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日蓮大聖人・池田大作

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第2回中部総会 創造的人生を使命の道で

1987.9.21 スピーチ(1987.7〜)(池田大作全集第69巻)

前後
1  余暇を積極的に活用する時代
 皆さま方の日夜のご活躍に対し、仏道修行とはいえ、心からご苦労さまと申し上げたい。また、第二回中部総会の開催を心から祝福申し上げるとともに、遠方からご参加の皆さま方に、私こそ感謝申し上げたい。
 意義深い総会の席である。広布のため、未来のために、私は指導の″雨″を降らせ、一つ一つ歴史を刻んでおきたい。
 私は、天に向かって話すような心もちで語る。眠い方は、そのままお眠りになっても結構である。私の話を聞いてくださる方には、そこから、何らかの信心の糧を得てくだされば幸いである。
2  聖教新聞でも報道されたが、去る九月十三日、私は、明年、オーストラリアで開かれる万国博覧会のルエラン・エドワーズ総裁とお会いした。そのさいエドワーズ総裁は、オーストラリアSGI(創価学会インターナショナル)のメンバーの印象にふれて、先日、何人かのメンバーに会ったが、皆、すがすがしい方々である。また、私と名誉会長が会えば、メンバーも喜ぶに違いない、とも語っていた。
 エドワーズ総裁は医師であるとともに、万博の会場となるクインズランド州の健康相(厚生大臣)、副首相等も務められ、州の教育、保健、福祉の向上に尽力されてきた方である。
 日本では、外国というと、まずアメリカやヨーロッパを思い浮かべ、豪州のことを考える人は少ない。その意味からも、ここで少々、オーストラリアについてお話ししておきたい。
3  明年、クインズランド州の州都ブリスベーンで開かれる万国博覧会には、″オーストラリア建国二百年″の祝賀の意義も込められている。同州は、「サンシャイン・ステーツ(太陽の州)」と呼ばれ、″平和の別天地″として親しまれている風光明美の地である。
 私も二十三年前、昭和三十九年(一九六四年)の初訪問の折、同州も訪れ、ブリスベーンとともに、州南部のゴールド・コースト(黄金海岸)に立ち寄った。まことに素晴らしい所であり、「水滸会」や「青年部」の友らと、いつかここを一緒に訪れたいと思った。エドワーズ総裁、また各界の招待、さらに現地メンバーからの強い要請もあり、来年は何とか訪問したいと考えている。
 なお、当地中部でも、明年には岐阜・長良川河畔で「中部未来博覧会」が、また明後年には、名古屋市制百周年の「世界デザイン博覧会」が名古屋で開かれる。中部の未来も洋々と開けゆくことを実感するし、成功を祈りたい。
4  明年の万博は、″レジャー万博″と呼ばれる。それはテーマに「技術時代におけるレジャー」を掲げているからである。そこでは 、科学の物質的側面よりも、″夢″ や″人間らしさ″という精神的側面とのかかわり合いに重きが置かれているようだ。
 ちなみに、この「レジャー(余暇)」の問題については、十五年ほど前、トインビー博士とも、対談のなかの重要な一項目として論じ合った。(本全集第三巻収録)
 そのさい、生活における余暇の比重の増大を認め合いつつ、一つの結論として二人が一致したのは、″技術のオートメーション(自動)化が進み、余暇が増大すればするほど、人間本来の創造的能力を一人一人がいかに発掘し、発展させていくかが、重要なカギになってくる″ということであった。
 そして、対談の指摘通り、レジャーが万博のテーマとなるほど社会の重要な課題となり、余暇の積極的な活用が、一段と切実な問題となっているのが現状である。
5  もともと「レジャー」という言葉は、許可されるという意味のラテン語″リセレ″に由来しているように、″何らかの権威によって認可された行動、状態、意識″という、受動的な意味あいがある。(『世界大百科事典30』平凡社、参照)
 しかし今や、仕事のひま、あるいは余暇を意味する″消極的″レジャー観から、″積極的″″創造的″レジャー観への転換が時代の要請である。すなわち、仕事や家事、睡眠などに使う以外の自由な時間を、自発的に、妙法広布、人間革命という至高の目的のためにフルに活用してきた私どもこそ、時代の先駆の存在であることを銘記していきたい。
6  対談のさい、トインビー博士も、レジャーの目的について、深い次元から論及し、″人間の究極の精神性を探究し、自己完成を目指すために余暇を活用する″生き方が大切であると強調していた。また、オートメーション化から生ずるさまざまな問題を解決していくうえで、活力ある宗教こそもっとも有望な分野であるとし、″余暇時代″に果たすべき宗教の役割に限りない期待を寄せていた。まさに、ここに、超一流の″知性″がもつ、優れた先見性の一端を見る思いがしてならない。
7  仏法では「衆生所遊楽」と説く。つまり、本来、人間は、この地球に「遊楽」するために生まれてきたというのである。
 たしかに、現実は苦悩と無常の世界である。が、妙法を信受した時、苦悩を遊楽へと転じ、生きていること自体が楽しいという「一生成仏」の最高の幸福境涯を築けるのである。すなわち、現実社会にあって、信心を根幹に自在の生命力を発揮し、最高に価値ある人生を朗らかに生ききっていける大法理が妙法であり、私どもの信仰である。
8  オーストラリア広布に生涯を飾った一婦人
 オーストラリアのことを申し上げたのは、ほかでもない。オーストラリア婦人部長のマツヨ・ハンソンさんが、過日、亡くなられたからである。それは、エドワーズ総裁との会談の翌日のことであり、マツヨさんはベッドで会談のニュースを耳にし、夫とともに喜びあいながら、最期まで笑みと満足に包まれての逝去であったと聞いた。享年六十三歳であった。
 その人生は、決して幸運と安楽ばかりではなかった。が、オーストラリア広布の″草分け″として苦難を歓喜と前進へのエネルギーとしつつ、見事に使命の道を全うし、一生成仏の生涯を飾られた。私はここで彼女の名を、オーストラリア広布史にさん然と輝く存在として後世に残しておきたい。
9  数々の風雪を乗り越えた″名婦人部長″の彼女はいつも「明るく、明るく」が口グセであった。知人が口をそろえて「明るい笑顔が印象でした」と語っている。だが、その生い立ちは複雑なものであったようだ。
 一九二四年(大正十三年)、島根県生まれ。幼少期に両親を亡くし、親せきの家を転々とした。体も弱く、学校にも満足に行けなかった。成長とともに、神経質で人間嫌いとなり、さまざまな宗教を遍歴。自殺を考えたことも、一度ではなかった。
 そうしたなかで、一九五五年(昭和三十年)、のちに夫となるビル・ハンソン氏と、日本で出会う。そして五八年、ハンソン氏との結婚を決意し、オーストラリアへ旅立つ。しかし、異国での生活はなまやさしいものではなかった。
 生来、病弱の彼女は子供も産めなかった。また夫妻は養子を迎えられなかった。ご主人も決して丈夫な方ではなく、双方ともに長生きは無理ではないかとの心配があったからだ。離婚して日本に帰ろうか、と煩悶はんもんの日々もあった。そのころ、勤め先の日本料理店で知り合った婦人から仏法の話を聞き、オーストラリアの地で、六四年に入会。彼女は四十歳であった。
10  入会してからの、彼女の活躍ぶりはすさまじかった。二年後の六六年に、ブラックタウンの地区部長に就任。五年後には、シドニー支部婦人部長となり、七五年、オーストラリア婦人部長に就いている。以後十二年間、彼女は休む間もなく、広大なオーストラリア大陸を、″広布の先駆者″として、存分に駆けめぐった。
 彼女に関するエピソードは数知れない。
 たとえば今から、十五年前のこと。シドニーの支部婦人部長の彼女は、北方二百キロのニューカッスルに一人の婦人メンバーがいることを知った。以来、彼女は、この一人の婦人のために、十年以上も毎月、激励に足を運んでいる。
 その間、「何年通っても、発展しないのだから、行くのはムダではないか」という声もあったようだ。しかし、彼女は「一人の部員でも、激励しぬいていくことが大切だから」と、激励の足を止めなかった。そして真心つくして、新入信の友らと語らい、「この地に何としても福運をつけていきたい」と、唱題をともにした。さらに「題目をあげぬいていくのよ。御書を拝し、学会指導を読みきっていくのよ」と、励まし続けてきた。
 まことに尊き先駆者の雄姿である。無償の行動である。肉体的な疲労も重なっていったろう。しかし、いかなる労苦もいとうことなく、一ミリ、また一ミリと、広布の歩みを続けていった。決して派手な行動ではないが、ここに不退の学会精神をもつ彼女の強さがあった。
11  ともあれ、″一人″を大切にし″一人″に全魂を注ぎ励ましていく――この積み重ねから、広布は前進し、栄光と繁栄への坂を上り始める。いかなる大発展も″一人″から始まるのであり、″一人″を大切にせずして、組織の前進はない。
 同じように広布三十五周年を迎えた中部にあっても、その第一歩は夏季折伏で入信した″一人″からの出発であった。そこに端を発し、今日の数十万にのぼる発展の歴史がある。
 ハンソンさんも、その″一人″の大切さを、身にしみて知っていたに違いない。
 現在、ニューカッスルでは、五十四人のメンバーが活躍している。オーストラリアでもっとも仲の良い地区を構築しており、彼女の奔走と努力が、こうして結実した。
 誰もが「マツヨが、この地に福運を運んできてくれた」「マツヨが、何も知らなかった私達に、信心の基本を、体に染み込ませるように、根気よく教えてくれた」と、異口同音に話していると聞いた。ニューカッスルだけでなく、今や全土で、彼女のことを「恩人」と呼び、本当に素晴らしい婦人リーダーであったと、尊敬してやまない人々が見られるのである。
12  彼女の激励行が、このように、片道二百キロ、三百キロとなることは日常茶飯事であった。それに、車の運転もあまり得意ではなかった。地図を読むのも苦手であり、よく道も間違えたが、そうした自分を、彼女はよくわきまえていた。初訪問の場所には、必ず、一時間早く出発した。要するに、彼女のやり方に″中途半端″はなく、すべてに徹底していた。
 何事も、″中途半端″では、役に立たないのが道理である。家屋にしても、完成しなければ住めないし、マイクロホンも製造途中であれば、声は通らない。人間も組織もまた、同じ道理である。何事にも″完成させる″ことが大事である。中途半端では、何の価値も生まないし、むしろ反価値ですらある。
13  彼女には、こんなエピソードもある。
 入信後、総本山への参詣を、毎年、行うことを決意する。それは、六七年(昭和四十二年)から始まり、以後、絶えたことがなかった。
 その間、生活が苦しく、経済的余裕がなかったこともあった。その時に彼女は、サイズは合わなくても、丈夫な靴を買い求め、一年中、はき続けた。バス代も節約し、その靴で激励にかけまわった。
 また、登山で来日するさいは、必ず多くのメンバーを伴ってきた。私も、その方々と何回もお会している。
 ある登山会の折、一人のメンバーが体調の不調を訴えた。きつく肩が張り、頭痛が激しい。その時、彼女は、そのメンバーの肩を、何時間もかけて、懇切ていねいにもんで、ほぐしてあげた。のちに、そのメンバーは「いつも、小さなことに気がつく婦人部長でした。慣れない日本への登山だったので、ひとしお有り難く、その恩は終生、忘れられません」と、語っていた。誰からも好かれ、敬愛された婦人部長だった。
14  その彼女が、体に異常を感じたのは、本年六月の、オーストラリア総会後のことだった。当初は風邪かと思ったが、いつまでたっても回復しない。そこで集中検査を受けた結果、八月には、中期の肺ガンであることが判明。放射線治療を開始するが、自宅から通院し、最後まで、メンバーの激励と唱題に励んだ。
 毎朝二時間の唱題は欠かさなかった。読経のさいは声が出なくなることもあったが、唱題になると声が出、その音声は誰よりも大きく、朗々としていたという。
 病床では、「秋には、世界青年平和文化祭もあり、日本へ行くのが楽しみで楽しみで仕方がない。先生にも、ぜひともお会いしたい」、また「九月の中旬には治療も一段落する。そうしたら、メンバーの所を、激励に回らなくては」といつも口にし、唱題を絶やさなかった。私も、その間、病気平癒を祈りつつ、励ましの和歌を詠み、贈らせていただいた。
15  九月六日、シドニー会館の開館十周年記念勤行会には、彼女は、出席できなかった。が、終了後、数人の友と庭を歩き、植えられたツツジの花を楽しんだ。そして「きれいに咲いたね」と感慨深げにつぶやいた。この花々は、ハンソン婦人部長の発案で、開館十周年を目指し、婦人部員が各家庭で育ててきたものであった。
 また、この折、婦人部の支部幹部や、地方から来た草創メンバーと勤行し、″生命は永遠である″との指導をとおして激励した。
 九月十四日。痛みが激しくなり、医師の来訪を要請。午後、医師の勧めにより入院を決意し、病院へ向かう。そのさいも、かつては頑張っていたが、今は第一線を退いている草創の友のことを気にかけ、「病気が治ったら、激励にうかがおう」と話していた。
 そして、その日の午後七時半。彼女は「お手洗いに行きたい」とベッドを離れようとし、ご主人の腕にかかえられた。その時、目を静かに閉じ、息をひきとった。愛する夫に抱かれての美しい逝去の姿であった。
 その時の表情は、「顔色は、白く、微笑し、すべてのシワが消えていた。皮膚は柔らかく、二十代のようにも見えた」と周囲の人が語っていた。ともあれ、見事なる成仏の姿であったことは、間違いない。
 死の瞬間まで、メンバーの一人一人のことを思い、「くよくよしてはいけない。つねに婦人部は明るく」「絶対に怨嫉なんかせずに、明るくね」と、かえって周囲を励まし続けた婦人部長であった。あたかも、シドニー会館の十周年を見守るようにして、霊山へ旅立っていかれた。ここにつつしんで、私は冥福を祈り、不滅の功労と足跡を深く称賛しておきたい。
16  桑ケ谷問答と四条金吾への迫害
 さて、オーストラリアの話ばかりだと、″ここは名古屋です″と叱られるかもしれない。そこで次は、中部の方もよくご存じであるに違いない御書の話に移りたい。有名な「くわやつ問答」についてである。
 桑ケ谷といっても、「どこのヤツだ」と言うような人は、ここにはいらっしゃらないと思う。しかし、その名前は耳にしたことがあるが、その内容はとなると、なかなか正確に話せない、という方も、正直な所、多いのではないだろうか。
 他のことについても、わかっているようで、その本質がよくわかつていない場合がある。その本質を明快にしていくのが指導者の責任である。その意味で、この桑ケ谷問答について、少々ふれておきたい。
17  「桑ケ谷」とは鎌倉の地名である。鎌倉は三方を丘陵に囲まれており、「やつ」と呼ばれた谷地が多い。大聖人が草庵を結ばれた「松葉まつばやつ」も、その一つである。
 桑ケ谷も、長谷はせにある大仏殿の西に位置する。四条金吾の屋敷は、この長谷にあったとされ、私もその跡をたずねたことがある。つまり金吾は桑ケ谷の近くに住んでいたわけである。
 「桑ケ谷問答」とは、この桑ケ谷において、大聖人の弟子、三位房さんみぼう日行と、天台僧とされた竜象房りゅうぞうぼうが行った法論のことである。
 時に建治三年(一二七七年)六月九日。この頃、竜象房は、鎌倉で″釈尊の再来″とまで仰がれ、名声をほしいままにしていた。あたかも華やかなスターのような存在であり、人々の尊敬に慢じきっていた。その竜象房が、三位房によって、多くの聴衆の面前で、徹底的に破折されたのである。
 三位房については、いつかくわしく話したいと思っているが、この問答の応酬にも表れているように、鋭い弁舌と優れた才知を持っていたようだ。しかし、みずからの慢におぼれて、のちに退転してしまった――。
18  問答に敗れ、無念でならないのは竜象房である。正しい法を求めるどころか、恥をかかされたと根に持ち、その腹いせから大聖人門下への卑劣な策謀を計画した。
 竜象房のバックには、極楽寺良観がいた。これまでも、ことごとく御本仏に敵対し、迫害の黒幕として暗躍した悪僧である。悪人同士が結託しやすいのは、三世異ならざる傾向性らしい。しかも二人は権力者の庇護ひごを後ろ盾にし、現在の悪徳政治家か、それ以上の影響力を持っていた。
 彼らが目をつけたのは、大聖人の有力な檀越だんのつであり、鎌倉の門下の中心的存在であった四条金吾である。すなわち金吾の主君、江間入道光時に次のように讒言ざんげんした。
 「あなたの家臣の四条金吾が、桑ケ谷問答の折、徒党を組んで武装して乱入し、暴力で法座を乱した」と。
 江間氏は、良観の熱心な信者であり、竜象房のことも尊崇していた。彼らは、その信頼と自分達の権威を、最大限に利用したのである。江間氏は、二人をすっかり信じきってしまった。
 実際には、この日、金吾は宮仕えのため、三位房に遅れて問答の場におもむき、成り行きを見守る聴衆の一人に過ぎなかった。在家の身でもあり、一言の発言もしていない。また問答の様子も″暴力″どころか、いあわせた一般の人々も大いに歓喜し、三位房の説法をさらに請うたほどであった。
 竜象房らの言葉は、根も葉もないデッチあげである。完全なる″創作″であり火の無い所に煙を立てるたぐいであった。
 しかし人間は時に、余りにも愚かであり、だまされやすい。名僧の誉れ高い二人が、よもやウソなど言うはずはないと信じたのであろう江間入道は、金吾を激しく迫害してきた。問答の半月後の六月二十三日付で「くだぶみ」を出し、法華経の信仰を捨てると誓う起請文きしょうもんを書くよう、金吾に迫ったのである。
19  学会も、草創期において「暴力宗教」などと中傷された。金吾が「暴力」で法座を乱したと難じられたのと、全く同一のやりくちである。正法流布をはばむ勢力は、法の正邪においてはかなわないゆえに、他の口実を設けて攻撃してくる。
 しかし、道理の上から考えても、暴力で人が信仰するわけがない。暴力などあったら、広宣流布どころか、みんな逃げていってしまうだろう。ほんの少し考えただけで、誰にでもわかる道理である。しかし、これにだまされるのが、また人間である。
 要するに、人々が喜々として集いあう学会の現実の姿に対する妬みと、その勢力を阻止しようという悪意の″創作″である。こうした多くの言論の暴力を乗り越え、信仰の力を証明した壮挙が、今日の学会の大発展の姿である。
 また近年における、私に対する執拗な讒謗ざんぼうも、その本質は同様である。裁判中の山崎某のいわゆる御用評論家の感のあった内藤某。彼の学会批判記事はまことに最低であると、ある記者が言っていた。
 私はバカバカしくてまったく読んだことはないが、その学会をよく知る記者は「創作の学会批判で、めしを食っているなんて、まことにわびしいことであり、内容も論調もじつに低次元である。そんなものを今もって読んだり、信じたりしている人がいるとすれば、これほどこっけいなことはないだろう」と笑っていた。
 ともあれ、何があっても、常に、ものごとの本質と真実を見定める賢明さを堅持していただきたい。
20  「頼基陳状」にみる正義の弁論
 こうして四条金吾は、全く無実の罪を着せられ、主君から法華経を捨てよ、と命じられる。現代でいえば、会社の中堅社員が社長に誤解され、会社をとるのか、それとも信心をとるのか、と迫られた状況に通じよう。当時は、主君の命に背くことが許されない時代である。しかも現代と違い、再就職の道も閉ざされている。社会的に抹殺されかねない絶体絶命の危機であった。
 大聖人は、この横暴な権力から一人の門下を守りぬくため、正義の言論を堂々と展開された。それが有名な「頼基陳状よりもとちんじょう」である。金吾(頼基)に代わって主君に弁論された書であり、一人の門下を思う御本仏の大慈悲が、深く強くこめられている。
 何としても″真実″を証明しなければならない――。そのため「頼基陳状」で大聖人は、まず密謀をこらす人々と金吾とを一堂に集めて真相を糾明するよう、繰り返し求めておられる。
 たとえば「只頼基をそねみ候人のつくり事にて候にや早早召し合せられん時其の隠れ有る可らず候」と。すなわち――頼基を妬む人の作りごとでありましょう。早く、その者を呼びよせて事実をただせば、真相は、すべて明らかになるでしょう――と言われている。
 また末尾にも「頼基に事を寄せて大事を出さむと・たばかり候・人等・御尋ねあつて召し合わせらるべく候」――頼基に事よせて、大事を引き起こそうとはかっている人々を呼ばれて、私(金吾)と召し合わせていただきたいのでございます――と、したためられている。
 所詮、事実以上に強いものはない。また「一方のみの意見をきくのではなく、公平に事実を正しなさい」との指摘は、誰びとも反論できない道理である。
 さらに大聖人は、同抄の中で「桑ケ谷問答」の一部始終を、克明に再現しておられる。これを読んでは、さすがの″江間社長″も、何だか話がちがうと、迫害の決心もひるんだに違いない。
21  そして大聖人は、江間氏が帰依する良観の″正体″を痛烈にあばかれていかれる。その筆鋒ひつぽうは、まことに鋭い。聖僧のごとく仰がれながら、陰で大聖人をなきものにするために密謀し、大聖人との祈雨の勝負でも卑劣極まる振る舞いしかできなかった良観の素顔を、赤裸々に述べられている。
 さらに、竜象房も実は、人目を忍んでは餓死者をあさり、朝夕、人肉を常食するという非道の大悪僧であり、そのために比叡山を追放された経緯を明らかにされている。
 正法に敵対する迫害者は、一個の信仰者、また何より一人の″人間″として、言語道断の堕落した存在であった。その事実を、大聖人は見事に、白日のもとにさらしておられる。
 同様に、学会を裏切り、同志を裏切った者たちも、そもそも″人間″としての実像が、余りにも卑しかった。せんじつめれば、黒い野望を持ったり、また酒乱であったり、さらに金銭問題や女性問題などで学会の中にいられなくなり去った者ばかりである。また追放された者たちである。その実態を知る多くの人達からは、ひんしゅくを買っていた。特に婦人部の方々の鋭い直感で、みな見破られていた。
 退転者が、いかに言葉を飾ろうとも、事実のうえでの信心の堕落が、何より雄弁に、その悪の本質を物語っている。また、今後も、大なり小なり、こうした堕落と退転の方程式は同じであるに違いない。
22  次に、大聖人は四条金吾が父子二代にわたり、身命をして江間氏に仕えている真情を、切々と訴えておられる。
 たとえば鎌倉の合戦の時、伊豆にいた金吾は「唯一人・筥根山を一時に馳せ越えて御前に自害すべき八人の内に候き」――主君の大事を聞きけて、ただ一人、箱根の険しい山を一時に越えて馳せ参じ、殿の御前で自害しようという八人の内にも加わったではありませんか──と述べられている。
 金吾ほど、主君のために懸命に仕えている者は、他にありませんよ、との事実の訴えである。
 そして結論を述べられるにさいし、次のように言い切っておられる。
 「起請を書き候程ならば君忽に法華経の御罰を蒙らせ給うべし」と。
 もしも主君の命ずるままに、法華経を捨てるという起請文金吾が書いてしまったならば、主君自身が、たちまちのうちに法華経の御罰を身に受けられるでしょう。それでは恩ある主君に申しわけがない。ゆえに、起請文を書くわけにはいかないとの、明快な申し立てである。
23  現実の勝利に仏法正義の証明
 このように、「頼基陳状」は、あらゆる角度から、竜象等の″邪″を破り、金吾の″正″をあらわすものであった。大聖人は徹底して事実に基づき、理を尽くし、また真情に訴え、大確信をもって、正義を主張しきられたのである。
 大聖人の師子吼ししくの前に、陰険な策謀も崩れ去った。勝敗は、まもなく明確な実証となって現れた。
 この二カ月余の後のことである。九月になると疫病が流行し、江間入道をはじめ、金吾を迫害した同僚たちも、次々と倒れていった。江間入道は、あらゆる療法をこころみた。しかし、一向に良くならない。困り果てた末、ついに勘気中の金吾を召し出した。医術にすぐれた金吾に、治療を受けざるを得なくなったのである。
 金吾は、信心を根本に、全力で治療に当たった。その結果、主君の病気も快方に向かっていった。こうして金吾は、翌年には勘気も許され、その上、新しい領地まで与えられるに至っている。領地をもらってから先の話は、先月、東京・大田区の幹部総会でお話しした通りである。
 仏法は勝負である。時とともに、正義は必ず証明される。いな、証明していかねばならない。
 大聖人は、四条金吾の勝利を通して、正法の信仰ゆえの「冤罪えんざい」は、必ず無実が証明されることを教えてくださっている。そればかりか、逆にその苦難が、大功徳を受けるバネとなる。また、正義をより広く宣揚する機会にさえ変えていける。その根本原理を、未来の私ども門下のために残してくださったと拝する。
 その勝利への転換軸は何か。それは妙法への大確信の一念である。また「不借身命」の信心の一念である。その金剛の一念が定まった時、それを軸に、一切が勝利へ、成長へ、功徳へと回転していく。確信と懸命の実践があるところ、必ずや、絶大なる妙法の功力が顕現する。ここに信心の世界の重要な精髄がある。
 信心は不退でなければならない。決定けつじょうしていなければならない。私は短命とも言われてきたが、広宣流布のために命を賭して戦ってきたつもりである。その一念の決定のゆえか、今日まで寿命を延ばし、ますます広宣流布のためにご奉公できる現在の姿となっている。
 また、この数十年の間、私は、数えきれぬほど多くの人々を見てきた。――信心強き人、信心弱き人、信心に詐親さしんのある人々等々、さまざまな姿がそこにはあった。しかし、仏法の厳しき法理に基づき、その長い人生におけるそれぞれの幸、不幸等の結果も、さまざまに現れてきたし、これからもそうであるにちがいない。
 妙法の無量にして無辺の力を確信するゆえに、私は何ものも恐れない。ここ約十年間にわたる大難も、いっさい勝負は明らかになった。完全に″大勝利″したと宣言しておきたい。
24  ″忘恩の小人″への戒め
 古来、中国はもとより、日本でも、帝王学の書、政道の指南書として、政治家の必読書となってきた『貞観政要じょうがんせいよう』という書物がある。これは唐の皇帝・太宗(七世紀)が、群臣とかわした政治上の問答を、太宗没後の五十年ごろに歴史家の呉兢(ごきょう)が選述した書である。
 日蓮大聖人も「佐渡御書」の追伸で、『貞観政要』等を流罪の地・佐渡まで送ってほしいと依頼されているように、座右におかれていたようだ。
 現代の政治家たちが、読んでいるかどうかは、わからないが、その中に次のようなエピソードがある。これは、かつて戸田先生にも教わった記憶がある。
 ――ある時、太宗は、こうたずねた。「宇文化及うぶんかきゅう楊玄感ようげんかんは、いずれも隋朝の重臣であり、天子の高恩に浴しておりながら、最後は反逆した。いったい、なぜであろうか」(守屋洋訳、徳間書店。以下、カッコ内は同書より引用)
 これに対し、臣下の岑文本しんぶんぽんが答えた。
 「君子は、一度受けた恩を生涯忘れませんが、小人しょうじんは君子と違って、すぐに恩を忘れてしまいます。玄感、化及らは、しょせん、小人にすぎないのです。古人が、君子を尊んで小人を軽蔑した理由も、これであります」
 それを聞いた太宗は、「なるほど、よくわかった」と、うなずいた――という話である。
 これは、いうまでもなく″忘恩の小人″を戒めたエピソードである。
 その上で、もう一つ、大切な点は、この二人が、ともに隋の功臣の子息であった事実である。そのためか、若くから重用されていた。
 しかし、隋朝末期の混乱に際して、二人とも朝廷に反逆した。最後は、それぞれ斬殺、自殺と、悲惨な結末を迎えている。
 すなわち、ここには、ともすれば功労のあった者の子孫などが、大事にされすぎて、甘やかされ、わがままになって堕落し、ついには保身のために反逆すら行うにいたるという、歴史の教訓が述べられている。
 いずれの時代でも、″忘恩の小人″がいる。ひとつも気にすることはない。かわいそうであるが、本人の責任なのである。とくに功労者の子供とか、特別の存在として大事にされた人が慢心となり、信心の道、人生の道、社会の道を踏み外して、堕ちていく。よくよく、この点を心していかねばならない。
25  日蓮大聖人の門下の一人に大尼御前がいた。領家りょうけの尼御前と呼ばれた婦人である。
 この婦人について、大聖人は「領家は・いつわりをろかにて或時は・信じ或時はやぶる不定なりしが日蓮御勘気を蒙りし時すでに法華経をすて給いき」と述べられている。
 すなわち――大尼は偽りがあり、おろかで、ある時は信じ、ある時は信心を破るというように、心が定まらなかった。そして、ついに大聖人が竜の口・佐渡の法難にあわれた時、退転してしまった――。
 難の時にこそ、勇んで信心するのが、まことの信心である。しかし大尼は、そのもっとも大切な時に、退してしまった。
 大尼については、これまでにも何度かふれたことがあるが、安房の国・東条の領主の後家尼で、大聖人ならびに大聖人の御両親を扶助したこともあるとされ、世間的な家格も高い婦人であった。そこから、やはり自分を特別視する傾向があったとも考えられる。
 自分は特別に偉い、周囲もあの人は特別な人であるというのは、信心の世界では大いなる間違いであり、錯覚である。その錯覚が後になって大きい欠陥を生ずるのである。
 いずれにせよ、皆さま方は、心の″不定″の人ではなく、使命の道に″心定めた″人であっていただきたい。
26  うるわしき心の団結の世界を
 さて日蓮大聖人の仏法を広宣流布しゆく我が創価学会も、創立六十周年を迎えんとし、会長も五代目を数えるまでになった。そこで私は、後世のために一言、所感を申し上げておきたい。
 いずれの社会でも、中心となる役職に就く人は一人である。一国において総理が二人いてはおかしいし、国が乱れてしまう。迷惑するのは国民である。また企業でも、社長が二人いる所はない。二人、三人となれば派閥争いを増長させるだけである。学校においても校長は一人である。
 同じ道理で、学会にあっても、これから第十代、第二十代と会長職は重ねられていくが、どのような時代になっても、あくまで、会長は一人である。
 戸田先生の遺言通り、絶対に派閥をつくってはならない。どこまでも「異体同心」で進んでいくべきである。私どもの目的は広宣流布であり、一生成仏であるからである。学会は、企業でも、権力闘争の場でもない。派閥力学など、信心とは無縁のものである。
 それぞれの時代、時代に、優れた人が代表となって、会長になっていくことは当然のことであろう。
27  いずれの国にも憲法があるように、いずれの団体、いずれの企業にも必ず法規がある。学会には学会の「会則・規則」があり、法規に基づいて運営されている。ゆえに「会則」に基づいて会長が選ばれていくのが当然であり、学会も、皆で「会則・規則」を尊重し、それに基づいて、運営されていくことが基本原則であることはいうまでもない。
28  ただし、私がここで強いて申し上げておきたいことは、人間、誰でも欠点がある。力の限界もある。凡夫には完璧性というものはありえない。したがって会長は、当然、学会の中心であり、最高責任者の立場であるが、それ以上に重要な役割と使命と責任を担っていかねばならないのは、学会の責任役員であり、副会長であり、幹部の方々である。
 会長を支えながら広宣流布に向かわしめていく幹部の方々の方が、会長よりはるかに立派である場合もあろう。力のある場合もあろう。大功労者である場合もある。信心の世界では、会長と会長以外の人々の間に、特別な偉さの段階というものはない。
 ゆえに、代々の会長は幹部を最大に尊敬し、意見を聞き、いささかなりとも、いわゆる傲慢な権力者となってはならない。とともに広宣流布を支え、推進していく幹部は、法のため、広布のため、同志のために、心は会長と同じ使命感、責任感に燃えて、我が身を惜しみなく尽くしていただきたい。そして、堂々たる″信仰王者″の気位で、人材育成の指導と広布の指揮をとり、誉れある一生を飾っていただきたいのである。
 学会では、大御本尊のもと、すべての人が平等である。大御本尊の慈光に照らされ、互いに守りあい、尊敬しあい、補いあいながら前進していく、麗しくも美しき団体の世界が、学会である。これが牧口、戸田両先生の精神であると私は信じている。
 つまり、学会は「信心の団体」であり、他の団体と根本的に違う一点はここにある。その意味で信心のある人が偉いのであって、信心のなくなってしまった人は、たとえ組織の役職が高くても、決して偉くはないのである。
29  私も退転した人の多くをみてきたが、そこに共通する姿がある。
 まず、勤行をしない。折伏・弘教をしない。学会活動に参加しない。広宣流布の運動に汗を流さない。破和合僧的な行為をする。信心ある人々を非難するなどである。
 そういう人は、たとえ役職をもった幹部であっても、内実はもはや「善知識」ではなく、「悪知識」である。ゆえに、表面的な役職の上下によって、紛動されてはならない。
 当然、信心の仮面をかぶった「悪知識」の人は、清純な信心の世界である学会から、いつしか離れていかざるをえなくなるものだ。しかし、これだけ大きい学会であるゆえに、いちいちそれらのすべてを除名したり、解任したりはできない場合があることを、皆さまはご賢察いただきたい。
 「役職」と「信心」について、戸田先生は、次のように指導されている。
 「学会の組織は、御本尊を信ずるという点においては、会長もなければ、組長もありません。みな同じです。ただ広宣流布のため、折伏のための行程としての組織があるのであって、信心のうえでは組長であっても、支部長より信心の強い人がいるかもしれません。また、地区部長だといっても、それこそ一組員より信心がない人がいるかもしれません。
 功徳は信心中心で論ずるもので、組織の位置をもって論ずるものではない。そのところを、よくよく間違わないようにしてください」と。
 要するに学会の役職は責任職である。役職に就いた人は、その自覚を強くもつべきであるし、ますます信心を強盛にしていかねばならない。しかし組織上の役職というものは、すべての人が役職に就くわけではない。また、役職がないからその人が信心がないとは絶対にいえない。役職がなくても信心の強盛な人は多くいる。ゆえに役職の上下と信心の厚薄を混同してはならないし、妙法の世界は、ただ、信心によって、その人の偉大さが決まっていくことを忘れてはならない。
30  さらに、戸田先生は、「信心」と「組織」について次のように述べている。
 「だからといって組織がいらないとは絶対にいえない。組織は広宣流布のためにある。組織がなければ広宣流布はできない。どこまでも組織は組織として、厳存しなくてはならない。そして、どこまでも、異体同心の精神がなければ広宣流布ができないと、(大聖人は)おっしゃっている」と。
 広布の活動も新たな発展への段階を迎えている今日、信心と組織の基本を示された、この戸田先生の指導をしっかりとくみとっていくべきである。
31  先日も、婦人部の方々と懇談をした。そのさい、ある人が「弘教が思うようにできず悩んでいる」と語っていた。こうした「悩み」の声は、皆さま方もさまざまなところで、多く聞かれていることと思う。しかし同じ「悩み」であっても、これほど素晴らしい悩みはない。
 かつて戸田先生は「悩む」ということについて語られたことがあった。
 「お金がなくて悩む。失恋して悩む。体が弱くて悩む。勤めがおもしろくなくて悩む。子供が成績が悪くて悩む。夫が教養がなくて悩む。上司がやかましくて悩む。こうした悩みは、多次元にわたって、時々刻々と起こってくる。これが人生である。
 その中にあって、『法』を弘めようとして悩む。人々を幸福にしようとして悩む。正しき信心に立って、法のため、人のため、広宣流布のために悩む、ということは最大の素晴らしき悩みである」と。
32  ″信心しなければ楽なのに″″学会活動をしなければ悩まないですむのに″という人もいる。しかし一面、人生は悩みの連続であるともいえる。たとえ信心していなくても大なり小なり人は、何らかの悩みで苦しんでいるものだ。泥沼のような悩みの中に入り込んでいる場合も多い。
 学会の世界で、法のため、人のため、広布のために悩むこと自体、はかない凡夫の我が身を、尊い仏の使いへと変えているのである。世間のさまざまな悩みをすべて包み込みながら、みずからの慈悲の生命を拡大し、三世永遠にわたる幸福への種子を植え、育てているのである。
 「難」の中に「悟り」が開かれていくのと同様に、信心の「悩み」は即「福徳」「絶対的幸福」となっていくという法理を知らねばならない。
33  将の将として自身を磨きぬけ
 次に、ナポレオンについては、総本山で行われた学生部の夏季講習会でも話したが、ナポレオンのモスクワ遠征が、なぜあれほどの敗北と悲劇となったか。その理由の一つとして、ロシアとの和平交渉がずるずると長引いて、ナポレオン軍が一ヶ月余もモスクワに足止めさせられ、冬を迎えてしまったことがあげられている。
 この点について、ナポレオンの部下の将校たちは、「彼がいままでのように情況に応じてきびきびと流動的にすばやい決断を下さないのに驚いた……、ナポレオンの天才はもう情勢に即応できないのである」(長塚隆二『ナポレオン 下』読売新聞社)と、以前とは違うナポレオンの姿に不信をいだく。
 なぜそうなったか。――「彼の生来の頑固さのせいにするが、彼がのぼりつめたのはそのおかげであると同時に、それが没落の原因にもなるのだ!」(同前)と。鋭い分析である。
 このナポレオンの姿から、指導者のあり方として思うことは、功なり名を遂げた立場に安住して、新鮮にして的確な判断力を失ってはならないということである。
 時代も社会も刻々と動いている。きのう通用した方法が、きょう通用するとは限らない。しかし幹部となると、その在任期間が長くなるにつれ、人の意見を聞かず、自分の考えに固執しがちになる。また、どうしても保守的となり、時に応じた適切な判断ができなくなるものだ。また、立場が上であればあるほど、多くの人々を迷わせ、誤った道に導くこととなる。幹部の皆さま方は、この点を、よくよく銘記していただきたい。
34  また、ナポレオン軍の将軍として、ネイ元帥がいた。彼は、ナポレオンと同じ年で、たる屋の息子として生まれ、学歴も初等教育を受けただけであった。しかし、数々の戦功をたて″勇者の中の勇者″とたたえられた。
 だが、ナポレオンの興亡を決したワーテルローの戦いにあって、ネイの「いたずらな『猪突猛進』」は決してほめられるものではなかった。
 ナポレオンは次のように言う。「つねに砲火の陣頭に立つネイは、自分の目にふれない部隊のことは、すっかり忘れていた。最高指令官が発揮すべき勇猛さは、師団長がもつべき勇気とは異質のはずであり……」(同前)と。
 将の将たる幹部は、常に自分の目にふれる範囲だけに気を配っていればよいという考えだけであっては絶対にならない。目に見えない陰の分野で活躍している人達こそ、こまかく心を配り、励ますことを忘れてはならない。これが戸田先生の指導であったし、私も常に心がけてきたことである。
 また、自分だけの狭い範囲の、しかも旧態依然とした考えでは、多極化する現在の状況に対応できないであろう。
 ゆえに、広布のリーダーである皆さま方は、責任ある立場にあればあるほど、絶えざる研鑽と多くの人々との対話、そして人に倍する労苦によって、自身を磨き、境涯を深めていただきたい。そうしたみずからの錬磨と成長なくして、これからの時代の指導者とはなりえないことを強く申し上げておきたい。
35  昨日もお話ししたように、よくぞ中部の皆さま方は、正法の歴史にさんたる盤石なる広布の基盤を築いてこられた。日蓮大聖人もことのほか御称賛くださるにちがいない。
 この中部の地にも、数々の苦難の嵐はあったが、皆さま方は″地涌の勇者″として、立派に広布の道を歩み、開いてこられた。そして今日の中部の大勝利の姿を見ることができた。それは必ずや、今後、二十年、三十年と、年月を重ねるごとに、皆さま方の福徳となって薫っていくにちがいない。
 皆さま方の凱歌の人生が、神々しいまでも晴れやかに輝きわたっていかれんことを念願し、本日のスピーチとしたい。

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