定のワクも一切打ち破り、あたかも、雲を突ききれば青空が広がっているように、「九識心王真如の都」が、そのままに現れる。そして、その「我即宇宙」「宇宙即我」という広大にして、力強い、清浄なる大境界が、自身の全生命それ自体となる。
 「本覚のうつつのさとりにかへりて法界をみれば皆寂光の極楽」と仰せのように、その生命は法界すなわち全宇宙を寂光、仏界と感じて、自在に遊戯していける境涯となれるといってよい。
25  大聖人の墓参は家族への最大の激励
 話は変わるが、「減劫御書」の末尾に、大聖人は次のように言われてる。
 「此の大進阿闍梨を故六郎入道殿の御はかへつかわし候、むかし・この法門を聞いて候人人には関東の内ならば我とゆきて其のはかに自我偈よみ候はんと存じて候
 「故六郎入道殿」とは、夫人ともども富士地方一帯に信心の礎を築いた故・高橋六郎兵衛入道のことと考えられる。つまり、富士地方の信心の功労者であった高橋六郎兵衛入道をしのび、その家族へ真心からの激励のお手紙をしたためられたのである。
 ――私(大聖人)の弟子である大進阿闍利を、故・高橋入道殿の墓参へ行かせることにした。私は、古くからこの法門を聞いている方々に対しては、関東の内であるならば、みずから行って、そのお墓で自我偈を読み、追善回向をしてさしあげたい、と思っていた――。
 「しかれども当時のありさまは日蓮かしこ彼処くならば其の日に一国にきこへ・又かまくら鎌倉までもさわぎ候はんか、心ざしある人なりともきたらんところの人人をそれぬべし、いままでとぶらい候はねば聖霊いかにこひしくをはすらんと・をもへば・あるやうもありなん、そのほど・まづ弟子をつかわして御はかに自我偈を・よませまいらせしなり、其の由御心へ候へ」と。
 ――(とくに富士地方は執権・北条時宗の領国であり、その身内の者も多い。そのため)現在の状況では、日蓮が墓参に行ったならば、その日のうちに一国に伝わり、また鎌倉でも騒ぐことでしょう。そうなれば、たとえ信心のある人であっても、私が行った先の人は、人目を心配しなければなるでしょう。それでは、かえって迷惑をかけてしまうかもしれません(ですから、墓参には行きたいけれども、どうしても行くわけにはいかないのです)。しかし、今まで訪れていないので、亡き六郎入道殿が、どれほど恋い慕っておられるかと思うと、じっとしてはいられない気持ちです。何かできることもあるでしょうと考え、それでまず弟子を派遣して、墓前で自我偈を読ませ申し上げることにした。その事情をよくよく了承していただきたいのです――。
26  古くから門下となり、幾多の苦難のなか信心を貫いてきた人達のことを、大聖人がどれほど大切に思われていたことか。広布に活躍してきた「一人」の人をけっして忘れてはおられない。どこまでも大事にされ、真心の激励をされる御慈愛に、私は深く深く胸を打たれるのである。
 しかも「たとえ信心のある人でも、私が行った先の人は、人目を心配しなければならなくなるでしょう」とまで、御心配をされている。たとえ相手がどんなに信心強盛な人であっても、それに甘えて、無理をさせたり、負担をかけるようなことがあってはならない、との御心である。心の機微を的確にとらえられ、相手のことにこまやかに配慮を巡らされての御指南のお姿を、私どもはよくよく拝していきたい。
 ともあれ、指導者は、最大限に相手の立場に配慮して、どこまでも常識豊かに接していくことを忘れてはならない。
 また、次元は違うが、私が会長勇退後、功労者宅の訪問を心がけてきたのも、この御書に述べられた大聖人の御精神を拝してのゆえである。各地には広布に尽くされた多くの功労者がおられる。その方々のお宅を訪れ、ともに唱題し、ともに苦労をたたえあい、激励もして差しあげたいと考えたからである。
 昭和五十四年(一九七九年)の勇退後、功労者宅の訪問は約六百軒に及んでいるが、これからも時間の許す限り訪問をさせていただきたいと念願している。
27  ところで、御書に述べられている「関東」について、少々ふれておきたい。
 「関東」とは、本来、関の東との意味である。中国では函谷関かんこくかんなどの関所より、東の地方のことを「関東」といった。
 日本では奈良時代以来、伊勢国(三重県)の鈴鹿すずか、美濃国(岐阜県)の不破、越前国(福井県)の愛発あらちという三つの関から東の地方を関東(西の地方を関西)と呼んだ。
 その後、このとらえ方には変遷があり、特に徳川家康の江戸入府以降は″箱根の関″の重要度が高まり、「関東」といえば、箱根の関の東をさすようになった。すなわち、現在の関東地方にあたる、相模さがみ(神奈川)、武蔵むさし(東京・埼玉)、安房あわ上総かずさ下総しもうさ(いずれも千葉)、常陸ひたち(茨城)、上野こうずけ(群馬)、下野しもつけ(栃木)の八カ国を総称して、関東というようになったのである。
 大聖人が、御書で仰せの「関東」とは、いわゆる現在の関東地方に加え、高橋六郎入道の墓がある駿河するが(静岡)や、大聖人のおられる身延のある甲斐かい(山梨)なども加えた広い地域と考えることができる。
 また、″亡くなったすべての功労者の墓参をしてあげたい″との大聖人の御心は、当然「関東」に限られたものではない。さらにいえば御在世当時の門下に限られたものでもないとも拝せる。
28  大聖人の墓参は、故人の追善回向とともに、残された家族への最大の激励であったと拝される。
 文永二年(一二六五年)三月、南条時光の父・兵衛七郎が亡くなった。このとき、時光はわずか七歳。しかも、母の胎内には、末子の七郎五郎が残されていた。
 逝去の知らせを聞かれた大聖人は、前年の小松原の法難で、左手を骨折され、右の額に四寸の傷跡が残るほどの刀傷を受けられてまもなく(四カ月後)であられた。にもかかわらず、大聖人は、わざわざ鎌倉から駿河の上野郷まで墓参に足を運ばれている。
 その折のことを、大聖人は次のように述べられている。
 「法華経にて仏にらせ給いて候とうけ給わりて、御はかまいりて候いしなり
 ――故・兵衛七郎殿が、法華経によって成仏されたと承って、はるばる墓参をしたのです――と。
 つまり、正法への信を貫いたゆえに成仏は絶対に間違いない、との御断言である。
 そのうえで、さらに大聖人は次のようにも仰せである。
 「なんでうどの南条殿ひさしき事には候はざりしかども・よろず事にふれて・なつかしき心ありしかば・をろかならずをもひしに・よわひ寿盛んなりしに・はかなかりし事わかかなしかりしかば・わざとかまくら鎌倉より・うちくだかり御はかをば見候いぬ
 ――故・南条殿とは、久しい間の交友ではなかったが、さまざまな事にふれて懐かしく思われ、大事な方と思っておりました。まだ盛んなるよわいであるのに亡くなられてしまい、その別れを悲しく思ったので、わざわざ鎌倉からうち下って御墓に参らせていただいたのです――と。
 時光の父の逝去は、入信してまだ一年ないし四年という短い年月であった。それにもかかわらず、大聖人は、「成仏」は間違いないとされ、その上で亡き人の良き人柄をしのばれ、また家族を思いやられて、その死を深くいたまれている。
29  ここで故・南条兵衛七郎について「人柄の良さ」を言われたのは、「人柄」というものは、信心の純粋性に影響するとみられていたことが拝せる。この御指南を決して見逃してはならないと私は思う。
 「人柄」は、その人のもつ人間性の輝きであり、生き方の基本をなすものといってよい。人柄の悪い人は、一時は成功したようにみえても、結局は人々の信頼を失い、みじめな人生の結末を迎えることが多い。
 その意味で、「人柄」というものは、まことに大切な実相である。特に青年部の若き皆さまは人格をみがき、「人柄」つまり「心根」のよき人として、自身をつくりあげていただきたい。
 さて、故・南条兵衛殿への大聖人の墓参が、残された母と子にとり、大いなる励ましとなっている。その励ましは、一見、「小事」に見えるかもしれない。しかし、その「小事」が、とくに時光にとって、将来の大をなす「因」となったことを知らねばならない。まさに、「小事」は「大事」なのである。
 日亨上人は、この点について「此(大聖人の墓参)等が、また七郎次郎(時光)母子の信仰を発揮させる源泉ともなっていよう」(『南条時光全傳』)と言われているほどである。
30  さて、大聖人は、御自身の墓参より十年後の文永十二年(一二七五年)一月には、日興上人に、時光の父の墓を代参させておられる。ここに日興上人と時光の出会いがあり、後の大石寺創建への深き因縁の絆が結ばれた。
 大聖人は、若武者に成長した十七歳の時光に与えられたとされる「春の祝御書」で、「との殿の法華経の行者うちして御はかにむかわせ給うには、いかうれしかるらん・いかにうれしかるらん」と心から喜ばれている。
 ここで法華経の行者とは、日興上人のことと思われる。つまり、時光殿が、日興上人をご案内して、墓に参られることを、亡き父上はどれほどかうれしく思われているでしょう、どれほどかうれしく思われているでしょう、と。
 信心は、どこまでも「現当二世」で進んでいかねばならない。ゆえに、たとえ家族に先立たれたとしても、残された家族は″遺族″というよりも、″後継者″との自覚を深く持つべきである。信心を継承し、亡くなった人の分までも、希望をもって妙法流布のために生き抜いていく――故人への追善回向をしつつも、そこに″後継″への思いを新たにしていくべきである、と私は思う。
 墓参といっても、世間一般のいわゆる過去に向いたものではなく、三世永遠の生命観に立って、力強く未来を志向していくものでありたいものだ。
31  師の一言を生涯かけて実現した羅什
 次に、はるかなるシルクロードをこえて仏教を伝えた訳経僧の第一人者として、あまりにも有名な「鳩摩羅什くまらじゅう」について、少々ふれておきたい。
 羅什について、私は「東洋学術研究」に、五回にわたって連載(一九八三年〜八五年に『鳩摩羅什を語る』と題して寄稿)しているので、ここでは詳細は割愛させていただくが、大聖人が「羅什一人計りこそ教主釈尊の経文に私の言入れぬ人」と述べられているように、彼はたんに、翻訳技術上、優れた訳文を残したというだけでなく、大乗教学の正統派である竜樹の哲学をふまえ、仏教の真髄を誤りなく中国に伝えたところに、その偉大な功績がある。じつに、鳩摩羅什の名訳があって初めて正しく、法華経・般若経・維摩経などの大乗経典が中国全土に広まっていった。その業績が「絶後光前」とたたえられるゆえんである。
 インドに発祥した仏教がやがて中央アジアへ、中国へ、そして日本へと伝来し、国境を越え、民族の違いを超えるにいたった陰には、この鳩摩羅什のみならず、名も知れぬ多くの求法僧の身を挺した戦いがあった。三千年の時空を超えて、仏教を世界宗教たらしめてきたもの――それは、一人の人間のやむにやまれぬ求道の情熱、弘教への強き一念であったと私は受けとめたい。
 ところで羅什の生涯の原点となったものは、少年時代に師匠からいわれた「法華経は東北の国に縁ふかし、慎んでこれを伝え弘めよ」との一言であった。
 「千日尼御前御返事」に次のような御文がある。
 「仏法・漢土にわたりて二百余年に及んで月氏と漢土との中間に亀茲国と申す国あり、彼の国の内に鳩摩羅えん三蔵と申せし人の御弟子に鳩摩羅什と申せし人・彼の国より月氏に入り・須利耶蘇磨三蔵と申せし人に此の法華経をさづかり給いき、其の経を授けし時の御語に云く此の法華経は東北の国に縁ふかしと云云、此の御語を持ちて月氏より東方・漢土へはわたし給いしなり
 ――仏法が漢土に渡って二百余年に及んで、月氏(インド)と漢土(中国)との中間に亀茲国という国があった。この亀茲国は、西域北道に代表の国で、仏教文化の中心地であった。この国の鳩摩羅炎三蔵という人の子息・鳩摩羅什が、この国より月氏に入り、須利耶蘇摩三蔵という人から、この法華経を授けられた。その時の師・須利耶蘇摩三蔵の言葉に、この法華経は、東北の国に縁が深いとあった。鳩摩羅什は、この師の言葉を持して法華経を月氏より、東方の漢土へ渡した――。
32  ともあれ、羅什にとって、この師・須利耶蘇摩との出会は、その生涯を決定づけるものであった。須利耶蘇摩しゅりやそまは、西域における大乗の論師として著名な人物であった。彼は、少年羅什(十三歳の頃といわれる)に対し、全魂込めて大乗仏法の真髄を伝えていった。
 この原理から、青年部は当然のこととして、後継の「少年部」「中等部」「高等部」の方々がまことに大事となる。我が学会も、広宣流布の未来は、これらの人々に託す以外にない。
 われわれの青年時代に、戸田先生は「東洋広布」「世界広布」といわれた。この言葉は、若き生命に刻みつけられた。それを実現せんとして今日まで奔走してきたことは、皆さま方のご存じの通りである。この方程式は万年に変わらぬことを忘れてはならない。
 法華経の東北への弘通、つまり中国への流布は、青年羅什に託された。このことは、正式の文献に残されており、大聖人も「守護国家論」はじめ諸御書で引用されている。
 すなわち「仏日西山に隠れ遺耀東北を照す茲の典東北の諸国に有縁なり汝慎んで伝弘せよ」と。
 なお、大聖人は御自身の御立場から、この「東北」とは、「日本」を指すと述べられている。
33  師との出会いの後、羅什の生涯は、文字通り、波乱万丈のドラマであった。乱世のゆえに、羅什は三十代後半から五十代という、もっとも仕事のできる年代に、じつに十六年間もなかば囚われの状態に置かれざるをえなかった。
 目ざす「長安の都」を目の前にして足止めされるという運命の試練にも、羅什は、決してくさらなかった。いな、逆境の真っただ中にあって、いつか必ず仏教の正統な流れを中国の地に伝えようとの一念に燃え、黙々と、また黙々と、自己の研鑽と精進を貫き通したのである。
 人生には運命の試練が必ずある。順調のみの人生の中に真の勝利は生まれないし、成功もない。逆境を、また運命の試練をどう乗り越えて、大成していくかである。逆境こそ、成長と前進への最大の道であり、その中にこそ、本当の人生の偉業が成し遂げられることを、とくに若き青年部諸君は忘れてはならない。
34  羅什は、この長くも厳しき時代を乗り越え、長安の都へようやくたどりつくと、蓄えに蓄えた力を一気に爆発させるかのように、猛然たる勢いでただちに翻訳作業を開始した。そして、ライフ・ワークともいえる「法華経」の見事なる漢訳を完成させたのである。少年時代に生命に刻んだ師の言葉を、四十余年の歳月をかけて見事に実現させ、誓いを果たしたのである。
 時に羅什は五十七歳であったといわれている。それは、人生の最終章における勝利の大逆転劇と私はみたい。
 皆さま方も、それぞれの広布をつづりゆくライフ・ワークといえるものをもっていただきたい。私は、私なりのライフ・ワークをもち、その実現に進んでいるつもりである。
 なお、羅什にも、素晴らしき弟子がいた。なかでも僧肇そうじょうは、まだ十代の頃に(一説に十九歳ともいわれる)、当時もっとも苦境にあった羅什を、わざわざ隣国から訪ねて、最初の弟子となった。以来、僧肇は、十年余り、その若い生命をもって、すべて師・羅什三蔵の偉業を助けるために、燃焼し尽くした。これこそ真の弟子の道といってよい。
 彼は労咳ろうがい(肺病)のため、師・羅什の亡きあと、そのあとを追うように早逝そうせいしている。また、羅什とその師・須利耶蘇摩との美しきエピソードも、この孫弟子にあたる僧肇が記録したものである。
 このように仏法は、時代を超え、国境を超え、民族を超えて、この「師弟」という崇高なる絆の中に、脈々と受け継がれていった。広宣流布における学会精神も同じであると確信したい。
35  信心は永遠に若き″青春の心″で
 学会は、これまで若かった。若いがゆえに力があった。希望があった。みずみずしい生命力もあった。その力が難を越え、怒濤を越えて、広宣流布への大道を開いた。風雨があっても、嵐があっても、たくましい生命力で、代償を求めず戦ってきたがゆえに、壮大なる広宣流布の城が出来上がった。
 しかし、私をはじめ、多くの最高幹部は老いてきた。自然に肉体的にも弱くなり、精神的には受け身となる。ともすると、学会のたくましく、力強い前進の足音が弱まっていくことがあるかもしれない。
 だからこそ、私は申し上げておきたい。
 「信心とは、永遠に若き″青春の心″でなくてはならない」と。
 また、きょうは今月度の「高・中・少の日」でもある。その意義を踏まえ、二十一世紀を託しゆく未来部、青年部をさらに大切にし、訓練し、この後継の方々に、見事な素晴らしい広宣流布へのバトンタッチをしゆくことを願って、私のスピーチを終えたい。

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