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日蓮大聖人・池田大作

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各部合同代表者研修会 三世永遠の人生の王道を

1987.9.15 スピーチ(1987.7〜)(池田大作全集第69巻)

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1  色心の健康こそ長寿の眼目
 本日は、遠いところ、中野兄弟会をはじめ各部・各会の皆さま方にわざわざご参集いただき、ほんとうにご苦労さま、と申し上げたい。きょうは「敬老の日」であり、けさ私は妙法の信仰者として、全世界の高齢の方々の、ますますのご多幸とご長寿とご安穏を心から祈念させていただいた。
 先日、新聞でも報道されたように、百歳を越えた方々が、日本では二二七一人にも達した。まことにすばらしいことである。と同時に、人生のあり方を、もう一度、深く考え直していくべき時を迎えたとも思う。
2  現代医学は、ともすると、病気が重く、苦しむ状態のままでも、ただ寿命を延ばそうとする傾向が強い。それに対し、仏法は、まず健康体にしてから寿命を延ばすという考え方である。つまり、何よりも仏法は、生命力を無限に涌現させゆく法であり、旺盛な生命力で健康を回復させ、いっそうの長寿としていくことが眼目なのである。高齢化が進む現代にあっては、ただ寿命を延ばすということより、いかにして心身ともの健康を回復し、有意義に生きていくかが、重要な課題となっているといえまいか。
3  アメリカのルネ・デュボス博士は、数々の業績を残した著名な細菌学者である。すでに亡くなられたが、私もかつて東京で会談したことがあり、たいへんに立派な人格者であったことを、印象深く記憶している。
 デュボス氏とマヤ・パインズ氏の共著である『健康と病気の話』のなかでは慢性の病気の割合が増えていることにふれ、「長生きする人が多くなるにつれて、さらに増大するでしょう。そして家庭にも病院にも診療所にも、回復の見込みのない老人たちがふえてゆくと思われます。医学は、そうした患者の命を取り止めることはできても、元気にさせることはできないからです」(ライフ編集部編、杉靖三郎日本語版監修、タイム ライフ インターナショナル)と述べている。まことに医学の本質をついた鋭い指摘である。
4  また、ある医師は「平均寿命は延びたが、個人の寿命が延びたかどうかはわからない。若くして死ぬ人は減ったが、成人病で悩む人は増えている」と語っている。
 さらには「肉体の細胞は、どこまでも生きよう、生きようとしている。それが人間の本能といえる。その生きる意志を、人間は、みずからの心で阻み、ことさら老け込んだり、早死にしたりする。これは、罪だ。人間は、我が細胞の生きる意志を尊重しなくてはいけない。そのためには、生ある限り働くことだ。人のために尽くすことだ」という医師の言もある。
 また、トインビー博士も、最後まで有意義に生きぬくためには、高等宗教こそもっとも重要であると明言されていた。
 ともあれ、私は、けさの聖教新聞(九月十五日付)の「四季のうた」でも紹介されていた丸野弥堅やかた先生(東京・大田区在住)こそ、高齢者の一つの模範像であると思っている(拍手)。八十五歳の今もなお、医師として、信仰者として、人のため、法のために、かくしゃくと働き、力を尽くされている。まことにすばらしき姿であり、いっそうのご壮健とご長寿をお祈りしたい。
5  医療技術の進展とともにクローズ・アップされてきた問題の一つに、「脳死」がある。世界的にも大きな課題となっており、熱心な論議が交わされている。
 かねてから私も、仏法の生命観のうえから、何らかの形でふれておかねばならない問題であると思ってきた。私なりに勉強もし、また思索もし、近々、『東洋学術研究』誌上に、二、三回の連載として論じたいと考えている。(=『脳死問題に関する一考察』と題した論文を一九八七年〜八八年に三回にわたって寄稿)
6  発祥の地インドでの仏教興亡の歴史
 さて、私の恩師である戸田先生は、よくさまざまな没落の姿にふれられ、「あれだけ有名な会社が倒産したのは、なぜなのか」「あのように立派な人が、最終的には悪の苦海に沈んだのはどうしてなのか」「あの栄えた国が滅亡にいたった理由は何か」「あのような優秀な民族が滅び去ったのはなぜか」等々、″敗北の原理″について追求され、論じられた。また、それを追求し、知っておかなければ、偉大な指導者にはなれないと、よく私どもに″衰亡″と″転落″の方程式を教えてくださった。
 きょうは、仏教発祥の地であるインドにおいて、あれほど隆盛をほこった釈尊の仏教が、なぜ滅んだのか、その理由の一端について、概観だけでも申し上げておきたい。というのも、仏教の興亡の歴史から、御本尊日蓮大聖人の仏法が、またわが創価学会が、未来永遠に栄えていくためにも、何らかの参考になればと思うからである。
 日蓮大聖人の仏法は末法万年にわたり永遠であられる。ゆえに世界に広宣流布しゆく創価学会も、永遠不滅でなければならないのである。
7  釈尊が悟りを開いた国・マガダ国は、インド十六大国の一つとされる古代の王国である。その地域は、現在のインド・ビハール州の南部にあたり、仏教に縁の深い霊鷲山、王舎城、伽耶城などは皆、この国にあった。とくに、釈尊在世中の王・頻婆沙羅王は、釈尊に深く帰依し、仏教を厚く保護した。
 その点について、日蓮大聖人は「上野殿御返事(梵帝御計事)」に、次のように仰せである。
 「びんばさら頻婆沙羅王と申せし王は賢王なる上・仏の御だんな檀那の中に閻浮第一なり、しかもこの王は摩竭提国の王なり、仏は又此の国にして法華経を・とかんとおぼししに・王と仏と一同なれば一定法華経かれなんとへて候」と。
 つまり――頻婆沙羅王という王は、賢王であるうえ、釈尊の信者のなかでは世界第一であった。しかも、この王はマガダ国の王であった。仏(釈尊)はまた、この国において法華経を説こうと思われたときに、王の信仰の心と仏の化導の意とが一致していたので、必ず法華経が説かれるであろうと思われた――と。
8  しかし、釈尊がもっとも大事な法門を説こうとしたときに、反逆者・提婆達多が登場する。釈尊への怨嫉の心に支配された提婆は、何とか釈尊の本懐を妨げようとした。
 御書には、すぐあとに「提婆達多と申せし人・いかんがして此の事をやぶらんと・おもひしに・すべて・たより便なかりし」――提婆達多という人は、なんとかしてこの事をだめにしようと企てたが、すべてうまくいかなかった――と仰せである。つまり、最初は、提婆のたくらみも、なかなか功を泰さなかった。
9  しかし、「とかうはかりしほどに・頻婆沙羅王の太子阿闍世王あじゃせおうとしごろ年来とかくかたらひて・やうやく心をとり・をやと子とのなかを申したがへて・阿闍世王あじゃせおうをすかし父の頻婆沙羅王をころさせ」――あれこれ画策し、頻婆沙羅王の太子である阿闍世王を、数年の間さまざまに説得して、しだいに心をつかみ、親と子の間をたがえさせ、阿闍世王をだまして父の頻婆沙羅王を殺させ――たのである。
 子供をそそのかし、実の父親を殺害させるとは、なんたる非道であろうか。だが、これは史実である。
 ″提婆の心″の恐ろしさを、私どもはよくよく心していかねばならない。また歴史において、正法誹謗の様相は、つねに同じであったし、また、これからも同じであるにちがいない。
 それにしても阿闍世は、「閻浮第一」といわれた賢王の子である。それが、いともたやすく提婆の甘言と奸計にだまされ、父殺しの大罪を犯した。
 やはり、親と子とは別である。父や母が、いかに立派な人でも、子供がすべて人格者となるわけではない。またいかに夫が良い人でも、夫人がよくない場合もある。人間は、決して血縁のみで決まるものではない。
10  提婆の奸計にのった阿闍世王
 ところで、父殺しの阿闍世が即位すると、国はどうなったか。大聖人は、続いて次のように御指南されている。
 「阿闍世王あじゃせおうと心を一にし提婆と阿闍世王あじゃせおうと一味となりしかば・五天竺の外道・悪人・雲かすみのごとくあつまり・国をび・たからをほどこし・心をやわらげすかししかば・一国の王すでに仏の大怨敵となる、欲界・第六天の魔王・無量の眷属けんぞくを具足してうち下り、摩竭提国の提婆・阿闍世・六大臣等の身に入りかはりしかば・形は人なれども力は第六天の力なり、大風の草木をなびかすよりも・大風の大海の波をたつるよりも・大地震の大地をうごかすよりも・大火の連宅をくよりも・さはがしくをぢわななきし事なり
 つまり――提婆達多が阿闍世王と心を一つにし一味となると、全インドの外道や悪人が雲霞うんかのように集まり、それらに国を与え財を施し、心を和らげ機をとったので、一国の王はすっかり仏の大怨敵となった。欲界の第六天の魔王がはかり知れないほどの眷属を引き連れてうち下り、マガダ国の提婆達多や阿闍世王や六大臣等の身に入りかわったので、形は人間であっても、力は第六天の魔王の力であった。大風が草木をなびかすよりも、大風が大海の波を立てるよりも、大地震が大地を動かすよりも、大火が連なる家々を焼くよりも、人々は騒がしく畏れおののいたのである――と。
 要するにマガダ国は、すっかり悪人と外道の国に変わり果ててしまった。しかも、たんなる悪人ばかりではない。悪の棟梁ともいうべき第六天の魔王が、無数の眷属とともに権力者の心に入った。つまり法華経に説かれる「悪鬼入其身」(悪鬼その身に入る、と読み、悪鬼が衆生の身に入り、正法を護持する者を迫害することをいう)となり、姿は人間でも、その内実は悪鬼の化身となってしまった。しかも彼らには、その自分の姿が自分ではわからなくなってしまったのである。
 この「悪鬼入其身」の原理については、時間の都合上、別の機会にゆずりたい。ただ、近年、狂気のように宗門と学会を非難、攻撃してきた行動も、これまた「悪鬼入其身」の姿であり、仏法上からみるならば、鋭く見分けることができるのである。
11  山崎某一派の画策の構図は明瞭であった。彼らは、僧俗一致であっては困るのである。僧俗一致では自分たちがつけ入るスキがないからである。
 そこでまず学会に対し、宗門に悪事があるかのごとくつくりあげて伝える。次に宗門側には、学会が宗門を支配する野望をもっている等、つくり話を伝える。こうして互いに警戒心をりながら動揺させる。さらに一部のマスコミを使い学会を攻撃、攪乱させ、みずからはさも調停役のような恰好をしながら画策を進める。つまり、宗門側にもいい立場となろうとし、かつまた、学会をも支配する立場になろうとする魂胆で始めたのである。その心は卑しく提婆のような心であったといってよいだろまう。
 とくに学会の責任者である私を攻撃すればいちばん効果があり、決定的な破壊ができるであろうと、ねらったことは一目瞭然である。それに正信会の僧たちが完全に乗ってしまい、また学会の中にも乗せられたものがいたのである。愚かであり、また悲劇であるというほかはない。
 賢明なリーダーである皆さま方は、すでにこの構図についてはご存じと思うが、後世のため、また後輩のため、よくよく確信ある指導をお願いしたい。
12  さて、提婆達多の奸計などにより、釈尊とその門下を、次々と法難が襲った。いわゆる「九横の大難」と呼ばれる難である。御書には、その経緯を次のように仰せである。
 「さればはるり波瑠璃王と申せし王は阿闍世王あじゃせおうにかたらはれ釈迦仏の御身したしき人数百人切りころす、阿闍世王あじゃせおうは酔象を放ちて弟子を無量無辺ふみころさせつ、或は道に兵士をすへ・或は井に糞を入れ・或は女人をかたらひて・そら事いひつけて仏弟子をころす、舎利弗・目連が事にあひ・かるだい加留陀夷が馬のくそにうづまれし、仏はめられて一夏九十日・馬のむぎをまいりしこれなり
 すなわち――波瑠璃王という王は、阿闍世王によって仲間に引き入れられ、釈尊の親しい人数百人を切り殺した。阿闍世王は、酔った象を放って釈尊の弟子を数多く踏み殺させた。あるいは道に兵士を伏せ置き、あるいは井戸に糞を入れ、あるいは女性を仲間に引き入れてをいいつけ、仏弟子を殺した。舎利弗や目連が事件にあい、加留陀夷かるだいが馬の糞に埋められて殺され、さらには釈尊自身が苦しめられて、ひと夏九十日間、馬の麦を召し上がられたのは、このことである――と。
 まさしく大難であり、法難である。いわんや末法の御本仏であられる大聖人の大難はそれ以上である。それを考えれば、門下の私どもの難はまだまだ小さいと思わなくてはならない。しかし方程式はまことによく似ていることを見極めねばならない。
13  変わらぬ正法弘通の方程式
 さて、釈尊と門下に大難が引き続くのを見て、世間の人々はどう考えていたのか。むろん、釈尊の教えに、人々は懐疑を深めていったにちがいない。
 御書には、そうしたようすが、わかりやすく述べられている。
 いわく、「世間の人のおもはく・悪人には仏の御力もかなはざりけるにやと思ひて信じたりし人人も音をのみて・もの申さず眼をとぢてものを・みる事なし、ただ舌をふり手をかきし計りなり、結句は提婆達多・釈迦如来の養母・蓮華比丘尼を打ちころし・仏の御身より血を出せし上・誰の人か・かたうど方人になるべき、かくやうやうになりての上・いかがしたりけん法華経をかせ給いぬ」と。
 つまり――世間の人の思いには、悪人に対しては仏の御力もかなわないのであろうと思って、仏を信じていた人々も声をひそめてものもいわず、眼を閉じてものを見ることもしない。ただ、舌を巻き、手を左右に振るばかりであった。あげくのはては、提婆達多が釈如来の養母の蓮華比丘尼を打ち殺し、仏の御身から血を出したうえは、だれ人が味方になろうか。このようにさまざまな苦難が重なってきたのち、どうしたことか、法華経を説かれたのである――と。
 教団が、相次ぐ弾圧や迫害を受け、危殆にしている。それを見た人々は、正しい力ある仏教といいながら、どうしてこうなるのか。やはり、悪人はに力が及ばないのだろうか、と考えた。また、信じていた人たちでさえ、確信を失い、口を閉じ、目を閉ざした。そして自分は関係がないという態度を決めこんだというのである。
 釈尊の時代も今日も、難が起こると同じような心理状態になるものであろうか。
 私どもは、難があればあるほど、強盛な信力、行力を出して、広布へと力強く進んでいくべきである。そうでなければ、地涌と正義の勇者としての資格はない。
14  ここで、とくに強調しておきたいのは、こうした最大の苦境のなかで、釈尊は、出世の本懐である法華経を説かれたということである。
 日蓮大聖人もまた、出世の本懐である本門戒壇の大御本尊を、熱原の法難という大難のさなかで御図顕されている。ここに、甚深の意義があることを銘記したい。
 次元は異なるが、私どもの人生にあっても、いざという時が重要である。何か大事が起きたときに、苦難に耐えて信念を貫くか、臆して後退するか。ここに、人生の勝負、また幸・不幸を決する岐路がある。″大事の時″にこそ、その後の人生が決まってしまうことを、絶対に忘れてはならない。
 続いて大聖人は、こう述べられている。
 「此の法華経に云く「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多しいわんや滅度の後をや」と云云、文の心は我が現在して候だにも此の経の御かたきかくのごとし、いかにいわうや末代に法華経を一字一点もとき信ぜん人をやと説かれて候なり
 ――この法華経には「しかも、この経は如来の在世においてさえ怨嫉が多いのである。ましてや如来の滅度の後においては、なおさらである」とある。文の意は、私(釈尊)が現に存在していてさえも、法華経の敵はこのように怨をなす。ましてや、末法の時代に法華経を一字一点でも説き、信じようとする人には、さらに激しい怨嫉が起こるであろう、と説かれているのである――と、末法の御本仏・日蓮大聖人の御事を仰せられている。
15  この御文からわかるように、正法を行ずる人に、難は必ず競い起こる。それどころか、末法今時においては、衆生の怨嫉が、釈尊の在世よりいちだんと激しく、それだけ厳しい。
 私も、この経文の深義が、しみじみと実感されてならない今日である。門下である私さえ、法のゆえに脅迫もされた。侮辱もされた。また、陰謀をめぐらされ、裏切りも受けた。捏造もされた。濡衣も着せられた。何回も利用され、巧妙な罠にもはめられた。勝手に噂も作られた。嘘つきの天才たちがよくもここまででっち上げの文章を書けるものかと、驚いたりもした。また、命に及ぶような危険なときも、何回かあった。
 しかし、私は、不惜身命の決意で、大聖人の仰せのままに邁進してきた。ゆえに、恐ろしいものは何もない。ただ、皆さま方がいやな思い、悲しい思いをしたり、時には信心の心を紛動されてしまうようなことがあれば、ただそれだけがつらく、申しわけなく思うばかりであった。
16  日蓮大聖人は、正法弘通のために、たとえ大難があろうとも、弟子・門下に対し″申しわけない″という御言葉を述べられてはいない。むしろ「難来るを以て安楽と意得可きなり」等と、法難のたびに厳格な指導を示され、門下を励まされている。この深い深い意義を、どうかおわかり願いたい。
 私どもは、決して、悪いことをしたから難をこうむるのではない。理由にもならぬを捏造され、難を受けてきたのである。
 しかし、御書の随所に示されているように、仏法者にとって難が競い起こるのは当然であり、この難と戦い、広布に邁進しゆくところに、信心の成長と、永遠の幸福への前進があることを決して忘れてはならない。
 要するに、難があったから、その人が悪いのではない。難がないから、その人が正しいのでもない。正法弘通における難を、御聖訓に照らしよくよく思索し、分析して善悪を論じていくべきである。
 何回も申し上げてきたが、私は第三代会長に就任の折、日逹上人より「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」の御文をいただいた。
 私は、これまでも、この御金言通りの精神で進んできたし、これからも、この決意で前進していくつもりである。これこそ、永遠にわたる学会精神であると思っている。
17  インド仏教滅亡の歴史的教訓
 さて、このように釈尊の在世においては、いかなる権力・武力による難も、仏教を滅亡させることはできなかった。それどころか仏教興隆の糧とさえなった。その仏教が、釈尊入滅後、やがてインドで滅亡してしまった理由は何か。ここに重大な歴史の教訓がある。
 インド仏教の滅亡――このテーマについては、インドのカラン・シン博士との対談でも論じあった。その対談集『内なる世界――インドと日本』は近い将来、出版される予定になっている。(=一九八八年に東洋哲学研究所から発刊後、第三文明社レグルス文庫に収録)。また、これからも機会をみて、種々の観点からふれるつもりである。そこできょうは、その概略のみ述べておきたい。インドにおける仏教の滅亡を決定づけたのは、八世紀から十三世紀にかけて繰り返されたイスラム教徒の侵入である。
 この点について、カラン・シン博士は述べている。
 「八世紀に始まり、その後、幾世紀にもわたってインドを荒らしたこの侵略は、インドの仏教に最後のとどめをさしました。この様相を象徴的に示しているのが、一二〇三年のイスラム教徒によるヴィクラムシラ寺院の容赦ない破壊と、その僧尼の大虐殺だったわけです」と。
 この通り、一二〇三年の同事件をもって、インド仏教滅亡とするのが、現在の定説である。
 ここで大切なことは、なにゆえに仏教が、イスラム教徒侵攻という″大難″のまえに敗れ去ってしまったのか。その根本の因は何か、という一点である。
18  すなわち、一二〇三年は、ひとつの重大な歴史の区切りではあった。しかし、それ以前から、すでに仏教は、その本来の精神を失い、解体しかかっていた。堕落し、弱体化して、久しく衰亡への坂をころげ落ちているのが現実の姿であった。
 その端的な表れとして、「仏教の密教化」があげられる。
 インドの仏教は、その最終期において、とくに七、八世紀ごろから、急速に密教化していった。その背景には、当時のヒンドゥー教の興隆がある。ヒンドゥー教は、古代からの伝統教義であるバラモン教を母胎としている。アショーカ王の出たマウリヤ(孔雀)王朝(前三〜前二世紀ころ)の時代に、種々の民間信仰を吸収しながら、徐々に民衆に根ざした信仰を作り上げていった。
 仏教は、カニシカ王で有名なクシャン王朝(一〜五世紀ごろ)等を中心に、大乗の教えが隆盛となり、その高度な教理・哲学は、諸宗教、諸哲学、学問、文化にも大きな影響を与えたものの、四世紀に興ったグプタ王朝では、ヒンドゥー教が興隆し、仏教勢力はしだいに押され気味になってきた。
 というのも、グプタ王朝では、強力な中央集権国家をつくるために、その精神的中核として、古いバラモン教の伝統を復活させ、ヒンドゥー教を国教とする政策をとったのである。そこで仏教は、時代の趨勢に押し流されるように、みずからインド土着の民間信仰を取り入れ、急速に密教化していったのである。
19  密教化で失われた仏教本来の精神
 密教についても、いずれくわしく論じたいと思っているが、加持祈祷の呪法や、荘厳めかした神秘的儀礼などにも、ヒンドゥー教の影響が見られる。こうしたヒンドゥー教との妥協は、仏教を″形″は延命させたように見えて、その実、釈尊の″魂″を殺してしまうものであった。
 歴史上、宗教者がみずからの保身のため、時の支配的宗教と妥協し、堕落していった例は多い。
 日蓮正宗においても、戦時中、軍部と結んだ国家神道の威光を恐れ、みずから神本仏迹論なる邪義を唱えた僧がいた。こともあろうに「神が″本″、仏が″迹″」なる本末転倒の論を展開した。また明治以降、仏教界においては、神道との混淆を行う傾向がいちだんと強くなった。
 いかなる時代が来ても、他宗教への安易な妥協は絶対に許されない。どこまでも日蓮大聖人の仏法の清流を堅持し、弘教に進んでいく以外にない。また峻厳なる根本の学会精神は、いささかも変わってはならない。
 ともあれ、二度と歴史の同じ轍を踏んではならない。戸田先生も、痛烈にその思いをいだかれていたことを、私はよく知っている。
20  ちなみに、日本で古くから民間信仰に基づいて成立したのが「神道」である。インドでこれにあたるのが、民族宗教である「ヒンドゥー教」である。
 神道は、日本の国家主義的傾向の伸展とともに栄えた。それと同じく、インドにおけるヒンドゥー教興隆の背景にも、中央集権的な国家体制では、万人の平等を重んじる世界宗教としての仏教よりも、保守的、階級的、民族主義的なヒンドゥー教のほうが、当時の権力者にとって好都合であったという事情がある。まさに軌を一にした歴史の展開である。
21  インドにおいて、釈尊の仏教が密教化して滅びたのと同様、中国・日本においても、密教化が仏法正統の流れをしだいに侵し、その本義を失わせる要因となっている。
 密教では、仏教の本来の教主である釈尊を捨てて、大日如来を本尊と立てる。大日如来は、釈尊と異なり、歴史上の実在の″人間″に基づかない架空の仏である。密教では、こうした超人間的な仏を、きらびやかに説き、仏教本来の、どこまでも現実に根ざした教えよりも、なんとなく立派そうな錯覚を起こさせる。民衆の宗教への無知につけこみ、荘厳さと神秘感にあこがれをいだかせるのである。
 しかし、このように、本来の″主″を倒すゆえに、一切が転倒し、ついには国をも滅ぼすと、日蓮大聖人は破析された。すなわち御書のなかで「真言は国をほろぼす」、「真言は亡国の悪法」等と、厳しく破しておられる。
22  さて、ヒンドゥー教を復興させたグプタ王朝も、やがて滅亡する。その後、東インドに興ったパーラ王朝(八〜十二世紀)は、仏教を積極的に保護した。しかし、その仏教は、すでに色濃く″密教化″されていた。
 パーラ王朝の仏教保護によって、数々の寺院が建設されていった。有名なものには、王朝の事実上の創始者であるゴーパーラ王が建立したオーダンタプリー寺院、また次のダルマパーラ王が建てたヴィクラマシーラ寺院などがある。先ほど申し上げたように、このヴィクラマシーラ寺院が、インド仏教の最後の舞台となったわけである。
 同寺院は九世紀初頭、ガンジス河畔に建立された(現在のベンガル地方バーガルプール近郊)。その広大さと僧尼の数において、インド仏教史上、最大規模の寺院であり、その下に一〇八の末寺を擁していた。
 また当時、仏教は諸学問と密接に結びついた存在であり、寺院は学問研究的性格の強い、いわば総合大学のような位置にあった。大学といえば、イギリスのオックスフォード大学も、ケンブリッジ大学も、その起源はキリスト教の聖職者養成や神学研究が中心であった。
 ヴィクラマシーラ寺院も、強い″密教色″をもちながらも、仏教全般はもとより、他の諸学問の研究も広く行われていた。またインドのみならず、現在のチベット、ネパール、中国、ジャワ、スマトラなど諸外国から多数の留学僧も集まり、そこから立派な指導者を多く輩出していった。
 次元は異なるが、私の創立した創価大学からも、社会貢献の指導者が無数に巣立っていくことを念願してやまない。
23  衰亡の内因となった民衆との遊離
 一一九九年、パーラ王朝は滅亡する。その四年後、イクティヤール・ウッディーン将軍ひきいるイスラム教徒の攻撃によって、ヴィクラマシーラ寺院は焼かれ、破壊された。多くの僧尼も虐殺された。
 この事件の詳細は、現在のところ、よくわかっていないが、カラン・シン博士も″同寺院は、人類史上最大の教育施設に数えられる大僧院大学の一つであり、同寺院が破壊されたことは人類史上の最大の悲劇である″と指摘している(前掲『内なる世界―インドと日本』、参照)。これによって、インド仏教は、その息の根を止められ、社会の表面から姿を消してしまうことになるが、同寺院の滅亡が、そのままインド仏教の滅亡を意味していたということ自体、当時における同寺の重要な位置がしのばれる。
 同寺は、城塞化され、国際的交流の力ももっていたにのかかわらず、あっけなく滅亡した。なぜか。その要因の一つは、″民衆との連携″が薄かった点にあった。ここに、同寺のみならず、インド仏教全体の衰亡をさぐる手がかりがある。
 すなわち、インド仏教滅亡の原因は、さまざまに論じられるが、大別すれば外的要因としての「イスラム教徒の侵入」、また「ヒンドゥー教との妥協」があげられる。しかし、もっとも顕著にして重要なのは、内的要因としての「民衆と遊離」である。これは、多くの学者の一致した見解である。
24  民衆ほど大切なものはない。民衆の大地から離れて栄えつづけたものもない。仏教も本来、民衆のために、民衆のなかで説かれ、広がった。しかし釈尊入滅後、仏教はしだいに民衆救済の精神から遠ざかっていった。それはいったいなぜか。
 その一つの表れが「解釈学の先行」をあげる研究者がいる。
 釈尊自身は、その悟りをたくみな譬喩等を使って、やさしく説いた。また卓越した慈悲の人格によって、人々を教化した。ゆえに、難解な仏教の法理を理解できない人々も、釈尊の、時に応じ、人に応じ、所に応じた「自在な説得力」と、「偉大な人間性」によって、仏教に帰依することができた。
 しかし釈尊入滅後、仏教教団は、仏説の解釈や教理について、煩雑な議論を繰り返し、見解の相違から多くの部派に分裂していった。いわゆる「部派仏教」の時代である。
 そうしたなか、実践者として「民衆の中へ入り」「民衆の苦を救う」という釈尊の真意から、遠くかけ離れたものになっていった。その後、こうした傾向への反省等から、大乗仏教が興隆した。しかし、大勢として、インド仏教の民衆遊離の傾向は変わらなかった。
 ともあれ、民衆を忘れ、現実を離れて、いたずらに空理空論をもてあそぶ姿のなかには、すでに仏法の精神は完全に失われている。
25  もっとも重大なことは″一人″の人間を心から蘇生させていくことだ。また、正法を″広宣流布″することである。さらに、正しく信・行・学の修行を貫き通していくことでる。そこに一切がある。
 いかに難解な論理をあやつり、深遠そうな言葉で自身を飾ったとしても、広布への実践なき人を、決して信じてはならない。だはされてはならない。そうした人間がこれまでにも多大な害毒をまき散らしたことは、皆さまがご承知の通りである。一時、数学部の幹部であった退転者もこの部類であった。また、これからも同類のものが現れてくることもあるにちがいない。
 いかに、すばらしい哲学でも、民衆にわからなければ価値がない。いわゆる難解な論が優れているのではない。決して尊いのでもない。逆である。もっとも深遠な哲理を、もっともやさしく説く人こそ、真実の仏法者なのである。また広宣流布の指導者なのである。
26  これに関連して、インド仏教の民衆からの遊離を表す例として、サンスクリット(梵語)による仏典の編纂がある。
 もともと釈尊は、弟子たちに俗語、すなわち社会一般に使われている日常の言葉での説法を勧めたとされている。そのことは、現在、各地で発見される仏典の写本が、そうした言葉を反映して書かれていることからも推察される。
 しかし、仏教が衰え始めたグプタ王朝の時代になると、古典的で煩瑣な文語の正統としてのサンスクリットが国家的に奨励された。そこから仏教徒たちの議論や著作にもサンスクリットを用いるようになっていった。
 サンスクリットには、地域的な方言を越えた″共通語″としてのメリットはあった。しかし、民衆の日常語ではなく、聖なる言葉として、バラモン教の聖典ヴェーダ等に使用されていた言葉である。
 庶民にわからぬ言葉での学問論議――このこと自体、仏教が民衆のなかでの生きた躍動を失った証とも言われている。
 この点、「当時の僧侶は民衆から離れて、奥深い大寺院の中で、ひとり瞑想にふけるか、あるいは煩瑣な学問の遊戯にふけっていた。かれらは、民衆とともに苦しみ民衆を救おうとする精神が乏しかった。かれらには伝道精神が欠けていたのである」(『インド古代史・下』、『中村元選集 第六巻』所収、春秋社)とする中村元博士の正鵠を射た指摘もある。私も、そう思っている一人である。
 御本仏日蓮大聖人も、「かな」のほうが相手にわかりやすい場合には、「ひらがな」で御手紙を書かれた。ここにこそ仏教本来の精神があり、指導・弘教の方軌がある。しかし五老僧は、かな書きの御書を軽侮し、もったいなくも焼いたり、き返したりした。すべて自分たちの虚栄からきた錯誤である。この歴史の事実を忘れてはならない。
27  インド仏教の民衆遊離の他の面としては、その支持層が都市住民に限られていたという点がある。都市には王族がおり、富裕な商人がいた。仏教教団は、しぜん彼らの寄進にのみ依存し、その結果、地方、とくに農民たちの間に深く根を張ることができなかった。
 学会も地方を、これまで以上に大切にしていかねばならない。また、それぞれの地域にあって、都市部は比較的、華やかでもあり、活動の環境もととのっている。ゆえに都市の大切さは当然として、幹部は率先して、遠隔の地にも光りを当て、足を運び、もっとも苦労している地域の先端にこそ、激励の手をさしのべていかねばならない。
28  もう一つの、重大な変化が起こった。それは、「僧院中心主義」による僧の堕落である。なすわち僧院の増加にともない、それまで個々の修行者の乞食行に対して行われていた供養が、僧院自体に対して行われるようになった。
 鉢を持って一軒一軒の家をたずね、食を乞うて歩く托鉢の修行は、一定の厳しい行儀に基づいていた。しかし、僧院の比重が増すにつれて、日々の厳しい修行は、しだいに忘れ去られるにいたった。
 修行がなくても、権力者や富豪は次々に財物を寄進する。しかも、しだいに供養は巨額となり、僧院には莫大な財産が蓄えられた。やがて土地さえ寄進されるようになり、僧院は広大な土地からあがる小作料で維持、運営されるなど、″世俗領主″と肩を並べるほどであった。
 カラン・シン博士との対談でも紹介したが、こうした僧院の変化のようすを鋭く指摘した研究がある。インドの歴史家ロミラ=ターパルは、次のように述べている。
 「今や彼らは、僧院の広い食堂で毎度の食事をとっていた。僧院は、町に隣接してか、さもなければ都会の喧噪からはるか離れた美しい静かな丘陵などに建てられた。人里離れた僧院は、僧たちが快適に暮らせるように十二分の寄進を受けていた。こうして仏教教団は次第に一般民衆から遊離し、孤立化する傾向をもつようになった。そしてそ結果、宗教的な力は大きく失われた。ブッダが生きていたならば、おそらくこのような発展を受け容れはしなかったであろう」(『インド史』山崎元一・小西正捷訳、みすず書房)
 サンガ(仏教教団)を形成する比丘たちは、本来、求道の「修行者」であり、同時に「弘教者」であり、民衆のよき「導師」のはずであった。しかし仏教が僧院中心主義となり、僧院が僧たちの専有物と化した結果、峻厳な「修行」も、慈愛の「弘教」も、民衆の幸福に尽くしていく「指導者」としての使命も見失われていった。
 このようにインド仏教の「民衆からの遊離」は、あらゆる面で顕著であった。
 強い「信仰」に基づく仏教本来の生命力を失い、観念化していった。こうなっては弱体化するほかないのは、個人においても、組織においても同様である。
29  民衆こそ仏法の大地
 これに対し、事実として、インドの民衆に根づいたのはヒンドゥー教である。教えの高低浅深は別にして、現在、仏教発祥の地インドにおいて、仏教徒がわずか一%足らずにすぎず、ヒンドゥー教徒が八〇%を数えるという現実は直視しなければならない。
 ある研究によれば、インド仏教史の全体を通じて、仏教は一度も、ヒンドゥー教ほど民衆に指示されたことはなかった。仏教の隆盛期とされるアショカ王、カニシカ王の治世においてさえ、一般民衆の間に根強い勢力をもっていたのはヒンドゥー教であったという。
 その後、仏教は時代の推移とともにヒンドゥー教と妥協した。それは、ある意味で民衆への接近ではあった。しかし、もっとも大切な釈尊の原点と独自性を失って吸収され、姿を消していった。
 この歴史の事実は、よくよく冷静に思索し、将来への糧としていかねばならない。
30  結論するに、もっとも重要なことは、本来の精神を堅持しつつ、いかに「民衆」とともに生き、「民衆」を覚醒させていくかである。一切の基盤である「民衆」を離れた結果、インドの仏教は滅亡した。この過ちを繰り返すのはあまりにも愚かである。
 歴史の教訓は、「民衆」による外護の組織が絶対に必要であることを厳しく教えてくれている。人類救済の大法を奉じる日蓮大聖人の仏法を、永遠に興隆せしめていくためには、学会の「民衆」の連帯もまた不滅でなければならない。その正しき僧俗和合によってこそ、人類救済へと限りなく前進していける。令法久住、広宣流布への、この根本の軌道を深く銘記していただきたい。
31  ともあれ、私ども大聖人門下として、正法を厳護し、永遠ならしめていく責任がある。私は、その責務を片時も忘れたことはない。いな二百年先、三百年先、さらに遠い未来への令法久住、広宣流布のために、だれよりも責任を感じ、悩み、苦しみながら、基礎をつくっているつもりである。
 目に見えぬ、皆にわからぬところで、くる日もくる日もあらゆる手を打ち、考えぬき、行動している。今はいかなる無理解と誤解があろうとも、その事実はあとになればなるほど、必ずやなるほどとわかり、感謝していただけるものと確信いている。(拍手)
 インドにおける釈尊の仏教の滅亡。それは別の観点からみれば、仏法の正統を受け継ぎ弘めた「付法蔵の二十四人」の最後の一人、師子尊者の壮絶な死をもって、その時とみることもできよう。六世紀ごろのことである。
 しかし、この六世紀には、中国に天台大師が現れ、仏教史上に燦たる一時代を開いた。
 また、これまで述べたように、インドの仏教が完全に衰滅したのは十三世紀初頭。これと時を同じくして、日本に日蓮大聖人が御出現になり、万年を照らす大法を建立されている。
 このように、いったんはインド社会の表面から姿を消した仏教は、時代とともに所を変えながらも、底流においては、さらに深く、広く、各国の民衆の生命を洗い、今日の世界宗教へと大発展したといえる。最後にこのことを付け加えておきたい。
32  妙法信受の人は安穏なる臨終
 本日はドクター部の代表の方々も出席されている。次にドクター部の皆さまに対して申し上げておきたい。
 日蓮大聖人は、四条金吾に対して、次の御手紙のように絶大な信頼を寄せられている。ご承知のように金吾は、武士であると同時に、医術にたけた医師でもあった。また、信徒であり、大聖人の外護の将であった。
 御書には「ちごのそらう所労よくなりたり悦び候ぞ、又大進阿闍梨の死去の事・末代のぎば耆婆いかでか此れにすぐべきと皆人・舌をふり候なり」と仰せである。
 ――稚児(少年)の病気も、金吾のおかげで、すっかりよくなり、喜んでおります。また大進阿闍梨の死についても、金吾の見たて通りであり、釈尊在世の名医・耆婆ぎばが末代に出現したとしても、あなたには及ばないだろうと、みなが舌をまいて感心しきっています――と。
 このように述べられ、金吾の医術の確かさと見識の鋭さを絶賛されている。
 そして「日蓮が死生をば・まかせまいらせて候、全く他のくすしをば用いまじく候なり」と、書き送られている。
 ――死ぬも生きるも、すべて、あなたにおまかせします。他の医師は、まったく頼まないつもりでおります――と、まさに大聖人の四条金吾に対する限りない信頼がこめられた一節と拝する。
 また、ここから″医学と信仰は対立するものではなく、互いに補うものである″ととらえられる日蓮大聖人の、医学を尊重されるお心が拝察される。
33  十七世紀フランスの哲学者であり、数学者であったピエール・ガッサンディ。彼は、次のような辞世の言葉を残している。
  ――わたしは、だれがわたしをこの世に送ったかを知らない。
  わたしは自分の定めをしらないし
  また、なぜわたしが自分の定めから奪い去られるのか知らない――
   (『封建的世界像から市民的世界像へ』水田洋訳、みすず書房)
 彼の嘆声のゆえんは、今も何ひとつ変わらない。生命の本質、生死の問題に対しては、科学や医学の発展のみでは、明確な答えを得ることは絶対にできない。むしろ、文明が他の面で進めば進むほど、生死の課題は、より重く、より鮮明に迫ってきている。
 ゆえに、今こそ妙法をたもち、生命を預かるドクター部の皆さまの使命は、いよいよ重大になっている。これまでと同じ考えでいたのでは″時″を逸してしまう。このあまりにも大切な使命と責任への真剣なる自覚を強くお願いしたい。そして、四条金吾のごとく御本仏の賞賛を得られる活躍を、と私は期待し、念願している。
34  この生死の問題に関連して、次に臨終のさいの「断末魔」の苦についてふれておきたい。
 私は若いし、関係がない(笑い)という人もおられるにちがいない。関係はあっても聞きたくない(爆笑)という方もいらっしゃるかもしれない。それはそれとして、臨終は、やがてだれしも経験しなければならない人生の一大事である。決して、きょうが「敬老の日」だからというわけではないが(笑い)、すばらしき総仕上げの死を迎えるため、また生死の苦を救っていく仏法者として、臨終について学んでおくことも意義が深いと信ずる。
 「断末魔」とは″末魔を断ずる″という意味がである。「末魔」とは、サンスクリット語のマルマンの音訳で「死節」「死穴」等の意味がある。インド医学では、体内の筋肉・脈管・靱帯・骨・関節等に関連する″急所″のことを「末魔」と呼び、これを断ずれば死に到るとする。
 一説には、身体全体に六十四、あるいは百二十の末魔があり、これが臨終のさいには断じ分解されて、激しい苦痛をもたらすという。これが、いわゆる「断末魔の苦しみ」である。
 また仏法では、人間の身体は四大(地水火風)が仮に和合したものとみる。四大のうち、「地」は″堅(かたさ)″の性質をもち、骨や肉に対応、「水」は″湿(しめりけ)″の性質をもち水分に、「火」は″煖(あたたかさ)″で体温に、「風」は″動(うごき)″で呼吸に、それぞれ照応している。
 末魔は、この四大の結合の場である。臨終とは、この四大の結合が解体することであり、それは末魔を刺激し、断じるので苦痛をもたらすのである。
 日寛上人の「臨終用心妙」には、この四大の結合を「此の四が虚空を囲みまはすが此の身也。板柱等集まりて家を作る如く也」(富要集第三巻)――地水火風の四大が、空である心法を囲んでいるのが、人間の身体である。それはあたかも、家が板や柱などの材料が集まって作られているようなものである――と述べられている。
 そして死ぬときの苦しみは、家をつちでくずしバラバラにしていくように、身体を形成している四大が別々に切り離されるからであると教えられている。
 また同抄では、臨終の作法の一つとして、断末魔の苦しみのとき、そばの人間は、体にふれてはならない。指一本あてられただけでも、当人には、巨大な岩をぶつけられたような衝撃を感じるからである、とも述べられている。
 そのほか、仏法における「死」についての教えは、まことに具体的であり、現実的である。
 昨今、死に対する関心が高まっているが、それ自体は、まことに意義が深い。先日、NHKテレビで、ある宗派の青年僧と、死を直前にした高齢な方との対話が放映されていた。宗派の違いはともあれ、それなりに真剣に取り組んでいたと思う。
35  さて、この断末魔の苦に心を乱されず、それを乗り越えていくためには、どうすればよいか。この点がだれしも、もっとも関心の高い(笑い)、またもっとも重大なポイントである。
 このことに関して、「臨終用心抄」では三点をあげ、ふだんからの用心をうながされている。
 第一に、他人をそしったり、いじめたり、人の心を傷つける言動を、つね日ごろから慎むことである。つまり、そしり等の悪い行為が死苦を強めていくというのである。当然、折伏・弘教のための破折、また広布のための建設的意見、注意等は、それとはまったく別である。
 とくに妙法をたもつ地涌の勇者を、そしり、いじめ、侮辱などした罪は限りなく重い。無間地獄の苦しみとなる。これは信心のあるなしにかかわらず、同様である。また信心している場合は、なおさらである。
 第二には、このわが身が四大(地水火風)の仮に和合したものであるという実相を、よく理解しておくことを教えられている。つまり「死」によって、わが身の「四大」が宇宙法界の「四大」へと帰還し、融合していくとき、あらためて驚かないように覚悟しておくことである。その覚悟によって、心を乱すことを防げるからだという。
 そして第三番目は、これがもっとも肝要であり、一切の根本となるが、つねに御本尊と自分が一体であると思って、唱題に励むことである。この一点を実践していれば、あとはおのずからそなわってくるといってよい。
 このことを述べられるにさいし、日寛上人は「総堪文抄」の「実に己心と仏心と一心なりと悟れば臨終をわる可き悪業も有らず生死に留まる可き妄念も有らず」の一節を拝しておられる。
 すなわち、自分の「生命」と仏の「生命」とが、同じ一つの「生命」であると悟れば、臨終の平安をさまたげる悪業も生じない。生死の苦しみにとどまらせるような迷いの一念も起こらない――との大聖人の仰せであり、わが身が本来、仏の当体であることを強く確信しきって、御本尊に唱題していくよう教えられている。
 このように日寛上人は、あくまでも信力・行力・仏力・法力を根本とされており、そのうえでさまざまな用心を指導されている。
 正法の、この正しき実践を貫いた人は、臨終の時にも、何の憂いも、痛みも、苦しみもなく、晴れやかな″大安心″の境涯で、新たな三世の旅路へと出発していける。ここに仏道修行の重要な目的がある。そのように、死を見事なる勝利の人生の完成となした信仰者は、皆さまの周囲にも必ずや数多くおられるにちがいない。
36  大聖人は「御義口伝」のなかで「生の記有れば必ず死す死の記あれば又生ず三世常恒の授記なり」と喝破されている。
 ――「生」の「記」があれば必ず「死」があり、「死」の「記」があれば、また「生」ずるのであって、三世常恒の授記なのである――と。
 まさに仏法は、「生死」を繰り返していく生命の永遠性を明かし、その「生死」の流転を仏界という最極の境地に、どう高め上昇させていくかを説き示している。
 「過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死に法華経を離れ切れざる」と、大聖人がお示しのごとく、どこまでも御本尊を受持し、題目を唱えながら、広布に生きぬいたときにこそ、三世永遠にわたる生命の王道、最高の歓喜の大道を歩んでいけるのである。
 ゆえに、この無上道から離れてはいけない。仏種を断じてはならない。絶対に退転してはならない、と強く申し上げておきたい。
37  ともあれ、現実は三世永遠への大切な第一歩でもある。ゆえに私どもは強盛な信心にこの一生をかけながら、またこの現実の一つ一つの仕事に勝ち、乗り越えながら、永遠なる″歓喜の王道″を一歩一歩、進んでいきたいと念願し、本日の記念の講演とさせていただく。昭和六十二年九月十五日 創価文化会館

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