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日蓮大聖人・池田大作

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関西記念幹部大会 生涯、青年の信仰の炎を

1987.9.25 スピーチ(1987.7〜)(池田大作全集第69巻)

前後
2  歴史こそ、真実の証明者である。そして、時代の核心をうつ一言が、混沌とした生成・流動の世界を雲霧が晴れるように見事に整理し、新しき運動を切り拓くことがあるものだ。
 一九五七年(昭和三十二年)九月八日に発表された、創価学会の平和運動を原点というべき「原水爆禁止宣言」。戸田第二代会長の「遺訓」であるこの宣言の意義も、時とともにその重みを増し、歴史への刻印を確かなものとしている。いな、時代が進むにつれ、ますますその重要性が認められ、証明されていくにちがいない。
 「……核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、今、世界に起こっているが、私はその奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う。……なぜかならば、われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります」(『戸田城聖全集 第四巻』)
 生存の権利をおびやかすものは魔物であるとするこの宣言は、約五万人の青年が参加して行われた第四回東日本体育大会″若人の祭典″の席上、発表された。会場は、横浜の三ツ沢競技場であった。
 ちなみに、ここでは私が号砲を打ち、競技の開始を告げたことが、今も懐かしい。各種競技の熱戦の結果は、男子部が文京支部、また女子部は中野支部が優勝した。残念ながら関西勢の優勝ではなかったが、「東日本大会」であるので、この日は出場していなかった。
 戸田先生の歴史的な宣言は、この閉会式で行われた。それは、まことに短いスピーチであった。その簡潔なスピーチが、後世に輝く画期的な「宣言」となった。
3  アメリカの第十六代大統領リンカーンの、「人民の、人民による、人民のための政治」という言葉は、余りにも有名である。が、これも実は、わずか二分ほどの短いスピーチの結びの一言であった。
 今でこそ、民主主義の根幹を示す演説として、誰もが賛同し、評価するスピーチとなっているが、当時のマスコミのなかには、称讃するものもあった反面、質の低い演説として酷評するものもあったという。あらゆる出来事に風評はつきまとうものだ。しかし、リンカーンの演説は時を経るとともに、不滅の光彩を放った。
 この歴史的な演説は、南北戦争中の一八六三年十一月十九日、ペンシルベニア州のゲティズバーグの丘でなされた。北軍が南軍の北部侵入を防いだ、この激戦の地ゲティズバーグを国有墓地にして、戦没兵士の霊を弔おうという運動が起こり、この日の式典となったのである。(以下、主に本間長世『リンカーン』中公新書)
4  ところで、式典の主催者は、もともと、リンカーンのスピーチを式典のメーン(中心)とは考えていなかった。事実、主賓は、アメリカで最大の雄弁家とされたエドワード・エベレット(ハーバード大学総長、元国務長官)であり、それは二時間にも及ぶ大演説であった。リンカーンの二分間のスピーチは、そのあとで行われた。
 聴衆は、約三万人。皆、立ったまま聞いていたが、なかには、エベレットの長時間の演説に耐えきれず、帰ってしまった人もいた。
 それと比べ、リンカーンの演説は、まことに簡潔であった。しかも、カメラマン達たちがレンズの焦点を合わせている間にスピーチが終ってしまったという。それほど短い時間でありながら、そのスピーチは、「ジェファーソンの独立宣言とともに、アメリカの政治文書の双璧」(前掲、本間長世)とたたえられ、語り継がれている。
 スピーチの良し悪しは、その長短で決まるものでは決してない。
 そのことは、私どもの指導やあらゆるスピーチにもあてはまる。当然、長時間の指導・激励が必要な場合もある。しかし、ただ長ければよいというものではない。要するに、時と場所を考え、参加者の″感情″や″機根″を鋭く見抜き、その時々に判断していかねばならない。皆さま方はつねに、この点を踏まえ、鋭く見極めゆく賢明なリーダーであっていただきたい。
5  さて、約二カ月前に依頼を受け、準備も万全であったエベレットにくらべ、リンカーンに依頼があったのは、式典のわずか約二週間前であった。
 しかし、リンカーンは、激務のなか、いささかも手を抜かずスピーチの原稿を用意した。その間、子息が熱を出し、ひと騒動起こるなど、現実は極めて煩雑はんざつであった。そのさなか、彼は見事な演説を構想し、立派になしとげ、歴史に確かな足跡を刻んだ。当時、彼は五十四歳。暗殺される二年前のことであった。
6  恩師・戸田先生の「原水爆禁止宣言」は、逝去の約半年前のことであった。そのころ、先生のお体はかなり衰弱していた。が、戸田先生は勇敢に広布の指揮を執られ、そのさなかでの宣言は、次代を託す青年達への渾身の叫びであった。
 私自身、恩師と同じく無実の罪で投獄され、獄中生活を味わった直後でもあり、戦争を憎み、その魔性を見抜いておられた恩師の心境がひときわ痛感されてならなかった。
 そのころの日記(昭和三十二年九月二十五日)に、私は、次のように記した。
 「出獄して――二カ月余。貴重なる体験を、沁々しみじみと、味わう昨今。いつの日か……このことを、未来に残さんと思う」(本全集37巻に収録)――。
 まさにこの時代の闇を切り裂くがごとき一言を命に刻み、平和に向けて、世界へ、世紀へと走ってきた三十年間であった。
7  リンカーンのゲチズバーグの演説は、今日、世界でもっとも短く、しかももっとも素晴らしいスピーチとして知られている。
 その日の聴衆も、惜しみない大拍手と大歓声で、演説への感動を表した。多くの心ある識者も、激賞した。たしかに、この演説は、完結で、言葉がこまかく吟味され、独立宣言の「すべての人は平等につくられている」ということから始まり、アメリカ合衆国へ生ある一人一人が献身すべきことと、その高き理念がきわめて明快に述べられている。
 エベレット自身も、後日、リンカーンへの手紙のなかで、「あの場における小生の二時間の演説が、閣下の二分間のお話の要諦に迫るものであったと自負できるなら、まことに光栄です」と、謙虚につづっている。
 エベレットは、自分でも、アメリカ随一の雄弁家であるとの誇りをもっていたに違いない。それでも、素直に、リンカーンのスピーチの素晴らしさを認めざるをえなかった。それほど、人格が光る、思想性にあふれたものであった。
 「後生おそるべし」との格言もある。今後、私や壇上の幹部をしのぐ優秀な逸材が、この席から陸続と生まれて来るであろう。またその出現を、私は心から期待している。その時に、先輩の方々は謙虚に、その青年の優秀さを認め、たたえていける一人一人でありたいものだ。
8  真心の言葉こそ真実の雄弁
 言葉の力は大きいものだ。それは演説にかぎらない。小さな集いや日常の会話であっても同じことであろう。また話の優劣は、表面的な上手、下手で評価されるものではない。
 たとえ話がうまくなくても、多くの人に信頼され、尊敬されているリーダーは、たくさんいる。反対に、いかに弁舌さわやかでも、いつの間にか周囲の信頼を失っていく者もいる。
 要するに、人の胸を打ち、納得させていくのは、言葉に何がこめられているかという点があろう。相手を「思いやる心」と「誠実」、そして「高き精神」こそ肝要であり、その人格や人間性が明快な倫理となって表れて相手の心を動かし、社会を動かしていくのである。
 広布の第一線にあって、日夜、同志の激励に奮闘されている皆さま方も、むしろ雄弁の人は少ないかもしれない。しかし、皆さまの力により、どれだけの人が奮起し、苦しみから立ち上がることが出来たか。その数は計り知れないであろう。真心の言葉が、相手の胸の奥深くに分け入り、その人の人生を蘇生させる決定的な力となるのである。
 その言々句々は、まさにリンカーンの演説に勝るとも劣らぬ偉大なスピーチであり、人間覚醒への先駆の″演説″となっていることを、私は確信してやまない。
9  アメリカ随一の雄弁家エベレットも名スピーチと認めざるをえなかった、ゲチズバーグの演説。しかし、先述したように、それを酷評する向きがあったことも事実である。
 たとえば、イギリスの新聞反響として――「ロンドン・タイムズさえ、『じつになっていない話であった。あれが大統領のスピーチとは、お粗末なものである』と……」(前掲、石井満)こう演説をこきおろした。
 しかし、どちらの見識が正しかったか。百年後の今日、それは、余りにも明白である。
10  前後が欠落した断間ではあるが、「破信堕悪はしんだあく御書」という御抄がある。そこで大聖人は、次のように仰せである。
 「かたきををく・かたきは・つよく、かたうど方人は・こわくして・しま為負け候へば悪心ををこして・かへつて法華経の信心をも・やぶり悪道にをち候なり、しきところをば・ついしさ退りてあるべし、釈迦仏は三十二相そなわつて身は金色・面は満月のごとし、しかれども或は悪人はすみる・或は悪人ははいとみる・或は悪人はかたきとみる」。
 つまり――敵は大勢で、強く、味方は厳しくてついていけないので、悪心を起こして、かえって信心を破り、悪道に堕ちてしまう。人間は、悪い状況では、つい避けようとするものである。釈迦仏は三十二相が備わっていて、身は金色に輝き、顔は満月のようである。しかし、その釈尊を、ある悪人は炭と見、あるいは灰と見る。ある悪人は敵と見るのである――と。
11  これは、退転者の濁った生命の本質を、鋭く示された御文であると拝する。
 順調な時は信心に励むが、ひとたび逆境となり強敵が現れると、臆して、信心の世界から遠ざかる。そして信心の堕落が始まり、清浄なる「信心即生活」の信仰についていけなくなり、みずから「悪心ををこして」去っていく。そればかりか、みずからを正当化し、かえって正法に敵対さえする。
 そのような悪人になり下がった人間たちには、どのような正義の言動も、正義と見ることは出来ない。みずからの心が濁り、ゆがんでしまっているからである。そうした悪人には、色相荘厳の仏ですら、みすぼらしく見え、あるいは敵に思える、と指摘されている。
 いわんや私どもは、凡夫である。彼らの卑しい心に、どう見えるかは想像もできない。しかし、それらは、いわば、ゆがんだ心のスクリーンに映った虚像にすぎない。ゆがんだ心に実像が正しく映るわけがない。
 また、いいかえれば、狂った悪人の胸中とは、嵐が吹き荒れ、陽光が差すこともない、暗く、わびしい世界のようなものだ。たとえ風がやみ、夜となっても雲と霧に覆われ、美しい満月を見ることも出来ない。太陽の光も、月光も、この胸中の世界に届くことはない。すなわち、胸中の世界が、そのまま、その人の見る宇宙であり、生きる世界なのである。
 ゆえに、邪心の者に、いかに悪口されようとも、いささかも歯牙しがにかける必要はない。退転の徒の言々に、決して紛動されてはならない。堂々と信心の王道を歩んでいけばよいのである。
12  ″師弟の道″を踏みはした三位房
 さて、先日、第二回中部総会で、三位房さんみぼうについて少々ふれた。その際、彼については、後日くわしくお話ししたいと申し上げたので、さっそく約束を果たさせていただくことにしたい。
 いうまでもなく、三位房は日蓮大聖人御在世当時の優秀な弟子の一人であった。しかし、最後は仏法の″師弟の道″を踏みはずし、退転・反逆してしまった。
 ″師弟の道″は、仏法の世界に限るものではない。学問、芸術等の世界においても、一流の人物の多くは、やはりそれなりの師弟の道を貫いている。これは、これまでにも何度も申し上げた通りである。いずこの世界であっても、大成するためには、師弟の道を全うする以外にない。
 いわんや深遠なる仏法の世界での修行に、厳粛なる師弟の道があることは当然である。それにもかかわらず、なぜ三位房は、この根本の軌道をはずれていってしまったのか。
 その経緯は、現在そして未来にわたる、私どもにとっての重大な教訓である。
 そこで本日は、御書を拝し、その史実の要点を明らかにしておきたい。御書には三世に通ずる永遠の法理が、したためられている。その言々句々は、現在に生き、未来に脈動しゆく、広宣流布への不変の御指南である。また「一念三千」の法理にもとづき、人間生命の本質が、あますところなく説き明かされている。
 ゆえに、御書を単なる知識として、また現代とかけ離れた過去の物語等として拝するのは誤りである。三位房等の退転の構図にしても、今に変わらぬ人間模様が、また未来も同様であろう人間心理のドラマが、明確に示されている。
13  三位房は、下総国しもうさのくに(現在の千葉県北部および茨城県の一部)の出身とされる。生い立ちなどについては、確かなことはわかっていない。ただ才知にあふれ、弁舌にも優れた人物であったことは間違いない。若くして比叡に遊学もしている。わかりやすく現在でいえば、東大、京大などの有名大学を卒業したエリートで、社会的知名度が高く、社会的人気のある存在であったといってよい。
 しかも竜の口の法難の折には、みずからもくびねられる覚悟で、刑場まで大聖人にお供した一人である。さらに大聖人の佐渡御流罪中も、鎌倉にあって、門下の中心の一人として留守を守った。大聖人が身延に入山されてからは、大聖人のもとで修学に励むとともに、安房あわ(千葉県)、鎌倉(神奈川県)、松野(静岡県)、賀島(同)など、各地を転教し、折伏・弘教に励んでいる。
 問答に優れた三位房を、大聖人は諸宗との法論対決の代表に選んでさえおられる。いわば教学担当の主任であり、″問答部長″である。それほど大聖人の期待は大きく、慈愛をもって大切に育成しておられた。
 先日、申し上げた通り、桑ケ谷くわがやつ問答では、天台僧とされる竜象房を、完璧に論破している。竜象房は当時、″釈尊の再来″とまで仰がれた人物である。その有名人を公衆の面前で見事に破折したのだから、三位房の名声も鎌倉中に広まったのは当然である。まことに華々しい活躍の姿であった。
14  このように三位房は、大聖人門下の俊英であり、時とともに、一門の重鎮として、重きをなすにいたった。現在でいえば、副会長級の最高幹部の存在である。しかし、桑ケ谷問答の翌年、弘安元年(一二七八年)より始まった熱原法難のころ、退転し、大聖人に師敵対してしまった。門下の人々にとって、まことに衝撃的な事件だったといえよう。
 事情のわからない人達は、「あのような立派な指導者、また功労者が、なぜ退転し、反逆してしまったのか」と驚き、不思議に思ったにちがいない。しかし、三位房のことを実際に深く知っている人は、少しも驚かなかった。むしろ「ああ、やっぱり。彼が、とうとう本性を現したな」と納得した。その一人が四条金吾である。
 金吾は、三位房と一緒に弘教等に戦ったことがあり、その人物を身近によく知っていた。そこで三位房の言動に、何か不純なものを感じとったのであろう。その点について、ふだんから人に話していたと考えられる。
 大聖人は弘安元年九月の金吾への御手紙で「三位房が事……此の事はあたか符契ふけい符契ふけいと申しあひて候」と称賛されている。
 三位房について、金吾が常日ごろから言っていたことが、この退転によって、まさに現実となった。その的中は、あたかも割符わりふを合わせたようである。割符とは、当時の為替かわせ手形で、証印を一つの木片の中央に押し、二つに割ったものである。その二つをぴったり合わせたように、金吾の心配が当たったので、人々はしきりに感心している、との仰せである。
 このように、華やかな活躍の陰にある三位房の真実の心根、性根というものを、知る人はみな知っていた。
 彼の生命の悪しき傾向性を、もっとも深く見ぬき、誰よりも憂慮しておられたのは、いうまでもなく師の大聖人であられた。
 大聖人は、何とか彼の優れた才能や学識を生かし、大成させてあげたいと願っておられた。また使命の道を全うさせてあげたいと念じておられた。その御心からであろう、三位房に対し、早くから繰り返し、厳愛の御指導をなされている。
15  信心の堕落は″慢″と″虚栄″の心から
 三位房の重大な欠点、それは″慢″の心であり、また世間的な権威に弱い″虚栄″の心であった。
 三位房が比叡山に遊学した折のことである。京都にのぼった彼は、ある貴族に招かれ、その持仏堂で説法した。そのことを彼は得意になって大聖人に御報告した。これに対し、大聖人が「法門申さるべき様の事」の中で、次のように厳しく訓戒されたことは有名である。その御文については、かつて私も講義したことがあり、ここではかんたんに紹介しておきたい。
 まず「御持仏堂にて法門申したりしが面目なんどかかれて候事・かへすがへす不思議にをぼへ候」と。
 貴族の持仏堂で説法したことを「面目をほどこした」などと、三位房は書いているが、返すがえす不思議なことである。全くおかしなことを言っている、との叱咤である。
 また「日本秋津嶋は四州の輪王の所従にも及ばず・但嶋の長なるべし」と仰せである。すなわち日本国の王といっても、四方の全世界を治める転輪王の家来にも及ばない。ただ、小さな島の長にすぎないと。
 その四州といっても、宇宙から見れば、ほんのわずかな領域である。まして日本国の″島の長″など、御本仏の全宇宙を包みこむ御境界から見れば、まことに小さな存在にすぎない、と。
 ゆえに大聖人は「長なんどにつかへん者どもに召されたり上なんどかく上・面目なんど申すは・かたがたせんずるところ日蓮をいやしみてかけるか」と、厳しく指摘しておられる。
 ――わずかな″長″などに仕える貴族たちに対して「召された」「かみ」などと書いて、へりくだったうえ、「面目」をほどこしたなどと得意気に言うとは、何と愚かなことか。あれやこれや突き詰めて考えてみると、師である日蓮を卑しんで、そう書いているのであろうか――との大聖人の厳たる叱責である。
16  すなわち三位房は、社会的な名誉や権威に、すっかり惑わされてしまった。大聖人門下として、最極の妙法を持つ誇りを忘れ、貴族等に、ほめられて得意になるような″虚栄″のとりこになってしまった。こうなっては、すでに信心の心は堕ちている。
 妙法以上に尊貴なものはない。また民衆の真っただ中に飛び込んで、法を弘め、人を救い、「無上道」を生き抜いていく以上の尊き人生はない。しかし三位房には、その決定けつじょうした一念が欠けていた。御本仏の偉大さに対する確信もなかった。ゆえに大聖人を心の奥底で軽視し、卑しむという醜い″慢心″が生命に巣くっていた。
 そうした慢心と虚栄の心は、ふだんから彼につきまとっていた。それが貴族の前で説法し、ほめられたという機会に、はっきりと正体を現した。本人も気づかない、そうした一念のゆがみを、大聖人が鋭く、また厳愛をもって破しておられるのが、この一節である。
17  いわゆる退転者は、三位房と同じく、慢心と虚栄の心が余りにも強い。ある人が言っていた。内藤某らにほめられている山崎某ら″四人衆″は、この三位房の眷属けんぞくかと。彼らに共通するのは、三位房と同じように、みな口がうまかった。また見えっぱりであり、傲慢であった。
 また彼ら″四人衆″も、遠くから見れば、さも立派そうに見えたかもしれない。しかし一見、まことに信心があり、教学がありそうに見せていたが、珍説も多かった。また、もっとも忠誠をつくしているように見せもした。が、その内実を知る多くの人々からは嫌悪され、全く信用がなかったことは三位房と同様である。そして、いつもその内心には黒い野心や醜い欲望があったことが、次第に露見し、証明されてしまった。
 そうした彼らの行く末を、多くの先輩が心配した。私も幾たびとなく注意もし、指導もした。しかし、所詮、彼らの慢と虚栄に染まった心根は変わらなかった。
 ところで現在も学会から、たくさんの著名人が輩出されている。皆さまの支援によって政治家になった人もいる。しかし、一部その中に、名聞や名利におぼれて信心を失い、退転し去っていった人もいる。すべてが自分の力と錯覚し、勲章をもらって得意気になり、名声を鼻にかけて、人々から顰蹙ひんしゅくを買った、わびしき人間も出た。これらは皆″三位房の眷属″であり、大聖人のお叱りは必定であろうと、私は確信する。
 さて、こうした退転者に共通する慢心と虚栄の裏返しは、″憶病″の生命である。憶病であるゆえに、ささいなことで慢心を起こし、自分を飾って立派そうに見せる。憶病であるゆえに、虚栄の心で世間の権威にへつらう。要するに、憶病であるゆえに、峻厳な大聖人の仏法を根本にできない。その定まらぬ心のスキに、慢と虚栄が根を張り、わずかな信心をも破っていくのである。
 大聖人は三位房に対し、「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」と厳しく指導しておられる。一応、これは諸宗との問答の際の心構えであり、門下全般に通じる御指南である。その上で、やはり大聖人は、三位房の憶病な傾向性を見抜いて仰せられたものと拝する。
18  また大聖人は、三位房に、傲慢な言動がないよう、こまごまと注意しておられる。
 すなわち「公場にして理運の法門申し候へばとて雑言・強言・自讃気なる体・人目に見すべからず浅猨あさましき事なるべし、いよいよ身口意を調え謹んで主人に向うべし」と。
 つまり、たとえおおやけの法論の場で、うまく道理にかなった法門が言えたからといって、調子にのって、悪口あっくしたり、粗暴な言葉を吐いたり、自慢気な様子を人に見せてはならない。それは、あさましいことである。そういう時にも、いよいよ態度も、言葉も、心がけも立派にととのえ、つつしんで臨まねばならない、との御注意である。
 いばるる人間、傲慢・粗暴な人間は、要するに人格の底が浅い。真剣さもなければ、強い責任感もない。深き慈愛もない。いいかげんである。まことに″あさましい″存在である。
 私もつねづね、指導者は、「いばってはならない」「紳士であれ」と申し上げ続けてきた。これは内外ともに同様である。とくに、広布に進む同志は、全員が尊い地涌の勇者である。心から尊敬し、守り、たたえていくのが当然である。いささかも、おごり高ぶり、人を見下すような言動があっては指導者失格となることを銘記せねばならない。
19  信心の和合僧を崩す魔の働き
 このように三位房は、大聖人から数々の指導、注意、激励をいただいた。しかし、それにもかかわらず、日興上人の応援のため熱原方面に派遣された折、滝泉寺院主代・行智らの誘惑や甘言に乗せられ、大進房とともに退転、反逆してしまった。
 この経緯を日亨上人は『熱原法難史談』の中で次のように述べられている。
 「大進・三位は、いずれも高楼(=高位)の学僧であり、自分では師匠の日蓮上人よりも博学だくらいに自惚うぬぼれて、日興・日秀らを眼下に見ていたけれども、さて実地に行って見ると岩本に行っても、熱原に来ても賀島に往っても思った半分も持てぬ。興師(=日興上人)ほどに尊敬をはらわれぬので、若輩の日興等に頭を下ぐることはいかにも残念だという魔心につけ込んで信仰が弱くなる。その間隙すきをねらって、行智と弥藤次とが甘言うまいことをもって取り入った」と。
 結局、信心を狂わせていくものは″慢心″である。また″嫉妬″である。
 三位房は″慢心″の人であった。自分の才知や学識の高さにうぬぼれて、師匠の大聖人より博学と考えるほどであれば、日興上人を眼下に見ようとする心は当然のことであった。その日興上人の応援のために熱原に派遣されたのである。大聖人の御指示とはいえ、心安かろうはずはない。
 しかも現地の熱原に行ってみれば、自分では偉いと思っていても、日興上人ほど信徒から尊敬もされず、かといって頭を下げて、信徒のために戦うというのも自尊心が許さない。つまり、ひそかにライバル意識をいだき、″嫉妬″の炎を燃やしたのである。
 少しでも自分より信心がすぐれ、前進している人に、教えを受け、ともに広布のために進んでいこうという謙虚な心ではなかった。この″慢心″と″嫉妬″のゆえに、濁り、ゆがめられた心に、行智と弥藤次らが、甘言をもって取り入った。要するに彼には信心がなかったのである。先程の″四人衆″も全く同じである。
20  さらに日亨上人は、三位房が堕ちていく姿について「余儀なく師敵対すべき反間も行なわれ、知らず知らず深入りをして、ついには法華の僧俗たるしばらく前かた(=以前)の信友同志を残害ざんがいする(=そこない殺すこと)の手伝いをもするようになった」(同前)と。
 信心の和合僧を崩そうとする魔の働は巧妙である。知らずしらずのうちに、師敵対へと堕落していくような離間と反目の状況をつくり出し、追い込んでいく。そして、ついには師を裏切り、同志をもそこなうように仕向けていくのである。近年の山崎某らの策謀の構図も、まさにこの通りであった。
21  さて三位房も、はじめから退転しようと思って信心していたのではなかった。彼なりに真剣に励んでいた時期もあった。しかし、次第に年齢を重ねるにつれ、当初の純粋さを失っていった。そこに重大な落とし穴がある。
 現代においても、青年期は華やかに活躍していても、壮年になると、何となく元気がなくなり、晴れがましい活躍の場が少なくなると、しだいに仏道修行から遠ざっていく人もいる。
 青年部は比較的、自由奔放な舞台がある。それに対し、壮年部は地味かもしれない。青年期の活動のように、すぐに思う通りの結果が出ない場合もある。現実の生活に根を張った壮年の指導や激励は、それだけ大変である。しかし、そこに本当の信心即生活がある。にもかかわらず次第に潔い信心をなくしていく人がいるのは、まことに残念なことである。
 要するに、青年期の炎のような信心は、壮年となり、また高齢になっても、一生涯、素晴らしい信心と人生を推進するための炎でなければならない。これが、いわゆる観念の信心と、水の流れゆくような、まことの信心との違いなのである。青年部の方々は、よくよく、この一点を見失わないでいただきたいと思う。
22  退転の構図は後世の戒め
 ともあれ、こうして三位房は、ついに師・大聖人を裏切り、敵対した。しかし、現罰は厳然と現れ、弘安二年(一二七九年)不慮の死を遂げている。
 大聖人は、この三位房の死に関して「四菩薩造立抄」で次のように仰せになっている。
 「日行房死去の事不便に候、是にて法華経の文読み進らせて南無妙法蓮華経と唱へ進らせ願くは日行を釈迦・多宝・十方の諸仏・霊山へ迎へ取らせ給へと申し上げ候いぬ
 ――日行房(三位房)が死去されたとのこと、かわいそうに思う。この身延の山で法華経を読み、南無妙法蓮華経と唱えて、願わくは日行房を、釈迦、多宝、十方の諸仏が霊山浄土へ迎え取らせてほしいとお願い申し上げた――。
 三位房は大聖人に師敵対し、破仏法の徒となった。堕地獄は間違いない。しかし、今、大聖人は不慮の死を哀れんで追善をされ、できるものなら霊山に迎えてもらいたいと願われているのである。
23  さらに大聖人は、三位房の追善をされたうえで、後世への戒めとして、有名な「聖人御難事」の中で、次のように厳しく仰せである。
 「三位房が事は大不思議の事ども候いしかども・とのばら殿原のをもいには智慧ある者をそねませ給うかと・ぐちの人をもいなんと・をもいて物も申さで候いしが、はらぐろとなりて大難にもあたりて候ぞ
 ――三位房のことについては、大変にいぶかしいことが、前々からあったけれども、それをいうと、三位房のように知恵がある者を、日蓮がそねんであのようにいうのだ、と愚かな人は考えると思ったので、今まで何もいわなかった。しかし、予想していた通り、ついに悪心をおこして大難にあい、不遇の死をとげたのである――と。
 地震にも前兆があるように何か起ころうとするときには前ぶれがある。信心の世界でも退転していく人には″あの人は何かおかしいな″と感ずるものが必ずある。それを鋭く見抜き、とらえていかねばならない。しかし、何か感ずるものがあったとしても、それをすぐ言える場合と、言えない場合がある。三位房に対しては、大聖人も、もっともっと明確に言い切ってあげればよかったと思われたに違いない。
 しかし「なかなか・さんざんと・だにも申せしかば・たすかるへんもや候いなん、あまりにふしぎさに申さざりしなり、又かく申せばおこ人どもは死もうの事を仰せ候と申すべし、鏡のために申す又此の事は彼等の人人も内内は・おぢおそれ候らむと・おぼへ候ぞ」と。
 ――かえって十分に戒めていたならば助かることもあったであろう。だが、あまりのいぶかしさに、言わなかった。また、このように言えば、愚かな人々は、死んだ人のことを、勝手にいっているというであろう。しかし後々の教訓のために言っておくのである。また、この事は、彼の陣営(行智等)の人々も、内心には恐れじているであろう、と思われる――。
 戸田先生は、この御文に関して「″さんざんと強く本人に言い聞かしたならば、助かることもあったであろう″というお言葉である。深く味わうべきお言葉ではないか。大聖人のときも、今日の広宣流布のときも、同じ悩みが指導者のなかにあるものである」と言われている。
 こうしたことは、いつの時代でもあった。これからも同じであろう。だからこそ私は、この御書を、よくよく拝していくよう、言い残しておきたい。
24  また、三位房の死去の事は、熱原法難で大聖人の門下を迫害した行智らにとって、内心には恐れ怖じていることであった。いくら強がりの姿をみせても、仏法の厳しき因果律からのがれることはできない。しかも、三位房の死去という現証が眼前にあれば、迫害をしていたものは、内心は怖じ恐れていたに違いない。
 ともあれ、三位房の周辺には、言うべきことも言えない″壁″とか″巣″がつくられてしまった。
 近年の悲しい藤も、要するに幹部が感じながら、また知りながら、言うべきことを言わなかったことに大きな原因があった。信心の世界は、微塵もそうしたモヤモヤとした″巣″をつくっては絶対にならない。
 さて、三位房の「桑ケ谷問答」がきっかけとなり、四条金吾は大変な窮地に陥った。そもそも、金吾がこの問答の場に足を運んだのは、大聖人が「頼基陳状」に仰せのごとく、三位房に強く誘われたからである。
 しかし、問答の反動ともいえる難は、すべて金吾の一身にふりかかった。ある面から見れば、それは本来、当事者の三位房が受けるべきものであった。だが、金吾の心情としては、外護の立場で、これでよいと思ったにちがいない。
 金吾は即座に大聖人に御指導を受けた。大聖人は金吾に対し次のように仰せになっている。
 「起請をかかせ給いなば・いよいよかつばら彼奴等をごりて・かたがたに・ふれ申さば鎌倉の内に日蓮が弟子等一人もなく・せめうしなひなん」――もし、あなたが信仰を捨てるという起請を書いたならば、ますます彼等はおごり高ぶって、方々にそれを吹聴するであろう。その結果、鎌倉にいる日蓮の弟子等は、一人も残らずせめられ、いなくなってしまうであろう――と。
 厳しくも慈愛に満ちた大聖人の御指南に、金吾は″負けじ魂″を炎のごとく燃やして信心を貫き通す。そして″仏法は勝負なり″の実証を天下に示していったのである。
25  これに対して三位房は、桑ケ谷問答の翌年ごろからはじまった熱原法難のさなかに退転する。
 大聖人の門下にふりかかった大難である。大聖人も、日興上人も、大変に御苦労され、門下を守るために戦われた。その渦中での退転である。そればかりか、反逆者として大聖人門下を迫害する側に豹変ひょうへんしてしまった。
 本来ならば、身を投げ出して、同志を、後輩を守るべき立場である。また教学と雄弁をもって人々に退転するなと激しく叫んできた人間である。それをみずからが退転するばかりか、迫害する側にまわる。本当に恐ろしいものは人の心である。まことに無責任極まりない、人間として最低の卑劣な姿であるといってよい。かの四人衆もまったく同じである。
 四人衆が去っていった今――冷酷にして、傲慢な四人衆がいなくなって本当に道は広々となった。もし、彼らがいれば、我々の大先輩となってしまい、後輩である我々がどんなにか苦しみ、また使われ、犠牲にされるかわからない。そう思っている人は数限りないだろう。これこそ御仏智か、と皆が語っている。
26  また日亨上人は、先に拝した「聖人御難事」の御文に関連して、次のように述べられている。
 「『鏡のために申す』とか『彼等の人々も内内はおぢおそれ候らむとおぼへ候』といわれたるより見れば、(三位房の死に方は)反法華の厳罰と自他ともに見るべき明らかな変死であったろうと思う。(中略)(三位房は)信行学の次第(=順序)が満足であって、四、五年も存命せられば、六老(僧)の第二位に必ずあるべきじん(=人物)だのに、不信無行が大なるわざわいであることは、この三位房や大進房を通して、宗祖(=大聖人)も随所にいましめ置かれたのである」(前掲『熱原法難史』)と。
 三位房がもし、信行学を全うし、あと四、五年も存命であれば、六老僧の第二位には必ず入るような人物であった。しかし、いかに才知や学識に優れていても「不信」と、真実の行学のない「無行」のゆえに退転の道に入ってしまったわけである。
27  広布の「時」担う学会の使命
 ここで、創価学会の出現の意義について述べられた日淳上人のお言葉を拝しておきたい。
 「今、此の七百余年の歴史を振り返って見て、此れを今日の状況と比較して考えますと今や状況は一大転換して、歴史の上に時代をかくしつつあると思います。それは創価学会の折伏弘教によって、正法が全国的に流通していまかつて無かった教団の一大拡張が現出されつつあることであります。
 此れを以て考えますと、将来の歴史家は立宗七百年以前は宗門の護持の時代とし、以後を流通広布の時代と定義するであろうと思われます。
 これまでの宗門の歴史を見ますれば時に隆昌がありましたが、結局護持といふことを出なかったと考えます」
 「とにかく教団としては初期のままを維持する程度に止まったのでありますが、宗門の清流を濁さずに今日にいたったということは、先師上人方が御苦心の賜と感激する次第であります。これは要するに七百年の歴史はいつに広宣流布を待望しつつ堅く護持してきた時代と申すべきでありましょう。
 しかし末法に入って千年のうち、はやくも九百年は過ぎました。もとより末法は千年に区切ることはありませんが、ともかく千年の終りに近づいて開宗七百年を転期として一大流布に入ったということは、正法流布の上に深い約束があるのではないかと感ぜられるのであります。これを思うにつけても、創価学会の出現によって、もって起こった仏縁に唯ならないものがあると思います」(「開宗七百年を迎えて」昭和三十一年、『日亨上人全集 下巻』所収)
28  このことについて戸田先生は「創価学の使命はじつに重大であって、創価学会の誕生には深い深い意義があったのである」といわれた。
 日淳上人も述べられているように、広宣流布にとって深い深い意義のある学会である。その学会の一員となって広布と信心のために活躍されている皆さま方である。「不退」の二字を貫く限り、成仏は絶対に間違いないし、また福徳も子孫末代まで永遠に輝いていくにちがいない。
 どうか、いつまでも健康で、長寿であっていただきたい。そして悔いなき今世の人生であっていただきたいと、私は心から念願している。
29  皆さま方は、日々、広布のために辛労を尽くされている。法のため、広布のため、信心のために苦しみ悩んだ分だけ、我が胸中の心田をより拡大し、大いなる福徳を耕していることを確信していただきたい。
 皆さま方の、毎日、毎日の偉業は、すべて妙法につながっているし、大聖人の御使いとしての活躍である。ゆえに仏天の加護は、絶対に間違いない。
 個人的な悩みも数多くあろう。また小さな悩みも多いにちがいない。それらの悩みも人によっては大きい成長のバネとしていけることもあろう。だが多くは、そのまま人生の苦悩として固められてしまうものだ。
 そうであってはならない。いわゆる煩悩即菩提の法理の上から、大いなる境涯で、大いなる人生を飾っていただきたい。そして、大いなる自分自身の輝く歴史を勝ち飾っていただきたい。
30  かつて牧口先生は、次のように指導されている。
 「羊が千匹いても、一頭の獅子にはかなわない。獅子がくれば、羊は逃げてしまう。臆病おくびょうな小善人が千人いるよりも、勇気ある大善人が一人いれば、大事を成就することができる」と。
 本日、ここにご参集の幹部のお一人お一人は、すべて妙法の獅子である。広大な草原を王者の気風をもって進みゆく獅子のように、広布と人生の広野を悠然と歩みゆく一生であっていただきたい。とともに″常勝関西よ永遠なれ″と申し上げて、祝福のスピーチとしたい。

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