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日蓮大聖人・池田大作

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信越青年部合同研修会 青年よ、わが人生に大確信を

1987.8.11 スピーチ(1987.7〜)(池田大作全集第69巻)

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1  自分自身の心を信じて
 本日は、親しい二、三人の同志や友人と、和やかに懇談しているような思いで、日ごろ感じている点を、少々、話させていだきたい。
 まず、この研修会の模様は、長野、新潟の各地にも伝えられており、そこに集った約七千人の信越の若き青年達に祝福のあいさつを送りたい。
 信越の地は、着実に発展し、多くの人材も立派に成長してきており、喜びにたえない。また、この長野研修道場も、守る会の方々や婦人部の方々などが、信心錬磨の道場として真心から整備してくださっている。この席を借りて深く感謝と敬意を表したい。
2  つい先日、聞いた話であるが、ある二人の会社の社長が、総本山を見学に訪れた。その二人の会社には何人かの青年部員が勤務しており、その真面目な仕事ぶりや優秀さに感心していた。また、学会の会合にも何度か招かれていた。
 二人の社長が訪れたときには、たまたま男子部の夏季講習会が行われていて、元気はつらつたる青年達に出会った。いわゆる「仏教」は老人や弱い者の救いのための宗教と思っていたが、その青年達の凛々りりしくも、生き生きと輝いた姿に圧倒され、深い感動を覚え、これまでの宗教と違うと、学会に対する認識を一新したという。
 そして、若い青年達が仏法を研鑽し、真摯しんしに哲学を学び人生を語り合っている。平和を考え、社会貢献の活動をしている。それは、自分の利害のことしか考えない人が多い現代にあって、大変に素晴らしいことだ。この青年達こそ″日本の宝″であり″社会の柱″であり、″未来の黎明を開く希望の存在だ″とたたえていたという。
 私は、こうした話を聞くたびに本当にうれしく思うし、広布の若きリーダーである諸君達のますますの成長と活躍を心から念願するものである。
3  さて、軽井沢の地といえば、昭和三十二年(一九五七年)八月十四日、戸田先生が、当時の青年部の代表として私と森田現理事長を呼んでくださった。そのころ戸田先生は、お体も非常に弱っておられたが、私達青年に種々指導され、広布の思い出をつくってくださった。これが先生にとって最後の軽井沢となった。
 先生ほど青年を愛し、慈しみ、薫育してくださった方を私は知らない。青年の成長なくして広宣流布もない、時代の未来も開けない、との徹した信念をもっておられた。
 その戸田先生は、よく青年に対して「確信をもって生きよ」といわれた。「若い時代にとくに大切なものは、自分の心を信ずるということである。しかし自分の心というものは信じがたい。若いときには心が動揺し、迷いが多いものだ」と。
 確かに青春時代には心は揺れ動く。美しい人を見ればそちらに引かれ(笑い)、格好のよいファッションがあればそれにあこがれる。名声や名利に動かされることも多い。また、さまざまな青春の苦悩がある。なかなか自分自身に確信をもって生きていけないのが、諸君の時代かもしれない。
 しかし先生は「自分の心にひとつの確信なくして、本当の意味の幸福の人生は築けない。自分には御本尊を信じているという偉大な力がある。どんな困難にぶつかっても、どんな境遇になっても、またどんな時代になっても、必ず乗り切っていけるという信心がある。この確信が大事だ。これが人生の宝である」といわれていた。
 諸君も若いがゆえに、さまざまな人生の悩みがあるだろう。だが、それらに心を動かされたり、負けてはいけない。″私には、御本尊がある。信心がある。絶対に苦悩が解決しないわけがない。幸福になれないわけがない″との強き確信の一念をもって、限りない未来性と可能性に富んだ青年時代を悔いなく生き抜いていただきたい。
4  一人の無限の力を引き出す組織
 話は変わるが、このところ新素材の分野で、超微粉ともいわれるスス同然の超微細な粒子が、関心を集めているようだ。
 『先端技術100の常識』(改訂版、日本経済新聞社)によれば、金属をこまかく砕いて、直径百万分の一ミリから一万分の一ミリ程度の超微粒子(たとえていえばコレラ菌の約百分の一の大きさ)。ところが粒子を構成する元素は、金属が塊であるときとまったく変わらないのに、粒径が小さくなるにつれて性質が大きく変わってしまう。
 この超微粒子の特異な性質を具体的にあげると、粒子の一つ一つは、表面張力(表面積を縮小させようとする力)が強く、内部に数十万気圧という高い圧力が発生しているという。
 さらに、低温域でも熱をきわめてよく通したり、化学的に「活性」が強く、さまざまな反応をするために触媒としてもその効果が期待される。
 オーディオ、ビデオの磁気テープなど磁気記録用材料に応用されているように、鉄系合金の超微粉末は、その大きさによって、塊のときよりも非常に強い「磁性」を示す、等々である。
5  これらは、金属の塊と超微細な粒子になったときの性質の変化を示した物性の世界の現象であるが、組織とそれを構成する一人一人との関係に当てはめて考えるとき、一つの重要な示唆を与えてくれる。
 つまり、組織にあって、一人一人に光を当てたとき、いままで分からなかった素晴らしい力を、一人一人が持っていることを知ることができる。組織はたんなる個の総和としての力をもつだけではない。「一人」また「一人」をきめこまかく見て激励をし、育てていくとき、各人の秘めた力が最大に発揮されるようになる。それを″みんなまとめて″といった組織の全体感で指導したり、指示をするいき方では、一人一人のもつ本当の力は出てこない。
 各個人が秘めた力は計り知れない。それをどう発揮し、輝かせていくか、これが学会の今後の重要な課題であることを、未来の指導者である諸君は、よくよく心に刻んでおかねばならない。
6  また、同書によれば、銀が金属の塊から超微粒子になったとき、融点(溶ける温度)は、きわめて低くなる。たとえば、銀は摂氏九六〇度まで溶けないが、超微粒子になると摂氏一〇〇度以下となり、熱湯の中で容易に溶けてしまう。
 同じように、組織から離れた個々人の力は弱くなる場合が多い。人間は一人になったときには弱くなってしまうものだ。さまざまな縁に紛動されやすいし、弱い自分の心に負けてしまうことも多々ある。
 ゆえに、多くの人々と互いに励ましあい自己を磨きながら、一人一人の個性、力を最大限に発揮していく。とともに、磨かれた個性の各人が強く団結し、力を合わせて社会の変革へと進んでいく――この一人一人としての「個」と、組織としての「全体」が調和し、両方のよさが存分に発揮されていくのが、信心の組織のありかたなのである。
7  清く、強く、広々とした心の人に
 ところで、信心の目的の一つは「清く美しい心」の自分をつくっていくことといえよう。ある婦人雑誌に心清ければ天女、心けがるれば悪魔」とあった。
 日蓮大聖人は「浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり」と仰せである。
 「一心」「一念」は、じつに微妙であり、「悪」にも「善」にも進んでいく力をもっている。
 そこで私は「信心は心清き人をつくる。心強き人をつくる。心広々とした人をつくる。心福々しい人をつくる」と申し上ておきたい。
8  また仏典に次のような説話がある。
 昔、ハーラーナシー国に、過ちがあって追放された太子がいた。それまで立派な御殿に住み、思いのままの生活をしていた太子は、放浪生活に転落し、やっと夫人と一緒に粗末な家に身を落ちつけることになった。
 そして、食物も底をついたために、やむなく太子は山で猟をしたり、虫などをとって、夫婦二人はほそぼそと生きていた。
 ある日のこと、太子はダチという大きな山の虫を捕らえた。皮をはぎ、夫人にその肉を釜で煮させた。ところが、途中で釜の水が蒸発してしまったので、夫人は水汲みに行った。
 留守のあいだ太子は、空腹に我慢できず、なま煮えの肉を全食べてしまった。谷底からやっと水を運んできた夫人は、肉がないのにビックリ。
 「『あなた、肉はどうしたのです。』
 と訊ねた。
 『お前の居ないうちに、虫の奴め、急に生きかえって釜の中から飛び出して、いま逃げたばかりだ。後を追ったが、とうとう見失ってしまったよ。』
 『半分煮えている肉が、生きかえることなどあるものですか。殺されて煮られた肉がどうして走りましょう。』
 『いや、それがあったんだから、わたしも不思議に思っているのだ』」(『仏教説話文学全集 7』隆文館)とあざむいた(笑い)。
 夫人の太子への疑惑はますます深まった。夫の不誠実さに傷ついた夫人に、心から笑える生活がなくなった。夫婦は、疑心暗鬼にとらわれた日々を送っていった。
 その後、父王が亡くなり、太子は国に呼びもどされ、喜んで王位につく。新王は、めずらしい宝石類や衣服などを、夫人に贈り喜びをわかちあおうとしたが、夫人は晴ればれとした顔色にならない。希望のない暗い陰のようなものが刻まれていた。夫人は、山の家で夫の太子が夫人を欺いたつれない心を恨み、それがいつまでも心のなかから消えなかったからであった――。
9  この説話を通して思う第一点は、けっして人の心に傷をつけてはならないということである。ある思想家は「体の傷はいやせるが、心の傷は癒しがたい」と言っているが、まさにその通りである。学会にあっても指導的立場にある人は、絶対に会員の心に傷をつけるような言動があってはならない。とくにウソやごまかしは厳に戒めていきたい。それは真面目に、清い心で信心に励んでいる人々の心を深く傷つけるようになるからだ。
 第二点は、たとえ心に傷をつけられるようなことがあったとしても、それに負けない″強い心の人″であれ、″広々とした心の人″であれ、ということである。
 説話にあるように、ウソをついた太子も悪いが、しかし夫人のように、いつまでもそれにこだわって心を閉ざしてしまえば、結局、自分も不幸になる。相手の不誠実な言動はそれとして、それに負ける弱い心であってはならない。不誠実な言動をも包み込み、相手を導いていくような広々とした心、高潔な心をつくりあげていくことが大切である。そうした″清き心″″強き心″″広々とした心″を築いていけるのが信心である。
10  宗教裁判にみる闇黒の側面
 さて、宗教が、その権威と権力を悪用した時、いかに暴悪にして無慈悲な、恐ろしい存在となるか――。この点について、いわゆる中世以降の宗教裁判を事例に、少々、論じておきたい。
 もちろん、キリスト教以外にも、宗教による弾圧はあった。そこにはいずれも、残虐な血ぬられた歴史があった。一歩誤れば、罪もない民衆を暴虐の爪で引き裂く、宗教の恐ろしい側面を、若き諸君に知っておいてもらいたいのである。
 近年、正信会という悪侶によって、我々に対し、権威をかりての陰険極まりない迫害があった。時代は異なるが、精神的苦痛ということにおいて重大なる内容をはらんでいることを、永久に忘れてはならない。仏子である皆さま方に与えた苦痛はどれほどであったかと、今でも私の胸は痛む。信仰を破壊しようとする悪意の人に利用されろことほど恐いものはない。宗教者である私どもは、この点を深く銘記しておかねばならない。
11  ペルーの首都・リマには、私も三度、訪れたことがある。そこには、キリスト教の残酷な歴史を象徴する、かつての宗教裁判所が残されている。現在は、その暗黒史をとどめる博物館となっている。以下、私の話には若干の記憶違いがあるかもしれないが、紹介をしてみたい。
 ヨーロッパ各地にも宗教裁判所はあったが、このように今日まで残されているのはきわめてまれである。法廷の天井彫刻や牢獄等が往時のまま残されており、多くの犠牲者を生んだ悲惨な歴史を生々しく伝えている。
 一九七九年にリマで発行された『宗教裁判所』(ディオメデス・デ・セバージョス著、エディトリレス ウニダス社刊)には、次のようにある。
 「この(=宗教裁判所)博物館は、真実の苦悶に満ちた二百五十年余にわたる過ぎし時代を再現させ、″言語を絶する受難″の日々を今に語り伝えている。この地で、人々は、犯してもいない無実の罪で告発され、気味の悪い通路でつながった地下の洞穴ほらあなに山積みにされ、生きたまま埋められていった。囚われの人々は、過酷な拷問ののち、おそらくこの世に生まれてきたことすら呪いながら、最後の長い日々を過ごさなければならなかったのである」――。
 この宗教裁判所が生まれたのは一五七〇年。スペイン王の命により、リマの中央教会で発足し、一五八四年には、現在のボリバル広場に正式に設置された。
 これに先立ち、スペイン人のピサロが、一五三一年にペルー北部に侵入、次々と征服を始めた。このころ、早くも裁判官の資格をもったスペインの宗教裁判所の使節がペルーに上陸し、正式に裁判所が置かれる前に、何度か宗教裁判が行われていた。
 リマの宗教裁判所が完全廃止になるのが一八二〇年。この裁判所は、なんと二百五十年間も民衆を苦しめ続けた。廃止の報を知ったリマの人々は、怒りを爆発され大挙して裁判所を襲い、建物や設備を破壊した。それほどまでに、民衆の心に、怨念が鬱積うっせきしていたのであろう。
 宗教的な弾圧の歴史は、各所に見られるが、「宗教裁判」といえば、キリスト教の場合を指すことが多いようだ。これは、いわゆるカトリックの正統教義に反した異端者、ならびに他宗の者に改宗を迫る審問制度のことで、とくに、中世半ばから近世にかけて、ヨーロッパとラテン・アメリカで広く行われた。それは、まさに残虐な拷問と処刑の歴史である。
 宗教裁判の元来の目的は、カトリックの純粋性を維持し、改宗を迫ることにあったらしい。しかし現実には、異端者の取り締まりと処罰に眼目が置かれた。
12  セバージョス(一九一七年生まれ、経済学者)は、「リマの宗教裁判所の機構は、異端審問官のもとに二人の裁判官、そして弁護士、公証人、財務管理者、医師、会計士、七人の聖職者に三人の在俗、出版物の検閲官等、最低七十一人の人々から成り、一種の法廷形式をとっていた。しかし、実際には、刑法がなかったため、裁判官の自由裁量により、すべてが決定された」と述べている。
 裁判で容疑者の無実を弁明することは、みずからも異端の疑をかけられるために、被疑者に有利な証人は、なかなか現れなかった。法廷弁護人でさえ、現実には容疑者から自白を引き出す説得者にすぎなかった。それほど、異端審問官には絶大な権限が与えられていたわけである。
 リマの宗教裁判所には、二百五十年間に、四十二人の異端審問官がスペイン本国から派遣されている。彼らは、いわば当時の最高権力を背景とした、エリート中のエリートであった。しかし、民衆からは「あの世から来た食人鬼」といわれ、恐れられていた。
 さきほども引用したセバージョスの著書にも、「もっとも卑劣なことは、数々の残虐行為が、選ばれた学識のある人々によって行われたという事実である。彼らは、みずからの残虐行為に無関心であるどころか、逆に、自分自身の行為が残虐であるということを認めることからは身をそらし、行為の遂行に専従する人々の特定集団さえ構成していたのである。これらの専従者たちは、大きな庭園とその歌声が心はずませる鳥籠に囲まれて生活していたけれども、悲運の深淵につき落とされていくあの苦悶の民の嘆きの声からは隔離されていたのである」とある。
 また、残虐な判決を繰り返した裁判官達の心理を、よく表した一つの判決文があるので、紹介しておきたい。
 「囚人を有罪と決定し、拷問の刑に処する。拷問は、すでに告発され証拠だてられていることを囚人が真実であることを告白するために、我々が必要とみなす間、命令し継続するものとする。この拷問の結果、たとえ囚人が死にいたろうとも……流血をしようとも、手足がもぎとれようとも、真実を告白することを拒絶した囚人によるものであり責任はすべて本人にあり、われわれのくみするところではない」
 なんという欺瞞ぎまんの言葉であろうか。″真実を述べる″どころか、被疑者の多くが無実の民だったのではあるまいか。宗教の権威をかさにきて民衆を抑圧する尊大な権力者達に、私は深い怒りを禁じえない。
 宗教裁判には、見せしめの要素も強かった。
 裁判には、異端審問官のもと、町の主だった要人がすべて出席した。セバージョスは、紳士、淑女は盛装での出席を義務づけられ、それは、当時の教会と政治の権威に対する忠誠のあかしでもあった、と指摘している。そして、盛装した有力者達は、罪人を引き回しながら、中央広場からの通りを練り歩いたといわれる。その後、″罪人″たちは十字架にかけられ、処刑された。
 いわば、一種の見せ物的なさらしものになっており、面白半分のうわさ話の種にもなっていた――。
 いかに″罪人″といわれても、苦しみ、死にゆく人の姿を面白がり、興ずる風潮は、正常な人間の心ではない。
13  宗教裁判での拷問は、凶暴を極めた。囚人達は身体を火あぶりにされ、何年も鎖や足かせでつながれ、水責めにあい、考えられるありとあらゆる責め苦を受けた。
 私も、宗教裁判所の博物館で拷問の用具を見た。それらは往時の何割かに過ぎないようであったが、それでも十二分に当時の残虐な手口をほうふつとさせ、慄然りつぜんとした。そして狂信の恐ろしさ、人間の残忍さを痛感し、強い憤りを感じざるをえなかった。
 前述したセバージョスの著書には、拷問のありさまが大要、つぎのように記されている。
 ――拷問として多く使われたものに、火、滑車、拷問台の三つがあった。
 第一の火の拷問は「フェゴ」と呼ばれたもので、囚人の足に豚の油を塗り、火鉢の火であぶるのである。ちょうどチキン(鶏肉)を炭火で焼くように、少しずつ焼いていったようだ。囚人が苦しみを訴えると、足と火鉢の間に板を置き、自白を促す。求めに応じないと、板をとり、また火にあぶった。
 第二の滑車の拷問は、「ガルーチャ」と呼ばれた。囚人を裸にし、両手を後ろ手に縛り、両足に百ポンド(約四十六キロ)の鉄の足かせをつけ、手首を縛った縄で天井から吊るすというもの。縄をゆるめたりして尋問した。が、長時間、吊るされていると、最後には四肢がすべてバラバラになって飛び散るという。
 第三のポトロといわれた「拷問台」は、″水とひもの責め″とも呼ばれ、裸の囚人を木の台にあお向けに寝かせ、四肢を縛りつけ、棒で殴る。しかも、そのさい約三・五リットルほどの水を、口のなかに入れたひもと一緒に少しずつ流し込む。囚人は殴打と窒息という二重の苦を与えられた。
 このほか、監禁・追放も行われ、なかには、罪の証拠もなく、ただ″かもしれない″という疑いだけで、永久に家から出てはならないとの宣告を受け、生涯、家の前の通りすら歩けずに終わったケースもあった。
 それにしても、何と残酷無比な非道を重ねてきたことか。
 宗教裁判の犠牲者は、ペルーだけで五十万といわれる。全世界では、どれだけの人が非業の死を遂げたのであろうか。
 そのなかには、素晴らしき人格者もいたであろう。また才能ある人、正義の人も、数多くいたにちがいない。そうした人々も、すべて、恐ろしき死の淵へ、いやおうなく追いやられた。まことに、戦慄すべき歴史である。
14  民衆の幸福こそ宗教者の責任
 こうしたペルーなどラテン・アメリカの宗教裁判の前史として、中世に始まるヨーロッパの宗教裁判がある。
 総じて、中世ヨーロッパは国王の「王権」と教会の「教権」とが併存し、社会機構と宗教が表裏一体をなしていた。そして宗教裁判においても、王権と教権の利害が複雑にからみ合い、また、その中に人間の抑え切れぬ欲望がうごめいて、陰惨な殺戮の歴史をつづった。民衆の苦しみをよそに、教会自身は、富と権威、そして現世の権力への醜い貪欲を満たしていた。
 本来、個人の良心の尊重と、愛と寛容を説くキリスト教のはずである。その教会によって、幾百万にものぼる民衆の無辜むこの血が流された。これは否定しえぬ歴史的事実である。これは否定しえぬ歴史的事実である。その相手も異教徒ばかりではない。れっきとしたキリスト教徒に対しても、教会の教義を批判した人間は、徹底して弾圧され、しばしば火あぶりや絞殺なども行われた。
 もちろん過去の話であり、現代の教会は全く様相が異なっている。しかし、その上で、キリスト教のこうした暗黒に暗黒を重ねた歴史を見る時、かつて、故トインビー博士が、キリスト教の偏狭な狂信性を厳しく批判されていたことを思い出さざるをえない。
15  キリスト教ばかりではない。これまで幾多の宗教が、絶大なる権威をかさにきて、民衆を抑圧し、しいたげてきたことか。本来、民衆のためにあるはずの宗教が、いつしか民衆を迫害する側に回る。この恐ろしい歴史の構図を断じて忘れてはならない。
 諸外国の例はともかく、たとえば日本の江戸時代にも宗教弾圧があった。仏教界においては、多くの場合、信徒が強い信仰心を起こして布教し、捕らえられるというケースである。
 その場合、本来、信徒を守り、信仰の純粋性を守るべき寺院は、累が及ぶのを恐れて″信徒が勝手に行った布教であり、寺院の責任はない″と弁明するのが、他宗の通例であった。法を流布するのが宗教者の使命である。にもかかわらず布教にともなう迫害を、信徒にのみ押しつけて、平然としている。
 あまりにも卑劣な姿であり、いつの時代も、犠牲になるのは民衆である。その悲惨の歴史を転換するために、私どもの広宣流布の前進がある。
16  民衆の血と嘆きに染めぬかれた古今の宗教史――諸君は、その本質を鋭く見ぬいていただきたい。戸田先生も、東西の宗教の実態に深く通じておられた。その確たる裏づけをもっての、広布への行動であり、言々句々であられた。ゆえに一言一言に、広布の前進の正しさへの並々ならぬ確信がこめられていた。また民衆のために戦う烈々たる気迫があふれていた。
17  宗教裁判は中世のみではない。ルネサンスの時期には、ブルーノやガリレオの弾圧で有名なように、科学研究との対立が顕著になってきた。自然科学の発達の前に、キリスト教の教義が根底から動揺し始めたのである。この点については、また何かの機会に、くわしく語りたいと思っている。
 また、この時期を頂点としてヨーロッパ中に広まったのが″魔女狩り″である。これまた何十万とも何百万ともいわれる無実の女性が、残酷な迫害の犠牲となった。
 こうした宗教の歴史は、今後も機会を見て、さまざまな角度から論じさせていただくつもりである。
18  「人格」に光は偉大な力
 次に、若き諸君のために、「人格」の力について申し上げておきたい。信心しているからこそ、青年時代に、立派な「人格」の骨格を大きくつくっておかねばならない。
 ここには新潟の方も参集されているが、日蓮大聖人が佐渡におもむかれる道中の、あるエピソードを拝しておきたい。
 竜の口の″くびの座″の直後である。大聖人は、まず相模(現在の神奈川県中央部)の依智に連行された。「種種御振舞御書」には、次のように仰せである。
 「午の時計りにえち依智と申すところへ・ゆきつきたりしかば本間六郎左衛門がいへに入りぬ」――。
 正午ごろに依智という所に行き着いたので、本間六郎左衛門の邸に入った――。
 その家で大聖人は、警護の兵士達に囲まれておられた。大聖人は、彼らから見れば重罪人の御立場である。ところが大聖人は、終始、悠然とされ、しかも兵士達に酒までふるまっておられる。まことに美しい御姿である。
 「さけとりよせて・もののふどもに・ませてありしかば各かへるとて・かうべをうなたれ低頭手をあさへて申すやう」――酒を取り寄せて、ついてきた兵士達に飲ませていたところ、彼らが「帰ります」と言い出し、頭を下げ合掌して次のように言った――。
 「このほどは・いかなる人にてや・をはすらん・我等がたのみて候・阿弥陀仏をそしらせ給うと・うけ給われば・にくみまいらせて候いつるに・まのあたりをがみまいらせ候いつる事どもを見て候へば・たうとさに・としごろ申しつる念仏はすて候いぬとて・ひうち火打ぶくろよりすず珠数とりいだして・すつる者あり
 すなわち――「今までは、どんなお方であるのか存じませんでした。我々が頼りにしてきた阿弥陀仏をそしっておられるとお聞きしていたので憎み申し上げておりましたが、直接に拝顔して、昨夜来のお振る舞いを拝見しましたところ、あまりに尊いので、長年となえてきた念仏は捨てました」と言って、火打ち袋から珠数じゅずを取り出し、捨てる者が現れた――。
 また「今は念仏申さじと・せいじやう誓状をたつる者もあり」――「今後は念仏を申しません」と誓状を差し出す者もあった――。
 まさに劇的な変化である。通常なら考えられないことである。何しろ、大聖人は罪人、相手は刑吏けいり側の兵士である。しかも大聖人は、頸の座の死地を脱せられたばかりであり、今まだ危難の途上にある。
 そのさなかにあって、敵方の兵士に対し、夜を徹しての勤めをねぎらい、こまやかに慰労しておられる。人情の機微をとらえられたこの真心の酒は、兵士達の体と心に、いかほど温かくしみわたっていったことであろうか。
 御本仏にとって、敵もまた敵ではない。すべての衆生が仏子であり、我が子である。全宇宙が御本仏の一念の内に収まっている。兵士達は、その広大無辺の御境界の一端に、しばしふれ、感動の余り、みずからすすんで念仏を捨てたのである。
 決して大聖人の仏法の法門を理解したからでもない。その大慈悲の御人格に接した結果である。
 「人格」の力は偉大である。広布の指導者も真摯しんしに人格を磨かねばならない。苦難の時にも、強く、淡々と乗り越えていける人。またつねに、内外の人々に、こまやかな上にもこまやかな心配りをできる人でなくてはならない。私も、そう心がけてきたつもりである。諸君は、未来の大切な指導者であるゆえに、この点を強く述べておきたい。
19  悔いなき生涯の軌跡を
 最後に、戸田先生の指導を紹介しておきたい。
 昭和二十九年(一九五四年)十一月十日、この長野の軽井沢の地で、学会が建立した妙照寺の落慶入仏法要が行われた折のことである。
 戸田先生は、純粋な信心の伝持を教えられ、「これから先、信心を孫子の代まで純真に続けさせるには、あなた方のなかで恨みをもって付き合ったり、金やあるいは商売のことに利用しあったりするようなことがあってはならない。そういうことのないように、信心だけは純真そのもののひたぶるな信心を貫き、軽井沢の信心を永久に絶やさないように」と述べておられる。
 幸い、軽井沢、長野をはじめ信越の皆さまは、まことに見事にしてうるわしい模範の地域をつくってくださった。この姿を、戸田先生は、どれほど喜んでくださっていることかと、私は深い感慨を禁じえない。
20  諸君は若い。将来も長い。しかし一生は一生である。大聖人は「一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ」と仰せである。
 悔いなき人生の軌跡をつくっていただきたい。光輝ある″自分自身の歴史″を築いていただきたい。信心によって、大宇宙の法と合致しながら、広宣流布の前進の真っただなかに生ききっていただきたい。そして、その行動の中から、自分らしい人生の大輪の花を見事に咲かせていただきたい。
 諸君の洋々たる前途を確信し、祝福しつつ、本日のスピーチを結ばせていただく。

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