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日蓮大聖人・池田大作

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学生部夏季講習会 諸君よ、「忍耐」と「時」を忘れな

1987.7.21 スピーチ(1986.11〜)(池田大作全集第68巻)

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1  ナポレオンを退けたロシアの民衆
 伝統の夏季講習会に、はるばる全国から代表が集まってこられ、心からご苦労さまと申し上げたい。どうか二泊三日という短い期間であるが、将来の大いなる成長への飛躍台となったといえる有意義な講習会であっていただきたい。
 本日はナポレオンの史実を通し少々お話ししたい。ナポレオンについては、二十二、三歳の若い時代に、伝記など多くの書物をひもといては、いろいろなことを学んだことが今は懐かしい。そのときの記憶に基づいて、メモを用意したため、記憶違いや飛躍もあるかもしれないが、未来の偉大なる広布後継のリーダーと期待する諸君の何らかの参考になれば幸いである。
2  私は五月下旬、ソ連を訪問した。四回目となった今回の訪問では、気候も冬が返ってきたのではと思わせるような寒さで、雨の日も多かった。しかし、訪問四日目の五月二十七日には、前日までの雨もあがり「五月のモスクワ」は、陽光に輝いた。
 この日、私は高等中等専門教育省の訪問を終え、モスクワ大学に向かった。その途中、時間の余裕もあったので、ボロジノ・パノラマ博物館を見学した。この博物館は、そばにある凱旋門とともに、ナポレオンのモスクワ遠征を退けた、ロシア民衆の勝利の歴史をとどめるものである。
 博物館での圧巻は、ロシア軍とナポレオン軍とで戦われた「ボロジノの戦い」の戦闘風景を、そのまま再現した巨大なパノラマ画である。このパノラマ画は、なんと縦十五メートル、横百十五メートルという壮観なものであった。
3  「ボロジノの戦い」とは、一八一二年九月七日、モスクワの西百二十四キロにあるボロジノという村で行われた、ナポレオン軍とロシア軍との戦いである。そのときナポレオン軍十三万五千、ロシア軍は十二万であった。
 ナポレオンは、一生のうち、六十回もの戦いをしている。その中でこの「ボロジノの戦い」は、彼をして″生涯最大の戦闘″と言わしめるほど苛烈かれつなものであった。犠牲者は、一説によればナポレオン軍三万、ロシア軍三万五千といわれる。
 この戦いは、双方とも「我が軍勝利」としているが、実際には、勝敗はつかなかった。ただ、この戦いで、ナポレオン軍の″無敵″の神話は崩れたといってよい。ともかく、祖国を守ろうとするロシア軍の士気は高かった。トルストイの名作『戦争と平和』で述べられた「戦いは勝つとかたく決意したほうが勝つのだ」(米川正夫訳、岩波文庫)との一文は、この「ボロジノの戦い」に臨んだロシア人の心意気でもあった。
4  「ボロジノの戦い」のあと、クツーゾフ将軍の率いるロシア軍は、撤退する。そして、最後の勝利を得るために、クツーゾフ将軍は、モスクワを開け渡すという、大胆な作戦をとる。
 ナポレオン軍はロシア軍の撤退した翌日、モスクワに入る。しかし住民のほとんどはロシア軍とともに疎開。その日の夜から大火が起こり、モスクワは焦土と化す。その後、一カ月余、ナポレオン軍はなすすべもなくモスクワに滞在する。しかし、迫りくる飢えと冬将軍(寒さ)に、さすがのナポレオンもいかんともできず、ついに、モスクワから退却する。
 今や後退に後退を続けるナポレオン軍。だがクツーゾフ将軍に率いられたロシア軍の追撃、さらに飢えと寒さのため、壊滅的敗北をきし、パリに帰還した兵は、わずか二万ないし三万といわれている。
5  御書にも「師子王は前三後一と申して・ありの子を取らんとするにも又たけきものを取らんとする時も・いきをひを出す事は・ただをなじき事なり」と仰せである。
 戦いは、ただ前へ前へと進んでいけばよいというものではない。一歩退くことも必要な場合がある。一歩退きながらも全力を尽くして事に当たっていくことが大事なのである。この「前三後一」の方程式は、人生にあっても同じである。
 最後の最後の勝利が本当の勝利である。途中にいくら勝利があったとしても、それが最後の勝利へと結実していかなければ何の意味もない。次代の広布のリーダーとなりゆく諸君は、人生と社会において、「前三後一」の在り方を、よくよくわきまえていただきたい。
6  ところで「ボロジノの戦い」は、九月七日の夜明けから夕方まで十五時間に及んだ。パノラマ館では、その中でも最も戦闘の激しかった正午過ぎ、十二時三十分の瞬間をそのまま再現している。
 パノラマの舞台は、陽光のふりそそぐロシアの黄金の秋である。空は抜けるように青く、地平線の彼方まで広がる緑野には森が点在し、一輪草も見えかくれする。川は音を立てて清洌せいれつに流れている。そののどかな自然の中に、二十五万もの人間達の修羅の戦場が、壮大な絵巻として、絵と模型を使って克明に描かれていた。
 日本にも源平の戦いを描いた絵もある。関ケ原の戦いの絵もある。しかし、文化的価値は別にして、その壮大さと迫真性においては比較にならない。
 私は、このパノラマを見ながら、しみじみと思った。学会の広宣流布の活動は、人類の平和と幸福のための無血の大民衆運動である。これほど崇高な運動はない。この広宣流布への先駆として活躍してきた尊い庶民の歴史を、写真や絵によって、誤りなく後世に残し伝えていきたいと思う昨今である。将来、この構想を、諸君達の協力も得て、必ずや実現していきたいと念願している。
7  このパノラマの作者は、ロシアの芸術家フランツ・ルボ(一八五六年〜一九二八年)である。彼は自らの芸術のすべてをロシア史に捧げた。ルボは三つのパノラマを描いたといわれる。そのうち一つは、現在、残っていない。もう一つは、クリミア戦争(一八五三年〜五六年)のさい、約一年にもわたる包囲攻撃に耐え抜いたセバストポリ(黒海の海港都市)の戦いを描いたものである。
 そして三番目が、この「ボロジノの戦い」であり、彼の作品中、最高傑作とされている。
 ルボは「ボロジノの戦い」のパノラマを、五人の弟子とともに二年の歳月をかけて、ボロジノ会戦百周年にあたる一九一二年に完成させた。その後、保存状態が良くなかったこともあり、かなり傷んでしまった。そこでボロジノ会戦百五十周年にあたる一九六二年に、大がかりな修復作業が行われ″第二の誕生″をみて、今日にいたっている。
 かつて、かのロシア軍の総司令官・クツーゾフ将軍は、ボロジノの戦いの折、兵士達に次のように呼びかけた。
 「あなたがたが成し遂げた偉業と功績は消えてしまうことはないであう。子孫が記憶にとどめるであろう。あなたがたは、自らの血をもって祖国を救った……」と。
 まさに、この言葉通り、子孫達は彼らの歴史をとどめ後世に語りついだ。
8  昭和三十年(一九五五年)五月一日、六千人の女子青年部総登山が行われた。そのさい戸田先生は、降りしきる雨の中、次のように語り、励ましておられる。
 「広宣流布の日まで、夫に、子供に、妙法華経の功徳をうえつけていくことは、あなた方の一生の名誉であると思います。
 きょうの六千人の結集も、歴史の一ページとなって、夫に語り、わが子に語れる資格を得られたことは、あなた方の名誉と信じます。かならずや、広宣流布達成に邁進して、一生涯の幸福を得られることを信ずるものであります」(『戸田城聖全集 第四巻』)と。
 諸君が、こうして夏季講習会に集まったことも、また広布のために尽くしている日々の活動も、すべて偉大なる歴史の一ページを金文字で、つづっているといってよいだろう。
 とかく自分の快楽や利益のために走りがちなのが現代の風潮である。その中にあって、仏法の研さんに励み、自身を磨き深めながら、社会貢献の運動を進めている学徒の集いが他のどこにあろうか。その意味で、諸君は、他のものには代えがたい崇高な人生の道を歩んでいることに誇りと誉れを忘れないでいただきたい。
9  祖国を守りぬく一念に勝利の因
 さて、話はもどるが、ナポレオンを撃退したロシアのクツーゾフ将軍は、実に多くの人々から慕われている。だが、ロシア皇帝アレクサンドル一世からは、どういうわけかうとんじられた。一八〇二年には、クツーゾフ将軍はいったん退任させられる。
 また一八〇五年、当時のオーストリアのアウステルリッツで、司令官として派遣されたクツーゾフはナポレオンに敗れる。しかしその背景には、皇帝アレクサンドルの命令のため、クツーゾフが自らの考えた通りに指揮をとることができなかったという事情があった。この敗北の責任をとらされ、クツーゾフはそれから六年間も冷遇されたのである。ともあれ、皇帝はこの人望のあった将軍に好意をもたなかった。
10  このことから考えられることは、指導者は、その人の本質を誤りなく見抜く力をもたなくてはいけない。また決して、好きいの感情やジェラシー(嫉妬)で、あるいは置かれた立場や境遇という外面的なことで人を見たり、判断してはならないことである。
 さらに、クツーゾフを皇帝が嫌ったように、現在でも″信仰しているから″といって毛嫌らいする人がいる。″信心しているから登用したくない″とか″信心しているから好きになれない″と感情的に考え、受け入れない人もいる。
 しかし、正法を受持し、正しき人生の道を歩んでいるのが私どもである。また社会や職場にあっても、その繁栄と幸福のために真心から努力している。長い目でみていくとき、何か困難なことが起こったときには、必ず頼りにされ、最も任される存在となっている例は枚挙にいとまがない。これは諸君もよくご存じの通りである。また、そういう時こそ、御本尊の功徳力、諸天の加護を深く確信すべきである。
11  ところで一八一二年、ナポレオンがロシアに侵入、かってない苦境に立たされても、皇帝はクツーゾフを起用しようとしなかった。しかしロシア軍が後退につぐ後退の戦況に陥り、ナポレオン軍がモスクワに迫ろうとするに及んで、やむなくクツーゾフを総司令官に任命せざるをえなかった。トルストイは、それを″ロシアの国民的感情をもたらした″としている。
 待望のクツーゾフの到着は軍隊内に新しい信頼を呼びさまし、士気がいっきに高まった。そして「ボロジノの戦い」へと向かう。
 一法、クツーゾフが新しくロシア軍の総司令官になったことを聞いたナポレオンは、大いに喜んだと伝えられる。アウステルリッツの戦闘で、自ら戦い、勝った相手だったからである。しかし、ナポレオンもクツーゾフの精神性は一応は評価していた。ただ、将軍としての指揮能力を″無能″と甘くみていた。ここにもナポレオンの″慢心″と″油断″があった。
 ナポレオンの一念に顔をのぞかせていた″慢心″と″油断″。一方″祖国を断じて守り抜く″との強い一念に貫かれていたクツーゾフ。この一念の相違のなかに、その勝敗の帰趨は明らかであったといえよう。
12  クツーゾフは、宮廷では「馬にも乗れなければ、会議の席でもいねむりばかりしている」(前掲、米川正夫訳)などと批判されていた。にもかかわらず、広く民衆から信頼された理由は何か。トルストイは、クツーゾフは教養があって「フランスのことわざを使ったりするにもかかわらず、どこまでもロシア人であったからである」(同前)としている。
 指導者は上層の人達や幹部のみの評価で決まるものではない。どこまでも民衆から広く信頼されているかどうかが大事である。学会にあっても、″あの人と一緒なら″″あの人のためなら″と、会員の人々から慕われ、信頼されるようなリーダーでなければならない。また、たとえ表面的な姿はどうであっても、生命の奥底には″広布に生き抜く″″地涌の勇者の使命に生きる″との決定した一念をもった人がもっとも立派な人材なのである。
 トルストイは、このクツーゾフを決して特別な英雄として見てはいない。『戦争と平和』では、人間味にあふれた老将として共感を込めて描いている。
 また、ナポレオンが歴史を自らの意志で動かしているつもりでいて、結局、歴史に押しつぶされた。これに対比させながら、クツーゾフが大きな歴史の流れをよく理解し、退くべきときには退き、忍耐強く「時」をつくりつつ行動したことをトルストイは評価している。
13  自己を深め磨き、時を待て
 ボロジノ・パノラマの作者であるルボは、先程も申し上げた通り、戦場全体のありさまを見事に再現した。とともに一人一人の兵士の英雄的精神、不屈の根性、粘り強さ、大胆さ、勇気を丹念に描き表している。
 ただし彼は、ロシア兵とフランス兵の一騎打ちの場面をほとんど描いていない。それはなぜか。理由を問われて彼は次のように答えたといわれる。
 「戦場の兵士は全員がヒーロー(英雄)なのだから」と。つまり″全員が平等にヒーローなのであり、特別な個人だけをたたえるために、一騎討ちの場面をことさら描く必要はない″というのである。
 学会においても同様である。広布の組織の第一線で活躍し、弘教に励んでおられる方々は、壮年・婦人であれ、女子部であれ、男子部、学生部であれ全員が信心の「英雄」である。そこに何ら差はない。
 組織という側面から見た場合、役職などの責任の別があるのは当然だが、法戦にあっては全員が広布の勇者であり、妙法の英雄である。
14  かつて戸田先生は分かりやすく「人の偉さ」について語られたことがあった。
 それは「人の偉さについていえば、多くの人の前で号令・命令するのが偉いのではない。自分は陰にいて、人を立てることのできる人が偉いのだ」という指導である。私は参謀室長であった頃も、その通りに実践してきた。その人物が果たして本物であるかどうかは、これができるかどうかで決まるといってよい。
 さらに戸田先生は「学会でいえば支部長、地区部長、班長が人を動かすのは簡単である。一班員が自己の意見で、支部長を心から動かしていける人こそ偉いのだ。力がある、というものだ」と言われた。この言葉は千釣の重みのある指導として、私の心の中に深く刻まれている。
 人間の偉さは、立場や役職だけで決まるものではない。それらすべての飾りを取り払って、その人自身がどれほどの力、人間性をもっているかである。ゆえに諸君はこの青春時代に、何よりも実像の自分自身を深め、磨くことを第一義としていただきたい。
15  このボロジノの戦いにおける両軍の指揮者の年齢は、ナポレオンが四十三歳、クツーゾフが六十七歳であった。クツーゾフはその翌年に病没している。
 老将・クツーゾフは、百戦錬磨の経歴の持ち主であり、かつ多くの外国語にも通じた教養ある人物でもあった。知力に富み、強い忍耐力を備えた名将であった。その鍛えぬかれた姿は、学会の世界でいえば指導部の皆様方にあたるといえよう。
 深き信心の人、人格者、真心から後輩のめんどうをみていける人、それぞれの立場で強い責任感をもち、力を磨いていく人――こうした人は、学会の世界にあっても、また社会にあっても周囲から慕われ、信頼される。また、たとえ一時の不遇があっても、長い目で見た時には、おのずと力を最高に発揮していけるものである。
 特にクツーゾフは、数々の戦いの積み重ねのなかで、単なる戦術だけではなく、己の人格そのものを鍛えあげてきたのであろう。ここに意味がある。たとえ百戦錬磨の名将であっても、一戦一戦の積み重ねの中で、確固とした信念・哲学を培い、自分自身の一念を鍛えゆく作業がなければ、いつかは敗れ去っていく。
 クツーゾフは戦いぶりにも、深き人生と経験の年輪の輝きがにじみ出ていた。彼は常に「時」が自身に味方することを信じた。この折の作戦でも、敵の消耗を待つという戦術を選んだ。
 果たしてその後の事態は、彼の信じた通りの結果となった。ご存じのようにナポレオン軍は、ロシアの″冬将軍″の厳しさに直面し、自滅の道を歩んでいった。
 トルストイは『戦争と平和』の中で、クツーゾフをしてその哲学を次のように語らせている。老いたるクツーゾフが青年に対して語りかける。
 「忍耐と時――この二者にまさる勇士はない」(同前)と。
 そしてその言葉通り、「時」を待ち、「時」をつくりゆく「忍耐」の力を発揮することによって、彼は強大な敵のカベを破り、勝利を収めた。
 これに対し、ナポレオンは、和平交渉をもっと早めに切り上げ、冬が来る前に引き揚げていればよかった。しかし彼には、かつての迅速な判断と対応がみられなかった。慢心にとらわれ、退くべき時には退くという「時」と「忍耐」の大切さを忘れていた。
 私自身もこれまで、広布への前進の中で、ありとあらゆる迫害を一身に受けてきた。そのすべてに打ち勝ち、乗り越えてこれたのも「忍耐」と「時」の力を絶対に忘れなかったからである。これから長い人生にあって、諸君が真実の最後の勝利者となりゆくために私はこの一点を強く訴えておきたい。
16  苦難が引き出した民衆の潜在力
 さて、ナポレオンのロシア遠征は、大失敗に終わった。その敗因についてはさまざまに分析されている。私は次の二点に注目したい。
 まず第一に、目的の不明確さが挙げられる。
 当時、ロシア駐在のフランス大使が、ナポレオンに直言した。「陛下、戦争目的が明確でございません。フランス国民は、このたびのロシア遠征を、国民的戦争として心から支持するでしょうか?」(『ナポレオン その情熱的生涯』文藝春秋)と。
 これに対し、ロシア軍には祖国防衛という明確な道義からの勇気がみなぎっていたといえる。
 いずれにせよ、この直言をナポレオンは聞き入れなかった。柔軟さを欠いた、自身の頭の固さに負けてしまったのである。彼は自身の頑固さゆえに勝ち進み、その頑固さゆえに最後は敗れたともいわれる。
 さらにナポレオン軍は、そのかなりの部分をフランス人以外の外国人部隊が占めていた。ここにも士気のあがらぬ要因があり、加えてその待遇に差別がみられた。後日、ナポレオンは遠征の犠牲者に対する弁明として、フランス人の戦死者が外国人と比べて少なかったことを挙げている。それでは彼のもとで戦い、死んでいった外国兵士はなんとも哀れでならない。
 また敗因の第二として、戦争遂行にあたって欠くことのできない″地図″が不備であったことがあげられる。
 ある将軍は「ナポレオンはこの国のことをろくに知らなかった。手持ちの地図は、おそまつきわまるものであった」(長塚隆二『ナポレオン(下) 覇者専横の末路』読売新聞社)と指摘している。
 戦争には正確な地理の認識は不可欠である。それを粗末な地図をもとにしたために、狂いが生じていく。いちばんの基本を甘く見たところから、既に失敗が始まっていた。
17  ところで、十九世紀のロシアの最大の文芸評論家ベリンスキーは、ナポレオンのロシア侵攻に関連して、次のような言葉を残している。
 「一八一二年は、ロシア全土を震撼しんかんさせ、眠っていた力を呼びさまし、これまで見られなかった新しい力を発揮させた。民衆の自覚と民族の誇りを呼びさました」と。
 つまり、ナポレオンの侵略という苦難が、ただ苦難であるにとどまらず、かえってロシアの民衆の潜在力を引き出す機会となったというのである。
 ″苦難が、眠れる力、新しい力を呼びさまし、発揮させるチャンスとなる″ことは、古今東西の歴史に広く見られる。また、現在のいかなる会社や組織、さらに個人にあっても、当てはまる一つの真理といえよう。
18  むろん、諸君の人生、広布の舞台にあっても例外ではない。いわんや妙法こそ、苦難を成長・飛躍へのバネとしゆく最大の原動力である。諸君は、困難と労苦の時こそ新たな向上と成長への好機ととらえ、前進していただきたい。
 近年の、大謗法者等による陰謀と迫害にあっても、その一つの偉大な証左があった。この大きな危機があったがゆえにこれまでなかった学会の大きな力が発揮できた。私自身も、今まで以上に新しい自分自身の力を発揮できるようになった。
 ともあれ、広布への自覚と誇りに燃えた地涌の勇者の活躍により、この間に、我が創価学会は、未曽有の前進と発展を遂げることができた。これも大難の嵐を前進の追い風へと転換しえた結果であると確信してやまない。
19  日蓮大聖人は、難と信心の在り方について、随所で御後指南されている。
 「種種御振舞御書」では「今の世間を見るに人をよくなすものはかたうど方人よりも強敵が人をば・よくなしけるなり」と仰せである。
 ――今の世間を見ると、人を成長させているものは、味方よりも、かえって強い敵の方が、人を良くさせているのである――と。
 順境に甘えていては、真の成長はない。たとえ逆境にあっても、手ごわい難題に真剣に取り組むなかに、人間としての向上があるとの仰せである。
 さらに「兄弟抄」では、兄の勘当という最大の試練にあった池上兄弟に対し、「各各・随分に法華経を信ぜられつる・ゆへに過去の重罪をせめいだし給いて候、たとへばくろがねをよくよくきたへばきずのあらわるるがごとし、石はやけばはいとなる金は・やけば真金となる、此の度こそ・まことの御信用は・あらわれて法華経の十羅刹も守護せさせ給うべきにて候らめ(中略)それに・つけても、心あさからん事は後悔あるべし」と激励されている。
 ――あなた方は、しっかり御本尊を信じてきたので、過去世の重罪の果報を現世に責め出しているのである。それはたとえば、鉄をよくよく鍛え打てば、内部のきずが表面にあらわれてくるようなものである。石は焼けば灰となるが、金は焼けば真金となる。このたびの難においてこそ、本当の信心があらわれて、法華経の十羅刹女も、あなた方を必ず守護するにちがいない(中略)それにつけても、信心が弱くては、必ず後悔するであろう――と。
 妙法をたもった者にとっては、現実の難は、過去世の罪を責め出している。つまり難によって宿命転換がなされていると仰せなのである。それはまた、信心が真実であった証拠でもある。
 ただし、大聖人は″信心が弱くては後悔するであろう″とも仰せである。困難にあっても御本尊の功力により″必ずや″難を越えられる、との信心の確信こそ肝要なのである。この″必ずや″との確信が、信心のかなめとなることを、智解し、実践していかなければならない。
20  国土の宿業をも転換しゆく仏法
 さて、ボロジノ会戦のパノラマには、人と馬の、痛ましい死体の山が描かれるなど、まことに苛烈な悲惨極まる状況を写していた。
 かの『戦争と平和』のなかでも、会戦後の様子について、印象的な描写がなされている。
 それは「朝日を浴びた銃剣のひらめきと砲煙で、以前いかにも楽しげに美しく見えていた戦場」(前掲、米川正夫訳)では、もはやなかった。血の匂いが漂い、やがて黒い雲が集まって小雨も、しとしと注ぎ始めた。「それは、ちょうど『もう十分だ、十分だ。人間ども! やめろ……もう正気にかえるがいい。いったいお前たちは何をしているのだ?』とでもいうようであった」(同前)と。
 トルストイの見事な描写であり、私の記憶に深く残っている一節である。
 トルストイは、さらにつづる。
 「食もとらず休息もしないで疲れはてた両軍の士卒は、まだ互いに殺しあわなければならないのだろうか? という疑念を一様にいだきはじめた。(中略)『なんのために、また誰のために、俺は殺したり殺されたりしなければならないのだろう?(中略)俺はもうこれ以上いやだ!』夕方ちかくなったとき、この心持ちは人々の中で一様に熟してきた。今にも一同は自分たちのしたことに慄然りつぜんとして、何もかも投げてたまま、どこでも足の向いたほうへ逃げ出しそうに思われた」(同前)と。
 戦場に倒れていった兵士達の心情は、この文に描かれたままではなかったろうか。
21  ボロジノの地は、この約百三十年後、第二次世界大戦でも、独ソ戦の激戦地となり、同じ悲劇を繰り返している。
 これは、人間にも宿命があるように、国土にも宿業があることを思わせる。人類もまた、ある運命を背負っているだろう。その運命のままに歩むならば、人類も再び数々の災禍を繰り返すことになるにちがいない。
 しかし、私どもには、妙法という宿命打開の大法がある。それは一個人のみにとどまらず、国土をも、また全人類の宿業をも転換していく大法則である。ゆえに、妙法を根底とした私どもの平和運動こそ、真実・恒久の平和へと向かう最も重要な活動であることを自覚されたい。
22  恩師戸田先生は、三十年前、多くの青年達を前に、「原水爆禁止宣言」を高らかに発表された。そのさい「われわれ世界の民衆は生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは魔ものであり、サタンであり、怪物であります」(『戸田城聖全集 第四巻』)と断言され、核兵器、ひいては戦争そのものの悪魔性を鋭く破されている。
 私どもは、戸田先生の遺訓を受け、これまで世界各国で″核の脅威展″を開催してきた。過日、ソ連を訪問したさいも、その「モスクワ展」に出席した。
 不幸にも、数々の大会戦の舞台となってきたソ連の大地。どうか、いつまでも平和の風薫る幸せの天地であってほしい――私にとっては、そうした切なる願いを抱いての旅でもあった。
 事実、訪ソし、ソ連の民衆が、心から平和を希求していることを、私は、改めて肌身で感じとった。それだけに、核の脅威展が、その民衆の希望の心を、少しでも励ます催しとなることを祈らずにはいられなかった。
23  ワーテルローの会戦の敗因
 さて、ロシアから敗走してきたナポレオンは、退位を余儀なくされ、一八一四年、エルバ島に流刑となる。しかし、まもなく島を脱出。パリで帝政を復活し、いわゆる「百日天下」が始まる(一八一五年)。それもイギリス・プロシア連合軍との有名なワーテルローの戦いに敗れ、終幕を迎える。ナポレオンは、再び帝位を退き、セントヘレナ島へ流され(同年)、そこで没する(一八二一年)。
 ナポレオンにとって最後の敗北を決した″ワーテルローの戦い″が行われたのは、一八一五年六月十八日であった。
24  一八一五年の年代は、日本でいえば江戸時代の後期に当たる。ちょうど、杉田玄白の『蘭学事始らんがくことはじめ』の出版とほぼ同時期であり、ロシア、イギリス等の船が次々と訪れ、日本との通商を要求していた時代でもある。
 西洋との接触を通じて、医学など西洋学術の研究も行われるとともに、″海防問題″が大きな政治課題となり、開国への動きも始まろうとしていた時代であつた。
 ワーテルローの会戦で、フランスの軍勢は、相手の連合軍のほぼ半分の勢力であった。しかし、装備や士気の面では、はるかに敵をしのいでいたともされ、ナポレオンも「勝利は私のものだ。百のうち、九十の勝算がある」(前掲、加瀬俊一『ナポレオン』)と考えていた。
 それでも大敗を喫したナポレオンは、流刑地のセントヘレナ島で、次のように回顧する。
 「宿命だったのだ。あの場合の事情を総合すると、俺が勝つべき戦争だったのだ」(鶴見祐輔『ナポレオン』潮文庫)と。
25  フランス軍の敗因については、様々な分析がなされている。が、大体、次の三点に要約できよう。
 第一に、有能な人材がいなかった。第二に過酷な状況で兵士を戦わせた。第三に、ナポレオンの命令が、うまく伝わらず、作戦が後手、後手になったことである。第一、第二点については、これから、若干述べるが、第三点については時間の都合上、本日は略させていただく。
26  まず「人材の不足」であるが、ナポレオンのもとには、彼とともに戦い、戦勲を重ねてきた元帥達がいた。かつては、若さと野望に満ち、大いに活躍したが、このころには、すっかり保守化し、多くが蓄えてきた財産を守ることに余念のない姿となっていた。
 そうした目に余る姿に、兵士のなかからも不信が募り、「次の戦役では、元帥達を使わないでいただきたい」(前掲『ナポレオン(下) 覇者専横の末路』)との手紙が寄せられるほどであった。
 いかなる社会、団体であれ、功労者が過去の功績のみで、居座っているような組織に、未来への発展はない。広布の組織においても、それは同じである。過去の功労や役職と信心とは、まったく別である。これまで、いかに発展に貢献してきた功労の人であっても、むやみにいばったり、後輩を叱るような資格はない。むしろ若き友のために広々と道を開き、広布の未来のために力を尽くしていくのが、先駆者の正しい道である。
 戸田先生も常にそうであったし、私も後継の友の育成こそ第一の責務としながら、進んできたつもりである。広布と学会の崩れざる永遠の発展と繁栄のために、この点は、強く申し上げておきたい。
27  変節の人生は自身の敗北
 ナポレオンも、腹心達の堕落の姿に、気が付いてはいたようだ。しかし、経験不足の後進の部下達に指揮を託すことを不安に思い、昔からの元帥達に、各軍の指揮をゆだねたのである。その元帥の一人にネイがいた。
 ネイは、一度退位したナポレオンを裏切っていた。代わって即位したルイ十八世のもとに走り、忠誠を誓いながら、その後再びナポレオンにくみした、いわば豹変ひょうへんの徒であった。だがナポレオンは彼を、自陣の左翼軍の総指揮官に任ずるのである。
28  ネイは、十九歳で軍隊に入り、革命戦争の間に将官にまで昇進した。その間は共和主義者であったが、ナポレオンの登場とともにナポレオン主義者へと豹変する。そして、一八〇四念、最初の十六人の元帥の一人に選ばれ、その後の活躍は本当にめざましい。三十六歳の時には、オーストラリア軍を撃破し、ウィーン入城への道を開く。そのあとも、プロシア、ポーランドで大きな戦功をあげ、″勇者のなかの勇者″ともたたえられた。
 しかし、ナポレオンの勢いの衰退とともに、ネイの背信の動きが始まる。
 一八一四年、連合軍がパリに入城し、ナポレオンが窮地に立たされると、ネイをはじめ元帥らは、それまでの忠義の態度を変え、退位を勧める。君主であり、恩人であり、兵法の師でもあったナポレオンの恩義を忘れ、自らの栄誉や財産を守ることに腐心する。そしてナポレオンが退位し、エルバ島へ流されると、ネイは即座にルイ一八世のもとに走り、生き延びようとするのである。
 さらに、ナポレオンがエルバ島を脱出し、上陸したさいには、ネイは、ルイ一八世の前で「ボナパルト(=ナポレオンのこと)は、私がひきうけました。あの野獣を攻撃してまいります!」(同前)と胸をたたいたという。
 しかし、その直後、ナポレオンの軍使が彼のもとへ訪れると、再び心を翻し、ナポレオン軍に合流。ネイの背信は、こうして、数を重ねていった――。
29  ネイの将軍としての戦いぶりは、どうであったか。それは、かつての精彩がまったく見られない、みじめなものであった。
 それもそのはずである。彼は、その直前に戦線に合流したばかりで、戦局の変化に通じてもいなければ、部下の幹部将校の者すら、よく知らなかった。さらに、その指揮ぶりは優柔不断であり、つねにナポレオンの心をいらだたせていた。しかし、彼は、ネイを登用し続けた。人材の不足は、誰の目にも明瞭であったといってよい。
 ワーテルローで敗れたあと、ネイは、またも背信の行為に出る。ナポレオンが再びの退位を決断する以前に、ネイはナポレオンを裏切ってルイ一八世に身を寄せようとした。
 しかし、この変節が周囲に認められることはなかった。王党派も、彼の心根を熟知していたに違いない。彼は結局、反逆罪をもって裁かれ死刑を宣告され、一八一五念十二月、パリで銃殺されている。四十六年の人生であった。
30  ネイの死の姿は、変節の人生の行く末をを物語る象徴的な末期だったといえるかもしれない。いつの世でも、反逆者の生涯に、晴れがましい終幕が訪れることはない。
 たとえ、処刑を免れたとしても、すでにその人生は「敗北」であり、生きながらの「死」の人生であったといっても過言ではあるまい。師を裏切り、恩人を裏切る″背信の徒″は、自分で自分の「心」を死刑にしているに等しいのである。それでは地獄の生き方である。
 どうか諸君は、決して、自分で自分の心を死刑にするようなことがあってはならない、と強く申し上げておきたい。
31  また、こうした醜い豹変者は時代が変わってもいるものだ。近年においても、謗法退転者の巧みな策動にだまされ、学会を去り、ある時は、法華講、またある時は壇徒へと、またあるときは謗法の僧のもとに、へつらい走った姿があつた。そしてまた学会にもどりたいといった人々がいたのはご存じの通りである。
 こういう人々は結局、どこへ行ってもだれからも信用されなくなるであろう。
 かつて日淳上人と戸田先生が語り合われていたことがあった。それは、信心のない学会くずれ、また法華講くずれほど困ったものはない。よくよく注意していかねばならないという、忘れ得ぬ一言であった。
 若き諸君は堂々と一生涯を学会員として、この信仰を貫き通していくべきである。その姿が最も正しいし、これこそ、広宣流布の大道を歩む姿なのである。
32  尊き仏子の一人一人を大切に
 フランス軍のワーテルローの戦いにおける第二の敗因に、過酷な状況で兵士を戦わせた無理があげられる。
 ――ワーテルローの戦いの前日のことである。午後から豪雨が続いた。ナポレオン軍は、ワーテルローの南約七キロにあるブランスノワで一夜を過ごした。
 上級の幕僚達は農場の二階で死んだように眠った。しかし将校達は家の中にも入れずに、豪雨によって沼地のようになった路上で、体を寄せあって寝るという悲惨な状況であった。第一線の兵士といえば、外で立ったままぬれネズミとなり、一睡もできなかった者も多くいたという。
 そのうえ、道路の状態の悪化から食料の補給が遅れた。兵士達は飢えに苦しみ、食を探し回った。
 これでは十分な戦いを期待する方が無理である。いついかなる時でも、指導者の責任は重いといわざるを得ない。後輩を大切にする心――それがリーダーの根本条件でなければならない。
33  広布のリーダーには、第一にも第二にも、尊き仏子一人一人を大切にしきっていく責務がある。私自身、だれよりも、そう努力してきたつもりである。
 たとえば創価班等の方々が外で雨具もなく、ぬれながら動いている場合がある。時には牙城会の友が、疲労し任務についている姿もある。私は、そのたびに胸が痛む。他にも、指導者のほんの少しの配慮さえあれば、皆がもっと楽しく価値的に活動できるはずのことも多い。
 同志に対する温かい心配りがないとすれば、指導者のおごりである。権威や命令のみで人を動かそうとするのは、指導者の慢心であり、真の指導者としての資格はないのである。リーダーは常に、一人一人を抱きかかえるように心を砕いていかねばならない。
 また、会合に参加しているメンバーが今、何を欲し、求めているのか。おなかはすいていないか。疲れてはいないか。家庭や経済の状況はどうなのか。交通費の負担はどれくらいか。無理をさせていないか――等々、細心の配慮を重ねて、その上で臨機応変に打つべき手を打ち、また会合の場所、集合・解散等の時間も、多くの人が安心できるよう、ち密に考え、決定していくべきである。
 こうした点は、これまでにも繰り返し申し上げてきた。理屈ではわかっても、実行は容易でないことも事実である。しかし、この一点が、もう一歩、広布の組織において浸透し、実践されるならば、より価値的にさらに麗しき前進ができるに違いない。学会後継の諸君であるゆえに、このことを強く、明確に申し上げておきたい。
34  時代とともに進歩しゆくリーダーに
 さて、ワーテルローの敗戦はナポレオンの時代の終わりを決定づけた。その原因は、究極するとところ、彼自身の一念の傲りにこそ最大の因があるといってよい。
 彼は肉体的にも自信があった。一八一五年六月十七日、ワーテルローの決戦を前にして、ほぼ一日中、馬に乗り続けて戦った。雨にもズブぬれになった。そのなかでの進軍また進軍である。持病のと膀胱炎が再発するのは当然だった。
 四十代も後半の体である。いつまでも若いつもりで、二十代、三十代の時と同じに考えていては失敗する。これも一つの慢心と油断のあらわれであった。
 ――またナポレオンには「自分は百戦百勝の自分だ。欧州におれに手向かいできる名将は一人もいない」(前掲、鶴見祐輔『ナポレオン』)とのうぬぼれがあった。そこから強気な作戦に出た。しかし余りに強引であり、緻密さに欠けていた。何より、ナポレオンの戦術自体が、すでに古くなっていた。
 彼の戦術は、なるほど当初は斬新であり、威力を発揮した。しかし、二十年間ヨーロッパで転戦を重ねるうちに、相手に研究しつくされてしまっていた。手のうちは知られ、各国の軍隊がナポレオンの戦術を取り入れていた。しかも彼自身は、その事実への自覚が薄く、同じ戦法での勝利を疑わなかった――という。
 ここに重大な教訓がある。時代は常に変化し、進歩する。以前、通じたから今度も通じるとは限らない。過去の経験や成功に執着して、社会の変化を見失えば、次の勝利はありえない。これは、いかなる団体、事業、運動でも同様である。ゆえに私は、新しい時代のリーダーである諸君に期待したい。
 また指導者は絶えず、時代の先を読み取りながら、自身の成長を止めてはならない。貪欲に勉強し、人一倍苦労し、また題目を豊かに唱えて、常に新鮮な魅力を発揮できる人であらねばならない。時代とともに成長する指導者でなければ、民衆をリードできない。また、進歩と向上のない指導者のもとにある人々は不幸である。
 ともあれ、ナポレオンはワーテルローに敗れ、百日天下は終わった。二十数年の間、多くの人々に光を与え、また流転の波に巻きこんできた彼自身が、ついに業苦の淵に沈む時を迎えたのである。
35  ナポレオンの失敗の一つは、自己を過信するあまり、勝利の因を常に、自分一人の「才」と「力」に帰したことにある。
 広布の前進も今、勝利につぐ勝利の連続である。しかし幹部が、もしも、それを自分達の力と思ったら、大きな錯覚である。一切は、純真にしてけなげなるすべての地涌の同志の懸命な祈りの力であり、活躍のたまものである。この尊き事実を永久に忘れてはならない。
36  仏法の平等観に通じるルソーの思想
 そのことに関連して、仏法の平等観にも通じるルソーの言葉にふれておきたい。
 ルソーといえば、戸田先生との忘れ得ぬ思い出がある。先生の事業がまだ大変なころであった。ご一緒に電車に乗った時、「大作、今日は何を読んだか」とたずねられた。私はちょうど、ルソーを読んでいた。先生は、「そうか、ルソーはいいな」とうなずかれ、戸田先生の印象に残る、ルソーのさまざまな言葉を挙げられた。ともあれ、ルソーも、私が青年時代に愛読した一人である。
 彼は言っている。「人間がつくったものは、みな人間がぶちこわすことができる。自然が押したしるしのほかには消すことのできないしるしはない。そして自然は王侯も金持ちも大貴族も作らないのだ」(『エミール』今野一雄訳、岩波文庫)
 ――自然は不平等な階級などつくらない。無意味な差別をつくるのは人間である。ゆえに、この自然本来の平等な世界に帰らねばならない、というのである。ルソーの「自然」とは、一歩深く仏法の観点から見れば、宇宙本然の生命であり、その実相は妙法華経である。妙法は絶対的な「平等」の法である。
37  またルソーは、こうも書いている。「民衆でないものはごくわずかなものだから、そういうものを考慮にいれる必要はない。人間はどんな身分であろうとも同じ人間なのだ。そうだとすれば、いちばん人数の多い身分こそ一番尊敬にあたいするのだ」(同前)と。
 民衆こそ社会の主人である。民衆こそ最も尊敬されるべき存在である。
 日蓮大聖人の仏法は民衆仏法である。一部の特権階級のための貴族仏教ではない。形式のみの伽藍がらん仏教でもない。民衆の中に脈打ち、民衆に平等に開かれ、民衆を現実に時代の主役にと輝かせゆく力ある宗教である。
 大聖人は「凡此の経は悪人・女人・二乗・闡提を簡ばず故に皆成仏道とも云ひ又平等大慧とも云う」と仰せである。法華経すなわち御本尊こそ、いかなる人々をも、もれなく成仏させる平等の大法であると断言されている。まことに、ありがたき妙法である。
 その大法を持つすべての関係者が、いささかでも正法を持ち、弘め、信ずる友を見下したり、自分のみは特別であると慢じたとしたら、大聖人の仏法を真に信仰し実践している人とはいえない。
 御書にはさらに「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」と仰せである。
 仏と法と衆生とが平等であり、我等衆生も妙法の当体であり、尊極の存在である。この自覚の上に、御本尊に妙法を唱えゆくべきことを御教示されている。
 これほど徹底した民衆の尊厳観、平等観は、他に絶対にない。全人類が等しく納得しうる大法である。また納得せしむるよう、理論の上からも、事実の上からも、努力しきっていくのが、私どもの使命である。
38  ルソーの思想は、こうした仏法の人間平等観に接近したものであった。また彼の同時代人であり、同じフランスの文学者ボルテールも、こう言っている。
 「人間はみな同じ泥から生まれたのだ。幼い時は誰でもみな弱い。富めるも貧しきも、強きも弱きも、みな同じように苦から死へと行く」(竹内謙二『十八世紀のフランス思想界』東京学術出版会東京大学出版会)と。
 生老病死という苦は、誰人も避けられない。その意味で完全に平等である。しかして、その「苦」を平等に救い切っていくのが妙法である。ゆえに妙法の功力を、全人類に教え伝えていかねばならない。
39  ボルテールは、また「幸福」について、こう述べている。
 「なんじ一身のために賢なれ、此のはらからに同情的なれ。つまり汝の幸せを他人の幸せによって造れ」(同前)と。
 汝の幸せを他人の幸せによって造れ――とは、けだし至言である。仏法の自行化他の実践にも通じる。自分のみの幸福を追うエゴイズムの中に真の幸せはない。友の幸をこそ願い、真心から励んでいく実践の中に、我が身の幸福も実現していく。ゆえに、その行動こそ、自分自身にとって最も「賢」なのである。
 御書には「劣れる者に慈悲あれとは我より劣りたらん人をば・我が子の如く思いて一切あはれみ慈悲あるべし」と御指南されている。
 諸君は、将来いかなる立場になろうとも、無名の庶民を尊敬し、悩める人、貧しき人、苦労している人をこそ、最大の真心で包んでいける人であってほしい。慈愛という現実の行動の中にこそ、大聖人の仏法の精髄は躍如と輝くからだ。
40  身近な実践、振る舞いほど重要なものはない。そこにこそ人間の真実が光る。
 ルソーは言う。「書物のなかで遠大な義務を説きながら、身のまわりにいる人に対する義務を怠るような世界主義者を警戒するがいい。そういう哲学者は、ダッタン人を愛して、隣人を愛する義務をまぬがれようとしているのだ」(前掲、今野一雄訳)
 深遠な哲学論議もよい。遠大な理想も大事である。すばらしい御書講義もよいだろう。しかし、口に人類愛を論じながら、身近な周囲の人も大切にできぬ悪しき観念論者であってはならない。現実の労苦もなく、高邁こうまいな弁舌に自分が酔っている人は、我高しと傲っていても、実は最も下劣な人間なのである。
 遠きを愛するはやすく、身近な現実に生きるのはかたい。諸君は広布という壮大な理想を掲げつつも、その具体的実践は身近な一人の生命をかかえながら、また二人の友を抱きかかえながら、広宣流布へと向かわしめゆく日々であっていただきたい。これが現実の布教という修行であり、労作業である。
41  確かに社会には、物質的に富める人もいる。有名と人気の二字に包まれている人もいる。権力と権威の座にあぐらをかいて尊大ぶっている人もいる。世間という舞台にあって幸福そうに見える幾多の人々。不幸の流転の姿を演ずる人々。それらも、三世永遠の次元から見れば、一切は幻のごとき仮諦けたいの領域であり、はかなき変化の連続である。本有の妙法から見れば、世間のすべての富みも幸も無常をまぬかれえない。
 真に富める人、それは″永遠なるもの″をたもつ人である。その永遠なるものは、妙法であり、信心しかない。その上で、現実は現実である。社会は社会である。生活は生活である。諸君は決して敗北者になってはならない。
 ゆえに、永遠なるものの境涯の大地に立って、変化しゆく現実の生活を、勝利で飾っていただきたい。その現実の実証への努力が、また再び、永遠なる信心の領域での原動力となっていく。ここに信心即生活、仏法即社会という正しき歩みがある。
42  「生命の世紀」を広布と人生の勝利で飾れ
 本日はナポレオンを通して、種々、所感を述べさせていただいた。彼は一七六九年生まれ。一八二一年、五一歳で死ぬまで、ヨーロッパ、エジプト、そしてロシアを舞台に波乱万丈の人生のドラマを演じた。まさしく彼は、一八世紀から一九世紀への″世紀の転換″のただ中で生き、戦ったといってよい。
 その心意気は「前進!」の一語であった。私も青年時代、常にこの一念で広布の指揮を執った。戸田先生のもと、いかなる戦野でも日本一の勝利の前進を誓い、その通りの結果を出してきた。
 ちなみに「ナポレオン」という名は、一説によれば″新しい都市の″という意味のギリシャ語に由来する。その名のごとく彼はパリをはじめ、フランスに新しい時代の新しい都市を建設した。しかし私どもの前進は、より深く、新しき時代の新しき″人間″、新しき″生命の都″の建設である。
 一個の生命は立体的、重層的な無限の広がりを持つ。時間的には限りなき過去へ、そして永遠の未来へ。空間的には国土、宇宙とも一体である。仏の生命の本因、本果、本国土を説き、一念三千という完ぺきなる実相を明かしたのが妙法である。
 諸君の生涯の使命である広布の前進は、この法理に基づき、自身という″一人の革命″から全人類の宿命の転換という壮大なるドラマに向かって進む。そして、多くの犠牲者を出したナポレオンと異なり、私どもの運動は、無血革命であり、一人の犠牲者も出さない。また、出してはならないというのが私の固き信条である。
43  ナポレオンは不幸なことに、その最後は敗北であった。花の都パリには、彼の戦勝を記念する凱旋門がある。しかしナポレオンは、自らの人生の最後を勝利で飾り、その門をくぐることはできなかった。
 現在の学生部の諸君は、一番若い世代が一九六九年(昭和四十四年)生まれ。ナポレオンとちょうど二百年のへだたりがある。諸君もまた″世紀への転換″を生きる人達である。
 二十一世紀という「生命の世紀」への転換期を生き、そのを開きゆくのは諸君である。新世紀の″凱旋門″を「民衆の勝利」と「広布の勝利」と「人生の勝利」で飾りゆく使命の人が諸君である。ゆえに私は、妙法の学生部諸君に栄光あれ、晴れやかに生涯永遠の″凱旋の門″をくぐりゆけと心より念願し、記念のスピーチを結ばせていただく。

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