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日蓮大聖人・池田大作

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北海道広布開拓三十周年幹部会 わが生命の永遠の軌道を

1987.8.2 スピーチ(1987.7〜)(池田大作全集第69巻)

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1  北海道の広布開拓三十周年を祝う
 本日は全道の代表が集っての記念幹部会であり、遠来の同志の方々に、本当にご苦労さま、と申し上げたい。
 また、きょうは日曜日で、北海道で全国高校総合体育大会が開催されている折でもあり、本来なら、ゆっくりとテレビで競技を観戦したり、″のど自慢″の番組でも楽しんでおられるところかもしれない(笑い)。それを皆さま方は、仏道修行のためにこのようにご参集され、信心を磨いておられる姿に、心から敬意を表したい。また本日の幹部会にあらためて、おめでとう、と申し上げる。
2  当初の予定では、私は函館研修道場を訪問後、室蘭、札幌、厚田の戸田記念墓園、旭川等を訪れるつもりでもあった。しかし、北海道は高校総体等でも約三万人が集まり、その他の観光客とあいまって、大変な混雑ぶりであり、乗車券等を手に入れるのもたいへんである。そうした諸条件もあり、今回は、ここ函館研修道場で、じっくりと北海道の友の指導・激励に当たり、将来の構想なども検討、協議しておきたいと考えている。各地の皆さまにはお目にかかれず、まことに申しわけなく思うが、くれぐれもよろしくお伝え願いたい。
 なお、北海道の広布開拓三十周年、また三年後の学会創立六十周年を祝い、別海研修道場(現在、北海道研修道場)も、建物・施設を拡充していくことが、最高会議で決定した。まず、この席でご報告しておきたい(拍手)。
3  退転は信心の功にゼロかける愚
 さて、本日は、数字の0(ゼロ)から話を進めたい。
 〈ゼロ〉の定義は、任意の実数xに対し【x×0=0】、【x+0=x】、【x−0=x】となる、ただ一つの実数ということである。このことは、すでに七世紀初めに、インドの数学者ブラーマグプタの書物で指摘されており、そこには「いかなる数に零を乗じても結果はつねに零である」「いかなる数に零を加減しても、その数の値に変化が起こらない」との、ゼロの性質が示されているという。(吉田洋一『零の発見』岩波新書、参照)
 この〈ゼロ〉の定義に関連して、私がここで申し上げたいのは、長い間、いかに広宣流布にとって功労があったとしても、ひとたび退転してしまえば、すべては「無」に帰してしまうということである。あたかも、〈100〉に〈0〉をかけたようになってしまうといってよい。
4  このことについて、御書には、たとえば次のような御文がある。
 「兵衛志殿御返事」に「今度はとのは一定をち給いぬとをぼうるなりをち給はんをいかにと申す事はゆめゆめ候はず但地獄にて日蓮をうらみ給う事なかれしり候まじきなり千年のかるかや苅茅も一時にはひとなる百年の功も一言にやぶれ候は法のことわりなり」と。
 これは、大難に直面し、信心を失いかけていた池上兄弟の弟・宗長(兵衛志)に対し、日蓮大聖人が退転の恐ろしさを戒められたものである。
 ──今度は、あなたは必ず退転されると思うのです。退転するのを、どうこういうつもりは毛頭ありませんが、ただ地獄に堕ちてから、日蓮を怨んではなりません。その時は、知りませんよ──と述べられたあと、譬喩ひゆを通し──千年も生い茂ったかるかやも、一時に灰となり、百年の功も一言で破れてしまうことは、ものごとの道理です──と仰せである。
 「かるかや」は、イネ科の多年草で、日本をはじめ中国、朝鮮半島(韓半島)、さらにインドにまで分布する。多年にわたり生育し、毎年秋に花をつける。
 たとえ一千年にわたり茂ってきた「かるかや」であっても、火をつければたちまちのうちに灰燼かいじんに帰してしまう。信心もまた同じ道理であり、いかなる功労も一度の退転で、すべて水に帰してしまうことを分かりやすく御指南されている。
 まさに退転とは、それまでの信心の軌跡に〈ゼロ〉をかけてしまうに等しいことを知らねばならない。
5  池上兄弟への大聖人の真心の激励
 ご存じのように、池上兄弟は兄を宗仲むねなか、弟を宗長むねながといった。御書では、弟の宗長を「兵衛志ひょうえのさかん」と呼称されている。「兵衛志」とは、本来、兵衛府ひょうえふ(宮城の警護にあたる官司)に勤める武士の役職名で、四番目の位の士官を指す。
 池上家は、鎌倉幕府の作事奉行(建物の建築や修理を統轄する役)であり、当時としては相当に社会的地位の高い家柄であったようだ。
 池上兄弟の入信は古い。大聖人の立宗宣言から三年後の建長八年(一二五六年)ごろの入信といわれ、四条金吾らとほぼ同時期になる。兄弟は、六老僧の一人・日昭の甥に当たり、その関係で入信したともいわれる。
 ちょうど入信二十年を迎えるころ、兄弟二人に大きな試練が訪れる。父・康光は、大聖人に敵対する極楽寺良観の熱心な信奉者であった。そこで、妙法を純粋いちずに奉ずる兄・宗仲を、二度にわたり勘当したのである。
 一度目の勘当の折、大聖人が二人に与えられた激励の書が、有名な「兄弟抄」であり、そのなかの「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る」等の御文は、皆さま方もよくご存じであると思う。
 そして、二度目の勘当のさいに、大聖人が弟の宗長に送られたのが、先にふれた「兵衛志殿御返事」である。
6  二度目の兄の勘当のさい、大聖人は、なぜ、弟の宗長にこのような御手紙を送られたのか──。
 兄・宗仲は、自身の二度の勘当にも動揺せず、いちずに信心を貫く気丈な姿勢を変えなかった。それに対し、宗長は、元来、情にもろい性格でもあり、それが信心の姿勢にも悪い形であらわれ、信心をやめさせようとする年老いた父に対して、毅然たる態度がとれなかったようだ。兄が勘当された今、父に従いさえすれば、家督相続権はおのずと自分のものとなり、父の身分や財産を継ぐことが出来たからである。宗長の心は、大きく動揺していた。
 大聖人は、こうした宗長の心の動きを、すべて鋭く破されていた。だからこそ、弟の宗長に御手紙をしたためられ、全魂で信心のくさびを打ち込まれたのである。
 人は、往々にして、目先の利害に心を動かされ、決めた道を引き返してしまうことがある。しかし、せっかく三世にわたる幸福を築く、永遠の成仏への大道を歩みながら、ひとたび退転の坂をころげ落ちれば、いかなる福徳も、火のついた「かるかや」のごとく、たちまちのうちに無に帰してしまう。大聖人は、御手紙のなかで、この一点を強く宗長に訴えられた。
7  ところで、先ほどもふれたように、宗長は兵衛府の武官という地位にあった。平安時代以来、宮城警護にあたるのは、兵衛府のほかに近衛このえ府と衛門えもん府があり、その三つがそれぞれ左右に分かれ、六衛府を形成していた。
 大聖人は、宗長の「兵衛のさかん」に対し、兄の宗仲を「右衛門の志」と呼ばれている。このことから、宗仲は右衛門府の官職をもっていたことがわかる。
 そのほか門下では、四条金吾が「四条中務なかつかさ三郎左衛門尉さえもんのじょう頼基」という名が示すように、左衛門のじょうという官位にあった。「尉」とは「志」の一つ上の位で、三番目の位にあたる。
 ちなみに、門下の主な人々の官位は、次の通りである。
  南条時光=左衛門尉
  太田乗明=左衛門尉
  富木常忍=左衛門尉
  曾谷二郎=兵衛尉
  工藤吉隆=左近尉
  新池殿=左衛門尉
 鎌倉時代には、売官(官職を売ること)の風潮も見られ、官位の数も、かなり水増しされていたようだ。それだけ、身分や家柄というものが重要な意味をもつ時代であったともいえよう。
8  しかし、最終的に、宗長は、大聖人の真心の激励に目先の誘惑を断ち切り、退転を免れる。それのみならず、弘安元年(一二七八年)には、兄弟で力を合わせ父をも入信させることが出来た。さらには、大聖人がこの池上兄弟の邸で御入滅されるという歴史をも刻むことになる。
 人の心は、刻々と動き、移ろいゆくものだ。一度、決意したことも、時間とともに揺らぎ、迷いを生ずる。それが現実であり、いつの世も変わらぬ姿でもあろう。だからこそ、正しい信心の指導・激励が、大切なのである。
 人の心は、確信強き人の方へと、動かされていく。ゆえに確信強き激励、毅然たる指導でなくてはならない。
 ともあれ、ここに、信心の向上と広布のための組織の重要性があることを知っていただきたい。
9  ところで、池上兄弟が三障四魔との戦いに勝った背景には、夫人達の信心があった。
 大聖人も、二人の夫人に対し、厳格かつあたたかな指導を繰り返しなされ、夫人たちもよくこれに応えたようである。
 とくに、弟の宗長夫妻には子どもがなく、その点についても大聖人はこまやかな激励をされている。この励ましを力に、夫人が堅固な信心を貫いたことが、夫の信心の大きな支えとなった。
 やはり夫婦はお互いに影響を及ぼしあうもので、男性には夫人の信心が大きく影響するようだ。これまで多くの退転者の姿を見てきたが、ほとんどの場合、夫人が、愚痴の心が強く、信心も弱い。また欲が深く、目先の利害に拘泥こうでいする人であることが多い。
 一家にあって、夫人の信心が非常に重要であることを、銘記していただきたい。
10  ここで〈ゼロ〉についてふたたび考えてみたい。〈ゼロ〉はどんな数をかけても結果は〈ゼロ〉である。このことは、信心のうえでも、当てはまる原理である。
 日蓮大聖人は、四条金吾への御抄のなかで「いかに日蓮いのり申すとも不信ならばぬれたる・ほくちに・火をうちかくるが・ごとくなるべし」と仰せである。
 ──日蓮があなたのことをいかに祈ったとしても、あなた自身がこの仏法を信じなければ、濡れた火口ほくちに火を打ちかけるようなもので、まったく無駄になってしまう――との御指南である。
 無線通信を例にとると、いくら送信機で声を送っても受信機に電源が入っていなければ、声が届かない。と同じく、いくら御本尊を受持していても、信心がなければ祈りは叶わないし、御本尊の功徳は出ない。
 また、純粋な信心をなくした人、学会に悪意しか抱かない人には、どのような真心の激励をしても、あたかも「ゼロ」に数字をかけているようなもので、相手の心に通じないことも多い。そのような人には、毅然とした態度で臨んだ方が、むしろ信心に近づけていける場合があるものだ。
11  信心にも通じる″マイナスの原理″
 この、〈ゼロ〉という概念を思いつき、それを使って数に書き表したのは、インド人であった。その発祥は、一説によれば、紀元前後ころであったとされている。
 サンスクリット語では、〈ゼロ〉のことを、〈sunya=シューンヤ〉というが、これはもともと「くう」を表す言葉である。
 「ゼロ(『空』も同じ)は、単なる無でもなく、単なる有でもなく、同時に有でも無でもあり、また有でも無でもないという(これらの喩えに、〈102〉という数にある〈0〉があげられる)、一見矛盾に満ちた多面性を発揮する」(中村元・三枝充悳『パウッダ・仏教・』小学館)
 こうした〈0〉という概念を発見した背景には、インドの哲学・宗教の伝統がインド人の生活に深く根付いていたことがあるともいわれる。
12  実数に〈0〉をかけると〈0〉になるが、同じように、たとえば〈1〉にマイナス1をかければ〈マイナス1〉となる。〈100〉にマイナス1をかければ、〈マイナス100〉となる。このように、マイナス1をかけると、正の数は、そのまま″負″の数となり、しかもその絶対値は変わらない。つまり、″正″の数が大きければ大きいほど、マイナスとなった時の数値も大きいのである。
 これは、一度は信心に励み、社会的、組織的に地位が高くなってから退転した場合は、マイナスをかけるようなもので、その役職や地位が高ければ高いほど、罪が重くなることにも通ずると思う。
 「佐渡御書」には、次のような御文がある。
 「日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮がくなれば疑ををこして法華経をすつるのみならずかへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人びゃくにん等が念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん事不便とも申す計りなし
 ──日蓮を信じているようであった人たちが、ひとたび日蓮が佐渡流罪のような大難にあうと、疑いを起こして法華経を捨てるだけでなく、かえって日蓮を教訓し、自分の方が賢いなどと思っている。このような僻人びゃくにん等が、念仏者よりも長く阿鼻地獄に堕ちることは、不便としかいいようがない──と。
 「念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん」――ここにいわゆる″マイナスの原理″が、私にはうかがえてならないのである。つまり、正法を誹謗している人よりも、正法を信じていながら違背した人の罪のほうが重いということを、よくよく肝に銘じていただきたい。
 この御文は、牧口初代会長もたびたび引用された一節である。牧口先生の胸中にも、この″マイナスの原理″が強く刻まれていたにちがいない。
 一般的にも、末端の役人の汚職より、総理の犯罪の方が罪は重い。それが世間の道理であり、信心の世界でも、それは変わらないのである。
13  かつて戸田先生は、謗法について、わかりやすく話してくださった。
 「たとえていえば、次の様になります。コップの水は清らかな水です。大御本尊様と同じとします。ここに仁丹が一粒あります。仁丹だからいいけれども、これを汚物だとします。これをちょっと、ほうり込む。そうすると水はどうなりましょう。少ないからいいではないかといえますか。汚物の粒を入れたのです。にごった水になって、功徳どころでなくて害になりましょう。このなかに、バイキンなんか入っていたら、なおたいへんなことになるでしょう」(『戸田城聖全集』第二巻)と。
 ユーモアのなかにも真実が光る、私どもの銘記すべき指導と思う。
14  大切な中心者の信心の姿
 本日は、各地の広布のリーダーの集いでもあるので、大聖人が「上野殿御返事」で、中心者の信心のあり方について厳しく御指南をされている御文を拝しておきたい。
 「大魔のきたる者どもは一人をけうくん教訓をとしつれば・それひつかけ引懸にして多くの人をとすなり
 ──大魔がついた者たちは、信心をしている一人の人を、邪智でさまざまに非難し、さも教えさとすかのようにして退転をさせる。そして、その人をきっかけにして、多くの人を攻め落とす──つまり退転をさせようとするのである。
 近年のいわゆる宗門と学会を撹乱かくらんしたやり方もそうであった。また一部のマスコミを利用した徒の策謀もそうであった。魔が多くの信心の人を退転させようとする方程式は、いつの時代でも同じである。
15  さらに「日蓮が弟子にせう少輔房と申し・のと能登房といゐ・なごえ名越の尼なんど申せし物どもは・よくふかく・心をくびやうに・愚癡にして・而も智者となのりし・やつばら奴原なりしかば・事のこりし時・たより便をえて・おほくの人を・おとせしなり
 ――日蓮の弟子の少輔房といい、能登房といい、名越の尼などという者達は、欲深く、心は憶病で、愚痴でありながら、しかも智者であると名乗っていた連中だったので、事が起こったときに、機会をとらえて多くの人を退転させたのである――。
 退転者に共通している点は、欲深く、自分の利害にさとい。そしてまた、心は憶病で、グチの人でありながら、自分は頭がよい、教学にすぐれていると慢心をいだいていることである。何か事が起こったときに、多くの人々は、その立派そうに見える外面的な姿に紛動されて退転していったのである。この原理は、いつの世にあっても変わりはない。
16  また「殿もせめをとされさせ給うならば・するが駿河にせうせう信ずるやうなる者も・又信ぜんと・おもふらん人人も皆法華経をすつべし、さればこの甲斐の国にも少少信ぜんと申す人人候へども・おぼろげならでは入れまいらせ候はぬにて候、なかなかしき人の信ずるやうにて・なめり乱語て候へば人の信心をも・やぶりて候なり」と。
 殿、つまり南条時光は、駿河の国(現在の静岡県方面)の信者では中心的立場である。
 ──その南条時光が魔に負けて退転するようなことがあれば、信心の弱い人も、また信心しようと思っている人も、その姿をみて、皆、法華経、つまり御本尊を捨て信心をやめてしまうだろう──。
 だから、中心者である南条時光、あなたがしっかりしなさいと大聖人が厳しく御指南されているのである。
 ──そこで、甲斐の国(山梨県方面)にも、少々信じようという人々はいる。しかし、はっきりしないうちは入信させないでいる。というのも、なまじっかな人が信心をしているような格好をして、いいかげんなことをしていくときには、他の人の信心をも破ってしまうからである──とも仰せである。
 どんな人でも信心させればいいというものではない。その人が、信心を利用しようとしている時もある。性格的にくせがあって、多くの人に迷惑をかけて退転させていくような黒い心の人もいる。ゆえに私どもの信心の世界に入れることについて、よくよく注意し、峻別しなくてはならない場合があるだろう。
17  人生最終章が映す幸、不幸の実像
 歴史上の人物には、名声を博し、名を残した人は数多くいる。なかには、みずからの信ずる主義、主張、信念に生きて不遇のなかに生涯を終えた人も多い。有名にいろどられながらも人生の最終章がいかなる姿であったか、それは人生を考えるうえで大事な点である。
 現在、生活との戦いがどんなに大変であったとしても、また逆に、豊かなめぐまれた境遇にあったとしても、それは人生の一断面である。如実知見にょじっちけんで、一生を通した全体像をどう把握していくか、そして人生の最終章がどうであったか、ここに焦点をあて見きわめていくのが信仰の世界であり、仏法の世界である。
 その意味で、ここでは航海者コロンブスと、画家マネについて見てみたい。
 コロンブス(一四五年一〜一五〇六年)についてはあまりに有名であり、皆さま方もよくご存じのことと思う。ヨーロッパから西方のアジアに向かう西回り航路の発見を夢見て、アメリカ大陸に到達したコロンブス。新大陸の先住民の立場からの批判もあるが、人間世界を大きく広げた彼の先駆性は、歴史上高く評価されていくにちがいない。しかし彼の半生はどうだったか──。
 彼は四度にわたる航海を行う。第一回は、ハバナ諸島の一つに到着、キューバ、ハイチなどの島々を探検し、大成功で帰ってくる。彼の名声はヨーロッパ中にとどろきわたった。第二回の航海は、船は十七隻、千五百人にのぼる乗員で意気揚々と出発するが、思ったほどの結果を生まない。
 第三回、第四回と彼は航海に出る。しかしそれほどの成功はしない。とくに二回目、三回目の航海の折には、コロンブスに対する多くの不満の声が、植民地から本国に持ちこまれており、王室や世間から冷たい目でみられるようになっていた。第三回のさいには、査察官によって手錠をかけられ、スペインに送還されるほどであった。
 最初は、王室も世間も賛嘆し、大英雄であった。そして今に残る新大陸の発見者としての名声。しかし、それに反対し、晩年は不遇であった。関節炎やマラリアにかかり、王室の冷遇に不平をかこちながら、失意のうちにその生涯を終えている。
 さて、コロンブスの生涯で、指導者としての教訓となるものが一つある。それは「開拓者」として必要な「先駆性」「行動力」をもっていたコロンブスも、その開拓された土地で「指導力」「統率力」が発揮できなかったことである。そのため現地には多くの不満や反発があり、それが国王らの耳に達し、王室からの冷遇となって彼自身にはねかえってきている。
 同様な事が、信心の世界でもある。たとえば、それまで自分の置かれた立場で存分に活躍してきた人が、それよりも一歩高い立場に立ったとき、指導者として失敗する場合がある。また、ある地域では立派にリーダーとして活躍していた人が、他の地域に移ったとき、存分に指導力、統率力が発揮されないで終わってしまうということもある。
 これは、指導者論としては一つの課題となるものであり、それぞれの地域にあって妙法のリーダーとして指揮をとっておられる皆さま方も、こうした点をよく分析し、研究もしながら、すばらしき広布の指導者に成長し、活躍をしていただきたい。
18  また、フランスの画家マネ(一八三二年〜一八八三年)は、新鮮な画風で印象主義への道を開いた。「笛吹き少年」「オランピア」「フォリー・ベルジェールの酒場」などの作品が有名である。
 苦難のなかにも、独特の明るいタッチで多くの画家に影響を与えた彼は、しだいに苦悩の淵に沈んでいく。まず四十代半ばのころ、左足に痛みを感じたが、その原因がよくわからない。しかし、的確な治療もほどこせないまま、病状だけは進んでいく。「印象派の父」とまで呼ばれ、近代絵画に一大革命をもたらしたマネだが、名誉あるレジョン・ドヌール勲章を受けたのは、死の二年前であり、栄光というにはあまりにも暗い、激痛との戦いのなかにあった。左足の切断手術を受けたにもかかわらず、壊疽えそにおかされてしまい、その数日後、苦悶のなかで死を迎えたという。ともあれ、古今東西の歴史をみても、暗殺されたり、水死、自殺、ギロチンにかけられたり等々、人生の最後にはさまざまな姿がある。
 人生の最終章をどのようにに送るか──これは仏法の大事な視点である。
 現在も、テレビなどのマスコミで名を挙げ、″有名″を求める人は多い。しかし、それらは夢、まぼろしのような人生の一断面にすぎない。虚像の名声や有名の中には、実像の幸福はないのである。永遠にして絶対なる御本尊を持った人こそが″生命の王者″であり、″幸福の王者″として輝いていく人である。また広布と信心に生きゆく人こそ、三世の旅路の″幸の王者″なのである。
19  法難と夫の死を信心で乗り越えた妙一尼
 さて、その「信心」の姿勢は、どうあるべきか。その正しいありかたについて、大聖人の御指南を拝したい。
 弘安三年(一二八〇年)、五十九歳の御時したためられた有名な「妙一尼御前御返事」の一節に、次のように言われている。
 「夫信心と申すは別にはこれなく候」──と。
 信心はむずかしいといえば、むずかしい。しかし、やさしいといえば、まことにやさしい。ともあれ決して特別なことではない。遠いところにあるのでもない。本来の人間性を輝かせるものであり、道理にかなったものである。
 すなわち「妻のをとこをおしむが如くをとこの妻に命をすつるが如く、親の子をすてざるが如く・子の母にはなれざるが如くに、法華経釈迦多宝・十方の諸仏菩薩・諸天善神等に信を入れ奉りて南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを信心とは申し候なり」と。
 ──妻が夫をいとおしく思うように、夫が妻のためには命を捨てるように、また親が子供を捨てないように、子供が母親から離れないように、そのように法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏・菩薩・諸天善神等すなわち御本尊に信を入れ奉って、題目を唱え奉ることを信心というのです──との仰せである。
 夫婦の情愛、親子の愛情。それは、ありのままの人間性の発露である。妻は愛する夫のことを、いつも決して忘れないであろう。親も、どんなに苦しくても子を捨てないであろう。そこには、ありのままの人間の純粋な心がある。
 その純一無垢の一念そのままに、何があっても妙法から離れず、ただ御本尊をいちずに信じきって、ひたぶるに唱題してゆく──その汚れない本然の姿に「信心」の精髄がある。決して背伸びをしたり、虚栄を張ったりするなかにあるのではない。また身構えて、窮屈な思いをする必要もまったくない。
 つまり大聖人は、ここで妙一尼に対し、「信心」の本義を、家族の情愛に即して、わかりやすく教えてくださっている。
20  こうした激励を受けた妙一尼とは、どんな人だったか。彼女は鎌倉に住んでいた老尼で、六老僧の一人、日昭のゆかりの人であったようだ。妙一尼は大聖人の竜の口の法難、佐渡流罪という大難のなか、夫とともに不退の信心を貫き通した婦人である。
 夫も強信の人であった。しかし、大聖人の佐渡御流罪中、この信仰のゆえに、ささやかな所領も没収されてしまった。現在でいえば、会社を解雇され、生活の糧をなくすようなものである。その心労のためか、夫は大聖人の晴れの御赦免も見ることなく亡くなってしまう。妙一尼に残されたのは子供たちである。そのなかには病身の子もおり、女の子もいた。みずからも病弱であった。
 皆さま方の中にも、ご主人を亡くされた方がいらっしゃるかもしれない。また全国には数多くいらっしゃる。将来、そうした境遇となる場合もあると思う。それはそれで、ある意味で仕方のないことである。大切なことは、生涯、妙法とともに、たくましく幸福の坂を登りきっていくことである。
 夫に先立たれた妙一尼は、けなげに夫の信心の遺志を継いだ。彼女は苦しい生活のなか、佐渡へも、身延にも家僕を送り、お仕えさせている。
 余りにも有名な「法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる」との一節も、このような妙一尼の苦闘の姿に対して、大聖人が与えられた励ましのお言葉なのである。
21  このように妙一尼は、最愛の夫を亡くし、子供を抱きかかえながら、信心一途(いちず)に生き、戦っていた。
 ゆえに先ほどの「妻のをとこをおしむが如く……親の子をすてざるが如く」との一節も、こうした妙一尼にとって、単なる譬喩ひゆではなかった。むしろ彼女の切々たる真情そのものであったにちがいない。それは決してセンチメンタルな弱々しい心ではない。夫が生命をかけて貫いた信仰を同じように守りぬこう、そして子供達も立派に育ててみせるという、強く深き覚悟であった。
 大聖人は、こうした、けなげなる尼の心をくみとられ、その心のままに御本尊に向かい、唱題していきなさい。それが「信心」なのだと励まされている。つまり、家族の情愛の心を深く理解し、包容されたうえで、もう一歩、次元を深め、御本尊への純一無二の信心、そして「不退転の信心」について示されたのが、この一節であると拝する。
 すなわち家族の愛情の向けられる対象は、あくまで無常にして変転してやまぬ人間である。これに対し、信心の対象は、常住にして絶対なる妙法の当体であられる御本尊である。
 また愛情は、それのみでは、我が身も人も苦しめる煩悩の火と燃えることが余りにも多い。これに対し、妙法は煩悩即菩提の法門である。ゆえに信心の不退の実践のなかに、愛情をはじめとする人間性の輝きは、すべて大きく包まれ、生かされていく。ここに信心の深さと偉大さがある。
22  生死に妙法を離れぬ「信」を
 愛別離苦あいべつりく(愛する者と離別する苦しみ)は世の常である。
 大聖人は「聖愚問答抄」に次のように仰せである。
 「嗚呼・老少不定は娑婆の習ひ会者定離えしゃじょうりは浮世のことはりなれば始めて驚くべきにあらねども正嘉の初め世を早うせし人のありさまを見るに或は幼き子をふりすて或は老いたる親を留めをき
 ──ああ、老いも若きも人の寿命は定めなく、死期を全く予知できないことは、この娑婆世界のならいである。また、会う者は必ず離れることは浮世の定めである。ゆえに今はじめて驚くべきことではないが、正嘉元年(一二五七年)の大地震で世を去った人のありさまを見ると、あるいは幼き子を振りすて、あるいは年老いた親をあとに残して死んでいる──と当時の悲惨な状況を述べられている。
23  生と死のドラマ――それは現代も全く変わらぬ人の世の実相である。日々の報道を見ても、大事故、災害、殺人等、世界には数限りない悲劇が繰り返されている。その最大のものは、いうまでもなく戦争である。また、平穏に見えても、誰しも、いついかなる不慮の事故や病気にあうかわからない。これが人生の厳粛な事実である。
 その生死の現実の前に、多くの人々はなすすべもなく、ただ不安と悲哀と後悔の波間に漂うのみである。絶対的な安心の方途を誰もが必要としながら、誰もが見いだせないでいる。有史以来、それが人間社会の実相である。
 ここに常住にして絶対の「大法」を根本に、無常なる生死流転の世界を悠々と見おろし、永遠の生命に安心して生きゆくための信仰の必要性がある。
24  大聖人は、これに続いて「いまだ壮年の齢にて黄泉よみじの旅におもむく心の中さこそ悲しかるらめ行くもかなしみ留るもかなしむ」と記されている。
 ――まださかんなる壮年の身で、死の世界への旅におもむく心中は、さぞかし悲しいことであろう。行く人も悲しみ、この世にとどまる人も悲しむ――と。
 まことに痛ましい限りの死である。かの妙一尼の夫の死に対しても、大聖人は、子供や老妻をおいて死んでいく心はいかに苦しかったことであろうかと、その心中を思いやられ、妙一尼への御消息に次のように述べられている。
 「かの心の・かたがたには又は日蓮が事・心にかからせ給いけん
 ――(亡きご主人は子供達の行く末を心配されるとともに)その一方では、また日蓮のことが心にかかっておられたでしょう――。
 そして「仏語むなしからざれば法華経ひろまらせ給うべし、それについては此の御房はいかなる事もありて・いみじくならせ給うべしとおぼしつらんに、いうかいなく・ながし失しかばいかにや・いかにや法華経十羅刹はとこそ・をもはれけんに」と。
 ――″仏の言葉にウソはない以上、必ず法華経は弘まるであろう。その折には、この日蓮御房は何かすばらしいことがあって、世間から尊敬される立派な地位に昇られるにちがいない″とご主人は思われていたでしょう――と。
 次元は変わるが、皆さん方のなかにも何か特別なことが起きて、広宣流布途上において、世間の見る目も、すばらしいとほめたたえてくれるにちがいない、と考える人もいるだろう(笑い)。
 さらに――それにもかかわらず、はかなくも日蓮が佐渡に流罪されてしまったので、″いったいぜんたい、法華経や十羅刹の守護は、どうしてしまったのか。なぜ守護がないのか″と思われたことでしょう――と。
 法華経が流布して、大聖人が当時、万人の尊崇を集めていた極楽寺良観のように高い地位につけば、門下の自分もさぞかし、周囲に鼻も高く(笑い)、うれしいことだろうなどと、彼は思っていたにちがいない。ところが、大聖人は流罪、自分は所領没収である。さぞかし、がっかりしただろう。諸天の加護を疑い、法華経を疑いもしたろう――と心中を深く思いやられている。
 現代においても、信心をすれば万事、順調に行き、学会も自分も人々にたたえられ、もてはやされるとのみ思っていた人は(笑い)、反対に、広布の途上における悪口や迫害の連続に、嘆きや疑いを心に抱く場合も多い(爆笑)。
 しかし、迫害と苦難があるからこそ成仏できる。また何があっても、いささかも妙法を疑うことなく前進しきっていくのが、まことの信心である。妙一尼の夫は、この法難の衝撃も乗り越えて、立派に信心を貫き通し、人生を閉じた。
 大聖人は、彼の苦衷も、また強盛な信心も、すべてを熟知しておられた。
 先ほどの一節に続いては、「いままでだにも・ながらえ存生給いたりしかば日蓮がゆりて候いし時いかに悦ばせ給はん」――せめて今まで生きておられたなら、日蓮が佐渡から赦免になった時、どれほどか喜ばれたことでしょう――と。
 大聖人と苦難をともにし、しかも晴れの″凱歌の日″を見ることもなく死んでいった夫。その心中を思うにつけ、妙一尼にとっても、この大聖人の励ましは、万感の思いをともなって、胸に響いたにちがいない。
25  大聖人は、また妙一尼に対し、法華経のゆえに迫害され、屈することなく信心を貫いた夫の成仏は絶対に間違いないと述べられ、次のように励まされている。
 「此れをもつて案ずるに聖霊は此の功徳あり、大月輪の中か大日輪の中か天鏡をもつて妻子の身を浮べて十二時に御らんあるらん
 すなわち法華経のために大切な所領を没収されたあなたのご主人は、命を捨てて仏になった雪山童子や薬王菩薩と同じ功徳があり、生々世々に仏である。ゆえに宇宙の大月輪の中か、大日輪の中か、天の鏡にあなた方妻子の姿を浮かべて、一日中、見守っておられることでしょう――と。
 この一節は、宇宙の十界三千の次元から見極めていけば、わかることであるが、大聖人がわかりやすくおっしゃってくださっていると考えられる。私には絶対に信じられる御文である。
 また「設い妻子は凡夫なれば此れをみずきかず(中略)御疑あるべからず定めて御まほりとならせ給うらん・其の上さこそ御わたりあるらめ」と。
 ――たとえそうであっても妻子は凡夫であるから、これは見ることも聞くこともできないかもしれない。(中略)しかし決して疑ってはなりません。成仏したご主人は、必ず、あなた方家族を守っておられることでしょう。それだけではなく、さぞかし、あなた方のもとへ来られていることでしょう――と。
 夫は昼夜いつでも、あなた方のそばで、また大宇宙の諸天とともに、つねに守り続けていますよ。だから絶対に何の不安もいらないし、さびしくもありませんよ、との御本仏の御断言である。
 ここに、深遠な、ありがたき妙法の法理がある。父親や母親をはじめ、ご家族を亡くした方は、この一節をよくよく拝し、かみしめていただきたい。
 信心で結ばれた家族のきずなは、三世永遠であり、生々世々、夫婦になることも、親子となることもできる。また別の身近な関係になることもあろう。自在に奥底の一念通りに生まれ、必ず会うことができる、との仰せである。
 信心が透徹してくれば、この大聖人の仰せが、はっきりと実感できるし、明快にわかるものである。ゆえに少しもまどう必要はない。
26  そして、家族が早く亡くなった場合も、必ず何らかの意味がある。人間、誰しも必ず一度は死ぬ。早く亡くなった場合も、「転重軽受」という深い意義があるものである。長い目で見る時、結果としてそのほうが自身も一家も、より大きい未来の災難を避け、より幸福となる意義があることを凡夫は知らない。少しでも長く生きて欲しいという情愛は情愛として、その深き妙理は信心の深化次第で、明確にわかってくる。
 総じて、信心が深まれば深まるほど、さまざまな現象の一切が、さまざまな意味で、もっともよい方向に回転していることが実感されていくものである。その真実を心に深く納得できるか否かは、我が胸中の信心の境涯を、どこまで深め、高めていけるかにかかっている。
27  ところで、南条時光の弟であった七郎五郎は、十六歳で早世している。
 大聖人は、母御前に慈愛こもる激励を再三にわたって続けられた。その中の一節には「故五郎殿の御信用ありし法華経につかせ給いて・常住不壊のりやう山浄土へとくまいらせ給う」とある。
 子を亡くした母の嘆きほど悲痛なものはない。なぜ息子は死んでしまったのか。もう二度と会えないのか。これに対し御本仏は、″あなたのお子さんは立派に法華経を信心していました。その法華経にしたがって、信心唱題にに励んで成仏を遂げれば、常住にして壊れることのない霊山浄土へ、すみやかにまいり、お子さんとも会えるのです″と御指南されている。
 常住不壊の霊山とは、宇宙の「仏界」の次元である。妙法で結ばれた家族、同志は、信心によって、この生命の宮殿にともに融合して、自在に交流しゆくことができる。親子、兄弟、夫婦、同志等となって、必ずふたたびともに生きることができる。ゆえに絶対の確信に立った、強き不退の信心が肝要なのである。
28  永遠の幸福は信仰者の特権
 信仰の目的は、この「生死不二」というべき永遠の生命を実感するところにある。
 日淳上人の青年時代の論文の一つに「信じ得ぬ人々へ」(『日淳上人全集 下巻』)と題するものがある。その一節にはこうある。
 「仮令よし宗教は信ぜずとも生きられよう。しかしの生命は狭くて浅いつ短い、如何いかに其れが富貴ふうきによって維持せられ所謂いわゆる幸福と恋にみたされようとも、やはり狭くて浅いつ短い」
 たしかに、ただ生きるのみであれば宗教は必ずしも必要ではない。現に多くの人は何ら確固たる宗教もないまま生きている。しかし、どんなに富や名声、表面の世間的幸福に満ちていたとしても、その生命の内実は狭く、浅く、短いのである。
 また「わらいの後に寂しさがありいかりの後にあわれの情が影を投ずる。享楽の半面に必らず酔ひざめのあわさがあるに違いない。がそれさへも仏を知らぬ人々は気づかずにいるのかもしれぬ、煩悩を煩悩と知った人にはいつも強さがある」と。
 まことにそのとおりである。一時の娯楽に打ち興じても、それのみではあとに寂しさがある。感情的に憎み合っても、その後からわびしさが追いかけてくる。傲然と民衆を見下す権力者も、また嫉妬の情から正義の人々のあげ足とりに熱中する売文家も、われにかえれば、心の中はあまりにも空虚である。いな、彼らはその虚しさに気づくこともないのかもしれない。こうした煩悩を煩悩と明らかに知ることができるのは、すでに一歩、求道の歩を進めた人だけだからである。
 そして上人は「永遠と究竟くきょうとにひたることのきるのは信仰に入り得たものにのみ許されたる特権である。久遠の生命を直観したる者にして初めて分段ぶんだん変易へんにゃくの生死を超越するを得、如々の本仏の世界を直達正観したる者が初めて人間苦を脱し得るのである」とも述べられている。
 少々むずかしい表現であるが、その大意を拝せば、究極にして永遠の仏界の世界に浸り、そのつきぬ喜びを味わうことのできるのは「信仰者の特権」であり、他の人の″生命の宮殿″を開き、また我が身も宮殿に住しながら、生々世々、仏界に遊戯ゆうげしていく――。たしかに、これほどの「特権」はないであろう。
 また、仏界という「久遠の生命」の次元を直観し、その生命と一体になってこそ、分団変易の「迷いの生死」の流転を脱することができる。すなわち宇宙の真如の姿である御本仏の世界、妙法の世界を信心によって直ちに正しく観ずる者こそ、変転極まりない「人間苦」を脱することができる、と。
 日淳上人はさらに「此の時こそ生の目的と意義とを理解する」と続けておられる。信仰によってこそ、人生の真実の目的と意義を知り、それを実現することができる。これに対し、多くの人は、皆この最重要の課題から目をそむけ、逃避しているがゆえに、真実の「幸福」を知ることもない。
29  戸田先生は、かつて「われらが信心をなす目的は、永遠の生命のなかに、幸福に生きんがためである」と端的に教えてくださった。
 三世にわたって、常楽我浄の大歓喜の境涯で、妙法と一体となり、生きぬいていける。そうした崩れざる「幸福」な自己自身をつくるのが、日々の仏道修行である。皆さま方は、すでにその人生最極の軌道に入った方々であり、これ以上、大切な尊き存在はない。十方の諸仏・諸天も、厳然と皆さま方を守りに守りぬいていくにちがいない。
 大聖人は、妙一尼と同一人物とも考えられている妙一女に与えられた御文のなかで、こう仰せである。
 「事を権門に寄せて日蓮ををどさんより但正しき文を出だせ、汝等は人をかたうどとせり・日蓮は日月・帝釈・梵王を・かたうどとせん
 ――事を権力者に寄せて、日をおどすよりも、釈尊の正しい経文を出しなさい――と。
 大聖人の大難に次ぐ大難の御生涯は、仏法のうえでも、世間のうえでも、大聖人には一片の罪もなかった。迫害者は、法門の正義では大聖人にとうていかなわないことを知っているがゆえに、卑劣にも権力を動かし、大聖人を亡き者にしようとしつづけたのである。
 広宣流布の前進におけるこの障魔と迫害の方程式は、現在もまた未来も変わらないことを銘記しなければならない。そして大聖人の″汝らは人間を味方としている。日蓮は日月・帝釈天・梵天を味方としよう″との烈々たる御確信を深く拝したい。
 世の人は、えてして″人″と″金銭″に頼って生きる。しかしそれらは、すべてうつろいやすく、また人生の真の大事には力にならない。私ども大聖人の門下は、妙法の力用によって、全宇宙が味方であり、日月、諸星、風神、地神、水神、火神、梵帝、無量無辺の諸天善神が、一体となって地涌の勇者を守り、懸命に支えるというのである。これほど力強い応援はないし、味方はない。だれびとも自然と宇宙の運行を止めることはできないのと同じく、諸天の働きをはばむことはできない。これこそ御本尊の無量無辺の力であり、功徳なのである。
 「日蓮は日月・帝釈・梵王を・かたうどとせん」――この御本仏の壮大な御境界を仰ぎ、私ども門下もまた、宇宙を友とし、語りゆくような広々とした境涯で生きゆきたいものである。
30  真実の「自分」として生き抜け
 私も、十九歳で正法の信仰に入って、満四十年を迎える。いわゆる宗教の世界、信仰の世界も見てきたつもりである。また社会も、ある程度見てきたつもりである。世間のさまざまな人間模様も、多くの喜劇・悲劇のドラマも見てきた。
 そこで結論としていえることは「自分自身に生ききる」ということである。″世間がああだから″″あの人がこうだから″などというのではなく、正しき法理の上に自分自身が生ききっていくことだと思っている。猫の目がくるくる変わるようなこの世界にあって、それらにいちいち紛動されたり、気がねをしていれば、結局″自分″がなくなってしまう。堂々と我が人生を生き抜いた人が幸せである。
 世間体を気にしたり、幻の栄誉を追ったり、はかない快楽に憧れたり、過度の物質的充足に狂奔したりして、″自分″を見失ってしまえば、本当の幸福を実感することはできない。
 人生の真の幸福と真の勝利は、自分自身の胸中にある。ゆえに、確固たる信仰と確固たる人生観をもちながら、堅実に着実に、そして悠々と朗らかに歩みゆかれんことを心から願って、私の記念のスピーチとさせていただきたい。

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