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日蓮大聖人・池田大作

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群馬県記念幹部大会 栄えよ! 郷土に誇りもち

1987.8.15 スピーチ(1987.7〜)(池田大作全集第69巻)

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1  「はるな墓苑」の完成を祝う
 愛する群馬の第一回記念幹部大会、まことにおめでとう。お暑いところ、またお盆の休みにもかかわらず、ご参集くださった皆さまに、心から感謝申し上げたい。
 また本日は終戦記念日でもあり、また旧盆でもある。先ほど、皆さまとともに唱題し、戦没者並びに広布の途上いた方々の冥福を深く祈念させていただいた。
 群馬には、このほど「はるな平和墓苑」が立派に完成した。榛名山はるなさんのふもと、赤城山を望む、広大な絶景の地である。この緑すずやかな天地に三世にわたる生命の平安の場が出来あがったことは、まことに意義が深いし、うれしい。建設に尽力してくださった内外にわたる関係者の方々に、満腔まんこうの謝意を表したい。また、この墓苑の諸施設は、墓域は別として、社会の一般の方々にも開放し、有意義に使っていただきたいと思っている。
 今後、この美しき清浄の地は、日本全国は当然として、全世界の方々が勇んで訪れ、たたえていくにちがいない。私も、これから、たびたび来させていただきたいと念願している。
 その意味からも、きょうは、この世界的な″憧れの国″となった群馬の地について、少々、紹介したい。別に、″群馬県宣伝部長″というわけではないが、全国、全世界の人々に、この素晴らしい国土を、少しでも宣揚させていただきたいからである。果たして″名ガイド″になるかどうか、わからないが、これまでに聞いた話、また本等で読んだりしたものを、種々、総合してお話ししたい。(主に萩原進『群馬県人』新人物往来社、萩原進編『郷土史事典・群馬県』昌平社、山田武麿『群馬県の歴史・県史シリーズ10』山川出版社、参照)
2  「太陽の国」に「太陽の仏法」の慈光
 群馬といえば、上州名物の「からっ風」と「雷」は有名である。「空っ風」は北西の冬の季節風だが、東京の学会本部も表は北向きであり、かつて私は冬の二月ともなると、職員や役員の青年たちと外に出て、寒風のなかを一緒に歩いた。
 「男は北風に向かい、胸を張って歩こう。そして大いなる道を開こう」――こう言いながら歩いたものだ。なかには寒がって、逃げてしまった者もいたが、彼は、案の定、後で退転してしまった。
3  信仰は「鍛え」である。色心ともに自身を鍛えるところに信仰者の本領がある。その意味で、空っ風に代表される群馬の地は、素晴らしい人間錬磨の国土である。また、そうあっていただきたい。
 「雷」は、一昨日のはるな到着以来、毎日、十分に堪能させていただいた。ベートーベンの情熱の指揮千人分以上の激烈な大自然の音楽。こんな壮大な宇宙のオーケストラを存分に聴くことのできる国土はほかにない。こうした素晴らしき国土に、有名な「群馬交響楽団」はじめ豊かな音楽文化が栄えているのも、もっともだと納得した次第である。
 これらと比べて、意外に知られていないのは、群馬が「太陽の国」でもあることである。この群馬は晴天が多く、年間の日照時間の長さは全国のトップクラス。とくに冬季に、この地ほど快晴に恵まれるのは、世界的にも珍しいという。(萩原進『群馬県人』参照)
 ヨーロッパの人々が冬の間、どんなに太陽を恋しく思うか、わからない。日本の東北、北陸、北海道でも同様であろう。
 それに対し、群馬は″太陽がいっぱい″の素晴らしき国土である。将来は、群馬の太陽を浴びたいという人々が、各地から別荘等を求め、群馬に住む人々をうらやむ時代になるにちがいない。総じて、これからは「太陽の時代」である。
 また群馬県全体の輪郭は、″一羽のツルが両翼を広げて舞い飛ぶ姿″に、よくたとえられる。ツルの舞い飛ぶ形の国土――まことに不思議にして、めでたさに満ちた地である。このツルの首は南東に向かっているが、群馬は全体的に南面傾斜の地形であり、この点からも極めて″明るい国土″といわれる。
 皆さまは、こうした、うらやむべき国土で活躍しておられる。″我が群馬は、世界で最高の国土″と胸を張り、この地に生きる幸せを満喫していっていただきたい。
4  「太陽の国」群馬にちなんで、牧口初代会長の「日光と人生」についての卓見を紹介しておきたい。牧口先生は、ご存じの通り、当時、第一級の地理学者であられた。その代表作『人生地理学』は、明治三十六年(一九〇六年)、先生が三十二歳の時の出版(文會堂)である。
 そこでは、人間と太陽について、「太陽を科学的にみれば″一塊いっかいの火球″にすぎないが、人間に与える宗教的、思想的、哲学的影響は、きわめて大きい」(『牧口常三郎全集 第一巻』所収、第三文明社、趣意)と洞察され、その関係がくわしく述べられている。
 そこには仏法の依正不二の哲理をも志向する鋭い明察があり、牧口先生は三十代にして学問的にもきわめて優れた境地に達しておられた。まことに不思議な先生と言わざるを得ない。
 先生は「吾人はもっとも遠しと観ゆる太陽より観察を初むるを以て当を得たりと信ず」――私は(距離的には)人間からもっとも遠いと思える太陽から(それが人間の生活にはもっとも近く親しい関係であるゆえに)郷土の諸要素の観察を始めることが適切であると信ずる――と述べられ、大著「人生地理学」の本論を「日光と人生」の考察から始められている。
 そこでは、たとえば「光線が吾人日常の生活に実用せらるゝ程度の如何は、朝来ちょうらいの天気が吾人一日の気分の快鬱かいうつを決するじゅうなる要件なるを以て之を知るを得べし」――太陽光線が、自分の日常の生活に実用されている程度の大きさは、朝からの天気が、我が一日の気分を決める重大な要素であることから理解することができるにちがいない――と。
 一日の出発が、さわやかな快晴であれば、気分もさわやかである。天気が悪いと、気分も何となく重くなる。多くの人々の、こうした経験からも、太陽が我々の心理、生活に大きな影響を持っていることは明らかである。
 また次のような詩的な名文もある。
 「旭暉きょくき燦爛さんらんたる夕陽の煌燿こうようたる等、美的影響に於て、従て又た修養上の影響に於ての浩大なることは殊さらに論をたざる所。(中略)果して然らば日光分量の過不及が人類社会の発達に影響することの大なるも亦知るべき也」
 すなわち――朝日が燦爛と昇りゆく光景、そして、この″榛名はるな″の地の美しい日没の如く、夕日が荘厳に輝きながら沈みゆく光景、それらが及ぼす人間の精神への影響は広大である。(中略)そうであるならば日光の量の多い少ないということが、人類社会の発達に大きく影響することも理解できるであろう――と記されている。
 地中海の太陽をふんだんに浴びたギリシャのアテネ、常に灼熱しゃくねつの日光とともにあるインド。これらは太陽が偉大な文明を生んだ例である。「太陽の国」群馬も、立派な文化と平和の歴史をつくっていただきたい。
5  明朗、おおらかな県民性
 さて群馬の「県民性」はどうか。もちろん人間の個性は同じ地域でも多種多様であり、時代による変化も無視できない。その上で、変化の少ない大まかな傾向性としてふれておきたい。
 特長の第一は、ともかく″底ぬけに明るい″ことである。「太陽の国」らしく、陽気で、おおらか、楽天的とされる。
 上州の民謡「八木節やぎぶし」は全国的に有名だが、歌も踊りも極めてリズミカルである。ここにも上州人の明朗快活さがよく表れている。
 たしかに婦人部の方々を見ても、明るいこと、明るいこと。威勢もじつによい。男性もおおらかであり、完璧とか緻密さを要求するのは、求める方が無理――と言う人もいる。
 また上州人を指して「上州江戸っ子」という言葉がある。つまり、淡泊、陽性、くよくよしない、竹を割ったような性格、そして正直、親切、人がよくて、だまされやすい、また、勇み肌、義侠心などの気風である。(山田武麿『群馬県の歴史・県史シリーズ10』山川出版社、参照)
 私も、今や数少なくなった″江戸っ子″の一人。東京に消えつつある″江戸っ子気質かたぎ″は、むしろ群馬県の方に残っているらしい。そうした意味でも、私は群馬の方々が大好きであり、強い親近感をもっている。
6  この県民性について、一歩掘り下げた説を紹介したい。一つは心理学者の宮城音弥氏の研究であり、もう一つは読売新聞前橋支局が、昭和四十一年(一九六六年)に県民を対象に行った世論調査である。
 宮城氏は『日本人の性格 県民性と歴史的人物』(朝日新聞社)になかで、群馬県民の性格を「強気」と規定し、その長所と短所をあげている。
 長所は「素朴」「楽天的」「おおらか」「温和」「地味」「親切」などである。
 一方、世論調査で挙げられた上州人のよい点の主なものは「義理人情に厚い」「淡泊」「陽気で明朗」「世話好き」「誠実、直情的で正義感が強い」「人がよい」「社交性」などであった。まことに素晴らしい限りである。
 一方、人間であるから、長所もあれば、短所も当然ある。宮城氏によれば、――決して私ではありません――「礼儀正しくない」「だらしない」「たよりない」「不誠実」「勤勉でない」。これは決して私が言うのではない。あくまで宮城氏の研究である。
 世論調査の方の上州人の悪い点は、まず「非忍耐性」。そして「短気」「感情的」「自己本位」「無計画性」。以下「軽薄」「単純」「派手」「おせっかい」と続く。
 本当かどうか、私はそんなことはないと信じているが、この点も、これから何度もお会いしよく知っていきたい。
7  総じて群馬県人は、「熱しやすく、冷めやすい」といわれる。「上げ潮に強く、引き潮に弱い」との説もある。
 歴史的にも時代の変革期に、先頭を切って進む時に活躍した人物が多い。幕末から明治初期、外国貿易の幕開けとともに、生糸貿易の先駆者を輩出している。教育事業にも全国に先駆けて取り組んでおり、英語学校の普及も早かった。
 要するに、先手を打って、一気に先頭を走っていく。その先取性は素晴らしい。しかし長続きしない。追い上げられ、トップの座を奪われるとガックリときて、建設性がなくなり、ひっこみじあんになってしまう。また経済的に不況期にはいると、抵抗力がない、ともいわれる。いわゆる、しぶとい″土性骨″をもって、忍耐強く生きぬいていく面が弱い――とされる。(前掲『群馬県人』参照)
 この「忍耐力の不足」という点は、我が学会の皆さまは、決して当てはまらないと信じますが、いかがでしょうか。
 上州を論じて、忘れてならないのは、名物「かかあ天下」である。私は、これは素晴らしい長所だと思う。まことに頼もしい限りである。男性が、いばっているより、よほど健康的で民主的であり、明るい。
 ″上州の女性は強い″――一般的にこれは、養蚕、製糸などの県の中心産業を大きく担い、しかも大変働きものであったことをたたえた言葉ともされる。まったく、その通りであろう。
 また群馬の女性は、言葉は荒いが、情にもろく、姉さん女房的な面倒みのよさがあると言われる。群馬の女性を奥さんにした人は幸せだ。少々、厳しく叱られることがあるかもしれないが、長い目で見れば、しっかり者の奥さんに感謝するようになるにちがいない。それを思えば、一時的な恐怖も、ものの数ではない。
8  次元は異なるが、女性の強さ――ということで思い出すのは、四条金吾の夫人に与えられた大聖人の御書の一節である。
 「此の法華経計りに此の経を持つ女人は一切の女人に・すぎたるのみならず一切の男子に・こえたりとみえて候
 ――(一切経や外典の中で)この法華経だけに″この経(三大秘法の御本尊)を持つ女性は、他の一切の女性より優れているのみならず、他の一切の男性をも越えて優れている″と説かれている――大聖人は、こう述べられて、夫の四条金吾とともに心を一つにし、何があろうとも強き信心の心で進んでいくよう激励されている。
 御本尊受持の女性とは、婦人部の皆さま方のことにほかならない。その人は、他の女性ばかりか、男性以上に強く、優れた存在であると。まさに「かかあ天下」の群馬こそ、その姿にもっともかなった地であると確信したい。壮年部の皆さま方も、負けずに奮起されることを期待したい。
9  群馬出身の日寛上人
 さて、群馬県からも数々の人物が出ている。先にふれた県民世論調査で、「上州を代表する人物は?」という項目があった。回答の約四〇%が国定忠治をあげていた。
 第二位は新島襄にいじまじょう。明治のキリスト教伝道者、教育者であり、同志社大学の創立者である新島襄をあげた人は九%。国定忠治とは大きな差がでている。
 江戸時代の侠客きょうかくの一人として知られる国定忠治に、なぜ、このような根強い共感があるのか。その背景には、忠治の庶民性と、幕末為政者の腐敗と無能に対する反権力の姿勢があったといわれる。
 確かに群馬県人は負けん気が強く、権力をふりかざしてくるものには立ち向かっていくという傾向性があるようだ。そうしたものが今日でも国定忠治への共感となっているのであろう。
 また、為政者としては、古くは徳川家康の先祖の発祥地は上野国(群馬県)新田郡徳川郷という説もある。近年では福田赴夫元首相(群馬郡出身)、中曽根康弘現首相(高崎市出身)などがいる。さらに文化人としては詩人の萩原朔太郎、作家の田山花袋などがいる。この点については、昨年の群馬青年平和文化祭でも申し上げたので割愛させていただく。
 多くの詩人や作家がでていることは、すばらしき自然と国土であることの一つの象徴である。
10  また、私どもにとって忘れられないのは、中興の祖といわれた日寛上人も群馬出身であられることである。日寛上人について、日亨上人は「宗義外の詩文を見ても青年より老年に至らるゝまでのに悲惨の筆蹟を見ない、寧ろ押し通して楽天的の章句が多い」(『日寛上人全伝』)と述べられている。つまり、日寛上人の詩文を通して、楽天的でユーモアにも富んでおられたご性格であると拝察されている。これも群馬の国土によってはぐくまれた面もあらわれたのであろう。
 御開山日興上人は、冬は厳寒に閉ざされる山梨県の御出身であられ、非常に厳格なご性格であられたと拝される。牧口先生の『人生地理学』に展開されているように、国土と人間との深い結びつきが感じられてならない。
11  戸田先生は、よく「教学は日寛上人の時代に帰れ」といわれた。
 ご存じのように日寛上人は『六巻抄』を著されている。この『六巻抄』について、日寛上人はみずから「此の書六巻の師子王あるときは国中の諸宗諸門の狐兎こと一党して当山に襲来すといへども敢て驚怖くふするに足らず」(富要五巻)と言われている。まさに日寛上人は『六巻抄』で、大聖人御入滅後約四百年間に発生した邪義を、ことごとく打ち破り、大聖人の正義を内外に宣揚された。
12  日寛上人は、燦々さんさんたる「太陽の国」群馬のご出身であられた。そして、大聖人の仏法は「太陽の仏法」である。
 日寛上人は「依義判文抄」で「経に云く『又日天子の能く諸闇を除くが如し』云云、宗祖云く『日蓮云く日は本門にたとうるなり』と。
 ――法華経薬王品には「日天子(太陽)がよく諸の闇を除くように、この法華経もよく一切の不善の闇を打ち破るのである」と説かれている。大聖人はその薬王品の経文を受けて「秀句十勝抄」に「日は本門に譬え、月は迹門に譬える」(『昭和新定 日蓮大聖人御書』)と述べられ、この太陽の偉大な力用に譬えられた法とは、「文底独一本門の三大秘法なのである」――と。
 「太陽の仏法」である大聖人の仏法。私は、ここに不思議なる群馬の国土性を感じる。まさに「人材の王国 使命の群馬」のモットーの通り、この「太陽の天地」で活躍する皆さま方の使命の大なることを思わざるをえない。
13  歴史と風土に文化のかおり
 ところで、渋川市は地図の上では北緯三六度二九分、東経一三九度の位置にある。これは日本列島のほぼ中央に位置する。したがって″日本のヘソ″ともいわれ、群馬県北部における商業の中心地をなしている。西には榛名山がそびえ、その山腹には有名な伊香保温泉があり、一大観光地となっている。こう話してくると、何か″バスガイド″をしているようだが。大事な群馬であるし、私は大いに宣揚させていただきたい。
 さて、その渋川市の北西にここ「はるな平和墓苑」は完成した。また渋川平和会館が完成したのである。
14  ここで「榛名」の地名の由来について紹介しておきたい。
 『万葉集』巻十四の東歌あずまうたの中に「伊香保ろの そひの榛原はりはら ねもころに 奥をな兼ねそ まさかし善かば」――「伊香保の山の、崖のはるの原のごとく、ねんごろに、未来を予期なさるな、現在さえよければ、それでよい」(土屋文明『萬葉集市注七』新訂版、筑摩書房)――と歌われている。
 『万葉集』は、今から千二百年も前に編さんされたものであるが、そんな古い昔から″未来のことをあれこれと考えるなよ。現在さえよければそれでよい″と歌っている。″今さえ楽しめばよい″という享楽的な生き方が、千二百年も前から、群馬の県民性として続いているとは思わないが。
 「ハルナ」の地名は、この「榛原はりはら」が、のちに「榛野はりの」となった。「榛野」とははんの木(カバノキ科の落葉高木)の生い茂っているとの意で、この「ハルノ」が「ハルナ」と転じたとの説がある。
15  『郷土史事典・群馬県』によると、群馬の地は、地理的に日本のほぼ中心に位置しているが、歴史をふりかえるとき、たんに地理的のみでなく″政治、文化″の一つの中心もなしていたという事実がある。
 『古事記』や『日本書紀』によれば、崇神すじん天皇は皇子の豊城入彦命とよきいりひこのみことを、東国の毛野国けのくに(現在の群馬県方面)に派遣したとされる。
 また、四世紀から八世紀にわたってつくられた古墳が、県内に一万基以上あると推定される、とびぬけた″古墳県″である。このことから、当時、群馬県が東国の一大拠点であったといえる。さらに、古墳と関連して群馬県は、東国での″埴輪はにわの宝庫″でもある。
 また、『万葉集』の東歌の中では、上野こうずけ国をうたった歌がきわだって多い。このことは、当時の高い文化水準を物語っているといってよいだろう。
 一方、鎌倉時代「新田の庄」出身の新田義貞は、この地で実力をたくわえ、鎌倉を攻略。そのため鎌倉幕府は終焉しゅうえんをつげ、時代は、南北朝動乱期へと入る。
 次に、先ほど少しふれたが、徳川氏発祥の地については、大久保彦左衛門が著した「三河物語」(小林賢章訳、教育社)では、この群馬の地にある新田郡徳川郷とされる。そのためか、江戸時代には徳川郷では、すべての年貢や諸役を免除されていたようである。ただ一般には、徳川氏の出身は三河の土豪とされており、今後の研究を待ちたい。
 さらに、幕末から明治期にかけて、この地は「蚕糸さんし王国」といわれた。そして横浜開港によって生糸貿易を先取りし、日本の対外貿易を支えた。
 また、明治十九年(一八八六年)に、現在の東京を、赤城山南麓一帯に移そうとした「上州遷都論」が起きた。これは風光明美な土地がらに加え、この地が地震の震源地になったことがほとんどないことによるといわれる。(前掲『郷土史事典・群馬県』参照)
16  このようにみてくると、群馬は、風景が変化に富み、温泉や自然度の高い山岳、高原、湖沼、渓谷などに恵まれ、文字通り、山紫水明の国土となっている。
 とともに、それぞれの時代にあって、あるときは政治の、あるときは経済の、またあるときは文化の中心としての歴史をもち、さらに、時代を変革する偉大な人物が折々に輩出している。まことに素晴らしき群馬の「人」と「国土」である。
 その意味で、この群馬の大地は広宣流布にとっても大切な国土であるし、これからその重要性は一層増していくにちがいない。どうか、群馬の同志の皆さまは、確かなる展望をもちながら、素晴らしき国土の発展に努力をしていただきたいことを心から念願する。また、私も見守っていきたい。
17  生命の闇破る商法の″太陽″
 「太陽の国土」に「太陽の仏法」といえば、「新池御書」には、妙法を太陽に譬えられた次のような御文がある。
 「世間の悪業衆罪は須弥の如くなれども此の経にあひ奉りぬれば・諸罪は霜露の如くに法華経の日輪に値い奉りて消ゆべし
 ――世間の悪業や衆罪は須弥山しゅみせん(古代インドの世界観で世界の中心にあるとされる高山)のようであったとしても、この経におあいした時は、諸罪は霜や露のように消えるであろう――と。
 妙法という太陽が昇って照り輝けば、我々の生命に付着した数限りない業や障りも、たちまちのうちに消え去るのがこの仏法である。
 「御義口伝」にも、「慧日とは末法当今・日蓮所弘の南無妙法蓮華経なり」――慧日、則ち業障を取り除く仏の智慧の光は、末法今時においては、日蓮大聖人が弘めるところの三大秘法の南無妙法蓮華経である――と。
 それほどに御本尊の力用は絶大なのである。ゆえに、御本尊に南無し奉り、妙法という宇宙の大法則に冥合する時、赫々たる太陽のごとき境涯が我が生命に涌現し、過去世の罪業は朝露のように消え去っていくにちがいない。
 「太陽の国土」に住む、信心の情熱あつき皆さま方である。先ほど述べた、数々の短所に伴う苦しみも、御書に仰せの先業と同じく、たちまちのうちに、克服されゆくことを確信されたい。
18  さらに、大聖人は、同じく「新池御書」に次のように言われている。
 「いかにしても此の度此の経を能く信じて命終の時・千仏の迎いに預り霊山浄土に走りまいり自受法楽すべし」。――なんとしても、このたびはこの経をよく信じて、臨終の時は千仏の迎いを受け、霊山浄土に速やかに参り、自受法楽すべきである――と。
 信心は、現当二世である。三世を貫き、大宇宙に遍満する絶対の「法」が妙法である。「自受法楽」とは″みずから法の楽しみを受ける″ことであり、ここで大聖人は、妙法を信じ、現当にわたり、真実の楽しみを享受しなさいと、激励されている。
 ″臨終の時は千仏の迎いを受け″とは、生前に唱えた題目が大宇宙に感応し、一仏や二仏でなく、千仏も出現し、成仏へといざなってくれるとの法理なのである。何とありがたく、素晴らしいことであろうか。妙法受持の人は、千仏に導かれ、妙なる音楽を聴きながら、悠々と、法楽を味わいきって成仏することが出来るのである。ゆえに信心だけは、最後の最後まで、まじめに貫き通していくことが大切なのである。
 この「成仏」の問題については、これからもさまざまな角度から、論じていきたいと思っている。
19  再び、「群馬」をめぐる話題にもどし、もう少し論じさせていただきたい。
 「群馬」という県名は、前橋、高崎などの主要都市が「群馬郡」という郡にあったため、明治初期の廃藩置県の折、その名をとってつけられた。
 では、その「群馬」の郡名は、何に由来するのか。
 先年、奈良の藤原宮跡から発掘された木簡にも「上毛野かみつけぬ車評くるまのこおり桃井里」と記されている。また「和名抄」という古代の書物にも、群馬郡を「久留末くるま国」とある。その「クルマ」の音に似た好字こうじ(人名・地名などに好んで使われる、めでたい文字)として「群馬」があてられたと思われる。(『日本歴史地名大系 第十巻・群馬県の地名』平凡社、参照)
 むろん「群馬」の名が″良馬の産地″に由来するとの説もある。事実、群馬は、良馬の産地でもあったようだ。
20  良馬・白馬に譬える妙法
 ところで、御書には、御本尊を″良馬″に譬えられ、その力用について教えられた御文がある。
 「妙法曼陀羅供養事」には「此の曼陀羅は文字は五字七字にて候へども三世の諸仏の御師一切の女人の成仏の印文なり、冥途にはともしびとなり死出の山にては良馬となり・天には日月の如し・地には須弥山の如し・生死海の船なり成仏得道の導師なり」と仰せである。
 ――この曼陀羅は、文字は五字七字であるけれども、三世の諸仏の御師であり、一切の女人の成仏を約束する印文である。冥途ではともしびとなり、死出の山では良馬となる。天にあっては日月のようであり、地にあっては須弥山のようなものである。生死の苦海を渡る船である。成仏得道に導く師である――と。
 ここでは、御本尊の偉大な功力がさまざまな譬えで表されている。
 とくに「死出の山にては良馬となり」との仰せについて、群馬の御出身であられる日寛上人は、「妙法曼陀羅供養抄」のなかで、およそ次のように述べられている。
 すなわち、御本尊を良馬にたとえるならば″関羽の赤兎馬せきとば、玄徳の的驢てきろ、項羽のすい等の名馬も物の数ではない。妙法五字の良馬に乗って、速やかに霊山浄土にいたることはまちがいない″と。
 それにしても、中国の名馬をわざわざ列挙されるなど、″良馬″への関心がうかがわれる。そこには、駿馬の産地で生まれ、幼少期を過ごされた日寛上人の、郷土への愛着心があるように思われてならない。
21  また御本尊は、「一切の女人の成仏の印文なり」と仰せであるが、爾前教では、女人は不成仏とされたし、成仏を妨げるものとして嫌われてきた。法華経で女人成仏が明かされるまで、女性は永遠に成仏できない存在とされてきた。
 また、話は飛躍するが現代の欧米は男女平等の思想のもと、女性の立場がよく理解されている。これが当然の時代の推移にちがいない。それに対して、どちらかというと日本は男性優位の流れが強すぎた。しかし、ヨーロッパ以上の先見性をもって、群馬は″かかあ天下″の風土で、女性がリードする歴史をつくってきたことは、素晴らしい姿であると私は感心する。
 わが創価学会も時代とともに男女平等であるとともに、いや、女性を大事にするナイト(騎士)の精神でなければやっていけない。もっとも、広宣流布のために働いてくださるのは婦人部とみえるからだ。婦人部をいじめると罰があたるかもしれない。
22  さて、「内房うつぶさ女房御返事」には、有名な白馬と白鳥の譬えが説かれている。
 「白鳥は法華経の如し・白馬は日蓮が如し・南無妙法蓮華経は白馬の鳴くが如し」と。
 この譬えは、輪陀王りんだおうの故事によっている。つまり、かつて輪陀王という賢王があり、この王は、白馬のいななきを聞いて威光勢力を増した。また、この白馬は、白鳥を見て鳴いたという。ここで大聖人は――白鳥は法華経のようであり、白馬は日蓮のようなものである。さらに南無妙法蓮華経の題目は、白馬のいななきのようなものだ――と仰せになっている。
 とくに「南無妙法蓮華経は白馬の鳴くが如し」との御文では、唱題の音声おんじょうのありかたを示されているとも拝される。
 唱題は、いわば″天空をけるがごとく″疾駆しっくする「白馬」のいななきであり、凛々りりしく、リズム正しい響きでありたい。それが、″ロバ″のように、弱々しく、たよりげのない音声であってはならない。全世界、そして全宇宙にまで響いていくような、一念のこもった朗々たる唱題でなければならない。その強く、深い祈りこそ御本尊に感応し、自身と一族の国土まで、すべてを「幸福」と「安穏」と「繁栄」へと転換し、威光勢力を増しゆく力用となるのである。
23  心なごむ美しき自然
 ところで、渋川市に隣接する温泉の町として有名な伊香保町について、少々、述べておきたい。
 この町は、榛名山の北東斜面に位置するが、その温泉はまことに古い歴史をもち、約二千年前の開湯との説もある。『万葉集』『続日本紀』『三代実録』等に、すでに「伊可抱」「伊加保」「伊賀保」などの名前が見られる。が、その名を広く世に知らしめたのは、この地をこよなく愛した明治の文豪・徳富蘆花の小説『不如帰ほととぎす』であった。
 そこには次のような描写がある。
 「ここらあたりは一面の草原なれば、春のころは野焼きのあとの黒める土より、さまざまの草萱萩かやはぎ桔梗ききょう女郎花おみなえしの若芽など、生え出でて毛氈もうせんを敷けるがごとく、美しき草花その間に咲き乱れ、綿帽子着た銭巻ぜんまい、ひょろりとしたわらび、ここもそこもたちて、ひとたびここにおり立たば春の日の永きも忘るべき所なり」(岩波文庫)――。
 青春時代に読んだ私の大好きな一節であり、伊香保周辺の美しい新緑の平原の様子を、生き生きとつづった名文である。私は若き日、多くの名文を暗記するようにしていたが、この文章もその一つであった。日本の自然の美しさを、強く心に刻んだ、忘れえぬ一文となっている。
 さらに蘆花は、「春の山から」との詩の中で、″栄えよ 伊香保の里″と歌っている。
 私も、ここで、胸の奥深くから″栄えよ 群馬の友″と申し上げたい。
24  歌人・与謝野晶子は、日露戦争のさい、出兵した弟の身を案じてんだ反戦の詩でも有名だが、彼女は「伊香保の街」と題した詩を残している。
 「榛名山の一角に、/段また段を成して、/羅馬ロオマ時代の/野外劇場アンフィテアトルの如く、/斜めに刻み付けられた/桟敷さじき形の伊香保の街」(『与謝野晶子全集 第七』文泉動出版)と、階段状に立ち並ぶ、伊香保の街を表現している。
 「はるな平和墓苑」にも小さいながら野外劇場があり、この意義を含めて、私はそれをローマ劇場を命名させていただいた。
 この伊香保は、山あいの傾斜地に温泉宿が並び、とくに春・秋など、周囲の美しい自然が人々の心をなごませてくれる。私も訪問するたびにすがすがしい気持ちを抱く、本当に素晴らしい街であると思う。
25  古来、榛名山のことを「伊香保嶺いかほろ」といったが、「伊香保」の名は、何に由来するのであろうか。
 諸説あるようだが、伊香保温泉略説によれば「いかほの名義の起れるは、『イカメシキイハホ』と言う所より名づけたりと云へり……」(吉田東伍『大日本地名辞書』冨山房)とある。つまり、山の周辺は原野であり、耕地も少なかった。若干ある田畑にも浮石うきいしがまじるなど、作物を実らせるには厳しい環境であった。このような状況から、「厳穂いかほ」と呼ばれるようになった。また険しい山容「いか」からきたともいわれる。その他、アイヌ語の「イカホップ(暖かい湯)」に由来するとの説もある。
26  これまで縷々るる述べてきたように、群馬は、まことに豊かな自然と、歴史、文化に恵まれた天地である。ここ渋川市も、新幹線駅誘致の運動が起きており、そうなれば格段に交通の便が良くなるなど、大発展への確実な胎動が見られる。
 そうした地にあって、群馬の皆さま方は、どうか、素晴らしき人生のために、素晴らしき信心を、素晴らしき自身と国土の歴史をつくるために、素晴らしい異体同心の努力をお願いしたい。そして、日本、いな、世界に範たる、素晴らしい国土を建設されんことを心から念願し、スピーチとさせていただく。

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