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日蓮大聖人・池田大作

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8・24記念杉並区幹部会 人類永遠の安穏の道を開示

1987.8.27 スピーチ(1987.7〜)(池田大作全集第69巻)

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1  世界の「安国」のために正法流布を
 晴やかな幹部会の開催を、まず心から祝福したい。本日は私の入信記念日「8・24」を記念する意義もこめられているとうかがっている。まことに恐縮のいたりである。私が入信し、御授戒を受けたのは歓喜寮である。これまで長く″中野の歓喜寮″と言い親しまれてきたが、実際は「中野区に近い杉並区」にあることが判明し、認識を新たにした。その意味からも、本日は、まことにうれしい集いとなったと申し上げたい。
 また、この幹部会の模様は他の会合に出席された多くの皆さまにも伝えられることになっている。すべての参加者の方々に対し、遠いところ、暑いところ、本当にご苦労さまと、その労をたたえたい。また心より感謝申し上げるとともに、皆さまのご多幸を深く念願する次第である。
2  さて、きょうは法華経に説かれる「諸天善神」についてお話ししたい。時間の都合でごく概略的な話のみになると思うが、今後、さらにさまざまな角度から、幅広く論じさせていただきたいと思っている。
 ――私の入信は昭和二十二年(一九四七年)八月二十四日。その十日前に初めて戸田先生にお目にかかった。蒲田の三宅宅での座談会であった。その時、戸田先生は、「立正安国論」を講義されていたことを、はっきりと覚えている。
 安国論は、ご承知の通り、「日蓮大聖人の仏法は立正安国論に始まり、立正安国論に終わる」と言われる重書である。立正安国にこそ、御本仏の根本精神があられる。
 戸田先生も、かつて、「なぜ広宣流布が必要か。それは、私はこの地球上から″悲惨″の二字を無くしたい。そのためには断じて広宣流布する以外にない」と強く述べられていた。その先生のお姿を、今もって忘れることはできない。
 正法による人類の救済――それは、もとより日本一国にとどまるものではない。私は、これまで世界四十数カ国の国々を訪問してきた。これからもさらに平和のために駆け続ける決意である。(=平成五年二月のチリ訪問で五十ヵ国に)
 それら、どこの国にあっても、いまだ真実の安穏はない。崩れざる平和はない。正法による「安国」が必要でない国はない。立正安国は、すべての国々にとって、いよいよ切実な法理であり、いわば「立正」による「安国」、そして「安・世界」を人類は求めている。これが現実であり、正法を流布する以外に、人類の永遠の安穏は絶対にない。
 この、時とともに輝きを増す「立正安国」の法理。諸天善神とは、その中核となる法華経の教えである。
3  法華経に説かれる諸天善神
 「諸天善神」は、正法を受持する″人″と、その″国土″を守護し、福徳をもたらす宇宙の働きのことである。「諸天」の名のごとく、一般に天界に属し、「善神」の名のごとく、正法を守り、人々の幸福を助ける善の力用を持っている。ゆえに正法が流布すれば、必ず、その国の民衆も国土も守られ、栄え、平和と幸に輝いていく。
 「諸天善神」は、法華経の会座えざに来集し、法華経の行者を守護する誓いを立てている。法華経の行者とは別しては日蓮大聖人、総じては広布に進む私ども門下である。
 諸天が集った模様は、法華経の序品第一に説かれている。(開結一二一頁)
 それによると、まず「釈堤桓因しゃくだいかんにん」。これは帝釈天たいしゃくてんのことである。帝釈天といっても、映画「男はつらいよ」で有名な東京の葛飾に住んでいるわけではない。世界の中心とされる須弥山しゅみせんの山頂・喜見城きけんじょうに住み、四天王を従えて三十三天を統領しているといわれる。
 また「娑婆世界の主・梵天王ぼんてんのう」。梵とは清浄、寂静、浄行の義である。序品では「尸棄しき大梵」「光明大梵」等の名も見える。
 梵天と帝釈は諸天善神の代表であり、仏の説法の時には、仏の左右に列なり、法を守護する。ともに、六道の凡夫が住む三界の広大な天地を領する善神である。それから見れば、一国を形だけ治めていばっているリーダーなど、比較にならぬほど小さな存在である。
 また「名月天子みょうがってんじ」(月)、「普香天子ふこうてんじ」(明星を代表とする諸星)、「宝光天子ほうこうてんじ」(太陽)の、三光天子も来集している。
 さらに「四大天王」がいる。御本尊の四隅におしたための諸天善神である。
 このうち「持国天王」は、治国天ともいい、東方を守護する。他の西南北の三州をも兼ねて守護するので持国という。また「安民」の名もあり、文字通り、国土を平和に治め、民を安穏に守護する働きである。
 「広目天」は、西方を守護し、浄天眼をもって常に衆生を観察している。悪を見破り、悪人をこらして仏心を起こさせる。核兵器等、悪魔の働きを見破り、防いでいく働きも、これに含まれると考えられる。
 「毘沙門天びしゃもんてん」は多聞天ともいい、北方を守護する。財宝富貴をつかさどって、その力で仏法を守護する。また多聞の名の通り、常に仏の説法を多く聞き、仏の道場、法座を守る。
 「増長(ぞうじょう)天王」は南方を守護し、衆生の所業の善悪を検討し、帝釈天に報告する。また増長とは免離の意味で、煩悩や不幸を近づけない働きとされている。
 以上が四大天王で、みな帝釈天に率いられた勇将である。
 そして「自在天子」「大自在天子」も集っている。大自在天は威力をもって三千世界を支配するとされる。いかると国土が荒乱するので、暴悪とも称する。
 これら序品に説かれた諸天は、それぞれ一万ないし三万の眷属けんぞくとともに釈尊の法会ほうえに列座している。
4  さて法華経の安楽行品第十四には、「諸天昼夜に、常に法のためゆえに、しかこれ衛護えいごし、く聴く者をして、皆歓喜することを得せしめん」(妙法華経並開結四六二㌻)と説かれる。ゆえに、法華経を弘教する人がいれば、法のために、諸天善神が昼となく夜となく、常にこの人を「守護」し、その人の「弘教」を助け、その「法」を説いて聞かせる、どんな相手をも「歓喜」させてしまうというのである。
 御本尊を受持し、広布に進む人を、いかなる時にも助け、妙法流布を推進していく――これが諸天の仏前での誓いである。
 同品にはさらに「天の諸の童子 以って給仕を為さん刀杖も加えず 毒も害すること能わじ」(開結四六八㌻)とも説かれる
 正法流布の人は、諸天がきたって仕え、刀や杖、毒薬などさまざまな危害、事故等から、その人を守るという厳然たる約束である。
 さらに陀羅尼品第二十六では、鬼子母神とその娘らである十羅刹女らが守護を誓う。
 「世尊、我等亦、法華経を読誦し受持せん者を擁護おうごして、其の衰患すいげんを除かんと欲す」(開結六四四㌻)と。七難など人間を衰えさせ、患わせる災害・災難から救うとの誓願である。
 十羅刹女らは爾前経では悪鬼とされたが、法華経に至って成仏を許されて善鬼となり、その恩返しのために諸天善神として働くことを約束した。
5  また諸天善神には、本来、日本古来の神である天照太神、八幡大菩薩等も含まれる。その本地、意義等については、多く御書もあるが、本日は略させていただく。ともあれ、仏法流布にともなって、各国・各地の土着の神々が、仏法の中に位置づけられた例である。
 日蓮大聖人は文永八年(一二七一年)九月十二日夜、竜の口の刑場に向かわれる途中、鶴岡八幡宮に向かって、八幡大菩薩を叱咤しったされておられる。釈尊が法華経を説かれ、諸仏・菩薩またインド並びに中国・日本等の善神・聖人が集った前で、諸天は一人一人「法華経の行者を懸命に守護する」という誓状を釈尊に差し出したではないか。今、大聖人の危難にあって、どうして誓いを果たさないのか――と。
 「いそぎいそぎこそ誓状の宿願をとげさせ給うべきに・いかに此の処には・をちあわせ給はぬぞ」――大至急、誓状の宿願を果たすべきであるのに、どうしてこの場所に来合わせないのか――と厳しく諫暁かんぎょうされた。
 この叱声に、八幡ならびに全宇宙の諸天善神が呼び覚まされ、竜の口のくびの座に、月光天子による光り物が出現して大聖人を守護申し上げた事実はあまりにも有名である。
6  ちなみに御本尊に天照太神、八幡大菩薩がしたためられていることについて、過去の国家神道との連想から、あらぬ誤解を受けたことがある。
 かつて日本の国家神道は、韓国等、他国の民衆に対し、権力を背景にして独善的に信仰を押しつけ、天照太神等を拝むよう強要した。この歴史の事実は、今も人々の心に忌まわしい記憶となって焼きついている。そこから御本尊の天照太神等の諸尊に注目し、仏法がかつての偏狭な国家神道と軌を一にするものではないか、と批判された。
 もちろん、全く見当違いの誤解である。大聖人は、この大御本尊は「一閻浮提えんぶだい総与」と仰せである。すなわち、もともと全世界の民衆のために顕された御本尊である。決して、日本一国を対象にした狭いものではない。
 また先ほどふれた大聖人の八幡への叱咤の中にも「天竺・漢土・日本国等の善神・聖人あつまりたりし時」と言われている。インド、中国、日本。その他の国を含む全世界の善神・聖人が、法華経の会座には参加していたとの御教示であり、「法華経」そして「大聖人の仏法」が、本来、あらゆる国を平等視していることはいうまでもない。
 とくに「……日本国等の善神・聖人」という「等」の一字を見落としてはならない。このように大聖人の仏法は、全世界、いな全宇宙へと開いた普遍性を元来そなえている。
 天照大神等は、あくまで「一念三千」という生命の全体観の中に、天界の一部として位置づけられ、宇宙の善なる働きを表象する役割を担っているわけである。
7  この点にも関連して、御書の仰せを拝したい。有名な「日女御前御返事(御本尊相貌抄)」には次のように述べられている。
 「されば首題の五字は中央にかかり・四大天王は宝塔の四方に坐し(中略)日天・月天・第六天の魔王(中略)三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神・十羅刹女等・加之日本国の守護神たる天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神神・総じて大小の神祇等・体の神つらなる・其の余の用の神あにもるべきや」と。
 すなわち五字七字の題目を中心にした十界の諸尊の中に、あらゆる諸天善神もすべて含まれている。御本尊は全宇宙の縮図であられる。「体の神」という実体のある神が備わっている以上、その働き、作用としての「用の神」も、のこらず御本尊の力用に備わっている。
 そして、諸天を含む十界の衆生が「妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり」と仰せである。妙法に照らされると、十界それぞれの生命が、本来そなえている尊い姿となり、幸せへの働きをなすようになる。これを「本有の尊形」といい、ここに「本尊」の意義の一つがある。
8  妙法に照らされ大宇宙も慈悲の運行
 「諸天善神」を現代的にとらえると、どうなるか。これは大きな問題であり、ここでは基本的なことのみにふれておきたい。
 たとえば、諸天の代表格である「梵天・帝釈」は、どちらも本来、古代インドの人格神である。帝釈天はインド神話上の最高神とされ、もともとは雷神であった。雷神といえば、今年は大暴れだったが、その威力のすさまじさを擬人化したのが帝釈天の原形である。梵天はバラモン教の主神であるブラーフマンを、仏法の天界の中に吸収したものである。これも宇宙の大いなる力と働きの神格化といえよう。また日天子は太陽の恵みを神格化したもの、月天子等も同様である。
 「諸天善神」には、太陽・月・星など″天体″に関係があるもの、また雨や風など″気象″に関係があるもの、大地や海、山など″地理″に関するものなど、自然界の事物・現象の強大さ、偉大さを神格化したものがある。さらに民族・集団の力を神として象徴化したものもある。
 いずれにしても、宇宙の森羅三千、一切の存在と力用は、「妙法」という根源の一法におさまる。ゆえに妙法を根本とする時、すべてを正法を守り広布を前進させる善なる働きとして、自在に使っていける。いいかえれば、宇宙は本来、一切が「慈悲」と「調和」の働きをなしている。宇宙全体が妙法の当体だからである。地上のあらゆる生物をはぐくむ太陽の恵みも「慈悲」であり、潮の干潮をもたらす月の運行も偉大な「調和」である。
 しかし、人間が宇宙の根本法である妙法に反する行為をする時、本来の調和は壊れ、自然をはじめとする周囲の環境も、三災七難の惹起じゃっき等をはじめ、無慈悲な悪の働きをするようになる。主体である「正報」の人間が、妙法に基づいてこそ、「依報」である環境も諸天善神としての本然の力用を発揮する。
 すなわち、宇宙の森羅万象を、「諸天善神」とするか、逆に「悪鬼」「魔」等とするかは、人間の一念次第なのである。
 「治病大小権実違目」には次のように仰せである。
 「法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」と。
 つまり法華宗の説く根本は「一念三千の法門」である。一念に三千世間(如是)を具えるゆえに、そこには本来、善も悪も含まれる。最高の悟りの境界である妙覚の仏の位ですら例外ではない。
 この一念の善悪のうち、元品の法性は梵天・帝釈等の「諸天善神」となって顕れ、元品の無明は広布を妨げる「第六天の魔王」と顕れる。「善神」といい「魔王」といっても、すべて我が一念の妙用である。
 また「善神は悪人をあだむ悪鬼は善人をあだむ」と。悪鬼の充満した社会・国土では善人は迫害され、苦しむ。ゆえに悪人のみの社会となり、ますます悪鬼が増え、不幸が増大していく。この悪の循環という人類の宿命を断ち切るために、絶対に「広宣流布」が必要なのである。その出発点は、一人の人間革命であり、一人の「一念」の転換である。
9  また「諸天善神」とは狭義には天界であるが、広くは「菩薩・二乗」も法華経の行者を守護する。それらもまた、妙法の力用それ自体である。
 一例として観世音菩薩を挙げておきたい。いわゆる″観音″はさまざまな寺院や教派において信仰する人も多い。しかし、その本質は何か。
 御義口伝には「観世音とは観は空諦・世は仮諦・音は中道なり」と示されている。
 少々、難しいかもしれないが、その大意は「観」とは平等の真理に至る己心の智慧の働きであるから「空諦」である。「世」は世間であり、外界の差別相であるから「仮諦」である。「音」は有無の概念を超えたものであり、しかも己心と外界とを媒介するから「中道」である。
 このように観世音菩薩は円融の三諦を表している。円融の三諦とは、つまるところ南無妙法蓮華経にほかならない。
 また二乗の代表の一人として御本尊にもおしたための舎利弗も、円融の三諦を表す。御義口伝には「舎とは空諦利とは仮諦弗とは中道なり」とある。
 観世音も舎利弗も円融の三諦であり、ゆえに南無妙法蓮華経の全体である。
 したがって、私どもが円融の三諦の御当体である御本尊を受持し、妙法を唱え弘める時、はじめて観世音も舎利弗も、その絶大の力用を発揮する。決して観世音等それ自体を礼拝するのではない。
 総じて、一切の仏・菩薩・二乗・諸天等の善なる働きは、のこらず妙法への「信心」の一念に収まっている。ゆえに強盛なる信心あるところ全宇宙をも味方としつつ、広々とした境涯で、悠々と人生を闊歩かっぽしていけるのである。
10  さて、「法華取要抄」には「今法華経に来至して実法を授与し法華経本門の略開近顕遠に来至して華厳よりの大菩薩・二乗・大梵天・帝釈・日月・四天・竜王等は位妙覚に隣り又妙覚の位に入るなり、若し爾れば今我等天に向つて之を見れば生身の妙覚の仏本位に居して衆生を利益する是なり」と仰せである。
 すなわち、文殊、弥勒等の大菩薩、梵天、帝釈、日月、衆星、竜王などは、法華経に至って初めて未聞の法を聞き、釈尊の真の弟子となった。また、舎利弗、目連等の二乗も、釈尊成道以来の弟子であったが、法華以前は、方便の教えしか示されず、成仏を許されなかった。
 それが今、法華経に至って真実の法門を授与され、法華経本門・従地涌出品第十五の略開近顕遠(釈尊がこの世で成道したという始成正覚の立場を開き、久遠の昔から仏であったという久遠実成を、ほぼ顕すこと)の説法にいたり、華厳経以来の大菩薩、二乗、大梵天王、帝釈、日天、月天、四天、さらに畜生界の代表とされる竜王等が、すべて、仏の悟りである妙覚に隣する等覚の位に昇り、また妙覚の位に昇ったのである。
 したがって、天を仰ぎ見る時、太陽も、月も、星も、それぞれが生身の妙覚の仏の力用を発揮して、衆生を利益している姿を見るのである、と。
 つまり、仏法の深義に立つならば、天空の日月、諸星は、あたかも衆生を利益するような仏・菩薩の働きをもって、私どもを深い慈悲で包んでくれているといってよい。何と壮大にして、ありがたきことであろうか。また、こうした甚深の宇宙観、生命観を明かした仏法の深遠さに、あらためて感銘せざるをえない。
11  思えば、人類の歴史において、さまざまな人が、さまざまな思いを込めて、「天」を仰ぎ見ている。大空を見上げ、想像の翼を広げる人もいよう。また、困り果てて天を仰ぐ人もいる。
 これまでもたびたび引用してきた古代中国の歴史書『史記』(司馬遷)には、「天道か非か」との一文がある。
 これは、正義が滅び、悪がはびこるような世の中で、「天道」があるとすれば、それは正しいものなのか、間違ったものなのか、との痛烈な問いかけである。つまり、「天」という巨大な存在を前に、人間がなすすべもなく立ちつくす姿ともいえよう。
 多くの人が仰ぎ見た「天」は、さきほど述べたように、妙法の眼から見るとき、妙覚の存在として、衆生を利益する働きをもったものである。
 しかし、人々は、その深い意義も知らず、また妙法にのっとることもなく、「天」を信仰の対象とし、太陽や月などを神として崇めてきた。ここに「天」を頼みとしながら不幸の歴史を歩まざるをえなかった人類の悲劇があった。「天」も妙法のリズムをもってつながっていくとき、すべてが″正義の天道″へと変わっていく。人間の勝利、慈悲の方向へと向かっていくことを確信されたいのである。
12  勤行・唱題こそ諸天の威光勢力を増す法味
 さて、諸天善神は、「法味」を唯一の″食″として威光勢力を増すことができる。末法今時においては南無妙法蓮華経のみが、諸天の滋養となる法味である。
 「立正安国論」の「御勘由来」には「諸大善神法味をくらわずして威光を失い国土を捨て去りおわんぬ」と仰せである。
 つまり――日本中がいわゆる「神天上」となり、諸天善神は法味を味わうことが出来ず、威光勢力を失い、国土を捨て去ってしまった――と。
 国土に正法の妙味がなければ、諸天善神は法味に飢え、国を捨てて、去る。ゆえに人も国土も衰微せざるをえないのである。
 反対に、法味をえた善神は、絶大な力で、衆生を守護する。
 「法華初心成仏抄」に「口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ」との御文がある。
 ″御本尊に向かい題目を唱えていけば、我が生命の仏性も呼び出されて、必ず顕れる。また梵天、帝釈の仏性も呼び出されて、我々を守ってくれる″との仰せの通りなのである。
13  私たちは、朝の勤行のさい、東天に向かい、太陽(日天)に代表される諸天に法味を与えている。日々の勤行・唱題は、大宇宙に遍満する諸天善神の威光勢力を限りなく増していく荘厳な儀式である。ゆえに、勤行・唱題の一念は、深い祈りのこもったものでなければならない。
 夢がうつつか分からぬような″いねむり勤行″や、時間に追われての″スピード勤行″では、諸天に法味を与え、善神の厚い加護をえることは出来ない。
 戸田先生は、仏法の深義について、いつも分かりやすく話してくださった。ある時、勤行と諸天善神について、次のように語ったおられた。
 「初座の御観念文がすんで、今度は、二座で御本尊の方に向かうと、その諸天善神がみな、さあーと、われわれの後ろの方に並んで、控えることになる。そして、私たちが御本尊に向かって唱える経文、題目をきちんと、聞いているのだ」と。
 こうして法味をえた諸天善神は、日々、威光勢力を増し、広大な福徳を、個人に、社会に、そして国土にもたらす。ゆえに、私どもの真剣な勤行、また広布への行動は、一人一人を絶対の幸福に導くとともに、我が地域・国土の永遠の安穏と繁栄を築き、さらには全宇宙の調和に満ちみちたリズム正しい運行のための無限の源泉力となっているのである。これほどすばらしい活動、行動はない。いわば最高善の行為を日々実践されている大切な方々が、皆さまなのである。
14  諸天善神の働きや力用は厳然としている。が、それは、現代では科学的に証明することも容易ではない。ましてや、日々の勤行・唱題が大宇宙に通じ、諸天に法味を与え、その威光を増していることなどは、仏法を知らなければ、想像さえできないことであろう。だが、宇宙の「運行」と地球上の「現象」との相関性は、昔から指摘されてきたし、近来、ますます関心が高まっている。
 たとえば、経済の分野でも、あるアメリカ人科学者の研究によれば、一八七五年から一九八五年の百十年間の統計から、太陽の黒点の数の変化とアメリカ経済における設備投資の増減との間に、密接な連関性があることが論じられている。(嶋中雄二『太陽活動と景気』日本経済新聞社、参照)こうした科学的な研究の存在自体が、宇宙の不可思議な力と連関性に対する、人々の関心の表れといえよう。
 宇宙と同様、生命の不可思議さにも、かつてない興味が寄せられる時代となった。
 身近な例でいえば、植物に音楽を聴かせ、その生長にどう影響があるかを調べる実験が行われている。アメリカ・コロラド州の生物学研究所の一つの報告には、ベートーベンなどクラシック音楽を流したカボチャは、スピーカーの方へ向かって伸び、激しいロック音楽を聴かせたカボチャは、スピーカーをよけて伸びたことが述べられている。(J・E・ベーレント『世界は音 ナーダ・ブラフマー』大島かおり訳、人文書院、参照)
15  正法弘通の人を守護
 一念の妙用は、目には見えない。しかし、強き信心の一念が、社会や自然、さらには大宇宙まで、諸天の無限の加護をもたらすことは、峻厳な事実である。
 日蓮大聖人は、四条金吾にあてられた建治二年(一二七六年)の御手紙に、次のように仰せになっておられる。
 「日蓮も又此の天を恃みたてまつり日本国にたてあひて数年なり、既に日蓮かちぬべき心地す
 建治二年は、竜の口の法難から五年後に当たり、この御文の「数年」とは、同法難の起きた文永八年以降の歳月を指すと考えられる。つまり、竜の口の法難、佐渡流罪と、命に及ぶ大難にあわれながら、大聖人は日天子の加護をたのみつつ、日本中の謗法の僧や、それにたぶらかされた権力者と真っ向から対決された。そして″勝った心もちである″と断言されている。
 いかなる権力、魔力をもってしても、大聖人を打ち破ることは出来なかったのであり、竜の口の頸の座で″光り物″が出現したのをはじめ、その間、御本仏をお守りした諸天善神の力用は歴然としているのである。
16  大聖人は、やはり四条金吾にあてられた御手紙のなかで「夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず・果報つきぬれば所従もしたがはず、所詮しょせん運ものこり果報もひかゆる故なり、ことに法華経の行者をば諸天・善神・守護すべきよし属累品にして誓状をたて給い」と述べられている。
 つまり、金吾が、敵人の襲撃を逃れたことを、大聖人は喜ばれ――福運がなくなれば兵法も役に立たず、また果報が尽きてしまえば、家来も従わなくなるものだ。あなたが強敵に襲われて無事だったのは、結局、福運と果報が残っているからである。とくに、法華経の行者に対しては、諸天善神が守護すると、法華経嘱累品で誓いを立てている――と示されている。
 金吾が強敵に狙われながら無事であったのは、正法信受による福運と果報によるものであり、所詮は信心こそ肝要であることを御指南されていると拝されよう。
17  だからこそ大聖人は、そのあとで「いよいよ強盛に大信力をいだし給へ、我が運命つきて諸天守護なしとうらむる事あるべからず」――いよいよ妙法に対して強盛な大信力を出していきなさい。自分の福運が尽きて、諸天善神の守護がないと恨むようなことがあってはいけない――と御指導なされているのである。
 運も、不運も、結局、誰の責任でもない。そうした果報を生む因を積んできた自分自身の責任である。ゆえに、みずからの不運を嘆き、諸天の加護なきを恨んでも、仕方のないことなのである。
18  世の中には、運の良いように見える人生もある。逆に、不運の連続であるような人もいる。また、幸せの絶頂にありながら、急速に不幸の奈落へと転ずる場合もある。
 ともあれ、福運が尽きてしまった人生ほど惨めなものはない。人類の歴史には、そうした人々の事例が、何万、何十万とあふれている。
 戸田先生も、″福運のある人は、凧(たこ)が風をはらんで勢いよく上昇していくように、どんどん、上向きの人生を歩んでいく。しかし、いったん福運が尽きてしまえば、アッという間に、不幸の坂道をころげ落ちていくものだ″と、よく言われていた。
 しかし皆さま方は、災いを福へと転じゆく、絶対の妙法を受持された方々である。先述したように、正しき信心こそ、限りなく福徳を積みゆく源泉の力なのである。私どもは、正法をたもった喜びと誇りも高く、はつらつたる前進を続けていきたい。
19  後世に光るケプラー母子の勇気
 先日、ペルーの宗教裁判所についてお話をしたが、その後も″宗教裁判″についての質問や要望が多く寄せられた。そこで後世への戒めを込めて、魔女裁判から母を救ったケプラーについて、少々、述べておきたい。
 ヨハネス・ケプラー(一五七一年〜一六三〇年)は、ドイツの天文学者で、皆さまもごぞんじのように、太陽系惑星の運動を初めて太陽を焦点とした楕円軌道で表し、「ケプラーの法則」を発見した、まさに近代天文学の創設者の一人である。この「ケプラーの法則」がなければ、あのニュートン(一六四二年〜一七二七年)の「万有引力の法則」も発見されなかったとさえいわれる。
 ケプラーは、デンマークの天文学者チコ・ブラーエを師とした。彼は、まず仮定を立ててそれから結論を導くという当時の研究方法に依拠するだけでなく、亡くなったブラーエが二十年間にわたり天文観測で集積した貴重な観測データを分析することにより、惑星の運動に関する法則を生み出したのである。現代のように計算機がある時代ではない。発見に至るまで十年でも二十年でも苦労をいとわず、丹念に計算を繰り返した執念の人であった。この間、妻と子を天然痘で失い、王室からの研究費もストップするという逆境にもあっている。
 彼がケプラーの弟子となり、その観測データにめぐりあわなければ、「ケプラーの法則」の発見はなかったとされる。その意味で、彼の発見は、師弟の労作業であったといってよい。
 科学の世界においても、偉大なる探求と発見のためには、師弟は労作業を惜しまないものである。いわんや広布の世界、人生の世界の労作業においてはなおさらである。
20  このこのケプラーも、ブルーノやガリレイらと同じく、悪しき宗教の権威と戦った一人である。
 ケプラーの活躍した十七世紀前半は、近代科学の建設期であるとともに″魔女狩り″の頂点に達した時期でもあった。この辺の事情は、『ケプラーの夢』(ヨハネス・ケプラー著、渡辺正雄・榎本恵美子訳、講談社学術文庫)の「訳者助言」にもふれられているが、不幸にもケプラーの母も″魔女″として告発される。彼の兄弟や親族は、世間体を恐れてか、この母を見捨ててしまう。彼女はいろいろと言われたり、多少の問題もあったような記録もあるが、それはそれとして、ケプラーは断固たる決意で母を救い出すための戦いを貫き、ついに成功する。このように″魔女″と告発された人を救い出せたことは、魔女裁判史上たいへんめずらしいことといわれている。
 また、アーサー・ケストラーの『ヨハネス・ケプラー―近代宇宙観の夜明け―』小尾信弥・木村博訳、河出書房新社)にも紹介されているが、このときのケプラーの母への起訴は、四十九項目にわたる罪状があげられており、そのなかには、ケプラーの母が、聖書の言葉を聞いても涙を流さなかった、ということまで含まれていた。これは「泣き試験」といわれ、魔女裁判における有力な証拠の一つとされていたようだ。まことに狂気としかいいようのない出来事である。
21  かつて宗門から破門された悪僧は、御講が終わったあと幹部や信徒を呼びつけ、さんざんにいじめた。
 御講のさい、目と目があえば「僧を侮辱している」と怒る。下を向いて話を聞いていれば「真剣味がない」と叱る。また笑顔を見せれば「僧を小バカにしている」と怒鳴る。首を上にあげると「信徒のくせに生意気だ」といって叱る。多忙のため少し遅れて来ると「信心がない」と青筋を立てて怒る。静かに話を聞こうと思って目をつぶると「いねむりをしている」といって怒鳴る。
 彼らには、一片の慈悲心もなかった。片鱗へんりんだにも誠意がなかった。また、一かけらの信心もなかったのである。これこそ正宗を利用した恐るべき狂気の沙汰だと、慨嘆し、涙していた幹部の姿を、私は忘れることはできない。
 それも一人や二人の幹部ではない。何百人、何千人、いな何万、何十万の幹部や同志が、同じ思いをしたことか。この事実は絶対に許されるべきことではない。また、皆さま方も、二度と再び、こうした残酷にして悲惨なことが引き起こされないよう、厳然たる態度であっていただきたい。
22  さて、七十三歳の老齢で鎖につながれていた哀れな母を救い出すため、ケプラーは勇気をもって立ち上がった。彼は、母親の迫害者達こそ「悪魔」にそそのかされているのだ、と言い切った。それは、ともに戦ってくれる友人もおらず、また人受けのよくない孤独な戦いであった。
 幹部は、後輩を守るために、断固として、悪と戦わなければいけない。正邪をはっきりさせるために、だれに対しても明快に、その非を言い切るべきである。我が身を惜しんで、あいまいにとりつくろったり、不明瞭なままで放置し、無関心でいることは、罪を同じくする卑劣な態度である。
 私も、数々の大難のなかで、ひとり嵐に向かって障魔と戦った。それは孤独な戦いであった。しかし、それが皆さまを守る私の責務でもあり、使命でもあったからである。どうか、尊い仏子のリーダーである皆さま方は、広布の世界、信心の世界では、けっして憶病や卑怯であってはならない、と強くお願いしたいものである。
23  ケプラーは、母を弁護するため、百二十八ページにわたる弁論をほとんどひとりの手で書き上げたという。彼の母も、死を覚悟して、″魔女である″と自白することを拒否し抜いた。こうして、一年以上もの拘禁から母はついに釈放された。辛苦の戦いであった。(前掲『ヨハネス・ケプラー』参照)
 息子も偉らかったが、母も偉かった。広布に進みゆく我が婦人部の姿の片鱗を見る思いがする。しかし、半年後、彼女は亡くなってしまう。ケプラーは、この憤激を胸に、ケプラー親子とよく似た母と子を登場させ、一緒に月旅行をする物語『夢』を完成させる。この物語は、太陽中心の地動説に基づいたもので、彼はこの書を、本格的な科学的・文学的作品として仕上げ、悪意ある人々への反撃としたのである。(前掲『ケプラーの夢』参照)
 われわれも「正法の道」を閉ざそうとする悪の反撃に対しては、ケプラーのような強い反撃の心をもちたいものである。
 「大悪をこれば大善きたる」とは仏法の方程式であるが「大悪」の中に「大善」をつくり出していく大決心の人であってもらいたい。それが仏法者としての真実の生き方であると思うからだ。
24  御本尊に感応しゆく祈りを強く
 さて、話は元に戻るが、正法を受持する者を諸天善神は、必ず守護する。では、それは、現実の生活の中で実際どのような形で現れるのか、これは、なかなか理解しがたい点であるかもしれない。ここで戸田先生の指導を通して少々、述べてみたいと思う。皆さま方も、これを参考に種々、思索もしていただきたい。
 戸田先生は「日女御前御返事」の講義をされるなかで、次のような趣旨のことを言われている。
 「本当に御本尊様を拝してごらんなさい。そこには日蓮大聖人御一人がおられるのではない。大聖人様を中心として、その後にあらゆる仏・菩薩や神々がずっと並んでいる。薬王菩薩、文殊・弥勒菩薩も、また声聞衆もおれば、十羅刹女も、鬼子母神も、大竜王もずっと並んでいる。
 それに対して南無妙法蓮華経と題目を唱える。すると、題目を唱えているこちらの生命にも、御本尊様と同じように、己心の舎利弗、己心の薬王・文殊菩薩などがいる。
 かりに今、自分は病気で困っているとする。御本尊様に題目を唱えることによって、御本尊様の中にある薬王菩薩が働かざるをえなくなる。そして、その薬王菩薩が、こちらの己心の薬王に働くように言いつけ、己心の薬王が働くようになる。
 だから、医者に行っても、相手がどんなヤブ医者でも、「こっち(己心)の薬王が働いているので、医者が自然にいい治療をせざるをえなくなってくる」(『戸田城聖全集 第六巻』)と。
 また「なにか困ったことがあると梵天・帝釈が働くのです。向こうからやってきて助けるのではなく、己心にあるこちらの梵天・帝釈が働き出すのです。つまり、題目を唱えることによって、南無妙法蓮華経に照らされて、御本尊様の中にある梵天・帝釈が、こちらの生命に感応してくる。
 ゆえに、己心の梵天・帝釈が働かざるをえなくなるのです。そして、自然に商売であっても、研究や仕事であっても、すべてのものが、よくなってくるのです。
 御本尊様には、今、言ったように、何千、何万、何十万という大衆がいる。だから、たとえば商売繁盛させてくださいと祈ることは、それらの数多くの力用に、頼むことになるのです。したがって、それらの力が働いてくる。だから、よくならないわけがないのです」と述べられている。
25  そのうえで戸田先生は、「諸天の加護」と「現実の努力」との関連性についても分かりやすく話されている。
 「また、そうだからといって商売もしないで、南無妙法蓮華経ばかり唱えたってだめなのです。店をしめておいて、買いにきてくれといってもだめです。商売繁盛させたかったら、商売を一生懸命やらなければだめです。いろいろと研究し、努力しなければならない。それがなければ、せっかく仏様の方で助けてやろうといわれているのに『いらない』『いらない』と自分でいっているようなものだ。『助けてください、助けてください』とお願いしておきながら、助けにいけば『いやだ』というのと同じでしょう」と。
 仏法はあくまでも道理である。諸天善神の働きといっても、低級な宗教が説く神秘的な奇跡や、呪術的な利益とは、次元が全く違うことを知らねばならない。
 仏法でいう諸天善神の働きは「一念三千」や「依正不二」の法理、さらに御本尊との「感応道交」の法則にのっとり、「信心即生活」に基づいて現実生活へと現れてくるものである。それは、自分自身で必ず納得できる厳然たる力用なのである。
26  ところで「諸天善神」の″寿命″は、まことに長遠である。この点について大聖人は「祈祷抄」で次のように仰せである。
 「仏・法華経をとかせ給いて年数二千二百余年なり、人間こそ寿も短き故に仏をも見奉り候人もはべらぬ、天上は日数は永く寿も長ければしかしながら仏をおがみ法華経を聴聞せる天人かぎり多くおはするなり人間の五十年は四王天の一日一夜なり、此れ一日一夜をはじめとして三十日は一月十二月は一年にして五百歳なり、されば人間の二千二百余年は四王天の四十四日なり、されば日月並びに毘沙門天王は仏におくれたてまつりて・四十四日いまだ二月にたらず、帝釈・梵天なんどは仏におくれ奉りて一月一時にもすきず、わづかの間に・いかでか仏前の御誓並びに自身成仏の御経の恩をばわすれて、法華経の行者をば捨てさせ給うべきなんど思いつらぬれば・たのもしき事なり
 ――仏が法華経を説かれてから二千二百余年を経ている。人間こそ寿命も短いので、今は仏を見奉った人もいない。しかし天上界は日数も長く寿命も長いので、かつて仏をおがみ、法華経を聴聞した天人は数限りなくおられる。
 人間の五十年は四天王天の一日一夜である。この一日一夜を本として三十日蓮が一月、十二カ月が一年で、五百歳の寿命がある。ゆえに人間の二千二百余年は四天王天でいえば四十四日である。したがって日月並びに毘沙門天王は仏の滅後四十四日しかたっておらず二カ月にもみたない。帝釈天や大梵天王などは仏の滅後まだ一月か一時に過ぎない。
 そんなわずかの間に、どうして仏前で誓われたことや自分達が成仏できた御経の恩を忘れて、法華経の行者を捨てられるようなことがあろうか、などと思いつづけると、まことにたのもしい事である――と。
 諸天善神の天界の寿命と人間の寿命とは長さが全く違うのである。釈尊滅後二千二百余年といっても、それは人間界の時間の単位で言ったものであり、四大天王の世界の時の長さでいえば四十四日、つまり二カ月に満たない。梵天・帝釈でいえば一カ月か一時に過ぎないという。
 そんな短時間であれば、よもや諸天善神が法華経の会座で仏に誓った、法華経の行者(別しては日蓮大聖人、総じては御本尊を受持する我々)の守護を忘れることはない、必ず守護をすると述べられているのである。
27  したがって、この御文に続いて「法華経の行者の祈る祈は響の音に応ずるがごとし・影の体にえるがごとし、める水に月のうつるがごとし・方諸の水をまねくがごとし・磁石の鉄をうがごとし・琥珀の塵をとるがごとし、あきらかなる鏡の物の色をうかぶるがごとし」と仰せなのである。
 ――法華経の行者の祈る祈りは、たとえば響きが音に応じるように、影が体にそうように、澄んだ水に月が映るように、冷えた鏡の表面に露がつくように、磁石が鉄を吸い寄せるように、琥珀が塵を取るように、明鏡が物の色を浮かべるように、必ず感応して諸天の加護が現れ、祈りがかなうことは間違いないのである――と。
 どうか、この大聖人の御言葉を確信していただきたい。信心に退転なく、身に詐親さしんがなく、感謝の心で、仏の金言のごとく信心を貫いていけば、必ずや諸天の加護は現れ、すべての願いは叶っていくのである。
28  ちなみに現代科学の推計によれば日天、つまり太陽の年齢は約五十億年。月天つまり月の年齢は約四十六億年とされている。
 こうした長遠な寿命からみれば、二千年の歳月も一瞬のごときものかもしれない。寿命がわずか百年にみたない人間を頼りとするよりも、永遠にも通じゆく諸天の力用を味方にしていくような境涯になっていただきたい。ここに信心の偉大さ、妙味がある。心強さがある。ゆえに何ものをも恐れることはない。
29  まさに「信心」とは、「諸天」を動かし、この短い限りある人生を、何百年にも、何千年にも、いな何万年にも匹敵する″価値ある一生″へと、無限に開きゆく原動力をいうのである。
 ホイットマンは「宇宙」と「我」の関係性に寄せて次のように歌う。
  宇宙の複合する物象は わたしに向かって 不断に水のように流れる
  すべてのものは わたしに向かって書かれた
  そこでわたしは その書かれたものの意味を知らなければならないのだ
 まさに広大な宇宙に向かい、宇宙と律動しつつ生きゆかんとする詩人の心情があふれているように思えてならない。もし、彼が妙法を知っていたならば″すべての物の意味の根源こそ妙法である。私はそれを書きたい、求めたい、さぐりたかった″と叫んだにちがいない。
30  大聖人は「法華初心成仏抄」で次のように仰せである。
 「一度妙法蓮華経と唱うれば一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔・法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳・無量無辺なり」と。
 一度、南無妙法蓮華経と唱えるとき、一切の仏性を呼び顕すことができる。妙法の力は、十界三千の大宇宙へと響きわたる。多くの民衆にも、梵天・帝釈にも、三世十方の仏・菩薩にも響き渡っていく。万物の一切に響き渡り、それらの仏性を顕していくことができる。なんと偉大にして無量無辺の力用であることか。
 私どもは、その御本尊を受持し、信心に励んでいるわけである。ありがたくも、信心している我らの境涯は、妙法の力用によって、全宇宙にも広がり、通じているのである。宇宙を包みゆく「生命の王者」の境涯で、堂々とたくましく人生を生き抜いていただきたい。
31  本日は、私の入信記念日に寄せて祝賀の幹部会を開催してくださった。私は、皆さま方の大事な人生の記念日である入信の日を心から祝福申し上げたい。とともにこれからもご多幸、ご長寿で、広宣流布のために活躍していかれんことを心からお祈りして、私のスピーチとさせていただく。

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